恋姫奇譚:北宋編   作:乾燥海藻類

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閑話(四)

武松(ぶしょう)には兄がいた。それほど優れた兄ではなかったが、優しい兄だった。そんな兄を、武松は好いていた。家族としてではなく、ひとりの男として好いていたと気づくのは、月のものが来て、自分が女であることを自覚してからだった。

だが朴訥な武松であっても、兄妹(きょうだい)で結ばれてはいけないということは知っていた。そんな煩悶な日々を送っていた頃、兄の結婚を知らされた。

それは言外の拒絶だと、武松は理解した。そして、押し殺していた気持ちを、すでに知られていたことが恥ずかしくなった。

 

武松は家を出た。独り立ちには少し早い歳だったが、新婚の家にいることに耐えられる気がしなかったのだ。

とにかく、暴れたい気分だった。とはいえ、人間相手に大暴れすれば、役人が飛んでくるだろう。武松が軽く小突いた程度で、人は容易く死んでしまうのだ。

人食い虎の噂を聞いたのは、そんな時だった。武松は単身で山に乗り込んで、虎を撲殺した。八つ当たりに近かった。

それから武松は、商隊の護衛や、要人の警護などで路銀を稼ぎながら旅を続けた。容姿で断られることもあったが、力を見せれば納得してもらえた。

 

武松が梁山泊を訪れたのは、大層な志があったからではない。ましてや、賊退治というわけでもなかった。この梁山泊が、強者の集まる場所だと聞いたからだった。

武松は強かった。長く旅をしているが、負けたことはなかった。相手の得物が剣であろうと槍であろうと、武松は拳ひとつで打ち倒してきた。

 

最初の相手は、史進という棒使いだった。対峙しただけで、この女がただ者ではないことを、武松は看破した。あの時の虎ですら、これほどの圧はなかった。向かい合っているだけで、汗が噴き出してくる。

それは史進も同じだった。目の前の相手から、尋常ではない気を感じていた。

 

ただ時間だけが過ぎていく。ふたりは、少しずつ移動していた。史進は、脳内で何度も打ち込んでいたのだ。しかし、武松の拳に阻まれている。そういう読み合いを、ふたりは繰り広げていたのだ。

小鳥の飛び立つ羽音が聞こえた。史進が、踏み込んだ。武松も、飛び込んだ。

交錯するふたりの間で、ひとつの音が弾けた。史進の棒が、半ばから砕かれていたのだ。

 

「それまで」

「首領! 私はまだ――」

 

史進の言葉を、立会人の男は右手で制した。

 

「言いたいことはわかる。鉄の棒、あるいは槍ならば、結果は変わっていたのかもしれん。しかしこれは試合であり、おまえはその棒で立ち合うことに了承したのだ。後から文句を言うのは、よくない」

 

理路整然とした物言いだった。その隣では、もうひとりの立会人がくつくつと笑っている。赤い髪の女だった。虎よりも虎らしい、獰猛な気配を感じた。

おそらく、この史進という女よりも強い。武松はそう感じた。

 

「よーし、次はオレが相手……」

「いや、俺がやろう」

 

言葉を遮られて、晁蓋は口を開けたまま王倫を睨みつけた。王倫は肩をすくめて、続ける。

 

「おまえは熱くなりすぎる。万が一が、起こりかねん」

「死んだからって文句は言わない」

「そりゃ、死んだら文句も言えねぇけどよ」

 

と、晁蓋は当たり前のことを言った。たしかにそうだ、と武松は苦笑した。

王倫が武松の正面に歩いていく。晁蓋は不満気な顔で身体を木の幹に預けた。

 

「ホントに、あんたがやるのか?」

「ああ、よろしく」

 

その男は、どう見ても強そうには見えなかった。こうして向かい合っていても、大した圧は感じない。あの晁蓋という女の方が、よほど強そうだと武松は思った。

晁蓋が開始の合図を告げると、その男は無造作に一歩踏み出した。

 

「うおぁ!?」

 

武松は驚愕して後方に跳び退った。

 

(な、なんだいまのっ!?)

 

一歩目は見えていた。だが二歩目が見えなかった。いや、二歩目を踏み出したと思った時、すでに目の前に拳があったのだ。

 

「反応速度は、悪くないな」

 

見かけ通りの優男じゃない。あの一瞬で、武松の額には汗の粒が浮かび上がっていた。強さが測れない。それは武松の人生で初めてのことだった。

 

(考えてみりゃ、荒くれどもの首領なんだ。ただ者じゃないのは当たり前じゃないか!)

 

意を決して、武松は攻撃に転じた。武松の強さは、生来の頑強さと膂力だった。誰かに武術を習ったわけではない。我流で覚えた動きは、獣の動きに近かった。

 

(なんで、当たらないんだ!?)

 

武松は天性の感覚で、相手の動きを先読みしている。だが、相手はこちらが読んでいるのを読んでいるような動きで、躱し、捌き、攻撃をいなしていた。

 

「速いな。速筋繊維の異常発達……ヒュペリオン体質か? 面白い」

「わけの、わからないことをっ!」

 

王倫には余裕があった。それがまた、武松を苛立たせた。

 

(ありゃあ、完全に嵌ってんな)

 

晁蓋は口角を上げて、戦いを見つめていた。

武松は、強い。だからこそ、考えるよりも先に身体が動く。それは、獣の動きだ。王倫は武松が反応する絶妙の隙を、わざと作っていたのだ。

そんな攻防がしばらく続き、焦れた武松がついに決めの一手を繰り出す。

 

「これで、どうだっ!!」

 

武松が三人に増えた。しかし、それを見て取った王倫も、三人に増えた。

 

「んなっ!?」

 

驚愕する武松の身体に、三つの拳が突き立った。

 

「速さでかく乱するのは、気を読める相手にはほとんど意味がないぞ。このあたりは、戦闘経験の差が出たな」

「な、なんで分身が殴れるんだよっ!」

 

かろうじて踏みとどまりながら、武松は王倫を睨みつけた。だが身体はふらつき、視界は揺れていた。

 

「おまえの分身は、ただ高速で動いているだけだ。そこに気を乗せることで、真の分身となる」

「……なんだよ、そりゃ。でたらめだな。くっ、くははっ!」

 

わけもわからず可笑しくなって、武松は笑った。負けたのは初めてだった。負ける時は、死ぬ時だと思っていた。だが自分は生きている。

 

「ははっ……」

 

笑いが渇いたものに変わる。

 

「強さは力じゃない。生きる意志だ。おまえ、戦いながら、死んでもいいと思っていただろう?」

 

王倫の言葉に、武松はハッとなった。

 

「死を覚悟することと、死に急ぐことは違う。おまえの過去に、なにがあったかは知らん。ただおまえが、逃げていることはわかる」

 

(そうだ。あたしは、兄さんから、故郷から、逃げてきたんだ)

 

「強さとは、己の弱さと向き合うこと。強さとは、己の弱さを受け入れること。強さとは、己の弱さを(かて)とすること」

 

(あたしは受け入れられなかった。兄さんに受け入れられなかったことを、受け入れられなかった)

 

「人間として強くなれ、武松」

 

(兄さんに、会いに行こう。結婚おめでとうって、ちゃんと言おう。その時、あたしは前に進めるような気がする)

 

武松の瞳から、涙がこぼれた。

 

「あたしの、負けです」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

劉唐(りゅうとう)は木に(もた)れて目を閉じていた。気を探ることで、武松の戦いを観ていたのだ。

腕試しにくる人間は、それほど珍しくはない。賊や無頼漢の中で、梁山泊の名はそれなりに知れ渡っていたのだ。そういう人間がやってきた時は、手の空いている誰かが相手をすることになっている。

大抵は晁蓋がやりたがるが、最近はハズレが続いたせいか、ほかに回すことも多くなった。そして今回は、なぜか王倫が乗り気だった。

 

(武松……名が通っているわけでもなさそうだが……)

 

少なくとも、劉唐は聞いたことがなかった。昔、腕試しに国中を回っていた。山賊や役人を相手にしたこともある。腐った役人を叩きのめしたことは数知れない。

その道中で公孫勝に会い、十万貫の賄賂を強奪するという大仕事をやった。あれは劉唐の人生の中でも、一番痛快な出来事だった。

 

(今回は当たりだったみたいだな。私も立ち会ってみたかったが……)

 

劉唐も、腕っぷしには自信があった。しかし、この梁山泊には自分よりも強い人間が何人もいた。それは悔しさよりも喜びの方が大きかった。

まだ上があるということが、実感できたからだ。特に晁蓋との手合わせは、劉唐の心を震わせた。

全身から汗が噴き出すような、気力のぶつかり合いだった。あれほど気持ちの良いぶつかり合いは、初めてだった。言い訳のしようもないほどの、力負けだった。

 

それからまた修行の旅に出て、風の噂で梁山泊の首領が死んだと聞いて戻ってきたのだ。そしたら、首領は王倫のままだったが、別人になっていた。

梁山泊の様相も変わっていた。劉唐はそれが面白く、なんとなくそのまま居ついてしまった。

 

しばらくして、晁蓋の愚痴を聞いた。王倫に、また負けたと言うのだ。劉唐は驚いた。晁蓋よりも強い人間がいたのかと。てっきり王倫は、統率力とか人望とか、そういう理由で首領に就いたのだと思っていた。先代がそうであったように。

 

俄然興味が湧いた劉唐は、王倫に手合わせを頼んだ。晁蓋が勝てない相手に、自分が勝てるとは思わなかったが、どういう戦い方をするのかに興味があった。

結論から言えば、なにもわからなかった。

晁蓋との手合わせは、気力のぶつかり合いだったが、王倫は受け流すだけだった。汗が噴き出すような闘気も、ぞっとするような殺気もない。

かといって、その辺にいるチンピラのような気配とも違う。なにか、名状しがたい気配に包まれていた。そして気づけば、地面に転がされていた。

 

どうやら、攻めかかったのは自分で、反撃でやられたらしい。何度やっても同じだった。自分が打っているはずなのに、気づけば打たれている。

そして、倒されている。

 

(たぶん武松(あいつ)も、同じなんだろうなぁ)

 

攻めているのではなく、攻めさせられている。気づくには、ずいぶんと時がかかった。気の読み方は、目を(みは)るものがあると言われた。実際、こうして離れた位置からでも、戦いを観察できる。それまでは、ただ感じやすいとしか思わなかったが、指摘されてからはいっそう気の流れを感じられるようになった。

 

元々、劉唐は気に敏感だった。それ以上に、劉唐には持って生まれた特異能力があった。それは、人の感情が色として見えることだった。子どもの頃は、自分だけが特別なのではなく、みんなそうだと思っていた。しかし、それが見えるのは自分だけで、子どもの頃は嘘つき呼ばわりされたこともあった。

そしていつからか、誰にもこの能力のことは話さなくなった。とはいえ、戦いにおいてこの能力は役に立った。相手は強気なのか、弱気なのか。興奮して冷静さを欠いているのか、そう見せているだけのふりなのか。

 

戦いの最中、首領の色はほとんど変化していなかった。だから惑わされたというのもある。手合わせの後、なぜか劉唐は、自分の能力を語ってみたくなった。首領がどんな反応をするか、気になったのだ。一笑に付されるならば、それでもいいと思っていた。

だが、反応は予想外だった。首領はこの能力のことを、共感覚だと言った。劉唐は初めて自分の能力を理解してくれる人物と出会った。

 

文字や音に色を感じたり、味や匂いに形を感じたり、言葉に味を感じたりと、ひとつの刺激に対して、通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚も自動的に生じる知覚現象をいう、と首領は語った。

感情に色を感じる、というのも、そのひとつだと。

自分の不可解な能力が、理路整然と説明されるのは不思議な気分だった。

 

――感受性が、強すぎるのだな。他人(ひと)のことを、自分のことのように感じてしまう。しかしそれは、人の幸せを、自分の幸せだと喜べる。人の不幸を、自分の不幸だと悲しめる、とも言えるな。それは素晴らしいことだと、俺は思うぞ

 

そう言われて、劉唐はなんとなく気恥ずかしくなった。

 

(首領は、国を正すつもりだ)

 

それは間違いない。だが詳しいことはわからなかった。説明をしないということは、まだ知らない方がいいということだろう、と劉唐は思っていた。

今も鍛錬は続けている。部下もできた。厳しい調練も行っている。

戦う時は、必ず来ると信じて。

 

(早く戦いたいな)

 

祝家荘との戦いは防衛戦だった。活躍したのは主に水軍で、劉唐の出番はほとんどなかった。泳げないわけではないが、水軍を率いている阮三姉妹ほど華麗に泳げるわけではない。

それに、戦うならやはり役人と、官軍と戦いたいと思った。

腐った役人をぶっ殺したい。そう思っているのは、劉唐だけではなかった。役人に泣かされてきた者は、劉唐の部下にも大勢いた。

 

公孫勝は、民のために宋を倒すという、熱い想いを抱いていた。その公孫勝は、任務で梁山泊を離れている。もう長い間、会っていない。不思議と、心配はしていなかった。殺しても死なないような、ふてぶてしさを持っていたからだ。

劉唐には、国を倒すということは、よくわからなかった。だが、わかることもある。不正を働く役人が嫌いだった。横暴な軍人が嫌いだった。そういうやつらがいなくなれば、国は良くなるだろうと思った。

そのために、戦う。その時のために、鍛錬を続けているのだ。

 

 

 

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