恋姫奇譚:北宋編   作:乾燥海藻類

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閑話(六)

その報告を聞いて、高俅(こうきゅう)は絶句した。

怒りを通り越して、脳がその報告を受け付けなかったのだ。

しばらくして、ようやく高俅は口を開いた。

 

「もう一度、言え」

「全滅です」

 

部下は、言った。高俅は拳を卓に叩きつけた。

 

「五万だ! 五万の軍勢だぞっ! そ、それが……全滅したと言うのか!」

 

口角から泡を飛ばしながら、高俅は喚くように叫んだ。

禁軍は八十万の兵と号しているが、その実態は二十万が精々だった。そのうち四万は童貫の兵で、今は遼征伐に出向いている。つまり高俅が自由にできる兵は一六万であり、その中から五万を投入したのだ。

それが全滅したのである。

 

「虚報ではないのか?」

「いえ、全滅です」

何人(なんにん)が帰還したのだ?」

「ですから、全滅です」

 

今度こそ高俅は呆気に取られた。軍事における全滅とは、兵の三割を失った状態を意味する。しかし部下は、文字通りの全滅といったのだ。全て、滅した、と。

 

「そんな馬鹿な話があるかっ!! 五倍だぞ五倍っ! 五倍の兵がいたのだっ! それが、全滅っ!? ただの一戦でかっ!?」

 

声を荒げて、再び卓を殴りつける。部下は慣れているようで、驚きもしない。敵兵は一万との報告を受けていた。高俅は五倍の兵で圧殺しようとしたのだ。

孫子の兵法にも、味方の兵力が敵に十倍するなら包囲し、五倍ならば攻撃し、とある。高俅は愚直にそれを実行しただけなのだ。

だがほとんど実戦経験のない高俅は、机上でしか戦を知らなかった。その結果が、全滅である。

 

「観測員からの報告では、敵の首魁が先陣を切って吶喊(とっかん)したようです。敵の士気は天にも昇る勢いで、我が軍は開戦より押され気味でした。瞬く間に李将軍が討たれ、総崩れになりました。逃げ出した兵も多いと聞いています」

 

観測員とは、直接の戦闘には参加せず、離れた位置から戦闘を記録する者たちである。逃亡兵は敵兵の苛烈さを目の当たりにし、未だ帰還には至っていない。軍を去った者がほとんどだった。

惨敗した上に物資もあらかた奪い取られたのだ。大失態である。

 

「もうしばらくすれば、戦場から逃げ延びた兵が帰ってくるかもしれませんが、百にも満たないでしょう」

 

戦場の放棄は、官軍では死罪だった。しかし、命令を発する将軍が討たれたことで指揮系統は混乱していた。減刑を期待して戻ってくる兵がいる可能性はあった。

 

「……嬉しそうだな」

「いえ、そんなことは、決して」

 

自分が嫌われているという自覚はあるらしい。だがこれは高俅の八つ当たりだった。

部下は終始感情を交えず、報告に徹していたのだ。しかしそれが、高俅の癇に障ったらしい。卓上の椀を部下に投げつける。部下はよけもせず、甘んじてそれを受けた。避けたら避けたで、また機嫌を損ねるとわかっていたからだ。

額から赤い筋が流れた。

 

「下がれ!」

「はっ!」

 

部下が退室した後、高俅は頭を抱えた。

 

「蔡太師になんと報告すればよいのだ」

 

ひとしきり悩んだ後、高俅に名案が浮かんだ。

 

「そうか。なにも馬鹿正直に報告することはないのだ」

 

高俅は嬉々として細工を始めた。その扉の向こうでは、部下が必死で笑みを堪えていることも知らずに。

 

(さすがは、林冲の見込んだ男だな。これで禁軍の士気は底まで落ちた。あとは、市民感情を操作し、帝の耳にも届くようにすれば、開封は落ちるな)

 

開封の市民たちも、役人の横暴ぶりには辟易していたのだ。

 

(林冲……あの時、俺はおまえに何もしてやれなかった。だからおまえが、俺を頼ってきてくれたのは、本当に嬉しかった。まだ友だと思っていてくれたことが、嬉しかったのだ。あんな下種に仕えてきたのは、この時のためだったのだな)

 

陸謙(りくけん)の目には、薄く涙が浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「駄目だな、あの男は。無能だとは承知していたが、まさかここまでとはな」

 

高俅からの報告書を読み終えた蔡京(さいけい)は吐き捨てるように言った。大手を振って出撃した五万の兵が、ひとりも帰ってきていないのだ。噂はあっという間に広がっていた。

 

「やはり、噂を広めている者がいるな。しかし、この流れはまずい」

 

卓上の地図に目を落とす。蔡京の耳には、江南の地でも反乱が起きたという報告が届いていた。その勢いはすさまじく、すでに四州が反乱軍の手に落ちたとのことだ。

 

(この示し合わせたような動きは、間違いなく繋がっている。だとすれば、勝てんな)

 

童貫率いる禁軍四万と、地方軍二十万、合わせて二十四万は、遼攻撃のために北上していた。これは金国と共闘して遼を攻めるという軍事同盟であり、引き返させることはできない。

無理矢理引き返させ、鎮圧に成功したとしても、外交の意味では失敗である。しかも、金国の印象は最悪になる。

 

(反乱を無事鎮圧できたとしても、国は疲弊する。それを見逃すほど金国は甘くない。最悪の場合は、遼を取り込んで宋に攻め込んでくるやもしれぬ)

 

地図上に碁石を並べ、今後を考える。遼への攻勢のため、物資のほとんどは北に集積されていた。今の開封は、常にあるような物資の量をかなり下回っている。

 

(……詰み、だな。この反乱は周到に計画されたものだ。この流れは覆らん。童貫には、最低でも遼を獲ってもらうか。その上で、金国と盟約を結べば、最悪はなくなるだろう)

 

蔡京にとっての最悪とは、童貫の軍が反乱軍の鎮圧で疲弊し、その隙に金国に攻め込まれることだった。反乱軍は、なんといっても同国民だ。それほどひどいことにはならないだろう。だが金軍は、容赦なくこの国を蹂躙する。

それは、自分にまで届くかもしれない。

 

(内応の可能性も、考えねばならん)

 

開封の役人の腐敗は、地方の比ではない。民衆の鬱憤が爆発する可能性もある。いや、自分が反乱軍ならば、爆発させるだろう。

 

(そうでなくとも、官軍は民衆に嫌われているのだ。反乱軍を呼び込もうとする連中がいてもおかしくはない。言ってみれば、市内に敵を抱えているようなものだな)

 

そうなれば、内から門を開けられ、反乱軍はなだれ込んでくる。

反乱軍の整然さはこの開封まで届いていた。決して略奪はせず、民衆は反乱軍を支持した。地方の役所が襲われているとの報告も上がっている。これが計画されてたものか、それとも伝播したものかはわからない。

だがこの流れは止めようがない、と蔡京は理解した。

 

(宮廷の財など、全て奪われてもかまわんが、わしの財だけは護らねばならん)

 

そう悟った蔡京の行動は早かった。機を逃さない俊敏さが、蔡京にはあったのだ。

蔡京の財は、この国で随一と言ってもいい。生辰綱の十万貫など、蔡京にとってははした金のようなものだった。

すでに老齢の域にあった蔡京は、すでに蓄財ではなく、余生でどう金を使うかの方に悩んでいたのだ。家族に残す、などという考えは蔡京にはない。

その権勢にも陰りが見え始め、蔡京は退き際を考えていた頃合いでもあった。

 

(しかしこのまま退くのも面白くない。最後に嫌がらせくらいはやっておくか)

 

卓の一番下の引き出しに視線を向ける。そこからは、得体のしれない、禍々しい気配が漂っていた。

それからしばらくして、反乱軍が開封を包囲した。全ての陸路、航路を封鎖され、開封は孤立した。

開封には六十万を超える人間が生活している。食糧の供給を止められれば、飢えるのは時間の問題だった。

 

開封を包囲した後、反乱軍は降伏勧告を行った。宮廷では議論が交わされ、その中心になっているのは、新たに宰相となった王黼(おうほ)という男だった。

蔡京は高齢ということもあって、宰相という地位にはあったが、宮廷に顔を出すのは五日に一度ほどになっていた。

議論の結果が出たと聞いて、蔡京は久方ぶりに出仕した。

 

楊戩(ようせん)将軍」

 

呼び止められ、楊戩は振り返った。

 

「これは、蔡太子。今日は、出仕されたのですね」

「使者を務めるそうですな。帝は、反徒の条件を受け入れたのですかな?」

「まさか。時を稼ぐのですよ。百万の軍勢などと(うそぶ)いておりますが、それほどの数はおりますまい。開封は落ちませんよ」

 

笑みを浮かべる楊戩につられて、蔡京も嗤った。それは、冷笑だった。だが楊戩はまるで気づいていなかった。

 

「高俅将軍の様子は、どうかな」

「さて、今度は自ら指揮を執るつもりのようですが」

 

それが本当なら、必敗であろうな、と蔡京は思った。とはいえ、ほかの将軍も高俅と大差はなかった。有能な将軍は、あらかた高俅が追放してしまったのだ。目の前の楊戩も、将軍としては凡庸である。

いま禁軍に残っている将軍は、高俅に媚びへつらう者ばかりであった。

 

(宿元景は数少ないまともな将軍だが、騎馬隊を率いて野戦をするのが本領だ。守りには向くまい)

 

そこまで考えて、蔡京は思い直した。この状況で、高俅が戦うことなど選ぶだろうか。

 

(高俅は、和睦に動いているな。時を稼ぎ、一戦交えて、今度は自分が使者になるつもりだろう)

 

そうして、和睦をまとめたことを自分の功績にするつもりだ、というのが蔡京の読みだった。

 

(だが甘いな。反徒にとって、帝の退位は譲れないところであろう。しかも、あの男に戦の押し引きがわかるとは思えぬ。下手をすれば、一戦で開封は落ちるな。やはり、予定通りに進めるか)

 

高俅が権威を誇っていられるのは、帝が徽宗であるからだ。徽宗が退位することは、高俅にとって失脚することに等しい。高俅はなんとかそれを避けようとしているのだ。

 

「楊戩将軍。出立の前に、少しよろしいかな」

「それは、構いませんが」

「ひとつ、秘策を授けましょう」

 

そう言って、蔡京は嗤った。

 

 

 

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