「ボク、小さい頃、好きなウマ娘がいたんだ」
雨が激しく窓を打ち付ける。テイオーの声は、とてもか細く弱弱しいものであったが、その騒音でかき消されることはなかった。
「本当に小さな頃だったから、もう、名前も思い出せないんだけどね。でも、ものすごく強かった気がする」
マックイーンは耳をふさぐことはせず、テイオーの言葉に耳を傾ける。
「テレビでその人の走りを見て、一瞬で一目惚れ。もっと間近で見たいって思ってさ、多分ダービーだったのかな、見に行ったんだ」
その喋り方は、淡々と、そしてどこか悲しみをおびていた。彼女の顔は、マックイーンには見えなかったが、ありありと想像することができた。
「ただ、ちょっと早く来すぎちゃって、時間が余っちゃったんだよ。だからさ、ボクその時間をつぶすために、他のレースを見に行ったんだよ」
「他のレース……?」
「うん、ジュニアのレースで、時期的に未勝利戦だったのかな。クラシックとかシニアじゃなかったのは確か。観客席もがらがらで、指で数えれる程度だった」
「…………」
「でもまぁ、当時のボクにはレースの優劣なんてわからなかったから、席がたくさん空いてるってワクワクして、最前席で見てたんだよ。すぐにレースは始まって……」
それで……、テイオーは一度口を閉ざす。雨が、テイオーをせかすように騒いでいた。口を開いては閉じ、テイオーは自身の脚を掴む。
「走ってた子の1人が、転んだんだ」
ぽつりと、呟いた。
「足が、変な方向に曲がってて、その子が悲鳴をあげたんだ」
「走ってる子達はその子を気にしつつも、走り続けて、タンカは遅れて来たんだよ」
「そしてさ、その子は、運ばれていくんだ。それでね、その子が言うんだよ『まだ、まだ走れます!! 走らせてください!!』って」
「どう見ても、走れるわけないのにね」
「それでね、観客席にいた人が言ったんだ」
「……何を?」
テイオーの矢継ぎ早の告白に、マックイーンは恐る恐る聞いた。
「この時期のメイクデビューなら、去年から勝ててないんだろう? って」
「……」
「一勝もできないままターフを去るんだなって」
「それは……」
「ボク、ボク怖くて、怖くなって、会場から逃げ出したんだ」
テイオーの言葉が、乱れていく。鼻をすすり、声が涙でぬれていった。
「ボクは……、怪我をするのが怖いんだよ。菊花賞のレース、世間じゃボクが足を怪我したから負けたって言われるけど、違うんだよ」
「あれは、怪我をしたから負けたんじゃない。ボクが、怪我をするのが怖くなって足を止めたからなんだ。だから、無理に止めた脚にヒビが入ったんだよ……」
「病院に行って、足が折れてないのが分かって、ボク、負けたことが悔しいとかじゃなくて、折れてなくて良かったって思ったんだよ」
「ボクと一緒に走ってた子が、卑怯な方法を使うって言ってたけど、違うんだよ、あの子は卑怯者じゃない、卑怯なのは、卑怯だったのは、ボクなんだ。ボクだけなんだよ」
「一緒にレースで走ってた子達は皆、必死に走ってた。疲れ切ってたのに、誰一人足を止めなかった。ボクだけが、足を止めたんだ」
マックイーンは何も言えなかった。テイオーのその罪の懺悔に、言葉を失い、自身を顧みた。
テイオーの嗚咽が、マックイーンの耳に突き刺さる。
2人は確かに似ていなかった。片や夢と使命を持ち、それが崩れ去ったもの。片や歪んだ原点を持ったため、夢を持てなかったもの。
だが、似ているところもあった。それは、2人が本気で走ろうとしなかったことだ。
2人には才能があった、とてつもない才が。だが、ここにいた2人は、どうしようもなく、卑怯者だった。
「……テイオーさんは……」
これからどうするんですか? その言葉を、マックイーンは言えなかった。言える資格がなかった。トレーナーの部屋の方に視線を移す。言えるわけがなかった。
「でも」
だが、テイオーは言葉を続けた。
「ボク、決めたんだ」
その言葉は、相変らず震えていた。それでも、彼女ははっきりとそれを口にした。
「ボク、春の三冠を目指すよ」
「……春の三冠……、それは……でも、春には天皇賞が」
「うん、距離3200m、ボクの脚じゃ到底敵いっこない。また止まるかもしれない。それでもボクは、このままじゃ嫌なんだ!」
テイオーは握りしめていた手から力を抜き、足を撫でる。
「ある人が言ってくれたんだ。ボクは、ううん、ボクたちはやりたいようにやっていいんだって」
「やりたいように……?」
「うん、ボク、走るのが好きなんだ。だから、止まりたくない。怖いけど、それでも、ボクは、卑怯なままでいたくないんだ!」
「…………」
「ねぇ、マックイーン、キミも本当は……、変わりたいんじゃないの……?」
「私は……」
私は、どうしたいんだろう。部屋の向こうにいるトレーナーさんは、答えてはくれなかった。
■
朝、雨は止んだ。小鳥のさえずりが、晴天だということを教えてくれた。
朝食を取った後、テイオーはトレーナーに、自分が春の三冠を目指すことを告げた。
「……それは、ちゃんと分かっていってるんだよな」
「うん、天皇賞のことだよね。分かってる。でも、出たいんだ。ううん、勝ちたいんだ、ボク。サファイアも来るだろうしね」
「そうか……、分かった」
「ボクほら、負けず嫌いだからさ。だから、トレーナー、ボクをちゃんと指導して。毎日ちゃんと来るから」
トレーナーはテイオーのその言葉に面を食らい、言葉を失った。
「……なんで俺が?」
「えぇ?」
何とか吐き出されたその言葉に、今度はテイオーが面を食らった。
「何言ってるのさ、トレーナーはボクのトレーナーでしょ!」
キョトンとした顔で、それを受け取ったトレーナーは、その言葉を反芻し、呟く。
「そうか……、そうだよな。俺、お前のトレーナーだもんな」
「そうだよ! もう、いい? トレーナーはボクのトレーナーなんだからね? 確かに、最初はマックイーンに取られたけどさ、キミは、ボクが選んだ、最初で最後のトレーナーなの! だから最後までちゃんと面倒を見ないといけないの! 分かった?」
「……ああ、分かった。……分かった!」
トレーナーは微笑んだ後、テイオーの頭をわしゃわしゃと撫でる。
「も、もー!! 急に距離感近くなったね!」
テイオーは迷惑そうに、だが、嬉しそうにそれを受け入れる。そして、先ほどから無言で2人を見ていたマックイーンを見た。
「マックイーン、ボク、先行ってるから」
「……」
マックイーンは答えなかった。
■
雨のせいで地面はぬかるみ、スクールのレース場は不良場となっていた。だが、芝についた水滴がキラキラと光り輝くように反射し、不思議と重い気持ちにはならなかった。降り注ぐ太陽の光が、冷え切った空気を温めていく。
グラウンドには、トレーナー、テイオー、マックイーン、そして冬休みということもあってリンスとオイヌも来ていた。トレーナーは全員を見回す。
「さて、事前に言った通り、テイオーが春の三冠を目指す。どれも難関だが、一番の強敵は春の天皇賞だ。それで、あー……」
トレーナーは悔しそうに頭をかいた。
「正直言って、凡人の俺が、天才のトウカイテイオーに教えれることはない」
テイオーは茶化すことなく、頷いた。
「だから、俺がテイオー、お前に指導できることは、体力作りと言った基礎練と、併走トレーニングぐらいだ」
「うん、基本が一番だよね。でも、体力作りはともかく、併走トレーニングってどうするの? ここの生徒って長距離得意な子いなかったよね? あ、もしかして、最後のミントって子が、長距離得意だったり!?」
「いや、ミントはダート専門だ」
「そもそも、ミントさんは次いつ来られるか……」
トレーナーとマックイーンの言葉に、口を閉ざすテイオー。じゃあどうするの? と質問を改めて投げかけた。
「リンスとオイヌ、2人にかかってる。といっても、オイヌは受験中だから、オイヌが終わり次第になるが……」
「えぇ~、オイヌなんとかならないの?」
「無理言わないでください! 進学だってとても大事なんですから」
「ちえー、それで? どうするの?」
「テイオー、お前は天皇賞想定で3200mを走る。リンスは2500m想定で、テイオーと一緒に走ってくれ」
リンスが頷く。
「そして、オイヌ。お前は2000mの位置から、3200mの位置まで走ってくれ、途中のスピードと位置取りについては、マックイーンから指示を受けるように」
「分かりました!」
「ん、ん? 分業で3200m持たせるのは分かったけど、その走り方と3200mの走者とは全然違うんじゃ……」
「オイヌは……、自分と視認できる物の速度を、小数点レベルで計測できるんだよ。マックイーンの指示と、今までの天皇賞の走者の記録で2000mからゴールまでの再現はできるはずだ」
「はぁ!? 何それ強くない!?」
オイヌがどや顔で胸を張った。だが、トレーナーの顔は苦虫を噛み潰したようになっていた。
「短距離だったら、単純な速度勝負になるだろうけど……、いい線いけるんじゃ」
「こいつ、駆け引き苦手なんだよ……」
「ああ……」
オオイヌカニス、化け物じみた計測眼と、完璧なボディバランス、平均より少し早めの速度を持っていたが、掛かりやすく、なおかつ策略にひっかかりやすいため、今だ一着になれたことはなかった。
「それほどでもないですけどね!」
「褒めてないからね」
「だから、マックイーン、オイヌには事細かく指示を頼む。お前の言うことなら大体は聞いてくれるからな」
「分かりました」
苦笑しつつ、マックイーンはオイヌを見る。オイヌは嬉しそうに尻尾を振った。
「で、皆には極力毎日来て欲しい、テイオーは絶対に来てくれ。今までみたいに、なあなあにはしたくない」
「うん、分かってる。パパにはボクが説得しておくから。あ、あと、ボク、トレーナーたちのアパートに引っ越すからね」
「へ?」
「はい?」
「にしし、だって近いし!」
マックイーンは口をとがらせ、トレーナーは呆れた。金持ちの行動力はすごいなと、トレーナーはぼやきながらリンスとオイヌの方を見る。
「まぁ、私は受験が終わったら構いませんけど」
「トレーナー」
オイヌはいつも通り偉そうに返事をし、リンスはおずおずと手をあげた。
「なんだ、リンス。無理しなくていいからな……?」
「いや、その、毎日来ていいの?」
「うん?」
どういう意味かはかりかね、トレーナーは首を傾げる。
「いや、まぁ、毎日来てくれたら助かるが……、あ、定休日は休んでいいからな」
「うん、じゃあそれ以外は毎日来たい」
「えっと、リンスさん、何か理由があったんじゃ……」
マックイーンの質問に、リンスは困ったような顔をした。
「うんと……、その、毎日来たら迷惑かなって思いました……」
トレーナーとマックイーンは、リンスの言葉の意味を理解できず、テイオーが大きく口を開けて笑った。
「あっはっは!! あー! そういうことか……! そうだもんね、中央の生徒じゃないなら、そういう考え方もあるかぁ」
「ど、どういうことだ……?」
「普通の子は、頑張ってるのはダサイって考え方になるんだよ。それに、トレーナーとマックイーンみたいな境遇知ってたら、猶更来にくいもんね~?」
テイオーはマックイーンに視線を動かす、マックイーンは言葉を失い、耳を垂らした。
「う、うーん。あの、リンス、毎日来ていいからな……? これからは好きに」
「じゃあ、毎日来る」
ぶんぶんと、千切れんばかりにリンスの尻尾が振り回される。それとは対照的なマックイーン、耳をそのままに、リンスのそばへ寄った。
「その、リンスさん、私……」
「マックイーンさん、毎日教えてもらっても……」
「…………、ええ、もちろん構いませんわ」
表情が変わりにくい彼女が、少しだけ微笑んだ。それを見て、マックイーンも同じように微笑み、垂れていた耳が、少し起き上がった。
「わ、私も!! 私も受験終わったら毎日来ますから!! 来ますから!!」
「わ、分かったから、分かったからオイヌ」
ハブられ気味のオイヌが、トレーナーに飛びつく。あまりの気迫に、トレーナーはたじたじになってしまった。
そんな光景を見ていたテイオーも笑い、自身の脚を撫でた。
「よし、頑張るぞ~!」