「
「ワタシたちの“夢”、その第一歩を賭けて」
◆
ハナノアカリはレースに出たい。
そうして走りで誰かに夢を──。
そのためには身分を用意する必要があり、鍵は目の前に転がっていた。
それはいつまでも転がっているものでは無い。桜が少しの間だけ咲くように、淡いチャンスだ。チャンスとは得てしてそういうものだった。掴むときに一歩前に出なければ、するりと逃げてしまう。
ここが第一関門であり──ハナノアカリというウマ娘が試される瞬間であった。
◆
は、と空気が溢れるような音がした。
発生源は口を小さく開けた大男──テツであった。
それは意識外からの提案に対しての驚きと複合的な感情によるもの。
ポカンとした顔のまま大男は言う。
「何を言うとんの──」
そんなの無理や、と大男は困惑を強めて続けようとして
「──良いじゃあねぇか。威勢がよくて」
断りの文句は大男の後ろから遮られた。
発言者は暖簾をくぐって出てきた、腰を曲げた小さな老人だ。
「なっ!?」
老人は黒を基調としたゆったりと余裕のある着物に、光を僅かに照り返す高級そうなハットを被っている。瀟洒な雰囲気の老人であった。
そして何より大男の雰囲気を変えた人物だった。
「と、
その姿を認めた瞬間、大男は表情をサッと変え腰をかがめ、老人を労るように腰に手を添える。先ほどとは別人のような対応に春木とウマ娘は目を白黒させた。老人はその対応を泰然と受け流し、何事もないように続ける。
「受けてやれや、テツ。“他”のために啖呵を切るたぁ、近頃見ねぇほどの江戸っ子だ。カブキもんだな、嬢ちゃん」
「しかし……」
テツは口元を発音しづらそうに歪める。
棟梁と呼ばれた老人は、地面に膝をついて泥で汚れた春木を見やる。そして皺のある口元をちょっと下げた。その後に大男に対して声のトーンを数段低くして語りかける。
「テツ、お前ぇ、己が偉いと勘違いしてねぇか、おい。お前ぇ。偉ぇのはお前ぇの立場で、そこを築いてくれた人たちの期待を背負ってんだぞ」
みっともない真似はすんな、と。
決して怒鳴る声ではない。むしろキリギリスのように静かな声だったが“厚み”が在った。気がつけば、老人の纏う雰囲気も刃物のように辺りを撫で始める。
しかしそれも一瞬。ニコッと好々爺然とした笑みを浮かべると、少女の方へと向き直った。手品のような雰囲気の変わりようだった。
「嬢ちゃん、気に入ったぞ。その申し出、受けさせて貰おうかね。──ただ、勝負ふっかけたからには、それなりの覚悟はしてるんやろな」
ギロリと睨め付けるような視線。
人の心の奥まで透かしてみる妖怪のような視線は、なにより老人の周囲にいる人間が恐れているものだった。
だが、ハナノアカリは意に返さない。
「覚悟なんて、ないよ! やるだけ!」
あんまりに爽やかに言うもので、呵呵! と老人は笑った。
◆
場所は移り、先ほどまでいた建物の裏にある河川敷。
人のいないそのまっすぐな道は2000メートルは続くだろうか。遠くまで砂の固められた道が引かれていた。
「ここは、本来なら水運で運んできた木材を加工所まで運ぶ道だが……」
棟梁と呼ばれた老人はそこで言葉を区切り、手に持った漆の杖で横にある大きな鉄の塊を小突いた。
中身の詰まった響かない音がする。
「今回勝負して貰うんはコイツだ」
ソレは機械だった。人間よりも大きな機械。図体は石炭のような黒色で、鉄色がところどころ覗かせている。無骨で飾り気のない、道路を走る自動車だった。
「フレエム、ガワは国産の車だがよ、中身は違ぇ。軍用のエンジンを積んである。タイヤーは米国からの輸入で厚焼き卵よりも分厚い、120馬力を越える、化け物車だな」
老人は車にやっていた視線を外し、準備運動をするウマ娘の瞳を覗き込むように言った。
「勝てんのかい、コイツに」
最初に出会った時の好々爺然とした態度は鳴りをひそめ、瞳には猛禽類のような鋭さが宿っている。
大男は自身に視線が向けられていないにもかかわらず、老人から発せられる圧力に思わず生唾を飲んでしまった。
老人はいくつもの修羅場を生き残ってきていた。
傷跡の見え隠れする細い腕は、決して傷付けられた跡ではなく、まだ
その老人が笑って言った。
「そうだなぁ。コイツを走らせて5秒後にスタートして貰おうか」
「うん、距離は?」
ごく自然にハンデが課せられた。春木と大男は目を見開いた。ハナノアカリと老人だけが当たり前のように会話を続けていた。
その姿にテツと春木は背筋が薄く冷たくなるのを感じた。
「うんむ……おい、テツ。小屋までどんぐれぇだ」
「は、はぁ。一キロちょいじゃないですかね」
「良ぉし。そんなら、テツ。お前そこまで行って立っとけ。お前がゴールだ。あと
◆
ジャンプ、ジャンプ。
すり減った蹄鉄が砂利を踏んで時々硬い音を立てる。
ハナノアカリは気炎万丈、瞳を輝かせゴール地点である木造の小屋を見やっていた。結構年季の入った木材が見える。その程度の距離だった。
「もう一度聞くぞ、嬢ちゃん。勝てんのか」
老人は聞く。
何のことでも無いという風を装って。まるで確認のように。願わくば、面白く在ってくれという願望は押し隠した。
屈伸をして、準備運動を終えたウマ娘はニカッと笑う。
「ワタシは見る人に“夢”を見てほしい」
唐突とも言える言葉だが、老人は口を挟まない。
黙って先を促すように杖を鳴らすと、少女は前を見たまま口を開いた。
「だから──」
びゅうと風が吹く。
膝より低い背丈の青草が揺れてさわさわ鳴いた。
水面にさざなみが広がって、おさまって、世界に静かさが満ちた。
「トウリョーさんにも走りを見せるよ」
棟梁の老人は堪えきれず、再度笑い出した。
◆
車のエンジンが掛かった時、聞こえてきた音はまるで猛獣の唸り声だった。断続的に重低音を上下させながらゴッゴッゴッと内部機構が高速で回転を始める。
エンジンはGS forkand社のS8600series。軽量化と小型化の流れに逆らう、とにかく馬力を追求した内燃機。クランクシャフトの動作にやや難がありつつも特大排気によるパワー。
そんなエンジンの音にウマ娘の少女は自身の耳をぺたりと前に倒した。
眉間にも少し皺が寄る。
「スタートは、向こうに居るテツが手を振り下ろしたらだ」
老人は内心の感情を隠さず、軽やかに杖を持ち上げ、一キロ先の木造の小屋の脇に立った人を指し示した。
ハナノアカリは頷くと地面に引かれた線の前に立った。
横に並んだ車は飢えた熊のような唸り声を立ててその時を待っている。
シッポからかぶり付かれちゃうかも、とハナノアカリはちょっと涙目になった。
だがそれもすぐに集中に切り替わる。臨戦態勢へと。
スタートラインの後ろでは老人と、乾いた泥を貼り付けた春木がその様子を見ていたが、春木はふと少女の佇まいに疑問を覚える。
「おい、アカリ、お前
引ったくりを捕まえた時に見せた低いスタート。地面に両手をついて四肢を固定して爆発するクラウチング。
少女はちょっと視線を右上にやってから答えた。
「距離が長いって分かってるから。あれは最後にやるヤツ」
短い返答に、そうか、と春木は納得の意を示す。パラパラと泥が地面に落ちた。
横にいた老人は、横の男を気にせず銀色の腕時計を一心に見ていた。
「そろそろだ!」
しわがれても尚、覇気のある声がスタートを示す。
ハナノアカリは道の先にいる人物の腕を注視する。
空を目指してまっすぐに挙げられたその腕が──
振り下ろされた。
ヴォン! と音を立てて車は動き出す。黒い煙を下の排気管から吐き出しながら車輪を回し始める。
一瞬の砂利を捕まえられない空転を経て、ガチリとタイヤーが地面を捉えて加速を始めた。
ハナノアカリはジッ、と5秒後を待った。
まだ動かないハナノアカリは、車からぐんぐんと引き離される。
1秒、2秒、車は慣性の檻を張り切り始める。
3秒、4秒。最高速度に近くなる。黒い煙が破裂するように噴き出す。スタートラインとの差はどんどん開いていく。
その距離、約三十メートル。
そして、5秒。
腕時計を見ていた老人が視線を上げ、叫ぶ。
「五秒だ!」
瞬間、メキリという異音がした。
少女が一足踏み込み風を残して駆け出す音だった。
一歩目で地面を抉る。
二歩目からは踵から接地し、蹄鉄を地面に打ち込む。
一足ごとに速さを乗っけていく。
「……いやぁ、速えなぁ。おい。啖呵きるだけあるわな」
スタートラインに居る老人は腕を胸の前で組んで感心したように呟いた。その余裕の態度に春木は明確な理由は思い浮かばないが、無意識に奥歯を噛み締めた。
ハナノアカリは速い。
ここらでは中々見られないほどに。
でも、
多少は速くとも、先を走る車との距離は徐々に縮まろうがまだまだ先。
すでに車は距離の300メートルを走破していた。ハナノアカリは未だ200メートル台にいる。
追いつけない。
追いつかない。
ダメか。
ここで終わりか。
『──いいや!』
花を散らす風と共に、
声なき叫びが春木の耳朶を打った。
◆
息が上がる。
地面の凸凹に脚を取られ、視界がカクカク揺れる。
振り上げる腕の先の先で黒い車体が煙を上げながら走っている。
まだ、追いついてない。
「ハアッ……ハアッ……!」
息が苦しい。
胸の辺りで肺がきゅうと締め付けられて元に戻って無い気がする。
酸素が回らない。でも脚は動かす。
ガタガタと車は揺れながら走っている。
自分の視界も少しずつ狭くなりながら走る。
ゴールの小屋はだんだん大きくなっていって、1000メートルのうちの700メートルは過ぎてしまった。
まだ数人分の差がある。
「ふっ、ふうっ……ッ!」
苦しい、苦しい。
追いつこうと脚を動かすともっと苦しい。
止まってしまいたい。
そうして心が折れそうな時。この問いが頭に浮かんできた。
(なんで、走るんだっけ?)
どうして走るんだっけ?
苦しいことを推してまで、脚を動かす理由はなんだっけ?
『いつか、いつか、な』
この時代に迷子になった時に、ほとんど残してはくれなかった記憶の、僅かに残った大事な部分。
声が聞こえる。
祖父の声が。
静かで石のようで、優しく大好きな声が風呂場の反響に包まれるように聞こえる。
──おじいちゃん。
『お前は、その走りで、夢を与えられる人になれ』
──ワタシは、そのお願いを叶えるよ。
大好きで、いっぱい色んなものを貰った筈だった。記憶の片隅で、残った音声データ。そして感情。何も返せなかった後悔。
ワタシが誰かに“夢”を見せること。
ワタシの走りで見てくれた人に“夢”を見せること。それが、恩返しになると信じていた、はず。曖昧すぎて涙が出そうな記憶をズルズルと引き出し、カチンと歯を噛み合わせた。
「フッ、フッ……ッ!」
桜が見る人、時代を問わず、心揺さぶるように。
ワタシは走りで誰彼構わず、夢を見させる。
走るのは、ただそれだけのため!
ひと足大きく飛ぶように踏み出して。
ガン、と蹄鉄を踏み込んだ。
◆
「まぁ、良い子だったわなぁ」
棟梁と呼ばれた老人は白の混じった髪を撫で付けながら、どこか遠い目をしながら呟いた。
久しぶりに組の門戸を叩いた男とウマ娘は面白そうだった。
何か凄そうなものになると予感し、良いものを見つけたと内心手を叩いて喜んだ。
だが、予想と違って2人は現実的な範囲内に収まった。男は躊躇いが無いだけ。つまらん。少女は少し速いだけ。凡庸。
なにも、特別など無い。
それを認識したとき『現実、そんなもんさ』とせり上がってきた諦めを飲み込んだ。
何度も何度もやって慣れたように、簡単に飲み込んだ。
もはや慣れすぎて、抵抗も感じられなくなっていた。
「まだ」
だが、否定する呟きが上がる。
横の
春木は車とウマ娘のレースから目を離さず声を漏らしていた。
「
「は?」
老人は変な声を上げた。
男の視線の先を辿って、走るウマ娘を見やれば、彼女は大きく一歩。ぐっ、と踏み込んだ。
踏み込んだ?
いくらなんでも深過ぎる。
姿勢が沈む。重心が低くなる。
あり得ないほど、深く地面に崩れるように低頭する。頭の位置が低くなる。前まで膝があった高さまで。
二歩目に踏み出す時、少女は頭を上げなかった。
それどころか、さらに倒れるように深く姿勢を下げる。重心はもはや地面スレスレになる。
春木は口元だけ引き攣ったように、何かに釣られるように口角を少し上げた。喉の奥から声が出そうになって、咄嗟に右手で喉仏を潰した。
「来たぞ、きたぞ、来たぞッ!」
対してゴール地点にいた大男は堪えず叫び出す。
道の先でスタートの合図を送った姿勢のまま鼻息荒くレースを凝視する。
結末は一体どうなる?
どっちが先にゴールする?
その声は春木の所までは届いていなかったけれども、大男の感情は春木には手に取るように分かった。
場末の道路で初めてみた少女の走り。
飛ぶように一歩進むやり口は、爽快ささえ感じさせるもので。
いまこの世間に立ち込めている閉塞感や暗澹とした空気を払拭するように。埃っぽい部屋を翠の風が吹き抜けるような、流れるようなフォーム。
風に乗ってピンク色の花びらがさらさらと流れていくような向かい風に流れる菖蒲色。
ハナノアカリの走り。
体が地面と平行になるほど、極端な前傾姿勢。
到底バランスが保てる訳もないその姿勢は重力に従って身体を前に倒そうとする。
だが、脚を出す。前に出す。身体が崩れるより早く、前に落ちるように。一歩でもしくじれば目も当てられない。ギャンブル。
それを何度も何度も、高速で繰り返す。
ついには時速65キロメートルのペースに達し、彼女の脚は1秒に18メートルを縮める、剛脚となった。
近代から現代へ、無数の試行錯誤により蓄積されてきたスポーツ理論。
理想的なフォーム、最大効率の力の伝え方、速さ以外の無駄を一切削ぎ落とした狂気の果て。
その全てがただの1人のウマ娘の身体に結実していた。
“速さ”を目指した数多の執念が、時代の蓄積が、走りに顕現していた。
これぞ近代ウマ娘の走り、その完成系。
「と、とんでもねぇ……」
老人が呆然と呟く。
瞳には諦念の感情など一片も残ってはいなかった。淡紅色の花風に吹き飛ばされた。
あるのは純粋な、レースの行く末を追う二つのガラス玉。
(なんつー走りだ……。あんな危うげで、不安定で)
桜花の如く、鮮烈に。
保身など度外視した侍のように潔く。
走りは最新で宿る精神は大昔の武士のように。
老人の目にはコースを必死に走る桜色の瞳を持つウマ娘がそう見えた。
「──ぁアアッ!」
蹄鉄が地面を抉る音が加速する。
車の排気音が一際高く、甲高い悲鳴のようになる。
車輪が加速する。
脚が前に出る。
無限とも思えるデットヒートの末、
ゴールの時は来た。
小屋の脇を1人と一台が走り抜けた。
体勢は一人分ほど
喝采の声を上げたのは老人だった。
腕を天へと突き上げ、叫んでいた。
テツと呼ばれる大男は腕時計を見つめて背筋が寒くなった。
古びた革のバンドの腕時計には小さく秒針が付いていて、その針が頂上を刺した瞬間にスタートの合図を送った。
ゴールの瞬間、秒針が示していたのは頂上のすこし
つまりは──
「1000メートルを57秒で走りやがった……」
こんな舗装がガタガタでレース場とはコンディションも比べようにならないコースで。すり減ったいかにもボロだとわかる蹄鉄で。
なんてヤツだ。
その言葉は喉から出ることは無かった。
ただ、背骨から震えだすような感情で荒い息を吐くウマ娘を見つめるだけだった。
◆
「いやぁ、いいモンを見させて貰った。最初は大言壮語を臆せず吐く奴だと思っていたが」
突発的な変則レースが終わり。
元の場所に戻った老人は上機嫌に言った。
杖をコン、と地面に一突きすると帽子を直す。
「それ以上に途方もない嬢ちゃんだったな」
脇までやってきた改造された黒い車、それを運転していた若者が窓から顔を出して老人に会釈する。老人は右手をひらひらと振って答え、車はまたエンジンを吹かして何処かへ戻っていった。
場に静寂が戻る。
ウマ娘の少女はワクワクとした表情で。春木は無表情で事の沙汰を待った。
その2人の視線に気がついたのか、老人は苦笑いを浮かべる。
すでに鋭い日本刀のような雰囲気は鳴りをひそめ、元の好々爺とした笑みだった。
「勝負は勝負。覆すのは江戸っ子じゃねぇわな」
そんな気も起きねぇから安心しな、と。
「嬢ちゃんの身分は、檜組の名にかけて確実に用意しよう!」
手品のように取り出した半纏を着物の上から羽織り、ばさりと翻し宣言する。
背中の中央には白で丸の染め抜きに檜の文字。
「存分に走れぃ! 嬢ちゃんの走りを暗くなっちまった日の本に届けてやれや!」
戦火の影はちらつき、人々の笑顔が不安な顔に変わる。それでも生活は続けなければならない。そんな鬱屈とした空気が漂う空気を、この子なら、と老人は笑った。
当の少女はポカンと口を開けている。
情報の処理が追いついてなかった。しばらくそうしているものだから、見かねた春木は、そんなウマ娘を小突いて状況を教えてやった。
「走れるんだとよ、アカリ」
少女は聞いた言葉を咀嚼しようと努めた。
そして口をぱくぱくと動かし、尻尾をぶるりと一度震わせると、身体をかがめ
「──ヤッターッ!」
と感情を爆発させた。
屈託なく笑い、菖蒲色の髪の毛がさらさらと流れた。
春木は無表情のままそれを見た。
「やったね、ワタシたち!」
「やったのはお前だろ」
くるりと少女が振り返って春木に詰め寄れば男は冷めた口調で返した。
少女は首を横に振る。
「いいや! ミノル、あなたが力をくれたんだよ」
「何もしてねぇ」
ふふふ、と少女は笑った。
穏やかな、春の中頃の夕暮れだった。
これが、初のハナノアカリのタイムが記録された瞬間。
不世出のウマ娘の一歩目。
大男は、レース出場可能に喜ぶウマ娘と、それに振り回され、慌てながら悪態をつく春木を見て不思議と確信した。
これは、未来永劫、歴史に赫赫と名を残すウマ娘が登場した瞬間になるだろうな、と。
つまりは──
1.ハナノアカリ登場! 終
という訳だ。
◆
【現代 トレセン学園】
時計の立てる甲高い音に、露草色のメガネ少女は現実に引き戻された。
壁掛け時計の時刻を確認して、慌てたようにパタンと日録を閉じた。
外はもう夕方を通り越し、藍色になっていた。
「む……夢中で読んでしまいました」
途中まで同席していたライスシャワーは彼女のトレーナーに呼ばれ、既にこの部屋には居なかった。
外の色を受けて、紺碧に染まる図書館には1人だけ。戸締りをして鍵を事務室に返却し、速やかに寮の自室に戻らなければ夕食を取り損ねてしまう。
それでも文学少女は熱のこもった吐息を、背もたれに深く沈みながら空に放つ。
「本当だとしたら……途轍もない」
1000メートルのタイム、57秒と日録には示されていた。
これは通常、あり得ない事だった。
レースは日を追うごとに高速化している。
コースの整備、技術の発展、食事に伴う栄養状態の変化。
それらによって、日進月歩タイムは縮まってきている。
つまり、今の方がタイムが速いのが当たり前なのだ。
要するに。
この時代で、このタイム。
明らかに
この日録に示されたことが事実なら、書いた張本人──ハナノアカリは歴史に名を残すレベルのウマ娘だ。それこそ伝説的なウマ娘、かの生徒会長シンボリルドルフのような。
格が違うウマ娘はいる。“時代の代表”ではなく、“時代を創る”ことを許された強さを持つ規格外のウマ娘。
それがこの日録だけで語られている。いまの今まで知ることは無かった。
その意味を推測して、メガネの少女は瞼をぎゅっとつむった。調べれば分かることかも知れないが、そうしないのもそれが理由だった。
「帰りましょう」
◆
夕闇を超えたトレセン学園は昼の喧騒が嘘のように静まり返っている。色鮮やかな建物や緑の濃い草はすべて藍色を浴びて暗がりに沈んでいた。
草むらで虫が鳴く音だけが辺りにある生き物の気配だ。
空に浮かぶ大きな月を見上げながらゼンノロブロイは寮への道である、学園内の中庭を歩いていた。
青色を基調とした学園指定のスクールバッグを肩に掛け直し、コツコツと石畳を踏んでいく。
ひゅうと風が吹けばまだ4月の中頃。寒さが以前と体の外側から熱を奪っていく。
さわさわと落葉樹の葉が風で擦れ合い、ささやきのように聞こえた。思わずそちらに目を向ければ、視界の端に佇むのは大きな切り株。
大樹のウロ。
たいそうな名前があるが、実態は穴が空いている切り株だ。ただし少しばかり大きい。
覗き込むと晴れの日なんかは底の堆積した土なんかが見える。夜中に覗くと、電灯の光を周囲の残った木の部分が遮ってしまい、光は底まで届かず何処までも闇が続く。それはぽっかりと口を開けたバケモノの口腔にも見えた。
こういった理由もあり、どこの学校にもある怖い話の舞台の一つに挙げられる場所でもあった。
なんの変哲もない木の跡のはずだった。
そこから薄いピンク色の花びらがひらりと一枚、飛んでくる。
切り株の
「え?」
花びらは周囲を気にすることなくマイペースにゆるゆると夜の空気を漂う。薄ピンクは紺青色の世界にいっとう鮮やかに、くっきりと声無く主張していた。
辺りの静寂は変りない。人の気配はない。
「なんで……」
季節は桜の開花は過ぎている。
なのに可愛らしい一枚は、迷子のように空を泳いでいる。
メガネの少女は手のひらに汗が滲むのを感じた。
どくどくと心臓が速くなる、静かな世界で大きく音を立てる鼓動は耳元で鳴らされているみたいだった。
「…………っ」
学園指定のローファーで、一歩近づく。
大樹のウロは動きを見せずぽっかりと口を開けている。
あの花びらはウロから出てきた。ナニかがある。天頂に居る月は煌々と地面を月光に染めている。芝が白さを帯びて輝いている。
じり、と近づく。
虫の音が止まる。空気の流れが止まる。
あと一歩のところで少女は止まり、息を吸い込むと地面を蹴って一気にウロの中を覗き込んだ。
「──っ!」
切り株の向こう側には、夕焼けの空が広がっていた。
熟したニンジンのように鮮やかで、鮮烈な茜色は何処までも続いている。場所は河川敷のようだ。
夕焼けの中に1人のウマ娘が立っていた。
彼女は蹄鉄の音を立てながら跳ねて笑っている。シッポがゆらゆらと揺れる。アングルは下から見上げる形で、ちょうど川の水から陸を見たらこんな風だろうなという画角だった。
水面のように、時折ゆれる
ウマ娘の
これは。
これは──。
次章→
2.最初のレースを勝利しろ! 始
「な、何が……」