恋姫奇譚:北宋編   作:乾燥海藻類

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閑話(八)

馬車は南西に向かって走っている。

その内の一台に、蔡京はいた。その脇には、若い女がふたりいる。いるのはその三人だけで、ほかは多少の手荷物があるくらいである。財物はほかの馬車に積まれていた。

 

(まさか討滅するとはな。あの王倫という男、得体が知れん)

 

蔡京のもとには、全国から名品・珍品が、賄賂として献上されてきた。その中には、怪しげなものもあった。蔡京が使ったのは、気を暴走させるという呪符である。

気が暴走した人間は理性を失い化け物となるが、十万の兵にも匹敵する力を得られる、というものだった。

試しに使おうにも、呪符は一枚しかなかったし、蔡京自身も眉唾物だと思っていた。

 

(たしかに化け物には成った。だが十万の兵というのは、大げさだったな)

 

本来ならば、気の暴走した人間は、暴れつくした後、気の暴走に耐え切れずに自壊するはずだった。しかし、その前にとどめを刺された。

楊戩(ようせん)である必要はなかった。たまたま、反乱軍への使者として選ばれたのが、楊戩だったというだけだ。

楊戩が、あの黒い巨人が、倒されるのを目の当たりにして、徽宗は屈したのだ。

 

「――ぬっ!?」

 

馬のいななきとともに、馬車が揺れた。喚声と悲鳴が聞こえてくる。女のひとりが小窓を開けて状況を探っている。もうひとりの女は、懐の武器を確認しているようだった。

やがて周囲は静かになり、馬車の入り口からひとりの女丈夫が姿を現した。

 

「その青痣……楊志か」

「会ったのは一度だけですが、よく覚えておられましたね。まあこの顔では、さもありなん、ですが」

 

楊志の剣は、血に塗れていた。それを見て、蔡京は護衛が全滅したことを察した。

 

「よく、ここがわかったな」

 

蔡京は万が一の時のために用意していた隠し通路から、開封を脱出したのだ。

 

「馬車が通れる道というのは、限られています。単身で山野を駆けていれば、追跡も困難だったでしょうが」

 

蔡京は各所に別荘を構えていたが、そこを管理している者が裏切らないという保証はなかった。最低限の財は持ち出す必要があったのだ。

 

「……なるほど、な。ところで、頼みがある。このふたりは、助けてくれぬか? ただの侍女(じじょ)だ。罪はなかろう」

 

あの蔡京が、こんな殊勝なことを言うものだろうか、と楊志は疑問を持ったが、怯えている女を斬ることは、楊志もしたくはなかった。

 

「いいでしょう。縄は打たせてもらいますが、手荒な真似はしないと約束しましょう。だが、妙な動きをすれば斬る。ゆっくりと前に来い」

 

楊志は入り口をあけ、ふたりを促した。そして、楊志とすれ違う一瞬、銀の煌めきが楊志を襲った。ひとりは首を、もうひとりは胸を狙っていた。

楊志はそれを読んでいたのか、素早く剣で首を刎ね、流れるような動きでもうひとりの胸を突いた。一瞬の早業だった。

 

「相手が悪かったな」

 

楊志は冷めた目で女たちを見下ろした。蔡京に視線を戻す。

 

「わしも殺すか?」

「いえ、開封府まで来てもらいます。どうするかは、次の帝が決めるでしょう」

 

次の帝、欽宗(きんそう)は、父徽宗の政治に不満を持っていた。ならば、欽宗は徽宗時代の清算を始めるだろう。つまり、粛清である。

財産は没収され、処刑される。蔡京にはそこまで見えていた。

 

「ひとつ、訊きたいことがあります」

「なんだ?」

「あなたはなぜ、そこまで蓄財に励むのですか? すでに並ぶ者がいないほどの財を、蓄えているはずなのに」

 

それは、単純な興味だった。金はあるに越したことはないが、ありすぎても持てあましてしまう。楊志はそう考えていたからだ。

 

「金は、使えば減る。当たり前だがな。だから、蓄えねばならん。積み上げねばならん。それが、わからぬか?」

「それは、なによりも優先すべきことですか? 金よりも大事なものはあるでしょう」

 

蔡京は、鼻で嗤った。

 

「持たぬ者ほど、そんな妄言を吐く。金より大事なものとはなんだ? 誇りか? (こころざし)か? 愛か? くだらぬ。すべてまやかしだ。金の前ではどんな者もひれ伏す。金よりも大事なものなどない。なぜならば、金はすべての代替物であるからだ。金ですべては買える。美食も、宝物(ほうもつ)も、人も、心も」

 

妄執じみたその瞳の輝きに、楊志は息を呑んだ。

 

「……取り憑かれていますね、金という魔物に。人を腐らせる、魔物に。その生き方は、金の奴隷だ。いや、金の亡者か。だが金で買えないものもある。あなたの命は、金では買えませんよ」

「そこまで思い上がってはおらんよ。己の命すら金で買えると勘違いした始皇帝とは違う。権力者というのは、得てして不老不死などというまやかしに酔う。おろかなことだ」

 

妙なところで現実的だな、と楊志は思った。そして、もしかしたらこの男も、最初は崇高な志を持って宰相になったのかもしれない、と埒もないことを考えた。

 

「銀、二百万両でどうだ?」

 

それが鼻薬だということに気づくのに、幾ばくかの時を要した。

 

「無駄です。いくら積まれても、見逃すつもりはありません」

「で、あろうな。たまにおるのだ。おぬしのような、金の魔力に抗うものが。ならば、仕方ないの」

 

蔡京はゆっくりと荷物の方へと手を伸ばした。今さらなにをするつもりなのか。楊志は取り押さえようとはしなかったが、油断なく蔡京の行動を監視していた。そして、気づいた。

 

「――ッ!? 全員退がれっ! 退避だっ! 急げっ!!」

 

この独特の臭いを、楊志はすぐに感じ取った。間を置かずして、蔡京の馬車が爆発した。楊志は暴れる愛馬をなだめながら、もうもうと立ち上る黒煙を眺めていた。

 

「蔡京の最期は、自爆か。巨人と同じ末路とは、哀れと言うべきか……財物を回収して、帰還する」

 

数瞬瞑目した後、楊志は部下に指示を出し、まだ動く馬車に散らばった財物を押し込んだ。

ここで楊志は、ひとつ失敗を犯した。蔡京の遺体を、確認しなかったのである。あの爆発で生きているはずがない、という先入観もあったのだろう。

馬蹄の音が完全に消え去った後、未だ燻りを見せる馬車の瓦礫が動いた。中から現れたのは、煤に(まみ)れた蔡京だった。

 

「防火壁と火完布(かかんぷ)は、ちゃんと仕事をしたようだな」

 

蔡京は爆発の瞬間、間に緩衝材を作り、火完布で身を包んだのだ。火完布とは、耐火性の織物である。

これは、賭けでもあった。遺体を調べられれば、生きていることはわかるのだから。

 

()っ! さすがに、無傷とはいかなかったか。まぁいい」

 

痛む腕を押さえ、蔡京は懐の金を確認した。

 

狡兎良狗(こうとりょうく)。王倫、二代目の男よ。英雄になりすぎたおまえは、はたして生き延びることができるかの?」

 

蔡京も見ていたのだ。王倫が巨人を倒すさまを。あれは、人の力を超えた力だった。それは本来あってはならないもので、あてにしてはならないものだ。人が、そういう力を出す、という簡単な話ではない。

人々が見た希望は、時が経てば恐怖となるか。

くつくつと嗤いながら、蔡京は開封に背を向けて歩き出した。

 

 

 

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