原神短編置き場   作:やあああああ

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ある踊り子の終わり [ニィロウ]

「その荷物はこっちにおろしてくれ」

「はい!」

 

 陽は傾き、スメールの木々にオレンジ色が落とし込まれ、生命の賛歌とも呼ぶべき青々とした景色が緩やかに眠りにつこうとしている。青年は肩に担いでいた2つの木箱を慎重に地面に下ろすと、肩をぐるんと回して、首にかけた手拭いで顔の汗を乱暴に拭き取った。

 

「おーし、今日の仕事はこれで終わりだ。お疲れさん」

「はい、お疲れさまでした!」

 

 青年は市場に貨物を卸す卸問屋の雇われである。数か月前にやんごとない事情で冒険者を辞めた彼の逞しい肉体に目を付けた店主が、これ幸いと勧誘したのがきっかけだった。尤も彼自身は稼ぎの良い仕事なら何でもよいという考えで、かてて加えて冒険者時代の過酷な生活によって培われた忍耐力が功を奏し、独自のノウハウを掴んだ今となっては天職と化していた。

 

「あ、そうだ。おい、シエディール」

 

 仕事も終わり早々に帰宅の準備をしていた青年――シエディールを呼び止め、親方は荷車の荷台に載せていた布袋の紐を彼の手に握らせた。

 

「なんです、これ」

「取引先の人間がお前にやるってよ。どうせ使い道もないから売るなりなんなり自由にしろと」

 

 気になったシエディールは袋を開けて中身を覗いた。そこには錆びた懐中時計や金色の装飾が施された杯など多種多様な雑貨が詰め込まれており、なるほど道理で重いわけだと彼は納得した。同時に、冒険者を生業としていた彼は一目でこれらの貴重性に気が付いた。

 

「こ、これ、聖遺物じゃないっすか」

「あん? そんなにイイやつなのか?」

「モノによっては……本当に全部貰っていいんですか?」

「あのな、俺ぁ従業員から金の無心するほど困ってねえよ。ほら、帰った帰った! 家で彼女さんが待ってんだろ?」

 

 親方の言葉にはっと顔を上げたシエディールは、そのまま地面に突き刺さりそうになるほどの勢いで頭を下げて感謝を述べると、親方の返事も待たずに自宅へ向かって駆けだした。野外で幾度も危険な目に合ってきた彼の足は素早く、仕事場から聖樹を挟んでほぼ正反対の位置にある家へ着くのに5分もかからなかった。

 シエディールは額に噴き出た汗をもう一度拭い息を整えると、綺麗に湾曲した蔓のようなノブを握りゆっくりと扉を開いた。

 

「あ、シエル。おかえり!」

 

 部屋の奥から少女の元気な声が入り口の彼に届く。彼女は椅子に座りコーヒーを飲みながら本を読んでいるところであった。スメールで広く着用されている緑を基調としたワンピース型の服を着ており、彼女の細長い指に嵌められた金の指輪が斜陽に照らされて煌めいている。腰まで伸びた長い髪は夕焼けのなかで燃えるように赤い。しかし視線を落とせば、それらの豊かな彩色を少しも寄せ付けない、真白い包帯が巻かれているのだった。

 シエディールは麦わら帽子を扉の横にあるラックに掛けながら、努めて笑顔を保ち答えた。

 

「たたいま、ニィロウ」

 

 スメールで最も美しく優れた踊り子、ニィロウ。

 両の足に不可逆的な傷を負った彼女は、天賦の才とも言えた舞踊の一切を捨て、今のように窓辺でひとり読書に興じる生活を送っていた。

 シエディールは包帯の巻かれた足をなるべく視界に入れないようにしながら、ニィロウの対面にある椅子を引いて腰を下ろした。

 

「あれ、その袋どうしたの?」

「聖遺物だ。取引先の方から貰ってな、品質が良ければいくらか生活の足しになる」

「あ、それ知ってる。冒険者にとっては欠かせないものなんでしょ? 旅人が言ってたんだ」

「そうだな、コイツのために数か月秘境から出てこないヤツもいるくらいには重要な物だ」

「そんなに!? もしかしてシエルもその経験があったり……?」

「いや、俺は基本的にステゴロでやってたからな。聖遺物目的で秘境に入ったことはない」

 

 シエディールは異様に腕っぷしが強く、大概の敵は彼の拳によって一方的に蹂躙されていた。だからといって無暗矢鱈に突貫するということはなく、まずは現場からの逃走を試み、戦闘は必至と判断したときのみ岩のように固い拳を振りぬくというスタイルをとっていた。つまり彼は非常に優れた冒険者であった。

 もともと独立心が強く幼少の頃からアビディアの森を己の庭としていたシエディールが冒険者協会の門扉を叩くのは当然の帰結だったし、当時の彼も自分は冒険の中でひっそりと死ぬのであろうと確信していた。

 

 そんな彼が冒険者を辞め、出身のスメールシティに帰ることを決意したのは、幼馴染のニィロウが脚に酷い怪我を負い、二度と舞台に立てなくなったという文を協会を通じて彼に寄越したためだった。肉親のいない彼にとってニィロウはかけがえのない存在であるからして、その文に目を通した瞬間、彼の中にあった冒険への希求は露と消え、故郷に骨を埋める決意をしたのだった。

 

 射られた矢のような勢いで、璃月港からスメールシティの距離を不眠不休で走破したシエディールは、門兵や道行く人々にニィロウの所在を尋ね歩き、遂に診療所のベッドで横たわる彼女の姿をその目に捉えた。

 

『ニィロウ!』

『その声……シエルなの?』

『ああ、俺だ! こっちを見ろ。俺の顔はわかるか』

『……ふふ、シエルったら。こんなにいっぱい傷をつけて』

『ニィロウ……?』

『おかえり、シエル』

 

 その声は、ぞっとするほど穏やかなものだったとシエディールは記憶している。寄越された文の筆跡は紛うことなくニィロウのものだった。つまり彼女は、無慈悲にも翅を捥がれた自身の体が二度と蝶のように美しい舞を踊るに能わないことを知っているはずなのだ。

 人々は彼女の舞を愛していたが、当の本人はそれ以上の愛と情熱を持ち、幼少の頃から多大な時間を舞踊の研究と自らの研鑽に努めていた。そんな人間が斯様な状況で、心底平穏であると言わんばかりに落ち着き払った優しい声など出せるものだろうか。

 

 その時の彼の脳内は混乱に埋め尽くされていた。

 彼のよく知るニィロウの姿と、現在のニィロウの姿が頭の中で整合しない。これはおかしなことだった。確かに人は移ろう季節のように千変万化していくものだ。特にニィロウは純真無垢で猜疑心の欠片もなく、良くも悪くも何かの影響を受け易いような危うい印象を人に抱かせる。

 しかし、シエディールに言わせてみればその心配は不要である。なぜなら、彼女は牢固たる信念を自身の内に持ち、如何なる妄言もそれを揺らがし得ないからだ。

 

 ニィロウの強さを知るがゆえに、シエディールは今の彼女がますますわからなくなった。

 その様子を面白そうに眺め、ニィロウは彼の頬に右手を震わせながら添えた。

 

『シエルは、これからどうするの?』

『俺は……冒険者を辞める』

『それは、わたしのため?』

『……ああ』

 

 彼の力ない肯定にニィロウは親指で彼の目元を擦り、溜息交じりに呟いた。

 

『わたしは……――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「シエル?」

 

 晩飯を終えて在りし日の記憶を思い返していたシエディールを引き戻したのは、彼の顔を横から覗き込むようにしていつの間にか視界に入り込んでいたニィロウの呟きだった。ターコイズのような色をした澄んだ瞳に自身の呆けた顔が映り、シエディールは咳払いをして意識を現実に戻した。

 

「すまん、ぼうっとしてた」

「大丈夫? あんまり疲れてるなら、その…………明日にする?」

「いや、別に平気だから気にしないで……ふわぁ……」

「ほら、やっぱり疲れてるじゃん。まあ、シエルのお仕事って凄く大変だもんね。もしかして肩とかも結構凝ってるんじゃない?」

 

 ニィロウは彼の背後に回り、試しに親指で筋肉を押し込んでみようとした。

 

「えっ、か、かたっ!? これ骨じゃなくてちゃんと筋肉押してるよね!?」

「い、いてぇぇぇぇ……まさかこんなに酷いことになってるとは……」

「……これは、今夜のうちにしっかり解しておかないと!」

 

 シエディールをベッドにうつ伏せで寝かせると、ニィロウは彼の背中に跨るようにして座り込んだ。良い座り心地を探るために身動ぎするたび、柔らかい尻が形を変えて密着する。彼は咄嗟に璃月で会ったピン婆やの裸体を脳内に夢想した。下腹部にぐつぐつと煮えたぎりつつあった血液がじんわり冷めていった。効果は抜群だった。

 

「どう、気持ちいい?」

「あっああ、きっ、気持ちいい……」

 

 手のひらで筋肉を揺らすように肩甲骨回りをぐりぐりと優しく擦る。ニィロウが密かに想定していた通り、彼の体は肩だけでなく全体的に凝り固まっているようだった。これは大仕事になるぞ、と腕まくりをして気合を入れ直したニィロウは、僧帽筋に手の付け根を当てて揉み込みながらふと気になったことを訊ねた。

 

「首が痛いなとか、肩が重いなとか感じないの?」

「……まあ、しょっちゅう感じてはいたかな」

「なんで言わなかったの? 言ってくれたら、こうしてマッサージでもなんでもしてあげたのに」

 

 ニィロウは僅かに声を低めて恨めしそうに言った。

 

「別に大したことないからな。実際、野宿やってた冒険者時代に比べれば、全然マシだ」

「……手紙には全然そんなこと書いてなかったのに」

「それは……すまん。でも、そんなことより伝えたいことがいっぱいあったからさ」

 

 シエディールが冒険の道中で書いた数多の手紙は、最初の一枚から最後の一枚までニィロウの白いドレッサーの引き出しに大切に保管されてある。それらの内容を編集して一冊に纏めた本があるのだが、常人には想像し得ない非日常な紀行と、それに対するシエディールの斬新な考察、所感が多くの人の目に留まり、稲妻の文学界にも大きな影響を与えたという。

 実際、シエディールがニィロウに宛てた手紙はもはや紀行文と言った方が正鵠を射ていた。冒険のさなかでの新たな発見や現地人とのやり取りを極めて写実的に記しながら、それに対する自己の内面への探求をロマン主義的に記している。いかに彼が冒険の中での発見や感動をニィロウに伝えたがっていたかが文章に現れていた。

 肩凝りが酷いなど、そんなありふれたことは書くに値しなかったのである。

 

「もしかして、手紙に書いてないだけで他にもたくさん大変な目にあってたり……」

「そうだなぁ。ファデュイに2週間監禁されたり、マレショーセ・ファントムの追跡から逃れるために崖から飛び降りて死にかけたりしたのは書いてなかったと思う」

「なにやってるの!? まさか冒険とか言って悪いことしてたわけじゃないよね!?」

「いや別にそんなことは……あいっ、いたっ、そこっ、いたい!」

「もうっ、もうっ。危ないことはっしないでって、何度もっ言ったのにっ!」

 

 だいぶ解れてきた中で、未だに固くコリコリする部分をリズミカルに体重を乗せて指圧するニィロウ。親指を押し込むたび、枕に顔を埋めたシエディールの口から痛みに悶絶する声が漏れる。

 

「ごめん、ほんとごめん! でも、そうでもしないと冒険がああああっ!」

「貴方にとっての冒険は警察から逃げるために崖から身投げすることなの!?」

「いやだってしょうがないだろ! 狩猟禁止区域なんて知らなかったんだから!」

「このっ、シエルのっ、ばかっ! おたんこなすっ!」

「やっ、もうやめてくれえっ!」

 

 ニィロウは力任せにシエディールの筋肉を押し潰す。もはやマッサージとは名ばかりの拷問に挿げ替わっていた。普段は一切取り乱すことのないシエディールが指先一つでここまで悶え苦しむという事実がニィロウにとっては新鮮であり面白く、結局彼女が満足する頃には、つま先から首に至るまでの全身マッサージを終えていた。

 

「ふう……つ、つかれたあ……」

 

 ニィロウは寝巻の襟をぱたぱたと動かして汗ばむ体に空気を送り込んだ。窓から流れてくる夜風が彼女の火照った体を僅かに冷やす。シエディールは途中から痛みに慣れたのか、あるいは苦痛よりも快楽が上回ったのか、図体にしては静かな寝息を立てて睡眠に入っていた。

 

「よいしょっと」

 

 うつ伏せにしていたシエディールの体を仰向けに転がす。どうやら深い眠りについているようで、目を覚ます気配は少しもない。試しに頬を両手で引っ張ってみても、額を軽くペチペチ叩いてみても、彼は規則的に肩を上下させるだけでこれといった反応は寄越さなかった。

 

「……シエル」

 

 ニィロウは瞼を縦断する大きな刀傷を人差し指でなぞった。

 シエディールはニィロウと同棲を始めた頃、この傷を稲妻の野伏にやられたものだと説明した。もともと体の至る所に傷跡が残っていたのもあり、その時は彼の大した傷ではないという言葉を信じて深く追及することはなかった。

 

 しかし、崖から飛び降りて死にかけた、というのはさしものニィロウとて看過できるものではない。それも理由が警察に追われてというものであるから猶更だ。

 

(マレショーセ・ファントムはフォンテーヌだから、確か……あの時期かな)

 

 ニィロウは記憶している手紙の内容をひとつひとつ想起し、そういえば、とフォンテーヌ滞在中に手紙の返事が全く来ない時期があったのを思い出した。飛び降りたのは恐らくそこだ。

 その前後で彼はいったい何をしていたのだろう。

 警察から逃げてまで、何かしたいことがあったのだろうか。

 ニィロウは頭を巡らした。

 

 答えは手紙の中にある。

 眠気で霞がかる思考を必死に動かす。

 遠く梟の鳴き声が耳に入り、いい加減眠気が限界に達したころ、ニィロウは遂に思い至った。

 

(……そっか。シエルは、ただ冒険がしたかっただけなんだ)

 

 特別な理由などない。

 崖から飛び降りる前後の手紙も、ただいつも通りの紀行が克明に記されているだけだった。シエディールは、ただ冒険が終わるかもしれないという可能性から逃れるためだけに決死の覚悟で身投げをしたのだ。

 

 それはもはや狂気の沙汰だった。

 シエディールの目に映る世界は、きっと常人には理解できない。生存と繁栄を第一とする生物の基本法則から歪み外れている。彼は静かな狂人だった。

 しかし、ニィロウにはその狂おしいほどの冒険への渇望にどこか心当たりがあった。

 

 ――舞踊。

 

 幼き頃に踊りを知り、以降これまでの生涯における半分以上を舞踊に捧げてきた。その姿は、傷だらけ血まみれになってなお、テイワットの大地にて孤独の行軍を行っていたシエディールと同じなのではないか。

 だからこそ――あの日、彼のゴツゴツした大きな手が、医療ベッドで横になったニィロウの傷一つない小さな手を包み込んだ時、彼女は安堵を得るどころか、むしろ暗闇に投げ出されるような漠然とした不安感に襲われたのだった。

 その時は、唐突に自身を襲った不安の種を見つけることは叶わなかったが、今のニィロウにははっきりと理解できる。

 

 もしこのまま快復してズバイルシアターの踊り子に復帰出来たら、シエディールは再び冒険に出るに違いない。当時のニィロウはそれを無意識的に察していたのだ。

 

 しかし、不安の原因はそれだけではない。

 ニィロウにとって、忘れがたい一文がいつかの手紙に記されてあった。

 

『先の未来はさっぱり分からないが、私が冒険の中で死を迎えることは間違いないと断言できる』

 

 それを初めて目にしたときは奈落の底を覗いたような心地に陥った。今でも当時の状況を昨日のことのように諳んじられるほど、ニィロウの記憶に鮮烈に刻まれた一文だ。シエディールは、衰弱しきった体が最後の一息を吐くまで冒険を続けるつもりなのだ。意気込みを言うだけなら誰でもできるが、生憎彼にはそれをやってのけるほどの知識と技量、何より勇気があった。

 

 つまりそれは――ニィロウの快復と共に彼がスメールシティを発った場合、それが今生の別れになる可能性が限りなく高いことを意味する。それだけは何が何でも受け入れられなかった。

 幼い頃から、ニィロウはシエディールに並々ならない恋慕を抱いていた。欲を言うなら冒険者になどなってほしくなかったし、隣で自分だけを見ていてほしいというのが彼女の本心だった。それでも彼の旅立ちを見送ったのは、偏に嫌われることを恐れたからだ。

 

 しかし、あの時にその頸木は外れた。

 シエディールは帰ってこない。彼の冒険への渇望を前に、自分の存在はあまりに小さすぎる。

 

 ――ならば、彼から冒険を奪ってしまえばいい。

 

 両脚に深い傷を負ったのは偶然だった。

 完治した後でも歩行が困難になるような後遺症が遺ったのも、全くの偶然。

 シアターの人々はみな彼女の悲劇を嘆いたが――当の本人は、それが暗雲より垂れ落ちた一本の蜘蛛の糸のように思えてならなかった。

 

 それは祝福(のろい)である。

 

 シエディールを戒め、縛り付ける鎖。

 暗い悦びに満ちたそれを、ニィロウは手に取った。

 

「……ふふ」

 

 ふと微笑みが零れる。

 ニィロウはベッドの上に座り込み、包帯が巻かれた自身の足をそっと撫でた。

 鈍い痛みが触れた部分からじんわりと広がっていく。その苦痛に額に脂汗が浮かぶも、ニィロウは構わず撫で続ける。そうするたびに、彼女の心は温かくなる。

 

(この傷は、私にシエルとの時間をくれた……終わらない、永遠の夢を……)

 

 そう思えばこそ、この痛みのなんと愛おしいことか。

 シエディールに補助されながら立ち上がり、杖を突いて歩き、包帯を巻き直す。そのたびに訪れる苦痛が、これからの終わりなき幸福を保証する。

 

「だいすきだよ、シエル」

 

 瞼の傷跡に口づけを落とす。

 

「あいしてる」

 

 何度も、何度も。

 

 ――わたしは踊りを捨てた。

 ――だから、貴方も冒険を捨てて。

 

「……おやすみ、シエル」

 

 ――わたしから離れないで。




純粋な女の子が愛のために濁るのすきです。
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