こんばんは!張り切って書いたら24000とかいうわけわからん文字数になっちゃいました!
某日、岩下宅。
ローテーブルの中央にはたこ焼き器。
壁のコンセントからコードで繋がれたたこ焼き器にはもうすでに生地と具材が流されていて、ジュウジュウと音を立てて焼いている真っ最中。
それを囲んでいる四名。
SICKHACKベースボーカルの廣井きくり。
SICKHACKドラムの岩下志麻。
SICKHACKギターの清水イライザ。
楽器音痴の山口太介。
以上四名が、和気藹々とトークに花咲かせながらたこ焼きを焼いていた。
──廣井きくりのワガママから始まり、清水イライザの同調が後押しし、岩下志麻の溜め息で開催が決定した今回のたこ焼きパーティ。
どうせなら誰か呼ぼうかという話になり、満場一致で山口太介が選ばれた。SICKHACKメンバーは、素直でこちらを慕ってくれる子犬系の年下イケメンをそれなりに好ましく思っていたからだ。
誘われた山口太介も
岩下宅への道すがらに手土産としてコンビニでお高めのアイスを人数分買ってくるという完璧な立ち回りを見せるなどをし、気が付けばたこ焼きパーティは開幕していた。
カーペットの上に足を崩して座っていた山口太介は、対面で鬼ころを呷る廣井きくりを見て「相変わらず飲むなぁ」と感慨に耽る。
鼻腔をくすぐるたこ焼きの生地の匂いにふと思考が持っていかれていると、右側に座る岩下志麻が山口太介の取り皿に出来立てのたこ焼きを乗せた。
「山口、これもう焼けたから食べていいよ」
「あっ、すみません。ありがとうございます志麻さん」
たこ焼きから立ち昇る湯気の向こうの岩下志麻に頭を下げていると、今度は左側。今回初めてだというたこ焼きパーティに、
「タスケ、
「いただきます、イライザさん」
左右の二人、しかも年上である二人からたこ焼きを振舞われているという事実にムズムズする山口太介。本当ならば年下の自分が率先してたこ焼きを焼かねばならないのに、たこ焼きパーティが始まってから今の今まで、山口太介は一度も
ファンに知られたら殺されるな。
山口太介は口の中に含んだ苦笑を、たこ焼きと一緒に飲み込んだ。
美味しいです。
熱々のたこ焼きに口内を少し火傷したりなんかもしつつ、山口太介は二人に笑いかけた。
子犬の笑顔に気を良くする二人。
「山口、これも。こっちは中身チーズだから」
「ありがとうございます」
「タスケちゃんと食べてるノ? これもドーゾ」
「いただきます……って甘ァッ! イライザさん中身なんですかこれ!」
「chocolate」
「発音良い〜〜〜〜」
そうこうしている間にも、山口太介の取り皿には二人が作ったたこ焼きが乗せられていく。
──余談だが。
清水イライザは以前、新宿FOLTでヘルプとしてバイトをしていた山口太介が休憩の際に
山口太介をロクな食費も賄えない苦学生と思ったのか、それとも単にその
山口太介としては、新宿FOLTのヘルプに入った日は帰りが遅くなるので──つまりは普段朝夕の食事を共にする伊地知虹夏も自宅で夕食を摂るので──「今晩は虹夏のご飯じゃないからなんでもいいか」みたいな理由で適当に済ませているだけなのだが。
言うならば新宿FOLTのヘルプの日以外は普通に(伊地知虹夏の手料理を)食べているのだが、清水イライザがそんな事情を知るはずも無い。
山口太介に目を
山口太介の取り皿にたこ焼きを乗せる
たこ焼き美味しいな、チョコレート味もクレープみたいで良いねと笑い合う空間に、猛然と割り込む酔っ払いの姿が。
「──もう、なんだよなんだよぅ! 志麻もイライザも二人して太介くんに構っちゃってさぁ! 私もたこ焼き食べた〜〜〜い!」
「自分で焼けよ」
「自分で焼いてヨ」
ジタバタと、鬼ころ片手にお手本のように駄々をこねる廣井きくりを、二人が冷めた目で見る。山口太介はたこ焼きを頬張っている最中なので会話には入らなかった。
廣井きくりは曲がらない。
「太介くんには焼いてあげてるのに! たこ焼きだけじゃなく世話も焼いてあげてるのにっ!」
「山口はお客さんだしな」
「お客さんにはオモテナシ、デショ?」
「ぶーぶー!」
廣井きくりが唇を尖らせるが、二人の意見は変わらない。お客さん云々を抜きにしたとしても、子犬にはご飯をあげたくなるものだ。
二人の気持ちも十分理解出来る廣井きくりは「ぐぬぬ……」と唸りながらも、しゃーねーから自分で焼きますかとようやくその重たい腰を上げる。
その時、ようやくたこ焼きを飲み込んだ山口太介が声を上げた。
「──きくりさん、俺焼きます。志麻さん、イライザさん。
「た、太介くん……!」
気にかけている──というよりも誰かに取られないように唾をつけている可愛い後輩の凛々しい表情に、上げた腰が砕けそうになった。
そんな可愛い後輩が
「廣井を甘やかすな、山口」
「で、でも!」
「さっきも言ったように、山口はお客さんなんだから。私とイライザで焼くから気にせず食べて。廣井は自分で焼けばいい」
「そーだよ! というかきくりがタコパしたいって言い出したんデショ!」
仲間であるはずの二人からの攻撃に、瞳が潤むだけでは済まなくなった。決壊した涙腺をそのままに、廣井きくりは立ち上がり切らぬまま、ラガーマンがタックルを決めるように、ドタバタと山口太介に駆け寄った。
狙うは山口太介の薄い腹部。
山口太介の衣類で涙を拭く準備は万端だった。
「うぇ〜ん! 助けて太介く〜ん! 志麻とイライザがいじめるぅ〜!」
「ぐえぇっ!」
「あ、きくりダメ!」
「
「たこ焼き美味しぃ……」
「山口のたこ焼き盗み食いするな!」
「タスケが飢え死にしちゃうデショ!」
「しませんよ!?」
◇
「もしもし、俺だよ」
『あ、太介くん? 今大丈夫?』
「勿論。どうした虹夏」
『今結束バンドの合わせ練終わったんだけど──ほら。今日って太介くんの家行かない日ってことになってたでしょ? 太介くん夕飯どうしたのかなぁって』
「気になって連絡してくれたのか、ありがとうな。でも俺はSICKHACKの皆さんとご飯食べてるから安心してくれ」
『……安心できないんだけど。どういうこと?』
「そこら辺ぷらぷらしてたら、きくりさんから『SICKHACKでたこパするから来ない?』って連絡きてな。折角だからお邪魔させてもらったんだよ」
『……本当にタコパだけ?』
「勿論。他になにがあるんだ」
『──う、ううん! そうだよね! ただご飯食べるだけだもんね!』
「? あぁ、そうだよ。だから俺は大丈夫。虹夏のご飯が食べられなくて部屋の隅でシクシク泣いてるわけじゃないからさ」
『……全然泣いてくれていいのに』
「そう言うなよ。確かに虹夏のご飯が食べられないって喪失感はあるけど、泣くほどじゃない」
『な、なんで聞こえてるの!? もう! 忘れてっ!』
「? あぁ、分かった。まぁそういうわけだからさ。連絡ありがとう虹夏。また明日な」
『う、うん。……最後に一つ良い?』
「勿論」
『たこ焼きパーティ終わって、家に着いたら連絡くれる?
「
『ありがとう。またね太介くん』
「あぁ、またな。虹夏」
◇
「いやぁ〜! タコパ最高っ! 美味しかったねぇ!」
「二度とやらない……」
「疲れたヨ……」
「お疲れ様です、みなさん」
「あー! 太介くんどこ行ってたの! きくりお姉さんは心配してたんだよ〜!」
おいでおいで。
床に
「うわあ良い子だねぇ〜よしよしよしよし」
言う通りにした山口太介を褒めちぎり、頭と顎を両手で上下に挟むようにしてめちゃくちゃに撫で回す廣井きくり。嫌がる理由も無いのか、それとも嫌がったところで無駄なことをなんとなく理解しているのか、山口太介もされるがまま。
その様子を見ていた二人が唖然とする。
「……なんか、赤子の遊びに渋々付き合ってあげてる大型犬見てる気分」
「つまりハ?」
「微笑ましくもあり可哀想」
「Oh……」
「よーしよしよしよし」
◇
「太介くん遅〜い!
「あぁ、また新宿FOLTでって別れの挨拶です。特に深いことは話してませんよ」
「ふぅ〜ん」
帰り道。
時刻は20時。
岩下宅を後にした山口太介は、駅までの道のりを廣井きくりと共に歩いていた。夜分はすっかり涼しくなった季節。満腹故に熱を持つ山口太介の身体と酔っぱらい故に熱を持つ廣井きくり、両者の身体はこの外気温を心地よく思っていた。
カランコロン。
廣井きくりの履いている下駄の歯が夜道のアスファルトと噛み合って雅な音を立てる。
前方を歩く廣井きくり。山口太介がスタジャンを羽織ったその後ろ姿をぼんやり眺めていると、不意に振り返った廣井きくりと目が合った。廣井きくりは目こそ閉じているものの、視線が噛み合った。
「……太介くん、本当にありがとうね」
「? なにがですか」
礼を言われる心当たりが無い山口太介はすぐさま聞き返す。喜怒哀楽どの感情とも似付かない不思議な表情に、廣井きくりは一瞬言い淀んだ。
それから、思い出したように笑い出す。
「ははは、タコパ来てくれてありがとうって意味だよ!」
「礼を言われるようなことはなにも、いや本当に。というかこちらこそお誘いありがとうございました。めっちゃ楽しかったです」
「うんうん、苦しゅうないぞ〜」
「ははー」
「……」
「……」
「……ぶふっ」
「……ははっ」
街灯も
「……太介くんはさ、どうして私なんかと仲良くしてくれるの?」
突然の問い。
その問いを発した本人、廣井きくりの声色は普段の気の抜けた適当なソレではなく、むしろ真逆。本当に酒に酔っているのかと疑ってしまうほど真面目で重苦しいものだった。
「一緒にいて楽しいからです」
即答。
それから。
「……あれ、これだと楽しくなくなったら仲良くしなくなるみたいなニュアンスに聞こえちゃいます?」
と困ったように訂正した。言外に
その後に「というか仲良くするのに理由って必要なんですか」と付け加えられたが、聞いていた廣井きくりはすぐさま答えられるような精神状態ではなかった為、ただ大きく見開いていた。
高鳴る胸がズキズキと痛む。
「──逆に聞きますけど、きくりさんってなんで俺と仲良くしてくれるんですか?」
当然の返し。しかし廣井きくりはその返しを予測して答えを用意出来るほど冷静ではなく、おかしな声を上げて驚いた。
「へぇあ!?」
私みたいなのになんも警戒せずにニコニコ話しかけてくるお前の面が好みで狙ってるからだよ。
瞬時に浮かんだ本当の答えを頭の隅になんとか追いやり、代わりの答えを探す。
数秒。
「……理由、いる?」
「あ、ずるっ」
「ずるくて良いんだよ。きくりさん大人だからね〜」
山口太介の発言を借りる形でなんとか返した廣井きくり。未だ平静に戻らない鼓動をなんとか抑えつけながら、歩行を再開。山口太介もすぐ隣へ。
「あ、そろそろライブやるから観にきてよ」
「絶対行きます! 日時教えてください」
「来週の土曜日。18時から」
山口太介は、今までも何度かSICKHACKのライブに行っている。物販で買ったSICKHACKロゴ入りタオルを首にかけ、他のSICKHACKファンと仲良く声を出す熱心っぷり。
山口太介はお世話になっている先輩方の勇姿を見て喜んでいる程度の、言わば
山口太介には音楽のことは分からない。
それでも、SICKHACKの面々が途轍もなく凄いことをしているというのは理解していた。
そんな、声をかければ絶対に来てくれる山口太介への誘いの一声。半ばYESを貰えること前提で頭の中で次の展開を組み立てていた廣井きくりは、返ってきた言葉に思わず眉を顰めるのだった。
「あー……」
山口太介は困ったように首に手を当てて、考える
「……すみません、その日はちょっと」
行けないです。
予想外のNOに廣井きくりの笑顔が引き攣る。
それでも廣井きくりは内心穏やかではないものの、余裕なフリをして笑いながら返す。
「なに、なんか用事でもあった?」
「……実はその日、結束バンドのライブなんですよね」
もうチケットも買っちゃいましたし。
だから、すみません。
山口太介は申し訳なさそうに眉を下げた。
「……ふーん」
笑った。
山口太介からの断りの申し出に、廣井きくり
薄目を開けて笑った。しかしその笑みに含まれる邪気はとてもじゃないが計り知れず──無邪気とは口が裂けても言えない
口が裂けるほど笑ったとしても、それは笑みではなかった。
廣井きくりは心から申し訳なさそうに謝る山口太介を眺めながら、少し考えてみることにした。
今から自分がなにをすべきなのかを。
自分が山口太介をどうしたいのかを。
酔った頭なりに考えて、実行してみることにした。
◇
「くそぅ! なんだよ〜! 太介くんの薄情者〜!」
「ちょ、きくりさん!? 声デカいですって」
結束バンドのライブと重なってしまっているのでSICKHACKのライブには行けない旨を伝えた直後、鬼ころ片手に大声を出し始めたきくりさん。夜間ということもあり──そして住宅街のど真ん中ということもあり、俺は慌ててきくりさんを宥めるべく駆け寄った。
「あーあ! 太介くんに格好良いところ見せたかったのになぁ!」
「本当にごめんなさい! 公道で暴れるのだけは勘弁してください!」
「飲んでやるぅ!」
「さっきから飲んでるでしょ! ──って、イッキ飲み!?」
きくりさんの肩を掴んで落ち着かせようとするが、この酔っぱらい存外に力が強い。酔うと身体のリミッターが外れるだとかなんとかとは聞いたことがあるが、今のきくりさんはまさにそれ。俺の制止なんて聞く耳持たず、口を付けた鬼ころのパックを一息でぺちゃんこに凹ませてしまった。
俺はまだ未成年だからお酒のことなんて詳しくもなんともないが、きくりさんが常用する鬼ころのアルコール度数が高いのはなんとなく分かっている。
鬼ころは言うならば日本酒で、日本酒といえば小さな
そんな、日本酒。
鬼ころ。
いくら普段から常用して飲酒にも酔っぱらうことにも慣れているきくりさんだからといって、アルコールの過剰摂取による手痛いしっぺ返しは免れない。
「うぅ……、あーヤバい。立ってらんない」
急性アルコール中毒。そんな仰々しい単語を使ってしまいたくなるほどの事態。きくりさんはフラフラと足元が
ボフンと俺の胸に沈んだきくりさんから、ツンとしたアルコール臭が香ってきた。
「気持ち悪いぃ……死ぬぅ……」
「死なないでくださいきくりさん!」
全くと言っていいほど力の入っていないきくりさんの身体は見た目よりも随分重たく感じる。しかし、いくら俺が貧弱なバイタリティの男子高校生だったとしても、気分悪そうにしている女性を支えてあげられないほどではない。明日目が覚めたら筋肉痛に苦しめられるだろうが、今はそんなことは関係ない。
気付けの為にきくりさんの頬を優しく叩く。しかしきくりさんは相変わらず「うぅ……」と苦しそうに唸っているばかり。
「一旦、志麻さんの家戻りましょうか。俺一人じゃ判断に困りますし」
「だ、大丈夫大丈夫……。もう結構歩いて来ちゃったし、また同じ距離戻るのもお互いしんどいでしょぉ……」
「じゃ、じゃあどうするんですか。救急車呼びましょうか?」
「そ、それよりもさ……」
「それよりも?」
「私の家まで送ってよ」
◇
「ただいまぁ〜!」
「お、お邪魔します……」
某所、アパート。
その中の一室にきくりさんは住んでいるらしい。
そこまではなにもおかしなところはなく、「一人暮らしなんですね〜」と呑気に相槌を打ったりしていた俺だが、いざその
木造で作られたこのアパートは遠目から見ただけでも嫌な雰囲気で、ここまで点々と続いてきた灯りが一帯で突然途絶えている。まるでそこだけ闇に取り込まれてしまっているかのように、このアパートの敷地内にだけ灯りが無い。灯っている部屋も無い。本当に人が住んでいるのか──酔っているので場所を間違えたのではないか。そう疑わざるを得ない外観だった。
しかし間違いは無いらしい。
間違いであってほしかった。
ここに入っては駄目だとアラートを鳴らしてくる本能に従って思わず足踏みしてしまったが、肩を貸しているきくりさんは勝手知ったる様子で──肩を借りている立場だというのに力強く前進を促してくるので、連れられる形で仕方無く敷地内に足を踏み入れる。
敷地内に入った途端、別世界に迷い込んでしまったかのように空気が冷えていて、肩を貸しているきくりさんに「あれ、ビビってんの?」と身体の震えを指摘されてしまった。
やがて辿り着いた一室。玄関ドアに貼られた無数のお
施錠してないのかよ……。
きくりさんの防犯意識に呆れ果てた俺は、ドアを締めてからしっかりと施錠──つまみを横に回した。
そんなこんなで、敷地内どころか部屋の中まで入ってしまった。俺には霊感というものはまるっきり無いものの、それでもなんとなく
無事に家まで送り届けたことだし、一刻も早くきくりさんに別れを告げようと片手を上げて挨拶をしようとしたところで。
「送ってくれたお礼もしたいし、折角だからゆっくりしていきなよ。……なに? その手」
「……なんでもないです」
酩酊感に身を任せて笑いかけてくる緩んだ表情にすっかり毒気と怖気を抜かれてしまった俺は、渋々背を丸めて溜め息。泣く泣く帰宅を先延ばしにすることを決めた。
閑話休題。
脱ぐつもりのなかった靴を脱ぎ、きくりさん宅へと足を踏み入れる。
一人で歩けるまでに回復したのか、楽しげな足取りで先を行ったきくりさんは、部屋の中央にある吊り下げ灯の紐を引っ張って電気を点けた。アパートの雰囲気と暗さにすっかりやられていた俺は、眼球の奥が痛むほどの明かりを見て安堵のため息を吐いた。
スタジャン姿の背中を追い、早歩きで薄暗いキッチンを抜ける。
一人暮らしの女性のお宅にお邪魔しているという一種の非日常的な──男ならば誰しもが抱くどこか憧れてやまない幻想的なソレが脳裏を掠める。あれ、もしかして今の俺ってかなり大胆なことしてないか? と自身の行動を冷や汗混じりに振り返ってみる。
しかし幻想はあくまで幻想。きくりさんが暮らす一室、ワンルームの有様を見て俺はその考えを即座に頭の外へと放り投げた。
「き、
漏れた言葉が思わず荒くなってしまうほどの惨状。
飲兵衛のきくりさんのことだから「鬼ころのゴミとか散らばってるんだろうな」くらいの予想はできていた。
だが、甘かった。
脱ぎっぱなし放りっぱなしの衣類。
畳まれてすらいなければ、敷かれているわけでもなくグチャリと形を歪めている布団。
卓上、食べ終わってそのままにしているコンビニ弁当の容器。
部屋の隅に数個積まれたゴミ袋。
肺によろしくない埃っぽい空気。
部屋の一角を陣取る冷蔵庫と、その横に並べられた多種多様な酒類。
絶句。
「…………」
駄目人間。
駄目人間の部屋だった。
室内の様相に口を開けたままフリーズしてしまっていると、ドカっと床に腰を下ろしたきくりさんが不思議そうな顔で俺を見上げてきた。
「どしたの太介くん。まぁ適当に座りなよ」
どこに?
思わずそう問いたくなったが、暮らしの形なんて人それぞれだ。いやそれ以前に「部屋汚いっすね」だなんて馬鹿正直に人に言っていいものではない。言葉を選ぶのではなく、今は口を閉じておこう。
「…………」
人様の家にお邪魔しているわけなので──というか外から帰ってきたところなので、座る前に手を洗わせてくださいと申し出てみる。自分は洗う気は無いらしいきくりさんに口頭で案内された洗面所(電球は切らしているらしい)にてスマホのライトを点けて手を洗い、ポケットからハンカチを出して手を拭き──
「──き、きくりさん」
名を呼べば、
「なーにー?」
「……お風呂って、どこにあるんですか?」
洗面所と、隣にはドア一枚挟んだトイレのみ。
風呂場が無い。
猛烈に嫌な予感がして問うてみれば、きくりさんは「あはは」と笑ってから。
「無いよ〜」
「無いの!?」
慌てて洗面所から戻ってきた俺の表情を見て笑ってから、あっけらかんと、そう言い放った。
「…………」
「あ、太介くん私のことばっちぃとか思ってるでしょ〜」
「い、いや。そんなこと……」
流石にそこまでは思っていない。流石に。
「お風呂なら近くに銭湯があるからね!」
「でも、毎日銭湯って出費
ただでさえ機材壊してるのに。
言葉の裏にそんな意味を込めて聞いてみると、きくりさんは聞いて驚けと言わんばかりに得意げに胸を張った。
「うん! だから銭湯に行くのは週一にして、それ以外の日は知り合いの家回って事なきを得てる!」
「なにライフハックみたいに言ってるんですか。それ事なきを得られてないですよ」
むしろ大切なナニカを失っていってると思う。
「えっと。太介くんとぉ、志麻とぉ、イライザとぉ、大槻ちゃんとぉ、先輩とぉ」
お風呂を借りているという
そうか、だからたまに俺の家に遊びに来てはついでにとお風呂を借りていくのか。確かに頻度で言えば週一くらいのペースだったかもしれない。知らぬ間に週一のサイクルに巻き込まれてしまっているとは、流石はきくりさんといったところか。
「…………」
上記に名前が挙がった四人と、俺。俺含めた内二人は年下だというのに、きくりさんからしたらそんなことお構い無しなのだろう。頼れるものは頼る──きくりさんはある種、そこのところキチンと人間だ。
きくりさんは面倒見が良くて頼りになる先輩なので、後輩にあたる俺とヨヨちゃんとしても「はいよろこんで」と二つ返事で応えたくなるのだ。
きくりさんに募る日頃の感謝を脳内にて捧げていたところで、ふと思い至る。
俺は呟くように言った。
「……というか俺達5人と銭湯じゃ、まだ1週間の内6日しか埋まってませんけど」
「志麻と先輩は、どっちか週2でお願いしてる! どっちも断られたらその日は諦めてるよ〜」
先輩の妹ちゃん、最近私のことガチクズを見る目で見てくるから傷付くよね!
きくりさんはなんでもなさそうに笑った。
俺は全く笑えなかった。
だって、下北沢の大天使と呼ばれるあの虹夏がそんな態度を取るんだぞ?
きくりさん、アンタ一体どれだけの粗相を重ねているんだ。
「虹夏がそんな態度を!? 笑えないですよきくりさん! あなた大人なんですから──というか大人じゃなくても、お風呂は毎日入ってください!」
「これが噂の風呂キャンセル界隈ってやつ?」
「きくりさんの場合は自由意志によるキャンセルじゃないでしょ……」
例えるなら、風呂の方からお断りされているような、出場資格も無いのにエントリー会場まで来ているような──そんな立場。
駄目だ、驚き過ぎて上手いことも言えない。
「……はぁ」
「あー! 太介くんが先輩に向かって溜め息吐いたぁ!」
俺を指差してショックそうな顔をするきくりさん。
あぁ、もう。
未だに楽天的な態度のきくりさん。俺はたまらず、後頭部をガシガシとかきながら仕方無く宣言した。
「……きくりさん。誰にも頼れず、このままじゃ本当にお風呂入れないってなった日は俺の家来てください。俺の家のお風呂ならいつ使っても良いんで」
「へ?」
志麻さんはとても優しくて懐の広い人だが、きくりさんに対しては割と厳しい。まあその厳しさもきくりさんへの愛あってのもの──つまりは広い目で見ればきくりさんの為を思っての行動に他ならないのだが、きくりさんはお風呂に入れないショックが大き過ぎてあまりその愛を感じ取れていないのかもしれない。
仮に許可を得られたとしても好感度はしっかりと下がっているし、虹夏は「あぁはなるまい」と厳しい視線と共にしっかり反面教師に認定している。タイプは違えど、しっかり信頼は失っているのだ。
「太介くん……!」
……でも。
でも、俺は今のところ大丈夫。
しかしそれは志麻さんや星歌さんと違って、まだきくりさんとの関係が浅いが故の感覚かもしれないけど。もしかしたら今後、何度もお風呂を借りにくるきくりさんを鬱陶しく思う日が来るのかも知れないけれども。
でも、取り敢えず今現在はそんなこと全然無い。むしろきくりさんに
「きくりさんのことクズだと思ってる虹夏も、きくりさんが来る
だから、気軽に来てください。
そう笑いかける。
俺からの言葉を受けたきくりさんは、嬉しそうにその表情に花を咲かせ──ることはなく。
反転。
今までの笑顔が嘘のように、その顔から表情が消えた。
「……は? 今なんて言った?」
「え? ですから、いつでもお風呂入りに来てくださいって」
もしかして、魅力的な提案過ぎて受け止められなかったのだろうか。仕方がないともう一度言葉にしてみるも、しかしきくりさんが喜ぶことはない。
むしろその顔は、無表情から段々と悪感情へと転がり落ちていく。
眉を
俺を、ジッと見つめていた。
「違う。もっと直前」
「? あぁ、虹夏と鉢合わせなくて済む……でしたっけ」
伝えたことは憶えているが、まさか一言一句というわけではない。ニュアンスで返すと、きくりさんは立ち上がって俺の前までやってきた。俺の顎くらいの位置にある目線が──ぐるぐると渦巻いた二つの瞳が俺を見上げてくる。
「妹ちゃんと、どういう関係なの?」
「……はぁ?」
予想していたものと違うセリフに、俺は思わず呆けた声を出してしまった。
というのも、俺はてっきり怒られるのだと思っていたのだ。俺の発言の中にあった何かが偶然きくりさんの逆鱗に触れてしまい、訳も分からぬまま怒られる──そんな展開を予想してしまっていたのだ。
だが、今こうしてきくりさんから問われたセリフに怒りを彷彿とさせるニュアンスは何一つなく、そういえば言ってなかったっけと俺は首の後ろに手を当てた。
「幼馴染っすよ。マジで幼稚園とかその辺りからの」
「なんで太介くんの家に来てるの? 太介くんの口ぶりだと毎日のように来てるみたいに聞こえるけど」
つらつらと、きくりさんからの問いが続く。先程までの語尾に母音が伸びているような気の抜けた言葉ではなく、まるで検察官が証人に対して事件に関する尋問を行っているように──明瞭な声質で俺に問いを重ねていた。
首に当てていた手を下ろして答える。
「中学まではじいちゃんばあちゃんと暮らしてたんで普通だったんですけど、高校入学を機に一人暮らしを始めてから虹夏が来てくれるようになったんですよね」
「なんで?」
「なんでって……。えーっと確か、虹夏が偶然俺の家に遊びに来た時に、爆買いしたカップ麺の箱とか10秒くらいでチャージ出来るゼリーの山とかを見られたからですね」
「…………」
「メッチャ怒られましたよ。俺としてはばあちゃんの手料理生活じゃなくなったんで、そういえば今まで食べたことなかったしついでに言えば楽だしで、興味本位で買ってみただけだったんですけど、ブチ切れた虹夏に説教されている内に──あれよそれよという間に虹夏が俺の家に通うことが決定してまして」
「…………」
「なのできくりさんへの答えとしては、虹夏はほぼ毎日俺の家に来てご飯作ってくれてます……ですね」
言い終える。
まぁ、
きくりさんからの不思議な問いを俺なりに噛み砕いていると、不意に両腕を掴まれた。両腕といっても、掴まれたのはよくイメージする手首や前腕の部分ではなく二の腕──更に言えば、ほぼ肩みたいな部位。
シャツの袖越し、俺の肌にきくりさんの黒い爪が食い込む。痛みに思わず眉間に皺が寄った。
「太介くんさぁ」
「は、はい」
名前を呼ばれ、応える。しかしその声の低さに思わず返答に畏れが混じった。普段は優しいきくりさんが俺に向かってこんな怒気を飛ばしているという事実に、どうしようもなく声が、身体が震えた。
「ナメてんの?」
「え? ──」
きくりさんの言葉の意味を考えている間に、俺は瞬く間に床に転ばされていた。痛む背中に意識がいくよりも先に、俺の腹部に跨ったきくりさんの両腕が俺の両耳を掠めるように床にドン、と置かれる。
眼前。
爛々と光る瞳が俺を射抜き。
アルコールを含んだ呼気が俺の鼻腔を侵す。
俺はきくりさんに押し倒されていた。
天井からぶら下がる蛍光灯の眩しさに目を細めている間に、きくりさんが口を開いた。
「
「ど、どういうことですか……?」
急展開。
俺よりも10センチほど身長が低い、体格も華奢なきくりさんに容易く組み伏せられていると事実。それから、今問われた
俺が話したエピソードと、きくりさんが言った
「はぐらかすんだ? まぁ別にいいけど」
俺の問いかけを往生際の悪さだと解釈したきくりさん。低く冷たい声とは裏腹に、見開かれた瞳だけは未だ
「あーあ。ライブ観に来れないって言うから、どさくさで抱きついてほっぺにチュー……くらいで勘弁してあげようかなって思ってたのに」
きくりさんは、商店街のくじ引きで良い景品がもらえなかった子供を励ますように、俺に向かって笑いかけた。
……というか、ほっぺにチュー? きくりさんはなにを言っているんだ?
俺の困惑を他所に、きくりさんは呟くように──昔を懐かしむように話し始めた。
「……数年前。出来立てホヤホヤのSTARRYで、妹ちゃんの為に歌う太介くんを──その
「な、懐かしいですね」
ギロリ。
眼力が増した視線に耐えきれずに口を閉じる。どうやらきくりさんの今の言葉は、対話というよりかは独白のようなものらしい。
もしくは空気を和ませようとした俺の軽い声色が気に食わなかったのかもしれないが、どちらにせよするべきことは一緒だ。
沈黙。
「太介くんの
きくりさんに力づくで押し倒されている異様な状況にも関わらず、その独白だけは滑るように俺の頭へと
きくりさんの呼吸と合わせて顔にかかるアルコール臭に顔を背けたくなったが、刺激してはいけないと耐えた。
「太介くんは、こんな私と笑顔で接してくれた。SICKHACKのベースボーカルの
続く独白。その意図は未だ読めず、解決の糸口も見えないのなら黙って終わるのを待つしかない。履いたジーンズの左ポケット内にある膨らみに一瞬意識を向けていると。
「──ねぇ、聞いてる?」
床から片手を浮かせたきくりさんに頬を掴まれた。額と額が触れ、視界いっぱいにきくりさんの渦巻いた瞳が広がる。その妖しさに見入り、魅入られてしまいそうになっていると、きくりさんは俺との顔の距離を少しだけ離した。
空気の変質を肌で感じた俺は、このタイミングしか無いと口を挟む。
「……い、一体なにが言いたいんですかきくりさん。俺、きくりさんが怒っている意味がちょっとまだ分からないんですけど」
よかったら教えてくださいよ。
穏やかに、きくりさんを宥めるような声色で問うてみる。
しかしきくりさんは俺の質問で気を落ち着かせるだとか、張り詰めた緊張を和らげるだとかそんなことは全く無く──舌打ち。イライラした表情で、弾くように舌を打った。
「……あーもう、マジでイラつく。自覚無しなの?」
俺から視線を外し、吐き捨てるような一言。この身を刺すような視線から一瞬だけでも解放された俺は、ぷはぁっと息を吐く。知らぬ間に呼吸すら自粛していたらしい。
鼻からではなく、口から酸素を取り込む。喘ぐように酸素を求めて呼吸をする口に、ふとなにかが触れた。
「ッ──!?」
驚愕に目を見開く。
目の焦点が合わないほど近いところにきくりさんがいる。
逃げられないように両腕で頭を固定されている。
きくりさんの身体が俺に覆い被さっている。
唇がなにか柔らかいものに触れていて、濡れている。
口呼吸が、出来なくなっている。
「……はい、チューも〜らいっ」
長い間触れ続けていた気がする唇。時間の感覚が狂うほど行われた
突然の奇行とも呼ぶべき行動に、頭上に疑問符を何度も浮かべて頭を働かせる。しかし今のきくりさんの奇行に正しさだとか、そういった
俺の脳が処理落ちしかかっている間に覆い被さっていた身体を起こしたきくりさん。俺を押し倒している時の体勢へと戻り、片手で唇を拭いながら嗤った。
それから、思い出したように鬼ころのストローを咥え、吸う。口を離す。無意識のうちにきくりさんの唇に視線がいってしまうのは、この際もう仕方がないことだ。
「話戻すよ?」
「…………」
「散々私を
この私を弄ぶなんて良い度胸じゃん。
きくりさんは俺を見下ろしながら、苛立ちを隠そうともせずにそう言った。
しかし。
しかしその苛立ちは敵意というよりかは、元々心の中に存在していた
きくりさんの得体の知れない迫力にクラリと頭から後ろに倒れそうになったが、もう俺は床に倒れている。これ以上後ろにはいけない。
きくりさんと床に、挟まれている。
「……と言っても、別に妹ちゃんがいるから
「そ、
「ん?」
濁した言葉に問いを重ねると、きくりさんが少し楽しそうな目で俺を見た。
嗚呼、成る程。
きっと、サバンナでライオンと目が合ったシマウマはこんな感情を抱くのだろう。
……いや、俺がシマウマほどライオン相手にしぶとく逃げ回れるとは思えない。
言うならば、うさぎ。
百獣の王ライオンは、うさぎを狩る時も全力を尽くすという。
きくりさんに見下ろされて分かる、このどうしようもなさ。
諦念気味にそう察した。
「ねぇ、太介くん」
「……はい」
念の為聞くね。
きくりさんはずっと羽織っていたスタジャンを脱ぎ、部屋の隅に放り投げる。薄緑色のキャミソール姿になってから、そう前置きをした。
「私、今から君のことメチャクチャにしようかと思ってるんだけど……嫌だ?」
メチャクチャに。
酸いも甘いも噛み分け、清濁合わせ呑んできた成人女性と、それなりの情操教育を受けてきた男子高校生が、ここまでの至近距離で顔を見合わせているのだ。いくら俺だって、その意味は分かる。
「…………」
しかしそれが果たして性的な意味なのか、それとも暴力的な意味なのか──その2択からこっちだろうと決めることこそ出来ないが──分かる。
このままでは、俺はきくりさんに
その行いに関するYES or NOを、今この瞬間に選ばされている。
しかも強制的に。
沈黙は許されない。
「……い、嫌です」
だから選んだ。
きくりさんの行いを肯定することも受け入れることも出来なかった俺は、こんなことやめてくださいという願いを込めた瞳と共にそう答えた。きくりさんは今悪酔いしているだけで、言ってしまえば本人の意志ではなく過ち。冷静になればこの状況の異様さに気付いてくれるのではないかと、俺はそう信じていたからだ。
今まで接してきて感じたきくりさんの善性を、俺は信じて
「あははははは! 太介くん、メッチャ馬鹿だね!」
しかし、俺の答えは一笑に付される。俺の答えを聞いたきくりさんはケタケタと腹を抱えて笑った。
何がおかしいのか──きくりさんの爆笑と連動して腹部に感じる振動に意識が傾きながらきくりさんの次の言葉を待つ。
「──だからぁ! 念の為って言ってんじゃんっ!」
瞬間、殴打。
声を荒げたきくりさんの右拳が、無防備な俺の頬を打ち抜いた。
鈍痛。床に組み伏されているが故、受け身も取れずに殴られた左の頬がジンジンと痛む。頬の内、奥歯にも違和感。今の殴打で唇が切れたのか、口内には僅かに血が滲んだ。
「うぅ……」
「もうこっちはなんて言われようが襲うつもりなの! なにまだ清い身体で帰れると思ってんの!?」
きくりさんに手を上げられた。
こんなこと初めてだった。
きくりさんと仲良くなってから数年が経つ。志麻さんやイライザさん、星歌さん等と比べたらまだまだ浅い絆ではあるが、それなりに同じ時を過ごしてきたつもりだ。
きくりさんは酔っ払いだから、たまに身体の制御が思うようにいかないことがある。身体のリーチを間違えてぶつかってきたり、下駄を履いたままの千鳥足で俺の足の甲を踏んできたり。
1ヶ月に一度くらいのペースで、そういった苦い経験もしてきたものだ。
けれども、今みたいにきくりさんの意思で暴力を振るわれたのは初めてだった。
思わずきくりさんを見る視線に力が入る。ジンジンと痛み続ける頬は痛みを怒りへと昇華させ、何をするんだという思いが込み上げてくる。
「あっ、ご、ごめんね。痛かったよね……」
俺に睨まれたきくりさんが、驚いて肩を跳ねさせた。
簡単に言えば、ビビっていた。
人を殴っておいて何故そんなに弱気なのか。生じた疑問は、きくりさんの次の行動によって解消されることとなった。
どこからか鬼ころを取り出したきくりさん。パックの側面に付いたストローを鬼ころに差し、中に入った酒を吸い上げた。
飲み込む喉の動きは計4カウント。水だとしても腹に溜まるほどの量を、一気に飲み込んだ。
「かぁ〜! 染みる〜! やっぱ鬼ころ最高〜! ──って、は? 太介くん何その目」
急変。
その態度の移り変わりを目の当たりにして、合点がいく。
先程の弱気なきくりさんは正気に戻ったのではなく、ただ単にお酒が抜けかけていただけなのだ。
「チッ……。ちゃんと
困ったように眉を下げ、鬼ころを持っていない方の手の人差し指でぽりぽりと頬をかくきくりさん。視線が一度外され、数秒経ってまた交わる。
きくりさんはニタリと嫌らしく笑っていた。
「あ、もしかして私のこと誘ってる?」
「ち、違──」
否定しようと開いた口に、液体。その不味さに、もう何度目も分からない驚愕。
視線を辿れば、きくりさんが飲みかけの鬼ころの中身を俺に掛けているところで。
ジャバジャバと、ストローを差す穴から中身を絞る勢いでパックを逆向きに握りしめるきくりさん。やがて空になった鬼ころを辺りに放り投げ、口やら鼻に酒が入って咳き込む俺の顔を楽しそうに眺めた。
「飲んで楽しもうよ。飲んだ方が多分気持ち良くなれるよ? なんで飲まないの? お酒嫌いだっけ?」
「ゲホッ……! 俺、未成年なので……!」
顔がカッと熱くなる。決して酒も飲めない未成年な自分を恥ずかしく思ったからではない。
顔が熱くなった原因が、咳き込む前に口内に入れてしまった極小量の酒の所為だと気付いた頃には、俺の視界は早くも少し歪み始めていた。
参った。
今まで酒を飲んだ経験なんてなかったものだから、まさか自分が酒に弱いだなんて思いもしなかった。
そういえば、じいちゃんばあちゃんが酒を飲んでいるところなんて見た事なかったな。
もしかしてそういう家系なのかな。
父さんと母さんも弱かったのかな。
もう死んでるから分かんねぇわ。
酔う、という感覚が分からない。しかし今こうして思考が纏まらなくなり始めているのは、もしかして酒に酔っているからなのかもしれない。
表面から熱を放つ顔と乱れ始めた思考に混乱している俺を、楽しそうに眺めていたきくりさん。ようやく俺の異変に気付いたのか、心の底から意外そうに首を傾げた。
「……え、太介くん今未成年って言った? ……え、じゃあ襲ったらマズいなぁ──うわ! どうしようどうしよう……! 私捕まっちゃう! あ、ヤバ、冷や汗かいたらお酒抜けてきた……」
俺に跨るきくりさんが、頭を抱えて苦しみ出す。未成年飲酒というワードが引き金となって、酔いが覚め始めたらしい。
きくりさんのキャミソールにこれ以上鬼ころを隠しておくスペースが無いのならば、これはチャンスだ。
きくりさんの酔いが覚めてくれれば──きくりさんが今の状況がおかしいと理解してくれれば、俺は解放される。
仮にきくりさんが現実を受け入れまいと更なる飲酒を望んだとしても、酒を飲むためにはどうしたって一度立ち上がって鬼ころを手に取らなければならず、その内に俺は外まで逃げることが出来る。
どちらに転んでも、好転。
思いがけないチャンスに、身体に力が入る。
「あぁ……どうしよ……。太介くん本当にごめん……私なんてことを……」
こちらに対する懺悔のように、うわごとを呟くきくりさん。しかしその視線は鬼ころを求めて室内を行ったり来たりしていて、未だお目当ての鬼ころは見つかっていない様子。
禁断症状。
果たしてここまでの短期間で発症するものなのかはさて置き、今こうしてきくりさんがソレに苦しんでいるのは事実。手先を震わせ、瞳を震わせているきくりさんは心の底から酒を求めていた。
血眼になって酒を探している間にも、きくりさんはじわじわと冷静さを取り戻していく。
「…………」
ふと。
目が合った。
鬼ころを探していたきくりさんと、目が合った。
「…………あぁ」
なにかを閃いた様子のきくりさん。
穏やかな笑顔と共に細められたその目が──思わずドキリとしてしまうほどの笑顔が、こちらに近づいて来た。
「……あった」
何が
そう問いかけようとして、気付く。
俺の顔が今
きくりさんの口がゆっくりと開かれる。鋭い犬歯と長い舌、それからつい先程触れ合った唇を見てこれからなにが起こるのかを完全に理解。
両手できくりさんを制止しようとする。
しかし動かした途端に両手首を掴まれ、床にホールド。それでも首を左右に振って抵抗を試みるが、逃げ
ザリ……。
きくりさんの舌が、酒に濡れた俺の頬をゆっくりと味わうように這う。砂を
「ひっ……!」
遠慮も容赦も無く、きくりさんが俺の顔を舐めていく。鼻を、顎を、唇を、酒がかかっているところなら満遍なく舐めていく。
耐え切れぬ不快感に小さく悲鳴を上げれば、俺の両手首を掴むきくりさんの手に力が入った。
「太介くんが悪いんだよ! あれだけ私をその気にさせたくせに。今日だって、ノコノコ私の家まで尻尾振ってついてきたくせに!」
眼前できくりさんが怒鳴る。俺の腹の上で気分を乱高下させるきくりさんに、俺は心のそこからビビってしまっていた。
目を瞑ってきくりさんの咆哮に耐える。
それを無抵抗と受け取ったのか、きくりさんは嬉しそうに俺の首筋に吸い付き始めた。
「……っはぁ。可愛いねぇ、太介くん」
「…………」
「おい。無視すんなよ」
「……な、なんですか」
「ね、太介くん。目ぇ開けて。……それとも、キツめに言わないと開けられない?」
目を瞑っているが故に脳の奥底まで滑り込もうとするきくりさんの言葉を、なんだかとても恐ろしく感じてしまって。
脅されるがままに目を開ければ、そこには頬を赤らめて笑うきくりさん。酔っ払いの頬が赤いのはいつものことではあるが、今のそれはなんだか違う理由にも思えた。
「手、繋ご」
手。
手。
いつの間にか上体を起こしていたきくりさん。俺の腹部に座ったまま、俺の腕から離した両手を──両手の平をこちらに向けている。
繋ぐ。
俺から手を伸ばして、きくりさんと両手を繋ぐ。きくりさんの手の向き的に、繋げば
「…………」
恋人繋ぎ。
それは恐らく、合意の象徴。
繋いでしまえば、これから先何をされたとしてもきくりさんに一定の論理を与えてしまうことになりかねない。
「太介くんがボコボコに暴力振るわれながら犯される方が好みっていうなら、そのままでも良いけど」
そんなわけがない。俺は今すぐにでも逃げ出したいのだ。
しかし今の言葉で、残り秒数不明のタイムリミットが設けられてしまった。早く答えねば、きくりさんは俺の答えを沈黙と決めてしまう。
「…………」
答えねば。
「…………」
──答えるって、なにを?
「…………」
危ない。
危なかった。
きくりさんに二択を提示され、知らず知らずのうちにその二択から
俺にはまだ他の道がある。
助かる道が、まだ一つだけある。
あとは、その道を選ぶ勇気だけ。
「…………」
右手を動かす。きくりさんの左手へ。
「アハッ」
片手を繋ぐと、きくりさんが嬉しそうに笑う。俺からのアクションに心の底から喜び、俺の右手に頬ずりを始めた。
「…………」
左手を動かす。ジーンズの左ポケットへ。
ビリリリリリリリリリリッ!!
「うわっ!? なに!?」
突然鳴り響いた不快な音に、きくりさんがひっくり返る。腹の上から重みが消えたのを確認し、俺は慌てて立ち上がった。
「ッ!?」
立ち上がった瞬間に
叱咜。情けない身体を鞭打つ。
このチャンスを逃せばどんな目に遭うか分からない。きくりさんの狂気を知ってしまった俺は、この部屋から逃げる為に走り出した。部屋から外に出るくらいなら、俺の体力は切れない。
走る。
走る。
明るい部屋から、外の暗闇へと突き走る。
「待てッ!」
背中にきくりさんの切迫詰まった声が刺さる。ドタドタという音が聞こえることから、恐らく追いかけてきている。
狭いワンルーム、彼我の距離は数歩分しかない。
少しのロスも許されない。
部屋を抜け、キッチンを抜ける。玄関のドアはもう目の前。
俺のポケットの中では、まだソレが鳴り続けていた。
◇
『山口、これあげる』
『? なんですかこれ』
『防犯ブザー』
『なんで!?』
『タスケ、きくりから狙われてるからネ〜』
『ね、狙われてる? どういうことですか……?』
『……まぁ、色々あるんだよ』
『……?』
『廣井は常時酔っ払ってるから、何するか分かんないからね。
『ははは! なんですかそれ! 面白いっすね!』
『『…………』』
『……え、マジのやつですか?』
『持っとけ』
『持っておいテ』
『わ、分かりました』
◇
防犯ブザー。
タコパも終わり、家へと帰る直前に
左足を前に出す。
玄関ドアはもう目の前。靴を履いている暇なんて無い。
右足を前に出す。
玄関ドアにはもう手が届く距離。裸足でも良いから外に出る。
「────」
不意に、思い出す。
突然目の前に現れたその記憶は、俺がこの部屋を訪れた時のもの。
俺は直前まで
そうだ。
俺はこの部屋に入って、きくりさんの防犯意識の低さに呆れてドアの鍵を締めていたのだ。
すっかり忘れていた。土壇場で思い出さなければ、解錠に手間取って追いつかれていただろう。
少しのロスも許されない。
ドアノブを掴み、それとほぼ同時に解錠を
「…………?」
掛けた。
しっかりと全体重を掛けた。
「──は、ハァッ……!?」
ドアは、開かなかった。
「あぁ、鍵締めちゃってたんだ」
耳元できくりさんの声が聞こえ、慌てて振り返る。どれだけ集中していたのか、こうして振り返って久し振りに防犯ブザーの音が耳に入った。
「あーもう、五月蝿いなぁソレ」
えい。
俺のポケットに手を捩じ込んだきくりさんは、防犯ブザーを取り出して床に叩き付けた。それでも足りないのか、かかとで踏み抜く。
静寂。
防犯ブザーは完全に壊れ、もう小さな音一つ鳴らすことが出来なくなった。
「その鍵さ、壊れてるんだよね」
防犯ブザーが破壊される一部始終を呆然と見届けていた俺の耳に、きくりさんの声が入り込む。
声のする方へと視線を向ければ、そこにはきくりさんの顔。思わず飛び退いてしまった。
玄関ドアに背中を張り付ける。きくりさんが一歩距離を詰め、渦巻いた瞳で俺を見上げた。
「一度締めると業者呼ばないと開かなくなっちゃうから、ずっと鍵開けっぱにしてたの。こんなボロアパートに空き巣なんて入らないしね〜」
あっけらかんと、世間話のように
「防犯ブザーも作戦としては良かったと思うよ。なんで持ってたのか知らないけど、本当にビックリしたし」
そ、そうだ。防犯ブザー。
これだけ鳴らしていたのだから、近隣住民が様子を見に来てもおかしくない。
「──こんなボロアパートだからさ。両隣空いてるし、アパート自体私含めて数人しか住んでないんだよね」
俺の希望を、きくりさんが一蹴。
「こんなボロアパートに住んでるような
「あ……、ああ……」
対局開始から投了までの道筋を丁寧に解説されているような、きくりさんの言葉。肩まで絶望に浸からされているように、俺の精神を追い詰めていく。
きくりさんが笑う。
呼吸の度に口から湯気が出てるんじゃないかと思うほど、俺の身体にかかるきくりさんの息は熱かった。
「太介くん、さっき床でおっ始めようとしたのが嫌だったんだよね?」
「は、はぁ? ──」
「それが嫌だから、こうして逃げ出しちゃったんだよね?」
「布団いこっか。布団なら太介くんも問題無いでしょ?」
「い、嫌だ……! 誰かッ──誰か助けて!」
現実から目を背けるように、きくりさんから背を向けてドアを何度も叩く。誰でも良いから助けてくれと、この状況からの脱出を切に願う。
「……チッ」
衝撃。
天地がひっくり返ったのではないかと錯覚するほどの衝撃。例えの通り、俺は立っていられずに玄関に倒れ、自分の靴やきくりさんの靴が辺りにとっ散らかった。
横向きになった視界に、きくりさんがいつも履いていた下駄が映る。しかしその下駄は片方しか無く、もう片方は一体どこまで転がったんだと視線を動かす。
身体はピクリとも動いてはくれなかった。
視界にきくりさんの両足が映る。足の爪も黒く塗っているんだなと他人事のようにぼんやりと考えていると、両膝が曲げられてきくりさんが俺の顔を覗き込んだ。
「生きてる〜?」
答えられない。
おーい、と俺の目の前で手を振って意識の確認をするきくりさん。もう片方の手には下駄が握られていて、歯の部分は血が滴っていた。
あぁ、アレで殴られたのか。そういえば頭も痛い気がする。
「んー。
答えられない。
「好都合好都合っ! ほら太介くん、お布団行くよ〜」
片手を引かれ、ずるずると引き摺られる。俺の身体が軽いのかきくりさんの力が強いのかは分からないが、着実に玄関から遠ざかっている。
「そうそう。一回
答えられない。
「なんとか言えよ〜太介くん。マグロじゃつまんないから、喘ぎ声くらいは頑張ってあげてよ?」
やがて、目を焼く灯り。
どうやら元の場所まで帰ってきたらしい。
その明るさに目を閉じているうちにいつの間にか布団が敷かれ、その上に転がされていた。上に跨ったきくりさんが俺のシャツのボタンを上から外していく。
口を開く。
なんとかして、声を出そうと気を振り絞る。
「……き」
「ん、どうしたの?」
「……きくり、さん」
「なあに、太介くん」
家に、帰りたいです。
伝えたかった言葉が、果たして声に出せたのかは分からない。身体は指一つ動かせないし、殴られた頭が酷く痛む。
時折焦点がブレる視界で、きくりさんが驚いたような表情を見せる。それから、ニコリと笑った。
「んー、ヤダ」
「……はは」
よかった。聞こえてはいたらしい。
乾いた笑いが自嘲気味に口から漏れる。
「でも気持ちは分かるよ? こんな酔っ払いに今から昏睡レイプされるって思ったら怖いよねぇ」
きくりさんは、朦朧とした俺の頭にもしっかり届くほどの声量で続ける。
「でも全部太介くんが悪いんだよ? 私の気持ちなんて知らずにその気にさせて誘ってさぁ」
覚えが無い。
いや、思い出せないだけなのか。
もう何も考えられない。
「楽しい思い出作ろうね。気絶しちゃっても、何度だって起こしてあげるからね」
言って、俺の額にきくりさんの唇が降ってきた。
すみません、興が乗って書きたいこと書きまくってたらなんかエッチな感じになっちゃいました!
ノリで書いたので、誤字脱字等まだあると思います。気付き次第修正します。
ルート解放条件は、廣井きくりを1日のうち複数回
UA10万超えてました!ありがとうございます!皆様の応援のおかげです!
感想評価もいつもありがとうございます!今回メッチャ頑張ったのでいっぱい褒めてください!
え、伊地知虹夏のルート解放条件と被ってるって?