須臾の月は夜空の端で浮かぶ 作:ぬん
私は星が踊るという表現が嫌いだ。
星は命を燃やしてただ燦然と光るだけで、誰かを楽しませる為に在る訳じゃない。星が瞬いて見えるのは地表から観測したら夜の雲間に遮られてそう見えるだけ。一等星から六等星まで細かく刻まれた星々の明るさの区分は、地球からの距離によって明るさが左右されて、これが別の銀河の別の星から観測したならば星々の等級は全く違う序列に入れ替わるはずだ。
関東平野から300kn離れた、太平洋の沖合に浮かぶ
多分、私は人間が嫌いなんだろうと思う。人間は個では愚かで、群では醜い。東京の人間社会は言わずもがな、この小さく平穏な小島でさえ、見た目は何一つ諍いなど起きてませんよと敦朴とした笑顔を取り繕っていて、中身を暴けば変わらない。夏の日向に何日も放置した生ゴミのような、利己的で打算的で腐敗した本質が現れるのだ。ああ醜い。醜い。人間は醜い。社会なんて滅びてしまえばいい。
だから人の意思が介入し得ない大いなる大自然を人の行為で暗喩するのが私は嫌いだった。星は踊らないし鳥は歌わない。海が泣くことも無ければ花々の話し声など聞こえるべくもない。
これを詩的表現とは私は感じない。それこそこの世の事象を穢している。
こうして海辺に切り立った崖の上から星を眺めるといつも、ついそんなことを考えてしまう。
自覚している。私は少し偏屈だ。
星はいつだって在るが儘、成るが儘。私が見ているこの星も、宇宙を旅した光が送り届けた遥か太古の光景であって、今となっては爆発して消失しているかもしれない。隕石に衝突して分裂しているかもしれない。でもそれが良い。そこに良し悪しも善悪も無く、優劣を決める判断基準も無い。自然の在り方というのは私にとっての理想像だ。
だから良く私はこの崖際の何も無い場所で、頼りない木造の手すりに寄りかかって一人星を眺めている。夜歩きを咎められることは無い。歩いて島の外周を歩けてしまうようなこの縁瀬島に不審者など存在しない。いるとすれば外部から天体観測目的で訪れる観光客だけだ。
「綺麗な星ですね。こんな星雲、生まれて初めて見ました」
この日、島内で見たことがない少女に話しかけられた時も、私はそうなのだろうと考えた。観光客で、
こんな小島じゃ買えないような今風のファッションに身を包み、長くしっとりとした栗色の髪は腰元までなだらかに流れている。瞳はぱっちりと大きく、ほんのり冷めた薄青い瞳。色白でスラリと手足が伸びていて、一度形容すれば『男子高校生が好きな要素を並べてみました』みたいな男ウケする容姿をしている。きっと見た目の手入れに余念が無いのだろう。
「この島じゃ日常ですよ」
「何かいいですね……とても美しい景色で」
笑みを絶やさずに少女は言った。ニコニコと鬱陶しくなるほど慈愛の表情を浮かべていて、すぐに理解した。別に本心で笑ってるのではなく、これは眼前の少女の処世術だ。笑みを浮かべることで敵意が無いことをアピールしている。逆説的に言えば真夜中に出会った私を警戒している。それもそうだろう。
まあ構わないさ。目の前の少女は私からすればお客さんで、大事な島の金蔓だ。未成年で高校生でしかない私でもそれくらいは理解している。せめてこの何の特色も無い離島に好印象を持って頂こうじゃないか。
「観光客の方にはそう見えるかもしれないですね。物珍しいものに目が惹かれるのは生物としての本能ですし、しかし住んでしまえばただの一風景でしかありません。なので移住はオススメしませんが、年に一回程度旅行で来て頂ければ絶えず一定の感動をお届けできることをお約束出来ますよ」
「そうなんですね。でも残念です、私、移住なんですよ。親の都合で」
「……この島に、ですか?」
何でも無い風に言われたりその言葉に驚くしかなかった。
こんな何も無い島に移住とは何事か。親の都合ということは元々住民だったのか、それとも仕事で来るだけなのか。いやこんな島に大それた仕事なんて無い。何処かの南国の国々と違いこんな場所でも立派な日本国の領土だからタックスヘイブンでも無いし、出張で来ても精々が偶にインフラ工事で訪れる現場作業員の方々くらいか。転勤するような土地じゃないのは確かだ。
ということは親族が元から島にいたのだろう。それくらいしか移住する理由なんてないはずだ。
「私、
少女は唐突に滔々と名乗った。思わず視線がそのコバルトブルーみたいに輝く瞳に吸い込まれる。
斑鐘朱由という名前はどうもこの少女にミスマッチしてる気がしてならない。外見からして人畜無害で常識人、同い年より少々大人びて見えるこの少女を表す符号としては僅かに尖り過ぎている。漢字は分からないけど、特に名前。須臾とは僅かな時間を意味する言葉だ。子供に何を願って親は付けたのだろう。まさか須臾の鮮烈に人生を捧げろ、みたいな思想強めな劇ヤバ思想じゃないだろうし。他人の願掛けなのに妙に気になった。
名前はともかくだ。気になるけど、ともかくとして。今の発言には訂正点が一つある。
「ここに高校は無いですよ。人口もまあ、見ての通りですので。この島にあるのは分校、つまり小学生から高校生までざっくばらんに詰め込んだ教育機関だけです」
「分校……なんだか小説の中みたいですね。あっごめんなさい。失礼だったでしょうか?」
「いえ。実際去年くらいから渡良島の学校と合併する話が上がってますよ。現実的に考えても今時分校なんて流行らないですから」
「
「ええ。縁瀬の住民は何か買い物がアレば渡良に行きますよ。と言っても東京に比べれば何もない島なんですけどね」
朱由は何がおかしいのか笑みを浮かべ続けている。何となくだけど離島暮らしが想像できていないんだろうなと思った。
縁瀬島には商店が一つしかない。食料品や日用品は何とかそこで揃うけど、雑貨や家電となれば日に2本出ている連絡船を使って片道二時間かけて渡良島に行くしかない。とはいえ、あそこも所詮は島なので都心にあるような大きな店舗を考えているとガッカリするだろうな。
態とらしくハッと驚いた声に目を向けると、朱由は唇を濡らすように一瞬口元をモゴリと動かした。
「お名前、聞いてもいいですか?」
「……聞いてどうするんですか?」
「明日以降のクラスメイトと偶然知り合えたんです。是非教えてください」
「嫌です」
「……へ?」
初めて笑顔が崩れた。全く思っていなかった言葉を投げかけられたみたいに、朱由は口をぽかんと開けたまま動作を停止させる。ざまあみろ。
「別に名乗る必要なんか一ミリもないじゃないですか。私がどこの誰であろうと何だろうとどうでもいいですよね」
「そんなこと、ないと思いますけど……」
「思ってないですよね?」
再び口元に微笑を湛えたが、困惑さを隠せていない。
拒絶した罪悪感は無い。
それ以上に言ってやったというスカッとした気持ちの方が強い。
感覚的な話ではあるが、私はこの朱由という同い年くらいの女子があまり好きではない気がする。いや、敢えて断じよう。私はこの女が嫌いだ。ゆるふわしてる甘ったるい雰囲気が肉食植物みたいで嫌い、何も悪いこと知りませんみたいなニコニコ顔も醜くて嫌い、ああもう嫌い嫌い嫌い。
目の前の女は悪くないので知っている。社会的に見れば私が誤ってるのも知っている。それでも感覚的な部分で、もうひとりの私が背中を叩いて彼女を拒めと煩いのだ。
「じゃあ私はこれで失礼します。道中は暗くて足元見えづらいので、気を付けてお帰りください」
私はそのまま背を向けた。星が煌めき、空から降ってきた濃厚な群青色を散らすようにスマホのライトで地面を照らす。
朱由が私に声を掛けてくることは無かった。
日中の私は部屋に籠もる。
陽の光はあまり好きじゃない。一度外に出れば、自然も人間も動物も昆虫も色彩も明彩も、音や視覚や臭覚といった主要な感覚器官を窓口にして、喧々諤々と自己主張を繰り広げるからだ。
私の部屋は簡素だ。中学から親の故郷たる縁瀬島に引っ越して早2年、最低限の家具家電にベッド。昭和感を隠しきれない、隠す努力すらしていない古色蒼然とした古民家二階の一室が、唯一私が手を伸ばして手が届くフィールドだ。
遮光カーテンを今日も閉じきって、やる事といえば読書かゲームかインターネット。見兼ねた親がせめて世間との繋がりをと設置したテレビは既にゲーム用モニターとしてしか活用されず、空蝉の電子社会の中で息継ぎを繰り返す毎日を送っている。
良い悪いで語れば良くないのだろう。今年で16歳になった。本来であれば高校に通うべき年齢だ。別に通信制だっていい。肝心なのは社会のレールに乗るという重要性で、私は将来の行き止まりが見えている。理解はしてる。ネットでも学歴の重要性は誰もが認めるもところだ。だから通信制の高校に行こうとしているのだが、島社会特有の人伝で全ての個人情報が筒抜けになる閉鎖コミュニティの中で、その人目を気にする両親が私の意思を両手を掴んで阻む。まあ、ぶっちゃけどうでもいい。そこまでして通信制に行きたいかと言えばそうでもないし、自習していれば学習進捗も置いて行かれることもないだろうから。
惰眠を貪り続けて昼が終われば夜の帳が下りる。
夜の早い時間は大人の時間だ。この島は漁業や農業で生計を立てる第一次産業従事者が殆どで、大抵は夜10時くらいまで仲間内の家に集まって呑んだりと活発的だ。勿論毎日って訳じゃないけど。だから私が外出する時間は決まって午前1時から午前3時の間、30分だけ。夜の香りに身を任せて、家族を起こさぬように静かに抜け出す。この時間こそ無二無三の私と外界との接点である。
行く先は日によって様々……と言いたいところだけどそんなことはない。
最初こそ島中見たりもした。でも星が綺麗だったから眺めの良い島南部の崖沿いに通うようになって、今ではそこ以外に行かなくなった。
午前1時半を回って、私は今日もガラガラと横開きの玄関ドアを開けた。これでも音を抑えようと試みているのだけど、既に経年劣化で木が傷んだのか歪んだのか、どうしても開閉時の音量だけは防げない。
多分親も私が夜出かけていることに気付いているけど、都会と違って若者を誘惑する物がここには無いから見て見ぬふりをしているんだと思う。変に性や借金を拗らせて勝手に破滅することはないだろうと想像しているに違いない。そしてそれは半分正解で半分誤りだ。私は性に奔放な性格だとは思わない。そもそも他人と恥部を見せ合う高揚感というのが分からない。嫌悪感を抱くはずだ。良くネットニュースでホストに売掛で借金を作って破産していく女がいるが、それも私には当てはまらない。ホストは分かりやすいくらいに虚飾と欺瞞で塗ったくられている社会の歪みだ。理屈で容易に嘘と判断の付く歯の浮いた言葉たちで果たして精神的に気持ち良くなれるか、清々しい気分になれるか。なれる訳が無い。唾棄してやる。社会が憎い。社会は悪い。
私はいつもの星空の断崖にやってきた。一つだけあるベンチに座る。
今日も晴れているから星が良く見える。徐ろに星に手を伸ばしてみる。伸ばした先が何の星かは教養が無さすぎて分からない。でもあの星がスイッチで、限界まで背伸びをしてストンと押すことで一秒後この世界が滅ぶのであれば、私はそれなりに宇宙力学について学ぶ意欲が湧く気がする。いや、世界が滅ぶのは規模が大き過ぎるかも。じゃあここは抑えめに人類だけにしておこう。この地球で良くないことの大半は人類による欲とエゴの結果だ。知性と社会性の足跡だ。人類が滅びて私も滅びる。
とか、なんかそんな幼稚な思考回路が星を眺めているとポツポツと浮き出てくる。鬱病みたいで良くない気はするけど、こういう破れかぶれでペシミスティックでロジカルのない自分は案外嫌いじゃなかったりする。私の建前じゃない素顔を再確認できている気がして。
「こんばんわ」
20分が経って、声を掛けられた。考えるまでもなく私が昨日聞いたばかりの、ライムみたいな抜ける酸っぱさを含有させた声音。斑鐘朱由だった。白いワンピースを着用して夜でも目立つけど、見目整っているのが災いしてか、そこはかとなく幽霊や貞子の類にも見えた。
「また来たんですか?」
「来ちゃ駄目とは言われませんでしたよね?」
「ご両親、心配しますよ」
「大丈夫ですよ。見守ってくれてます」
「了解済みってどんな家庭ですか……」
「それは
何か言おうとして止めた。
名前。私の名前を知っているのかこの女。
「
「態々ですか? 趣味が悪いですね?」
私は籍こそ分校にあるが、誰かに聞いたり自分から名簿を確認しない限りはフルネームを知る機会なんてないはずだ。
「座席表ありましたよ、教室に。窓際の前から二番目の席ですよね」
「……」
そうだったっけ。行かな過ぎて覚えてないな。
「学校、来られないんですか?」
星の微光に照らされて見える朱由の顔から笑みが少し引いた。腐敗したレモンの汁を背筋に入れられた気がしてしかめっ面になる。
「別に貴方には関係ないですよね」
「関係ないことは、無いと思いますけど。クラスメイトですし」
「じゃあ関係無いですね。クラスメイトなんて赤の他人じゃないですか。恣意的に同じ箱に入れられた人間の総称です」
「そういう考え方もありますけど……」
「認めるんですね。では私はここで空を見てますので、天体観測ならもう少し離れた場所でお願いします」
「取り敢えず横、座りますね」
え?
あまりの脈略の無さに言葉を失っていれば、朱由は本当に私の横に腰を下ろしてきた。何なんだこの女。図々しいというか、厚顔無恥というか、自己中心的というか。自分のやること為すこと全て肯定的に捉えられるとでも思っているんだろうか。
「私の話を聞いてました? 私の領地でも領空でもないのでここで天体観測するのは勝手ですけど、互いのために距離を置いて不干渉とさせてくださいと言ったつもりです」
「星、お好きなんですか?」
「あの?」
朱由の顔を横目で確認すれば不思議そうに小首を傾げられた。やっぱり全く話が通じていない。
少し待ってみたがニコリとした外面を張り付けるのみで、私の拒絶については耳を傾ける気は一切無さそうだ。私の嫌いな人種である。
とはいえ、居なかったことにして無視を続けるほど私の人間性は腐っていない。
非常に腹立たしいことではあるけども、仕方なく質問に対して口を開くことにする。
「好きですよ。私がどれだけ画策しようと絶対に届かない領域にある綺麗なもので、この世で最も不変性の高い景色だから」
「ロマンチストなんですね」
「なんですか。馬鹿にしてるんですか」
「いえ、私は素敵な考え方だと思いました」
やっぱり馬鹿にしてる。嫌いだ。天然かつ無警戒そうに見える柔和な微笑みに騙された。本心を言った私は馬鹿だ。
グツグツと煮え滾る私の腸など露も知らない朱由は顔を小さく上げた。僅かな星芒の煌めきに照らされて、虹彩が水平線の向こう側を写し取る。
「私も好きですよ、星。海と星の合間に私達は暮らしている、そう考えると何だか自分が特別な存在に思えて前向きになれるんです」
「ロマンチストですね」
「そうでしたか?」
少し予期はしていたものの、この手の皮肉は眼前の女には通じないようだった。面白くない。これまでも他人と話すことが面白いと感じたことは無いけれど、この女が相手になると特段に面白くない。
「ロマンチストって良いじゃないですか。夢があって、希望が持てて」
「それは否定してません。現実なんて儘ならないことばかりで、社会の理から大きく外れた大自然に空想と憧憬を抱くのはきっと社会的生物の習性と言って過言じゃないです」
「え、言い回しが巧いですね……。松下さんって意外と言葉に堪能なんですね」
「はあ……」
尊敬すら籠った純粋無垢っぽい瞳に見つめられて、私は少し背筋が痒くなった。本意ではなくフリだろうと思うが、それでもその目。真っ直ぐと向けられた、南国の浅瀬みたいに透き通った水色の目。人工太陽の如く一定の波長で無機質に光を齎すその顔は、根暗でどうしようもない私には眩し過ぎた。結果、私は煮え切らない声を闇へ滲ませて顔を背けてしまう。
なんか負けたみたいでムカつくな。
そう思うと意地の悪い質問を投げかけたくなった。この女が困れば私も多少は胸の痞えが下りるだろうし。
「あの、何で私に構うんですか。私たち初対面ですよね。私よりも新しいクラスメイトとの時間を大切にした方が良いですよ」
大層返答に時間を使うだろうなと内心でしめしめ思っていたのだが、朱由は即座に言葉を返してきた。
「初対面じゃないです。二回目ですよ?」
「たった二回なんて初対面と同義でしょう」
「…………本心を言って引きませんか?」
今度こそたっぷり時間を使って、悩まし気に空気を揺るがした。思わず私は顔を確認した。今まで静謐に保たれていた穏やかな笑みが、風の吹いた湖の水面みたいに揺蕩いでいる。少し勝った気分になる。
私としては正直事情なんてどうでもいい。困らせたかっただけだ。ただ聞かない理由もなかったので、特に考えずにすぐに首を縦に振る。
更に数秒ほどその状況が続いて、漸く朱由の桜色の発色の良い唇が戦慄いた。
「仲良くなりたいと思ったんです。……駄目ですか?」
「……私とですか? 正気ですか?」
「お願いします」
仲良く……?
いや、友人を作ろうという気概は理解する。でも、何故学校に行ってない私なんかと友誼を結ぼうと考えるのか、その思考プロセスが分からない。
人を引き付けるような魅力は私にはない。夜歩きが趣味の根暗な人間というだけで、興味を持たれるような理由があるとは到底思えない。もう一回考えてみる。うーん全然分からぬ。冷静に考えて誰とも人間関係を築いていない私が紐解ける問題じゃないなこれは。ただひたすらに疑問が星みたいに瞬いている。
まあ、なんだっていい。答えは決まっていた。
「お断りします。理由は簡単で、正直言って私は斑鐘さんのこと嫌いです。短い間ですが、全然内心を表に出さないその笑顔が気持ち悪いと思っています」
やっぱり私はこの女が嫌いだ。相手のパーソナルスペースなど知らぬ存ぜぬで突き進み、時には会話の文脈すら無視して自我を突き通す身勝手さすらある。周囲の空気を読み、他人に干渉せず、常に身を引く私とは正反対の人間性。感情論的に嫌悪しているというのもあるけど、理論的にも私たちは相性が全く良くない。
ともあれ、弁解の余地すらないほどきっぱりと私は朱由を拒絶した。昨日から笑顔を絶やさぬこの女と言えど多少は傷ついて、二度と私の目の前に出てこなくなるだろう。
───そう思っていたのに、朱由は内側から罅が入って隙間から漏れ出てきたような、くつくつとした笑い声を上げて嬉しそうに顔を美しく歪めた。
「私、やっぱり松下さんと仲良くなりたいです」
「……ドMなんですか? もしそうであれば良いサイトでもお教えしましょうか?」
「違います。でも松下さんの毒舌であれば不思議と悪い気はしないというか、心が清々しいというか」
私はベンチに座ったまま足を動かして朱由から距離を取った。理解できない上に人格が手遅れだ。今私は16年間の人生で最も理解し難い人間と接している事実を噛み締めた方が良い。悪態にも近い拒絶の言葉を投げかけられて悪い気がしない? 頭のネジがどうかしているんじゃないか?
「本当に気持ち悪いです。モラルとか無いんですか?」
「ごめんなさい。でも本心なんです」
「常識で物を語ってください」
見た目で人を判断してはいけないというのは本当らしい。こんな清楚で美少女然とした高校生の中身がこれじゃ、世の中の男子をもきっと残念に思うだろう。
私が厳しく言ったからか、無言の時間が訪れる。いつもここで星を見上げるときは必ず聞いている環境音のはずが、今日に限っては痛く心地悪い。間違いなく隣で私を凝視する朱由が原因だ。
数分ほど膠着状態が続き、いつまでいる気だろうかと思った矢先に朱由は立ち上がった。ベンチとの接地面になって汚れたスカートのお尻部分を、手で軽く叩き払うことで土埃を落とす。
「また来ます」
「来なくていいですよ」
脊髄反射で断った。朱由は我関せずと口元に綺麗な弧を描いて、夜道を去っていった。
朱由という女は言葉通り本当に連日連夜やって来た。雨の日でもやってきた。
学校があるだろうに平日でも構わず、土日ならば私よりも先に来ては「今日はお早いですね。たっぷりお話出来そうで楽しみです」とか宣ってくるから手に負えない。会う度に私が嫌っていることを話しているのに、その虫すら殺せなそうな温和な面にどんな神経を隠しているのか摩訶不思議でならない。少なくとも常人じゃないと私は思ってる。
避けるだけなら簡単だ。この絶壁を諦めて、私が深夜徘徊の場所を変えれば良い。実際何度かそうしようとした。でも行動を起こそうとすると、やっぱり心に異物感が挟まる。それは負けだ。誰から見ても明らかな私の負け。斑鐘朱由に頭を垂らすのと同義である。それを認められるほど私は大人じゃなかったし、何より自分の生き方を湾曲させるつもりもない。
矮小なプライドを貫き通しつつ、私は朱由と毎夜僅かな時間を共にした。そんな日々が二週間ほど経過すると、朱由は大分堅が取れてきたようで表面上の笑みが減ってきた。一方で私は仏頂面が染み付いていた。相変わらず朱由のことは嫌いだ。ずけずけと横に座り込んで無限に会話の種を擽り続けるその言葉の裏には私に対する憐憫が巣食っている。
斑鐘朱由は偽善者だ。そして臆病者だ。
社会に適応するために容姿をアップデートして、体裁を整えて、自分自身が悪人にならないように細心の注意を払っている。自分自身を曝け出したら嫌われて然るべしと考えているような淡々とした面持ち。……やはり私はその生態が好きになれない。
「聞いてもいいですか?」
その日も同じように隣で座り、取り留めのない雑談を一方的にしていたと思えば、朱由は唐突にそんな切り口で話を変えた。
「何で松下さんは学校に来ないんですか?」
「……面白くないからですけど」
「嘘、ですよね」
朱由の双眼が私の目を鋭く射貫く。私のことなんて何も知ってるわけが無いのに、確信に満ち溢れた言葉に私は気圧された。でも時間に連れて苛立ちが募ってきた。
相変わらずだけど何なんだこの女は。この二週間ずっと思っていたがやはりその静謐な表情の裏で何を考えているのか全く分からない。
怪訝に思っていれば、朱由が小さく、しかし何故か万感の思いを込めて呟く。
「松下さんは……絶対にそういう人じゃないです」
「何故そう思うんです?」
「この人生で、松下さんほどストレートに本心を曝け出す人と私は初めて会いました。初対面から嫌いなんて言われて、でも私を忌避するのではなく常に自然体で毎夜ここにいる。自分に正直で嘘を吐けない。違いますか?」
……ムカつく。
ムカつくけど、間違ってない。
嫌いな相手から割と正確な性格分析をされて灼熱の鉄板の如く神経が熱くなる。ここで言い返せばそれこそ私はダサい。朱由に負けを表明するのと同じことになってしまう。
落ち着いて、溜息を一つ。
私は本心ばかり口にするらしいから、ご要望通り悪態でも吐くか。
「やっぱり嫌いです」
「それでね、私はもう一つ推測があるんです」
無視しやがったこの女。もうホント嫌い、サンゴ礁の養分になればいいのに。
「負けず嫌いですよね、松下さん。何となく思ったんです。一週間過ぎた頃から必ず2時に来てたのは、意地になって嫌いな私から逃げてないと証明するためなんじゃないかって。逃げても無視を決めても負けだと考えていた、だからこうして私と正面から向き合ってるんじゃないかと思いまして」
「……何が言いたいんですかさっきから」
「そこに私、当てはまる言葉を選ぶのは難しいんですけど……その……憧れのような感情があるんです」
この女にしては珍しく、上手く口を動かせずにモゴモゴと言って顔をうつ伏せた。でも聞こえた。
憧れ。憧れって言ったのだろう。
でも何で。私に憧れられるような部分など一つもない。人間関係がスムーズに罷り通ったことはほぼなく、友人だって0人。親との折り合いもあまり良くないし極めつけは不登校だ。
「何を言ってるんですか……?」
「だから! 私はそんな尊敬出来る精神を持つ松下さんが学校から逃げてるのは違うと思うんです!」
「斑鐘さん?」
「逃げるんですか、無抵抗に負けるんですか、そういうのお嫌いなんですよね? 私はそんな松下さんを見たくないです!」
須臾の動揺と共に困惑したまま聞き返して、朱由の大きな感情のうねりに私は全身を濡らされた気分になった。
私にとって朱由という人間は他人だ。ただの他人。クラスメイトらしいけどその意識も無ければ特に感情も無い。鬱陶しい隣人。それが私から見た斑鐘朱由への評価である。だから、朱由からそんな風に思われているとは一切思わなかった。どうせ面白い小動物感覚で付きまとってるんだろうなと考えていたくらいだ。
逃げている。負けている。
そう言われればそうかもしれない。
人間関係の面倒さに見切りを付けて、殻に籠って社会を遠ざけた。私のストレートな物言いは円滑な友好関係を阻害するらしい。自分の物言いがシビアで排他的な自覚はある。最初は良くても少しすれば誰もが私を煙たがって、無視や虐めへ発展した。そんなしょうもない社会生活に嫌悪感を覚えてドロップアウトしてしまった。それを負けと言われるのはまあ、しょうがない。
……でも面白くない。
天然そうに見えて腹黒で人間観察が趣味の女に見通されたのがこの上なく琴線を刺激される。
「……斑鐘さんには関係ない事ですよね」
「関係あります! クラスメイトです!」
「じゃあ赤の他人ですよね」
「尊敬する人です!」
俯いたままながらも覗き見えた表情からは笑みが消えていて、真剣な表情をしているからまた私は気圧された。
尊敬と言われると、嫌いな相手からと言えど凄くこそばゆい。だって言われたことが無い。尊敬される要素なんて私には無い。
「私は松下さんには自身の軸を貫いてほしいんです」
「なにを」
「学校に来てください」
言われたくないことをストレートに言われた気分になったが、意外なことに私はそこまで嫌に感じなかった。
自分でも変だと思う。
でも、尊敬しているとか憧れているかとか、人生で一度も投げ掛けられたことのない言葉だった。それに対して僅少の動揺と共に、心を弄る擽ったいときめきのような感情が胸で疼いたのだろう。嫌いだとか苦手だとか、そんな抽象的な感想は吹っ飛んだ。
今思うと、あれ、私チョロくね?
そう思うが、当時の私は他者から肯定される経験が皆無に近かった。
「……考えてみます」
よって首を縦に振るのは必然だったのである。まる。
────◇ 斑鐘朱由 ◇────
私は誰から嫌われるのも嫌だった。
クラスでハブられるが嫌とかそういう次元じゃなく、誰から嫌われても絶対に自分は傷付く。だから嫌われないように細心の注意を払って人間関係を構築した。人より神経質かもしれない。強迫観念だと思う。もう一人の自分に背を押されつつも、私は完璧な上辺を形成する毎日を送ってきた。
しかしそれは触れれば粉となって崩れる砂上の楼閣みたいなもので、真に友達と言える存在は私の人生において存在しない。誰一人。存在しない。
理由は分かっている。私は本音を話したことがなかった。白く清潔な床を表面をなぞったような、私にとっては決まりきった定型文を口から吐き出して、それをクラスメイト達は聞いて思う。こいつは何一つ本心を曝け出す気が無いんだなと。そうやって私はこれまでの人生を過ごしてきた。
今後も何となくそうやって生きるものと思われた人生のターニングポイントは突然やって来た。
両親の死。交通事故だった。
親不孝なのか不器用なのかは分からないけど、あんまり悲しいとは感じなかった。こういう自分は少し嫌いだ。まるで自分が非道徳的な感じがして、一般人の感性じゃないと突き付けられているみたいに思えちゃうから。
葬式から少しして、父親の祖父母を頼って私はこの縁瀬島にやってきた。
美しい小さな島だった。太陽に煌めく海が宝石のように輝いていて、小さく切り立った山の緑が海水の青色とのコントラストでより映えて見える。
ここが私がこれから過ごす島……そう考えると仄かにワクワクとした。
久しぶりの祖父母との挨拶もそこそこに、夜になって何かに惹かれるように私は家を出た。
日本列島から数百キロも遠い孤島だから、月明りと星が妙に眩しい。数メートル先も見えない程の暗闇なのに、何光年も先の星々の光だけが道標として視認できる。電気と共にあるこの現代社会において目にゴミか入ったような異物感が少しあるけど、それは私がすっかり文明に染まった現代人だから何だと思う。
スマホの心許ないライトを片手に、海に行こうと思い立った私は足を進めた。途中、何度も側溝に落ちかけたり舗装されていない地面の隆起に躓きかけたけど、何とか辿り着く。祖母からここ島で一番夜景が見える場所だと私は聞いていて、それは本当だったみたいだ。
海と星の境界線が闇に溶けて、今立つ場所が舞台の上に思える。こういったものに心を動かされたことはなかった私が、多少とは言え初めて目を奪われちゃった。
少しして、私は気付いた。
星空の暗幕に包まれるように一人の少女が手摺に寄りかかって星を傍観していた。近づいて、初めてその少女の髪が長く靡く黒髪だということが分かった。
背中から見える姿は小柄で、ジャージを着ている。少女は私の気配に気づくと振り返って、闇夜をアメジストの双眼が切り裂いた。思いがけないその立ち姿に目を吸われる。闇から吹き付ける海風が私の顔を叩きつけた。
島の人間にしてはあまりにも真っ白なきめ細かな肌がまず目を惹いた。背丈は小さく、でも幼さを残しつつもアンニュイそうに私を見詰めるその大人びた眼差しを見て、多分だけど年齢は私と同じくらいだと思った。夢幻の星芒が長い黒曜石の如く黒髪を煌かせ、冷たい表情と裏腹に風と共に踊る。
非常に精巧に造り上げられた人形みたいな容姿に吞み込まれそうになって、目が合えば微弱な電気ショックが走ったみたいに心が揺れ動いた。何か運命めいたものすら感じる。目が離せない。詰め込まれた魅力が私を捉えた離さない。興味、関心、好奇心。全てが目の前の少女に向けられて、身体が自分の物でないかのような脱力感と、底から微弱な熱量が込み上がってきて思考の温度が上昇する。
……って何考えているんだろ、私!
いつも通りの笑みを浮かべて、私は小さく手を振った。
目の前の少女は年齢的に同級生になるだろう。私が入学するこの島の学校は都会では考えられない程規模が小さい。
多分クラスメイトとかになれるんじゃないかなあとか下心も持って話してみると、渋々といった顔で対応をされた。乗り気ではないと思える。
だけど名前を聞くと、途端に拒絶された。
嫌ですと言われた。
それが当然であるかのように、いや他人から聞かれたら不自然ではないんだけど、淡々かつ堂々と拒絶を口にする少女に私は興味を引かれた。大抵は無難に自己紹介の流れに乗ってくるか、少し申し訳なさそうに声を小さく断るのはあると思う。でもこうも大胆不敵に一刀両断されちゃったら私も笑うしかない。仮面ごと中身まで一太刀に切り伏せられた錯覚までしちゃった。
そう、きっとこの瞬間から私は松下月香という女の子に尋常じゃない関心を寄せていた。
どうすれば自分に正直に真っ直ぐ、裏と表を縫い合わせたような一面性で以ていられるのか。他人からの感情に鈍感……それどころか無感情で生きれるのか。
小さいのに、可愛いのに、リスみたいな小動物なのに、私の目に映る月香はカッコよかった。自分の感情に嘘を吐かず、誰にも自分の軸を歪曲させることを許さない。ついでに負けず嫌い。本当に強い女の子だと思う。
そしてそれが羨ましい。私とは全く真反対。人の空気を最大限読んで、その場その場で一番波を荒立てない言葉を投げ込む処世術が骨の髄まで沁み込んだ私にとって、月香は眩しかった。
カッコイイだけじゃない。多分だけど月香さんが身長170㎝くらいあって、もっとサバサバしていたら私はこうも深い関心を抱くことなく毎晩夜更かしすることはなかっただろう。
なんというか、ギャップが可愛いのである。見た目だけなら子猫だけど、そう言う話じゃなくて。
反抗期の子猫。
この二週間で私が見てきた月香さんの印象だった。
弱く小さく可愛いのに、自分に嘘を吐きたくないから精一杯虚勢を張る。可愛い。
とにかく最近の私は変だった。月香のことが日中も浮かぶ。
正直自分でもその理由を正確には分かっていない。
容姿と中身がアンバランスだからか。それともふとした瞬間に星を見るあの目。紫色の双眼は理科の実験で使うプレパラートみたいで、ちょっとしたことで割れちゃいそうな不安定さも兼ね備えている。まるで今死んでも後悔しないみたいな……或いはこの世界が星と海だけになってしまった方がこの世界の為なんじゃないかと考えてみるみたいな……。上手くは言い表せない。でも厭世感というか、ペシミスティックというか。幼い双眸にはこの世界がどう映っているのだろう。凄い気になった。気になって仕方がない。
でも学校に通ってすぐに、不登校という話を聞いて私は月香さんへ疑問があった。
少し話しただけで理解できる負けず嫌いな性格。なのにどうも日中引き籠っているらしい。
あの教室の様子では間違いなく親密な友人、それどころか話せる相手すらいないのだろう。詳しくクラスメイトに聞いていた訳じゃないから確たる情報ではない。
なんて考えていたら唐突な嫌気が背中を刺す。
あー……また思い返してしまった。また自分が浅ましく感じる。
この島で新参者である私が不登校児の話題を出してクラス内の雰囲気を歪めてしまうのは宜しくないと思って、月香さんの話は一度も出していない。気になっているのに。この上なく月香さんに付いて知りたいのに。私はここでも適当に霧がかった笑みを浮かべて世渡りをしている。
ああもう、自己嫌悪は何にもならないや。
話を戻して、月香さんのことだ。
月香さんが学校に通ってないという事実は私にとって胸の底に重石が積み重なったようなズシンとした疑懼を齎した。
だって月香さんだ。見た目に寄らず絶対に自分を貫く。惚れ惚れするくらい一気通貫した自我。
なのに、不登校。
違和感があった。
少ない時間の中で、私の月香さんの行動原理と矛盾している。
そういうこともあると言われたらそれでおしまいだけど……そんな気がしない。
月香さんは大海原と星々の狭間に住む少女だ。
星になって、キラキラと光っては暗くなっての明滅を繰り返して、暗くなったままいつしか太平洋の向こう側に沈んでしまうんじゃないかと考えてしまう。月香さんには夜空に浮かんでいて欲しい。私の道標になってほしい。
そんな思考回路が働いて、つい私は月香さんに本音を吐露しちゃった。
こんなことは初めてだ。他人に感情を大きく吐き出して、無責任に我儘を言って、それが気持ち良かった。だからと言って月香さん以外にそうしたいとも思えないけど。
本音を言って、それでも不安じゃなかったと言えば噓になる。
本心というのは自分自身の傷付きやすく柔らかい部分でもあり、他者を害する棘にもなり得る。相当な信頼関係がなければ今後の関係性の変化は免れないだろう。私はそれが嫌だった。
でも月香さんであれば……月香さんならば。本心を語ることを当然と考えていそうで、私に対する期待値がゼロでも自分の筋を曲げない月香さんだからこそ、私はあんなことを言っちゃった。言ってしまった。月香さんみたいになってみたい、そう思って。
月香さんともっと仲良くなりたい、腹の底から本音を話し合いたい、あの綺麗な髪に指を通してみたい。
そんな願望も込めつつ。
つい。軽はずみで。
「ああああもう私って……!!」
枕に顔を埋めて羽毛の感触を味わいながら羞恥心に全身が震えて、肌が粟立つ。
今日も今日とて月香さんのところこら帰ってきたのは夜更けも夜更け。明日も学校で、すぐにでも寝ないと響いちゃう。でも寝れない。寝れないよ。これからどうなるんだろうという怯懦の感情と、ちょっぴりした期待感。それは縁瀬島に来た時よりも大きな感情の揺れ動きで、私の器が壊れてしまいそうなくらい。
で、寝れない。どうしよう。今晩の睡眠時間もそうだし、これからの生活もそうだし。
何かが変わる予感だけが漫然と糸を引いて、私の瞼を縫い付けて、降ろすことを良しとしない。
導かれるように窓のカーテンを静かに開いて、私は窓越しに夜空を見上げる。
星々は何も語らずに私を見守っていた。