オレハマッテルゼの小さい頃の話。
「もしも競走馬のオレハマッテルゼ/エガオヲミセテがウマ娘だったら」という空想のもと書かせていただいています。
オレハマッテルゼの名馬の肖像にインスパイアされました。
概ね史実準拠となりますが、火災がトレセン学園入学前に起こる、姉が死なないなど、ご都合主義に則ってだいぶ改変しています。
死ネタ等はございませんが、ウマ娘にとって残酷な状態が発生するため、残酷な描写タグをつけております。
書きたいシーンの書きなぐりです。空気感を感じ取っていただけますと幸いです。
⚠️メインは元ネタありのオリジナルウマ娘/オリジナルキャラクターにつき、苦手な方はご注意ください。
⚠️デリケートな題材なため、問題が発生した/発生しそうな空気感を察知した場合、予告無く削除させていただく可能性がございます
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姉(エガオヲミセテ)と妹(オレハマッテルゼ)の年齢差は史実準拠と見せかけた適当です。適当が偶然史実通りでした。
オレには、姉ちゃんがいる。
オレと同じウマ娘で、片手で足りるけれど少し歳が離れていて、同じ栗毛……のはずなのに、なぜかキンキンの金髪のオレとも、周りの栗毛のウマ娘とも少し変わった、チョコレートみたいな不思議な色の――トチクリゲ? っていうらしい――髪と尻尾を持った姉ちゃんがいる。
姉ちゃんはいつでも、誰にでも優しくて、面倒見が良くて、だからいつもみんなの輪の中心にいて。彼女がふと笑うたび、つられて周りも笑顔になるような、そんな『笑顔』がチャームポイントの自慢の姉ちゃんが、オレにはいる。
嘘みたいな本当の話。姉ちゃんの『笑顔』の力はそれはもう強力で、言葉じゃ表しきれない。姉ちゃんがひとたび笑顔を見せると、まるで魔法か超能力のように見た人みんなに伝播して、嬉しそうな、幸せそうな、はたまたホッとしたような表情で笑顔になる。これを嘘だとか話盛りすぎとか言ってくるヤツらだって、一度見たら本当だって絶対にわかってくれる。
もちろん、オレだって例に漏れない。姉ちゃんの笑った顔を見ると、胸がポカポカして幸せな気分でいっぱいになる。だからずっと見ていたくて、小さい頃はどこへ行くにも何をするにも常にべったりとくっついて回っていたくらい。姉ちゃんの「も~……」なんていう呆れたため息と苦笑いですら、嬉しくて笑顔が溢れてしまって仕方がなかった。
天は二物を与えない。姉ちゃんを見ていればわかる。それは嘘だ。
なぜなら、先の見る者全てを笑顔にする『天性の笑顔』に加え、姉ちゃんはレース教室でも早くに頭角を表していたから。子どもならではの荒削りな面はあったものの、その加速力とパワーにはきらりと光るものがあり、まだ開設されて間もないレース教室内でもコーチや他のウマ娘の注目、そして憧れの的になっていた。
コーチ達は「トレセン学園も夢じゃない」とか「君はきっと『トゥインクル・シリーズ』でも活躍できる」とか口々に姉ちゃんを褒めていた(そして実の妹であるオレは、自分が褒められているように嬉しかった)し、オレもコーチたちの言うように、姉ちゃんは当たり前にあのトレセン学園に入学して、『トゥインクル・シリーズ』で強いライバルたちと競い合って、勝つんだと。そうしたらウィナーズサークルでもっとキラキラの顔で笑って、もっとオレを、みんなを笑顔と幸せの渦に巻き込んでいくんだと、レース教室にまだ入れない年齢のちびっ子ウマ娘ながらに信じて疑っていなかった。
そしてオレも、あともう少し大きくなったらすぐにレース教室に入って、姉ちゃんみたいにいい成績を取って、その頃はもうトレセン学園にいるだろう姉ちゃんの背を追って、『トゥインクル・シリーズ』の道へ続いていくのだとも、また。
姉ちゃん、オレ、そして母さんで歩く、いつものレース教室からの帰り道。夕やけのオレンジ色の光に向かって住宅街を歩いていると、姉ちゃんが不意にダッシュして、くるっと振り返っては光を背負い、笑顔を見せる。母さんも、母さんと手を繋いだオレもつられるように笑顔が移って、また向き直って走っていく、夕日より眩しい瞳の姉ちゃんを走りたくなったオレが追いかけて。車に気をつけなさいねと呼びかける母さんの声に、二人ではーいと大きく手を振って返事をして、キラキラした幸せが一つ、また一つと生まれていく。
そうしてできた、変わりのない幸せな日々。その中心には必ず、楽しそうに走り、笑う姉ちゃんがいる。
オレはそんなキラキラを生み出す姉ちゃんが、姉ちゃんの笑顔が大好きだ。今でも好きで好きで大好きで、それはもう、言葉じゃ伝えきれないくらい、たまらなくて。
……本当に、大好きだったんだ。
◇
〝あの日〟は、なんの前触れもなくオレたちに襲いかかってきた。
冬、姉ちゃんの所属するレース教室と他のいくつかの教室合同で行われる、年に一度の特別合宿の期間中のこと。数日前から姉ちゃんはそれに参加していて留守だった。合宿だから当然練習はいつもより厳しいけれど、のどかで自然豊かな場所での静養やリフレッシュも兼ねていて、姉ちゃんを含む教室所属のウマ娘たちの毎年のお楽しみ行事でもあった。
引き止めも虚しく合宿へ向かってしまった姉ちゃんのいない、少しどころではない寂しさと、共用の子ども部屋の静けさに耐えられず、父さんと母さんの寝室で涙を堪えて眠りに就いた日。
深夜、静寂を切り裂くように、一本の電話が鳴り響いた。電話を取り、やがて終えた父さんが震えた声で伝えたその内容は、姉ちゃんたちの宿泊先の合宿所が火災に見舞われたという、あまりに信じ難い、信じたくない報せだった。
漏電を原因とする火災だった。みんなが寝静まった夜遅くの出来事で、発見された頃には火が回ってしまっていたらしく、スタッフや駆けつけた消防隊員たちが必死に合宿所にいたウマ娘たちを避難させ、消火・救護活動を行ったものの、結果として合宿所一棟が全焼する被害を受け、悲しいことに全てのウマ娘の命を救うことはできなかった。
肝心の姉ちゃんは、燃え盛る屋内に残って他のウマ娘を先に避難させようと働きかけていたらしく、遅れて助け出されたときには意識不明。一番聞きたくなかったけれど、医師からは心苦しそうな面持ちで「覚悟をしてください」という言葉まで下った。
その後、奇跡的に命は助かった。しかし、全身至るところの火傷に、灼熱の煙を吸ったことによる呼吸器の損傷、それに外傷後の感染症のリスクに、骨折。きちんと意識は戻るのか、全治にはどれだけかかるのかと両親が主治医に問うても、確定的なことは言えないと告げられる程の重傷を負っていた。
特に、焼けた鉄骨が脚に落ちたことによる重度の火傷、および骨折の程度が酷く、回復に時間を要するだろうという話がオレの頭をずっとループしていた。人よりも聞こえてしまうウマ娘の耳が、両親に向けての説明を遠くから聞き取ってしまったのだった。
「お姉ちゃんはすぐに元気になるよ」
面会時間の間じゅう、姉ちゃんの横たわるベッド脇に佇み続けるオレを気遣い、そんな言葉だけを与えて、それから頭を撫でて、あるいはそっと抱き締めて、大人たちはみんな、みんなオレに黙っていたけれど。
全身の火傷、呼吸器官の損傷、そして脚の骨折。
大きく分けて三つの怪我。それらが意味するのは、たった一つのひっくり返せない結論。誰に教えられずとも、まだ片手で数えられる年齢のオレにだって容易くわかってしまった。
――もう姉ちゃんは、走れない。
脚の折れたウマ娘の中には、他が無事であっても二度と目を覚まさない者もいると、どこかで耳にしたことがある。
姉ちゃんも、そうなっちゃうのかな。考えたくもないけれど、悪い方向へ考えが進んでしまって止められない。
暮れるのの早い冬の夕やけ。そこにあるはずのオレンジ色のキラキラは分厚い雲に遮られ、取って変わった重い瞑色がオレのまっさらで無力な手のひらと、包帯とチューブまみれの姉ちゃんの手、そして目の前の命を音や光で示す機械の影を色濃く染め上げていた。
◇
大怪我を負い、走れない身体になったあの火災の日から、姉ちゃんは変わった。――笑顔がなくなったのだ。
厳密にいえば笑う。頻度は減ったが、笑うには笑う。でも、それまでみたいな『見る者全員を笑顔にさせる笑顔』ではなくなった。まるで、硬直してしまった表情を無理に動かしているかのような、見ていて心がズキズキ、ズーンとするような笑顔。
トレセン学園入学は叶わなかった姉ちゃんの進学先の友達や先生のような、あの火災事故より後に知り合った人達にはきっと分からない些細な変化だ。けれど、それ以前から親交のあるレース教室の面々や、オレたち家族から見れば、姉ちゃんの笑顔は以前とはすっかり変わり果ててしまっていた。姉ちゃんが笑顔を見せても、以前のように周りのみんなに『笑顔』は伝播しない。きっとそれは姉ちゃんが一番身に染みて感じていることだろう。
――姉ちゃんがあの合宿のバスに乗るとき、泣き喚いてでも「一緒に居たい」「置いていかないで」と駄々こねて引き止めてれば、こんなことにはなんなかったのかな。
……いや、たらればを語ったって、『あの笑顔』の姉ちゃんはもう帰ってこない。あの火災であれだけの怪我を負っても生きててくれたんだ。もう充分だろ。
それに、姉ちゃんは合宿を楽しみにしてたこともオレは知ってたんだから、引き止めたって良いことなんてなかったはず。
……でも、だけどさ、姉ちゃん――
「マッちゃん?」
鈴のように愛らしい、よく聞き慣れた声が、オレの愛称を呼んだ。
……ああ、姉ちゃんだ。通院から帰ってきたらしい。包帯やガーゼにテープまみれの全身と、車椅子だから高さを合わせてもらわずとも勝手に合ってしまう目線に、胸がちくんと痛む。
「……あれ、どうしたの? お顔まっくらだよ。おやつも食べてないじゃない。お留守番寂しかった?」
姉ちゃんは、テーブルの上にそのままになっている今日のおやつのチョコレートを見遣ってから、車椅子の上からグイッとオレに精一杯手を伸ばす。なんとか届いた指先で頭を撫でながら、気遣わしげに笑顔を見せてくれる。けれどその笑顔を見ても、オレは笑顔にはなれなかった。それを知ってか、お揃いの緑に白い丸模様の耳カバーがシュンとほんの少し下がるのが見えた。それでも姉ちゃんは作った微笑みを崩さず、痛々しい火傷痕の覗くガーゼとテープと絆創膏まみれの指でオレの金色の前髪を一生懸命撫ぜるけれど、やはりその笑顔には、今までには微塵もなかった仄暗い影がすっかり溶け込んで馴染んでいた。
今だってそう。ずっと無理しているくせに、無理だというそぶりを誰にも、ひとときたりとも見せずに笑顔になろうとする姉ちゃんを見る度に、ああ、というため息と、刺すような胸の痛みとともにオレは思うのだった。
「あの火災で、『姉ちゃんの笑顔』は焼け死んだんだ」と。
◇
ウマ娘として走ることが叶わなくなった身体でも、最新の医療とは、若者の回復力とは、そしてオレの姉ちゃんとは、すごいなんて言葉じゃ表しきれないほどに目覚しいものだった。姉ちゃんは、元来のがんばり屋な性格も相まり、「ずっとこのままなんて嫌だから」とリハビリに懸命に取り組んで、寝たきりから車椅子、車椅子から歩行器、歩行器から松葉杖、松葉杖から一般的な杖へとゆっくりではあるもののステップアップを重ね、身だしなみを整えること、歩くこと、簡単な家事などの身の回りのことがだんだんと一人でできるようになり、ついには学校へ通学できるほどにまで回復を遂げた。その回復の早さには主治医の先生もリハビリの先生も揃ってびっくりして、そして口々に褒めていた。オレだったらきっと、強すぎる痛みや走れないことへの理不尽さに自暴自棄になって、リハビリどころじゃなかっただろう。姉ちゃんは、こんなところですらも強かった。
そんな、姉ちゃんがリハビリに励む日々の中で、肝心のオレはというと、姉ちゃんの所属していたレース教室の対象年齢に達したので念願叶って入会した。……のはいいものの、『姉ちゃん』という追っていた背中を失ったこともあり、早く入りたい! 走りたい! と見学席で親やコーチにせがんでいたあの頃のやる気と期待と興奮はどこへやら。「あの火災で誰よりもショックを受けているのはマッちゃんなのかもしれないね」と囁かれてしまう程度には空虚な気分のまま、なんとなく通うだけになってしまっていた。
それと、オレが思っていたよりもレース教室は――ウマ娘レースの世界の入口は厳しかった。オレがどれだけ全力で走っても、周りにはオレより速くて闘争心に溢れたウマ娘ばかりで、走れば走るほど、このバ群から頭一つ抜けて先頭でゴールを駆け抜ける姉ちゃんがどれほど凄かったのか、強かったのかを思い知らされるばかりだ。
加えてその頃から、毎晩のように悪夢を見るようになった。
夕やけのオレンジ色の中、負けないくらいに眩いキラキラを――幸せを周囲に振りまきながら、あの笑顔を見せて姉ちゃんがビュンと走り抜けていく夢。そしてすぐに、姉ちゃんに続くなんて軽く豪語していた昔の自分が、キラキラと幸せな笑顔でその背中を追いかけていく。
ぴょこぴょこと跳ねる緑と白のお揃いの耳カバー。上機嫌に揺れるチョコレートとブロンドの二つの尻尾。少し身長差のある二人のウマ娘。きゃらきゃらと楽しそうな笑い声。
オレがハッと気づいた頃には二人の背中はもう遠く、待って、行くなと叫んで追って縋っても、いとも簡単に手の中をすり抜けていく。
そうこうしているうちに辺りを輝かせていたオレンジ色は瞑色に変わり、オレの背中に覆いかぶさる。
「今はどうだ。もう見えないじゃないか。続けないじゃないか」
いびつな音で囁く声が聞こえる。目の前に広がるものは――『現実』は強くて正しくて、無力なオレはいつも、膝を折って首を縦に振るしかできない。
悔しい、もどかしい。やるせない。どうして。いくらそう思えども、変えられないのが『現実』なのだ。今となっては反転した『夢』が、毎夜示し続ける通り。
レース教室にいることや、その先の『トゥインクル・シリーズ』を目指すことに嫌気すら差し始めた頃のこと。
〝その日〟は――オレの転機は姉ちゃんの〝あの日〟のように、なんの前触れもなく訪れた。
◇
〝その日〟の昼下がり。レース教室から帰ると、テレビに『トゥインクル・シリーズ』のレース中継が流れていた。ダイニングチェアに座ってリモコンを握りしめ、いつもより音量を少し上げてテレビに向かっているのは……やっぱり姉ちゃんだ。
走れていた頃も走れなくなった今現在も毎週欠かさずリアルタイムで観ているそれを、オレも冷蔵庫から取り出した牛乳を飲みつつ、無意識にほんの少し虫の居所を悪くしながら、ぼうっと眺める。
GI・高松宮記念。中京レース場、芝一二〇〇。快速自慢の集う、春のスプリント王決定戦。
短距離戦、それはまさに電撃のごときレース。速さこそ至上、速さこそ正義の、スピードとスピードのぶつかり合い。ほんの一瞬よそ見をすれば、目を向け直す次の瞬間には既に勝者が決まっている。オレだって一応はレース教室に通うウマ娘だ、〝そういうレース〟だということくらい、よくわかっていた。
〝そういうレース〟の火蓋が切られたその最中で、バカなオレはよそ見をして、そしてその先で見つけてしまった。
テレビに釘付けになっている姉ちゃんの脚が、今すぐにでも走り出しそうなくらいに踏み込まれて、揺れているのを。
こぼれそうなほど大きく見開かれた瞳に、失われた『あの笑顔』にあったような、キラキラした輝きがあるのを。
――本能なんだ。幸福なんだ。ウマ娘にとって、あのスピードで走ることは。
脳みそではない部分――直感、なんてやつだろうか――がそうオレに囁いた途端、ぐらぐらと身体中から熱みたいなものが湧き上がってきた。冷たい牛乳を飲み干しても、熱は冷めることを知らない。たまらずシンクにグラスをそのまま置き去りにして、リビングから玄関へと走って家を飛び出す。
あのレースの勝者なんて知らない。確定ランプが点灯するまであの場に留まるなんて、とてもできなかった。
いつかと同じような、まだ暮れるのの早い冬の夕やけに向かって、衝動のまま全力で駆け出す。靴もまともに履かず突っかけただけだから、当然ろくな速度は出ない。でも、それすら気にしていられないほど急激に湧き上がる熱に抗うことなく、溜まったフラストレーションを爆発させるかのように叫びながら、冷たく乾いた空気も近所迷惑も構わず、無我夢中で走る。
息が上がって、喉が渇いて、飲み込もうとした唾が気管に入りかけてゲホゲホむせて。そもそも練習後だったことも忘れ全力で走ったせいでくたくたになった脚がついに動かなくなって、生まれたての子鹿のようにぷるぷると震えだして、立つのも精一杯になる。それでもまだ「走りたい」という熱は収まらなくて、むしろヒートアップするばかりだ。
あのレースを観ていた姉ちゃんの、走り出すように踏み込んで揺れる脚が、『あの笑顔』があった頃のような瞳キラキラが、どうにも頭にこびりついて離れない。けれど、今のこの何の計画性もない駄々っ走りをしている間、『走れない姉ちゃんの代わりに走っている』だなんてことは微塵も思わなかった。正真正銘、オレによるオレ自身のための走り。
今も昔も、走ることへの全てのきっかけは確かに姉ちゃんだったかもしれない。でも結局ずっと走っていたのは、走りたいと思っていたのは『姉ちゃん』じゃなくて、『オレ』で――
落ち着かない思考と息をよそに、夕やけは薄い雲に隠されたり現れたりして淡い金色から赤みを増していく。乾いているのか潤んでいるのかよく分からずに霞む眼を擦りながら顔を上げたのと、雲間から瞬間的にこぼれた濃いオレンジの光が俺の瞳を鋭く貫いたのは同時だった。
うわ。キラキラ、だなぁ。まぶしい、なぁ。
……姉ちゃんの笑顔、みたい。
無意識にそう思ったとき、ハッとする。
――確かに、『姉ちゃん』という追っていた背中は失ってしまった。でも、追っていた背中を失ったら、そこにたどり着くまで続いているはずの道は、それでなくなるものなのか?
その『追っていた背中』が走って行こうとしていた先の道は、それでなくなるものなのか?
「……ぅ、ちがう、違うっ!!」
声を上げた瞬間、ハレーションのように視界が明るく開ける。単に夕やけに向かって目を見開いたからという理由だけではない。
「姉ちゃんの背中はもう追えないから、自分の走る道もなくなった」? ……いいや、そんなの、とんでもない勘違いだ。
「姉ちゃんの背中はもう追えないから、自分の走る理由もなくなった」? ……いいや違う、オレはオレが「走りたい」と思った。
そこまで思い至ったところで、ふと『それ』は脳裏を過ぎった。
――オレが走って、『トゥインクル・シリーズ』のレースに出て、強いライバルと競って、勝ったら。
さっきのキラキラの瞳を、大好きだった『あの笑顔』の欠片を、もっとたくさん見ることができるなら。――姉ちゃんを、もっと喜ばせることができるなら。
それならオレは、なおさら走りたい。それがオレの、オレだけの走る理由だ。
……ああ、なんだ、そういうことだったのか。
あんなに明るかった夕やけはいつしか向こう側に沈み、次第に辺りに深く暗い瞑色に取って代わって辺りに満ち溢れていく。けれどオレはもう、その色に怯えることも、囚われることもなかった。
意気込みを新たに勇んで帰宅したものの、姉ちゃんはレース中継を観ていたら突然家を飛び出していってしまったオレに驚き、心配して近所を探して回っていたらしく、玄関を開けた瞬間抱きしめられて泣かれてしまった。そして母さんには牛乳を飲んでシンクにそのまま置きっぱなしにしたグラスの件と一緒に叱られてしまった。
挙句には、爆走してかいた汗を凍て風が冷やしたせいか、翌日盛大に風邪をひき、姉ちゃんを喜ばせるどころかさらに心配させてしまった、小っ恥ずかしい話もありながら。
苦しくて、痛くて、寂しくて、何よりもあたたかい。これこそがオレの――オレハマッテルゼの『トゥインクル・シリーズ』への挑戦の始まりだった。