ラブライブ!~合同企画短編集2024~【完結】   作:薮椿

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三船栞子の懸念

 三船栞子(みふねしおりこ)は動揺した。

 誰も居ない部室。かつてより抱いていた懸念が日々頭角を現し、自身の思考回路では処理できないまでに肥大化してしまったのだ。

 人はそれを()()と表現するが、栞子の脳は()()()と直訳した。人間が持つ適性に執着していた彼女らしく、良く言えば俯瞰的(ふかんてき)に、悪く言えばどこか冷めたような目線で物事を見ていた。

 

 元はと言えば、こうなったのだって別に自分のせいではない――。

 

 虹ヶ咲学園に入学した頃のスクールアイドル同好会は、活動こそしていたものの風前の(ともしび)状態。自身が携わる間もなく廃部となってしまった。

 けれど、有志たちによって復活した彼女たちは、学校側も無視できない存在にまで成長。文化祭実行委員であった栞子も、必然的に携わることになった。

 根底にあったのは、あくまでも自分の想い。――スクールアイドルをやってみたいという夢だ。そしてその夢を、彼女たちが放っておくはずもなかった。

 嬉しかった。姉の涙をいつまでも引きずっていた自分を、ここまで引っ張り上げた彼女たちには感謝しかない。それは栞子の本心そのもので、嘘偽りなんてものはそこには存在しない。第2回スクールアイドルフェスティバルの成功とともに、幼馴染である鐘嵐珠(ショウランジュ)とその友人、ミア・テイラーの3人そろって同好会に入部。これからまさに夢を続きを見ていこう、なんて思っていた。

 

――▽

 

 きっかけは実に単純なことだった。

 そもそも栞子は、自身にスクールアイドルとしての適性がないと判断していた分、その想いをサポートに回していた。だから入部した後も、彼女たちが日ごろの活動で不都合がないよう動く癖が抜け切れていなかった。

 優木(ゆうき)せつ()はそんな栞子を見て『それはみんなの仕事ですから!』と快活な声で指摘する。高咲侑(たかさきゆう)上原歩夢(うえはらあゆむ)といったメンバーもそれを見て笑う。日常。なんてことのない、愛嬌だらけの平和な世界だ。

 

 第2回スクールアイドルフェスティバルが終了して2週間が経過した頃、栞子は自宅で彼女たちがネットに上げていたパフォーマンス動画を見ていた。自身とはかけ離れた光り輝く世界、七色に変化する彼女たちの表情、そのどれを取っても観る者を魅了する。

 だが、完璧に綺麗な世界などは存在しない。スクールアイドルは言ってしまえば高校生なわけで、プロのアイドルではない。それが彼女たちの魅力でもあるのだが、分かっていない人間も一定数存在する。

 そしてそんな人種に限って、否定的なコメントを残そうとする。だがメンバーの一人である中須(なかす)かすみは、自己防衛に関しては非常に頭が回った。ブロック機能を使って、演者を傷つけるようなフレーズが届かないようにしたのである。だから彼女たちの動画には、必然的に前向きなコメントしかない。

 

 しかし、あからさまな悪口じゃなくても人を傷つけることはできる――。それが栞子の持論だ。

 これはサポートではない。ただのおせっかいでしかない。彼女は自身にそう言い聞かせて、彼女たちのコメント欄を漁る。見つけたところで、栞子にできることは何もないのだけど。

 

(……ん?)

 

 タブレットをスクロールする指が止まる。上原歩夢のパフォーマンス動画で、一つ気になるコメントを見つけた。

 

『嫉妬深そうなのが良い。メンヘラっぽい』

 

 スクールアイドルでなくとも、この手の動画にはこういうコメントは付きものだ。栞子だって他の動画で見たことがある。褒めているのか(けな)しているのかよく分からないが、ソレには賛同を示す『いいね』が結構な数付いていた。

 だが、栞子にとって問題はそこではなく、コメントの中身であった。

 

(嫉妬深そう……メンヘラ?)

 

 彼女は思わず動画を止め、新規タブに『メンヘラ』と打ち込む。そして出てくる文字の羅列に意図せず苦笑いを浮かべてしまった。

 上原歩夢に限って、そんなことはない。栞子はすぐに結論づける。彼女の(まと)う空気感は柔らかく、同好会にとってもオアシス的な存在なのだ。適性を見抜くだけあって、人を見る目は他者よりもある。

 

 だが、栞子は少し引っかかった。このコメントに意識が行ったのもそうだが、別にこれは歩夢に限った話ではない。せつ菜、かすみ、それこそランジュにだって似たようなコメントはあるはずだ。

 じゃあ、今と同じように手を止めたであろうか。一つの疑問に行き着く。そもそも私はどうして、こんなコメントが気になったのだろう――。膨らんでいく疑問。栞子は1年生ながら、同好会の中でも非常に頭が切れる。

 

(私自身が……歩夢さんをそう思っている?)

 

 その疑問の本質に気づくのに時間は掛からなかった。疑問形になったのは、それを認めたくない良心が働いたからだ。

 栞子と歩夢の接点はそこまで深くはない。だが自身をライブに誘ってきたのは歩夢で、入部前にも雑談の相手になってくれたりと、何かと気に掛けてくれる存在でもあった。

 そんな彼女が嫉妬深い? メンヘラっぽい? いやいやまさか。栞子はあまりにも肯定する要因がないせいか、普段より強めに断定してしまう。

 じゃあこの感情は何? どうしてこのコメントから目が離せないの……? 根拠のないコメントでしかないが、栞子の思考は出口のないトンネルに迷い込んだように混乱した。

 

 となれば、やはり原因は自身にある。栞子は巡り巡った思考を落ち着かせるように、小さく息をついた。そうでなければ、メンヘラの意味をわざわざ調べたりはしない。

 

(まぁ……人間そういうものでしょうし)

 

 人を見る目がある栞子とはいえ、その人間の本質までを見抜くには時間を要する。つまりは人間誰しも人には見せない本性があるということだ。

 それにランジュが帰国しようとしたときも、真っ先に『探しに行こう』と提案したのは歩夢である。それを優しさと呼ばずして何と呼ぶのか。今の栞子にはソレ以外の適切な言葉が見つけられなかった。

 

――▽

 

 週が明けると、栞子は少し浮き足だったまま部室に顔を出した。あの夜の疑問は当時より薄れはしたが、それでも彼女の心の中を泳いでいる。

 

「お疲れ様です。せつ菜さん」

「栞子さん。早いですね」

 

 黄色の髪留めが栞子を迎える。優木せつ菜。普段の堅苦しさが全く感じられないほどの変貌(へんぼう)ぶりには、メンバーたちもすっかり慣れたものである。

 一方で、栞子はほんの少しだけむず(がゆ)さを感じていた。文化祭実行委員として接してきた中川菜々(なかがわなな)とは全くの別人だからだ。姿形が劇的に変わったわけではないのに、目の前に居る人物がよく知る人物ではないと断言できるほどの変化。名前を呼ぶ声すらも、優木せつ菜の時はワントーン高い。

 

「皆さんはまだいらしてないのですか?」

 

 栞子が辺りを見渡しながら言うと、練習着に着替え始めていたせつ菜は少し笑った。

 

「はい。スクールアイドルフェスティバルも終わって、学校の雰囲気も少し落ち着いてきましたし」

「そうですね。私もそう感じます」

「栞子さんだって、もう少しゆっくりしても良いんですよ?」

「私は……もっと練習しないといけない立場なので」

 

 せつ菜は返事の代わりに優しく微笑んだ。彼女自身、()()()を押し殺して生きていこうとしていたせいで、栞子の気持ちがなんとなく理解出来た。

 しないといけない立場、とは言うが、その口調も表情も前向きそのもの。『頑張って』とか『期待しています』なんて言葉は野暮(やぼ)でしかなかった。

 「あ、そうだ」と、せつ菜は思い出したように付け足した。

 

「さっきまで歩夢さんもいたんですけど」

 

 それを聞いた栞子。チクリと胸が鳴る。心の中を泳いでいた疑念がまた少し存在感を増す。

 いやいや。別に歩夢さんは何もしていないから――。やはり彼女は賢い。余計なことを考えようとした時点で自身の感情を即座に制御。カバンをロッカーに入れ、練習着に着替え始める。

 

「それで、歩夢さんはどちらに?」

 

 せつ菜の言い方からして、どこかへ行ってしまったのは確実である。深い意味はなく、話の続きとして栞子は投げかけた。

 

「侑さんのことを迎えに行ったようです」

「わざわざ?」

 

 食い気味かつ思わず出てしまった本音に、栞子は口をつぐんだ。彼女的にはランジュばりの歯に衣着せぬ発言だったが、実際は思った以上に自然。言い換えれば、誰でもそう言いたくなるいわゆる()()である。

 その証拠に、せつ菜も栞子の発言を聞いて苦笑いを浮かべた。けれどせつ菜は歩夢の行動そのものを否定するつもりはない。彼女がそうしたくなる行動原理は、栞子よりも理解しているつもりだった。

 

「歩夢さん、侑さんのことが大好きですから」

 

 単純であるが、これに尽きる。ただ好きなだけ。それ以上でもそれ以下でもない。

 だが、栞子は少し考えた。たったそれだけの理由でそこまですることがあるだろうか。

 

「歩夢さんと侑さんは、どのようなご関係なのでしょう」

 

 だから問いかける。別に変な答えを期待しているわけではないが、堅苦しい聞き方にせつ菜は笑った。

 

「幼馴染です。幼稚園の頃からずっと一緒で、今でも一緒に通学するほど仲良しなんですよ」

 

 あぁなるほど。栞子の頭の中で疑問が一本の線になっていく。

 確かに二人の距離感は、(はた)から見ても特別な感じがあった。高校に入学してからの関係ではなく、もっと深い感覚。互いのことを分かりきっているような。

 

――嫉妬深そうなのが良い。メンヘラっぽい

 

 刹那。ぶり返される先日の記憶。疑問が一本の線につながっていくということは、栞子が抱いたあのコメントへの疑念もそれに含まれている。

 

「あの……せつ菜さん」

「はい?」

「この前――」

 

 栞子自身、これをせつ菜に問いかけてどうなるのか理解していなかった。そもそも彼女に聞くこと自体間違っている。

 けれど、興味を隠すことができなかった。むしろコレを知っていれば、同好会に溶け込めるきっかけになるのではないか。――なんて希望的観測でしかないが。

 

 問いかけようとしたまさにその時、部室のドアがゆっくりと開いた。

 

「侑ちゃん、本当に大丈夫?」

「大丈夫大丈夫。ちょっと疲れただけだってー」

 

 上原歩夢と高咲侑であった。口を開きかけた栞子は咄嗟(とっさ)につぐみ、せつ菜の意識も自然と二人に吸い寄せられる。

 

「どうかしたのですか?」

 

 二人の会話を聞いていたせつ菜が問いかけると、歩夢が何か言いたげな表情を見せる。けれど言葉を発するまでには至らず、侑と顔を見合わせた。

 

「別になんてことないよ。ちょっと疲れが残ってるだけだから」

「具合でも悪いのですか?」

「ううん。全然そんなことないってー」

 

 侑は栞子の問いかけも簡単に否定する。栞子から見ても今の侑に違和感はあまり感じられない。歩夢は何を気にしているのだろう、なんて疑問が浮かんだと同時に、その歩夢が口を開いた。

 

「無理しちゃだめだよ。顔色もあんまり良くないし」

 

 彼女は侑の発言自体を否定した。栞子は歩夢の発言を受けて、侑の顔を注視する。……確かにスクールアイドルフェスティバルの時と比べて弱々しい。でもそれは『よく見れば』の話で、ぱっと見では通常運転の高咲侑でしかない。

 

「大丈夫だってー。歩夢は心配しすぎ」

「でも、それで倒れちゃったら私……」

 

 歩夢にとっては優しさでしかない。傍から見てもそれはよく伝わる。だが、今の栞子は少々穿(うが)った見方をしてしまう。

 心配なのは結構だが、少しお節介すぎるのではないか。それが彼女が抱いた直感。わざわざ迎えに行ったという事実があるせいで、余計にそう思ってしまう。

 

「歩夢さんは心配性なのですか?」

「う、うーんどうでしょう……」

 

 栞子は小声でせつ菜に問いかける。せつ菜も深く考えたことがなかったせいか、回答に困り誤魔化すことしかできなかった。

 だが栞子のその疑問がきっかけとなり、せつ菜はこれまでの出来事を振り返る。それこそ直近では、高咲侑と桜坂(おうさか)しずくを尾行していた。それがバレて二人に迫られた時には『ヒーローショーを見に来た』なんて嘘をつくように同意を求めてきた。

 今考えてみると、それは変な話である。そもそも尾行なんてする必要がなく、普通に合流すれば良いだけの話。当時の歩夢の行動は、理にかなっていなかった。

 

「……大好きだからではないでしょうか」

 

 せつ菜は付け足すように言う。結局それかい、なんてツッコミが聞こえてきそうだ。

 

「まあ……見れば分かると言いますか」

 

 栞子は少し嫌味っぽくなった返答に申し訳なさを覚えた。だが、せつ菜はそれを気にしている様子はない。

 

「単純に考えて良いのではないでしょうか」

「……単純に」

「はい。歩夢さんは侑さんのことが好きで、心配だから声を掛ける。至って自然なことだと思います」

 

 確かにそうだ。筋は通っていて何の違和感もない。先月までの栞子であれば、素直に受け止めていたであろう。

 しかし、今の彼女は違う。先日のあのコメントのせいで、妙に浮き足立ったままこの場に立っている。

 歩夢のソレは、心配性とはまた違う――。栞子の直感がそう言っている。せつ菜の言葉に素直にうなずけないのも、その直感のせいだ。

 そして、ここまで来るともう誤魔化せない。あのコメントに()()()()()()()()()()という事実を。別に嫉妬深い場面に遭遇したことはないが、せつ菜の経験則からしてもその推測は間違っていない。

 別にそれは彼女に害を与えることはない。歩夢が侑のことを誰よりも好きでいることで、栞子に不都合はない。けれど、釈然としない何か――。

 

「でも侑さん、本当に大丈夫ですか?」

「せつ菜ちゃんまで……なんともないってば」

 

 そんな栞子の思考をよそに、せつ菜はおもむろに侑に近づいた。互いに警戒感なんてなくて、自身がいなかったころの同好会はこんな雰囲気だったんだ、なんて栞子は思う。

 改めて侑のまわりを見る。顔を覗き込もうとするせつ菜と、心配そうに見守る歩夢という構図ができあがっていた。高咲侑という少女の周りには、こうして意図せず人が集まる。この同好会が再び動き出したのだって、元はと言えば侑がスクールアイドル、優木せつ菜にときめいたからである。

 

「本当ですかぁ? どれどれ……」

 

 そのせつ菜が今、彼女の体調を心配している。ファンであれば感動モノであるが、侑にとってはすっかり戦友のような存在になっていた。

 そしてその戦友が、侑の額に手のひらを伸ばす。まるで母親が子どもの体調を心配するように。なんと微笑ましい光景か。花に例えるならタンポポだろうか。

 

 ――否!

 栞子は戦慄(せんりつ)した。微笑ましい? タンポポ? 何を持ってそう言うのか。子どもなら泣きじゃくっているだろうし、トゲの生えた黒薔薇(くろばら)がよく似合う。栞子の叫び声が聞こえてきそうだ。

 彼女は見てしまったのだ。せつ菜が侑の額に手を当てた瞬間の――歩夢の顔を。それはただの死神でしかなく、今にもせつ菜の命を刈り取ろうとしている。心臓を根こそぎ引きずりだすだけの残虐(ざんぎゃく)さすら感じられる。

 

「ね? 熱なんてないんだから」

「今はそうかもしれませんが……」

 

 納得できないせつ菜は額に当てた手を、侑の頬にやる。彼女の顔をペタペタと触って熱がないのかを入念に確認する。女の子同士の絡みが好きな人間が見れば、それこそ歓喜するであろう。

 だがもうやめてくれ! 悪魔が、悪魔がそこにいる! 栞子の心の叫びが今ここに響き渡る。鬼面と化した上原歩夢は、何も言わず二人を眺めている。逆にそれが恐ろしいのだ。止めてほしいのであれば、一言二言言えば済むであろう話。それをあえてか何故か。栞子の目には、獲物をワザと泳がしているようにしか見えなかった。

 

 あぁこれか。そうか。栞子の疑念――それがついに、一本の()()()()につながった。

 彼女の感じていた本当の違和感はコレだ。穏やかな顔の裏に隠された恐怖。高咲侑に対する愛情という名の独占欲。自分や優木せつ菜、それ以外のメンバーたちには向くことのない侑だけのために存在する優しさ。

 

(せつ菜さん……この殺気に気づかないのですか……?)

 

 思わず心の中で問いかける。いくら顔が見えない角度にいるとは言え、今あなたのことをとんでもない形相(ぎょうそう)で見ている人間がいるのだ。栞子としてもソレを指摘して良いのかどうかすら分からず、指摘したらしたで自身に飛び火する危険性もある。

 

「せつ菜ちゃん、侑ちゃん嫌がってるよ」

 

 上原歩夢の口からようやく発せられたのは、驚くほど抑揚のない声であった。

 今この場には、栞子を含めて4人しかいない。そのうち3人が当事者で、この状況を客観視しているのは三船栞子ただ一人。自身の感情を共有できる人間は――他に存在しないのだ。朝香果林(あさかかりん)らが居れば、年上らしくなだめてくれたかもしれないのに。

 

「でもここまでしないと分かりませんから!」

「それって私が分かってないってこと……?」

 

 危機感を募らせる栞子をよそに、せつ菜は無意識に歩夢を(あお)る。

 それもそうだ。優木せつ菜は上原歩夢にとっての天然地雷散布機である。その破壊力は同好会イチと言っても良く、歩夢の嫉妬を爆発させる原因となった張本人。無論、せつ菜自身はその事実を知らないが。

 

「あはは……もう本当だってば」

「そう、ですか?」

「うん。心配してくれてありがと」

「当然ですよ」

 

 せつ菜の手を剥がしながら、侑は笑う。その対応は至って常識的なのだが、この場においては悪手でしかないのだ。その証拠に――歩夢は笑わない。

 栞子の視線は歩夢にしかいかない。余計な口は挟まない。挟めない。だからこの状況を見守るしかない。見守るしかないから、歩夢の一挙手一投足に目が行ってしまう。

 

――私には言ってくれないんだ。

 

 せつ菜、そして侑の耳には何故か届かない。しかし――栞子に電流走る。悪口や暴言でもないのに、背筋が凍り付く言葉であった。

 

「そっ、そろそろ練習を始めませんか?」

 

 このままではマズい。空気を読んだ栞子が懸命に放った声は、見事なまでにうわずった。だがその甲斐あって、3人の視線が彼女に向けられる。

 

「みんな来てませんが、そうしましょうか。侑さんも大丈夫そうですし」

「そうだね。歩夢もそれで良いでしょ?」

「うん。侑ちゃん一緒に行こう」

 

 歩夢の様子はいつも通り。栞子が良く知っている彼女に戻っていた。

 何か悪い夢でも見たような感覚だった。これがただの悪夢であるなら、まだそっちの方が良い。

 

「そういえば、先ほど何か言いかけてませんか?」

「……そうでしたか?」

 

 戻ってきたせつ菜が栞子に問いかける。彼女は覚えていたが、あんな光景を見た後に聞くことではない。だって――自身の想像を遙かに超えてきたのだから。

 

――▽

 

 その翌日のことである。栞子が部室にやって来ると、昨日とは違ったメンバーが先に集まっていた。その中で、中須かすみが「しお子ー」と近づいてくる。その独特な呼び方に、彼女はまだ慣れていない。

 

「どうかしましたか」

「聞いた? 侑センパイのこと」

 

 昨日ほどの戦慄は走らない。それもそのはず。今ここに上原歩夢が居ないからである。

 

「いえ。何かあったんですか」

「センパイ、インフルエンザになったんだって。だから今週いっぱい活動には来られないみたい」

 

 栞子は素直に驚いた。少なくとも昨日は元気そうにしていたし、無理をしている様子もなかったから。しかもインフルエンザとなれば、風邪とは違って出席停止の扱いになる。かすみの言うとおり、今週いっぱいは会えそうになかった。

 

「さっき歩夢センパイが来て、そのこと教えてくれたんだ」

「歩夢さんが?」

 

 かすみがうなずくと、二人の会話を聞いていた近江彼方(このえかなた)が会話に入ってきた。

 

「あの二人、学科が離れても仲良いからねー」

「その……本当なのでしょうか」

 

 栞子の問いかけに彼方は不思議そうな顔をする。何に対しての疑問なのか分からなかったのだ。そんなやり取りを見ていた朝香果林が輪に入ってきた。

 

「何か気になるの?」

 

 端的で的を得た質問だった。栞子は咄嗟に首を横に振る。

 冷静に見れば、栞子の質問だってそこまで困惑するようなことではない。でも慌ててしまうということは、その奥に深い意味が隠されていることをひけらかすことと同義であった。しかし、かすみも彼方も、果林ですら栞子の疑問には気づけなかった。

 

「あ、い、いえ。昨日はすごく普通だったので……」

「水くさいですよね、侑センパイったら」

「遠慮することないのにねぇ。疲れが溜まってたはずなのにぃ」

「そうね。ギリギリまで曲作りもしていたし、無理にでも休ませるべきだったわね」

 

 それは確かに、事実として正しいだろう。人間誰しも疲れが残っていれば、免疫が落ちる。スクールアイドルフェスティバルという一大イベントを終えた彼女たちにとって、全員が例外ではないのだ。

 

「そういえば、せつ菜さんは?」

 

 周囲を見渡した栞子が投げかける。侑の話をしていたせいか、()()()の彼女がいないことが不思議だった。

 てっきり自身の周りにいる誰かが答えると思っていたが、パソコンを見ていた桜坂しずくが何かを思い出したように反応した。

 

「せつ菜さんからの提案なんですが、先輩が復帰するまでお休みにしてはどうかと」

 

 しずくは椅子(いす)に座ったまま、体をクルリと部屋の中心に向ける。全員と顔を合わせて反応をうかがう。

 

「えーっ! 体が鈍っちゃいますよぉ!」

「でも良いんじゃない? ここのところみんな走りっぱなしだったし」

「私たちだって熱出しちゃうかもしれないもんね」

 

 否定的な中須かすみをよそに、果林とエマ・ヴェルデが賛同の意思を示す。肩身が狭くなったかすみは、歯を食いしばりながら露骨な態度を表した。

 

「同好会の部長はかすみんです! 部長を差し置いて決めないでくださいよぉ!」

「じゃあどうするの? みんな具合悪くなるのは嫌だよ」

 

 天王寺璃奈(てんのうじりな)のド正論を受け、かすみは一人で騒いでいたことが恥ずかしくなってきた。その証拠に、自身に集まる視線から逃れようと顔を背け出す。

 

「うー……わ、分かりましたよぉ! 侑センパイが戻る来週までオフにしますからぁ!」

「さすが部長ね。じゃあ今日は帰りましょ」

 

 果林の呼び掛けで全員が帰り支度を整え始めた。しずくは拗ねたかすみの頭を撫でている。

 

「では、ランジュとミアさんには私から連絡しておきますね」

「あ、ううん。グループに今メッセージ送ったから、大丈夫だよ」

「そうですか。確かにそっちの方が早いですね」

 

 エマの一言で、栞子はスマートフォンをしまう。改めて全員を見渡すと、さっきまで感じていた疑問のことを思い出してしまった。

 全員の意識が『来週までオフ』に行ったのは、栞子自身の問いかけのせいである。それにしずくが()()()()()()()()()()()()()()回答をしたことで、うやむやになってしまっていた。

 

 ――優木せつ菜は、今どこにいるのだろう。栞子の疑問、というか疑念。決して口にはしなかったが、あまり良い予感がしなかった。

 

「あの……私、生徒会室に立ち寄ってから帰ります。鍵も私が閉めますから」

 

 栞子は嘘をついた。文化祭も終わってしまった今、生徒会室に用なんてない。いや、そこに中川菜々がいるのであれば、それを確認するだけの価値はある。

 いずれにしても、確かめなければならなかった。一刻も早く、この第六感(シックスセンス)が思い込みであると実感したかった。

 メンバーたちは栞子の発言を疑うこともなく、素直に部室から出て行った。全員が出ていってから数分待ち、改めてスマートフォンを取り出す。電話を掛けた先は――もちろん彼女である。3コール後に快活な声が響いた。

 

『栞子さん? どうかしましたか?』

「せつ菜さん。お疲れ様です」

 

 いきなり本題は問いかけない。侑のインフルエンザのことや、同好会の活動がオフになったことについて数分会話をする。少し二人の空気感が温まってきたところで――。

 

「せつ菜さん、今どちらにいらっしゃいますか?」

 

 意を決して問いかける。栞子の胸の鼓動は、不自然なほど早くなっていた。

 

『侑さんの家の近くにある薬局にいますよ』

「薬局……ですか?」

 

 そして――彼女の感じていた第六感が、頭の中でガンガンと鐘を鳴らす。せつ菜は、栞子が聞いてもいないのに薬局にいる理由を話し始める。ここまで来ればなんとなく察しはついた。

 

『侑さんのお見舞いに行こうと思いまして。昨日変に話しかけてしまいましたし。まあインフルエンザなので直接顔を合わせることはできないかもしれませんが……』

 

 これぞ、天然地雷散布機の真骨頂だ。無論、せつ菜自身は良かれと思っての行動でしかない。だがそれが悪手だと気づいておらず、むしろエスカレートしていくのだから、高咲侑を愛する上原歩夢からすれば、それはそれはもう。

 

「せ、せつ菜さん。その……気持ちは分かりますが、()めた方が良いのではないでしょうか」

『え、どうしてですか?』

 

 栞子に()められると思っていなかったのだろう。せつ菜は意外そうな声で聞き返した。

 

()()に移ってしまうと、生徒会の運営にも支障が出るはずです」

『あ……それは確かに……』

「それにインターフォンを押したり、ドアノブに見舞い品を掛けるだけでも、侑さんは起きてきてお礼を言うのではありませんか?」

 

 せつ菜は自分が恥ずかしくなってしまった。昨日あんな絡み方をしたくせに、彼女の体調不良を見抜くことができなかった。しかもインフルエンザだったなんて。

 だから、この行動は自分自身の反省でもあるのだ。すっかり熱くなった頭を後輩にたしなめられるなんて、せつ菜は心の中で苦笑いするしかなかった。

 

『そうですね。でもゼリーとかたくさん買ったので、明日歩夢さんに渡そうと思います』

「……その方が()()良いと思います。すみません偉そうなこと言って」

『いえいえ。むしろありがとうございました』

 

 歩夢に手渡すのもそれはそれでリスキーかもしれないが、直接家に行くよりは被害は抑えられるだろう。

 

『歩夢さんはどんな様子でしたか? 侑さんのことなので、心配してるんじゃないのかなと』

「自覚あるんですね」

『え?』

「……いえ、なんでもございません」

 

 さっきから第六感が鳴り響いているせいで、言葉遣いという理性が薄れつつあった。一つ咳払いをして思考回路をリセットする。それもこれも、全て昨日の出来事のせいだ。

 だが、せつ菜のその発言により新たな疑問が浮き出てきた。――上原歩夢の行方である。中須かすみによれば、侑がインフルエンザに罹患(りかん)したことを告げに部室には来たらしい。しかしその後のことは誰も何も口にしなかった。てっきりあの輪の中に居るものだと思っていたのだろうか。

 

「歩夢さんとは今日会っていないので、なんとも」

『え、そうなのですか? では……もう帰宅されたのでしょうか』

「そうかもしれませんね。侑さんの隣の部屋、でしたよね」

『そうです。でもこういうときは安心ですよね』

 

 栞子は素直にうなずけなかったが、ここでその議論をする気にはなれなかった。

 しかし、身近な人間が隣の部屋に暮らしていることが、侑の心情的にもプラスに働くのは事実としてあった。

 

「いずれにしても、しばらくは休憩ですね」

『はい。また来週から走り抜け――』

 

 電話越しでも分かる、せつ菜の暑苦しいまでの決意表明。思えば、かつてはソレがきっかけとなって同好会が崩壊。大好きの押しつけが、メンバーの感情をバラバラにさせた。そんな裏事情があったことは、栞子もあまり理解していない。

 ところが、せつ菜は言い切る前に言葉を失ってしまった。数秒経っても何も聞こえてこない。

 

「せつ菜、さん?」

 

 思わず問いかける。けれど、返事はない。あの快活な声が聞こえない。

 栞子の第六感が赤く染まり、これまでにない速度で警鐘を鳴らす。

 

『――歩夢さん?』

「え?」

 

 ようやく聞こえたかと思えば、今までの会話とは一切関係のない単語が出てきた。栞子は動揺して聞き返すが、せつ菜の声は返ってこない。代わりに、無機質な機械音が彼女の耳を抜けた。

 

「も、もしもし!?」

 

 今日一番大きな声を出すが、機械音の返答しか返ってこない。その電話が切れたという証明である。栞子はスマートフォンを耳から離して、真っ黒になった画面を力なく見つめる。

 もう一度せつ菜の番号に掛けるが、やはり同じ音が栞子を出迎える。額にはうっすらであるが冷や汗が浮かんでいた。

 メッセージを送ってみても、既読マークは付かない。もしかしたら電池が切れたのかもしれない。そう考えるのが自然だった。

 

 ――けれど。せつ菜が言い残したフレーズが、栞子の思考を掻き乱した。

 彼女は間違いなく言った。『歩夢さん』と。自身の同じように人を『さん付け』で呼ぶことを考えても、あの言葉は間違いなく上原歩夢のことである。

 絶対そうだ。もしかしてせつ菜さんは――。栞子は断定する。正直、そこまでの材料は揃っていなかったが、自身にスクールアイドルとしての適性が無いと思い込んでいた過去もある。元々が思い込みをしやすい性格であるのだ。

 

 だから栞子は、頭を抱えた。

 

――▽

 

 ここでようやく、話は冒頭に戻る。

 栞子が動揺した理由――それは上原歩夢の暴走である。高咲侑を巡る少女たちの争い。優木せつ菜が撒き散らした地雷が、一斉に爆発したような衝撃が全身を駆け巡る。

 

 すでに彼女は正常な思考ができなくなっていた。栞子から言わせれば、あの電話の切れ方はどう考えても犯罪の匂いしかしない。

 

(ど、どうすれば……警察? でもなんと説明すれば良いのでしょう……)

 

 仮に通報するとして、栞子は自身の仲間であり背中を押してくれた恩人を突き出すことになるのだ。動揺しているとは言っても、そこは冷静さが(まさ)った。

 けれど、このまま放置するのも違う気がした。じゃあどうする? グループに投げかけてみる? でも誰が信用してくれるのだろう。自問自答を繰り返す。宮下愛(みやしたあい)らの『気にし過ぎだってー!』なんて声が脳内再生される。

 

(……これは、私が)

 

 彼女は、通報という選択肢が頭に浮かんだおかげで、少し冷静さを取り戻していた。その甲斐あって、自身がどうしてここまで悩んでいたのか、その根本を考える余裕が生まれた。

 あの違和感に気づいた時から、いずれ向き合わなければならない問題だったのだ。自身のためにも。上原歩夢のことを理解できれば、それこそ同好会の健全な運営にもつながるはずだ。

 栞子は机の中にしまわれていた緊急時に使う連絡先から侑の家の住所を取得。スマートフォンの地図アプリに入力して、部室を出た。

 ここからの彼女は速かった。的確なルート選定に加えて無駄のない乗り換え。まるで最初から侑たちが暮らしているマンションを知っていたかのような華麗さすら感じられた。

 

 最寄りのバス停から、彼女たちの家までは歩くしかない。侑と歩夢も、毎日一緒にバス停まで歩いて通学している。

 栞子は走った。せつ菜の言っていた薬局の看板を見つけると、足の回転を少しだけ早める。全国展開する見慣れた青色の看板。都会には珍しいぐらい広い駐車場を抜け、店内に足を踏み入れる。せつ菜は『薬局』と言ったが、店内はイマドキの『ドラッグストア』だった。

 

 一通り店内を見回ったが、そこにせつ菜の姿はなかった。

 普通なら落ち込むところ。しかし、今は一刻の猶予もない。勇気を振り絞って店員に尋ねると、幸運なことに少し前に退店したと教えてもらえた。

 

(とりあえずは一安心ですね……)

 

 誘拐(ゆうかい)などの可能性が頭によぎっていた彼女。電話が切れたぐらいにしては行動的過ぎる。けれど、今の栞子は走ったこともあって思考が鉄を打てるぐらいに熱くなっている。

 店を出て、再び走り出す。まるで親友や家族を人質にでも取られているかのように、まっすぐ前だけを見て走った。空はすっかり黒く染まっていた。

 

 やがて――横に大きく広がった階段が目の前に広がる。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 大した距離ではない。普段の練習の方がキツいに決まっているのに、圧迫感された精神状態のせいで、普段よりも体力の消費が激しかった。体が(こわ)ばっているのも大きな原因だろう。

 栞子の目の前に広がったそれは、彼女が想像した以上に立派な建物だった。三船家も十分な名家で、マンションとは違った荘厳(そうごん)さのある家に暮らしている。でもどこか、こういう近代的な建物への憧れがないわけではなかった。

 ここに来るまで、せつ菜にも歩夢にも出会わなかった。せつ菜に関してはしっかり退店した事実もあったし、やはりスマートフォンの電池が落ちたのだろう。問題は――上原歩夢である。

 

(勢いでここまで来てしまいましたが……)

 

 ここでできることは3つだ。

 侑の家を確認すること、歩夢の家を確認すること、何もしないこと。栞子は火照(ほて)った頭を冷やすように数回深呼吸する。

 侑の家に行くのは、せつ菜に言った手前気が引けた。それに余計な誤解を招くおそれもある。となれば、事実上の2択だった。

 

「――栞子ちゃん?」

 

 せつ菜、いや刹那。栞子の思考に一筋の閃光。同時に全身の皮膚(ひふ)から浮かび上がる汗。走ったことによる発汗ではない。これは――恐怖だ。

 自身の左側からの声に、彼女はおそるおそる顔を向ける。目の前に立っていたのは、すっかり栞子の妄想世界の住人になっていた()()である。

 

「あ、あ、歩夢さん……」

「どうしたの? すごい汗かいてるし……」

「い、いえこれは……!」

 

 一言で言えば緊急事態だった。栞子も想定していなかったわけではないが、せつ菜との会話もあって『帰宅しているだろう』と決めつけていた部分があった。彼女の家を訪れでもしなければ、今日会うことはないだろうと。

 彼女の3メートル先に立っている上原歩夢は、制服姿で普段通りカバンを肩に掛けている。いつもと違うところと言えば、右手にペットボトルが数本入ったレジ袋を持っていることぐらい。

 歩夢から見ても、三船栞子の様子はおかしかった。視線をキョロキョロさせて、決して自身と目線を合わせようとしない。瞬間、心の中で黒い何かが(うごめ)いたが、平然と取り繕う。

 

「そ、その……わ、忘れ物! 忘れ物を侑さんに届けたくて」

「忘れ物? もしかして、インフルエンザになっちゃったの聞いてない?」

「い、いえ聞きましたが……。持っていかないと忘れ物の存在自体忘れそうでしたから……」

 

 歩夢はどこか不自然に思いながらも、栞子は変な嘘をつく理由もないと踏んだ。「そっか。ありがと」とまるで()()()のように礼を言う。

 一方の栞子は、動揺しながらも先の展開を予測する。忘れ物なんてモノはないし、今ここで渡せと言われれば終了だ。そうさせないためにも、意識を別の何かに誘導する必要があった。

 

「良かったらウチ来る? せっかく来てくれたんだし」

「えっ……」

 

 ところが、先に動いたのは歩夢だった。家に上がるように提案してくる。

 何も知らなければ、栞子だって遠慮こそすれど、断る理由はない。でも今は――言うまでもない。狼狽(うろた)えるばかりで、返答が喉につっかえて出てこようとしなかった。

 彼女がそんなことを考えているとは知らず、歩夢は本当に良心で提案したのだ。自身の部屋であればゆっくり話すこともできる。忘れ物も置いておける。それに汗だくの彼女を見捨てて自分だけ帰るのは気が引けたのだ。

 

「どうかな?」

「……お、お邪魔します」

 

 栞子自身、本当は今すぐにでも逃げ出したかった。けれど、そんなことをすれば同好会での活動に支障が出るのは明らか。ようやく自分に素直になって、夢へのレールに乗ったのだから、それを捨てるようなマネはしたくなかった。

 それに、ここまで来たのも自分自身の意思。上原歩夢という人間が気になったからである。もしかすれば、これがきっかけで仲良くなることだってあるかもしれない。

 

 無論、そんな希望的観測しか出てこないほど、追い詰められていたのである。

 

 マンションの中は、外から見たよりも近代的に見えた。部屋までの道中も会話をする。歩夢によると、歩夢と侑の部屋はそれぞれベランダに繋がっているという。侑のために毎日モーニングコールをしていることや、学校へ行く前にベランダに出て軽く話をすることなど、口を開けば「侑ちゃん」であった。

 栞子は、その行き過ぎた愛情をもうおかしいとも思えなくなっていた。それぐらいはするだろうな、歩夢さんなら普通だろうな、なんて冷めた自分がいて、歩夢に申し訳なさすら覚えていた。

 

「どうぞー」

 

 歩夢が家をドアを開けると、独特の甘い匂いが鼻を抜けた。家族で暮らしているそうだが、誰も居なかった。

 彼女の言うとおり、このマンションは特徴的な構造をしていた。家族が使う共用スペースを抜けた後、歩夢の部屋につながる。帰る時は家族と鉢合わせになる可能性が高く、栞子はまた申し訳なく思う。

 だが歩夢の部屋に入ると、栞子の目線の先には、ビル街の明かりが燦然(さんぜん)と光り輝いていた。

 

「飲み物持ってくるね。座ってて良いから」

「あ、お構いなく……」

 

 この頃には、ロータリー前に感じていたあの警戒感が緩くなっていた。()いたわけではないが、歩夢の声のトーンも表情も普通だし、皆がよく知る彼女である。それであれば、無駄に警戒する必要もなかった。

 

「どうぞー」

「あ、ありがとうございます」

 

 歩夢が可愛らしいコップにオレンジジュースを()いで持ってきた。床に腰を下ろしていた栞子は、そこで喉が渇いていたことに気づいた。

 変なモノが入っているかもしれない恐怖心よりも、その水分を欲する感情に逆らえず、結構な勢いで飲み干してしまった。甘さが走った体に染み渡っていく。

 

「あの……侑さんは大丈夫でしょうか」

 

 歩夢が話しかける前に栞子が仕掛ける。気遣っているのは本心であるが、黙っていると()()()のことを突っ込まれるのではないかと警戒してのことだった。

 

「うん。今日は私も会えてないけど、今朝もメッセージはできたし、何かあれば()()()()()から」

「お隣、ですもんね」

 

 歩夢の言葉の節々(ふしぶし)からマウント的な何かがあった。栞子は『自分の考えすぎ』だと結論づけるが、あいにく間違いではないのである。

 

「練習、お休みになっちゃったね」

「ですが、そうするのが一番かもしれません。蔓延(まんえん)してしまっては、元も子もありませんから」

「そうだけど……。侑ちゃん気にしてないと良いけど」

 

 また高咲侑のことである。栞子はここに来てから侑の話しかしていないことに気づいた。そうなることは覚悟の上であったが、正直胸焼けしそうだった。

 

「大丈夫ですよ。スクールアイドルフェスティバルまでノンストップでしたし、ここで小休止するのが良いはずです」

「……それもそうだね」

 

 部室での会話を繰り返す形になったが、歩夢の反応は上々だった。

 彼女の部屋を見渡してみると、上原歩夢らしい桃色が雰囲気を彩っていて、彼女自身を体現しているような部屋であった。

 

「その……今日、せつ菜さんとは会ってないですか?」

 

 栞子がそう言ったのは、沈黙を作らないためでもあった。歩夢からここに来た要件のことを詰められれば、嘘を吐いたことがバレてしまう。そのために、この先も会話が続くであろうと判断して、優木せつ菜を頼ったわけだ。

 

 けれど――それは今ではなかったと後悔することになる。

 

「どうしてせつ菜ちゃんが出てくるの?」

 

 見る人が見れば「お前が言うな」とのヤジが飛んでくるかもしれない。かつて自身が侑に同じようなことを問いかけ、侑から栞子と全く同じ疑問を返された。そして――。歩夢は当然のように棚に上げる(知らんぷり)

 これに驚いたのが栞子である。先ほどまでの空気感が一変し、身の毛もよだつような視線の(やり)が飛んでくる。

 上原歩夢の侑に対する愛情を踏みにじるつもりは毛頭無い。それは同好会全員に言えることで、この様子を見ると、全員が無意識に地雷をばらまき、それを歩夢が意図的に踏み抜いてたのだろう。

 

「休養はせつ菜さんからの提案だったので、歩夢さんと会って相談したのかと」

「ううん。私は侑ちゃんのことしか伝えてないし、でもそれで察してくれるのは、せつ菜ちゃんもすごいなぁって思うよ」

 

 だが、別に歩夢は優木せつ菜を嫌っているわけではない。今みたいに純粋に褒めるところは褒めようとする。

 結局、高咲侑が絡んでくると歩夢は豹変(ひょうへん)してしまうのだ。栞子も分かりきっていたが、今の彼女の様子を見て確信に変わる。

 

「歩夢さんって、侑さんのこと大好きですよね」

「えっ!? も、もう急になにぃー……」

 

 口では否定的だが、その表情はまんざらでもなさげだ。

 

「幼馴染、なんですよね」

 

 栞子が問いかけると、歩夢は少し考える。何かを思い出しているようにも見えた。

 

「うん。スクールアイドルをやってなかったら、今ごろ二人で予備校通ってたんだ」

 

 彼女の視線は、オレンジジュースが減っていないコップに落ちる。その力なく、何かを懸念している弱々しい顔を見ると、栞子としても無視はできなかった。

 

「後悔、しているのですか?」

 

 結構核心を突いた質問だった。でも栞子としては、今の歩夢がそう見えてしまったのだ。まるで、あの頃二人きりで居た時間を、恋しく思っているようにすら見えて。

 

 しかし、その疑念は杞憂(きゆう)だった。

 

「ううん、まさか。むしろ感謝してるぐらいだよ」

「そう……ですか?」

「うん。私も侑ちゃんも……少しずつ変わってきたし。たくさん学ぶこともあったし」

 

 前向きな発言だが、釈然(しゃくぜん)としないのもまた事実だった。

 それであれば、どうしてあんな表情をするのだろう。悲しげで、何かに恋い焦がれているような美しい瞳。見つめる先がコップだなんて、そんな悲しい話はない。

 栞子は、せつ菜の言葉を思い出す。幼稚園から高校までずっと一緒で、部屋も隣同士。昔から一緒。そこに歩夢の発言を重ね合わせる。

 互いの日常が穏やかであればあるほど、その変化には敏感になってしまう。栞子自身も親友(ランジュ)を思い浮かべると、なんとなく分かる気がした。

 

「私も、これから変われるでしょうか」

 

 栞子の口から、意図せず本音が漏れる。それを見ていた歩夢は、今までにないぐらい優しく微笑んだ。

 

「無理に変わる必要はないんじゃないかな」

「え……?」

「スクールアイドルをやろうって決めた時点で、もう変わってると思うよ」

 

 歩夢の優しさにあふれた助言が、栞子の心に鳴り響く。侑のことになれば歯止めが効かなくなっても、普段は空気が読めて優しい少女である。栞子は彼女の扱い方が少し分かった気がした。

 

「ありがとうございます。歩夢さん、その……」

「ん?」

「あまり考えすぎないでください。侑さんは……歩夢さんを悲しませることはしないと思いますから」

 

 歩夢は何のことを言われているのか、あまりピンと来ていないようだった。栞子としても無責任だとの理解はある。だが、歩夢は根本的に誤解をしているような気がしたのだ。

 自身のことを置いて、どこかへ行ってしまうのではないか。幼馴染という立場はもう終わってしまって、上原歩夢が知らない高咲侑になってしまうのではないか。

 責任感の強い栞子らしく、先輩には仰々(ぎょうぎょう)しいアドバイスができなかった。その代わりに、少しでも自身の想いを伝えたい――。たったそれだけだった。

 

「あまり長居すると迷惑でしょうから。もう今日は帰りますね」

「そんな気にしなくて良いのに」

「また来ても良いですか?」

「うん。もちろんだよ」

 

 来た時とは正反対の感情になっていた。部屋から出ていく栞子は、さっきまで強張っていた体もふわふわと雲の上を歩くみたいになっていて、一気に気が抜けていた。

 家を出るときの歩夢は、ニコニコして手を振っていた。あの姿を見てしまうと、やはり昨日見た彼女の姿は幻覚なのではないか、と栞子は疑ってすらいる。

 先ほどよりも風が冷たく吹き付ける。ぶるりと体が震えてしまい、それこそ長居すると体調を崩してしまう。栞子がバス停を目指して歩くと、後ろから声を掛けられた。

 

「栞子ちゃん? どうしてここに?」

「ゆ、侑さん!?」

 

 思わず声が大きくなった。部屋で眠っていると思い込んでいた彼女が、マスクをして目の前に立っていたからである。栞子が近づこうとすると「移っちゃうからこれ以上はダメ!」なんて制止する。

 

「まあ、話しかけちゃ迷惑だって思ったんだけど」

「だ、大丈夫なんですか?」

「熱はまだあるけど、飲み物切らしちゃって。仕方ないからそこのドラッグストアに行ってきたんだ」

 

 声のトーンは普通だが、顔は紅潮していかにも熱っぽさを感じさせる。

 

「栞子ちゃんはどうしてこんなところに」

「さっきまで歩夢さんの家にお邪魔してて」

「歩夢の家に? そっかぁ」

 

 侑はそれ以上聞いてこなかった。正確には、しっかりとインフルエンザに罹患しているせいで、思考回路が麻痺(まひ)しているのだ。ここに栞子がいる不自然さを追及するまでには至らなかった。

 栞子としても、こんなところで長話をさせるわけにはいかない。それ以上会話を広げようとせず、帰宅するように促した。侑も素直に賛同する。ただ栞子が「送ります」と言うと、断固として受け入れようとしなかった。

 侑は「またね」と手を振って階段を上っていく。仕方なく、栞子は侑の後ろ姿を見送るしかない。

 

(想定外とは言え、顔を見ることができて良かったです)

 

 とにかく、栞子の疑念は全て杞憂に終わった――と。彼女自身は結論づけようとするが、一つだけどうしても晴れない疑念があった。

 優木せつ菜である。確かに店から出て行ったという店員の証言は得られたが、それ以上のことは何も分からない。加えて、彼女が言い残した『歩夢さん』という言葉。スマートフォンを見ても、彼女からメッセージが届いているわけでもない。こういうときのせつ菜は、一言()びの連絡を入れるのだけれど。

 

 肝心の歩夢からは回答をもらえなかった。だが、せつ菜からの連絡を待つ以外に確認のしようがなかった。それにもう疲れた。自分にこれ以上、できることはない――。栞子は胸の引っかかりを放置したまま、バス停へと歩を進めた。

 

――▽

 

 結局その日の夜、せつ菜から『電池切れでした』とのメッセージが来た。栞子は心底安心したが『気になることがあります』と翌日、生徒会室で待ち合わせた。

 そこで切り際に歩夢の名前を言った理由を聞くと、せつ菜は思い出したかのように「あぁー!」と笑う。

 

「あの時、ちょうど歩夢さんに会ったんですよ」

「それで名前を」

「はい。お見舞いに行くつもりだったって、そのまま私が買ったものを歩夢さんに渡しました」

 

 これで合点がいった。となれば、昨日歩夢が持っていたレジ袋はせつ菜から譲り受けたものだろう――。

 

『でもゼリーとかたくさん買ったので、明日歩夢さんに渡そうと思います』

 

 栞子の気苦労はまだ終わらない。昨日のせつ菜との会話が、ここに来て鮮明に思い出された。普段なら気にも留めない言葉であるのに、矛盾を許さないと言わんばかりに自身の思考回路が邪魔をしてくる。

 

「せ、せつ菜さん」

「はい?」

「そのレジ袋って……どれぐらいの大きさでしたか?」

「えっ? えーっと……」

 

 せつ菜は両手で円を描くように大きさを再現して見せた。ソレを見た栞子は、少なくとも昨日見たレジ袋とは違うと断定。昨日のは、栞子から見ても『たくさん』という表現は似合わないぐらいの大きさであった。

 じゃあ……優木せつ菜が渡したレジ袋は一体どこへ……? 体の芯から冷えていく感覚を覚える。まさか……そこまでするだろうか……? 歩夢に対する疑念が深まっていくが、せつ菜の「あっ!」という声に意識が向かう。

 

「侑さんからメッセージです! ゼリーの差し入れを歩夢さんからもらったみたいで!」

「えっ!?」

 

 せつ菜はスマートフォンの画面を栞子に向ける。そこには侑らしい文面と自撮り写真が添えられていた。そこには確かにゼリーやスポーツドリンクが映っていた。彼女の反応と侑のリアクションを見ると、歩夢は確かにせつ菜の差し入れを届けていたようだ。

 一方で、栞子は一気に肩の力が抜ける。中須かすみであれば「ふにゃあ」なんて言いながら机に突っ伏していただろう。

 

「し、栞子さん!? どうかしましたか!?」

 

 だが、今回ばかりは栞子も例外ではなかった。結構な勢いで目の前の机に突っ伏すと、よく分からない感情が全身を駆け巡る。

 

「なぜかすごく、疲れました……」

 

 そして頭の中では――上原歩夢が小悪魔のように微笑んだのである。

 瞬間、栞子のスマートフォンが鳴った。タイミング的に侑であろうか。彼女は突っ伏せたまま画面を確認する。

 侑はメッセージを送るぐらいの余裕があるのだろうか。それであれば、別に気を遣う必要なんてないのに。栞子はそんなことを考えた。

 けれど、彼女は一つだけ見落としていた。三船栞子は、昨日、高咲侑に会うことができた唯一の人間である。インフルエンザで家に()もっていたはずの彼女と、()()()会話をした人間である。そしてもう一つ。侑の部屋はベランダに直結している。つまり――。

 

『そういえば昨日、侑ちゃんと何話してたの?』

『私、気になるな』

 

――▽

 

 栞子はこの翌日にインフルエンザとなり、1週間の出席停止となってしまった。しかし、他のメンバーが感染することはなく、彼女の出席停止が明けた頃には全員が同好会に顔を出すようになっていた。

 部室に戻ってきた栞子は、4日間ほど高熱でうなされたせいか、この一連の出来事の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。気が張っていたのもあり、その反動が一気に疲労となって押し寄せてきたのだ。無理もなかった。

 せつ菜と生徒会室で話していたことは、かろうじて記憶にある。でもおぼろげで、生徒会室に居たことは覚えていても、会話の内容までは覚えていないのだ。

 

「歩夢さん」

「ん? どうしたの栞子ちゃん」

「何かひどい悪夢を見た気がするのですが……思い出せなくて」

「う、うーん……私に関すること?」

「はい。ひどく痛い思いをした気がします」

「え、えぇ……?」

 

 ただ、上原歩夢に関する何かがあった。その漠然とした記憶だけで、栞子は張本人に問いかける。一人で活動していた時のランジュばりにストレートな疑問に、歩夢は戸惑った――表面上は。

 

「気のせいじゃないかな? 別に私は何もしてないもん」

「……それもそうですね。すみません、急に変なことを言って」

「ううん。栞子ちゃんも冗談言うんだね」

「べっ、別に冗談では……」

 

 栞子も冷静になった。自分の発言がどれだけおかしく、先輩に対して失礼なものであったか。歩夢に冗談だと茶化されても、それを否定するだけの元気はまだなかった。

 だからこそ、栞子は気づかなかったのである。歩夢とのトーク履歴が――消されていることに。

 

「あはは。栞子ちゃんったら変なの」

 

 上原歩夢は、高咲侑だけを見つめている。

 

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