整備された山道を進む。
茂った夏草を踏む感触と、青い匂いが心地良い。
しばらく使っていなかったと言っていたが、思ったよりも道が荒れていなくて助かった。
薄暗い……どころか大分暗くなった登山道を上りきると、途端に開けた場所に辿り着いた。
久しぶりに見る建物が目に入る。
何年ぶりだろう。こうしてここに来るのは。
などと、ひとり呟く。勿論返事をする相手はない。
慣れない似合わない、柄でもない独白なんてしてみて、何度もここに来たことがあるかのような空気を出したものの、彼がここに来たのは過去に一度のみ。
よくもまぁ一人でたどり着いたものだ。
聞く機会なんていくらでもあったのだから座標なりなんなりきちんと聞いておけば良いものを、記憶だけでなんとかしようなんていうのは些か無謀だったように思う。
それでも何とか辿り着けたからよかったのだが。
ゆっくりと建物に近づいてみるが、中に人の気配はない。どうやら一番乗りだったらしい。
着かず離れずの距離から改めて眺める。
記憶の中のそれと寸分違わない姿。あの少女達の忙しない声が今にも聞こえてきそうだった。
気を取り直してポケットから取り出したスマートフォンの画面を確認すると時刻は17時45分。約束の時間はとっくに過ぎているのに、待ち合わせ相手の姿はまだ見えない。
何かあったのだろうか?
少しだけ心配になって踵を返す。
と、
「どういうつもりよ!」
まなじりを吊り上げた彼女と目があった。
ほほを膨らませるその姿は、実際の年齢よりも幼く見える。
本人は怒っているようだったが、怖いというよりも可愛いという感情が勝ってしまう。
「ごめん」
ともかく理由も聞かずに両手を合わせて謝ると、彼女は幾分吊り上がった目を戻し。
「集合時間過ぎてもバス停にこないからおかしいと思ったら……先にこっちまできてるなら言ってよね」
彼女の言い分に首を傾げる。
既にその連絡はしたつもりだった。
自分は単車で乗り付けるつもりだから、集合は別荘の前にしようと、そう言って返事ももらったはずだった。
「え?」
彼がそういうと、彼女も慌てて自分の携帯を確認しだして、
「……ごめん」
そっぽを向いて小さくそう呟いた。
どうやら忘れていたらしい。
今度はこちらが怒るべきかと、思わないでもなかったが、バツが悪そうにしている彼女の横顔を見ていたらそんな気はすぐになくなった。
あれから時間が経ち、自分も彼女も子供ではなくなった。
社会の荒波に揉まれて呑まれて、忙しない日々を送っている。ここに今いないメンバー達もきっとそうだ。
中でも、彼女は特にそうだろう。
改めて彼女の姿をまじまじと見つめる。
初めてあったあの日から随分月日は流れたが、今でも彼女はあの頃と変わらない。
トレードマークのツインテールはそのまま。
赤みを帯びた形の良い瞳はまるで宝石のようで、昔からその目を見ていると引き込まれそうになってくる。
あの頃より身長は少しばかり伸びたらしく、いつだったか言っていた彼女の理想とする女性像に近づいたみたいだが、まだまだ自分とは頭一個分以上の差がある。
矢澤にこ
かつて、ラブライブ第2回大会優勝を飾った伝説的スクールアイドル μ'sのメンバーにしてアイドル部部長。
そして、自分がかつて……
「どうしたの? 人のことじっと見て」
何でもないと言って目を逸らす。
昔からそうだった。
軽口だったらいくらでも叩けるのに、肝心なことは何一つ伝えられない。
綺麗だね。
見惚れてた。
そんな風に言葉に出来れば良いのに。そうしたら君はどんな顔をするのだろう。
「それより少し早く来過ぎたみたいだ」
わざとらしくスマートフォンの画面を確認する。
にこと打ち合わせした待ち合わせ時間は、全員の集合時間より大分早い。
もしかしたら誰か来てるんじゃないかと思ったが、現状他の誰かがやってくる気配はない。
「そうね。ま、予定通りゆっくりその辺見てまわりましょ」
言って、彼女は別荘から離れ歩き出す。
季節は夏、具体的には7月7日の七夕の日。
日は長く、まだ太陽が沈むには早い。とはいえ、
「ちょっと寒くない?」
「標高結構あるからな」
例え真夏でも夜の山は冷え込む。それこそ吐く息が白くなるほどに。
無意識なのか意図してなのか分からないが、彼女はそのまま自分の真横に寄り添うように歩幅を合わせて進む。
「上着は?」
「持ってきてるけど、出すのが面倒なのよ」
そう言って、彼女はピンク色のキャリーケースを軽く叩いてみせた。
「早く真姫が来て、別荘をあけてくれれば良いんだけど」
「仕事が立て込んで、時間ぴったりになるって、さっき連絡があった」
トークアプリのチャット画面を見せるてやると、彼女は目を丸くして、
「あんた、真姫とは結構連絡とりあってるの?」
「いや、そういう訳じゃ……」
本当にそういう訳じゃない。けれど彼女はじっとりとした目線を向け続けてくる。
「そうよね。だってあんた、グループでも碌に返事返さないし」
「う……」
「今日、あんたが来たのだって正直驚いてるんだから」
「そりゃまぁ、うん……」
頬を掻きながら苦笑する。
彼女の言う通り、多忙にかまけて彼女達からの連絡にまともな返事をしていなかったのは事実だ。
正直、自分も誘ってもらえるとは思っていなかった。
「そっちは、あいつらと会ったりしてるのか?」
「真姫とはたまに会ってるし、この間、絵里と希とは会ったけど……全員揃うのは、凛や花陽達が卒業して以来ね」
ということは何年になるのか。
指折り数えてみるが、不毛なのでやめることにした。
今日、彼女達と自分がこんな山の中に集まったのには理由がある。
音ノ木坂学院、スクールアイドルμ'sの同窓会。
ただし、今日この日が何かの節目なのかというとそんなこともない。
リーダーである高坂の発案のもと、みんなで集まろうという話は何度か持ち上がったのだが、その案は今日まで実行されずにきた。
如何せん、全員多忙が過ぎた。
もう、みんな時間の取りやすい学生ではないのだ。
何人かで集まるくらいの事ならば何度か出来たらしいが、全員集まるとなると難しい。
日程調整に次ぐ日程調整の末、ようやく全員の予定を押さえることが出来たのが今日だったのだ。
「そうか……」
今の自分はきっと、苦笑いとも何とも言えない顔をしていると思う。
1年生の真姫、凛、花陽が音ノ木坂を卒業して以来誰とも顔を合わせてはいなかった。
いや1年生という言い方がそもそもおかしいのだが、自分の中ではどうしてもそのイメージが強くて、ふとした拍子にそんな風に言ってしまう。
1年生の真姫、凛、花陽。2年生の穂乃果、海未、ことり。3年生の絵里、希、にこ。
どうしたってその認識が強い。
それほどまでに、彼女達9人と駆け抜けた日々は印象的なものなのだ。
最高のスクールアイドルを目指す彼女達と、しょうもないクソガキ。知り合ったきっかけなんてもう忘れてしまったけれど、一緒に泣いて笑って、時には怒って、ぶつかって……
今でも夢に見る。
ラブライブ第2回大会を優勝した日、一緒に声も枯れんばかりの大声で叫んだ日のことを。男子だとか女子だとか、そんなこと忘れて汗と涙でぐちゃぐちゃになりながら抱きしめ合ったあの時の感動。
あんなに輝いている日々はこれまでの人生で他にない。断言しても良いが、きっとこれからもないだろう。
「何で?」
「何でって何が?」
聞き返したら、軽く睨まれた。
「何で会わないのよ。絵里も希も、心配してたわよ」
「それは、俺だって忙しくてな……」
二人を心配させてしまったのは心苦しいが、こればっかりはどうしようもない。
向こう見ずなガキだったあの頃とは違って、大人になるとやることが増える。
やりたい事だけやってても割とどうにかなったあの頃とは違うのだ。
そう考えていたら、にこと目が合った。
何故だか、心の奥を見透かされているような気がして、思わず目を背けてしまう。
……違う。
心のどこかでそんな声がした。
忙しないのは本当だ。
彼女達と会おうと思ったことも一度や二度ではない。
それでも今の今まで出来なかったのは、
「ここ、覚えてるか?」
思考を止める。その考えは良くない類のものだ。ずっとため込んできたそれは、一歩間違えれば吹き出し、噴き上がりかねない。
代わりに足を止めて、薄暗くなってきた景色の中を顎でしゃくった。
「ここって……あ!」
「合宿の時、ここで練習してたよな」
「そうそう。それから、ひゃッ!?」
繁みががさがさと音を立て、驚いたにこが飛び上がった。
そのまま彼女は勢い余って、自分の腕に抱き着いてくる。
瞬間、心臓が跳ね上がりそうになった。
「な、何だ。リスじゃない……脅かさないでよ」
顔だけちらりと覗かせて、再び木々の中に戻っていった音の主を見て、彼女は胸を撫でおろす。
「あの時も確か……」
「そう。リスのおかげで凛と一緒に沢にダイブする羽目になったんだっけ……しかもアイツ、人のリストバンド盗んでいくんだもん。思い出したら腹が立ってきた」
思わず、吹きだしてしまう。
そうだ。真姫の別荘……今日の会場でもあるそこの暖炉を不本意な形で使うことになったのもあれが原因だ。
「色々あったわね。凛と希の話覚えてる?」
「あぁ、海未に連れられて登山しにいった話か」
「そうそう!それから、穂乃果が朝一行方不明で、みんなで探してみたら変なとこで寝てたとか……」
再び歩き出して、笑い合う。
こうして二人、思いで話をするだけで話題には困る事がない。
あの時の合宿の話から、日常のこと。地区予選、強敵A-RISEを破った日のこと、ラブライブ優勝、卒業……
話しはどんどん進み、昔話の中の自分たちもそれにつれて大人になっていく。
「大分、暗くなったわね」
「あぁ」
いつのまにか、別荘の周りをぐるりと一周歩き終え、もう一度建物の前へたどり着く。
彼女と過ごす時間は思っていたよりもずっと早い。日は沈み、夜の青が空を染め上げている。
そしていつの間にか誰かきたらしい。
別荘の中には明かりが灯り、いくつもの人の気配がある。
「みんな、来てるみたいね。さ、行きましょ」
返事も待たず、彼女は駆け出す。
自分の手を強く握って、引くことを忘れずに。
自分たちが一番輝いていたあの頃のように。
「あー……」
意味のないうめき声をあげて、欠伸を一つ。
べレンダの欄干に身を預け、闇の中に目を凝らす。
山の夜は街のそれとは比べ物にはならないほど深くて、家の明かりが届かない場所は本当に何も見えやしない、
からり、と。
手元のグラスの中で氷が融けて、心地よい音をたてた。それが何故かおかしくて、薄く笑う。
少し飲み過ぎたから夜風に当たるつもりだったのに、こうして酒なんて持ってきてるんだから世話もない。
耳を澄ますまでもなく、自分の後ろ、ガラス戸を隔てた向こうから彼女達の笑い声が聞こえてくる。
さっきまで自分もそこにいた。挨拶もそこそこに始まった宴会。三人集まれば姦しいとは言うが、それがあの9人ともなれば冗談や洒落ではすまない。
久しぶりから始まって、本当にこうして顔を合わせるのなんていつぶりか分からないというのに、しかし蟠りなんていっそ清々しいくらいになくて。
遠慮も何もなくグイグイくるのはあの頃と一緒だった。
「それは同じか」
思わず声に出していた。
あの子達のテンションや勢いに巻き込まれて振り回されて、時には悪態をつきながら渋々それに付き合って……
今の今まで彼女達と交わしていた会話は、あの頃のそれと変わらない。
人間、いくつになっても根っこのところは変わらない。
いくつになってもガキのままだ。
「こんなとこにいた。何してんのよ」
背後で窓の開く音がして、聞き覚えのある声が近づいてくる。
「別に。ちょっと考え事してた」
彼女が自分の横で、同じように欄干に両肘を置くのが気配で分かった。
何となく、彼女の方に目は向けない。別に理由なんてないけれど。
「考え事?」
「あぁ。人はいつまでガキなのか、ってな」
正直に今考えていた事を話してみるが、返って来たのは呆れたような視線のみ。
「……酔ってるわね?」
「うっせ」
短く呟いて、酒を舐める。
自分で言っておいてあれだが、大分アレな事を言った気がする。
「みんな、久しぶりだけど元気ね」
自分が黙り込んだのを見かねてか、にこがそんな風に話題を振って来た。
「あぁ。久しぶりに会えて良かったよ」
本心から、そう答えた。
これは言えないけれど、正直何でか泣きそうになった自分がいて、でもこんな話を少しでもしたが最後、凛や希あたりに散々からかわれるのも目に見えている。
あれからそれなりに時間が経ったというのに、穂乃果は相変わらず穂乃果だったし、それを諫める海未も、笑いながら仲裁に入ることりもそのままで。
「でも、こんな所でやるなんて思ってなかったわ。最初聞いた時、何かの冗談かと思ったもの」
「あー、そりゃ……」
自分もそうだ。何でまたこんなところをと思わないではなかったが、その辺の話はさっき、絵里と花陽から聞いて納得している。
曰く、ここならどれだけ騒いでも迷惑にならないから。
曰く、いつまで居ても誰にも咎められないから。
そして、
「……何か、気、使わせちゃったみたい」
少しだけ、声のトーンを落として、にこが呟く。
そう、一番の理由はそれだった。
持ってきていた飲み物を口に含み、喉を上下させる。
横目で眺めるその姿は、それだけのことなのにどこか艶っぽくて。
目を背ける。
そうしなければ、どうにかなってしまいそうだったから。
夢を追いかけていたあの頃の彼女は美しかった。
そして夢を叶えた今の彼女はもっと美しい。
自分たちが出会った頃から、μ’sが始まったsの時から、もっと前から彼女が抱き、挑み続けていた願いはついに実ったのだ。
あの時の感動は忘れない。
ずっと間近で見続けていた少女が羽ばたいたあの瞬間、我が事のように嬉しくて、幸せで、これ以上の瞬間は自分のちっぽけな人生の中で二度とはないと思った。
彼女が遠い世界に行ってしまった、なんていう一抹の寂しさがなかったと言えば嘘になる。
だけど、そんな些細な事はどうでも良かった。
「ま、気にすんな」
気負わせないように、少しおどけて言ってみる。
昔の仲間に、ましてや自分なんかと会うとなれば、世間は彼女を放っておいてはくれないだろう。
だからこそ、他に誰もいないこの場所がうってつけだったのだ。
「しかし、懐かしいな……」
話題を変えようと呟いてみる。
少しわざとらしかったかもしれない。
でも、本心だ。
彼女達も、この場所も、何もかもが懐かしい。ここに来たのはラブライブ予選前のことだから……何年前になるのだろう?
さっき、みんなあの頃と同じなどと言ったばかりだが前言撤回。
この世に変わらないものなんて何一つない。
絵里や希は言うに及ばず。自分よりずっとガキだと思ってた下級生たちも今じゃ立派な女性になっている。
そう考えると、何だか随分と遠くに来てしまったかのような錯覚さえ覚える。
あの頃は、自分たちが大人になったらなんて想像もしなかった。
「ちょっと怖かったんだ」
「は?」
グラスの中身を半分ほど飲み干して、
「もしみんなと会って、誰が誰だか分からなくなってたらどうしよう、なんてさ」
もしくは、自分の事を忘れられていたらなんて。
その心配は結局杞憂だったけれど。
「そう思うなら、たまには会えばいいじゃない」
呆れたように、にこが呟く。
「聞いたわよ。みんな、あんたにもちゃんと声かけてるのに、誰に誘われても断ってるらしいじゃない。何でよ?」
「それは……」
言いよどむ。
同窓会が始まる前にも似たような事を聞かれたような気がする。あの時はなんと答えただろうか。
そこに君がいないから、何て答えたら気持ち悪がられるだろうか?
尤もそれは半分本当で、半分嘘で、でも少し違って……
みんなと会えばにこの事を思い出してしまう。
みんなと会った時、そこに彼女の姿がなければ気が滅入る。
だけどそこに彼女がいたならば、
「複雑なんだよ」
「何が?」
彼女の問いには答えずに空を見上げた。
「うおっ」
今の今まで気づかなかったが、頭の上には満点の星空が広がっていた。
都会では決して見る事の出来ない天の川、それから頂上付近で一際強い光を放つ真ん丸の月。
「わぁ……」
同じく気づいたらしい彼女が空を見上げ、同じく歓声を上げる。
月明かりに照らされた彼女の横顔はどこまでも美しかった。
憧れ、焦がれたあの子がそこにいる。
そう思ったら、胸が苦しくなった。
心臓が早鐘のように打つのは、何も酒の所為じゃない。
―今しかないと、そう思ってしまった。
「今夜は月が綺麗ですね」
にこの事を見つめ、はっきりと声に出す。
言った途端に凄まじい後悔に襲われた。
何でこんな事を言ってしまったのか。ずっと隠してきたそれを、何故今更。
違う。今だから言えたんだ。
言わなければならない。言わなければ先に進めない。だって自分はあの頃から、ずっと彼女のことが。馬鹿。なら何でそんな風に言った。恥じるところがないならば、堂々と言えば良いのに。結局は独りよがりな思いだ。
心と頭が迷走しているのが分かる。
独り、悶々としてどれほど経っただろうか。何分にも何時間にも感じる数秒間を経て、けれど返事が返ってくることはない。
彼女は真剣な眼差しで夜空を見るのに夢中だった。
どうやら彼女は気づいていない。
そう分かったら、何だかほっとして目を背ける。
良かったと、そう思ってしまった。
気持ちがしぼむのが分かる。臆病者の自分にはこれが精いっぱいで、そのなけなしの勇気は実を結ばなかった。
それでいい。それがせせこましい自分にはお似合いだ。
こんな経験もいつか酒の肴にして笑える日がくるだろう。
それだけで、充分だと思った。
と、
「ねぇ?」
「おわっ!?」
ちょっと目を離したすきに、彼女が自分のすぐ真横に来ていた。
にこはこちらを下から覗き込むようにして、
「何か言った?」
至近距離で見つめ合う形となる。
彼女の潤んだ瞳が、赤い唇が近くて目が離せない。頬がうっすら紅いのはアルコールの所為だけだろうか。
「な、何でもないから」
思わず後ずさって彼女から距離を取る。
顔が熱い。
「……ずっと前から綺麗だったわよ」
「え?」
思わぬ返しに、時が止まった。
昔、戯れに調べたことがある。その返しの意味は確か。
思わず、彼女の顔をまじまじと見つめる。
彼女は空に浮かぶ星を、月を見つめたまま微動だにしない。
その目がこちらに向く事はない。
「でも、傾く前に言って欲しかった」
続く言葉は残酷だった。
―そろそろ冷えてきたわね
静かに言ってにこは踵を返すと、宴の場に続く窓に手をかけた。
「あんたもそろそろ戻らないと、みんな心配するわよ?」
声に乱れは僅かもない。
背を向けた姿からは、今の彼女がどんな顔をしているのか、何を考えているのか、伺い知ることは出来なかった。
「……あぁ。もうちょいしたら戻る」
辛うじてそれだけを言うと、そう、と彼女は頷いて一人、部屋の中に戻っていった。
「もう遅い、か」
独り、呟く。
恐らくきっと、間違いなく。彼女の返事の意味はそういうことなんだろう。
月は既に傾いた。もう、あの頃の気持ちは戻らない。
だが、つまりそれは、以前の月は煌々と輝いていたという話。
なら、もしあの時そうしていたならば。
……なんて、仮定の話はいくらでも出来る。だけどそこに意味なんてない。結
局自分にそれは出来なかったのだから。
それでも考えずにはいられない。
あの頃に彼女に想いを伝える事が出来ていたら、今頃どうなっていたのだろう。
だけどそれは彼女に夢を諦めてくれと告げるようなもの。そんな事、自分に出来ようはずもない。
夢に向かって突き進む彼女が眩しかった。
何があっても決して諦めない彼女に憧れた。
誰よりも真剣でひたむきな彼女が愛おしかった。
矢澤にこという人のことが、好きだった。
これ以上ないくらい、どこをどう考えても八方ふさがり、どこで道を間違えたのか、そもそも今の道が間違っているのかも分からない。
ただでさえ良くない頭が酔いのせいでぐるぐるしてしょうがない。
思わず手元の酒を飲む。
けれど、氷が融けて薄くなったそれでは酔えそうにはない。
腹が立つほど綺麗な月を見上げる。
掲げたグラス越しに見えるそれは、滲んで歪んで見えた。