Ep.3 わたしの見た光
とうろくうまむすめ
『登録ウマ娘』
[概要]
レース場と契約し、レース倶楽部に加入したウマ娘を指す言葉。
練習等はレース場で行うが、彼女たちも学生の年齢であるから学問をやらなければならない。
しかしレース場には教師は居らず、通常の学校では練習との兼ね合いによる調整に融通が効かない場合がある。そこで編み出されたのが提携校というシステムであり、これに付随する登録制度である。
レース場に近い、提携した学校が学問を教え、寮を貸し出し生活の基盤を作ってくれる。その制度を利用したウマ娘を指す言葉。基本的に登録ウマ娘の制度が利用されていた時代はこの制度を利用しなければレースには出られなかった。
19××を最後に廃止。
現在では使用されていない。
『ウマ娘歴史用語辞典』 より引用。
◆
「あわわ……、も、もうかなぁ……?」
寮の一室で、鹿毛のウマ娘が忙しなく、振り子時計を見ていた。木造の建物で、西洋の飾り付けのある部屋に日が差す。穏やかなブラウンの影が机に伸びる。
時刻は15時を回ったころ。日付は日曜日。
鹿毛の彼女がこんなにも慌て、ソワソワと落ち着きがない理由は二つ。──もちろん彼女の慌てやすい性根もあるのだが。
一つ目。主にここに来るのは選ばれた強さを持つウマ娘だということ。生まれ持った才能に、幼い頃からの弛まぬ練習。それは必然、下町の生活に手一杯のウマ娘ではなく、設備と人員の整った名家のウマ娘が殆どを占める。
レース倶楽部はお嬢様クラブ、なんて揶揄されるほどだ。
だから、必然今日やってくる子もそういった高貴な子の可能性が高い。というか殆どそうである。
二つ目は、彼女──コウマサが一般の家庭出身だということ。郵便局員で平凡な父と、八百屋の娘の母との間に生まれ、暮らしてきた。たまたま走るのが早く、近所の河原でよく走っていたらレース倶楽部の試験に合格。
父と母が入学金を工面して入れてくれた。
そういうわけで、場違いにもレース倶楽部に入れた彼女は恐れていたのだ。あまりの生まれ育った環境の差にひどい目に遭いやしないか、と。
だがその心配も杞憂に終わる。人数の都合で2人部屋を1人で使うとなったのだ。そう伝えられた時は運が向いてきたと思ったものだが、それも尽きたらしい。
新しい同部屋が来るのだ。
事前情報も殆どなく、伝えられたのはくる日付だけ。
一体全体、どんな高貴で深窓のお嬢様が来るのか。若しくは高飛車な子なのか。不安に妄想は止まらなかった。
「こ、このくらい空けておけば大丈夫、だよね!?」
目を向けたのは、部屋の中央より右側に空いた何もないスペース。
きっと荷物(私物)も多いだろうからと普通よりだいぶスペースを空けておいた。
というか、お付きの人が荷物を運んできたりすんのだろうか。執事とか。田舎っぽい、庶民っぽいと笑われないだろうか。
ぐるぐると考えれば考えるほど不安はおおきく、煙のように膨れ上がった。
「あと、これは……ぜったい違うよね」
そして準備があらかた終わったころ。なにか歓迎をした方がいいだろう、と考えに至る。だが、何をしたらいいのかわからない。とにかく自身が出来ることを、と寮の台所を借りて作ったのはおにぎり。実家から送られてきた人参を使った三角形と、付け合わせで大根のお新香。
the庶民の食べ物だ。
高貴なお嬢様さまはきっと海外産のビフテキとかを食べる。こんなおむすびじゃない。
(は、早とちりだっ……。恥ずかしい)
そう思って、長方形の木のお皿に並べたおにぎり3個と漬物を急いで片付けようと手を取る。時刻はそろそろ到着する頃で──
コンコン、とノックの音が響いた。
それも窓から。
「えっ? えっ?」
ここは2階だ。ドアとは真反対の方向に目を向ける。
窓の外では、すらりとした手が木枠の窓ガラスをコンコンと叩いていた。聞き間違いではなかった。
その様は異様。
肘から先の手は、ちょうど木枠の上からたらりと垂れていて、逆さまにノックを続けている。そして時折窓の枠を掴んではガタガタと揺らす。鍵をかけていたので開けられないようだ。
「あわわ……」
誰か屋上から落ちそうになっているのか、と思い慌てて窓に飛びつく。鍵を回して窓を横にスライドすると、腕は上へと引っ込んだ。
そして次の瞬間、影が室内に飛び込んでくる。
影はくるりと一回転。
サァと春半ばの風が部屋を吹き抜けた。
影は華麗に着地をし、パッと顔を上げる。
「どうもこんにちは! 今日からこの部屋のハナノアカリだよ!」
そうして飛び込んできた彼女は、ニコッと笑い自己紹介をする。腕にはまるまると太った三毛猫を抱えていた。
コウマサは目を白黒とさせるばかりだ。ハナノアカリと名乗った少女は止まらない。
「そらっ、お帰り! 屋根に登って降りられないなら、気をつけなさいな!」
腕に抱えていた猫をひょいと離すと、お尻をぺしぺしとして結構強引に窓から叩き出す。2階からは緩やかな雨樋が付いているので簡単に降りられるだろう。
目の前の現実を受け止めきれず、思考ばかりが加速するコウマサ。
闖入者はコウマサへと視線を向けた。そして何か口を開きかけて、コウマサが手に持ったおにぎりの乗った木の皿を認めると眉を下げる。
「あれっ? ちょうどおやつの時間だった? ごめんね」
「い、いえっ! こ、こここんな物! おやつでも歓迎の品でもなんでも無いですからっ!」
コウマサは、わたわたと否定を口にする。
バレたくない。目の前の少女に。そう思って。
「ほーん。ふーん。……ホントは?」
だが、目の前の少女は許してくれないようだ。
桜色の瞳が真っ直ぐに向けられる。コウマサは息が詰まったような感じがした。眼力とはこの事かと思うほど、目の前にいる少女の全神経が自分に注がれていると実感させられた。
「ほ、本当は、歓迎に作ったんですけど……うぅー……。こんな、こんな質素なものを用意してしまって、恥ずかしくて……」
そうして耐えきれず、口を割ってしまう。
ハナノアカリは先ほどの視線を霧散させ、嬉しそうに笑った。
「そんなの関係ないよ! ワタシに作ってくれたの!? 嬉しいなぁー!」
なんの憂いもない笑顔にコウマサは恥ずかしくなってしまう。
そして背中を丸めて小さくなった。
「いえ……。こんな、すみません。浅ましくて……」
「浅ましくなんてないない! こんな事してくれて、ワタシ、もうキミが好きだよ。ほら、効果あったね」
「す、すッ!?」
彼女の理論はよく分からなかったが、とにかく押しが強かった。
コウマサはただ、困惑に目を回すばかりであった。
なかなかに大変な子が来たな、と感じていた。
◆
【追憶ーコウマサ】
こうして、わたしはアカリさんと出会いました。
屈託なく笑う彼女は、わたしが思い描いていたお嬢様とは似ても似つかず。
それ以上に鮮烈で、力強く、春の最初に越冬を寿ぐ桜色の化身のようでした。
彼女は、わたしがちんけな妄想で新しい部屋員に対して恐れ慄いていた事実が、いかに想像力が足りない行為であったのかを強烈に叩きつけるような存在でした。
どれほどわたしが自分本位でしか物を考えていないのかを突きつけるようにやって来ました。
「よろしくねっ! コウマサだから……マサちゃん!」
ああ、とても眩しい。
そう思ったのを今でも覚えています。
こうしてやってきたアカリさんは──
とてもだらしのない方でした。
◆
それはハナノアカリさんが入寮して3日目のこと。書類手続きが終わっていよいよ練習開始といった日でした。
「うひゃー」
そう言って入ってきた(ちゃんと扉から!)アカリさんは膝を土汚し、肘をほつれさせていました。尋常ではない姿です。ひょっとして事故か追い剥ぎかと腰を浮かせかけましたが本人の様子からはそこまで切羽詰まった感じはしませんでした。
「えっと、その服はどうされたんですか?」
「いやぁ、転んじゃって。替えがないし、まぁこのくらいなら良いかなって」
わたしが聞くと彼女は頭の後ろを軽く掻いて、バツが悪そうに言いました。そして何事もなかったかのように机に座り、ノートとペンを取り出し──
「よ、良くありません! うら若い乙女がそんなはしたない格好をしちゃ」
わたしの方が慌てて肩を揺すると彼女は目を細めて眠たそうに返事をします。
「ダイジョーブ、ダイジョーブ。ダメージファッション? って奴だから」
「意味が分かりません」
「ごめんって、ほら怒らないで。ぷりぷりした顔も素敵だけど、ワタシはコウちゃんのカワイイ顔が見たいなー」
呼び方が前と違うし。
かばっと両手を広げて抱え込もうとしてくるし。
「え、ちょ……な! 丸め込まないでくださいっ! またそうやって!」
最初にハナノアカリさんを、お嬢様で桜の化身のように鮮烈な方と評しましたが、撤回いたします。
とんだジャジャウマ娘でした。
私生活がとことん壊滅的でした。
「アイロンがけ? これ以上焼くと着るものが無くなるよー」
「洗濯……まだ着れるから……」
「ご飯炊いてみたけどカタイ! まぁいいか!」
どうやって今まで生活してきたのかと問いたくなる程度で。
いちど尋ねてみた事があります。
「え? 今まで? ……ワタシに過去はないかな。皆んなみたいに、さ」
その時の調子はおどけて舞台女優のようでした。小さな頃みた海外の映画をおもいだします。当時はそうやって軽く流したのですが、後になって彼女のことを深く知るたびにこの時のことを後悔したのでした。
また、この時、わたしはアカリさんの走りを一度も見たことがありませんでした。彼女は速いのか、どれほどなのか。レース倶楽部の中でも最高峰の此処、東京レース倶楽部に所属できた──それも途中から──のですから、速い方なのだと推測はしていました。
様々な都合があって、当時は彼女の走りを見れていないのでそれは分からなかったのです。
そしてそれを見る機会は早々に訪れました。
模擬レースをやると言うのです。
彼女がこの部屋にやってきて、5日目の出来事でした。
わたしも出ることとなったレースです。
いまでもこのレースの情景は、瞼を下ろすと見えるようです。
◆
『出走する選手は集まるように』
拡声器で濁った声がレース場に響いていました。
空は厚い雲に覆われて灰色。呼吸をするたびに肺に入る空気が重たい日でした。
放送の声に、倶楽部から支給の体育服装に着替えていたわたしは控室のドアを開けて、コースに出ました。既に芝の上には錚々たる顔ぶれがゲート付近に集まっていて。
一歩わたしは後退りました。
右を見ても左を見ても名家の方ばかり。
実家がすごいだけでなく、すでに本人も実績を残している注目株。
ぜんぜん勝てていないわたしとは真反対のひとたち。
──そう、この時わたしは倶楽部に所属できたはいいものの、一度の勝ちも得ていなかったのです。
気がつけば芝を見ていました。俯いていたんです。
いつも思います。──わたし、ここにいて良いのかな。って。
周りの子達は小さな頃から、家のためだとか一族のために勝つ必要があるすごい子達ばかり。背負ってきた歴史も重圧もわたしなんかとはぜんぜん違います。そんな中に、なんの覚悟もないただの一般人がまざっていていいのか。そんな居心地の悪さ。
(あ、芝がめくれてる……。すごい踏み込みの子が居るんだなぁ)
わたしにはできないな、と思った時に浮かぶのは両親の顔。
お父ちゃん。
朝早くから郵便局で頑張って働いて、疲れてるはずなのに一切そんな素振りを見せないで、背中を押してくれて。
お母ちゃん。
最近腰を悪くしたのに、冗談で笑って、お客さんの相手をして。
一年前に、倶楽部の年間費用を見て、あまりの高さに驚いてこっそりゴミ箱に捨てた募集用紙。
深夜に水が飲みたくて起き出すと、居間の電気が付いていたんです。寝巻きのまま、襖の隙間からこっそり覗くと、ちゃぶ台を挟み込むように座って話をする両親の姿が見えました。お父ちゃんは遅い帰りだったようで、外套を脱いだだけの局員の姿で座っていました。
2人は台の上にある何かを見て、しゃべっているようでした。
しぱしぱする目を凝らして見てみると、それは皺だらけの募集用紙。
──心臓が止まるかと思いました。それはわたしが捨てた筈のものだったから。
そして何事もない月日が過ぎて、春の前。
居間に呼ばれて、渡された白い呉福箱くらいの箱。
開けてみると、新品の蹄鉄付きの靴が入っていました。
『行ってきなさい』
余計なことは何も言わず、ただそれだけを言ったお母ちゃん。
大事なものを見るように、穏やかに笑うお父ちゃん。
◆
「──絶対に勝ちますわ」
少し離れたところから聞こえた声に、意識が現実に揺り戻される。
誰かの気合いを入れる声だったみたいです。
それに比べると、わたしは──ああ。
また地面を見て、細かな傷の付いた靴が目に入って。
ごめんなさい。まだ、いちども勝ててないんです。あなたを活躍させてあげられない。
ぽつぽつと雨が降ってきて、地面を泥濘ませる。
空気が湿気ってさらに重たくなる。
肩がとにかく重たかった。
脚が鉛のように重たかった。
顔がどうしても上げられなかった。
(もう、やめようかな)
そんな風に俯きながら口の中でつぶやいた瞬間。
「──走ることで誰かが“夢”をみれるなら」
横を通り抜けた、爽やかな風。
誰かが通り過ぎて風が起きたのだと気がつくまで時間が掛かりました。
彼女は颯爽と泥濘みを歩き、泥はねで汚れた裾を誇らしげに風に靡かせ、ゲートに向かって歩いていました。
ハナノアカリさん。
わたしの同部屋の、ちょっとだらしのない人。
彼女は、誰よりもボロボロの服を着て、どの靴よりもすり減った蹄鉄を履いて、そして──誰よりも堂々としていました。
なんでそんな風に、胸を張れているのか分からず、わたしは彼女を見つめるばかりでした。
【追憶 コウマサ おわり】
◆
『サァ、全ウマ娘ゲートに収まって』
この鉄の匂いは苦手だな、とコウマサは顔を少し顰めた。
実況の声がスピーカー越しから聞こえて来る。模擬レースとはいえ、レース。お客さんは入らないけど実況から何まで全部本番と同じようにやる。
コースは芝、1800メートル左回り。
『スタートしました。揃ったスタート、先頭を行くのはアヅマノ、次いでハヤテイが行きます』
場所は中団のあたり。
コウマサはいつもの位置に収まれたと下から伝わる衝撃を感じながら内心胸を撫で下ろした。
同部屋で初めて走りを見るハナノアカリは後方に控えている。
そこで視線を切り、前を向く。
勝負は第一コーナーを曲がってから。スタンドとは反対の直前コース。いい位置どりをしなければ、埋もれてしまう。最後に抜け出すことは出来ない。
『コウマサはじっくり機会を伺って、アヅマノ前へ前へ先頭は変わりません。しかし内からヒヤノカラが迫ってくる! 前までは2バ身といったところでしょうか!』
息が苦しい。
第一コーナーを曲がって直線。
土埃と地面を叩く振動で視界がブレる。
前に居るのは2人のウマ娘。
コースが埋まっている。内はラチにギリギリで隙間がない。抜かなくては。大外を回る? ロスが大きすぎる。無理だ。
コウマサは歯噛みする。
視界の端で菖蒲色がたなびいて──すぐに消えた。
『ああっと、ハナノアカリ、上がって来ようとしましたが姿勢を崩した! 一気に減速です……先頭は変わりましてヒヤノカラ! アヅマノも粘っている!』
同部屋の彼女はガクッと姿勢を崩したのだ。
芝は平坦ではない。時折凸凹があり、加えて前のウマ娘が足で掘り返した場所もある。
コースに慣れていないと時偶に起きる現象。
それがハナノアカリにも起こったのだ。
(ああ、可哀想に──)
せっかくのデビュー戦。お披露目。それなのに躓いては、それがトラウマとなるウマ娘もいる。コウマサはそう思って目を少し伏せ前を向いた。
そしてハナノアカリは──
ニィと笑った。
◆
『先頭はヒヤノカラ、ちょっと苦しいか! 最終直線に入りました! 各ウマ娘が最後の追い込みをかけて来る! 一着は誰だ、誰だ!』
外からレースを見ていた指導員は最後の直線を片手持ちの双眼鏡で注視していた。
これは模擬レース。多くが勘違いしているが、このレースはべつに一着にならずとも良い。末脚が優れていれば、なにか光るものがあれば、それを伸び代として指導員が付く。
だから諦める事はないのだ。
いちばん後ろにいるウマ娘以外は。
手元のクリップボードに挟まれた名簿を確認すると、最近入ったウマ娘。ハナノアカリと言うらしい。躓いたウマ娘。ああも先頭から離されて仕舞えば、持ち得る能力も見えない。
まぁ、次の機会にでも。
そう思って視線を先頭集団に戻した瞬間。
最後方のウマ娘がグッと踏み込んで、姿勢を低くする。
頭が沈み込む。事故かと思うほど、地面に近く。
そして──爆ぜた。
『アヅマノ粘るが先頭は──ここで追い込んで来たッ!? あれは……ハナノアカリです! ハナノアカリです!』
1人だけ、ビデオの早回しを掛けられたように、一足跳びごとに加速していく。大きく踏み込んで、異常なほどストライドが大きくなって、一歩ごとに加速、加速、加速……。
「……は?」
指導員の男から漏れたのはそんな声。
困惑と驚きのような混ざった驚愕の感情。
あれはなんだ。なんだ、あの走りは。
なんだ、あのウマ娘は。
『ハナノアカリがバ群の大外を回ってやって来る! なんてフォームでしょう!? 鋭い矢のように、低姿勢!』
地面とほぼ並行なほど、異常なほどに身体を前に倒して、脚を出していく。直前まで頭のあった位置が、膝の辺りまで来る。
おかしい。
ウマ娘を指導する立場にあるからこそ異常さが分かる。
あんなもの、一歩間違えれば大事故だ。集中を切らしたら転倒してしまう。踏み込みが深すぎる。脚への負担が大きすぎる。
なのに、なぜ
ハナノアカリは跳ぶように走る。
未来の走りをそこに載せて。
隣の指導員が吐き捨てるように口を開く。
「危ねぇ走りだな」
ああ、そうだな、と同意をしたかった。だが喉から言葉が出てこない。痙攣したように引き攣った目の前の大外一気を見ている。
『ハナノアカリ迫る、ハナノアカリ迫る! ヒヤノカラも加速して……しかしハナノアカリ速い速い! アヅマノを交わした、そして先頭のヒヤノカラへ残り2バ身、1バ身……届いたッ、抜かした! ハナノアカリ先頭に躍り出て、ゴールイン!』
誰もが目を疑った。
誰もが彼女を見上げた。
共にレースを走ったウマ娘は疲労困憊の中、膝に手をついて酸素不足に喘ぎ、圧倒したウマ娘を見ていた。
ビュウウ、と風が吹く。
菖蒲色の髪の毛が風にさらわれて、桜吹雪のように広がる。
ハナノアカリはただまっすぐ、コースの先を見ていた。
周りの視線でもなく、自分の姿でもなく、ただゴールを見ていた。
誰よりも見窄らしい服で。
誰よりも家格が低くて、それどころか名前も知られてなくて。
ともすれば人から侮られそうな出立ちにもかかわらず。
そんな見た目も、生まれも、育ちもぜんぶ走りで蹴散らしてしまった。
移ろいゆく他人からの評価など一切知ったこっちゃないとばかりに。
彼女は一番に駆け抜けた。
この時、コウマサは七着。
掲示板にすら入らない着外だ。
だが、そのレースは彼女の転換点になった。
(ああ、なんて眩しい)
麗らかに咲く春の桜のように。
陽の光を一身に浴びて、人々はただそれを見上げる。
ハナノアカリがコウマサに気がつき、笑いかける。
その日、コウマサが俯くことはなかった。
ゴールだけを見ていれば良いと思ったから。
コウマサは光を見た。
誰よりも速い光を。
◆
◆
♦︎ウマウマ大百科
『コウマサ』
初期はあまりパッとしない成績と穏やかな性格により結果を残していない。
しかしながら不断の努力を続けた結果、優駿牝バ(後のオークス)で優勝。世界を巻き込んだ戦いの影響でレースが中止されていて、再開してから初のことだった。
彼女はその脚で新しい時代の到来を示してみせたのだ。
・特別な繋がり
元来、コウマサと仲の良かったとされるウマ娘がいる。彼女の名はハナノアカリで(中略)コウマサとは同部屋だったようだ。
現在確認できるコウマサの追憶を綴った文章からはハナノアカリへの感謝や憧れにも似た言葉を見る事ができる。(時折苦言も混じっているが)
彼女が制した優駿牝バは、平和になった世の中で、誰よりも望んだレースに出る事が叶わなかったハナノアカリに捧げる一戦でもあったという。
【後年 手形】
親愛なる、わたしのだらしがない同部屋へ。
あなたのいないレース場は、広いですね。
わたしが貸してあげたハンカチ、まだ持ってレースに出ようとしているんでしょうか。あなたのものでは無いと言っているのに。
空は澄み渡って、青いです。
傷を負ったひとたちも、また前を向いて歩き出しました。
あなたの望んだ通りに。なのになんで一番暴れて駄々をこねた本人が見ていないんでしょうか。無責任にも程があると思います。
『──勝ったのはコウマサ! コウマサが逃げ切って見事、優勝ッ……』
まぁ、でも一つだけ報告したいと思います。
いま響いている歓声を聞いてほしいと思います。
『──勝ちましたよ、アカリさん』
ついにわたしは、やりました。
過去を変える一冊は、すでに大器の英雄の手のうちに。