原神短編置き場   作:やあああああ

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一炊の夢 [煙緋]

 煙緋は璃月の法律家である。

 その手腕は見事なもので、『調停の場に煙緋あり』と商人の間では専らの評判である。仙人と人間の間に生まれた半仙という身分でありながら、その特殊性ではなく法律家として世間に名を挙げていることが何よりの証拠だろう。

 

 博学埼栄、そして何より見目麗しい煙緋は璃月の有名人であり、殊更に契約を重んじるこの国では正しく模範と言えよう。しかし彼女自身はその能力を驕ることなく、すべての人に公正かつ寛容に接している。そんな性分であるから、璃月で煙緋を嫌うものは詐欺師を除いて殆どいない。そしてその人気は、煙緋法律事務所に舞い込む依頼の数に比例する。

 

 日々山積みの依頼をこなすために東奔西走駆け回る煙緋所長だが、決まって週末の日暮れには事務所を閉じた後に璃月港の外れにある小さな家へ訪れる。その家には一人の男が住んでいる。とはいえ男が帰宅するのは週に一度だけであり、その一日が煙緋の訪れる週末だった。

 

「永寧、いるか」

 

 扉を開けて一言声をかけると、中から男──永寧が振り返りもせずに返事をした。

 彼は床に腰を下ろして机に向かい筆を走らせていた。煙緋はその背中を見て「仕事熱心だな」と呟き、靴を脱ぎ家に上がると、腕を枕に横になって勝手知ったる我が家の如く寛ぎ始めた。

 

「いつまでかかる?」

「1時間もかかりません」

「そうか」

 

 二人は言葉少なに会話を済ませて、それきり口を閉ざした。

 永寧は自分の作業を続け、煙緋はただ黙って時が過ぎるのを待つ。

 筆が紙の上を這う音が横になった煙緋の耳を撫でる。突き出し窓の開いた隙間から、遠く梟の鳴く声がする。天衡山から吹き下ろす夜風が心地よい。煙緋は大きく欠伸をした。

 

「眠いなら寝てしまっても構わないのですよ」

「……背中に目でもついているのかい?」

「いえ。ただ、今日のような夜は深い眠りに落ちるためにあるのだろうと、ふと思ったので」

 

 永寧としては気を利かせた言葉のつもりだったが、煙緋は不機嫌そうな表情をして言い返した。

 

「たとえそうだとしても、お前といられる時間を棒に振りたくない」

「……」

 

 それは、二人の時間に仕事を持ち込んだ私を言外に非難しているのでは、と永寧は感じた。

 彼としても、この時間に仕事などしたくなかったし、煙緋と一緒に居られる少ない時間を目いっぱい満喫したかった。それにしても放っておけるほど重要性の低い仕事ではなかったし、何より彼の責任感がそれを許さない。

 

 とはいえ、これを伝えると、更に機嫌を悪くした煙緋が、極めて反論しづらい強力な主張を猛然と繰り出してくるだろうことはわかっていた。

 反論したとてそれが決定打になることは少なく、議論が平行線を辿り、議題が二転三転し、挙句の果てには口論に転じ、収拾がつかないまま夜明けを迎える、というのが常であった。

 

 つまり今の自分にできるのは黙ること。

 そのまま黙々と机に向かい続ける永寧に、その背中を眺めていた煙緋は痺れを切らして起き上がり、膝立ちのまま彼の元へにじり寄った。

 

「さっきからいったい何を書いてるんだ?」

「今日あった裁判の記録を書き直しています。書記官が池に落として駄目にしてしまったので」

「それはお前がやるべきことなのか?」

「本来はその書記官が負うべき仕事でしょうが、親が危篤らしく」

「ぜったい嘘だろう、それ」

 

 煙緋は思わずため息を吐いた。

 まったく永寧は昔からお人好しが過ぎる。こんなことでは、体よく面倒な仕事を押し付けられるばかりで、いつか過労死してしまうやもしれない。何度そう言っても頑としてその姿勢を崩さないのだから筋金入りだ。

 

「変わらないな、お前は」

「昔話は老いの始まりですよ」

「やかましい。本当にお前というやつは……昔から師に対する礼儀がなってない」

 

 煙緋と永寧が出会ったのは、彼がまだ学び舎に通う子供だった頃である。

 法律の専門家として教鞭を執ることになった煙緋が最初に受け持った生徒が永寧だった。

 彼は記憶力に優れた人間で、当時は詩集の隅から隅までを一文も違わず諳んじられる変人として知られていた。

 

 膨大な数が存在する法律に携わる法律家にとって、記憶力は生命線と言える。

 永寧の特異な体質に興味を持った煙緋は、試しに個別で法律の手解きをしてやることにした。

 すると、彼の法律家としての才能が頭角を現し、卒業する頃には当時の天権から会食に誘われるほどの鬼才に化けたのだった。

 

 永寧の成功は、彼の努力と才能の賜物であることは言うまでもないが、煙緋の指導がなければ実現しなかっただろう。彼女の鋭い洞察力と教え方の巧みさが、彼の潜在能力を引き出したのだ。彼らの師弟関係は、単なる教育者と生徒の枠を超え、深い信頼と尊敬に基づくものとなっていた。

 

 しかし、ある日、そんな強固な師弟関係を根底から揺るがし兼ねない事件が起きた。

 

「天権の推薦で判官になったのを私に内緒にしてたこと、忘れてないからな」

「いや、それは多忙で貴方と会う機会が取れなかったからで……」

「だったら文でも寄越せばよかっただろう。まずは師に報せるのが礼儀というものだろうに」

 

 まったく、師に対するなんという不義だ、と煙緋は言い捨てた。

 煙緋が磨き上げた永寧の才は天権の目に留まり、卒業して早々に判官として採用されることになったのだ。彼としては自身の快挙を何よりも師に伝えたかったが、天権のお気に入りということで、重鎮との顔合わせや挨拶回りなどで文を書く暇もなく、為す術もないまま煙緋の耳に事の次第が入ってしまった。

 

 あれはとても長い夜だった、と永寧は当時を回顧した。

 にっこりと微笑んだまま、真綿で首を絞めるような論調で自身を叱責する煙緋。腰に提げられた炎元素の神の目が暗闇の中でぎらぎらと激しく発光し、そこから伝播した熱が空気を伝って肌を少しずつ焼いていく感覚。先ほどちらりと視線をやった時と殆ど位置が変わっていない月──。

 

「はぁ……」

 

 単に過去を追憶していただけにも関わらず、永寧の額には僅かに汗が滲んでいた。

 

「疲れたのなら少し休んではどうだ。茶くらいなら入れてやる」

「いえ、あと少しで終わるので」

「永寧」

「……わかりました」

 

 筆を置いて伸びをしたのを、煙緋は満足げに頷いて立ち上がり、窯で湯を沸かし始める。わざわざ火を工面する必要がないので、こういう時に神の目は役立つ。パチパチと薪が爆ぜる音を聞き流しながら、永寧はちゃぶ台に向かいぼうっと天井を眺めていた。

 

「なにか悩み事でもあるのか」

「大したことじゃないです」

「いいから話してみろ。悩みというのは種のうちに取り除いておくべきだ」

 

 いつのまにか対面に腰を下ろしていた煙緋の真剣な眼差しに、永寧は観念したようにゆっくりと話し始めた。

 

「仕事柄、犯罪者と接する機会が多いのです。窃盗、詐欺、殺人、横領……その罪状は多岐に渡ります。なかには情状を酌んでやるべき事案もあるのですが、そうでない場合の方が圧倒的に多い」

 

 特に永寧はその優秀さから上からの期待が厚く、早いうちにたくさん経験を積ませようと、あれこれ色々な裁判に引っ張りだこの状態である。つまり多くの事件を担当することになり、それだけ被害者の慨嘆や慟哭、また加害者の卑劣さや身勝手さを目の当たりにしてきた。

 

「仕方ないことではあるのですが、そういうのを多く見ると、なかなかに堪えます」

「人が嫌いになりそうか?」

「……少しだけ」

 

 永寧は深い溜息を吐いて、そのまま体を後ろに倒した。

 自ら選んだ道とはいえ、こうも心に負荷がかかるとは思わなかった。彼は天井を見上げながら、胸の内に渦巻く思いに心を痛めていた。

 湯が湧き、煙緋は急須にお湯と茶葉を入れて暫く待ち、二人分の湯呑に注いでちゃぶ台の上にことりと置いた。永寧は半身を起き上がらせ、湯気が立ち昇るのを無心で眺める。

 

 煙緋は茶を啜ると、ほっと一息ついて口を開いた。

 

「人の心の奥底を目の当たりにするのは、時に辛いものだ。お前がそう感じるのも無理はない」

 

 永寧は静かに頷きながら湯呑を手に取り、一口飲んでみた。温かい液体が喉を通り過ぎると、少しだけ心が落ち着いた。

 

「だが、そればかりが人の本質というわけではない」

 

 永寧はその言葉に耳を傾けながら、もう一口茶を飲んだ。煙緋の言葉には、彼が忘れかけていた人間の温かさが込められていたような気がした。

 

「人は誰しも心に醜さを飼いながら、同時に希望や優しさを持っている。醜さばかりを見るのではなく、時には人の優しさに触れるのも大切なことだ」

 

 煙緋の言葉に永寧は頷きながら、少し表情を緩めて言った。

 

「ありがとうございます、先生。貴方とこうして話しているだけで、何やら人の温かみというのを思い出したような気がします」

「……お前は疲れているんだ。少し休んだ方がいい」

「そうしたいのは山々なのですがね……」

 

 永寧は苦笑しながら、湯呑を手に取ってまた一口飲んだ。

 彼の脳裏に浮かぶのは、やたらキラキラした目で自身を見つめる上司たちの姿。どんなに鈍感な人が見ても"期待されている"と一目でわかる。

 彼は人からの期待を裏切ってしまうことを恐れる人間だった。

 

 その旨を包み隠さず話すと、煙緋は呆れたような表情をして言った。

 

「その性格は知っていたが、まさかここまでとは思わなかった。そんなことでは、いつか倒れて終いには死んでしまうぞ」

「そう、ですね」

 

 それでもなお煮え切らない態度の永寧に、煙緋は思わず天井を仰いだ。

 

「まったく……仕方のないやつだ。本当にお前は、一人では何もできないのだな」

 

 咎めるように言う煙緋だが、その表情は僅かに緩んでいて、どこか嬉しそうだった。

 

「ほら、おいで」

 

 ちゃぶ台から離れた位置に座り直し、手招きする煙緋に、永寧は目をぱちくりさせて困惑する。

 煙緋は何も言わずに微笑むばかりで、自分に何を求めているのか皆目見当がつかない。ともかく言われた通りに彼女の元へ近づくと、煙緋は永寧の肩に手を添えて、ゆっくりと体を仰向けに倒させ、頭を自分の膝の上に載せた。

 

「なにを……」

「懐かしいな。昔、耳を痒そうにしていたお前をこうして寝かせて、耳搔きをしてやったんだ。覚えてるか?」

「……まあ、はい」

「なんだ、恥ずかしいのか?」

 

 煙緋の言葉に、永寧は耳を赤くして黙り込んだ。

 そのあからさまな反応に、煙緋は思わず噴き出した。

 

「私はもう子供じゃないんです」

「はは、そうだな。お前みたいなのが子供だと、おしめを換えるだけで重労働だ」

「そういう意味じゃなくてですね──」

「わかってるよ。お前はもう立派な大人だ。……本当に、いつの間にか、こんなに大きくなった」

 

 煙緋は彼の腕を持ち上げて、ごつごつした手の甲に自らの掌を這わせた。

 学び舎に居た頃は、もっと滑らかな手触りで、大きさも自分と同じくらいだった。隣を歩く彼に振り向けば、すぐそこに顔があったのに、今では見上げるようになってしまった。

 

「いつか肌は萎れ肉は落ち、この角ばった力強い掌も、筆さえ取れないほどに衰える時が来る」

 

 その時私は、死にゆくお前を、今と変わらない姿で、今のようにそっと見守るのだろう。

 ぽつりと、寂しそうに小さく呟いた。

 

「……私が老人になっても、子供扱いですか」

「はは、当然だ。だってお前は私の弟子だろう?」

 

 煙緋は掌を、今度は永寧の頭の上に置いた。

 さらさら、さらさらと、今宵に吹く春風のように優しく撫でる。

 

「私はいつまでも、お前の師であり続けたいんだ」

 

 どれだけ大きく立派に成長しても、心の中にはあの頃の永寧がいる。賢いけれど、手のかかる生意気な子供。見栄を張って一人で思い悩み、最後には結局私のところへ泣きついてくる、どうしようもない弟子。

 

 あの頃と何も変わらない。

 今も昔も、永寧は永寧のままだ。

 それが煙緋にとって、どれほど嬉しく、愛おしいことか。

 

「先生……」

 

 永寧は少し照れくさそうに微笑んだ。

 彼の瞳には、敬愛してやまない師の姿が浮かんでいた。

 

「どれだけ歳を重ねても、貴方はずっと私の師です。また、こうして頼ってもいいですか」

「もちろんだ。それこそが、師である私の務め(のぞみ)なのだからな」

 

 煙緋は微笑みながら、永寧の頭を撫で続けた。

 師であり続けること、そして師と仰ぎ続けること。それは一方的な所有ではなく、二人の間に切れることのない糸が繋がっているようなものだ。その糸は時間や空間、そして生と死の境界さえも超越する。永寧が深い眠りに就いた時、煙緋は、彼と自分を繋いでいた糸が、今度は己の心に続いているのに気づくだろう。

 

 そして、煙緋はとこしえに永寧の師であり続けるのだ。

 

「ん、眠いのか」

「はい……」

「なら、お前が眠るまでこうしていよう」

 

 小さく欠伸をした永寧に、煙緋は掌で彼の目を覆った。

 

「おやすみ、永寧。私の可愛い弟子」

 

 今はただ、私の傍で眠っておくれ。

 矢の如く過ぎ去る月日に、お前が生きたしるし(・・・)を残すため。

 私を待つあてどない膨大な時間が、お前を漱いでしまわないために。

 

 お前を私に刻んでくれ。




煙緋の場合は男女の愛よりも師弟愛の方が個人的にしっくりきます。
それはそれとして「おまえらさっさと結婚しろ」と書いてて思いましたが。
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