昭和にウマれたウマ娘!   作:調味のみりん

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3.春に実る
Ep.8 公転して回帰する


 

 

 

 

 

 彗星という星がある。

 

 太陽系の、はるか彼方。冷たいオールトの雲や、エッジワース・カイパーベルトからやってきて、太陽にその身を灼きながら夜空の中を淡く輝きながら流れていく。

 

 

 そんな星の特徴は、また帰ってくるという点。

 

 全てがそうではないが、いくつかの彗星は何百年という単位の時間をかけて、また太陽まで帰ってくるのだ。

 

 明るい、あかるいその星は、ほうき星とも言う。

 

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

【思い出──とあるウマ娘】

 

 

 

 思い出す記憶は、いつも“色”がくっきり残っていた。

 

 なんて言うと、詩人かな、と思われるくらい迂遠な表現だってことは分かってる。でも、そうなんだ。記憶はいつも、建物とかの輪郭はあやふやになっていくのに、色だけはくっきり、それこそ実物より鮮やかに思い出される。

 

 

 

 パパとママに連れて行ってもらった湖の青さ、肩車の上から見た夕焼けの赤さ。

 そしてターフのみどり。

 

 

 

『ハナノアカリ迫る、ハナノアカリ迫るッ! 先頭までニバ身、一バ身……も無い! 抜けた、抜けた!』

 

 

 はじめて彼女を見たとき。

 

 わたしはレースを休んでいて。

 敵情視察、なんて名目で、走れない鬱憤ばらしにレース場までわざわざ行って。

 

 それで、なんとか確保した最前列で、見ていたスタンドまで淡紅色の風が吹いていたのをよく覚えている。

 

 

「──わぁッ……!」

 

 

 彼女の走りをみたとき。

 

 地面を抉って土を芝ごと持ち上げて、距離を一足ごとに潰していく躍動を覚えている。

 

 頬を伝う汗が向い日の反射を受けて、石英結晶のように見えたことを覚えている。

 

 

『ハナノアカリが抜けて、先頭で、今、ゴールッイン!!』

 

 

 風に靡く、菖蒲の色の髪をみたとき。

 

 あの景色のことを、“綺麗”と呼ぶのだなと知った。

 

 

『一着はハナノアカリっ! 一着はハナノアカリです。目を疑うような加速で全てを抜き去って逆転です!』

 

 

 なんて、なんて綺麗なんだろう。

 無骨な、重たそうなシューズ。

 

 追い込みだから、前からの土に汚れた頬、服。

 

 汗で張り付いた細い前髪。

 

 

 そして、あんな、風になるみたいなスパート。

 

 みんな、見て見て。

 凄いよ、あの子。

 みんな、よく見て。

 

 

 そして、手のひらをギュッと握ってることに気がついて、口がカラカラに乾いてることに気がついて、

 

 

 一緒に走ってみたいな、と思った。

 

 

 

 

【思い出──とあるウマ娘 おわり】

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 それはとっぷり日の暮れたころ。

 一番星が顔を出して数時間は経っていた街中に、光と声が漏れる建物があった。

 

 屋外に掛けられた看板は、太陽光と砂で擦り切れて文字が最早読み取れない。

 それでも人の入りは少しだけあるような、静かな大衆食堂だった。

 

 だが、今日に限っては普段と違うさまざまな人の声と、賑やかな光が道まで線を伸ばしていた。

 

 

 

「それじゃあ、ごほん。ハナノアカリの初勝利を祝しまして」

 

 

 その食堂の中、それも真ん中で、かしこまった格好に僅かに顔を赤ながら春木が宣言をすると、周りを囲っていた面々が見つめ返した。そこには檜組の連中や、金物屋の父娘、そして主賓であるハナノアカリがちょこんと木の椅子に座っている。

 

 

「乾杯!」

 

 ガラス同士がぶつかる音がする。

 すぐさまガヤガヤと喧騒が満ちて、こぢんまりとした食堂内は気温が一度二度上がったように空気が変わった。

 

 

 この日はハナノアカリ、初勝利のお祝いだった。

 

 

 

 

 

3. 春に実る 始

 

 

 ◆

 

 

 

「ねぇ、ミノル。()()、何かわかる?」

 

「ン? どれだよ」

 

 宴も盛り上がり、酒が入っているころ。

 ハナノアカリは、春木の袖を引いて尋ねた。彼は檜組の若い連中と意気投合したのかサイコロを振って遊んでいたようだった。

 

「これ、これだって」

 

()()()()か? なんか乗ってんのか? オイオイ、まだ俺は老眼じゃネェぞ」

 

 やはり見えていないのか。

 ハナノアカリは手のひらに乗った、うんともすんとも言わなくなった携帯を吐息と共に傍に仕舞い込んだ。

 

 あのゼンノロブロイと名乗るウマ娘と電話が繋がったあと。

 すぐに砂嵐が画面に走り、プッツリと通話が切れ、画面は真っ暗になった。操作をしても反応は返らず、結局持って歩き出せばあれほど長かった地下バ道はすぐに出口をむかえた。

 

 ハナノアカリは狐につままれたような心地で春木の元まで帰ったのだった。

 

 そんな春木はグイッと手元の瓶を煽り、天井から下がる電灯に向かって言った。

 

 

「初勝利ができた、つまり、勝てたってことさ! おぉ! 東京優駿が見えてきたぁ!」

 

 ははは、と何処からか笑い声がする。

 檜組の中年の男が笑ったようだ。

 

「まだまだ、大げさだなぁ」

 

 そう言って中年の男が揶揄うように言えば、春木はすでに赤らんだ顔で舞台役者のようにポーズを決めた。

 

「バっか! お前! 小さく畳んだって、何にもならねぇだろ!」

 

 ハナノアカリはなるべく他人のふりを決め込んだ。

 

 

 

 ◆

 

 

 ──2日後。

 

 (よび)ウマ戦()() 左 芝 2000メートル。

 

 出走、5名。

 

 ハナノアカリの第3戦目にあたるレース。

 その日は快晴で、鱗雲が天高く流れていた。

 春木と共にシューズの最終点検を終えたハナノアカリは、がちゃん、がちゃんと音を鳴らしながら地下バ道へと入っていった。

 

 間も無くレースが始まる。

 

「ハナノアカリっ! 負けないわよ!」

 

 

 そんな中。出走前の、地下バ道にて。

 そうやって声をかけてきたウマ娘がいた。黒鹿毛のウェーブした髪をハーフアップにまとめた彼女は、このレースでハナノアカリと共に走るうちの1人だった。

 

「えっ、あ、うん! ワタシも負けないよ!」

 

 ハナノアカリは、ただただまっすぐな瞳に、どう対応していいのか分からず、そんな生返事を返した。しかしそれでも相手は満足したようで、黒鹿毛の少女は、ふふふん、と不敵に笑いながらコースへと出て行った。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 そして、結果。

 

 ハナノアカリ、一着。

 後方追込みからの、スパートでごぼう抜きをして4分の1バ身という着差をつけての勝利であった。

 

 終盤の鬼のような踏み込みと加速に観客は湧き、ゴールした直後はメインレースと見紛うばかりに歓声が上がった。

 

「つぎ、次は……ゼッタイに!」

 

 そんな、レース後の歓声のなか。

 額の汗をぬぐいもせずに、ゴール板を過ぎた辺りで息を整えていたハナノアカリに言い切ってきたのは、レース前に話しかけてきた黒鹿毛のウマ娘だった。

 

 名前は確か──ニイボシ。

 

「うん、ニイボシちゃんも強かった!」

 

 そうハナノアカリが息を整えて言えば、彼女はびっくりしたように目を見開いて後退りをし、

 

「うわーん! 顔を洗って待ってなさい! ハナノアカリ!」

 

 そう言って駆けていってしまった。

 思っていたのと違う反応に、ハナノアカリはきょとんとした顔でそれを見送ることしかできなかった。

 一連の様子を近くで見ていた熟練の芝整備の職員の男は、鈍感なレースの勝者に対して、やれやれと肩をすくめた。

 

 

 ◆

 

 

 

 

 ハナノアカリ2勝目の祝勝会。

 2日前と同じく、大衆食堂にて。

 

 

 

 乾杯! と以前の焼き直しのように音頭が鳴った。

 春木はまた融資の約束を取り付けることが出来たようで、浮かれている。

 何故それをハナノアカリが知っているのかというと、本人が上機嫌に高そうなスーツを着た男と話しているのを聞いたから。

 

 春木はお金を稼ぐことを第一としている。

 そのために、広告塔となるハナノアカリの活躍は嬉しいのだろう。今日も酔っ払ったように瓶を煽って……いるようで、各所に酒を飲ませ接待をしている。

 

 なんとも。素直に楽しめばいいのにな、とハナノアカリは目の前の砂糖の入ったよく分からない飲み物を両手で持って思った。

 

 

「ワハハ! それにしても、嬢ちゃん、よぉ頑張るなぁ! やっぱ、東京優駿競争(大レース)は夢か!」

 

 がた、と音がして、横を見れば檜組(ハナノアカリの身分を用意してくれた材木屋)の中でも老齢の男が顔を赤らめて隣の席にどかりと腰を下ろして聞いた。

 

 

「うん、そりゃ、ね! なんたってワタシの目標は──」

 

 そこまで言って、ハナノアカリは言葉を失った。

 そうして無意識に木の床をちらっと見て、唇をキュッと噛む。老齢の男は興味深そうに“どうした? ”と聞いた。

 

 問われた少女は僅かに喉に小骨が刺さったように、言葉を探し、ちいさく息を吸ってつぶやいた。

 

 

「えっと……ほんとは、さ。そこまで東京優駿に拘ってるワケじゃないんだ」

 

「は? それじゃあ、なぜ」

 

 心底不思議そうに老齢の男は酒の入ったコップを机に置いて聞きの姿勢に入る。

 ハナノアカリという少女が、実は東京優駿競争を目標としていないならなぜ走るのか。後方から追込み一気という精神的にも負担の大きい戦術で勝ちに行っているのか。

 

 

 ──見ろ! また新しい後援者だ! 今度のレースも! 

 

 

 食堂の真ん中近くで胡散臭い笑みを浮かべた男が声を上げた。

 ハナノアカリは自然な動きでその姿をちら、と横目で見て柔らかくフッと僅かに口角を上げた。

 

 ああ、そうか。

 老齢の男はストンと納得した心持ちになった。

 

「──すまねぇな、これを言葉にするなぁ野暮だな」

 

 そう言って男が席を立てば、菖蒲色の少女はきょとんと男を見つめ返した。あんまり彼女自身に自覚は無いのかもしれない。男ははは、と口の中で笑みを転がして檜組の連中の元は戻って行った。

 

 

 ハナノアカリは春木と会った日のことを時々思い出す。

 

(ワタシの走りを信じてくれたなら。夢を見てくれたなら)

 

 

(それは、そんな想像だけでシッポが跳ねるほどに……)

 

 

 

 宴は夜の中、段々と盛り上がりを深くしていった。

 ハナノアカリはぼんやりと照明を見上げていた。

 

 

 ◆

 

 

 

 次のレースは6日後であった。

 

 

 異常なほどハイペースに思われるが、()()()()ではごく一般的な間隔だ。

 

 ハナノアカリの走法は負担が大きい。が、しかし特注のシューズの重量による副次的な効果で、走りの際の(特にスパート)反動を抑えていた。それによって奇跡的にこの間隔でのレース出走を可能としていた。

 

 

『来たわね、ハナノアカリッ!』

 

 地下バ道で待ち構え、ビシッとハナノアカリを指さしたのは黒鹿毛のウマ娘。

 彼女は勝ち気なつり目を大きく開けてハナノアカリと相対した。

 

『あっ、ニイボシちゃん。……来たって……うん、そりゃワタシも出走予定だからね』

 

 フッとハナノアカリが笑うように、当たり前のことを言うように告げれば、ニイボシと呼ばれたウマ娘は顔を赤くして服の端を握り込み

 

『〜〜!! そ、そういう事じゃないでしょう!』

 

 と、声を上げた。

 ハナノアカリが不思議そうに見つめれば、ニイボシは、こほんと一つ咳払いをして目をハナノアカリに合わせた。

 

『勝つわ、わたしが!』

 

 その瞳の輝きは、まるで琥珀のように深く、鮮やかに輝いていた。

 ハナノアカリは無意識のうちに脚をカチャ、カチャとリズムよく鳴らしていた。

 

 ◆

 

 

 

 結果。

 

 ハナノアカリ、一着。

 最後方からの大外一気にて、後続と3バ身差を付けての大勝であった。

 

『お お ぉ ォ!』

 

 スタンドからハナノアカリへ、アプローズが送られる。

 一番手前でレースを見ていた、お調子乗りの小僧がざるから紙吹雪を降らして場はさらに盛り上がる。

 

 観客がスタンドから大声を贈る中、芝の上ではウマ娘たちが荒い息を吐きながらクールダウンをしていた。

 

『……ハナノアカリ』

 

 

 その中で、鈴のようにいっとう響く声は、ハナノアカリにレース前、宣戦布告してきた少女のものだった。

 ハナノアカリが振り返ると、静かな呼吸で見つめ返してくるウマ娘がいる。ハナノアカリは笑った。

 

『あっ、ニイボシちゃん! やった、今回もワタシの勝ち!』

 

 汗で肌に張り付いた髪を気にもせず、ハナノアカリはVサインを黒鹿毛のウマ娘にやってみせた。

 歓声はまだやまない。

 

『うん、負けちゃった』

 

 黒鹿毛のウマ娘は静かに、疲れた表情の中に穏やかさを浮かべて首肯した。

 

 そして、とんとん、とつま先で芝を叩いた。まるでレース前に蹄鉄の調子を確かめるように。

 また、すぐにでも走るかのように。

 

 そして、彼女はハッと何かに気がついてその動作を止めた。

 

 歓声が聞こえる。

 

 ハナノアカリはウンウンと首を振る。

 

 

『次も勝つよ! でも今回は危なかった! だから、また、走ろ──』

 

 

 ニッと走った後の爽快さを滲ませた笑顔で、白い葉を見せながらハナノアカリは笑った。そして再戦の約束を交わすために手を差し出して──空を切った。

 

『最後に、あなたと走れてよかった』

 

 

 

『──、え? ……え?』

 

 

 

 聞き間違い? 

 ハナノアカリは目を大きく見開いて、ぽかんと口を開けて、想定外の言葉の続きを待った。

 

 だが、ニイボシは慌てることなく、逸ることなく、ただ静かな声で言った。

 

『弟が疎開するのに、わたしも付いてくのよ』

 

 

 

 わぁ、といっそう歓声がおおきく膨らむ。

 その中で取り残されたように、2人の周りだけが静かだった。

 世界と透明な壁で隔てられたように、ハナノアカリの耳には周りの声が遠くからくぐもって聞こえるようだった。

 

 

 

『だから、綺麗なあなたと最後に走れてよかった』

 

 

 ニイボシと呼ばれる少女は笑った。

 それはそれは綺麗に、静かに。その様は燃え尽きたマッチのように寂幕としていた。

 

 

『……、っ』

 

 ハナノアカリは言葉が出ない。

 喉が固まったように、動きを止めていた。流れる汗がいやに冷たく思えた。

 

 そんなハナノアカリとは裏腹に、ニイボシは軽い足取りで、てて、とスタンドの方に駆け寄る。そしてターフに程近い位置に居た老齢の男から何かを受け取った。

 

 彼女は少し老齢の男と話したあと、同じようにハナノアカリの元まで戻り、目の前で止まった。そして、ハナノアカリの、たらんと力なく垂らされた片手をそっと取った。

 

『これ、あげるわ』

 

 彼女がぎゅっと、握らせてきたのは──。

 

 

(蹄鉄用のハンマー?)

 

 持ち手の部分は塗装された木でできていて、ヘッドの部分は黒い金属だ。手のひらより少し大きいくらいのソレは、金属部に幾つもの傷があり、持ち手は滑らかにすり減っていた。

 

 

『それじゃ、時間ね』

 

 

 ハナノアカリがハンマーを受け取ったことを認めると、ニイボシはくるりと向きを変えて地下バ道の方へ体を向けた。

 

 

『さよなら、わたしのターフ。さよなら、わたしの青春。さよなら──ハナノアカリ。わたしの憧れ』

 

 

 それだけ言い残して退場していく彼女へ、観客たちはなんの衒いもなく手を伸ばして、健闘した少女へ“お疲れさま”と“がんばった”の声をかけて行く。

 

 彼女に次が無いとも知らずに。

 

 

『また、平和な世界があったら、走りましょうね』

 

 

 こうしてニイボシというウマ娘は引退した。

 大レースを走ることもなく、しかし当の本人はすっきりと笑って。

 

 

 彼女はまるで夜空に浮かび、星のようにひととき瞬いて、コメットのように流れていった。たまたま目撃したひとだけが、その輝きを知っている。そんなウマ娘だった。

 

 

 ◆

 

 

 消灯時間も過ぎたころ。

 

 

 深夜帯の寮の自室にて、ハナノアカリは音を立てぬように、ベッドから起き上がった。ベッドの木材が軋まないように、真ん中を避けて端の方に体重を移動させていく。そして掛け布団を脇に追いやって、ベッドから降りて、裸足でしゃがみ込み、ベッド下に隠してあった下駄を取り出す。

 

 そうして足音を忍ばして、扉まで行き、そっとノブを捻る。

 

 

 キィと僅かに高い音がして、後ろを振り返ってみるが、同部屋のコウマサの布団は規則正しく上下を続けていた。

 

 それを見やって、ハナノアカリは胸を撫で下ろすと廊下へ出る。

 

 

 すでに電気も落とされ、月明かりの照らす木張りの床はキシキシと音を立てながら、それが静寂をいっそうくっきりと形どった。

 

 

 寮の一階の窓をそっと開けて、下駄を外に落とす。そして軽い身のこなしで窓枠に手をかけ、外に踊り出ると虫の鳴き声が夜にこだましていた。

 

 夜半の涼しい空気が先程まで毛布に温められていた身体を包み込む。

 

 

 ハナノアカリは空を見上げる。

 

 静かな空だ。

 

 流れ星ひとつない。

 

 

 ◆

 

 

 

 サク、サクと道をゆく。この時間帯はハナノアカリの知ってる時代よりも人が少なく、夜の街灯も少なく、自然が多かった。

 

 寮から出た大通りを道なりに進み、10分ほど無心に歩いて、河川敷の近くまでやってきた。

 

 時折耳元に虫の飛ぶ音がするが気にしない。

 蛙のクワクワという音が虫の音に追加されて、人気のなさを物語っていた。

 

「よいしょ、……ふぅ、よいしょ」

 

 河川敷に生えている背丈ほどもある長い草を掻き分けて進むと、開けた場所に出る。

 

 そこはバレーコートの半分ほどの大きさの、草の生えてない砂利の広場だった。四方は背の高い傘に囲まれてまず人は来ない。

 

 

 ハナノアカリは少し前に偶然この場所を見つけたのだった。誰にも言ってない、秘密の場所だ。

 

 菖蒲色のウマ娘は月明かりを目印に慣れた動作で、脛ほどの大きさがある石に腰掛けた。それはちょうど座る部分が平らになっていて、まるで公園のオシャレなベンチにも見えた。それにしては少々荒いが。

 

 ハナノアカリはそうして、両手を後ろに突いて、空を仰ぐと、肩の力をフッと抜いた。

 

 

「アハハ、むだん外出だ」

 

 

 誰に訊かせるでもなく、空気を漏らすような言葉は夜の闇に吸い込まれて消えていった。

 

 

 

 

 

 

 ……はずだった。

 

 

 

「まったく、その通りですよ」

 

 

 

「ぎゃあ!?」

 

 

 

 

 思わず所から返ってきた返事に、ハナノアカリはその場を飛び退く。

 シッポを限界までピンと立てて、耳をパッと開いて、変なポーズを取りながら。

 

 

「……まったく、貴女という方は……。初対面でも窓から入ってくるし、家事は放り投げるし、夜間に無断外出はするし……とんだジャジャウマ娘ですね」

 

 

 そこに立っていたのは、腰に手を立てて、呆れた表情のハナノアカリの同部屋のウマ娘、コウマサであった。

 

 鹿毛の彼女は、上は落ち着いた赤色のはんてんを着て、下はしっかりと脚半まで付けていた。

 

「ま、マサちゃん……? なんで」

 

 ハナノアカリが目の前の少女に問う声は震えて、両手はあわあわと空を彷徨う。

 

 その様を見て鹿毛の少女は、ふん、と鼻を軽く鳴らした。

 

「同部屋の様子くらい、見てますよ」

 

「えー……」

 

 

「それにしても、よくこんな場所見つけましたね」

 

 コウマサはハナノアカリの反応など気にも止めずに、マイペースにぐるりと周りを見渡す。その様子にはすこし感心したような、ひらけた空の景色の良さにすこし驚いているようにも見える。

 

 そして先程までハナノアカリが座っていた石を目に止めると、自然な動作でお淑やかに腰掛けた。彼女は一般の家の出だが、そこらへんのマナーや動作は十把一絡げのボンボンよりかは洗練されていた。

 

「……? 座らないんですか、アカリさん。今夜は星がよく見えますよ」

 

「え、いや……でも」

 

 怒ってるんじゃ、というハナノアカリの声は喉で止まった。

 おいでおいで、とコウマサが手招きをしていたから。その手首だけを曲げるやり方がどうにも滑らかで、優しいくらい配慮されたものだったから、ハナノアカリは思わず言葉を飲み込んだ。

 

「うん」

 

 

 

 

 ◆

 

 

「町役場の方角からすると、あっちが南ですね」

 

 コウマサとハナノアカリは手頃なベンチのような石に並んで腰掛けて空を見上げていた。

 彼女がぐるりと首を巡らすと、さら、鹿毛の髪が空気を撫でるように一瞬広がった。

 

 いい匂いだなぁ、い草の香りに甘い花のような香りが混じっていて、初夏の空気みたいだ、とハナノアカリは思った。

 

 

「だから、あれが……デネボラ。よこにアークトゥルス。下に行って真珠星、スピカ。春のおっきな三角形ですね」

 

「うん……きれいだねぇ」

 

 コウマサは指を指揮者の棒に見立てて、すい、すいと暗闇に道筋を描いていく。

 それを横目で追いながら、ハナノアカリはこっくりと頷いた。

 

「本当にそう思ってますか?」

 

「うわっ」

 

 突然コウマサは顔をズイと近づけ、あまりの急さにハナノアカリはのけぞった。

 ジッと目の前を見据える瞳は、緑柱石のような色を湛えていて、月明かりの中、月光をその中に取り込んで燐光のように、光って見えた。

 

 つまりは目から放たれる圧が尋常ではなかった。

 

 

「お、押しが強いよマサちゃん……いつからそんなんなったのさ」

 

「あなたが突飛な行動ばかりするからです」

 

 

 ハナノアカリは手のひらでコウマサの顔を逸らそうとぐぐぐ、と押した。コウマサは特に抵抗もせず、はぁ、と一息吐くとまた正面の草むらを見た。

 

 そして無言の時間になる。

 あたりに響くのは、リーリーと虫の音と蛙の声、時折り風で擦れあう草の音だけ。

 

 

 そうして一分が過ぎたころ。

 

「あの子がね、蹄鉄のハンマーをくれたんだ」

 

 ハナノアカリはポツリと切り出した。

 

「あの子は、今日のレースで一緒に走った子なんだけど、その前から何度か走ってて」

 

 ハナノアカリの言葉は独り言のような響きを伴っていて、ぽそぽそと、誰に訊かせるでもなく、自分に対して言っているようでもあった。

 

「それで、毎回惜しいところまでワタシを追い詰めて、今回こそ危なかったんだ。本当だよ」

 

 コウマサは星を見上げたままだ。

 決して顔をハナノアカリの方へ向けることはなく、しかし耳はしっかり横の彼女へと向いていた。

 鹿毛の少女はただ無言で続きを促した。

 

「でね、すごく、凄いレースだったから、また走ろうって、そう言うつもりだったんだけどな」

 

 だけどな、と。

 つい、と顔を上げると三等星が薄く瞬きをする。

 

「あの子は、諦めちゃった」

 

 ハナノアカリの拳は内側に折り込まれて、微かに震えている。

 コウマサはそれを見て、目尻を悲しげに下げた。

 

 

 

「それで、いいのかな。満足いくまで、走れなかったのかな」

 

 

 はぁ、と吐息を吐きながらコウマサは思う。

 

 この、春の化身のような、朗らかなウマ娘は、明るい性格だ。

 そして、なにより、走るのが速い。強い。走る理由も、走りで誰かに夢を──

 

 でも、それは彼女の外側だ。

 

 

 ハナノアカリは口元をキュッと噛んで遠くを見ている。

 

 

 コウマサは思う。

 このウマ娘は、静かな子なのだ。

 心が。逸れた子供のような目をしている。

 

 

「仕方ありませんね」

 

 

 ぼそりとそう呟く。

 

 今日だけですよ、と呆れ混じりに。

 

 

 

「一緒に夜更かししてあげます」

 

「悪いコだね」

 

 ハナノアカリはくすくすと笑った。

 

 

 ◆

 

 また時間が経つ。

 十分、それより短いかもしれない。

 

「ワタシはさ……」

 

 菖蒲色の少女が躊躇いがちに言葉を選ぶように口を開く。

 

「……いや。いいや。ゴメンね」

 

「あで」

 

 こんなとこまで来て煮え切らない態度にコウマサは少女の額にチャップをかました。

 

「喋ってください。いまは星しか見てませんよ」

 

「……ありがと」

 

 額をさすりながらハナノアカリは言う。

 

 

「ワタシはね、みんなの夢になれるようにって思って走ってたけど、今思い返すと、いっぱい貰ってたんだ。逆だよね」

 

 

 

 ──ハナノアカリっ! 負けないわよ! 

 

 ──つぎ、次は……ゼッタイに! 

 

 ──来たわね、ハナノアカリッ! 

 

(負けないわ!)

 

(もう一度!)

 

 ──()()()に勝ちたい、ハナノアカリ! 

 

 

 

「貰ったんだ、たくさん」

 

 

 菖蒲色の少女は目を閉じて、脳裏に何かを思い浮かべているようだった。その様に、コウマサは、昔に曽祖母のやっていた静かで重さの伴った、真摯なお祈りが思い出された。

 

 ハナノアカリはスッと目を開けて、落とすように言った。

 

 

「だから、なにも返せないのは、やだよ」

 

 

 優しいウマ娘だ、とコウマサは思う。

 人が見落とすような、気が付かないような小さな煌めきを拾って、慈しむことが出来る。なんて事ないものを、この上なく善いものとして扱える。

 

 だから彼女は、だれよりも、強く、速く、繊細で、優しい。

 

 

 

 

「貰ったぶんまで、はしらなくちゃ」

 

 

 

 ──そうか。

 

 黒鹿毛のウマ娘は納得した。ハナノアカリがそうする行動原理に。

 

 あの子の分も、走るんですね。

 

 

 ずっと、ずっと、誰かの期待のために、走るんですね。

 

 

 だからこそ、コウマサは言わなくてはならない事がある。

 それはハナノアカリを否定することになるかもしれないが、それでもこのヤンチャでどうしようもなく繊細な同部屋のことを思えばこそ。

 

 

「アカリさん」

 

 

 これまでずっと合っていなかった目をしっかりと相手に向けて言う。

 真摯に、問うように。

 

 

「それは、あなたが背負わなくてはいけない事ですか?」

 

 

 

 ハナノアカリはひどくびっくりしたような顔をした。

 思いがけないことを叩きつけられたように、目をまん丸に見開いて、口を軽く開いて。

 

 

 

 

 

「──綺麗だったんだ」

 

 

 

 

 そう、目を軽く見開いたままぼんやりと、曖昧なものを少しずつ形にするように。

 

 

「すごく、綺麗だったんだよ。ニイボシちゃんの、まっすぐな目が。ワタシに向けてくれた想いが、最後まで必死な走りが、何度も挑んできてくれる、その有り様が」

 

 

 

「とっても、尊いものにおもえたんだ。暖かくて、手のひらでそっと包んでおきたくなるような、それでも隙間から光が漏れるような」

 

 

 

「きれい、だったんだよ……」

 

 

 

 その走りはもうない。

 こう説明するしかない。

 

 ハナノアカリが伝えるしか、残っていないのだ。それが分かって、ハナノアカリは目の奥がひどくツンと痛んだ。

 

 

「あったんだよ、すてきな走りが。あそこにあったんだ……」

 

 

 喉の方からくぐもった音がして、ハナノアカリはそっとコウマサの袖を掴んだ。抵抗はなかった。

 

 

 

 ぐす、と鼻を鳴らせば、控えめな手つきで髪の毛を優しく梳く手が頭を撫でた。

 

 夜の冷えた風が、2人のウマ娘の並んだシッポをふわりと揺らして去っていった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 ぐす、ぐすと顔を袖に押し付けて、声を押し殺すウマ娘を見る。

 コウマサは頭を撫でる手を止めることはなく、天頂を過ぎた月を見上げた。

 

 

 

 ──人は、アカリさんが走る理由がよくわからないと言う人もいる。

 

 

 彼女は誰かのために走ってる。

 自分の意思など、ほんとは無いみたいに、期待に応えることを第一の信条としている。()()()()()走っている。それは、あの負けたレースの日に見せた姿からもよく分かる。

 

 人は、それを不健全な状態と言うかもしれない。

 

 

 でも、違うと思う。

 

 まだ、途中なのだ。綺麗に羽化する前の成長の途中。

 自分を獲得する旅の途中。

 

 

 いつか、いつか彼女の走りの旅が完結しますように。

 優しさゆえに、脆い心を、すり減らすことが終わりますように。

 

 

 そう願わずにはいられなかった。

 星の瞬く、春の夜のことだった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 彗星という星がある。

 

 太陽系の、はるか彼方。冷たいオールトの雲や、エッジワース・カイパーベルトからやってきて、太陽にその身を灼きながら夜空の中を淡く輝きながら流れていく。

 

 

 そんな星の特徴は、また帰ってくるという点。

 

 全てがそうではないが、いくつかの彗星は何百年という単位の時間をかけて、また太陽まで帰ってくるのだ。

 

 明るい、あかるいその星は、ほうき星とも言う。

 

 

 

 

 帰ってくる。

 また、あの場所に。

 

 ターフに。

 

 時間はたってしまったけれど、踏みしめた芝は、あの時の鮮やかな記憶のままで、鼻の奥がツンと痛くなる。

 コースから見上げるスタンドはあの時の人の入りと変わらなくて、視界がぼやけてしまった。

 変わらないこと。それがどんなに奇跡的なことか、分からないわけではない。決してない。

 

 

 ただ、一つ。

 ひとつだけ、決定的に違ったのは。

 

 そこに、菖蒲色の彼女が居ないこと。

 

 

 わたしは、帰ってきた。

 あなたの守ったターフに。

 

 だから。

 

 

 

 だから、あなたもすぐに帰ってきてね。

 

 

 

 

 

 つぎの桜が咲くころまでに。

 

 

 

 

 

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