(さすがにそれは、大げさであろうが……)
報告とは、多少多めに見積もることが常となっていた。敵の兵数を少なく見積もって敗北するよりも、余力をもって当たる方が良いからだ。
百万、という数を心中で反復し、童貫は唸った。
燕雲十六州の奪還は、宋王朝累代の悲願だった。童貫はその勅命を受けているのだ。
(……引き返すべきか)
帰還せよ、という勅命は出ていない。あるいは、勅使を出せるような状態ではないのかもしれないが。
逡巡の後、童貫は鈴を鳴らした。間を置かず、従者のひとりが入ってくる。
「四将軍を呼べ」
「はっ!」
しばらくして、四人の男女が現れた。
老いてから、童貫は部下に意見を求めることが多くなった。若い頃は、すべて自分で決めていた。今でも、決めるのは自分であった。
これが、老いるということなのか、と自嘲したこともあった。
「開封府が、百万の反徒に包囲された」
正直なところ、百万という軍勢がどれほどの規模なのか、童貫には想像できなかった。禁軍は八十万と号しているが、実際には八十万などほど遠い数であった。
みな一様に驚いているようだが、呼延灼の反応だけが、少し違っていることに、童貫は気づいた。
「なにか、知っているのか。呼延灼」
反徒と通じているなどとは、思っていない。それでも、ほかの三人とは違った反応を見せた呼延灼が、童貫は気になった。
「まず、確実ではない情報を報告するか、迷ったと申し上げます」
「そうだな」
そういう実直なところを、童貫は嫌いではなかった。
「反徒を率いているのが誰か、総帥はご存じでしょうか」
「ふむ。百万という数が、よほど衝撃だったのであろうな。そこまでは、気が回らなかったようだ。旗は何本かあったらしいが、ひと際目立っていたのは、『替天行道』とのことだ」
旗には、大抵一文字が記される。四文字も記されているというのは、珍しいことであった。それを聞いて、鄷美は失笑を漏らした。
「天に替わって道を行うとは、大きく出たものですな」
「ですが、この機をうかがっていたのならば、相当な策士であると思います」
答えたのは、関勝だった。かねてより、江南の苛政については、童貫も反乱の気配を感じていた。そのために、遠征軍は地方軍を中心に構成し、禁軍からは麾下の兵しか出兵させなかったのだ。
しかし童貫をもってしても、百万の軍勢というのは、予想できなかった。
「反徒の首魁は、梁山泊の王倫であると思います」
「梁山泊……たしか、おまえには一度出動がかかっていたな。蔡太子の指示だったか。被害はほとんどなかったと聞いているが」
「はい。人的被害という意味では、そうです。ですが、私の失策で、撤退を余儀なくされました」
「詳しく話せ」
童貫に促され、呼延灼は詳細を語った。蔡京に上げた報告とは違い、真実をありのまま語った。童貫は興味深そうに、呼延灼の話を聞いていた。
「楊志か。懐かしい名を聞いた」
いつか、禁軍に引き抜こうと考えていた豪傑である。女ではあるが、そこらの男よりもずっと見どころがあった。家柄も申し分ない。出奔したとは聞いていたが、賄賂の護衛をさせられていたことは、いま初めて知った。
「憂国の士……か」
楊志が口にしたという言葉を、童貫は静かに吐き出した。そんな気持ちが、自分にもないわけではない。しかし、戦とともに生きてきた自分には、どうしようもないという諦念もあった。
「王倫は、国を亡ぼすつもりはない、と言ったのだな」
「はい」
「おまえはそれを信じたのか。賊徒の、戯れ言を」
口をはさんできたのは、畢勝だった。その顔には、呆れの色が浮かんでいた。
「北の集積所は襲われてはいません。兵站線は、すべて正常に機能しております。戦闘は、問題なく継続できます」
「おまえは……」
声を荒げようとした畢勝を、童貫は手で制した。
「国を亡ぼすつもりがない、というのならば、帝の交代か」
帝の浪費が、苛政の原因になっていることは明らかだった。帝が変われば、世の仕組みも変わる。宋の六代皇帝、神宗の時代、政治的な対立はあったが、世は比較的安定していた。
童貫にとって重要なのは、帝という存在であって、帝が誰であるかは大した問題ではなかった。とはいえ、反徒が建てた王朝に膝を折るつもりもなかったが。
「……勅命は、燕雲十六州の奪還である。作戦はこのまま続行する。各自、任務に戻れ」
「反徒の言葉を信じるのですか?」
「違うな、畢勝。呼延灼の目を、信じるのだ。しかし、その王倫なる者が言葉を
「私の首をお打ちください」
一瞬の迷いもなく、呼延灼は童貫の目を真っ直ぐに見据えて、言った。
「そうではない。その時、我らは開封奪還のために兵を向ける。おまえが、先陣を切って戦うのだ」
「かしこまりました。その時は、必ずや王倫の首を獲ります」
「うむ。では全員、持ち場に戻れ」
四人を退出させて、童貫はふっと息を吐いた。そして、考える。王倫という名前に、聞き覚えがあった。記憶力まで老いたと認めたくなく、必死で思考を巡らせる。
「思い出した。一時期、蔡太子の補佐をしていた女の名だ」
昔、女が科挙を通ったという噂を耳にしたことを思い出した。軍務とは関係のないことなので、童貫はすぐに忘れた。それでも、蔡京と飲み交わしたときに、話題に上がったことがあったのだ。それきり、耳にすることはなかった。それで、失脚したのだと思っていた。宮廷では、珍しくもないことだった。
「元役人の女か。国を亡ぼすのではなく、生まれ変わらせる、といったところか。志の高さが、蔡太子に嫌われたか」
蔡京は、政治家としての能力は高いが、高い政治思想を持っているわけではない。自分の敵になりそうな者を排除していることは、童貫も気づいていた。
それを、醜いとは思わなかった。自分が戦に憑かれているように、蔡京は銭に憑かれているのだと思った。宰相という地位も、銭を集めるための手段でしかないだろうことにも気づいていた。
「蔡太子も、老いたな。有能な者を、使おうとするのではなく、排除することに腐心している。いや、老いたのは、私も同じか」
昔のように、剣を振れなくなった。歳は六十を超えている。退役しても良い歳だった。それでも、禁軍の総帥であり続けている。これまで、戦とともに生きてきたのだ。死ぬときは、戦場で死にたいと思っていた。
宦官としてではなく、軍人として死にたかった。
しかし、死を望んでいるわけではない。戦場では、生にしがみつく者ほど死に、死を覚悟した者ほど生き残る。そういう不可思議な力が、戦場では働いている、と童貫は思うようになった。
それが、人の持つ運の強弱であり、運命ともいえるかもしれない、と。
そして、自分が死んでも、畢勝や鄷美がいる。若い者も育ってきている。呼延灼や関勝のように、女が戦場に立つことも認めた。
儒教的価値観に支配された者たちの中には、いまだに女性の社会進出を非難する者も一定数いるが、童貫は戦場で性別を語るようなことはしなかった。
「新しい時代が、来ているのかもしれんな」
呟き、外を眺める。開封に比べて、北の景色は寒々しかった。しかし、この肌がひりつくような空気が、童貫にとっては日常だった。