「う、うえええげえぇぇ……ぁ……ぅ…」
阪神競バ場、その化粧室。トウカイテイオーは自身の胃液と唾液を、便器へ吐き出していた。昼食を軽めにとっていたことが幸いし、固形物を吐かずに済み、体液と体力の消費だけで済んだ。レースの直後だというのに、体は凍え切っている。冷や汗と震えが止まらず、絶不調だった。
「ほんと、最高だね……」
口元についている液体を袖でふき取り、個室からでて洗面所へと向かう。
顔を洗って、ウィイニングライブに出るために、体裁を整えようとした。流水で顔を洗い、うがいをする。顔をあげると、正面についている鏡に目が行った。そこには、血の気の引いた幽霊が立っていた。
「もっと喜べよ、ボク……」
3月末大阪杯、トウカイテイオーは1着を勝ち取った。ハナ差での辛勝であった。
■
「いい加減にしてください!!」
クロシロトレーニングスクール、そのグラウンドでオイヌの怒声が響く。その声に気づいたトレーナーたちが、見るからに怒っているオイヌのもとへ駆け寄った。オイヌのそばには、耳を垂らしバツの悪そうな顔をしているテイオーがいた。
「おい、どうしたんだオイヌ」
「この人本気で走ってないんですよ! いつもいつも、最後で力を抜いて……」
オイヌの受験も終わり、模擬3200mの併走トレーニングが始まった。リンスとオイヌの合同レースについては問題がなかったが、テイオーの走りは上手くいっていないようだ。
「リンスさんも気づいてるでしょう!? この人、道中も力を抜いてるって!」
「そ、それは……」
急に振られたリンスが動揺し、口ごもる。どちらの味方に付いていいか分からないようだ。その反応が、オイヌの言葉を肯定していた。
「……ごめん、もう1回だけやらせて……」
テイオーが申し訳なさそうに頭を下げた。オイヌはそれでも機嫌を直そうとはせず、テイオーにくってかかろうとする。そんな2人の間に、トレーナーが入った。
「……いったん休むか、いい時間だしな」
「ボク、まだ走れるよ……」
「俺が疲れたんだ、悪いな……。リンスとオイヌもごめんな」
オイヌは頬を膨らまし、リンスは頭をぶんぶん頷いて、一旦小休止となった。
■
マックイーンはスクールを出て、辺りを見回す。テイオーを探しているのだが、見当たらない。少し散策をして、スクールのビルの陰に隠れるように座っているテイオーを見つける。彼女のそばへ寄るが、物思いにふけっているのかマックイーンには気づかない。
「まだ走るのは楽しいですか?」
声をかけると、テイオーはようやくマックイーンに気づいた。
「なに、嫌味言いに来たの?」
「半分は」
「マックイーンの好感度下がっちゃったなぁ」
マックイーンは体を壁に預け、テイオーを見下ろす。
「大阪杯、2000mだったのに接戦でしたわね」
「…………、意識しちゃうと思い出しちゃってね。足が重くなるんだよ」
テイオーは自身の膝を撫でる。大阪杯は得意距離だったというのに、走り終えた後の彼女の顔は真っ青だった。彼女は独り言のように呟く。脚に重りがついたかのように重くなる。視界が歪んで、息がしづらくなる。こんなことで、春の天皇賞を走り切れるのだろうか。彼女は弱音を吐いていた。
「トレーナーさんに、トラウマのこと伝えたんですか?」
「……ううん」
はー……と、テイオーは深いため息をつく。
「前、マックイーンの話の時はなんですぐ言わなかったんだ、って思ってたけど、タイミング間違えると言いにくいよね、こういうの」
「ですが、天皇賞までもう僅か、早めに伝えないと対策も取れないでしょうに」
「そうだよねぇ……、はぁ……、言いに行かないとね、"ボクのトレーナー"に」
「あら、嫌味ですか?」
「先に言ったのはそっちだから、ノーカンノーカ~ン。よっと」
テイオーは立ち上がった。大きく背伸びをし、深呼吸をする。話して少しだけ気が楽になったのか、痛々しさを感じるものの、笑顔を作っていた。つられてマックイーンも微笑んだ、同じような笑みで。
「あと、まだボクは走るの好きだから」
「そうですか……」
「にしし、それじゃあ、トレーナーのところに行ってくるよ」
「お届けものだぞ」
「そうそう、お届けものもあるし……、うん?」
急に割って入ってきた声に2人は驚き、その声の主を探す。すぐ近くに小柄なウマ娘が立っていた。オイヌよりも小さい。褐色と、腰まではありそうな長髪の栗毛だ。某配達会社の制服を着ており、両手で大きな段ボールを抱えている。
「……え、誰?」
「あ、あら……」
マックイーンは彼女のことを知っているようで、再び驚いた顔をした。
「マックイーン、久しぶりだぞ」
「はい、ミントさん。お久しぶりです」
「ミント? ……あ、ああ!! 君が最後の一人か!!」
ミントと呼ばれた少女はぼけーっと、とてもIQが低そうな表情をしていた。
「えっと、彼女はキャットミントラブさん。ミントさん、こちらがこの前話した、トウカイテイオーさんです」
「あー……あ~……、聞いたような、聞かなかったような……?」
「すっごい曖昧!! というか、この前? ボク会ってないんだけど」
「2か月前ぐらいに少しだけトレーニングをしに……、平日のお昼だったので、テイオーさんは学校に行っていましたね」
「な、なるほど……、ミントは今日は練習……、じゃなさそうだね」
テイオーは彼女の服装をじろじろと見た。どうみても、仕事中だ。
「ミントさんは、色々お仕事をなさっていまして……、今日はこちらを届けに?」
「ああ、トウカイテイオーにだ」
「……ボク?」
届け先を見ると、住所はクロシロトレーニングだったがトウカイテイオー宛となっていた。目線を下に移動し、依頼主の記入欄を見たテイオーとマックイーンは、目を瞬かせた。依頼主は、トレセン学園となっていた。
「トレセンからテイオーさんへ?」
マックイーンはテイオーを見るが、本人にも心当たりがないようだ。テイオーは、サインをかいた後、段ボールを受け取る。大きさの割にかなり軽かった。
「トレセンからってなんだろ? お菓子?」
「心当たりはないんですよね」
「うん、知り合いはサファイアぐらいだし……、とりあえず開けてみよっか」
「ハサミあるぞ」
ミントからハサミを借り、テイオーは箱を開いていく。中は厳重に梱包がされており、服と靴が収められてあった。
「……これって」
テイオーがそれを取り出し、広げる。赤と黒を基調にした、燃えるような勝負服だった。
「勝負服だこれ!!」
ダンボールの底に紙が2枚付随していた。マックイーンは一枚だけそれを取り、確認をする。URA認可の証明書だった。トレセン学園からの寄贈であり、公式の大会にも使用できることが書かれている。
「でも、本当になんででしょう?」
「もう一枚にはなんて?」
マックイーンは残りの一枚を取る。直筆で一文だけが書かれていた。とても綺麗な文字だった。
「『ファンの1人から、トウカイテイオー様へ』と」
「ファン? それだけ?」
「はい、それだけ」
裏も確認するが、書かれていたのはそれだけだった。
「URAの認可ですから、嫌がらせの類ではないでしょうが……、不気味ですわね」
「んー、でもファンからのなんでしょ? ちょっと着てくるね〜!」
「え、ええ……」
2人を置いて、テイオーはスクールへ戻った。ミントは帽子をかぶりなおす。
「それじゃあな、マックイーン」
「あ、はい……」
ミントは近くに止めていたリヤカーへ向かう。その荷台には大量の宅配物が載せてあった。まだまだ、仕事は残っているようだ。
マックイーンは少し迷った後、ミントに声をかけた。
「あ、あの、ミントさん」
「なんだ?」
「……ミントさんは、走るのは好きですか?」
ぼけーっと、彼女はいつものように何も考えていなさそうな顔で、動きを止めた。少しして、口を開く。
「ミントは好きって程でもないな~」
「そ、そうですか……」
「ミントは、物を運ぶのが好きだからな、じゃあな~」
ミントは改めてリヤカーへ向かい、取っ手の中に滑り込む。リヤカーを掴んだ彼女は、地面を蹴り、あっという間に最高速でその場から走り去っていった。呆れるようなパワーだ。
本当に、素質はあるのに……、マックイーンは走っていく彼女の姿を見ながらそう思った。
「……いえ、違いますわね。好きに走っていい、か」
「たっだいまー、あれ、ミントは?」
勝負服に着替え終わったテイオーが戻ってきた、彼女はミントを探すように辺りを見回している。
「次の配達先に参られましたわ」
「ええ!? ボク数分しか喋ってないんだけど!?」
「また会えますわ……、それで、……似合っていますわね」
「ん? にしし~、そうでしょ~?」
テイオーの勝負服は以前の王子様風な物とは違い、冒険者のようなヒロイックな服だった。右肩につけた燃え上がるようなマントと、ベルトにつけたドリームキャッチャーから生えた赤色の羽が不死の鳥を連想させる。
テイオーは胸元に刺しゅうされた文字をなぞった。
「
「サイズに関しては、URAを経由したからでしょうが……、本当にどうしてでしょうか。私ならまだわかりますが」
「でも、なんだか元気が湧いてきたよ、にしし! よーし!! 練習頑張るぞ!!」
彼女はスクールの方へ戻っていった。どうやら今日は、不死鳥のままトレーニングをするようだ。さっきまでの落ち込んでいたトウカイテイオーは、どこかへ消えてしまったようで、また前へ進もうとしている。そんなテイオーを見たマックイーンは、自身の脚を見た。
「走る理由か……」
トレーナー!! ボクもう練習したい!!
……どうしたんだ、その服。
貰った!
貰ったって。
あとボク、トラウマあるから!
え?
詳しい話はまた後でね!! オイヌどこ~!!
ちょ、テイオー!?
自分よりも遥か先まで行ってしまいそうな彼女の声が聞こえて、マックイーンは苦笑した後、スクールへと戻っていった。
■
「はぁぁ~~~」
深い深いため息、オイヌはスクールの休憩所のベンチで、黄昏ていた。理由は先ほどのテイオーとの一悶着である。
「……そんなに………気になる……なら、……謝ったら……いいの……に」
隣にはリンスが座っている。もぐもぐと、音を立てていた。
「別に、私が悪いわけじゃないので。むしろ謝るのはテイオーさんのほうですが」
むすっとした顔で、水筒からレモン水をコップに注ぎ、ごくごくと喉を鳴らしながら飲み干す。
「………………、………………………、そう」
「ところでさっきから何食べてるんですか」
「今日のおやつ」
相方のリンスは、隣でアップルパイを食べていた。1ホールあるそれは、たっぷりと林檎がつめられているのか、ぷくぷくと肥えていた。美味しそうな林檎とバターの匂いが食欲をそそり、彼女の咀嚼音が、腹の虫を起こそうとしていた。
「一口ください」
「や」
「それだけあるんだから、1切れぐらいいいじゃないですか」
「これ全部、お母さんが私に作ってくれたお菓子だから」
もぐもぐもぐと、あっという間にパイはリンスの中へと消えていく。この細いお腹にどうやって詰め込まれて行っているのか、なかなか不思議だ。
「……前々から思ってたんですけど、リンスさんって私にはため口ですよね」
「だってオイヌに敬語で喋ったら、私がバカみたいだし」
「はああああああ!!!?? 私全国模試で20位以内に入ったんですけど!!?」
「そういうところ」
1切れ取ろうと手を伸ばすが、リンスの長い腕がオイヌの頭に伸びる。頭ごと体を離され、手が届かなくなった。身長差の世界も非情であった。
「ぐぎぎぎぎ、年上を敬いなさい~~~!!」
「敬ってほしいのなら、それ相応の態度を取るべき」
はぁ、仕方がないなこいつは、そんなため息をつきながら、リンスは1切れオイヌに手渡した。それを受け取ったオイヌは、礼を言った後、口へ運ぶ。2人でパイを咀嚼していった。
「……………………」
「…………………」
「……リンスさんのお母さんって、お料理上手ですよね」
「……………うん」
「あ、いた!!! オイヌ!!」
「おや、テイオーさん」
何故か服装が変わっているテイオーがやってきた。絶対に口には出さないが、ヒロイックな服が似合っていてとても格好が良かった。
「リベンジマッチだ!!」
「はぁ……、負けウマは声が大きくて嫌になりますねぇ」
尻尾をぱたぱたと、先ほどの憂鬱はどこへ行ったのかオイヌは立ち上がる。
「負けウマはどっちなのか、はっきりさせてやろうじゃ……、ってなんかすごい良い匂い」
テイオーはリンスのアップルパイに気づいたようだ。リンスは箱から最後の1切れを取り出し、テイオーに差し出した。
「良かったらどうぞ」
「え、いいの?! ありがとー!」
「私の時はすぐに渡さなかったのに!!」
「だから、それ相応の態度を」