#8
正月シーズンが終わりを告げ、相変わらず寒い風が吹き荒ぶ中、都内某所の古びたマンションの一室の前にウォームウェアを着込んだグレンは立っていた。
ドア横のチャイムを押す。
音が鳴らない。
壊れてるのかと思い、念のためドアも叩く。
「すいませーん」
反応はない。
(留守かな?)
ドアの上部正面に設けられた覗き穴から中を覗き込んだが、ドアの向こうは真っ暗で何も見えなかった。
「ごめんくださーい!」
やはり反応はない。
腕を組んでしばらく思案する。
これで出てこなかったら今日のところは諦めよう。
「N◯Kの者じゃないんですけどー!!」
沈黙。
「ダメか」
ため息をついて踵を返そうとした瞬間、
ドアノブの回る音がした。
「ウーマーイーツも頼んだ覚えはないけど……」
などと言いながら僅かに開いたドアの隙間から1人の男が顔を覗かせた。
風が吹くたびにボサボサの髪が揺れた。
「急にすいません、俺グレンという者なんですが」
無精髭を眺めながら挨拶をする。
「阿笠さんですか?」
男は眉を顰めた。
「そうだけど。僕に何の用かな」
「単刀直入に言いますと俺に走りを教えてください」
「……はぁ?」
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時は少し遡る。
「阿笠?」
「そう」
グレンの鸚鵡返しに頷いたのは朝ごはんの味噌汁を啜るマスターである。
「元トレーナーの男でね。アイツならグレンちゃんの走りをウマ娘の走り方に治せるかもしれないわ」
「マスター、トレーナーの知り合いなんていたのか?」
ドンさんの皿にカリカリを盛っていたベリーが話に加わってきた。
グレンよりもマスターとの付き合いが長いはずのベリー。その彼女でも知らないマスターの知り合いである阿笠とは一体何者なのか。
「昔いろいろとね」
だがマスターは肩をすくめるだけでそれ以上の言及はしなかった。
何やら意味深な雰囲気を醸し出しながらマスターはグレンに一枚のメモを手渡した。
「これ阿笠の住所。今日行ってきなさいな」
「え?でも店の手伝いとか……」
「そんなのベリーちゃんと2人でなんとかなるわよ」
「もともとアタシら2人で回してたんだぜ?任せな」
頼もしい2人の言葉に背中を押され、グレンはショウ南ノ風を後にした。
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───
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そして現在に至る。
「急に押しかけてきて何かと思えば……。嫌だね、他を当たってくれ」
「そんなこと言わずに!ちょっと!ちょっとだけでいいんで!」
「ええい離しなさい!だいたい、僕はトレーナー業から身を引いて10年も経ってるんだよ!そんな僕に何をしろって!?」
そう言うと阿笠はグレンを振り払って部屋の中に引っ込んでしまった。
取り繕う島もなさそうな阿笠にどうしたものかと腕を組み、
「あっ」
出かける直前、マスターに言われたことを思い出した。
──そうだ、もし阿笠がうんぬんかんぬん言って何も教えてくれなかったらね。
──教えてくれなかったら?
──「昴には子供が出来た」って言いなさい。
──……なんのこと?
──アイツにはそれで伝わるわ。
「阿笠さーん!」
どんどん、とドアを叩く。反応はない。
「昴には子供が出来たってー!」
沈黙。
しばらく待っても、沈黙。
「……」
ドアに顔を当て、耳をピトッと押しつけたが中からは何も聞こえない。
「……ダメか」
ドアから離れ今度こそ帰ろうと廊下を歩き出した時、
背後からドアノブの回る音が聞こえてきた。
振り返ると、少しだけ開いたドアの隙間から手だけが飛び出していた。
「……ここから最寄りの運動公園。ウマ娘用トラックに2時に集合、それと」
人差し指がこちらを突き差す。
「見るだけだからね」
それだけ言うとドアは勢いよく閉まった。
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とりあえず言われた通りに阿笠の住んでいるマンションから最寄りの運動公園に来たが、何が何やらの状況である。
あの頑なだった阿笠の態度を一変させたマスターの言葉。
──昴には子供が出来た。
「誰だよ昴」
マスターと阿笠の関係も謎。
そもそも阿笠もどんな人間なのか謎。
そこへ昴という謎の人物。
謎が謎を呼ぶとはこのことか。
「訳分からん」
時計を見ると針が午後の1時55分を過ぎたところだった。
だがウマ娘用トラックには誰もいなかった。
「……」
周囲を見回しても人影は見えない。
「まあまだ5分前だしな」
その場に腰を下ろして待つことにした。
2時。
「来ねえじゃねえか!」
姿を見せない阿笠に青筋を立てる。
時間を指定しておいて自分が遅刻するとは良い度胸してやがる。
グレンは奴が来たら嫌味の1つも言ってやろうと誓った。
幸い阿笠はその10分後に姿を現した。
「お待たせ」
「10分過ぎてますんぞコラ」
マンションからここまで5分も掛からなかったはずだ。
「斬新な敬語だね」
詫びれもしない阿笠は色褪せたヨレヨレのジャージ一式、という世間が想像するダメなおっさんそのものの格好をしていた。
「これしか着る物が無かった」
「……」
マスター本当に大丈夫なのかこの人。
グレンは思わずこの場にいない恩人に思いを馳せた。
「じゃ、まずはここを一周走ってくれるかな」
阿笠はトラック横のベンチに腰を下ろした。
「……了解」
とにかく走りを見せないことには何も始まらない。トラックに出たグレンは静かに走りの構えを取った。
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トラックを一周し戻ってきたグレンは阿笠に駆け寄った。
「どうでした?」
「絶望的に遅いね」
「なんだァ?テメェ……」
阿笠はいつの間にか手に持っていたストップウォッチをグレンに向かって突き出した。
「これが今のタイム」
「うん」
「同じ距離を走ったウマ娘の平均的なタイムはこれより20秒速い」
「 なそ
にん 」
「漫画じゃないんだから普通に喋りなさい」
阿笠はストップウォッチを懐にしまった。
「ていうか人みたいな走り方するね君」
「そう、それ。それを直したいんです」
「なるほどね」
阿笠はしばらく考え込んだ後、身振り手振りを交えて話し始めた。
「まずウマ娘は時速70kmをゆうに超えるスピードで走れることは知っているね?」
「まぁそれくらいなら」
「そんなスピードで走るとね、当然空気抵抗も凄まじい」
ちなみに人間みたいな走り方、とは背筋を立てて足を交互に上げる走り方である。
阿笠は右手を出し真っ直ぐに立てた。
「これが君だとしよう」
阿笠は素早くと右手を動かす。
「分かるかい」
「空気抵抗の影響をモロに喰らってる……ってこと?」
「そう」
空気抵抗は動く物体が速く動けば動くほど大きくなる。
つまりグレンは速く走ろうとして、逆に遅くなっていたのだ。
「じゃ背筋を前に倒せば普通に走れるようになるってことか」
「そういうこと。もう一回走ってきな」
再びトラックに出たグレンは阿笠に言われたことを反芻しながら走りの構えを取った。
(背筋を前に倒す……ね)
先ほどよりも上体を前に倒す。
幾分か低くなった視界の中、グレンは地面を蹴った。
そして地面に顔面から突っ込んだ。
いきなり身体のバランスを変えて慣れない姿勢で走ろうとすれば当然こうなる。
「こりゃ難敵だなぁ」
地面にうずくまって顔を抑えるグレンを眺めて阿笠は呟いた。
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それから阿笠の元に通い詰める日々が始まった。
態度の悪かった阿笠は、意外にも文句を垂れるだけでグレンの練習に付き合い続けた。
「腐りきっちゃいなかったってことね」
とはマスターの言葉である。
平日休日関係なく家にいる阿笠を練習に突き合わせ、ボイコットした日にはドアを蹴り付けてからショウ南ノ風に帰り、売り場の手伝いをする。
そんな毎日の中。
とある日、阿笠が明日は休ませてもらうとほざくので練習が無くなった日のことである。
「グレンちゃん、ちょっとお使い頼まれてくれないかしら」
店の前を箒で掃除しているとマスターに買い出しを頼まれた。
内容は菓子パンに使うデコレーショングッズや消耗した道具の補充、日常用品などである。
「じゃパパッと行ってくるね」
「お釣りはグレンちゃんのでいいからね」
「やりぃ」
グレンは箒をマスターに手渡した。
マスター達は買い物はショウ南ノ風のある商店街で済ませることが多いのだが、日常用品など量がいるものは商店街ではなく近くのホームセンターで買うことにしている。
その慣習に従い、行きつけのホームセンターへの道を歩いていると
『皆さんこんにちは。今日のトゥインクルニュースのお時間です』
道の横に設置された野外モニターから降って来た声に脚を止める。
見上げると、ニュースの合間に放送されているこの世界特有のニュースが流れていた。
『まず最初のニュースは……』
特に気になることも無いので通り過ぎようとした時
『圧倒的差でデビュー戦を勝利した新進気鋭のウマ娘、トウカイテイオーさん再びの勝利にファンが沸き立ちました』
再び脚を止めた。
『先日行われたレースにてデビュー戦と同じく2着に大きな差をつけての勝利、これからの活躍が楽しみな1人です。彼女のトレーナーによると次のレースは──』
モニターを見ると見慣れたウマ娘の顔が映し出されているのが見える。
カメラに向かってブイサインを掲げる鹿毛のウマ娘。
トウカイテイオー、デビューす。
ついに来た。
いつかデビューするだろうとは思っていたが予想より早い。
そのままモニターを食い入るように見つめていると
「ねぇ……あれトウカイテイオーじゃない?」
「本当だ!可愛い〜、サイン貰えるかな?」
ウマ娘の優れた聴覚で周囲の会話を聞いたグレンはすぐさまその場から駆け出した。
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「どうしたもんかな〜……」
ホームセンターにて、マスターに頼まれたものをカートの中に放り込みながらグレンは頭を悩ませていた。
トウカイテイオーがデビューしたとなると、その強さと可憐さにより彼女の知名度は飛躍的に向上するだろう。それは前世からの彼女のファンとして喜ばしいのだが、彼女と瓜二つの見た目をしているグレンにとっては厄介なことになる。
現にホームセンターにはいってからというもの、そこかしこからテイオーに関する会話が聞こえてくる。それが自分に向いてるのだからいつ話しかけられるかと戦々恐々としている。
「……ん?」
マスターに頼まれた買い物の最後の品物をカートに入れたとき、グレンの視界の端にそれは写った。
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「はいこれ」
「悪いわねぇ」
買い出しから帰って来たグレンは、マスターに買って来た品々を渡した。
その際、
「マスター、ちょっと風呂場かりていいかな」
と両手を合わせた。
「ちょっと汚れるかもしれないけど」
「ちゃんと綺麗にするなら構わないけれど……何をするの?」
「ちょっとね〜」
─※─※─※─※─※─※─※─
「オラ〜!阿笠〜!出てこいコラ〜練習すんぞ〜!!」
「どんどん遠慮を失っていくね君」
グレンの対応にももはや手慣れた様子の阿笠が部屋から出てくると
「……どうしたのその髪?」
いつもとは違う姿を眉を顰めた。
「イメチェンしてみた。どうよ」
先日まで鹿毛だった髪は黒く染まり、黒鹿毛になった。黒くなった髪は、太陽光を鈍く反射している。
「まぁいいんじゃない」
あまり興味のなさそうな阿笠と共にいつもの運動公園へと移動する。
ちなみにマスター達の反応は若干戸惑いが混じっていた。
『今まで髪を染める娘はたくさんいたけど黒色に染める娘は初めてねぇ……』
『どうせならもっと目立つ色にしたらどうだ?金髪とか』
なおベリーの提案に関しては却下した。
なんかテイオーのイメ損になる気がしてやだ。
黒はグレンの妥協の色だった。
そして変わったのは髪だけではない。
「ところでその目もイメチェンなのかい?」
昨日まで透き通るような青だった瞳が、今は真っ赤に染まりルビーの如き輝きを放っている。
だがこちらはイメチェンではなく
「なんか勝手に変わった」
「そんなバカな」
事実である。朝起きたら真っ赤になっていた。
痛みも違和感もなく、病院に行こうかとも思ったが保険証も持ってないしそもそもそれだと髪を染めた意味もなくなるので止めた。
マスター達にはカラコンを入れたと説明してある。
瞳の色が勝手に赤になった、というなかなかの超常現象が起きているにも関わらず、グレンは特に気にすることもなかった。
「というわけでまぁ、グレン改めてνグレンとしてよろしく!」
「どーも」
と言っても、νグレンとなってもやることは変わらないのだが。
走り、阿笠に指摘を受け、そこを修正してまた走る。
それをひたすら繰り返して1ヶ月が経ち、ついにフリースタイルレースへのリベンジとなった。
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フリースタイルレース場に設けられた、レースに出走するウマ娘の待合室。
その片隅にグレンと阿笠の姿があった。
「勝てるかな」
9、と書かれたゼッケンを胸を張り付けながらグレンは阿笠に話しかけた。
「それは君次第だね」
そっけなく返ってきた返事に顔を顰めた。
「もうちょっとこう……励ましとかないの?」
「僕は走り方を教えただけだもの。勝つか負けるか、全部君のこれまでの努力だけに掛かっている。ま、勝ってほしいけれど」
思わず手を止めて阿笠の顔をマジマジと見る。
「そうすれば僕はお役御免だからね」
「あぁ、そういう」
面白くねーなー、と愚痴りながらゼッケンを貼り終わったグレンは立ち上がる。
「じゃ、せいぜい勝てるよう努力してきますか」
「頑張るといいさ」
「おう」
片手を振りながら、阿笠が見守る中レース場へとグレンは歩いて行った。
プロローグへ続く。