AC6夢小説マトメターノ   作:青木晃

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君は素敵/イグアス(曇らせ注意)

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 雑踏の中、背丈の小さな少女がイグアスの目の前に飛び込んでくる。何やら目を輝かせて、話を聞いてほしいというような表情をしていた。

 ──めんどくせえ。でも、こいつは無視すると面倒だしな。

 そんなことを思いながら、イグアスは椅子に座るように勧めてやった。ナマエはパッと顔を輝かせると、硬くて座り心地の悪い椅子に腰をかけた。

 ここは地元の企業で採掘をする労働者や、荒くれ者のチンピラしかいない。つまり、客層は最悪だ。この惑星で生まれ、路地裏で死体をネズミに齧られるようなゴロツキ、もしくは一攫千金のチャンスを狙ってやってきた訳ありの移民どもが日銭を叩いて酒を浴びる、そんな最底辺の酒場だ。故に、居心地が良かった。

 目の前のナマエは、ここの従業員の一人だ。明らかに栄養の足りていない体躯でホールを駆け回り、荒くれどもに酒を運ぶ仕事をしている。

 この酒場はスラムで食うに困っている子供を拾っては、従業員にしているらしく、ホールやキッチンでは細腕で仕事に励む子供の姿が見えた。

 以前、酒に酔った客に絡まれているナマエを助けて以来、イグアスはこの子供に絡まれている。面倒で仕方ないが、無視すると店主が睨むので、渋々相手をしてやっていた。

「イグアス、あの店のツケはわたしが返しといたからね!」

 ナマエは威勢よく叫ぶと、紙切れ一枚をイグアスの胸に押し付けた。そこには確かに、いつも賭けをしている酒場でツケておいた酒代が支払われたこと、そしてその金額が記されている。店長のサインも書かれていた。……これは本物だ。

 ナマエは照れくさそうに笑いながら、それと同時に誇らしげに笑ってみせる。

 ──こいつはどうして、ツケを払う金を工面できた? 他人のツケを払う余裕がこいつにはあったのか……?

 そんな疑問が、脳内に浮上する。

「お前、これ本物か?」

「うん、そうだよ。ちゃんとサインが書いてあるでしょ? 不安ならあの店に行って確かめてみれば?」

「……うるせぇガキだな。お前、なんで俺があそこにいるって知ってんだよ。こんな大金、どこで稼いだ?」

 博打をするために日参していた酒場のツケは、一昼一夜の儲けで返せるような金額ではない。

 ここの酒場の賃金は想定するまでもなく、その日暮らしで消えてしまうような雀の涙程度のものだろう。そんな額で日々を暮らしている子供が、この金額を返せるようなことがあるのだろうか。

 ……頭を働かせて考えてみても、それらしい答えは思い浮かばなかった。

 ナマエはニヤニヤと笑いながら、イグアスを見上げる。

「それはねえ……内緒!」

 非常に分が悪い。年下のクソガキと舐めていた相手に借りを作るのは、死んでも嫌だ。腹が立つ。余計なことをしやがって。そんな悪態が口から溢れるが、ナマエは気にせずにこにこと無邪気な笑みを浮かべていた。

「それに、俺は払ってくれなんて一言も言ってねえぞ。いつ、誰がお前にそんなことを頼んだ?」

「だって……困ってたでしょ。わたし、役に立ちたくて……」

「ハッ、クソガキのくせに偉そうに。俺はそんな女に養われるヒモみてぇなことは望んでねえ! 今すぐ戻って金は返してもらえ。それはテメエの稼いだ金だろ」

「えっ……でも! イグアスのためにやったのに……!」

「その俺がいらねえって言ってんだよ……」

 舌打ちをすると、ナマエの大きな瞳にはみるみるうちに涙が溜まり出し、決壊した。

 ──ガキが泣くと面倒くせえ。

 こんな荒くれものばかりの酒場で働いているくせに、こんな舌打ち一つで泣いてしまって、そんな根性で大丈夫なのか?

 そう言いそうになるが、本気で心配していると思われては余計に懐かれてしまうかもしれない。

 目の前で鼻をスンスンと鳴らしながら必死で流れ落ちる涙を拭っているナマエと、泣かせてしまった張本人であるイグアスには、周囲から突き刺すような視線が突き刺さる。これでは非常に居心地が悪い。

 以前悪酔いしてゲロを床にぶちまけた時とは比にならない、痛々しい視線だった。

「…………ナマエ、それはお前が稼いだ金なんだから、自分のために使え。俺の借金のために使ってんじゃねえ、ってことをイグアスは言いたかったんだよ」

「おいヴォルタ、何物真似してんだよ。全然似てねぇし」

「お前はもっと手加減しろ。相手は子供だぞ」

「…………うっせぇ」

 ナマエは目の前で相変わらず泣いていた。目から涙がボロボロと溢れて、油で汚れた店のテーブルに雨のように落ちて模様を作る。

 ──ガキのくせに、泣いてる時は一丁前に綺麗な泣き方をする。

 己の中に浮かんだ考えに、背筋が凍った。

 こんなちんちくりんのガキに少なからず色気づいてしまった自分が恐ろしい。それと同時に、色々と情けなくなる。

 心臓が不自然な高鳴りを覚えてしまい、目の前のナマエを見るのが恐ろしくなる。目線を逸らして壁に貼られたメニューを眺め、無視をしようとするが、どうしてもチラチラと見てしまう。

 その姿は、以前暇つぶしにみた映画で見た女優の泣き方にそっくりだった。内容はつまらなかったけれど、その女優の顔と裸で元を取ったと思って、諦めた。あのワンシーンと目の前のナマエが重なって見えたのだ。

 よく見れば、……あの女優を縮めて、ひどく痛めつけてガリガリにすれば、ナマエと彼女は似ていなくもない……かもしれない。

 少し驚いたが、なんだ。あの時のアレを思い出したから、脳が錯覚を起こしただけか。……そう思い込むことにして、酒を煽る。何が入ってるかもよくわからない、混ぜ物の味がする。

「……お前も、そんなにビービー泣いてんじゃねえよ。不細工な顔が余計歪んでら」

「不細工じゃ、ないしっ……!」

 そう言いつつ、ナマエは必死に泣き止もうと頑張っているようだった。涙が溢れないように必死で上を向いている。それでも、堪えきれずに溢れる涙をサイズの合わない大きな服の袖で拭っては、目元を真っ赤に腫らしていた。

 ──流石に、不細工というのはヤバかったかもしれない。

 今までにない泣きっぷりに、思わず動揺してしまう。ここまで派手に泣かせたことは未だかつてなかった。子供が泣くのは泣かせておけばいいと思うイグアスだが、相手が異性では流石に分が悪い。周りからの視線の強度がさらに増していく。

「イグアス」

 相方からも、いい加減にしておけという声色で嗜められる。ここまでくると、もう素直に謝るしかないという空気になってしまった。

 ……女の機嫌を取るのが、一番面倒くせえ。

「…………お前は、そのー、なんだ、不細工じゃねえよ。まあ、アレだ。さっきは悪かった。言葉のアヤってやつだ。乳臭えガキにしては悪くねえと思うぞ」

「…………本当?」

 ナマエは顔を上げて、イグアスに詰め寄る。その表情は真剣そのもので、今までにないような迫力を帯びていた。

 急に真顔になったナマエを見て、イグアスは直感する。──ここは煽てないと後でまた泣かれてしまう、と。

「そ、そうだな……。もう四、五年もすれば大人のいい女になるんじゃねえか?」

 ……これでどうだ?

 反応を直視するのが恐ろしくて、イグアスは横目でナマエの目を盗み見る。

「ほんとうに⁉︎」

 ナマエは食い気味に顔を近づける。あと一押しでもすれば機嫌を直すところまで来ているはず。あとはヤケくそなくらい褒めてやればいい! イグアスは酒を煽り、口から出まかせに言葉を並び立てる。

「もうちょっと胸とケツに肉でもつきゃ、男なんて入れ食いになるんじゃねぇか? そんときゃ俺だって、気合い入れて口説いてやるよ」

「ヴォルタ、ねえどう思う? これって本気で言ってる?」

「あー……まあ、そうじゃねえか?」

「ふーん、そっか……えへへ……」

 さっきまで泣いていたのが嘘のように、ナマエはニヤニヤと笑いながらイグアスの方を見ていた。

 ──なんだよ、ちょっと煽てただけでチョロいやつだな。

 照れと嬉しさが入り混じったような表情を見てイグアスはそう思った。たかが褒め言葉ひとつでここまで喜ばれてしまい、胸中は不安と安堵が入り混じったような複雑な感情を覚える。

 ……こいつ、こんなにちょろくて大丈夫か?

 いつかとんでもないめちゃくちゃな男に引っかかりそうだ。目の前の少女が喜ぶ様子を見て、将来のナマエが口先だけのクソ男に捕まる様まで連想してしまう。

 ──なに考えてんだ、俺は……。

 やはり、女の相手は面倒臭い。

 相変わらず上機嫌でニコニコとしているナマエを見て、イグアスは複雑な感情を抱くのだった。

 

   2

 

「あっ! イグアスだ!」

 昼間に外を彷徨いていると、声をかけられた。

 誰だ? と思って固まってしまったが、手の振り方と、大きな声を聞くと、よく知る人物が思い当たった。ナマエだ。

 今日は休みの日なのか、いつもの野暮ったい服ではなく、年頃の少女らしいスカートを履いている。

 ──馬子にも衣装ってやつだな。

 一瞬、誰だかわからなかった。服で印象も結構変わるモンだな、と心の中で、そう思う。絶対に、本人には言わないけど。

「……お前、そんな服持ってたんだな」

「うん、よそ行きだよ。いっつもあんなボロ着てたら気分も萎えるしね。……ねえ、これ似合ってるかな?」

「…………」

 モジモジしながらつま先で地面をすり足しているナマエを見て、イグアスはどう言うべきか言葉を慎重に選んでいた。また前回のように泣かれたら困る。けれど、調子よく褒めるのも癪な気がして、どうにも言葉が出てこない。

「あのね、これは……、この前のお給料で買ったやつでね、中古なんだけど、こことか、ちゃんと縫って直したし……新品に見えるでしょ? 刺繍も、自分でしたの!」

 ちゃんとそれっぽいでしょ? と襟を指さして、ナマエは親に絵を見せる子供のように笑った。

 確かにそこには、しっかりとした刺繍が施されていた。なんなら、それだけで食っていけそうだとイグアスが感じるほどには立派な物だった。

「…………お前、そんなに手先が器用だったんだな。まあ、悪くないんじゃないか?」

「…………」

 ナマエは、ひどく驚いた顔をして目線を上げた。

「イグアスが誉めてくれた……。しかも、ちゃんと……」

 二つの目を大きく見開き、ナマエは呆気に取られたように体の力が抜けていた。大袈裟な態度を取られてしまったので、照れくさいような、突然誉められたような、そんな気持ちになってしまう。

「……ンだよ、素直に褒めちゃ悪いか?」

「う、ううん! いいの! 嬉しい! 普段もそうしてくれると、わたしは嬉しいんだけど……」

「バーカ、そう安安と俺がクソガキを褒めるかよ」

「がっ、ガキじゃないし! わたしの本当の年も知らないくせに!」

「ハ……? お前まだ酒も飲めねえ歳だろ」

「そ、それはそうだけどさ……! イグアスだって、そんな昔に成人したってわけじゃないでしょ!」

「それは……まあそうだけどよ」

「わたし、実はもうすぐ成人するし……!」

 ……信じられん。

 よく見れば、確かに顔立ちはすっきりとしていて子供らしい顔の丸みはそこまで感じられない。現在の彼女は化粧をしているから、余計にそう見える。

 普段のナマエは体のラインが隠れるような服を着ているせいでよくわからなかったが、よく見ると、胸部にわずかな膨らみ……のようなものが見えているが、膝から下が露出した足はほっそりとしていて、女性らしいというよりも鹿の足だと例える方が正しいような肉のつき方をしていた。

 その状態から考察するに、尻の方もかなりこじんまりとしているに違いない……。そんなことを考えていると、口から不要な言葉が漏れ出てしまう。

「…………そんな絶壁でか? って、オイ! いってぇな!」

 ナマエの健脚が炸裂し、脛にダメージが入った。

「イグアスっていっつもいっつもわたしのことをクソガキだとか、ち、ちんちくりんだとか言うけどさぁ! 実際のところわたしたちってそんなに年齢も離れてないから! わたしはガキじゃないんだって、わかったでしょ!」

 ナマエはカッカと怒りながら、イグアスを睨みつける。凄味には欠けているが、今のイグアスにはそれなりに効果があった。……彼は、童貞だった。

「うるっせえ! そんなガリガリで勃つやつなんているかよ馬鹿!」

「なっ……! た、た、た、たつとか、そんな下品なこと言わないでよ! さいってい! 死んじゃえ!」

「死ねは流石にねえだろ!」

「もう嫌い! 最悪! バカ!」

 大声でナマエが叫ぶので、二人は往来の人の目を引いた。

「男が泣かせたのか?」

「さっき女の子に卑猥なこと言ってた」

「マジかよ、彼氏終わってんな」

 道ゆく人の囁き声、会話がイグアスの耳に飛び込んでくる。

 ナマエは半泣きになりながら声にならない何かを喚き散らしている。

 ──完全に俺が悪者扱いかよ……‼︎

 このままナマエを撒いて逃げようかとも一瞬考えたが、この女の足が異様に早かったことを思い出して、あきらめた。この調子なら逃げたところで追いつかれてさらに喚かれるのがオチだろうとわかってしまっているからだ。

 ここにヴォルタがいてくれれば、ナマエをなんとか宥めて落ち着かせてくれたかも知れないが、生憎なことにイグアスの相方は今日は不在である。本当にいて欲しい時に限って相方がいない。という事実に余計に苛立ってしまう。

 ──クソ! こんな時、どうするべきなんだ⁉︎

 イグアスの脳内に、少女を宥めるときのマニュアルはない。いつも泣かせてからかって、それで終わりだからだ。

 そもそも、自分より年下の相手と接する場合、その相手はいつも同性だった。その場合の扱いは分かり切っている。けれど今回は、女だ。女がどうすれば機嫌を直すか、その対応はいつも相方に任せきりだった。何もデータがない。

 ──女は、何をすれば喜ぶ?

 イグアスは足りない頭で必死に考えた。思いつくものは、金、食い物……それか、服? 頑張ったところで、それくらいしか思いつかない。こうなるなら、もっと勉強しておくんだった。そんな後悔が頭の中を駆け巡った。

 ……そういえば、以前ナマエが泣いてしまったとき、甘いものを買い与えて誤魔化した時があった。屋台でアイスを買って与えたら、ナマエは涙を止めてきゃあきゃあと喜んでいた。……あの時はそれなりに値の張る店だったので、財布がそこそこ大きな悲鳴を上げた。

 もうそれしか思いつかなかった。イグアスの脳内では、女が泣いたら何かを食わせればいいという、時代錯誤も甚だしい、めちゃくちゃな方程式が組み上がった。

 ──しょうがねえ、一か八か、やってみるか……。

 どのみちそれしか思いつかなかったので、やるしかない。

 イグアスはナマエと目線を合わせるように少し腰を落とすと、なるべく優しい声色になるように努めて、

「な、なあ……腹空かねえか? 俺が奢ってやるからさ、機嫌直せよ、な?」

 その言葉に、ナマエはピタリと動きを止める。

「…………変なとこは、嫌だからね。飲み屋とか……そういうのは絶対に。ちゃんとデートで行くような店に連れてって」

「わかった、わかった!」

 そう言うと、ナマエは顔を上げてにっこりと微笑んだ。

「でも、ここら辺ってそういうところないよね」

「あー……まあ、そうだな」

「……んー、あー、そうだ!」

 ナマエは考え込むように俯いた後、いいことを閃いたとでも言いたげな顔で、こう言った。

「イグアスが作ってよ!」

「…………ハァ?」

 

   3

   

「お邪魔しまーす…………うわ、何これぇ……きったない!」

 イグアスの自宅に入って早々、ナマエはとてつもない顔をしてそう言った。

「……お前が来たいって言ったから連れてきてやったのによ、なんだよその言い草は」

「でも、すーっごく汚いよ。ソファに服も置きっぱなしだし……流しにお皿があるけど、ちゃんと洗わなきゃダメでしょ!」

 ナマエの言うとおり、イグアスの自宅は目も当てられないほどとっ散らかっていた。脱いだ服はランドリーに持っていくこともなくそこら辺に脱ぎっぱなしになっており、出すことを忘れたゴミが、袋に無造作に突っ込まれて、玄関に放置されていた。シンクにはただ水につけただけの食器が放置されており、床には荷物が散乱して、まさしく足の踏み場もないといった様子だった。

「俺が来ない方がいいって言った意味がわかっただろ」

「汚いっていっても、最低限のお掃除はしてると思ったの……冷蔵庫に全部入れちゃうね。──うわっ、ねえイグアス! お酒しか入ってない! こんな食事してたら体に悪いのに!」

 ナマエが頭を抱えながら冷蔵庫に食材を詰め込んでいるところを、イグアスはかろうじて確保している床の空いたスペースに座りながら、ぼーっと眺めていた。

「……お前、慣れてるな」

「家事くらい最低限できないとダメでしょ?」

「悪かったな、ズボラで」

「はー、こんなにしちゃって本当に……こんなのじゃお料理どころじゃないよ」

「わざわざ作らなくてもいいだろ、別に。今日くらいピザでも頼もうぜ」

「…………わかった。でも、食べたら片付けるよ」

 ナマエはキッチンの惨状を見て、すぐに綺麗にすることは難しいと悟った。何よりお互い腹ぺこだったので、まずは食欲を満たす方向を優先させることにした。

「チッ……なんでわざわざ休みにそんなことしなきゃいけねえんだよ……」

「こんな汚いところで住んでたら、いつか病気になるよ」

「知らねえ、その時はその時だ」

「……わたしは、イグアスが死んじゃいやだ」

「お、おう……」

 急に真剣なトーンで言われたので、思わず雑誌のページを捲る手を止めた。

「死なないでね、お願いだから」

「……そう簡単には死なねえよ。むしろ、お前の方がガリガリで、すぐ倒れそうでおっかねえ」

 ナマエは作業の手を止め、イグアスの方へと歩み寄った。長い前髪で上手く表情は見えない。無言でそろそろとやってくるので、静かな迫力があった。

「お、お前……なんだよ急に……」

 イグアスが座っている横に、ナマエが膝をついてやってくる。

 近づかれて、顔を寄せられる。何を確かめるように、ナマエはイグアスの頬に触れた。そこから、確かめるように首や耳を触られ、最終的に、その手は肩に添えられる。

 ──石鹸と、干した布団が混ざったような、いい匂いがした。

 真剣な表情でナマエはイグアスを見上げる。イグアスの肩に添えられた手はか細くて小さい。ナマエは少し力を込められているにも関わらず、あまりにも心許ない握力だったので、イグアスは驚いて目を剥いた。

 ──こいつの力……、本当に同じ人間なのか? というか、よくこんなので生きてこれたな……。

 初めて触れる女体の感覚……しかも、肩に手を置かれただけで、イグアスは心底動揺した。

「……よし、決めた」

 ナマエはそう言うと、一人で頷く。

 何をどう決めたのか、客観的に見て全くわからなかった。次に出てくる言葉がどんなものなのか、全く読めない。

「お、お前……決めたって、何を……」

「わたしが、イグアスの面倒を見てあげる。わたしが……死なないように見ててあげるね」

 ナマエがそう言い切った瞬間、グッと強い力で引き寄せられた。それがナマエに抱きしめられているのだと気づくまで、少しの時間が必要だった。

「おっ、おま、お前……何やってんだよ……!」

 抱擁されると、今まで気づかなかったナマエの肉体の柔らかさ、そして体つきの細さがよくわかった。初めて触れた少女の体は、細い体躯をしていたが、それでもしっかりと女の体をしている。自分にはない柔らかい肉の付き方。背中に手を回されて、その体の中に内臓が入っているとは到底信じられなかった。

 情報量の多さに、イグアスの脳内はパニックに陥った。今まで誰かと抱き合ったことなんてない。しかも、相手が異性であるということに気付き、脳みそが破裂しそうになった。おまけにナマエがイグアスの肩に頭を乗せて、耳元でこそこそと嬉しそうに囁くので、余計に思考が放棄させられてしまう。

「大丈夫、大丈夫だよ〜」

 ──何も「大丈夫」じゃねえよ!

 パニックになるイグアスを落ち着かせようとしているのか、ナマエは子供を宥める母親のように、優しい声色で囁く。

「……これから週に何回か、イグアスのお家に来てもいい?」

「…………嫌だって、言わせてくれねえだろ、それ」

「本当に嫌だったら、やめるけど……わたし、イグアスにちゃんとした生活をして欲しいんだ。──それでも、だめかな?」

「…………」

「わたしが勝手にするだけだから、何にも見返りなんていらない」

「……なんで、そんな風に思ってんだよ。なんで、他人のことなのに……、お前の人生に俺は何も関係ねえだろ」

「関係あるよ。わたし、イグアスのことが好き」

「……ガキが一丁前に何を抜かしてんだか」

「わたしは本気だよ」

 その時初めて、イグアスはナマエの瞳をしっかりと視界に捉えた。瞳の奥で輝く光は夜空に輝く一等星にも劣らない迫力がある。

 ──焼かれる。

 まず、そう思った。この光は自分には強すぎる、と。

「なあ……どうして俺がいいんだよ。俺じゃなくたって、他にも人間はいくらでも……」

「わたしに優しくしてくれたから」

「……俺はそんな施しをした覚えはねえがな」

「覚えてなくていいよ。たぶん、イグアスの記憶に残ってないような小さいことだから。それでも……わたしにとっては嬉しいことだったの」

 ナマエは細々とした声で語り出す。

 ──それは、確かに取るに足らない「親切」だった。荒れた日々の中で、イグアスが気まぐれに行った、なんてことのない、ちょっとした善行の一つ。それこそ、そんなことを自分がしていたなんて、と驚くようなこと。普通の人でも、すぐに忘れてしまいそうな些細なことだった。

 それでも、ナマエはそれを大切に胸のうちにしまっていた。宝物を取り出すように、丁寧に語って聞かせた。

「……そんなしょうもないことで、俺を好きになっちまったのかよ」

「うん、わたしにとっては……人生が変わるようなこと、だったの」

 ナマエははにかんで、恥ずかしそうに俯いた。

 普段のイグアスならいくらでも茶化してしまうような場面だった。けれど、できなかった。それどころか、ナマエのある種の凄味のようなものに気押されてしまった。

 今までの人生で生きてきて、これほど真っ直ぐに思いを伝えられたことはなかった。それこそ、商売の女と金ありきの関係を持ったことはあったが、今回は違う。全くそれとは違っている。損得とか、そういった感情を全く抜きにした純粋たる好意だった。そんな物を、生まれてから今までぶつけられたことがなかった。

「わたしって、馬鹿かな。こんなことで、人を好きになるなんて、思ってなかったの。でもね、好きになっちゃった。……ならもう、しょうがないよね」

 それだけ言うと、ナマエはその場にヘナヘナと座り込んでしまった。全身から力が抜けたと形容するのが相応しいだろう。

 ──これは、まごうことなき愛の告白だ。相手に好意を伝える方の意味ではなく、まさしく本当に、神に秘密を打ち明けるような、そんな響きを持っていた。

 恐ろしかった。

 人からの好意を受け取るのが怖かった。

 損得や裏の意味を持たない言葉を受けて、どうしていいのかわからなかった。

 だって、今までそんな言葉、言われたことがなかった。赤の他人、血の繋がりすらもない、何かを通して理解しあったわけでもない。そんな人に、愛していると正面から叫ばれてしまって、どうしようもなかった。

 二人はしばらく黙ってお互いを見つめていた。隣の部屋の移民が外国語で怒鳴っていても、廊下を渡る酔っ払いの足音が響いていても、二人は気にもしなかった。それよりも、お互いの瞳の中を観察し合い、そこにある光を眺め合っている方が、良いことのように感じられた。

 ここにはまさしく宇宙がある。そう思った。空はスモッグで濁って見えない。この星から月や地球は離れすぎていて、最早空の中の小さな星の一部と化している。それでも、この瞳の中に宇宙があるように感じた。学校なんてまともに通っていない。ましてや、宇宙の歴史やそれにまつわる知識なんて本でも読んでいないのだから、全く知る由もない。それでも、二人はお互いの中にそれを見出していた。

 ──そういうこと、なのかもしれない。

 繁華街の裏に面している小汚いアパートで、外では酔っ払いが壁にゲロを吐き、銃声が所々から聞こえてくる。それでも、二人はこの瞬間がいつまでも続いていればいいと、初めて心からそう思った。

「……なあ、ピザ取らねぇか」

「…………うん」

 頭上では、蝿が飛んでいる。でもその更に上では、雲の上で星が瞬いている。それだけで、充分だった。

 

   4

 

「でね、あの店の親父って親切ってモンじゃないの、あいつ、すげえペドなんだよ。裏では見境がなくってさ、わたしも手ェ出されそうになった! あり得ない〜!」

「マジかよ……そんなこと、知りたくなかったな」

「だからぁ、わたしがあのカスに手を出されないように、見張ってて……!」

「……そんなこと聞いて、あそこに金落としたくなるかよ」

「イグアスが来てくれたら、サービスするからさぁ……あっ、でも、ここにわたしがいるからそんな必要なかったね! えへへへへ」

 ベロベロに酔っ払ったナマエは、テーブルにグラスを下ろしながら全力で愚痴を語り出した。愚痴といっても、最後には惚気に変わっていたが。

「でねー、わたしがね、男がいるって言ったらあいつすげえ顔するんじゃないかなーって思ってね。ふふっ、イグアス、次に来たらわたしの彼氏ですーって顔しといてね! あはっ!」

 その小さな腹にどれだけ入るのか、というほどに卓上のツマミを胃に収めながら、ナマエは上機嫌に酔い出した。

「お金が貯まったら、こんなとこ抜け出してやるんだから!」

 ──飲ませちまったけど、これでよかったのか?

 もう少し面白いリアクションを期待して宅飲みを持ちかけたのだが、ナマエはイグアスの期待したうちのどれにも当てはまらなかった。仕事の愚痴で怒っていたかと思えば、すぐに惚気てきたりと忙しい。最初は怒らせてはいけないと真剣に相槌を打っていたが、上下しまくる情緒に付き合うのに疲れてしまい、今では適当に相槌を打つことしかしていない。それでもナマエは楽しいようで、一人で勝手にベラベラと喋り続けていた。

 ……まあ、泣かれるよりはマシか。

 かつて自分が悪酔いした時のことを思い出し、イグアスは目の前のナマエを見た。暴れてゲロでも吐かれては大変だが、今のところ最初の一杯以外は飲んでいる気配もなく、水を煽っているところを見るに、飲み方は心得ているようだった。酒場で働いているから、そこについてはよく知っているのだろう。

 イグアスとしては、戻してしまっても片付けてやってもいい、と決心して誘ったくらいだったが、どうやらその心配がなさそうということで少し安心していた。

「お前が綺麗にしてくれてたんだもんな」

 以前までは野盗に荒らされたかのような有様だったこの部屋も、まめにナマエがやってきて家政婦よろしく掃除をしていくものだから、清潔すら感じるような小綺麗な部屋になっていた。冷蔵庫にも作り置きのおかずが増え、食生活まで改善されてしまっている。

「ふふん、わたしに感謝してよね」

 ナマエは自慢げに胸を張ると、そのままの勢いでグラスの酒に口をつける。最初は未成年飲酒だとかなんとか騒いでいた彼女だったが、次第にその目は虚になっていく。時刻はとっくに夜の十二時を過ぎていた。

「……ねー、ここで寝ていい?」

 そう言いながらモゾモゾと立ち上がったと思うと、見れば我が物顔でソファに寝転がっていた。

「ってか、ねる」

 普段のナマエならば、歯も磨かずに寝るなんてあり得ない! と気合いで自分を律していただろう。しかし、今日はそうではなかった。それどころか、暑いと一言呟いて、服のボタンをぶちぶちと外し出す始末である。

「ちょ、お前……! こんなとこで寝てんじゃねえよ!」

「っさいなあ……いいじゃん、わたしたち付き合ってるんだし、合鍵もくれたし……もうここってわたしの家みたいなものでしょ」

 寝返りをうったナマエの服がめくれて、背中が丸出しになる。そんなことも気にせず、ナマエは寝息をかいて眠りこくってしまった。

「……マジかよ」

 家で飲む以上、泊まりを覚悟していなかったわけではない。しかし、ナマエは普段から自分にも他人にも厳しくしていた。だから、どれだけ飲んでも自分の家まで帰ると言い張ると主張すると思っていた。いざとなれば、そのまま送り届けてやろうとすら考えていた。……まさか、こんな風に無防備に眠ってしまうとは思っていなかった。完全に想定外だ。

「…………」

 ナマエが少し身を捩る。服が完全に捲れ上がって、下着まで丸見えになる。

 ……黒のスポブラ。

 ナマエの普段の格好からして、下着に凝るタイプではないと考えていたし、実際にその通りだと思っていたが、実際に見ると破壊力は凄まじかった。薄い背中に黒い下着というのは思っていたよりもコントラストが激しく、白い肌に黒が乗っているとそれだけでとてつもない危うい輝きを放っていた。童貞には刺激が強かった。

 イグアスは慌てて毛布をかけた。見てはいけないものを見せられた気がして、その日は一睡もできなかった。

 

   5

 

「……なあ、通いじゃなくて一緒に住まねえか」

 翌日、まだ起きたくないと言って疼くまるナマエを見て、ついそんな言葉がイグアスの口から漏れ出てしまった。

「…………ここに、わたしが? 同棲ってこと? ……まだ、早いんじゃない?」

「まあ、そうだけどよ……」

 通い妻の如くこの家にやってきては、甲斐甲斐しく世話を焼くナマエを見て、最初は若干の居心地の悪さを覚えていた。が、今はもう彼女なしではいられないほどに、ナマエはここに馴染んでいる。今まで自分があのゴミの中で埋もれて生きていたのだと思うと、ゾッとした。これが彼女の計算通りなのだとしたら、恐ろしいことだ。この数ヶ月で、イグアスはナマエに骨抜きにされてしまっていた。

「なんなら、俺が養ってやっても……」

「うん、それはいいかな……。っていうか、イグアスが変なこと言うから目が覚めちゃった」

「変なことって、お前……」

「結婚してくれー、みたいな言い方だったよ」

「…………ハァ⁉︎」

 布団から這い出たナマエは、ケタケタと声をあげて笑っていた。

「そっかそっか、イグアスってわたしと結婚したいんだね、あっはは」

 わたしのこと、めちゃくちゃ好きじゃん。

 ナマエはニコニコと笑いながら、目の前の男をじっと見据えた。彼女は時々、そんな目をしてイグアスを見つめる時がある。その視線に晒されると、何もかもを暴き出されてしまうような、そんな居心地の悪さを感じた。

 何かを考えているのか、目線がさまざまなところを行き来している。こうしている時のナマエは実年齢よりも、ぐっと大人びて見えた。

 二人とも黙ったまま、しばらく経ったのち、ナマエは真剣な表情で口を開く。

「…………お金ができるまで、待ってて」

 ナマエはそれだけ言うと、立ち上がって上着を羽織った。

「もう出ていくのか」

「家の鍵、閉めたか心配になったの」

 有無を言わせないような口調だった。これ以上追求しても、ナマエは口を割らないだろうし、一度出ていくと決めたら、もうそうするしか頭にないような雰囲気だった。

 ガチャン、と音を立てて扉が閉まる。この先ナマエがどこに行くのかを、彼はまだ知らない。

 

   6

 

 イグアスがナマエの家を訪ねようと思ったのは、先日の宅飲みからしばらく数日経った後のことだった。あれから、ナマエはめっきりイグアスの自宅に訪れなくなってしまい、職場であるはずの飲み屋に行ってもナマエの姿は見当たらなかった。

 ストーカーじみて気持ちが悪いと自分でも思ったが、それでも確かめずにはいられなかった。以前なら、ほぼ毎日のようにナマエはイグアスと顔を合わせていた。けれど今は、糸が切れたかのようにナマエの姿が消えてしまった。

 ──勢いあまってあんなこと言ったのが悪かったのか?

 脳裏に浮かぶのは、ナマエと最後に交わした会話だった。「お金ができるまで待っていて欲しい」と彼女は言った。それがどういう意味か、理解するだけの情報をイグアスは持ち合わせていない。

 それを言ったきり、ナマエは連絡から何から全てを遮断して消えてしまった。……刺されでもして死んでいるのかもしれない。そんな思いに突き動かされて、ナマエの生家とされている場所にたどり着いたのだが──。

 ──こんなとこに、あいつが住んでるのか……?

 そこにあったのは、二階建ての荒屋だった。最低限の屋根と窓が付いていて、雨風はかろうじて凌げるだろうというくらいの小さな家……と呼べるかどうかすらも怪しい建物だった。

 調べてあった住所がここら一帯でもかなり入り組んだ場所にあったことから覚悟はしていたが、それでも普段のナマエの様子と、この建物の雰囲気は全く結び付かなかった。

 間違っているのではないかと、何度も確認してみるが、それでもここらで人が住めそうな広さの建物といったらここしかなく、仕方なく、イグアスは呼び鈴を鳴らしてみることにした。

「……どなた?」

 低い女の声が中からした。ドアは開かない。

「ナマエが、ここに住んでいると聞いた。ナマエはどこにいる」

「あんた、ナマエの男?」

 バカにしたような声だった。女は、笑い声を声色に滲ませながら、イグアスに問いかける。

「…………そうだ」

「へえ、あんたってここがどこか知らないで来たってこと?」

「ここって……何があんだよ、ただの下宿屋じゃねえのか」

「本当に知らないんだ。いいこと教えてあげようか。ここにはね、娼婦しか住んでないの。ナマエもここにいるけど……今頃オッサンのチンポでもしゃぶってんじゃないの?」

「…………ハ?」

「アッハハハ、言ってやったわ! このクソガキ、何にも知らないであの子と付き合ってたんだ! 夢見がちなバカ、こんな場末にもいたなんてねぇ! ナマエもよく騙したモンだよ! あの子、俳優にでもなれるんじゃない?」

 女の声に混じって、他の笑い声も響いていた。

 脳に血が昇って、今にも破裂しそうになった。

 娼婦? ナマエが?

 あいつが、知らない男に抱かれてる?

 ……あり得ない。

 あんなちんちくりんのガキが、こんなことをしているなんて……。

 信じたくない。

 全部うそだ。

 これは俺をバカにして笑うためにあいつが仕掛けた悪戯だ。

 そうだ、これは全てタチの悪い悪戯なんだ……!

「そう思わせんのが、あのガキの常套手段なの! いかにも人馴れしてなくって、純真そうでしょ? それもナマエの戦略なの。あんた、あの子と付き合ってるんだって? 騙されちゃってかわいそうにね」

「……あいつは今、どこにいる」

「なんであんたに、わざわざ教えなきゃいけないの?」

 バカにしたような声が響く。ナマエの顔と、ケタケタと響く娼婦の馬鹿笑いが、全く結び付かなかった。

「…………あんた、マジであの子のことが好きなら、御愁傷様。あの子、近々ここを出てくってさ。あんたは捨てられておしまいだね。外の星でパトロンでも作って、どうせまた同じような淫売になって終わりだろうけどさ!」

 女たちは、そう言ってゲラゲラと笑った。

 そこには、世間慣れしていない子供を見下しと、娼婦に入れ込んで捨てられる男への嘲笑が入り混じっていた。イグアスはこの扉を無理やり開けて、すぐにでも女たちの面に一発ぶち込んでもよかった。それができるくらい、古びた、鍵もガタが来ているような扉だった。……けれど、しなかった。無意味だというより、そんなことをしたら余計に惨めになるだろうとわかってしまっていたからだ。

「あの子、毎日あの店で客を引いてる。だから、すぐにでも見つかるんじゃないの? アッハハ、これはわたしたちからのサービスだってことは、あの子には言わないでね!」

 「あの店」と言われ、「それ」はただ一つしか思い浮かばなかった。

 それだけ聞くと、他の茶化すような声は一切耳に入らなくなる。耳鳴りのようなノイズだけが、鼓膜を震わせる。殴られたような痛みが、脳を襲った。嘘だとしたら、タチの悪い冗談では済まない。本当だとして、ナマエに会ったら……どんな顔をして、どんな言葉をかけるだろう。言葉をかける? それだけでは済まないかもしれない。最悪の場合……ああ、アレだけはダメだ。

 あの女が言っていたことが嘘だとしたら、酒の肴にでもして死ぬほど笑ってやろう。手の込んだ嘘だと褒めてやって、もう二度とするなと言い、水に流してやろう。

 もし、アレが本当だとしたら、自分がどんな手段に出るか、分からない、かもしれない。

 何に怒っている?

 職業選択の自由は、誰にでもある。合意のもとでなら、この惑星は売春だって自由だ。

 でも、あいつには俺がいるだろ。なんで体なんて売ってんだよ。あり得ねえ、アレだけ好き好き言っておいて、俺にはさせないで他の男には許してるのかよ。

 ……俺はいいように使われてる? いや、逆だろ。お前は世話を焼かれて、あの女に甘やかされている。じゃあなんでこんなことを?

 外に出ていくと言ったことと、あの日、あの時待っていて欲しいと言われたことは繋がっているのか。それとも、本当に俺を置いて行ってしまうのか。どこに、星の外って言ったって、ここらじゃどこも似たり寄ったりだ。開発された星なんて、どこも似たようなものだって聞いた。

 ……分からない。何も理解できない。

 あれだけ一緒にいたのに、俺はナマエのことが、何一つ分からない。

 

   7

 

 ナマエは路地裏を歩いていた。深夜だった。地上の光に負けない光をもった、遠くに輝く一等星を、ぼんやりと眺めていた。

 体の節々が痛い。今日は色々と無理をしてしまった。給仕しかり、「二階」での仕事しかり。コートの下に収まった体には、見せられないような傷がたくさん残っている。これに萎える人間もいれば、興奮する人間もいる。人間というのは、面白い。醜いし、矮小だけど、たまには見上げるべき人がいる。

 この街は、天候や気象をある程度衛星で管理しているはずなのに、それでも夜は真冬のように冷たかった。

 ……早く、家に帰りたい。

 それだけを思いながら、売上の入った袋を懐に入れ、少女は家路をいそぐ。

 ──急ぐ足を、止める者がいた。

「よお、ナマエ」

 暗闇と蛍光灯の光の下、細い路地を塞ぐようにイグアスが立っていた。二人は似たような格好をしていた。違ったのは、腹の中にある感情だけ。

「……イグアス、偶然だね。久しぶり、かな? あんまり家に行けてなくて、ごめん……」

「偶然じゃねえよ。お前のこと、つけてた」

「……ねえ、なんでそんなことしたの? もしかして、寂しかった?」

「ああ、寂しかったかもな。いや、それより、俺は怒ってんだよ。……怒りを鎮める方法って知ってっか? お前が淫売じゃねえか確かめるってだけだ。簡単だろ?」

 ナマエはフードを目深に被った。心臓は跳ねていた。今ここで、刺されてもおかしくない。そう思って、いつでも逃げられるように足を温めていた。知られたくなかったけれど、いつかは知るだろうと思っていた。……仕方のないことだけど、いざ本当にこうなると、やはり人間らしく焦ってしまう。焦って、怯えて、計算して、目の前の人間を冷静に値踏みしてしまう。

「……やっぱりか。あれは、嘘じゃなかったってことか」

「あいつらから……聞いたんでしょ。いいよ、もう。わたし、ずっと前から『こう』だったの」

「ずっとって、何年も前からか」

「イグアスと会う前からだよ。そっか、知らないで、付き合っててくれてたんだね。……ねえ、知ってたら、わたしたちってこうなれてた?」

「……分からねえ。何も分からねえよ。お前は何も言ってくれねえし、なんだかな、ムカついてるのか悲しいのか、嫉妬してるのか、どうも俺自身にも自分のことが分からねえんだよ。こんなことしても、どうせお前はやめねえんだろ? じゃあ、無意味じゃねえかって思うんだけどな、やっぱり……受け入れられねえんだよ」

「……わたしはね、どうあってもイグアスのことが好きだよ」

「わかってんだよ、ンなことは。なんだろうな……お前のこと、何にもわかってない俺が恥ずかしいのと……お前が知らねえジジイのチンポしゃぶって平気でいるのが、気に食わねえんだよ」

「チンポしゃぶっても、平気じゃないよ。平気なわけないでしょ、普通に考えて。好きな人でもしゃぶるのは嫌だよ、それなのに、知らない汚い脂まみれのペドのジジイのチンポなんかしゃぶって、正気じゃないよ。それくらい、普通でしょ……普通じゃ、こんな仕事しないよ。他の人だって、そうでしょ」

「じゃあなんで……」

 答えは分かり切っていた。それでも、聞いてしまった。無意味だとわかっていながらも、無駄だと知っていながらも、イグアスの口は止まらなかった。

「生きるため」

「そう、生きるためだよな。知ってんだよ、それくらい……」

 力強い瞳だった。ナマエの目の光は、他のどれよりも輝いていた。真っ直ぐに見据えられて、思わず逸らしたくなった。焼き尽くされる……。そう思った。

 この星で、女で、子供で、非力な存在がつける仕事なんて限られている。イグアスはそれを知っていた。知っていながら、綺麗事だけ並べ立てていた。まさか、目の前の子供がそんなことをさせられているなんて、思いたくもなかった。

「わたし、生きたいの。生きて、それで、こんなところじゃない場所に行って、ちゃんと人生をやり直したくって……イグアスなら、ついてきてくれるって思ってる。……いや、思ってた……かな、だって、もう、わたしのこと好きじゃないでしょ。そういう風に、見ちゃうでしょ……。商売女の一人だって、思っちゃうでしょ」

「そんなこと……!」

「あるんじゃないの? だから、今ここでわたしの帰り道を塞いでる」

「俺はただ、お前が本当に金に困ってるなら助けてやりたいって、足抜けできねえなら助けてやろうって思って……」

「そしたら一生、わたしたちこの街の底辺で終わっちゃうね」

「……お前は、どこに行きてえんだよ。俺には……、わかんねえよ。お前みたいに本も読んでねえし、外のことなんて、何も……」

 ナマエの背後で、ただ一筋流れ星が落ちた。

 風が吹いて、ナマエの頭に被さっていたフードが落ちる。彼女は静かに微笑んでいた。決意は揺るがない。そう訴えてくるかのように、ナマエは上を見上げた。

「……イグアスは、一緒に来てくれるって思ってたの。わたしが好きになった人は、一緒に上に登ってくれるんだって、思ってた。でも、期待したわたしが駄目だったのかも……元々はわたしの自己満足なのに、ごめんね。わたしたち、お互いに夢を見過ぎていたのかも。わたしが……期待していたような女じゃなくて、ごめんね。汚くって、ごめん」

 ナマエの声は震えていた。泣いている。目の前で、好きな女が泣いているというのに、体は何も動かない。

 違うんだ、と叫びたくなる。叫べない。体は動かない。脳が命令しても、体がそれに追いつかない。

「……わたしが悪いのに、泣いててごめん。本当に、本当に……わたし、どうかしちゃったかも。幸せすぎて、浮かれちゃった。……イグアスは、ちゃんと、幸せになってね。わたしみたいな女に、もう二度と引っかからないでね」

 ナマエが走り去っていく。立ち尽くして、背中に手を伸ばして、消えて、そうしてようやく、唇の端から「行くな」という一言が漏れ出た。

 言葉は寒空に溶けた。そして、それ以上何も起こらない。

  

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