昭和にウマれたウマ娘!   作:調味のみりん

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Ep.4 ワレナベ

 

 

【手記 一部】

 

 

 

 ──うつくしい景色をみていた。

 

 あの子は。

 

 

 ただ、走ることに特化した身体を以て芝を踏み締め駆けていく。

 そこにどんなしがらみも、縛るものも存在しない。どこまでも伸びやかに前へと進む綺麗なもの。

 

 それをみて、私は、世の中にこんな綺麗なものがあってよかったと思った。汚いものが全てではなく、綺麗な面もあるのだと。

 

 泥水を踏む。

 鉄入りのブーツが水を吸う。

 

 

(歓声が聞こえる)

 

 

 轟音が聞こえる。

 啜り泣く声がきこえる。

 上官の怒鳴り声がきこえる。

 

 そんな中でもわたしは、──

 

 

【激しく汚れていて読み取れない】

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

「お前のお披露目戦が決まった」

 

 場末の大衆食堂の隅で、春木はむっつりと言った。

 対面で、枝豆を食んでいたウマ娘は耳をピコンと立てて反応する。

 

「うぇっ! ほんと!? いついついつー!?」

 

 そうして木でできたがたつくテーブルから身を乗り出し、対面の男へと詰め寄る。春木はうっとおしそうに手でウマ娘を抑えながら答えた。

 

 

4月の京都で(よび)ウマに……

 

 

「え、なんて言ったの?」

 

 

 春木は突如停止したテープのように黙って上を向いて石膏の天井を見つめる。1秒、2秒。

 そして再起動すると何も無かったかのように続けた。

 

 

「4月の()()で呼ウマ戦だ」

 

 ◆

 

 

「まさか誰も指導員が付いてくれないとは……」

 

 レースの予定(この頃はレース場から走るレースを決められるケースがままあった)を一通り話したあと、春木は力なく呟いた。

 

「てへ」

 

 対面に座り、今度は生姜焼き定食を食べているウマ娘は下をチラリと出し、ちょっとバツが悪そうにおどけて見せた。春木の額に血管が一本増えた。

 

 

 1週間前の模擬レースのあと。

 圧勝せしめた彼女に対して勧誘が多発するかと思われていたが、現実は違った。ハナノアカリの周りには示し合わせたように誰も寄っては来なかった。

 

 

 あまりの隔絶さに誰もが一歩引いてしまったのだ。

 

 

 それでも手を挙げる者も居るにはいた。

 しかし、ハナノアカリの走りが現在の理論に当てはまらなすぎると分かると、みな断っていった。あの走りは危うい。安全性が著しく低い。下手にやれば彼女を壊しかねない。そうして自身の指導員としての地位を失うリスクを考えた際に、手を引いたのだ。強いウマ娘を作ることに固執しているのはカーキ色の制服を着た人たちくらいだった。 

 

 春木は目の前で夢中に白米をかきこんでいるウマ娘を見つめる。寂れた店内には閑古鳥が鳴いていて、2人の他に客は二、三人。外を割れて補修された磨りガラス越しに眺めながら『なんで俺がお前の指導員みたいなことやってんだ』と天に仰いだ。

 

 

「えぇー? それ聞いちゃう?」

 

 

 菖蒲色の少女はびっくりしたような、あきれたような、悲しいような。そんな声色で無愛想な男に抗議した。

 

 

 

 ◆

 

 

 

「じゃ、ワタシ練習があるから行かないと!」

 

 

 ごちそうさま! と手を合わせて下に置いてあった巾着袋を手に取りウマ娘は店を出て行く。相変わらず騒がしい子だと春木はアルマイト製の皿に置いてあった揚げ芋をひとつ手に取り口に放り込んだ。

 

 店内は静かになった。

 

「ケッ、あんのウマ娘はダメだ、ダメダメ」

 

 だから、その声は余計に響く。春木はそちらに視線をやると1人の男。老人とも呼べる頃合いだ。

 そいつは店の引き戸の近い席にドカリと腰を下ろしている。薄汚れた身なりに濁ったダミ声で吐き捨てた。

 

「フォームがなっとらんわ、あんなデタラメ、ケッ、マトモじゃねぇ」

 

 髭をざっくばらんに伸ばし、擦り切れだらけの外套と服を着ている。顔は赤らんで目は胡乱だ。手に持った茶色い瓶をドンと叩きつけると口から酒精の籠った息を吐き出した。

 

「カァー、くそが、くそ。お前ぇもしみったれた顔しやがって、どいつもこいつも勝手に綺麗なもんばっかみやがって」

 

 男は太く煤汚れた指を突きの形にして、店内に残っていない客を指さしていく。そして最後に春木を指さすといっとう顔を歪めて口髭を震わせた。そこには方向性のないぼやけた怒りだけがあるように見えた。

 

 

「お前ぇもだぞ、おい! 小僧!」

 

 

 いつかあの小娘も壊れんぞ! と酒瓶を盛んに机に叩きつけ、割りかけた所で奥から中年の女性が飛び出し、宥める。その様を横目に春木は注文した値段分の料金を机に置いて店を後にした。

 

 喚いていた男の右足の膝から下は、無かった。

 

 

 

 ◆

 

 

 やってきた東京のレース場は晴天に恵まれ、雲が細く飛んでいた。

 4月の後半ともあって、日陰は肌寒いが日向は暖かい。その中をハナノアカリはゲートに向かって歩いていく。

 

 

 (よび)ウマ戦中等 東京 左 芝 1600メートル。

 

 9人のウマ娘の中でハナノアカリの人気は一番低かった。それもそのはず。観客にとって事前情報のある他のウマ娘と違い、彼女には経歴が一切ない。

 対照的にダントツ一番人気であったのは名家のウマ娘だった。パドックそのウマ娘が紹介された時、ハナノアカリは口をあんぐりと開けた。

 

 あの最初に出会った“お嬢さま”だったのだ。

 

 

「お……オジョーサマ!?」

 

 

「あら、貴女は」

 

 彼女はそう言って目を細めた。その仕草にも滑らかさがあり、上品とはこういう事かとハナノアカリは目をパチクリとさせた。

 

「確か……」

 

 そうして“お嬢さま”は白魚のような人差し指をゆったりと顎に持っていく。わずかに上を向いて考えこむが、すぐに止め、前を見た。

 

「……記憶にないわね」

 

 ハナノアカリは『うわん』とひとつ鳴いた。

 だがしかし、頭をひとつ振ると手を差し出す。

 

「いいレースにしようね!」

 

 

「ふぅん、結果を出すだけよ」

 

 

 “お嬢さま”はひらりと服の裾を翻してゲートへ歩いて行った。

 ハナノアカリは肩を落としながらもゲートに向かう。観客席が近いところを通ると、何人かの半纏を着た男たちが居た。

 

「おう、アンタが棟梁の言ってたお嬢か。がんばれヨォ」

 

 彼らはすこし眠たげな目をしながら、ひらひらと気楽に手を振った。仕事道具と思わしき槌やミノを腰によった紐でくくりつけていたから途中で抜けてきたのかもしれない。

 

 ──これはハナノアカリの知らぬ所だが、彼らは棟梁から派遣されてきたものたちだった。彼らの属する組織である檜組が身元を用意し、支援して出られたレース。つまりは後援者の立場になる。それが1人も人を寄越さないとあらば外聞が悪い。そのために仕事を途中で切り上げ連れてこられた者たちだった。

 

 

「……! うん、うん! 見ててね!」

 

 そうとも知らずにハナノアカリはただただ掛けられた声援に頰を綻ばせた。

 

 

 ◆

 

 

『このレースに出走するのは呼ばれたウマ娘たち。故に呼ウマ。彼女らは多くが初戦。いったいどのようなレースが見られるのか、楽しみです』

 

 

 レース場にいくつも設置されたスピーカーからは少しノイズの混じった音が同一に響いてくる。間も無く行われるのは決して大きくはないレース。

 

 当然ながら走るウマ娘にも有名な者はいなかった。

 

 観客席のスタンドで立ってレースを見ていた若者はひとつ欠伸をした。家の手伝いの出前帰り。サボってしまおうとなんとなしにレース場に来た男だった。そんな客ばかりで、熱心なのは一部の未来のスタァを発掘しようとする物好きだけであった。

 

 そんなレース客のどこか空気の詰まったような雰囲気は関係なしに実況は声を一段と高くした。

 

『全ウマ娘収まって……サァ、スタートしました。まずは先頭をいくアカガノ、快速とばかりに飛ばしてゆきます。二番手は、2番手、ヒノアルカ、その後を追ってクラシノと言った位置取りであります』

 

 

 ドッドッと芝を蹴りながら全てのウマ娘が最初の直線を走っていく。東京レース場の一六〇〇(メートル)は一八〇〇米とは違い最初に直線がある。

 

 その後二つのコーナーを曲がったら最後の直線だ。

 だから最初のコーナーでの位置がその後の直線勝負に大きく関わる。

 コーナーで優位を取るために誰もが初っ端の直線から抜けやすい有利な位置を取ろうと神経を削るような勝負を仕掛けていた。

 

 

(うっ……走りずらい……!)

 

 その中でハナノアカリは9人中8番手という位置で眉をギュッと上げ顔を顰めていた。

 一歩一歩での身体の軸が安定しない。

 

 

 それもそのはずであった。ハナノアカリの走りは近代の走りである。

 それが強みであり──最大の弱点でもあった。

 

 

 彼女の走りはきちんと整備された二十一世紀のコースが参考に走りが作られている。

 対してこの時代のコースは技術的な問題によりそれほど整ってはいない。未来より固く、凸凹としている。

 

 一歩踏み込むたびに、他のウマ娘よりも深く地面を踏んでしまい、預ける体重が大きくなり、凸凹に身体を取られフラフラとしてしまう。

 

 

(ぬぅぅ……っ!)

 

 

 つまり、ハナノアカリの走りは根本的に合っていなかった。

 ガタガタの路面を慣れたように進んでいく()()()()のウマ娘たち。対照的に、凸凹に脚を取られ体を揺らすハナノアカリ。

 

 

『先頭は変わらずアカガノ、しかし、上手いッ! 三番手のクラシノが内ラチ沿いの荒れたバ場をすいすいと進んで行きます! 差は半バ身と言ったところ! 間も無く最初のコーナーです!』

 

 

 ハナノアカリは踏み込みが深すぎる。

 路面を信じて、抉りこむほどに踏み込む。だから脚を取られる。

 

 

 本来であればハナノアカリの強烈な踏み込みが、地面に伝わり、大地はそれを押し返す。そして得るは爆発するほどの推進力であり、あり得ないほどの加速を生み出すのだが、この時に限っては違った。

 

 脚に負担を強いる走り方は蹄鉄の付いたシューズを緊張させミチリと音を奏でた。

 

 

「でも……ここからっ!」

 

 

 最終直線。約525メートルの激戦地。

 

 

 ドンッと一歩踏み込んだ。

 

 

 彼女の走りはこの時代に合っていない。

 それは事実だ。他のウマ娘より深い踏み込みは脚を取られやすく、身体をブラし速度に繋がらないどころか失速にもなる。

 

 だから、凹凸すら関係のないほど、深く踏み込んで仕舞えばいい。

 でこぼこなど均す勢いで、地面にアンカーを打ち込む勢いで一歩を突き刺す。

 全てを踏み均す。

 

 そして得た圧倒的安定感で身体を異常なほど前傾にし、風の抵抗を減らし、足の回転数を上げていく。

 

 

 

『アカガノ譲らないっ! クラシノ、ハナ差まで追い縋る、先頭はどっちだ、どっち……猛烈な追い込みッ! ハナノアカリが大外からドンドン上がって来る! なんだ、なんだあの姿勢は!』

 

 

 ミキリと鉄が潰れる音がする。

 一歩一歩ごとに加速を続ける。

 

 ゴールが近づく。視界が開ける。

 

 

 

 

 

『アカガノ先頭、クラシノ僅かに下がって、ハナノアカリが猛追! 先ほどまであった7バ身以上を詰めて詰めて、追い上げてくる!』

 

 

 

 そして目の前に誰もいなくなった時。

 

 

 ひゅんと()()()音がした。

 

 

『だが、だが! このウマ娘を忘れてはいけない! 不気味に隙を窺っていた──名家のお嬢様を忘れてはいけないッ、メジロハルカを忘れてはいけない!』

 

 

 その淡い髪色はハナノアカリのすぐ脇を手品のようにするりと抜けて、抜けて……

 

(……え?)

 

 

『華麗に叩き合いをかわして、インコースを突き抜けて……今っ、ゴールイン!』

 

 

 ハナノアカリ。

 初戦。着順、二着。

 

 

『事前評価はダテじゃありません! 家の血筋は高貴な血筋! 一着は、メジロハルカ!

 

 

 

 ──メジロハルカです!』

 

 

 接戦を大番狂せのように最後にひっくり返してしまったウマ娘に、観客は目を輝かせる。

 勝者を讃える歓声はレース場にこだましていた。

 

 

 

 ◆

 

 

 1着となったウマ娘は地下バ道へ脚を向けていた。

 すでに他のウマ娘は退場している。だからこの道を通るのは1人だけ。カツンカツンと蹄鉄の音が反響する。

 

 地下特有のひんやりとした湿った空気が流れている。

 

 

 

 そっと腕を組むと、微かにカタカタとした感触が帰ってくる。

 なんとか一勝。これでいい。これで役割が果たせる。

 

「このまま勝ち続けて……」

 

 そうやって名を轟かすのだ。

 周囲の期待は痛いほどに分かる。だから自らそうあれと課した。

 だから、このまま。

 

 今日の走りの分析を始める。コーナリングはどうだっか。膨らんではいなかったか。何度も矯正した外にヨレる走りは無かったか。

 

 ぐるぐると思考を回し、考えることの多さに眉を顰め、額に手を当てる。熱くなっている。だが、記憶が確かなうちに反復しなければ。映像では荒くて分からないこともたくさんある。勝つために、考えなくては。

 体のコンディションなど多少は無視して構わない。

 

 直線での仕掛けどころは適切だったか。体力の残量管理は目標通り、最終コーナー前に2割ほど残せたか。最後の末脚は、最後に抜かしたウマ娘は……

 

「2着の名前は……」

 

 そうして頭痛を追い払うように額を軽く叩き、地下バ道を歩いて行った。

 

 

 ◆

 

 

「ははは、凄いですね、あの子」

 

 横にいる銀行の証券を扱う男はそう言って笑った。

 春木は貼り付けたような笑みを浮かべて答える。

 

「ええ、そうでしょう」

 

 場所はレース場から少し出たところ。

 広場から道を入り、空き家となった家と家の間という人気のない場所であった。ここがハナノアカリとの待ち合わせ場所となっていた。

 

 指導員ではない春木ミノルはレース場に関係者として入れないため、このような事態となった。

 

「春木さん、ありゃ、確かに原石だ。私はみましたとも、ええ」

 

 そうして銀行証券の男は洋式の半袖に折ったワイシャツの襟口をパタパタと扇いだ。少し色の薄れた赤色の斜め模様の入ったネクタイが揺れた。

 

「それじゃ、私はこれで」

 

「ハイ、また」

 

 

 そこで男とは別れる。彼は4月の終わりというのに暑そうに手で仰ぎながら革の鞄を持って空き家と空き家のスペースから人気のある方向へと消えていった。

 

 春木は軽く伸びをして青空を見やる。

 

 ──これで融資が通りやすくなった。

 

 そこまで考えたところで、カツカツと蹄鉄が硬い地面を歩く音が近づいてくる。視線をそちらに向けるとレース場の方から既に提携校の制服に着替えたハナノアカリが歩いてきているところだった。

 

 大きな巾着袋を肩から掛けていて、中には先ほどまで走っていた時に使った諸々が入っている。

 

 彼女はいつもの笑みではなく、口元を引き結んでまっすぐ前を見て歩いている。普段と違う様子に春木は“流石に初戦負けは堪えたか”と思考を巡らせた。

 

 そうであっても彼女は相応の走りを示してみせた。悲観することはない。むしろ目標は達成したいる。2着に入ることすら難しい世界なのだ。

 

 そうこう考えている内にハナノアカリは空き家と空き家の間に立っている春木に気がついたようだった。発見が遅れたのは家の影になる位置に潜むように立っていたから。

 

 

 何か慰めの言葉と激励の言葉でも、と春木が口を開き掛けた瞬間。

 

「ぅ……ぅぇ……」

 

 彼女が堪えきれずに口の端を下げて、目元にギュッと力が入った。

 そこまで落ち込んでいたか、と春木はちょっと目を見張る。激情型だからこそ、振れ幅が大きいのか。

 

「ミノルぅ……」

 

 少女は後から後から頬を伝ってくる液体を袖で拭いながら春木──走れるきっかけをくれた人の下へと歩いていった。

 そして2人の距離が日常会話を行う程度まで高くなったあたりで彼女は脚を止めてしゃっくりあげながら報告をした。

 

「ま゛、ま゛げだぁ……」

 

「2着、健闘じゃねぇか」

 

 そうだ。

 9人中の2着。決して悪い順位ではない。

 そこにすらたどり着けない者も居る中で、彼女はやってのけた。

 

「ン? ……おい、ちょっと脚見してみろ」

 

 話しているうちに春木は違和感に気がつき、膝をつきハナノアカリの足元を注視する。正確には履いている靴を。そして理由を見つけた。

 明らかにシューズの高さが()()()()()()()のだ。

 

 最初に彼女が使っていたシューズと蹄鉄はすり減りだらけだったからレース前に変えた。新しい物へと。

 なのにもう、ここまで削れている。たった数回の練習と一度のレースだけで。

 

 

 ──この子は根本的に時代に合っていない。

 

 

 春木は直感した。

 彼女の走り方が要求しうるスペックに周囲が耐えられていない。例えば、地面の整地。整った地面を信じて力の限り脚を振り下ろすやり方は、彼女の走りが、そこがまず整っていることを前提としていることを示している。そういう風にあのフォームは最適化されている。

 

 だがこの凸凹も多いコースで、その走り方をすることは失速と隣合わせの狂気でしか無かった。それを実行する素直さは強みの一つだろうが。

 

「マァ、毎度、シューズを履き潰す勢いでいけ」

 

 春木はそう言いながら外套の内側から偽革の手帳とインクが切れかかった万年筆を取り出し、『特注、手配を』とヨレた手帳に書き込んだ。

 ツテを渡ろう。技術的な指導は出来ないが、俺のできることはできるだけ、と。

 

 そこまで考えて、俺の仕事は指導員じゃねぇ、とかぶりを振った。

 

 春木は脚元から注意を彼女の顔に向けると、勢いこそ弱まったものの、まだしゃっくり上げて温かい液体をぽろぽろと溢している最中であった。

 

「おいおい……。ホラ、落ち着けよ、な? まだ一戦目じゃネェか。次、次がある。そン時勝てばいい」

 

 

 瞬間、雰囲気が変わった。

 彼女は涙を絶えず拭っていた裾を下ろし、茫洋とした眼で前を向いた。

 しばらく隠れていたハナノアカリの顔が現れた。

 

()()?」

 

 彼女は反芻するように言葉を繰り返す。

 次。

 次のレースはあるだろう。まだ走れるのだから。

 

(だけど)

 

 だけど()()()()()は覆らない。

 観客席で見ていたひとの、記憶は巻き戻らない。すでに焼け付いてしまった。

 

 

 息をするのも忘れてハナノアカリは耳をペタリと垂らした。

 体の他の部位は岩になってしまったかのように硬直している。

 

 分かってる。

 

 あのレースに於いて最も華麗だったのは誰か。最も夢を見せる走りをしたのは誰か。ハナノアカリか? 

 

「ちがう」

 

 あの場に於いて、最も劇的で、最も華麗に、最も見るものの心を熱くさせたのは、そう。

 

──だが、だが! このウマ娘を忘れてはいけない! 不気味に隙を窺っていた──名家のお嬢様を忘れてはいけないッ、

 

 

 ハナノアカリの走る理由。

 自身の走りで、誰かに夢を。

 

 ハナノアカリの目覚めた理由。

 走ることで、強い走りを見せることで、誰かに夢を──。

 

 

 

 

「こんなんじゃ……」

 

 

 

──メジロハルカを忘れてはいけない!』

 

 あの時に輝いていたのは、ハナノアカリではない。

 見る人に夢を与えていたのは、決してハナノアカリなんかではない。

 誰もが声をあげて名前を呼んでいたのは、ハナノアカリではない。

 

 視界が歪む。

 観客席を横から見る映像が脳裏に流れ出す。轟音のように響き渡る歓声にはハナノアカリの名前は含まれていない。だれも見ていない。誰も、ハナノアカリを見ていない。

 だれも、ハナノアカリを呼んでいない。

 

 これでは。

 

 

「こんなんじゃあ」

 

 ぎゅっと肺が引き絞られる。

 視界がぼやけて、狭くなって、横隔膜が痙攣する。

 そんな中でも喉は、言いたくない言葉を堰き止められず吐き出した。

 

「こんなんじゃ、わ、ワタシの立場がなくなっちゃう……!」

 

 短い慟哭だった。

 自身の力不足を嘆くのではなく、相手の力量差に悲しむでもない。誰かに夢を見せられなかったことでもなく。ただ、自分の立場が消えることを怖がった、ひどく自己中心的な叫びだった。

 

 

 それでも、心からの本心だった。

 

 

 春木はちょっと驚いて目を瞑った。

 棟梁の老人の前で春木のために啖呵を切った姿からは離れていたから。

 だが同時に深く納得した。

 

 

 ウマ娘は臆病な子も多い。そして、彼女も例外ではなかった。

 

 

 前々から時折感じたこと。

 似ている。迷子になって、泣きそうになっていた妹と。

 

 

 自分の居場所が、自分が仕事だと思った事をなすことで得られると思っている。そこにいるだけじゃ、居場所はないと思っている。そんな妹と似ている。

 

 

 それは、春木には知るよしのない、時間を遡ってやってきた時の迷子の苦悩。

 東京の隅で目覚めた時に感じた、言いようのない心許なさ。

 

 

 ハナノアカリは顔を伏せて、両端から地面に付けて、香箱座りのような、世界と距離を置く姿勢をとった。

 不安定に蓋をしてきた負の感情が、ぜんぶこぼれ出していた。自分でもこんなに脆いとは考えていなかった。たかが一度の敗戦でここまでになるとは。

 

 それは、彼女の意気と時間と、全部をひっくるめた一戦だったから。だが、それに気がつくには彼女はまだ成熟していなかった。

 

 

 

「ワタシは、どこの誰?」

 

 

 ──ハナノアカリというウマ娘は、どこに繋がっているウマ娘なのか。

 

 

 

 

 吐いた言葉がハナノアカリの頭の中をズンと締め付けた。

 呼吸が浅くなる。

 

 生まれは? 

 分からない。

 

 両親は? 

 覚えてない。

 

 何をしてきた? 

 何もない! 

 

 

 目が覚めた時から、見ないように蓋をしてたが、もうダメだ。

 唯一あったアイデンティティの崩壊に際してその蓋は脆く砂のように崩れ去った。

 あったのは、最初から感じていたポッカリとした虚空だけ。

 

 

「わ、……ワタシはッ……ここに生きる人をだれも……し、知らないし、ここの人たちは、誰もワタシを知らない……」

 

 地面に嗚咽するように、硬い砂利が肌を指すのもお構いなしに、彼女はくぐもった声を上げる。

 

「道ゆくあの子には優しいお母さんが手を引いてくれるけど、ワタシには居ないんだ……」

 

 それは、まるで世界が存在を押し潰してくるような感覚だった。

 誰1人も彼女を顧みず、深海の水圧のように潰えていく。

 

「だから……」

 

 だから。

 

「背景がないワタシは、消えたらそれでオシマイなんだ……」

 

 そうして長い述懐の末、ぽつりと最後に光る言葉をこぼした。

 

 

 

 

 

 

 

 どれくらいそうしていたか。

 はぁ、と息を吐く声が聞こえた。

 

 

 そして、ゴツン、と頭を叩かれた。

 

 目を白黒させながら叩かれた頭を抑えて顔を上げると、呆れ顔の春木がすぐそばでしゃがんで目線を合わせていた。

 

 

「ホラ、息吸え」

 

 そして有無を言わさず手のひらを上に上げるジェスチアをする。

 釣られるように、ハナノアカリは肺を膨らませた。

 

「そしたら吐け、口から、ゆっくり」

 

 今度は反対に手のひらを下に下げる動作。

 手慣れた動きだった。何度も何度も、春木が妹にやっていた動きだったから。

 男は目の奥が痛むのを無視して、ただ目の前の寂しがり屋なウマ娘に向き合った。

 

「そんで吐け、吐いちまえ、ぜんぶ」

 

 誰も聞いちゃいないから、と。

 

「みっともなくなんてない、口から言葉にならんモンも含めてぜんぶゲーってしちまえ」

 

 

「あ、ぅ……ぁぁ」

 

 

 

 

 

 

 その後、ハナノアカリは持ち直したが、春木はひとつ息を吐いた。

 今まで上手く隠してた彼女の歪さが、はじめて見えたのだ。

 そんな子に、一度でも助けられた自身のことを顧みて、チッと舌打ちを一つした。

 

(俺は大人で、コイツはガキだ)

 

 

 しかも迷子になった子供である。

 コイツが掲げた“走る理由”とやらもきっとおためごかしだ。空っぽだから、慌てて取り繕ったガワ。それを本人が直感してしまっている。だから崩れやすい。

 

 ──でも、走りは本物だった。走る時の笑顔は本物だった。

 

 春木は、空を見て、緑の葉っぱに変わった木が視界の端に映るのを目を細めて眺めていた。

 

 そもそも、彼女は走ることを求めて、春木はその手立てを用意したに過ぎない。そこで関係は終わりのはずだったのに。なんの因果かまだズルズルと関係は続いている。

 

 厄介なことだ。ハナノアカリを使ってお金を儲けようとする“悪役”である自身の役割じゃねぇ、と嘆息した。

 

 

 

 

 いつか、彼女が気づくまで。

 それは人から与えられるものではなく、自分で得るしかない。

 

 いつか、彼女が納得する日まで。

 きっとこの関係は続くんだろうな、と春木は思った。

 

 

 それは出来るだけ早い方がよかった。

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

もし、どなたかいらっしゃいますか。あ、寮母さんですか。ここに、昨日のレースを走った子は居ませんか。

 

 

 はあ、お名前は? 

 

 

たしか、……たしか、そう。ハナノアカリちゃんだ。

 

 

 ええ、ええ。居ります。しかし、まだ日が昇り切ってもいない早朝ですので寝てるかと

 

 

ああ、いいんです。起こさなくて。寝かせといてあげてください。

 

 

 はい、ご配慮ありがとうございます。

 

 

代わりと言っちゃなんですが。これを渡しておいてくれませんか。彼女か、彼女の専属指導員の方にでも。

 

 

 承りましたが、ハイ。直接会って伝えられないので? もう一刻もすれば起きてくると思いますが。

 

 

いいんです。私も、もう行かなくてはなりませんから。汽車がきてしまいますので。

 

 

 分かりました。どうぞ、立派な役目を果たして下さいましね。……本当によろしいので? 

 

 

ええ、はい。構いません。確かにこういうのは直接に手渡しで、声を掛けていくのがよろしいんでしょうが、ね。わたしは──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしは、確かに美しい景色をみさせていただきましたから。

 

 

 

 

 

 






モチーフとさせて頂いている時代には、まだメジロ冠はおりません。
それだけです。
いつも閲覧、ご感想等、ありがとうございます。
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