伊地知虹夏のbucket list   作:大塚ガキ男

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こんにちは!こちら本編とは特に関係無いBAD ENDです!



▽ 伊地知虹夏はものにしたい(支配したい)

 

 

 

 

「ごめん! 虹夏!」

「もう! 別に良いって」

 

 夜。

 時刻は19時。

 山口太介は自宅の玄関で深々と頭を下げていた。

 

「通知に気付かなかったばっかりに、虹夏に悲しい思いをさせた! 本当にごめん!」

「謝らないでよ〜。わざと無視してたとかなら嫌だけど、気付かなかったんならしょうがないって」

 

 勝手にご飯作っちゃってた私も悪いし。

 制服の上にエプロン姿の伊地知虹夏は、山口太介の謝罪に困ったように笑いながらそう言った。

 他ならぬ本人に許されてもなお気が済まないのか、山口太介は既に下げていた頭を、今一度深々と下げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ▽

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ことの発端は山口太介の外食。

 しかし山口太介としても、伊地知虹夏になんの断りも入れずに勝手に外食をしたとかそういうわけではなく、元々今日という日は()()()()()()()()()()だったのだ。

 毎日のように山口宅を訪れ、山口太介と共に朝食と夕食の時間を共にしている伊地知虹夏だったが、今日は放課後から結束バンドでの練習があるとのことで──更に言えばライブ前ということもあり、追い込みをかねての結束バンド全員での長時間練習となっている為、じゃあ今晩はやめておこうかと予め約束を交わしていた。

 

 

 

 

 ところ変わって、スタジオにて通しで演奏していた結束バンドの四名。

 週末に控えたSTARRYでのライブで披露する三曲をつつがなく演奏し終えたところで、山田リョウがこんなことを呟いた。その表情は普段通りのポーカーフェイスだが、演奏後ということもあり少し頬が上気していた。

 

『虹夏。今の演奏、変だった』

 

 三曲をほぼノンストップで演奏し終えたメンバーは大なり小なり疲労を覚えていて、各々の荒い呼吸音がスタジオ内に響いている状況。そんな中、山田リョウの言葉だけは鎧の隙間に差し込まれた刀のように、滑るように本人まで届く。

 指摘を受けた伊地知虹夏は、顎に伝う汗を腕で拭いながら返した。

 

『へ? そうかな』

『た、確かに……。なんだかいつもの虹夏ちゃんじゃないように感じました──あ、すみません私みたいな陰キャが意見して! なんて失礼なことをあわわわわわわ』

『キャー! 後藤さんのピクセル数が著しく減ってる!?』

 

 日常会話の中でも隙あらば奇行に走る後藤ひとり(今は身体の全てのパーツが四角くなっている)。そんな後藤ひとりに面食らいながらも段々と奇行に慣れて支えられるようになった喜多郁代。

 角ばった後藤ひとりの身体をヤスリで削って丸みを戻す喜多郁代。二人の友情に山田リョウと伊地知虹夏が生温かい視線を送ってから──視線を戻した伊地知虹夏が続ける。

 

『具体的にはどこが? ライブ近いし、変な癖なら早く直しておかないと』

『うーん、もたついてるというか、()いているというか』

『……どっち?』

『虹夏の演奏技術というよりかは、心理的な問題かも。虹夏、今日なにか変わったことはなかった?』

『変わったこと? 特には……あっ』

『言って』

 

 正確にはまだ起こってない出来事なんだけど。

 伊地知虹夏は最初にそう前置きしてから、ポツリポツリと話し始めた。

 

『合わせ練で遅くなるから、今晩は太介くんとは一緒にいられない(ご飯食べられない)んだよね』

『……絶対にそれ。なんで早く言ってくれないの』

『いやいや! 私そんなことで演奏に支障を来たすほど太介くんに依存してないから! ……ただちょっと一緒にいられないと気分が落ち込むというか、メンタルが死ぬというか』

『それを依存してると言う。今日はそろそろ終わりにしよう』

『だ、ダメダメ! ただでさえライブ近いのに、私の個人的な理由で練習終わらせられないって!』

 

 山田リョウの提案に、伊地知虹夏が立ち上がって抗議する。しかし言葉が返ってきたのは思いもしない方向から。

 

『伊地知先輩! 山口先輩が待ってますよ!』

『で、でも……』

『そ、そうですよ。お兄さんって自分のことに関しては無頓着なことがあるので……』

『……あるので?』

 

 言葉を途中で区切った後藤ひとり。しかしすぐには続けずに深呼吸をし始めたので、伊地知虹夏が続きを促せば『そ、そんなに長文喋れないのでちょっと待ってください……』となんとも後藤ひとりらしい理由が返ってきた。

 吸って。

 吐いて。

 息を飲んで。

 それから、後藤ひとりが続けた。

 

『に、虹夏ちゃんがいないとご飯抜いちゃうかも……』

『『『…………』』』

 

 後藤ひとりの的を射た──的のど真ん中をぶち抜いた言葉に、三人は心の内で確かにと大いに納得した。

 山口太介は、少食ではない。好き嫌いもなければ食事が嫌いというわけでもないので、人並みによく食べる。

 しかしそれは伊地知虹夏の手料理に限った話であり、市販の物や自分で料理を作るとなった場合、山口太介は途端に食への関心が薄れていく。

 

『だって虹夏のご飯美味しいし』

 

 この言葉は山口太介が過去に放ち、聞いた伊地知虹夏が胸を押さえて悶絶した言葉である。

 なので、後藤ひとりの懸念は正しい。そんな山口太介ならば一食くらい平気で抜くだろうという共通認識が、結束バンド内にはあった。

 伊地知虹夏の心が揺らぐ。

 

『虹夏、最早渋る理由は無い』

 

 そこに、山田リョウの追い討ち。伊地知虹夏はうんうんと唸ったあと、ドラムスティックをケースに入れて壁際に置いてあったリュックを拾い上げた。

 

『〜〜〜〜もうっ! みんなありがとう!』

『恋バナ、明日聞かせてくださいね!』

『に、虹夏ちゃん頑張ってください!』

『虹夏、明日の朝はハンバーグが食べたい』

『朝から!? ──分かった任せて! みんな本当にありがとう、また明日!』

 

 三人に礼を言ってから、目にも止まらぬ速さでスタジオを出て行った伊地知虹夏。

 遅れて吹いた一陣の風と、見送った三人がスタジオに残された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ▽

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、現在。

 山口宅、玄関。

 相も変わらず頭を下げる山口太介と、なんでもないように笑う伊地知虹夏。放っておくといつまでも玄関にて謝罪を続けかねないので、伊地知虹夏は「ほら、早く入って」と促した。

 前方にはリビングの明かり。

 伊地知虹夏が廊下を歩く。そのすぐ後方を歩く山口太介の足取りは重い。

 もう冷めてしまっているであろう食材と伊地知虹夏への申し訳なさ。そしてなにより、伊地知虹夏の善意を無下にしてしまった罪悪感が山口太介の(こうべ)を下へ下へと引っ張っていた。

 伊地知虹夏が足を止め、山口太介は洗面所へと入る。

 水を流して手を洗っている最中、その様子を廊下からひょっこりと覗いていた伊地知虹夏が問いかけてきた。

 

「そういえば、どこ行ってきたの?」

 

 ご飯抜かないの珍しいね。

 なんてデリカシーに欠けた言葉を面と向かって言えるはずもなく、伊地知虹夏は遠回しにそう質問した。

 山口太介は一度水を止め、手にハンドソープを付けてから。

 

「あぁ、志麻さんの家。そこら辺ぷらぷらしてたら、きくりさんから『SICKHACKでたこパするから来ない?』って連絡きてな。折角だからお邪魔させてもらったよ」

「…………へぇ」

 

 楽しかったなぁ。

 泡立てて手の細菌を落としながら、岩下宅で体験してきたことを嬉々として話す山口太介。その背後、廊下で聞いている伊地知虹夏の表情が凪いでいるだなんて分かるはずもなく。

 その胸中に嵐が吹き荒れていることなど気付くはずもなく。

 

「きくりさんってば、たこ焼きをツマミにお酒飲むもんだから手が止まらなくてさ。泥酔した挙句とんでもないダル絡みされて大変だったよ。ははは」

 

「…………」

 

 山口太介の能天気なトークに、伊地知虹夏は無意識の内に右拳を握る。長年の音楽活動で鍛えられた腕は細身ながらも内部の筋力量は目を見張るものがあり、握った際に静かにギチギチと音を立てた。

 落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせる。元々今日は夕食を作らないのだと予め決めていたのだし、山口太介の行動を勝手に予想して何も言わずに夕食を準備した自分が悪い。

 伊地知虹夏は心を落ち着かせる為に、息を大きく吸い込む。

 山口太介は仲の良い()()()()に誘われていっただけ。

 なにも悪くない。

 むしろ悪いのは自分。

 落ち着け。

 落ち着け。

 ……、

 …………、

 ………………。

 

「…………」

 

 岩下宅で行われた、たこ焼きパーティ。

 SICKHACKメンバーということは、女性三人と山口太介の計四人。19時には帰ってきているのだし、本当にたこ焼きを食べただけなのだろう。

 たこ焼きパーティ。

 

「…………手料理?」

「? どうした虹夏ー」

 

 泡を洗い落としている山口太介が、伊地知虹夏の呟きに反応する。しかしなんと呟いたのかまでは聞き取れなかったのか、聞き返す形で。

 

「…………」

 

 伊地知虹夏は、自分の料理を美味しそうに食べてくれる山口太介が大好きだ。

 

「…………」

 

 伊地知虹夏は、自分が作った料理が山口太介の胃に入って栄養となり糧となることを至高の喜びとしている。

 

「…………」

 

 伊地知虹夏は、山口太介の身体を構成する一部が自分の手料理であること──手料理をすればするほどその割合が増えていくことに悦びを覚えている。

 管理。

 又の名を、支配。

 山口太介の食事を──生きる上で必要な欲の一つを自らが賄うという日常。

 今まで続いてきて、これからも続いていく日常。

 不変。

 しかしその日常に、ヒビが入った。

 

「……虹夏?」

 

 ただの外食なら良い。

 コンビニ飯でもファストフードでも構わない。不摂生だとは思うが、伊地知虹夏にも、たまにはそういう日があっても良いだろうと思えるくらいの()()()はある。

 しかし、今回は駄目だ。

 手料理じゃないか。

 私以外の──女の手料理じゃないか。

 最悪だ。

 穢らわしい。

 伊地知虹夏の表情が歪む。

 誰も見たことがなく、誰に見せたこともない(くら)い表情。

 洗い終え、壁にかけられたハンドタオルで手を拭いていた山口太介に、伊地知虹夏は着用していたエプロンを洗濯機に放り込んでから、平静を努めて発した。

 

「太介くん、ちょっと来て」

「? おう」

 

 先導。

 山口太介が後をついてくる。

 廊下を歩いた伊地知虹夏は、そこのドアを開けて入室を促した。

 数歩歩けばすぐに辿り着いた目的地。しかし何故ここが目的地なのか理解できなかった山口太介が、首を傾げて問うてくる。

 

「なんでトイレ?」

「入って」

「?」

「良いから」

「わ、分かった」

 

 聞き分けの悪い山口太介に苛立ち、語気が強まる。異常を察した山口太介が、ドアを開いて待っている伊地知虹夏の横を通り過ぎてトイレの中へと入る。

 その後を伊地知虹夏が続き、ドアを閉めた。

 遅れて、施錠。

 

「……あのー」

「なに? 太介くん」

「……なんでトイレに? 虹夏と二人で?」

 

 トイレ内。

 山口太介が住むマンションは世間一般的に言うところの良いマンションであり、部屋も間取りも()()()()。従って間取りの一つであるトイレもそれなりの広さではあるものの、やはりトイレというものは個室。人間二人で入れば、距離は近くなる。

 10センチ先に幼馴染。

 普段より近い距離感に戸惑い、恥じらいすら覚える山口太介。そろそろ質問しても良いかとこの状況に対して問いを投げかければ、伊地知虹夏はニッコリと笑った。

 

()()()

「だ、出し──はぁ?」

 

 出して。

 その言葉に、山口太介の脳内に一瞬妙な想像が浮かぶ。そんなはずがないと自らの想像を一蹴し、伊地知虹夏の言葉を待つ。

 

()()()()()

「……だ、出すって。何を」

 

 恐る恐る、問う。

 普通ではない状況と、普通ではない様子の幼馴染。下手に刺激しないよう、声のボリュームを抑えて問いかける。

 しかし身を寄せ合うトイレ内。ボリュームを抑えた声も、返ってきた言葉も、山口太介はしかと理解した。理解させられた。

 

()()()()()()()()()()()()()()

「…………ッ」

 

 絶句。

 思わず閉じた唇に力が入った山口太介を他所に、伊地知虹夏は淡々と続ける。

 

「他人の手料理なんて、調理時にどんな飛沫が飛んでるか分からないんだよ?」

「…………」

「他人の手料理なんて、どんな()()が入ってるか分からないんだよ?」

「…………」

「──だから、全部出して。じゃないと太介くんが汚れちゃうよ。具合悪くなって、なにかの病気になっちゃうよ」

「…………な、なにを言ってるんだ虹夏」

 

 つい先程まで普通に会話していた幼馴染の豹変に、山口太介が恐れを見せる。なんでこうなったのか見当もつかないといった様子の山口太介を見て、伊地知虹夏に苛立ちが募る。

 だから、掴んだ。

 恐れた山口太介が、トイレのドアノブに伸ばした腕を。

 掴んで、捻り上げた。

 

「ッ!」

「逃がさないよ」

 

 いつかの日、喜多郁代との関係性を疑った際とは全く異なる類いの冷たさ。それもその筈、今の伊地知虹夏の内にあるのはもう疑念ではないのだから。

 掴まれた腕が軋む。同い年の異性とは思えないほどの力の強さに山口太介が根を上げ、伊地知虹夏が耳元で優しく言葉をかける。

 

「全部吐いて。一人じゃ出来ないなら、手伝ってあげよっか?」

 

 空いている方の手で山口太介の肩を掴み、下方向へと押す。掛かった圧力によって簡単に床に膝をつけた山口太介は、押されるがまま便座を両手で掴んだ。

 いかにも嘔吐し易い姿勢。

 伊地知虹夏の言葉に従うのなら、山口太介は今からここに胃の中身を吐き出すことになる。

 

「…………」

「なにしてるの?」

 

 上から降り注ぐ伊地知虹夏の声。その冷たさに身を震わせる。

 

「……ごめんね太介くん。怖がらせるつもりはないの。()()終わったら、口ゆすいで二人でゆっくりしようね」

 

 お腹減っちゃったら、ご飯食べよっか。

 事も無げに──日常会話のトーンでそう言った伊地知虹夏。見上げた山口太介の目は、およそ幼馴染に向ける視線とは思えないほど怯えていた。

 しかしその表情も、今の伊地知虹夏には怒りよりも庇護欲を掻き立てるものでしかなく。

 太介くんはなんにも分かってないんだねと、怒りを通り越して柔らかく微笑んだ。

 膝を曲げる。

 左手を山口太介の背中に回し、右手を山口太介の顔へと伸ばす。

 

「吐けないみたいだから手伝ってあげるね」

「や、やめッ──」

 

 伊地知虹夏の白い手が山口太介の唇に触れる。山口太介は首を左右に振って逃れようとするが、背中に回された左手がそれ以上の反抗を許さない。

 伊地知虹夏の女の子らしい手が山口太介の口内に侵入する。歯を触られ、舌を触られた山口太介は口内に広がる異物感に目に涙を滲ませた。

 

「や、あが……」

 

 嫌だとすら言えないほど、奥へ奥へと滑り込む。口の端から唾液が溢れ、伊地知虹夏の細い指が口内から喉へと下っていく。

 

「ッ──」

 

 えずく。

 しかし吐き気とまでは行かず、胃が一瞬収縮したのみ。

 

「太介くん。知らない人の手料理なんか食べたら、毎回こうやって吐かせるからね」

 

 聞き分けの無い子供に言って聞かせるような声色。山口太介の脳は最早正常な状態ではなく、何故こんなことになっているのか、幼馴染はなにを言っているんだという二つの疑問によって他のことなど考えられなくなっていた。

 ただ、他人の手が口内に入っているという気持ちの悪さ。段々と強くなっていく吐き気だけが山口太介の意識を現世へと留めていた。

 

「そう、そうだよ。その調子。早く楽になっちゃおうね」

 

 手付きに反して、伊地知虹夏の声色はとても優しい。

 こちらを励ますような伊地知虹夏の言葉に、わけもわからず額に脂汗を滲ませながら疑問符を浮かべる。

 やがて、間も無く決壊した。

 

「あ、そう。上手だね」

 

 嘔吐。

 嘔吐。

 嘔吐。

 胃がポンプのように何度も収縮を繰り返す。胃が縮む度にその中身が喉を通して便器へと吐き出され、透明な便器内の水を汚していく。吐瀉物が掛かっているというのに伊地知虹夏の手は山口太介の口内から抜かれることはなく、未だ奥へ奥へと指を這入り込ませて吐き気を助長させている。

 

「まだだよ、まだ残ってるよね。胃の中空っぽになるまで続けるから、辛くても我慢だよ」

 

 涙が止まらない。

 しかし吐いている所為ですすり泣くことも出来ず、涙と鼻水が垂れ流しの状態で、されるがまま。

 自らの吐瀉物の色すら認識できなくなるほど涙で滲んだ視界。周りの音すら満足に聞こえないほど混乱する思考。しかし伊地知虹夏の「よくできました」という明るい言葉だけは、頭のどこまでも深く染み込んで──身に染みた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ご、ごめんなさい……」

 

 全てが終わった後。

 山口宅、リビング。

 椅子に座り、テーブルを挟んで向かい合いながら。

 座っているのもやっと、といった様子の山口太介が、疲弊を隠しきれない表情のまま、涙目で頭を下げた。

 謝罪を受けた伊地知虹夏の表情は明るい。

 

「なにが? 私なにも怒ってないよ?」

 

 何故謝っているのだろうと、心の底から思っているような邪気の無い表情に、山口太介は震えが止まらない。舌の根すら凍り付きかねないその態度に、謝罪の理由を述べる。言葉を選びながら、しっかりと述べる。

 

「きくりさん達とご飯食べて、ごめんなさい……」

 

 伊地知虹夏の笑みが深まる。

 

「そっか。太介くんもようやくそれが悪いことだって分かってくれたんだね」

 

 私は嬉しいよ。伊地知虹夏はそう言ってテーブルの上に手を伸ばす。

 意図が読めず混乱する山口太介に説明するように「手、出して」と呟いた。

 言われた通りにする。山口太介の脳裏には未だトイレでの出来事が真新しいトラウマとなってこびりついているのだから。

 テーブルの上に右手を出す。伊地知虹夏は少し手を伸ばしてその手を握った。

 温もり、それから柔らかさ。しかし同時に感じる硬い()()の感触に、山口太介は伊地知虹夏のドラマーとしての努力を感じた。

 

「私達、幼馴染だよね」

「あ、あぁ」

「これからも()()()、この関係は崩れることなく続いていく。そうだよね」

「……そうだ。そうだな」

 

 幼馴染。

 しかし両者間に生じている言葉に秘められた価値の違いは、最早安易に比べられるものではなく。

 伊地知虹夏の手が山口太介の手の甲を撫でる。この手がつい先程まで自分の口の中に入っていたのだなと再認識し、背筋が冷える。

 伊地知虹夏が笑う。

 山口太介がぎこちなく笑う。

 そんな二人だけの空間。

 幼馴染二人だけの空間。

 

「そろそろ帰ろっかな。お姉ちゃんも心配するかもだし」

「き、気を付けて……な」

 

 言葉と共に立ち上がる伊地知虹夏。山口太介もつられて立ち上がり、見送る為に伊地知虹夏の背中を追う──

 着信。

 誰からの着信なのかはこの際あまり関係が無く。ただ今この状況において、この着信は()()()()()()ことなのだと山口太介にも理解出来た。

 伊地知虹夏と目が合う。こちらを見る、どこか据わっているその瞳に射抜かれ身動きが取れない状態に陥っているうちに、大股で近付いてきた伊地知虹夏に衣類のポケットからスマホを抜き取られた。

 いとも簡単に、勝手知ったる動作で。

 点灯しているスマホの画面に映し出された名前を見て、伊地知虹夏の目が細められた。それと同時に伊地知虹夏の顔から表情が消える。

 無感情のまま画面をタップ。

 

『あ、もしもし太介くぅん? 志麻の家(んち)のカーペットにお酒溢したら追い出されちゃってさ〜! 突然だけど、今からお風呂借りに行っても良い〜?』

 

 通話口から、心地良い酩酊感に身を任せているような楽しげな声。相手は廣井きくりのようだ。

 

「無理です。自分の家に帰ってください」

 

 山口太介が今の状況をなんて伝えるべきか──それとも伝えないべきか迷っていると、伊地知虹夏が代わりに返答。その声色は思わず足が(すく)んでしまうほど冷徹で、言葉を被せて訂正することなんて──助けを求めることなんて以ての外だった。

 口をパクパクと開閉させるも、なにも言えない。

 通話の向こうの廣井きくりが『うぅん?』と小さく唸る。

 

『あれ、なんで妹ちゃんが電話に出てんの? 相手間違えちゃったかなぁ』

「間違えてないですよ」

 

 そう言って、伊地知虹夏が通話を切る。

 直前に廣井きくりがなにかを言っていたような気がしたが、今となってはもう確かめようのないことだ。

 伊地知虹夏が、さりげなく電源を落とした山口太介のスマホをテーブルに置く。山口太介が手を伸ばしたくらいでは届かない位置に、スマホを置いておく。その仕草で、当初の予定通りには帰らないのだろうと察した。

 それから(しば)し、無音。

 山口太介はこの瞬間色々なことを思案してみたが、果たして虹夏はどうだろうかと考えてみる。

 自分のように、どう考えても平和的な解決なんて望めないのだと結論つけて諦めたのだろうか。

 そう、(おもんぱか)ってみる。

 しかし無意味。

 今の伊地知虹夏のこちらを見る二つの瞳の前では、なにがどうなったとしても自分はされるがまま。

 必死で抵抗しても、伊地知虹夏の怒りを煽るだけだろう。逃げられやしない。スマホで誰かに助けを求めるよりも先に、肩に手を置かれるのがオチだ。

 耳が痛いほどの無音。

 胸が痛いほどの鼓動の音。

 伊地知虹夏がどこか吹っ切れたような笑みのまま口を開いた。

 

「今日は泊まっていこうかな」

 

 夜は、長い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 





アンケートで募集したBAD ENDルートです。興が乗りすぎてほぼ1日で書いてしまったので、後々修正すると思います。


時系列はあまり考えていません。
山口太介が()()()()()()を食べたらこのルートに入ってしまうほど、伊地知虹夏の内なる想いは大きいんだなとやんわりお考えください。


あと私が見た時よりきくりさんルートの方が優勢で驚いています。私が見た時には伊地知虹夏が勝っていたので、このルートを書きました。
しかしあのアンケートを募った時点で両方のお話を考えていたので、どっちを先に書くかの違いですね。
でも流石に本編も書かなくちゃなので、きくりさんルートはもう少しお待ちください。

みんないつも読んでくれてありがとうね!感想、評価もありがとうね!引き続きよろしくね!

ではまた。
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