1
「G13・ヴィクトリア。今日から貴様の面倒を見る指導教官の名前だ! 復唱しろ!」
ミシガンの強烈な大声が部屋いっぱいに響き渡る。医者との面談後に放送でいきなり呼び出され、重い足取りで総長室まで向かうと、いきなりこうだった。
イグアスは思わず耳を塞ぐ。
ミシガンは常に腹から声を出しているので、面と向かって話をすると、頭の芯の部分を揺さぶられるような不快な感覚を味わう羽目になる。
術後の不安定な体調に響くことこの上ない。毎回、この老兵が強化人間の不安定さを理解しているのか疑わしく思う。
「うるっっせぇ!」
「どうやら耳にクソが詰まっているようだな、イグアス! 帰ったら耳掃除をしておけ! わかったら目の前の上官のコールサインを復唱しろ!」
ここまで言われて初めて、イグアスは見慣れない人間の姿に注意が向くようになった。ミシガンの隣に立つ女は耳が痛くなるような声量に慣れているのか、涼しげな顔で平然としている。
上官と紹介されたが、歳も大して変わらないように見えるし、背や体格も平均的な女性の様相をしている。基地の中をうろうろと彷徨いているレッドガンのメンバーと並べば、その差は歴然だ。
何も知らない人間にイグアスと彼女を並べて見せて、どちらが軍人らしいかと聞けば、恐らく彼女を選ぶ人は少ないだろう。
穿つような視線が突き刺さる。背筋の伸びた佇まいと鋭い目線は、一見しただけでは分からない、戦場に立つ人間としての厳しさが窺えた。
曲者揃いのレッドガンで番号を頂くほどの実力が如何程かはまだ不明だが、ミシガンが連れてきた女というだけで、厄介な相手であろうということは容易に想像がついた。
また怒鳴られては面倒なので、イグアスは口先だけで先のコールサインを復唱する。きっとこの先何度も、この名前を呼ぶことになるのだろうと考えただけで、嫌な気分になってくる。
「…………声ちっさ」
しかも、それを聞いて、女──もといヴィクトリアが吐き捨てた言葉に、思わずカチンときた。
如何にも強者といった風のミシガンに叱られるならまだ許せるが、ぱっと見自分と大差ないように見える、初対面の女に馬鹿にされるのは、プライドが許せなかった。
「……なんでこんなちんちくりんのガキが、番号付きなんだよ⁉︎」
「ミシガン殿。わたしもこんなやつの世話をするのは嫌です」
「ケツの青いガキに生意気なクソガキ、似合いの二人だな! ヴィクトリア、貴様も知ったような口を利いているがまだまだ甘い! 犬っころ一匹しつけられんようでは番号も後輩に掻っ払われるぞ! 戦場では背後に注意しておけ!」
向こうもミシガンにここまで言われてしまえば反論の余地がないらしく、「善処します」と言うしかなかった。
口調には恨みが込められ、目線で不満を表していたが、ミシガンは清々しいほどにそれらのサインを無視した。
「イグアス。ヨチヨチ歩きを卒業したいなら、死ぬ気でこいつに喰らいつけ! 一矢報いる根性がない奴はレッドガンにはいらん!」
二人の恨めしいアピールを受け流し、言いたいことを全て言ってしまうと、ミシガンはイグアスとヴィクトリアを部屋から追い出した。「承認しなければならん書類が山ほどある!」というのが最後に二人が聞いた言葉だった。
扉が大きな音を立てて閉められる。追い出された先の廊下で、二人は無言で向かい合った。
お互いの顔をはっきりと見れば見るほど、胸の奥底から、理不尽に巻き込まれたことへの怒りと、これから先への不安が湧き上がってくる。
「マジでちゃんとやらないとわたしがどやされるんだから、しっかりしてよね、新兵」
ヴィクトリアの声には苛立ちの他にも焦燥感に似た不安のニュアンスが混じっていた。
この大型新人をうまくハンドリングできるのか。なぜ総長が自分にこの新人の世話を任せたのか。ろくに説明もされずに放り出された二人に共通するのは、お互いへの不理解と不信感だけだった。
「誰がテメーなんかの言うことなんぞ聞くかよ。テメーみたいなチビ、なんにも怖かねぇよ」
「人の身体的特徴をコケにするのはマナー違反だって、教えてもらってない?」
「悪ぃな、こちとら学校なんて行ったことがねぇクチでよ」
「それなら、幼稚園からスタートしないといけないか。あぁ、安心して。ねんねの時間も勘定に入れておくから」
「ハァ⁉︎」
「さっきはあんなに声小さかったのに、文句を言う時だけ一丁前に声量デカすぎ。てかマジで調整ちゃんとされてる? 医療班に報告した方がいい?」
指摘された行為が行為であるだけに、先ほどのように反論することは憚られた。
(──こ、この女……ッ! 細かいところまでネチネチしやがって……!)
黙り込んだイグアスを見て、女は愉快そうに手を合わせ、作ったような笑みを浮かべる。
「たまにいるんだけどねー、手術の後遺症で耳とかおかしくなる人。でも、あんたのはただの反抗期だってわかって良かったわー。余計なお仕事が一つ減って、助かるわー」
「余計なお世話なんだよッ!」
「……手術の後遺症舐めんなよ。戦場のど真ん中でいきなり頭が割れるように痛くなっても、鎮静剤打ってる間に狙撃されることだってあるから。会費の片手間で、そんな器用なことできる?」
「……くたばる時は、誰だって同じだろ。俺ァ一回、くたばったみたいなモンだからな」
「レッドガンも人材不足なの、知ってるでしょ。わたしだってこんなことやりたくもないけど、しょうがないからやらされてんの。死んでもすぐに次の控えが来るわけじゃないんだから、強化手術までした人も、そうでないのにも、なるだけ無事でいてもらいたいっていうのは上も現場も同じ意見。
……まぁ、あんたがくたばったら責任はわたしに行くから。要は、ここでやってくつもりなら、それくらいは覚えとけって話。それに、あんたが死んだら相方くんも悲しいんじゃないの」
「そこまで調べてやがるのかよ……」
思いがけず一緒に入隊した相棒の存在を匂わされ、イグアスは苦虫を噛み潰したような※表情を浮かべた。
「一応、素性とか、書類では知らされてるってだけ。ここじゃ前科前歴一切不問ってことでいろんな人タイプの人が集まってるし、そこに関してはわたしは何も言わないし、言っても意味ないから。相方くんも、わたしじゃない人が教官になって、今ごろレッドガン式にシゴかれてるはず。一緒にしちゃうと、協力して脱走とかされたら困るし、徒党を組まれると、面倒だし。新兵、あんた大脱走ってタイトルの大昔の映画みた事ある? マックイーンはわかる?」
ヴィクトリアは自分の髪を指に巻き付けると、弄ぶようにぐるぐると動かした。
映画の話題を出した折に、声色が少し明るくなったことに気づいた時、イグアスは、自分が女の態度に苛立っていることに無自覚だった。期待が込められた子供のような邪気のない目が、その無神経さが、イグアスの神経を苛立たせた。
地元では、娯楽といえば賭博や薬物、性的な欲求を晴らす如何わしい店。座って静かに映像作品を鑑賞──というのは、一部の暇を持て余した特権階級だけの知的な遊びで、物語のある「作品」よりも、素人作の電子ドラッグの方に手を出す輩の方がよっぽど多かったはずだ。
そしてそれを誰でも享受できるであろうと思っている世間知らずな思想が相まって、余計に腹立たしく思えた。
(このオタク女……。なんで俺がここにいるのか本当にわかってんのか……?)
「知るか。そんなアナログなモン、見る暇ねえよ……。今時、そんなオールドタイプな物で喜ぶのなんて道楽家の懐古主義者だけだろ」
「……別に、任地で暇だと、それくらいしか娯楽がないってだけ。ま、とりあえず……吐いても泣いても死んでも、あんたが一人前のレッドガンになるまでシャバには出られなくなるから。そのつもりで、死ぬ気でついてこいよ、イグアス」
「うるっせぇ、知るかよ」
「明日から、足腰立たなくなるまで鍛えるから」
「ハッ、こんなひ弱そうな女にそんなことできんのか? せいぜい楽しみにしとくぜ」
「初日から飛ばすなー。とりあえず、外周十周と腕立て伏せ二百回、どっちがいい?」
2
「あの女……マジでいけすかねえ、いつか絶対に殺す」
「……荒れてんなぁ」
「なんで十キロ走っても息一つ乱れてねえんだよ、意味わかんねえ」
「鍛えてるからだろ」
「なんでお前はやけに冷静なんだよ。あの偉そうな教官どもに一発入れてやりてぇとか思わねえのか」「それってヤりてぇってことか」
「お前、冗談も休み休み言えよ……」
イグアスとヴォルタの二人は、訓練生用宿舎の床を磨きながら、めいめい愚痴を言い合った。デッキブラシでリノリウムの薄緑色をした床を磨く間、教官は席を外していた。
この作業を終えなければ夕飯にありつけないと宣言されているので、全員疲れた体に鞭打ってそれぞれの持ち場を徹底的に磨いているのだった。
頭上に位置する蛍光灯の輝きが床に反射して、経年劣化による細かな傷が見え隠れする。磨いても磨いてもキリがないのではないか。そんな考えが頭をよぎり、作業の手が散漫になる。
「……なんで俺が、こんなことを」
磨いて磨いて磨きまくって、鏡のように顔が反射するまで磨け! と言い張った教官の顔が目に浮かんだ。
「……まるで刑務所だ」
誰かが小さくこぼした愚痴に、思わずイグアスは頷いた。
レッドガンの新人ブートキャンプは、その過酷さで悪名高い。志願兵の半分がここで脱落するというデータがそれを物語っている。
早朝のランニングに始まり、夕方の座学の授業までみっちりと集団行動を叩き込まれる。明らかに堅気ではない強面と、赤ら顔の新米が共に新入りとして軍隊の規則の元で共同生活を送るのだ。お互い何かと気苦労も絶えない。
今まで野良暮らしでまともに誰かの言うことを聞いたことがない二人にとって、プライバシーがない上に四六時中誰かの命令通りに動くと言うことは、この上ないストレスだった。
「どちらにしろ、あのジジイに捕まったんだ。しょうがないと思って諦めるしかねぇだろ」
「……にしても、だ。あの女、俺とタメのくせに教官だとよ。偉そうだと思わねえか」
「お前、やけに詳しいじゃねえか。惚れたか?」
「るせえよ。オメーは親の仇でも女なら勃つってえのか? え? 禁欲しすぎて狂ったか?」
「お前のその声の方がでけえしうるせえよ」
二人が言い合いを続けようかというその瞬間、盛大な音量でチャイムが鳴った。それは誰かが誰かを呼びつける、「校長先生のベル」であることをここにいる誰もが知っていた。
『訓練生のイグアスくんー? 至急士官宿舎に直行せよ。繰り返す。イグアスは至急士官宿舎に直行せよ。無視したら君だけ晩飯抜きだぞ』
全員の視線が一気にこちらに向いている。
「なんだよお前ら! 見せもんじゃねえ!」
「いやー、個人指導ってことはアレだよな」
「やらしー」
「頑張ってこいよ!」
励まし半分、からかいが半分の声援がイグアスに向けられる。
「よかったじゃねえか、大好きなママに会えるってよ」
「あの女、絶対にタダじゃおかねえからな……」
「あー、床の物は適当に上に置いといて。ベッドメイキングは無しでいいから……。んじゃ〜、頑張って取り組むように」
ダブルサイズのベッドに寝転がったヴィクトリアは、雑誌から目線を移すことなく、そう言い放った。
ドアを開けてすぐの足元に置かれた掃除用具を、足で蹴飛ばしてしまいそうになった。
冷やかされながらその場を飛び出し、遅ければ余計な嫌味を言われそうだったので小走りで現場に向かえば、待っていたのは部屋着で寝転がるヴィクトリアの姿と、嫌がらせのように床に散乱する上官の私物の数々だった。
「きったねえ! 何したらこんなゴミ屋敷みてえになるんだ⁉︎」
「うるさいなぁ、わたしのプライベートスペースに文句をつけるなんて生意気すぎ」
「そもそも、なんで俺がお前の汚部屋の掃除をする必要が……」
「レッドガンの伝統だから。わたしも昔は上官の部屋の掃除、させられたんだよね」
これが事実なのか、彼女が適当にホラを吹いているだけなのか確かめる手段は存在しない。なので──。
「…………クソが」
せめてもの抵抗とばかりに一言悪態をついて、バケツに突っ込まれた箒を手に取った。業者めいた道具の充実ぶりに、嫌がらせの精度が高いことへの不満が募っていく。
足の踏み場というものが存在しない部屋の中で、ゴミを袋にぶち込んで、衣類はカゴに放り込み、本は本棚に直し、甲斐甲斐しく動き回る。
「終わったら、ちゃんとやれてるかチェックするからね」
「なんで今時紙の本なんか……」
「わたしはあんたの言うとおり、懐古主義のキワモノだし……? 後から検閲されたらたまったものじゃないから」
「それにしても物が多すぎンだよ……。これだから道楽家は」
「あんたもレッドガンで長く勤めてたら、いつか何かコレクションできるようになるかもね」
「そんなモン、いらねぇ。興味ねぇし」
「…………まぁ、しばらくは暇な時間なんてないから、想像つかないだろうけど」
隙間のない本棚、机の上に出しっぱなしにしてある無数の勲章。
巻数のある本であっても、並べ方に規則性や順序などあったものではなかった。なにかの功績を挙げて授与されたであろうメダルや盾、賞状も全て整頓されないまま放り出されている。
それらを眺めながら、イグアスはヴィクトリアがこの場所で積み重ねてきた年数を想う。
「お前さぁ、年齢詐称か?」
「あんたとタメだよくたばりやがれファッキュー腕立て百回追加」
「前から思ってたけど、絶対嘘だろ。ババアみたいな趣味しやがって……」
「総長に報告しようかな。あー、あと腕立て二百回追加で」
「ふざけんな……クソ……」
「とか言いつつ、ちゃんとやるんだから。レッドガン式新兵教育の賜物だなぁ」
ヴィクトリアがそう言った途端、イグアス腰に衝撃が走った。
「っ……重……⁉︎ オイ、なにしやがっ……」
「女の子の体重を一々重いとか言うなし」
腕立て伏せを始めたイグアスの背中に、正座したヴィクトリアが鎮座している。
「あんた、前から結構筋トレとかしてた? いきなり座ってもギックリとかならないんだねー。感心、感心」
「オメーは上官に背中に乗られたのかよ⁉︎」
「え、ないけど? っていうかそれ、ちょっとヤバいし」
「じゃあするなよ!」
「侮辱に対する罰としては妥当だと思うけどー? それに、わたしはどこかのバカと違って教官には楯突いたこととかないからなぁ……」
「には、ってことは、他のやつには文句垂れてたのかよ」
「文句は偉くなってから言えってこと! ほら、動きが鈍ってる!」
気を抜くと、上からドカドカと罵声が飛んでくる。ヴィクトリアがガンガンと変調子の音楽をかけるので、カウントを数えるリズムが狂いだす。それに加えて、ついでとばかりに耳鳴りが工場の騒音よろしく頭の中を打ち付けるように響いていた。
壁に貼られたポスターには、名前も聞いたことのないような詩人の名言のカリグラフィが、流麗な線で描かれていた。内容を把握する前に、汗が顔に流れ落ちて、目の前が朦朧としてくる。
「気張れ! まだあと五十回は残ってる」
「うるせえ…………。気取っていつも偉そうにしやがって……!」
「泣き言は後で聞いてあげるけど、それだけ叫べるってことは、まだ余裕あるんじゃない?」
訓練期間の十四週間の間、まだ折り返しにも到達していない段階で、イグアスは五回は吐いていた。限界まで走り込みをした後、コンクリートの上に流れ落ちる自分の汗の風呂にゲロってしまうのは、全員が一度は通る道だ。
それでも、ヴィクトリアの前では絶対にそんな姿を晒したくなかった。一生それで揶揄われることが確定する……そんな気がした。
この訓練が終われば、せいぜい廊下ですれ違う程度の関係性になるはずだ。それでもなぜか人生という大袈裟なワードが脳裏を掠める。
ヴィクトリアがそれくらい執念深い性格なのは目に見えている。
わざわざ自室に呼びつけて馬鹿げた指示を出すくらいには粘着質な女だ。クソが。
「絶対……、お前のことアゴで使ってやる……!」
「いいぞ新米、その調子で頑張りたまえ〜」
イグアスからは、背中の上で子供のように笑っているヴィクトリアの顔を見ることはできない。しかし、彼女は確かにそこで笑顔を浮かべていた。
3
五週目の週末には、ようやく基地からの外出許可が出るようになった。
訓練生たちはゾロゾロとアリンコのように連れ立って金網の外の小さな街へと繰り出していく。天気予報通り快晴に恵まれているおかげだろう。
もっとも、嵐が吹き荒んでいても彼らは外に出るはずだ。ここまでずっと基地の内部で缶詰になっていたせいで、全員が外の空気に飢えていた。
イグアスも相方と連れ立ってその列に続く。久方ぶりに寝巻き以外の私服に袖を通したが、軍服の生成りの生地とは違った感覚に、少し違和感を覚えた。つい最近までは、ずっとこんな格好をしていたのに。
「フロント!」
どこからともなく声が聞こえてきて、その場にいる全員が号令の通りに地面に伏せ、腕立て伏せを開始した。せっかくの休日なのに、今の今になって取り消しになれば、ここにいる百人近い全員によって暴動が起こるだろう。
訓練では、次の号令があるまでひたすら腕立て伏せをやらされることになっている。腕が悲鳴を上げようが、腹筋が引き攣ろうが絶対に、教官がよしというまでずっとだ。
せっかくの休日だというのに、こんなことを──。全員に殺意が芽生えかけたその時になって、ようやく止まれの号令がかかった。
「あー、おはよう諸君。あぁ、なに、ちょっとした抜き打ちテストでした。でも、今回は全員合格なので行ってよろしい」
その声が最後の「行ってよろしい」と言い終わる前に、全員がすでに出入り口に向かって歩き出していた。趣味が悪い、馬鹿にしてんのか、などと命知らずな悪口も聞こえてくる。
嫌な予感がして後ろを振り返ると、ラフな格好をしたヴィクトリア「教官」が立っていた。いつもの軍服ではなく、普通のTシャツにジーンズの姿だったので、彼女もオフの日なのだろう。
「あぁもう! 毎年これやってるのに。わたしだけ全員に殺されそうな目で見られるから、マジで嫌だったのに……」
訓練生の背中に向かって、ヴィクトリアはブツブツと呟く。口ぶりから察するに、恒例行事の嫌われ役という貧乏くじを引かされたのだろう。
正直、いい気味だとイグアスは笑う。
「ざまあねえな」
「行って慰めてやれよ」
「気味悪いこと言いやがって、マジで殴るぞ」
基地の外に出ても、どうせ向かう場所は一緒だった。出てすぐの場所にあるバス停からバスに乗り込むしかない。それだけが、辺鄙なクソ田舎に位置する基地から人里に向かう唯一の方法だ。
バスに乗り込んで田舎道をしばらく走る。だだっ広い田舎の、農業地脇をひたすら走る。ベイラムが所有する私道なので誰ともすれ違わない──はずだった。
「……あいつかよ」
誰も追いかけてこないはずの後方から、強烈にマフラーを吹かす音が聞こえてくる。全員が顔を窓の外に出して、追ってくる音の主を見ようと身を乗り出していた。
「インドのバスみてぇだな‼︎」
中指をこちらに突き立てながら、力一杯叫んでバスを追い越していく。ヴィクトリアはコテコテのライダースーツに身を包んでいた。
全員が爆笑する。
こんなの古すぎてコスチュームプレイを見せられているようなものだ。ハロウィンの仮装じゃあるまいし、と口に出す者もいた。
「……つまんねぇことやりやがって」
この場で笑っているやつ、盛り上がっている空気、それら全てが神経に障った。
なんでこんなやつの馬鹿げた行動一つでそんなに湧いているのか。何が面白いのか、何一つ理解できない。センスがない。なんであの女のやったことでここが盛り上がっているのか、ウケ狙いだったのか。ここにいる全員がユーモア欠乏症に罹患しているように見える。
叫んだヴィクトリアがそのまま横転して骨でも折れば愉快だったかもしれない。それくらいあの女のことが目障りだ。何をしたいのかわからないし、それに──、今のようにシャクに障るようなことばかりやって、自分が痛々しい空回りをしていることも気づけないなんて、本当に──見ていて苛立ってくる。
開け放たれた窓から、遮蔽されることのない紫外線がイグアスの顔を照らした。それのせいで眩しいのだと、今更になって気づく。
農薬を散布するドローンのカメラがこちらを向いた。誰もイグアスのことを見ていなかった。騒ぎが落ち着く頃には、バスは街に到着していた。
4
有線のラジオがどこかの海賊放送を流している。そこはそういう場所だった。音楽系のアナログなメディアを扱う店に立ち寄ったのは、あの女の影響もあるかもしれない、という気味が悪い思考を無理やりシャットダウンする。
『手術の後遺症には音楽セラピーが有用です』
そう書かれたポスターが基地の中に掲示されていた。処方された鎮痛剤を使用しているが、慢性的な頭痛は常に続いている。
季節の変わり目になるとやってくる偏頭痛よりかはマシだが、気分が落ちることには違いない。
駐在している心理士とのカウンセリングは面倒で、やっていられないと感じた。けれど、何もしないでただ時間が解決することを願うしかないというのは自分の理念に反する。
なので、とりあえず手近ですぐに始められそうな箇所から手をつけよう、と思い立ち、夜間の外出許可をもぎ取ってレコード屋までやってきたというのがここまでの経緯である。
「わたしおすすめのアルバムのリストとかあるけど、いる?」
教官はかなり呆気なく外出許可のサインを書いてくれたが、そのあとがうざかった。
「わたしも最初手術した後はそんな感じだった。まぁ……脳みそ弄って異常が何もないっていうのもキモいからな。誰でも通る道だから。頑張れよ、新兵くん」
書類と一緒に手渡された住所の場所に、イグアスはいる。
周辺地域へのアクセスその他情報を検索するための端末は機密保護のため、限られた場所(図書館のパソコンなど)でしか触れられなかった。つまり、定額で音楽聴き放題サービスなどと契約した端末も没収されているため、何かをしようと思ったらアナログに頼るしかない。
昔、ヴィクトリアのことをオールドタイプのオタク女だと馬鹿にしたことを思い出した。今、自分がそれになろうとしている。
娯楽がないというけれど、それなら誰かを巻き込んで何かすればいい。それをしないで内向的な趣味に金を注ぐ女のことを考えて、イグアスはやはり気が合わないと思った。あいつは軍人なんて生き方は向いてない。それをいうなら、自分もそうだとは思うが、少なくともあんなに露骨に浮いたりはしていない。
──やっぱり、俺はあいつより「上」だ。
そう考えれば、普段どれだけ理不尽な目に遭おうが乗り越えられた。上官に一発でもぶち込めば面倒なことになる。
昔は多少の無茶も許されたが、すでに軍隊式に体が馴染んでいるのか、からかいとして許されるラインと怒られが発生する境目がなんとなく理解できるようになった。
どうせ外に出られないのだから、少しは賢く生きた方が得策だと考えるようになった。
あの地位に上り詰めるまでに、ヴィクトリアがどんな人間だったかはわからない。けれど、確実に、あの女よりも自分の方が兵士として適性があるというのは、きっと誰が見ても明らかだろうと思った。
訓練もすでに折り返しを過ぎ、あと一週間もすれば正式に部隊に配属される。
田舎暮らしもそれまでの辛抱だ。そう思えば、あとは消化試合のようなモノでしかない。
だから、本来ならば今ここでCDやらそれらを再生する機械を買わなくてもいい。正式に部隊に配属されれば、ある程度の私物の持ち込みも許可されるから、別に「今」でなくてもいい。
イグアスはアルファベット順に、ジャンルも何も関係なく猥雑に並べ立てられた棚の前で、よくわからないインディーズのバンドのアルバムを引っ張り出したり、しまったりした。
ジーンズのポケットには女から勧められた楽曲のリストがあるのだが、どれも聞いたことのないマイナーな、しかも古臭そうなタイトルのそれで、明らかに退屈そうだったのでグシャグシャに丸めてゴミと一緒の扱いになっている。
あんなやつ、レコード屋の店主にでもなったらいい。
何を考えているんだかわからない、重たい目をして理不尽なことを言いつける性格だから、雇われには向いていないだろう。
脳裏には、この店のカウンターで黒いエプロンを身につけ、レゲエだかなんだかわからない民族風の音楽を流しながら雑誌に目を通すヴィクトリアの姿が浮かんだ。
たった今店内で流れている音楽が、どこのどんなものであるかは全く皆目見当もつかない。他に客はおらず、店番の男は液晶画面でアダルトサイトを見ている。
悪趣味な店を紹介された。
卑猥なポスターや、グロテスクな色彩の電子ドラッグめいた広告が目に入るたび、いたたまれない気持ちになる。ここで歓迎されていないような気がする。
別にここでなくてもよかったものを、ここしか知らないせいでこんなことになっている。
これは俺が悪いんじゃない。あいつらのせいだ。
手術後のせん妄でも似たようなことを叫んでいたと馬鹿にされたことも、思い出す。
ここにいるといつまでも薄気味悪い。こんな場所、こんな店、こんなくだらないものを勧めてくる全てが、全部、うるさい。
イグアスは、店員のおすすめであろう、目立つように陳列されていたよくわからないアルバムと中古のプレーヤーをつかむと、レジまで持って行った。会計が終わるまで、ずっと下を向いていたせいで汚れた木目の床といつの間にかアンビエントに切り替わった店のBGMがやけに耳に痛い。
「……はぁっ……」
店を出た先の非常階段で、ようやく顔を上げることができた。ポケットの中であらゆるゴミと一緒になっていた女のメモを掴んで、暗い路地裏に投げ捨てた。煙草の吸い殻や塵と一緒になって、それはゆっくりと落ちていった。
誰も悪くないのはわかっていた。けれど、無性に腹が立って仕方なかった。
5
「ブースター吹かすの遅い! チンタラ旋回してると七面鳥撃ちになるって言ってんでしょ!」
「うっ……るせぇ……クソ!」
「あんた、それが上官に対する態度? あーあ。今、ミサイルにロックされて死んだな、コレ」
無線から聞こえてくる指示に対して、必死に試みているが操縦桿が思うように動かない。硬い癖に、力んで押し込みすぎるとあらぬ方向に向かっていくので扱い辛いことこの上ない。
後ろを追走する指導教官の機体は付かず離れずで速度を保ちながら、軌道は完全に制御されたそれをしていた。悔しいが、完璧な制御には文句のつけようがない。
「今の機体は速度主体だから、燃費は気にしないで動き回った方がいい。それで酔うってなら、カメラの速度弄って」
「これこそシミュレータじゃダメなのかよ」
「うちのボロだとGまで再現できないって言ったでしょ。本社の開発部にはあるけど、レッドガンにそんな高性能の機械置いてるわけないし、予算も降りないし……」
「──マジでシケてんな」
「うん、だから今あんたにしかACの訓練できてないし」
「……あぁ」
自分の所属してる組織で一番の懸念だろうに、ヴィクトリアは他人事のように言い放った。
こんな発言を幾度となく聞いていると、こいつには危機感というものが欠如しているのではないかと思えてくる。
「まぁ、今回はたまたまあんたが枠に入ったんだから。天からの使命だと思って、諦めて頑張れば?」
訓練を終え、いざ配属先が発表されると決まった時は安堵した。
大勢の同期と一緒に戦闘員として別の基地に送られると告げられた時、ようやくあのG13と離れられるのだと安心した。
色んな意味でトラウマを植え付けられた相手が壇上で祝辞を述べる様子を欠伸交じりで見届けた後、ヴォルタと連れ立って酒を開けた。
次の日、星間飛行で旅立った小惑星で見知った顔を見た時は叫び出しそうになった。
同期がMTの訓練を受けるために講義室に向かう中、ついて行こうとしたら肩を叩かれ、一人だけ小さな個室に連れて行かされた。
「強化人間の面倒を見るのは、わたし」
電子黒板と机と椅子だけの部屋に数時間監禁され、講義らしきものを受けた後、いきなり乗って動かしてみろと言われた時の絶望感を思い出して、ゾッとした。
「あぁ、車に乗れるんだったらそれもできると思う」
免許持ってるんでしょ? などと特に知らせた覚えもない個人情報を出し抜かれている事実に、今更驚くことはなかった。
「それは飲酒運転で……没収された」
「えー嘘、あんたの地元ってトラムも走ってないわけ? めっちゃ田舎じゃん」
「自動運転なんてなぁ、テロの温床でしかねぇだろ……」
「うん、まぁ、否定できる材料がないからそれは言えてるけど」
「あんなデカいブツ動かすのに自動車免許ごときで対応していいのか?」
「え? ダメだけど。何のためにこれから詰め込みで教えると思ってんの」
「ベイラムにはコンプライアンスって言葉がねぇのかよ」
「そんなものあったらよその星に駐在して好き勝手やるわけないじゃん。それに、あんたは一応期待の星なんだから、ちゃんと頑張りなさい」
百科事典並みのサイズのマニュアルをめくりながら、ヴィクトリアは手元のスライドを次々とページ送りしていく。
「これはいい。これもいらない。なにこれ? エンジンのデータが古すぎるんですけど」
「……フラッシュ暗算でもしてんのか?」
「だってこの八百ページのマニュアルを覚えないと飛行訓練もできないって決まってるし」
「それを、三日でやるってのかよ」
「うん、無茶無謀を努力で押し通すっていうのがうちのやり方だから。あんたも早くハウスルールに慣れなさい」
そんな悪口を言って大丈夫なのかと心配になるくらい、レッドガンの隊員たちは上層部への不満を明から様に吐露──もとい、愚痴を溢していた。下っ端の兵士ならともかく、幹部クラスでもこれなのだから、よほど現場の声は上に届いていないのだろう。やり手のミシガンをしてもこれなのだから、将来性に疑問を抱いてしまう。
「あのねぇ、わたしでもできたんだからあんたにもできるに決まってんでしょ」
「……なんで俺なんだよ」
「はぁ?」
「俺よりも、できるやつなんていくらでもいるだろ。素直に言うことを聞く働き蟻みたいなやつにやらせりゃいいだろ、こんなもん……」
「あんた、自分の成績知らないわけ?」
「ペーパーテストの結果なんて、便所の紙に使っちまった」
「一応手術を会社の金でやったんだから、色々と察しなさいよ。あんたがね、飛び抜けて突出してるとまでは言わないけど……、あの中で一番適性があるって結果が出たんだから、今こうやってトップガンごっこをさせられてるんでしょ」
ヴィクトリアの呆れた声が教室に響き渡る。
「あんたは新しいカリキュラムのモルモットにされてんのよ、よく言えば期待されてるって意味になるけど。オーケー?」
「そっちの事情なんて知ったこっちゃねぇ」
「テスターなんだから、もっと誇っていいのに」
「うるせえ、興味ねぇ」
「でもさっきのスライド、読めたでしょ?」
「…………まぁ、文字を追うくらいなら。でもそんなこと、別に」
「手術したっていうのもあるけど、あんた、やっぱり目がいいんだね」
「…………はぁ」
「反射速度、動体視力、ストレス耐性。素人のくせに、結構いい成績だったし」
ヴィクトリアは再び手元の装置を弄くり回し、情報が羅列された画像をコマ送りのような早さで次々と投影していく。
「わたしなら、あんたをあと五時間であのマシンに乗せてあげられるけど」
「いらねえよ。お前の自己満足に何で俺が──」
「今日中にテストコースを完走できたら、何でも一つ持ち物に入れさせてあげる」
「は……?」
何でも、という言葉が聞こえてイグアスは思わず動きを止めた。
教卓に浅く腰かけたヴィクトリアの視線が、真っ直ぐにイグアスを見据えている。
「ハッタリじゃねえよな」
「インターネットに接続できる個人用の端末、欲しいでしょ? それだって入れてあげる。情報漏洩で困るようなもの、新兵はまだ見れないから誰も困らないし」
「許可──誰に」
「総長もいいって言ってるし」
どうやって口説き落としたんだよ、などと軽口を言おうかと思ったが、辞めた。
その代わりに口から漏れ出たのは、感嘆を帯びた溜め息が一つ。
入隊時に念入りに行われた身体検査──刑務所に入る囚人のような扱いを受けた──を思い出し、思わず身震いした。
こんな厳しい軍隊の規律を、ヴィクトリアは自分の一存で捻じ曲げると言ってのけたのだ。
その代償として、非人間じみた努力を要求されてはいるが──。
「どう? レッドガンで偉くなれば、ある程度個人の裁量で動けるってわかったでしょ。これであんたのモチベになればって、皆が期待してるの。オッケー? それに……」
「それに、何だよ……」
「あー、まだそれに関しては内緒。まぁとにかく、わたしも頑張るからあんたも頑張れってことが言いたかっただけ。とりあえず、この本は一時間で終わらせるから」
それだけ言ってしまうと、ヴィクトリアはスライドの説明に戻ってしまった。
彼女が講義するのはイグアスにとって、眠くなりそうな無関心領域の分野だったが、これを容易く理解する日もいつか訪れるのだろう。
人参を目前にぶら下げられた馬のようだと、自虐が浮かんでくるが、それを聞く相手はここには存在しない。
暗い部屋にぼんやりと浮かび上がる電子黒板の内容を頭に叩き込むことだけが、今のイグアスに与えられた全てだった。
「目標タイム、まぁまぁ近いんじゃない」
「最初に言ってた条件だけじゃねぇのかよ」
「イグアスが頑張ってくれるからわたしも張り切ってしまいました〜! 頑張って目標タイム、三日で切ろうか?」
一度目の飛行を終えたあと、地面に着地した直後でグロッキーになっているイグアスに、ヴィクトリアは絶望的な数字を伝えた。そして、こう言った。「このタイムに届くように、がんばろっか」
──それは、素人がオリンピック選手のタイムに挑むようなものだった。しかし、決して人間が到達できない範囲の話ではなかった。あらゆる神経を強化した人間ならば、寸でのところに届きそうな距離。それをヴィクトリアは提示したのだ。新人のやる気を刺激するための、くだらないお遊びのつもりだった。
「嫌がらせって言葉知ってるか?」
「……今回は半分オートだったから良かったねー」
「一日目のやつにマニュアル操作で乗らせる馬鹿がいたら、ぶん殴る」
機体から降りたあと、イグアスのふらつく体を支えたのはヴィクトリアだった。普段なら、文句や拒絶の言葉を言いたくなるものだが、今回ばかりはその支えに助けられている。
搭乗後の体はエネルギーを持っていかれ、普段の比ではないほどの汗が、体の汗腺全てから湧き出ているかのようだった。
差し出された水を一気に飲み干すと、ベンチにドッと腰を下ろす。
「初回でぶっ倒れないだけ、やっぱ才能あるんじゃん。モルモットは頑丈だなぁ……」
ACの実機訓練をある程度の段階までは、マンツーマンでやる必要があると言われた時は、思わず鼻で笑ってしまったが、今ならその言葉に納得して頷くしかない。
機体の制御もさることながら、終わった後の疲労が並のそれではないのだ。
たった十分。されど十分。
全身の神経を研ぎ澄まし、なれない行動をするというのは、想像よりも過酷な行為だった。
「指何本かわかる?」
「三本……」
「合ってる。視覚と認識機能に異常なし、と」
教官らしく端末にペンを走らせる様子を横目で見ながら、肩で息をする。
ズブの素人の面倒を見ていた方は、全く息も上がっていないどころか、風呂上がりのようにさっぱりとしていた。それどころか、メカニックを呼びつけて再調整の話し合いまで始めている。
職業軍人に、全くの素人では太刀打ちできないことは知っている。
けれど──、悔しい。
悔しかった。
舐めていた相手が、自分にはできないことをすずしい顔をしてやってのける。
辛辣を舐めさせれることは今までの人生で何度もあった。けれど、散々持ち上げられ、期待していると言われて不様を晒したことはなかった。
──実際、イグアスの成績は歴代の平均からして上澄みであることは間違いない。もっと言えば、期待されるだけの成果をとっくに叩き出していることは紛れもない事実だった。
しかし、貪欲な男にそんな言葉を投げても、無意味でしかない。
ヴィクトリアは、再びイグアスの横に腰掛けた。その横顔が彼女の方を向いたので、二人は見つめ合う形になる。
貪欲な光を放つ双眸が、ヴィクトリアの目を射抜く。
「…………」
──これは、いい顔をしている。
それを見て、初対面の折に印象が最悪だったことも、散々皮肉を言われてムカついたことも、この際どうでもいいとすら思える。
何か言ってやろう。
そう思って口を開きかけたその時、喘ぐような呼吸の最中で、水面に石が投げられたような呟きをヴィクトリアは耳にした。
「どうしたら……そうなれるんだよ。どうしたら、そんな余裕な顔して……」
絶望と期待が入り混じった声がした。ここでヘマをしたら、心をへし折ってしまう予感がする。ヴィクトリアは、一瞬言葉に詰まった。真剣な眼差しに見つめられると、何もかもを見透かされるような気がして怖かった。
「──最初からこうなる人は、いないに決まってるでしょ」
──練習しかない。
これしか言えなかった。
「練習、んだよ、当たり前のこと、いいやがる」
「あんた、才能あるんだから。多分わたしよりも強くなるよ」
「適当抜かしてんじゃねえよ……」
「わたし、嘘つかないけど」
食い気味に言い放ったヴィクトリアの言葉に、どう返したらいいのか全くわからなかった。
「弟子は、師匠を超えるもんでしょ」
「わからねえだろ、そんなの。確定出来ねぇことを軽々しく言うなよ、馬鹿げてるだろ」
絶対という言葉は、絶対にあり得ない。軽々しく、まだ可能性にしかすぎないことを確定した未来かのように言ってのける様子が鬱陶しくて、腹立たしくて仕方がない。
理想主義の日和見女が、ムカつくんだよ。
そんな暴言から口から飛び出る前に、ヴィクトリアが先にうごいた。
「あんたさぁ、結構可愛いところあるんだね」
「 あ゛っ⁉︎」
その言葉に、手にしたボトルをひっくり返しそうになる。
「うん、可愛いじゃん。なんだ、そんな弱気になってさぁ。普段どっしりしてて無神経でイラつくなって思ってたけど、意外と繊細なところあるんだ」
「──っ!」
反論の言葉を叫ぶ前に、ふわりと甘い香りがした。
「かわいーね、イグアスは」
ヴィクトリアが、イグアスの顔を手で挟んでいる。顔が近い。全てが近い。パーソナルスペースを破壊する勢いで、ヴィクトリアは近づいてくる。
「お、おま、近……!」
「叱咤激励だから、これ」
「汗くせえんだよ……!」
「失礼だなー、あんたの方が汗ダラダラでくっさいんですけど。まーでも、あの宿舎の方がわたしの匂いよりやばいし。そもそも、匂いとか言ってる方が変態くさい、し……」
可愛い可愛いと言いながらわしゃわしゃと頭を撫でたり頬をつねったりする奇怪な行動に、イグアスは混乱に陥った。
「あんた、マジで実家で飼ってた犬に似てるわ」
「……お前の馬鹿犬と人を、一緒にするんじゃねえ」
「血統書付きの名犬なんですけど」
「近頃は雑種にも血統書が発行されるのかよ」
「雑種じゃなくて、ミックスな」
「ハァ? なんの違いもねぇだろうが。いいように言いやがって」
「雑種とミックスは同じじゃないし」
「……マジで意味のねえ会話」
「いーじゃん別に。女の子と話してるからって照れるな」
「女の子、だぁ? お前が?」
「少なくとも染色体としては、そうじゃん。体の方弄ってないし。てか軽率にカミングアウトさせんなよ。なに? 全部総長に言おうかな」
「お前が勝手にベラベラと、お喋りしただけだろうが!」
ヴィクトリアは急に動きを止めて、俯いた。場は静寂が支配する。
また何か言い返してくるのかと思って身構えていたところに、予想外の言葉が飛んでくる。
「まぁそれは、言えてるけど……。でも、さ。イグアスがわたしより強くなんのは、あれだけは、ちゃんとほんとに思ってるからさ。期待してるから、わたし、一応、教官だし……」
「……。何勝手に照れてるんだよ。気色悪い」
「ん? 反応が芳しくないな」
「真面目なのは、うぜえ」
ヴィクトリアは何か言いたげな目線でじっとイグアスを見つめたが、しばらくして急に立ち上がった。
「うわっ」
「…………決めた」
「なんだよ」
「今月のノルマ、倍にするわ」
そう言い放つと、イグアスの反論も聞かずに走って行ってしまった。
「──こいつ、マジで馬鹿じゃねえの」
ややこしい相手と組まされてしまった。訓練兵だった期間を終えて初めて、心の底から大きなため息をつきたくなった。
6
訓練を終える頃にはどっぷりと日が暮れていた。
宿舎に戻ってシャワーを浴びて、さして不味くもおいしくもない飯をかき込んで、あとは潰れたように眠るだけの生活がしばらく続いた。
新人のうちはとにかく忙しい。昇進すればこれ以上だとも聞く。どちらにしろ、軍人という職業が過酷な生活であることには違いない。結局、レッドガンの体質がいつまで経っても変わらないのは人手不足が全てなのだと、全員が同じ結論に達するのには時間が掛からなかった。
そのような生活の中で、二人はほとんど付きっきりだった。
マンツーマンという関係の中、メンターと新人が顔を突き合わせてひたすら訓練に励む。相手の指示で動くという行為に体が慣れてくると、次第に次になにをすればいいのか理解できるようになる。
ヴィクトリアの指導は、集団の統率を取るというよりは、一人の人間を観察してコーディネートするコーチの役割で本領を発揮するタイプだとイグアスは理解した。理解して、実力を肌で実感してからは超えてみたくなった。
打ち立てられたレコードを破り、最速に到達する。
やる気を見せた生徒の様子を見て、彼女は喜ばしいことだと思った。
しかし、理想はあくまで理想に過ぎない。
描いた理想を前に敗北することの方が多い。
目標のタイムに到達せず三日目を終えたその晩、耐えきれずイグアスは壁を蹴った。
「三日で……できなかった」
「あぁ。そのことで、反省会がしたいって?」
「お前はやったんだろ。できたんだろ」
「……あ、さてはログを見たか。まぁ聞きなさい、前提条件が違うでしょ」
イグアスと同じ時間に、偶然食堂で居合わせたヴィクトリアは、仕事モードをすっかりオフにしている様子で、鬱陶しそうにしていたが、それでも構わずイグアスは話を続ける。
「なにも違わねえだろ。同じ訓練で、同じ飯を食って……同じ世代の手術を受けた。どこが違うってんだ」
「それは掃除の時にでも言ってよ。……てか、こんな人が多いところで話しかけたらあんたの同期がからかってくるでしょ。それでも大丈夫なわけ?」
「そんなクソどうでもいいことを、わざわざ気にしてんのか?」
「面倒な要素はできるだけカットする。わたしは耳がいいから。あんたらのうるさい声も全部聞こえんの、わかる? いい加減食ってる時くらいリラックスさせてよ。……休み時間に教師に質問する生徒みたい」
「俺に期待してたんじゃないのか」
「見積もりより高く目標を設定して、超えれたら御の字──それくらいだけどね」
「馬鹿にしてんのかって、聞いてんだよ」
「違う違う、わたしは元々アマチュアで競技用のACに乗ってたから。だから本来の意味の素人じゃないの。何もかも初心者のあんたと一緒にしたら、それこそおかしいでしょ」
ヴィクトリアは、水を一杯飲み干すと、じっとイグアスの顔を見上げた。全く動じていないどころか、初対面の時と同じような気だるげな表情で見つめてくるあたりが、神経に障る。
「あんた、多分今めちゃくちゃ調子悪いんだって。手術の後遺症で情緒不安定になってる。食い終わったら医務室にでも行って来たら?」
「…………」
「あのさぁ、上手くいかなかったからってこっちに八つ当たりすんの、マジでダサいからやめろっつってんだけど」
正論だった。言い返す言葉が見つからない。
大声で騒いだせいで周囲の視線が突き刺すように、痛い。
イグアスは、喉だけでなく自分の足が震えているのだと思った。
この世に一人で取り残されたような絶望が襲ってくる。
「──俺は、今まで、人に何か言われたことなんてなあ……。クソ、お前が、そんな、期待させるようなこと言わなきゃ……」
「…………」
ヴィクトリアには、イグアスが必死に訴えるそれが何であるのか全く理解できなかった。
耳まで真っ赤に染めて何かを訴えようとするイグアスを、冷ややかとも思える目線で具に観察し、おおよそ言いたいことを察して言葉をかけようと思ったが、何がそこまでショックを与えてしまったのかわからなかった。
イグアスの訴えは、彼女の理解の及ぶ範囲ではなかった。
しかし、人の思考を理解できないということが罪である場合も確かに存在する。自分は教官であり、指導する相手が不満をあらわにしている場合、往々にして自分が悪いということなのだ。
──正直納得できないが、彼に謝罪の意を示そうと口を開く。
「ごめん、わたしあんたが言いたいことがわかんないわ。ノルマはこなして、追加でわたしが出した宿題なんて、やらなくてもいい自由課題みたいなものじゃん。なんでそこまで拘るのか、理解できないんですけど」
「……っ…………‼︎」
イグアスはその場から逃げるように立ち去った。
「あ」
言い過ぎたかもしれない。追って訂正すべきか?
戦場では咄嗟の判断ができるくせに、こういう時に限って体は動かなかった。
「──」
中途半端に浮かせた腰を、椅子に下ろす。
「わたしって、馬鹿か?」
誰にも聞こえないように、ヴィクトリアは小声で独りごちた。
今更になって立ち上がって、追いかけられるほど覚悟が決まっているわけでもない。
気まずい空気が流れる中、誰に急かされているわけでもないが、彼女は残りの夕飯を強引に口に押し込み、水で流し込んだ。この食べ方をしたのはそれこそ新人の頃以来だった。
7
「初めて出撃して、どうだった?」
「どうもこうもねえよ、これから何遍もこういうことすんだろ」
「終わった後へばってただろ」
「お前もだろうが」
「まぁ、いいじゃん。ていうか何も思わなかったら逆に怖いわ」
ヴィクトリアはじっと煙草の先から昇っていく煙を見つめ、先ほどの質問の答えを脳内で反芻していた。自分は初めて任務を行った後、なんと答えたのか全く覚えていない。きっと別の上官に聞けば答えてもらえるはずだが、過去の自分は振り返らない主義なので、その答えを得ることは今後あり得ないだろう。
「こういうの、勝手に嫌ってそうだと思ってましたよ」
「……これは有害物質なんてほとんど入ってないけどね。喫煙なんて前世紀以前に滅んで、今は形だけモノなんだから、ただのポーズだけ。真似っこでしかないんだから、格好もクソもつかないでしょ」
「ああ、言えてる」
「それに、あっちは忙しそうだし。我々は端っこで休憩してた方が邪魔にならない」
ガレージでは、先程まで稼働していた機体の冷却が行われている。AC一機とMT二機が並んでメンテナンスを受けている様子を、小窓から眺める。そこに空白が生まれると、どうしようもなく胸が痛くなるのだ。
新人二人を初めて戦場に駆り出して、一時はどうなるものかと思ったが、なんとか無事に送り届けることができた。ヴィクトリアの胸は安堵感で包まれた。
「…………」
イグアスは、先ほどからやはり口数が少ない。あの食堂での一件以降、二人の間には最低限のやり取り以外沈黙が続くようになった。
試験的なメンター制度の実験に使われた二人は、コンビになった当初から、相性の上で問題があるとして、立案者(ミシガンである)と一部の現場主義者以外の上層部には効果を疑問視する声も上がった。
「試してみなければ分からない。優れたアイデアも凡庸な発想も、卓上の空論では結果が存在しないことと等しい」
弁舌を振るい、ミシガンは案を押し通し、それは試験的に導入された。
報告として上がった経過が良好だった。そのため、途中まではコストの面で不安視する声も押さえつけられていた──かろうじて。
終わりはあっけない。一件のボヤを起こした。どこからか漏れ出た二人の口論を材料に、火は起こり、反対を押し返す力はあっさりと消えてしまった。
それ以降、イグアスは一般の訓練に合流させられている。
二人はすでに教官と生徒という関係性でもなくなっていた。
初回の出撃は少人数で、新兵の訓練をやっている隊員が持ち回りで立ち会う決まりだった。
新兵に、ネズミ退治のような簡単な任務を与え、ちょっとした基地を護衛する。程度のしれた犬を噛ませて戦場の空気を吸うのが目的の、「子供のおつかい」だ。
そのクジに当たった。それだけだ。
「……あ、ミント味」
ヴィクトリアは、そっとイグアスに声をかけた。味つきの煙を吸い込む三人は、それぞれ違うフレーバーを選んで懐に忍ばせていた。
「…………」
「あーあ、無視されちゃった」
ヴィクトリアの言葉は、結果的に二つとも独り言になった。
「…………」
ヴォルタは空気を読んで、黙っていた。黙っていたというより、どう言っていいのか分からないので結果的に沈黙していた、と言った方がいいのかもしれないが。
イグアスは、ヴィクトリアに対して肯定も否定もせず、ただその場に突っ立って、ヴォルタが発する言葉以外をひたすらに無視している。
ヴィクトリアもヴィクトリアで、二人きりになった時の沈黙に耐えきれないであろうことを知っているから、緩衝材として利用している。
作戦中以外の会話は、すべてヴォルタを挟んで行われていた。
喧嘩と形容するには双方の怒りが不足しているが、決して円満な関係であるとは言い難い二人だった。
上官と部下といっても、同い年の青臭い子供が二人だ。しかも、役職つきと下っ端という隔たれた壁が存在する。お互いのプライドがこじれて上手く接することができないのは、仕方のないことかもしれない。
(――だからって俺が仲立ち役だってか?)
双方の何か言いたげな視線が飛び交う中、ヴォルタはすぐにこの場から退散したい衝動に襲われた。
友人だからといって何でも知ってる訳でもなければ、ましてや上官との仲直りを助ける手伝いをしてやれる訳でもない。
ヴィクトリアは表情こそ平然としているが、時折視線を悩ましげに伏せる回数が多い。
イグアスもイグアスで、チラチラと様子を窺ってはいるが、決して口を開こうとはせず、強固な態度をとり続けている。
「ドリンクバーのジュース混ぜたみたいな味がする」
「ガキかよ……」
イグアスが初めてヴィクトリアの言葉に返事をした。だがその直後、虫を踏みつけたような表情で舌打ちをする。
面倒くさい。
そうとしか言いようがない。
戦闘やその合間の時間は雑談すらする余裕がなかったのであまり不審に感じなかったがやはり、この二人の間に流れる空気はヒリヒリと張り詰めていた。
変な会話の切り出し方しかできない上司をフォローしようにも、小学生みたいな語彙で会話をしたくない気持ちのほうが内心上回っていた。
しかし今後のことを考えると、このままの関係性でいられたら面倒が多いだけだとも思う。
どうせ、今やるか、後でやるかの違いでしかないのだ。
――なら、面倒ごとは早いうちに片付けるべきだろう。そっちの方が、結果的に楽なのだから。
「イグアス、お前ちゃんと喋れ」
「──はぁ? 喋ってんだろ普通に」
「俺越しじゃないと上官とも喋れねえのか」
イグアスとヴィクトリア両名の視線がヴォルタに刺さった。直球に物を言いすぎたのかもしれないが、回りくどい会話は苦手だ。それにきっと、何ら有益なものは生み出せないだろう。
「なんでお前にゴチャゴチャ言われないといけねえんだよ。関係ねえだろ」
「ジメジメしてて気色悪ィんだよ。お前がナメクジみたいにチンタラ悩んでるとよ、場の空気ってやつが終わるんだよ」
「ンだよ……。人のことを気味悪い例えしやがって……」
「俺はお前の保護者じゃねえんだぞ。それなのにこんなことさせやがって……。何も気づいてない訳ないだろ。もう昔のこと引きずんのはやめろ」
「……これに関しては、わたしが謝った方がいいかもしれない」
一触即発で掴み合いになりかねない二人を見かねて、ヴィクトリアは制止に入った。
先ほど戦場で見せていた頼りがいのある姿が、まるで嘘のようだった。
修羅場に巻き込まれた間男の様相(当事者なのでその表現は適切ではないかもしれないが)で、肩を落として気まずそうな表情をしている。
「あー、その、なんだか期待させちゃって、ごめん」
「……‼」
――煽りだ、それは。
寸でのところでヴォルタの口から罵倒が飛び出すことはなかったが、それでも手にもったカートリッジを握りつぶしてしまいそうなほどには動揺してしまった。それも仕方がないことである。この場において、全く謝罪になっていない言葉を、イグアスが一番言われたくないであろうワードを、あろうことかこの女は真剣かつ大真面目に言ってしまったのだ。
本人に悪気がなくてもこれは……、犯罪に匹敵する行為だ。開いた口が塞がらないとはこのことだろう。
「頑張ってくれてたんでしょ。なんか見ててすごいじゃんって思ったのはマジだから。今回も命令聞いてくれたし、上々の出来だと思うから、うん。一人でも十分やってけると思うよ」
見通しが甘かった。謝るとかそういうことで解決する次元ではないのだ、これは。
「また頑張りたかったらさ、この調子でいっぱい任務をやってればいいと思う」
「言いたいことは、それだけか」
「え……」
「死体に砂掛けて楽しいかよ」
「……」
ヴォルタは、ヴィクトリアの表情を見るのが怖くて見れなかった。イグアスの威圧感は鬼気迫るものがあった。
それを真正面から受け止めるとなると、相応のショックを受けていないか、こっちが心配になる。
「お前のその偽善者面に苛ついて仕方ねえ。……お前に負けて、取り返せないことに悩んでる自分が馬鹿みたいで仕方ないのに、なんだよ。上手く丸めれば仲直りできるとか思ったのか? そういうところがあるからお前って──」
「はぁ……、そんなこと、マジでどうでもいい」
ヴィクトリアは、髪の毛をくるくると指先に絡みつけながら、煙を肺からフ、と見せつけるように吐き出した。
「……一回負けたからって、ウジウジしてんのマジでキモ。わたしは仕事であんたの面倒を見てるだけだったんだけど、そこ勘違いしないでよ。まぁ、見習いの分際で挑んできて生意気だと思ってたけど、今はその気概だけは評価してる。……けど、やっぱあんたの考えてることがわからない。一回失敗して、落ち込むのはわかるけど、それが長すぎ。あんたってミシガンにも一発入れたいんでしょ、わたしに負けたくらいでへこたれるようなタマじゃないって思ってたけど、結構メンタル雑魚だったんだ。こっちだってやりたくて下手に出てたわけじゃないし、こういう話し方を公共の場でしたら上にチクる馬鹿がいるのも知らないで、ちゃんと最後まで人の話聞け、馬鹿。
……まぁ、とにかく言いたいのは――、これに懲りないでまた挑んでくればいいでしょ。何回でも」
ヴィクトリアは胸ポケットから端末を取り出すと、その画面をイグアスの目前に突きつけた。
――果たし状を掲げるかのように。
「これがわたしの戦績、戦果、シミュレータの記録、全部。あんたのIDにアクセス権ごと送っておいたから、後で見とけば? あのタイムを見たんだったら、もう知ってるかもしれないけど」
「は――」
「あー、ガラにもなくいい人ぶっちゃったから疲れた。各自休憩を切り上げて、今日はもう帰ること!」
「お、お前……」
「そんじゃ。G13は伊達じゃないって、わかっておいてねー。百回負かして、あんたの偉そうな態度へし折って、こんなことでわざわざ泣けなくしてやるから」
「俺は泣いてねえ!」
ひらひらと手を振ってロッカーの方へ消えていったヴィクトリアの背中を、二人はただ見送ることしかできなかった。
「あのアマ、ぜってー泣かす」
再び煙を吸い込みながら青筋を立てる相方の様子を見て、ヴォルタはこの基地に配属される前の訓練期間を思い出した。つまり、最初の関係性に戻ったように見えた。すなわち、元に戻ったと言ってもよいのかもしれない――。
(ケツ叩かれて喜んで、単純なやつ)
それ以上考えると罵倒語の二文字が思い浮かびそうだったので、ヴォルタは思考を止めた。何事も考えすぎるのはよくないということを、この男はよく理解していた。
一人分の質量が減ると、この部屋がやけに広くなったように感じられた。
「…………」
「おい、なんか鳴ってる」
「あー、勝手になり出しやがった。ボタンがイカれたか?」
ジャンク品の、今や化石同然のプレーヤーを手に持ち、独り言のようにイグアスはつぶやいた。音の出所はそこなのだろう。
教科書や博物館の展示でしか見ることのできないような、小さな機械だった。音楽を聴くことに特化した、ただそれだけのための機能しかない、プレーヤー。
未だにそんなものを使うのは、アナログに拘る好き者だけだと思っていたが――。
聞き慣れない、今や失われて久しいであろう言語で、哀愁漂うシックなメロディが流れている。――明らかに、イグアスの趣味ではないはずのモノだ。
――あいつの影響だ。
ヴォルタは直感的に、そう確信した。
相棒の音楽の趣味なんて、前からわかりきっている。こんな辛気くさいクラシックを聴くようなガラではないことは、過去を振り返らずとも確信的である。
「……」
何かを言おうと思ったが、詮索すると怒ることが目に見えていたので、ヴォルタは口を閉ざした。代わりにとでもいうように、ピアノの静かな旋律とヴィオラの音色が辺りに響いている。
イグアスは、古い車の修理をするような手つきで、手元の小さな機械をいじくっていた。
「……よし、黙ったか」
「それ、前から持ってんのか」
「ジャンク屋で買った。曲は、前のやつがそのまま残ってた」
「そんなよくわかんねえような曲、聞いてて楽しいのか?」
「――そうか?」
イグアスは、目を伏せると静かな口調で言葉を続けた。
「たまにはこういうのも、悪くねえだろ」
8
「なんで、こんなになるまで飲んだんだよ」
「……」
「黙ってないで、なんか言え」
イグアスは、肩に寄りかかる一人分の重みを感じながら、無言を貫く上官の顔をじっと睨みつけた。
うつむいているせいで、彼女の表情はあまりわからない。そして、時折鼻にちらつくのは、明らかにアルコールの匂いではなかった。
――こいつ。
気がつくと、言葉にせずにはいられなかった。
「素面のくせに、酔ったフリしやがって……」
「……だって、飲み会とか嫌いだし。あんたもそうでしょ?」
「お前の送別会だろうが」
「ううん、それにかこつけて騒ぎたいだけ。どうせわたしがいなくても誰も気づかないって。それに、アルコールなんて体温調整にしか使いたくない。中毒者もいるし、実質毒物じゃん」
すっと顔を上げたヴィクトリアは、そっけない口調でそう言うと、イグアスの肩に頭を乗せた。
「重い」
「義体だから、しょうがないでしょ」
「……なるほどな。それにしても、重いってわかってんなら早くどけよ」
「やだ、寒い」
「調節機能が死んでるんじゃねえか」
「そっかな。でも暑いとか寒いとか考えられる方が人間っぽくない?」
「……わかんねえ、弄りすぎて何がなんだか」
「それも、まぁ、一理ある」
「……哲学の話は向こうでやってろ。俺にはするな。学がねえんだからわかるわけないだろ」
「…………どこまで知ってる?」
「お前がここを出てくってことだけしか、知らねえ」
「へえ、それだけでここまで核心を付いてくるとは」
「名探偵か、俺は」
ヴィクトリアがケタケタと声を上げて笑うと、口から白い息が頭上に昇っていった。
冬みたいだ、とイグアスは思う。彼の故郷には四季と呼べるものは存在していなかった。
彼らが今いるのは、資源の採掘しかまともに行われていない――人も碌に住んでいない、そんな小惑星だった。
いくつかの惑星を移動して、行く先々で様々な戦闘を行った。それのどれにも疑問を抱いたり、反感を覚えたことはない。
死ぬかもしれない恐怖よりも、食い扶持を得ること、ただひたすらに強くなっていく実感がそれを上回った。弄りすぎた、というのはつまりはそういうことだった。
基地の外に一歩でも出るとそこは雪原がただ広がるだけの、自然のただ中だった。ベイラムが整備したコンクリートの道路の上にも、雪と呼ばれる結晶体が、カーペットを敷くようにうっすらと埋め尽くしている。それに似たものは幾度か目にしたことはあるが、実際に目の前で舞う様子を見たことはなかった。
綺麗だとも、無様だとも思わない。
ただ眼前に広がる光景に対してなにかを言おうとは思わなかった。そんな語彙すらも、持ち合わせていない。
「雪がそんなに珍しい?」
「たかが自然現象だろ」
「わたしの地元じゃいつも降ってた。それで、たまに晴れたら、白夜になる。夜がない星だったから」
「変なとこにいたんだな」
「そう、何もなかったから出て行った」
「お前、レッドガンやめたらどうするんだよ」
「…………辞めるわけじゃないけどね」
「はぁ……?」
「辞めないけど戻ってこないだけ、だから」
「意味分かんねえ。お前の話って、いつも小難しくて回りくどい」
「ああ……、それは悪かった」
睫毛も凍りそうなほど、寒い。
夜中の光源というものがほとんど存在しないこの場所では、星が鬱陶しいほど鮮明に見える。強化した視覚のせいかもしれないが、それにしても、プラネタリウムで見るよりも鮮やかな夜空は、六等星ですら肉眼で見えるのではないかと思うほど、くっきりとした光が方々で輝いていた。
「おぉ、まだこれ使ってたんだ」
ヴィクトリアは、イグアスの上着のポケットに手を突っ込むと、無遠慮に中にある機械を取り出した。人肌の近くで埋もれていたとはいえ、この寒さなので触れるとすこしひんやりする。
「何聞いてたの」
彼は、これに返事をしなかった。無言でいると、勝手に電源を入れられ、再生リストを確認される。
「なにこれ、教えてあげたやつ何にも入ってないじゃん」
「俺の趣味じゃなかった」
「真似されたらぶっ殺してた」
「じゃあ教えんなよ」
「型を知らないと何もできないのと同じで、発破かけてやらないとそんなことしないと思った」
針を落とす音すら聞こえそうな静けさの中で、不意に音楽が鳴り出した。
「それ……、タイトルに夏って書いてあんだろ」
「気持ちだけでも温かくしないと、凍死しそう」
「凍死しそうなところでもこき使ってくるからな、うちの上層部は。お前が出て行きたくなる気持ちも……」
ここまで言いかけて、決定的な言葉を言うことをためらった。舌先が固まって、息を吸うだけで喉が絞められたように苦しい。
「奨学金と、推薦。それが理由」
――知っているとは言いたくなかった。
「幹部向けのプログラム……で、ある程度まで勤め上げることを条件に、学費を出してもらえるってやつ。わたし以外に使おうとしてる人は見たことないけど」
「それで二度と戻ってこねえっていうなら、会社にとっちゃ無駄金だな」
「人員の穴埋めしてあげたんだから、きっちり精算しないと。それに、有名大学への切符なんてコネがないと今時手に入らないし」
「……児童労働させられてたんだもんな」
「大企業のコンプライアンス的ににはどうかと思うけど、まあこのご時世で法令遵守を徹底してる企業なんて、ないようなものだし。昔から、年齢をちょろまかして入隊なんて、よくある話でしょう。あんたも、総長の口利きがなければ書類で落とされてたはずだろうし……わたしもまあ、似たような物だから」
「身の上話なら、聞かねえからな」
「しねえって。聞かせるようなものでもないわ」
吐き捨てるように言った、その言葉の裏をかくわけではないが、何か脛に傷を持っていることはどことなく匂わせるような言い方だと感じた。感じただけで、確証があるわけでもない。ましてや、探ってやろうとも思わない。ここでは過去は詮索しない。意味がない行為だからだ。
今ここに立っていることが、すべてだ。
「勝ち逃げって卑怯だと思わないか」
「否、今追い越せなくても最終的にゴールを切るとき、わたしより先に走ってればいいだけでしょ」
「厳しいこと言うじゃねえか」
「――やっぱりね、あんたには期待してんの。多分あんたは、世界をぶっ壊す魔王にでも、英雄に弓引く悪魔にでもなれるんじゃないか、ってね」
「どう進むにしても悪者かよ」
「うちらが英雄になれることなんてないでしょうよ。侵略と略奪、資本主義の奴隷にして悪魔」
「……お前、やっぱ飲んでねえか」
「愚行権を行使した」
「飲んでるじゃねえか!」
「なるほどね、後から酔いが回ってくる体質なのか、わたしは……」
背中を丸めてブツブツとつぶやく様子を見ていると、やはり職業軍人のそれには見えない。
「お前は古代なんちゃらの思想家の本でも読んで、同じようなインテリと議論してる方が似合うだろうな。俺らとは、違うタイプだ――」
「ああ、うん。全く金にならない学問を修める予定だから、存分にそうさせてもらうつもり」
「……」
「理解できなくていいよ。人間みんな一緒の考えだったら、つまらないし」
芝生の上で寝転がりながら、分厚い本を読むヴィクトリアの姿を想像した。……大学という建築物を実際に見たことはない。映像や資料で見たそれの中に、彼女はきっちりと収まるようになじんでいた。
平和な世界で、こことはまるで違う、豊かな場所。日の当たる場所で、野暮ったい軍服ではなく、学生らしいとされるシンプルな服装で。血を流すこともない、監視もされない。 ――自分とは違う。
あまりにも。
たかが妄想一つの間に、決して超えられない溝があるような気すらしてきた。
くだらないと吐き捨てたかった。だからといって、ついていきたい訳でもない。そういうことでは、決してない。現実に即していないイメージだ。本当にそうなるかは、誰にもわからない。何も知らせてくれない。非確定の未来のわりには、不気味なほどに精彩だった。
「そんなもん、行こうとも思わねえ。考えたことすらない」
「…………ま、それも人それぞれってことで。わたしは回り道したけど、あんたもいつか自分のやりたいこと、見つけられるといいね」
「知らねえ、興味ねえ。誰も彼も……、お前みたいに意識高くやってるわけじゃねえからな」
「じゃあとりあえず、ここで一番になれば?」
「あぁ……?」
「ミシガンの横っ面に一撃食らわせてやれよ、ルーキー……って歳でもないか」
そこそこ気合いの入った構えで、虚空にパンチを放つ。格闘訓練の組手の相手をさせられて、何度も受け身の練習をしたことを思い出した。
「お前に言われなくても、前からそのつもりだっての」
「よかった。なんかそれ聞いて、安心した――あんた、わたしのこと結構好きだったもんね」
「はぁ――!?」
自信満々にそう言い放つ。
その顔は、恥や照れ、それに準ずるような内向的な何か――それらは一切存在していなかった。
満面の笑み。
ただその一点のみが、曇りなく彼女の顔に浮かんでいた。
ここは舞台の上ではない。スポットライトどころか、自然の光しか存在しない。それも頭上に輝く遠い星々だけだ。
それなのに、ほんの些細な表情の変化一つで、どうしようもなく苦しくなる。
ただ、このきらめきをどう表現しようにも、イグアスには言葉の一つすら浮かんでこなかった。一瞬の衝撃で心を潰されそうになった。
ただ、それだけ。
ただそれだけのことなのに、彼女がこんな表情をするのだということを知らずにいた。
――この瞬間まで、取りこぼしてきたことがあまりにも多すぎた。
「……そんな寂しそうな顔すんなって。13なんて不吉な数字、降りられたんだからちょっとは祝ってくれてもいいじゃん」
「……………………行くなよ」
やっとのことで絞り出した言葉はたったの三文字だった。
それを言い終わると、高熱が出たように頬が火照った。
前なんてろくに見えやしない。耳鳴りが脳の奥底から這い出るように鳴り響いて、周りの音なんかろくに聞こえてきやしない。
視界がまともに働かなくなる。
「――――」
何かを伝えようとしている。それだけはわかった。
声すら聞こえない。しかし不思議と悔しさや不条理を恨む気持ちはなかった。
おそらく二度と会えない相手だろう。別れが惜しいと思う気持ちよりも、この光景を目に焼き付けたい意思の方が強かったのかもしれない。
――寂しそうな顔をしてるのは、お前もだろ。
そう言って何か行動すれば――、結果は変わったのだろうか。
いくら卓上で賽子を振ったところで結果は変わらないのに、いくらでもイフを求めてしまうのは、人間の性だと誰かが言っていたきがする。それも暇つぶしに見た映画の台詞だとしたら……、愉快だ。
あの時ヴィクトリアがなんと言ったのか、結局のところ、正しい答えはわからなかった。
思い出そうとしても音なんて何も聞こえない。否、最早記憶ですら朧げだった。ノイズがかかったように、思い出の中の世界は半透明になる。
――半分忘れていたような思い出のはずだった。それも今際で思い出すということは、相当の未練があったのかもしれない。
しかしそれも、この景色の前では大した意味を持たなくなるだろう。
「ルビコン川を渡れ、か。――これも運命ってやつか? だとしたら……」
嘲笑の籠もった笑いが、思わず口の端から漏れた。聖書の一節かどこかで聞いた言葉かは分からないが、どちらにしろ、それは本当にどうでもいいことだ。
「結局、俺とお前は違う人間だからな」