妹転生?!ファンとしてお兄様を幸せにします! 番外編 作:tom200
二人の距離が縮まりつつある、ほっこりするお話になったかと。
頂いたお題
『深雪ちゃんがコーヒー入れの練習に奮闘した時の様子。お兄様も沢山試飲した様ですが、その時の感想とか。美味しい意外言わなそうですが、それ以外の感想も。お兄様視点でも可』
でした
深雪ちゃんと言えば、高校生にしてコーヒーを豆から挽いて少しでもお兄様に美味しいものを提供する、そんな健気な女の子。
手ずから淹れるのだ、と水波ちゃんと争ってでも権利を勝ち取っていた。
それくらい思い入れのあるもの。
だけど、成り代わる前の私にとってコーヒーとは――ただのカフェイン飲料。これを飲めば眠気とおさらば!お仕事捗るね!というドーピングドリンクだった。栄養ドリンクと併用はやりすぎると危険だから気を付けようね!
味わって飲むことなんてなかった。
あの世界、安くても美味しいコーヒーなんていくらでもあったし、ある意味中毒のように飲んでいたけれど、味なんて大して求めてなかったし、むしろ社会人になるまで苦手で飲めなかった。
ブラックなんて特に仕事でなかったら絶対に口にしなかった。
良薬口に苦し、と思って飲んでいた。それが前世の私にとってのコーヒーの記憶。
今生ではまだコーヒーを口にしたことはない。でも中学生の女子がコーヒーを飲んだことが無いと言っても別段おかしな話でもないだろう。
紅茶はよく飲む。それは叔母様との対談で必ずと言っていいほど提供されるのが紅茶だから。
あと、淑女教育でも出てくる。これは何処産の~、というヤツです。
そんなのわかるわけが、と思いきや、流石深雪ちゃんボディとそのスペック。繊細な味の違い、鼻に抜ける香り、舌触り、それらすべてが鮮明に読み取れます。
おかげで前世適当だった芳醇な香りだったり味の深み、これは鉄瓶を沸かして淹れられた柔らかな舌触り、等わかるようになった。…深雪ちゃん、しゅごい!
味がわかることにより紅茶を嗜むのがとても楽しくなりました。紅茶美味しい!違いを楽しむってこういうことなのね、と趣味の欄に紅茶と書けるくらい詳しくなった頃、ハタと気付いたのが、コーヒーだった。
今の私なら、ただ苦い飲み物という価値観も変わるのではないか。
そしてお兄様に好みの一杯を淹れて差し上げることができるのではないか。
確かお兄様は葉山さんの淹れられるコーヒーを深雪ちゃんが淹れた物より美味しいと評価されていたはずだ。
今度機会があったら淹れてもらおう。
ちょっと卑怯だけれど先に正解を知ってから淹れても良いと思う。
これもお兄様に少しでも上質な安らぎの時間を過ごしてもらうため!妥協は許されない!と意気込んでその日を待った。
…なんというか、まだ淹れたことも無いけど敗北感を味わうような、とても素晴らしいお味でした…。
高級ホテルで一杯3000円とかで出されているコーヒーってこんな味なんだろうか…。私がプライベートで飲んだことがあるのはブルーア〇ズマウンテン3000円くらいなモノだけど、あれとは比べ物にならない。
当たり前か、あれはノベルティとドリンク券が付いてきた。コーヒー自体が3000円の価値があったわけではない。
どのようにしてこの味を出しているのか葉山さんに淹れ方を根掘り葉掘り聞いていると、叔母様――真夜姉さまは呆れたように、貴女は何を目指しているの?と聞かれたけれど、私が目指すはお兄様の幸せ一択です。
でも葉山さんもすべてを教えてくれるわけではなかった。こういうのは研究の先に行きつくもの、ということですね!
やってやろうじゃないですか!
まずは道具を揃えるところから、だけど速攻躓いた。色々ありすぎてわからない。…ここは原作の記憶を頼りに似たものを選ぼう。
と、いうわけでまずはスタンダードから始めたのだけれど、うん。これは…とても奥深くて難しいものですね?
初めて淹れたコーヒーは、決して初めて淹れたにしては上出来!なんて冗談でも言える出来ではなかった。香りは飛んでいるし、苦みが濃い。
…最初に最高峰であろう葉山さんのコーヒーを味わったのは失敗だったかもしれない…。
後悔してももう後戻りはできない。
標準であろうHARの淹れるコーヒーと飲み比べるところから検証しよう。
ここから、私の仁義なきコーヒーとの戦いが始まった。
――
深雪が何か悩みを抱えている。
そう感じたのは、彼女とおかえりのハグをしている時だった。
力が無いようなのに、離れたがらなかったのだ。というより30秒に気付いていないのか。
どこかぼんやりしているような、心がここにないような。それは、少し、…なんというのか、はっきりとわからないが『何か』を感じた。
ハグをすることにも慣れてきた今、この行為は自分にとって心地よいものだと感じている。こういうのを心が温かくなると表現するのだろう、と思うくらいには妹の温度は気持ちを良くさせるものだった。
だが、今日のモノは、温度をしっかり感じられるのに、心が落ち着かない。
(俺は、これを知っている…昔、感じたことがあるような…)
「?お兄様、いかがなさいましたか?」
俺が悶々と悩んでいる間に、深雪は意識を浮上させていたらしい。というより、心配をさせてしまったのか、表情が心配そうに曇っている。
「いや、何でもないよ」
すぐにそう返したのだけれど、妹の顔は晴れない。
じっと、見つめられる瞳に悲しさが映る。
こうなると、俺に隠し事はできない。
「…お兄様」
「悩んでいるのは深雪もだろう?」
だが、玄関でいつまでも触れ合ったまま話すのもおかしいだろう。
一旦場所を変えるべきだ、とリビングで話そうと提案すると、申し訳ございません!と慌てて深雪が離れた。
温もりが離れることにも、同様に感じるものがあるのだが、今は話をすることが優先だ。
一度部屋に戻り服を着替えてからリビングへ。
このところ深雪は時間があればキッチンに籠ることが増えた。
だが、何をしているかはまだ教えられないのだという。料理をしているにしては痕跡が見られないのだが、魔法で空気を入れ替えたりしているようだからよほど念入りに隠したいのだろう、と深く追求することはしなかった。
気にならないと言えば嘘になるが、深雪が隠したがっていることを無理に暴くというのも彼女に不信感を与えてしまうかもしれない。キッチンでの出来事ならそれほど危険性も無いはずだ。
しばしキッチンを見つめていると、深雪が入ってきた。
どこか制服を彷彿とさせるような白いブラウスにベルベッドの青いリボン、スカートは膝より下で、制服の方が短いくらいの長さ。
可愛らしいが、落ち着きのある、深雪の雰囲気によく似合った恰好だった。
「お待たせしました」
「気にすることはない」
…こういう時、自分の口下手さが嫌になる。
もっと、ほかに良い言い回しがあると思うのだが、どうにもうまく言葉にならない。
しかし深雪は気にすることなく微笑む――のがいつもだったのだが、今日は違っていた。
「あの、少し時間がかかるのですが、飲み物をご用意させていただいてもよろしいでしょうか」
「構わないよ」
いつもならお気に入りのティーポットとティーカップを用意する深雪が、違う戸棚を開ける後姿を見つめながら、何をするのか観察する。
一体何が始まるのか、と思っているとそんなもの家にあったのかというハンドミルが出てきた。
この時点でコーヒーを淹れるのだとわかる。
ちなみに何故俺がそんな道具を知っているのかと言えば、軍の休憩所でコーヒー党という人種を見たからだ。かなりこだわりがあるらしく自前で道具を持ち込んでいた。何も知らずに話しかけ長々蘊蓄を語られてしまったことを目撃した柳さんたちに「彼に捕まると長いよ」と笑われた。普段そこまで話すようなタイプの人間には見えなかったが、趣味のことを語ると長くなるタイプの人間がいるのだとその時学んだ。
そんな経緯もあって多少コーヒーを淹れる道具の知識を持っていたので、深雪が本格的に淹れようとしていることは分かったが、彼女は紅茶党のはずだ。
この家でコーヒーを飲むのは俺だけで、いつもはHARに任せていたのに。
彼女もコーヒーが気に入ったのだろうか。
深雪にコーヒー…。まだイメージが結びつかない。
しかし、思っていたより慣れた手つきに、これは相当回数を熟しているのでは、と伺わせる動きだった。
「…お兄様。そんなにじっと見つめられては穴が開いてしまいます」
「、すまない」
髪を高い位置に括っていたので露わになっていた深雪の項がうっすらと赤く染まっていた。
慌てて視線を逸らしたのは、深雪に悪いからであって、ほかに意図はない、はずだが、心臓が落ち着かない。
まるで見てはいけないものを見てしまったような、そんな緊張感があった。
大人しくソファで座って待って居よう。
それからしばらくして、香りがここまで漂ってきた。
(これが、深雪が隠したかったことだろうか)
別に隠すほどのモノには思えない。
わざわざ魔法を使って隠滅するほどのこととは思えなくてどうにもわからなかった。
この時間も、悩みを打ち明ける事への時間稼ぎに思えて、無理をさせているのかもしれないとさえ考えてしまい、どうにも思考がマイナスに寄っていることに気付いて一旦リセットさせた。
何もしないで待っているのもおかしいか、と持ってきていた端末を開くのだが、文字が滑っていく。
一応脳裏に記憶は残っているのだが、身になる感じは一切ない。
集中できない理由は深雪にあるらしいことはわかるが、それがどうしてなのかが分からない。
気にはなる。だが、その理由は?
隠し事をされたから?――すべてを晒すことが兄妹ではないだろう。俺にだって妹に隠していることが山ほどある。
彼女の顔が見えないから?――常に俺だけを見ているわけじゃない。
ハグをした時、気がそぞろだったから?――悩んでいればそんなこともあるだろう。
(一体、何が不満だと――不満?俺が、深雪に?)
思わず口を手で覆う。口に出したわけではない。ただ、
隠さなければ。隠さないといけない。――妹に不満を抱いたなど、ありえない感情を抱いたことに対して。
いや、そもそも隠すも何も、妹に対して不満を抱くことなんて何もない。
先ほども論破したばかりだというのに、と考えて論破をするという時点でおかしいのだと気付く。
理由を探すのは、それがどういうものかと探ったから。自分の抱いた感情の謎を探求し、答えを導きだそうとしたからに他ならない。
(俺が、深雪に対して抱いたのは、不満だったのだろうか)
…違う気がした。いや、総括すればそこに分類されるだろうが、それだけでは説明できない感情が、あるような気がしたのだ。
深雪に対してのみ、抱ける感情。
だが、これは果たして抱いて良い感情なのだろうか。
「――お兄様、お待たせいたしました」
「随分本格的に淹れたんだね」
「…よろしければお兄様にもご試飲いただければ、と」
「いただくよ」
ご試飲、ということは彼女はずっとこれを淹れる練習をしていたらしい。まだ、彼女の目指す物は淹れられていないのか。
緊張した面持ちでトレイを抱きしめている。
そんなに心配しなくても、香りだけでも問題ないように思う。
じっと見られながら飲むというのは妙な感じだが、一口口に含んだ。
同時にシンクロしたように深雪が喉を動かしたのが少しおかしくて口元が綻ぶ。
「美味しいよ」
実際美味しかったのでそう答えたのだけれど、深雪の表情はあまり喜んでいるようには見えない。不安が滲んでいる。
「深雪?」
「あ、ありがとうございます。どうですか、お味は?苦みが強いとか、香りが足りないとか」
そういえば試飲と言っていたから細かい感想を求めていたのか。
だが、俺は別にコーヒーにこだわりがあるわけでもない。というより食全体に対してそうこだわりはない。
だけどそれをここで言うほど世間知らずでもない。
「細かいことはわからないが、美味いと思うよ」
下手にたれる講釈も持ち合わせていない。だから正直に答えた。
先ほどと答えはあまり変わってはいないが本心だとは伝わったようで今度こそ深雪はホッと胸を撫でおろしたようだったのだが。
「お兄様に美味しいと言っていただけて安心いたしました」
「深雪も、コーヒーを飲むようになったんだな」
横に腰を下ろしたところで問えば、まだ初心者ですが、と返ってきた。
初心者とは?
「コーヒーは奥が深くて。紅茶もそうなのですが、また種類が違うと言いますか」
「そんなものか」
よくわからないが、深雪にも研究者の気質があるようだ。
食に向く辺りとても健全で良い研究だ。
しばらくコーヒーについて語っていた深雪だが、急に言葉が小さくなると、またも恐る恐るというようにこちらをうかがってくる。
「その、お兄様はどのようなタイプがお好きですか?」
「タイプ、か」
今深雪が話してくれた酸味の強いものや、果実を思わせるようなフレッシュなもの、フルーティーなもの、と様々あるらしいが、コーヒーを飲むのにそんなことを考えて飲んだことなど無かった。
苦いかそうでないか、それくらいしか気にしなかったように思う。
というか、それさえもどうでもいいと思っていた。カフェインを摂取することしか考えていなかった。
「深雪が淹れてくれたこのコーヒーはどういったタイプなんだ?」
正直酸味だ香りだ、というのはよくわかっていなかった。
コーヒーらしい香り、コーヒとはこういう飲み物、と判断していたのだが、そう言うと、深雪はそうですよね、と悲しげに眉を下げた。
「本日はあまり奇をてらったものにはせず、バランスを重視に淹れたのでどこかに特化したものではなかったのです。質問に不向きなコーヒーでしたね」
「いや、バランスがいいから飲みやすかったんじゃないか?深雪はどうなんだ?」
誉め言葉になるかわからないが飲みやすかったと伝えれば、深雪にとってはそれも喜ぶことだったらしい。
だが、これ以上感想を求められても答えられないと、今度は深雪に水を向けた。
「そう、ですね。私は苦みが得意ではないので、酸味が強い方が好きです。苦いのも偶にならいいのですが、ミルクが欲しくなりますね」
深雪はあまり苦すぎるものは好まないらしい。
だが、ラテやカフェオレなどにすれば好き、と。深雪の好みを把握するのは俺にとっては大事なことなので一言一句記憶する。話している時の表情も重要な参考資料だ。
ブラックで飲む場合はフルーティーなものがフローラル…コーヒーに花の香りなんてあっただろうか。果物も感じた覚えなどないが。
「豆の種類もそうですが、焙煎などもこだわると本当に種類が豊富で。豆の挽き方ひとつでもこれだけ味が変わるのかと、いろいろと試しているのですが、あまり数を飲めませんので…」
「…もしや、このところ悩んでいたのは」
「はい。お恥ずかしながら…」
そう頬を染めて手を添えながら俯く深雪はまるで絵画のような可憐さと美しさがあった。
同時に彼女の悩みが細やかだったことに安堵して、頭を撫でる。
「そうか。解決はすぐにはできないだろうが、俺に手伝えることがあるなら言ってくれ」
「本当ですか!」
ぱっと上げられた顔には、先ほどと打って変わったような晴れやかな笑み。
一番見たかった輝かしい笑顔に心の中にあった靄のようなものが晴れたのが分かる。
(やっと、この笑顔を向けてもらえた…)
「ああ、俺でできる事であれば」
「そう言っていただけるだけでも嬉しいです」
思った以上の喜びように、彼女にとってはそれなりに大きな問題だったのかもしれない、と認識を改めた。
俺にとってはたかがコーヒーの味でも、彼女にとっては思い悩むほどの内容だったのだ。
「あの…それで、お兄様のお悩みというのは何なのです?」
そういえば互いに打ち明ける為に時間を設けたんだったか。
しかし困ったな。
「俺のはほぼ解決してしまったよ」
「え?」
「深雪が笑ってくれたから、俺の悩みは吹き飛んでしまった」
「もう!お兄様、誤魔化さないでくださいませ!」
深雪は恥ずかしがるように顔を真っ赤に染めて背を向けるように反らされるも、隠し切れない首筋が色づいていて、――ゆっくりとそこから目を背ける。
「誤魔化してなんていないよ。本当なんだ」
嘘ではない。靄のように胸にあった何かが、深雪に笑顔を向けられた途端霧散した。
深雪だけが使える、俺にだけ有効な魔法――とは、流石にくさいだろうか。だが、妹だけが俺の心を豊かにしてくれる。それは本当のことだ。
「…わかりました。疑いはしません。お兄様を信じていますもの」
「深雪…」
深雪から寄せられるこの絶対的信頼は嬉しくもあるが、心苦しくもある。俺は深雪に嘘を吐くことがあるから。
騙されていてほしい、と願って。
そして深雪はその願い通りに信じてくれる。疑わしいはずのその嘘を。だからこそその気持ちには報いなければならない。
嘘をついても、できるだけ本心を。
誤魔化す時は、徹底的に。
だが、今回はそんなことをしなくてもいい――例えば俺の兄としてのプライドや面子だけの為なのだとしたら、深雪の気持ちに応えたいと思う。
恥を忍んででも、心を晒そう。それが、彼女の望みなら。
「自分の気持ちが分からなかったんだ。深雪が、何かに気を取られていて悩んでいることに気付いた。俺の腕の中で、何か別のことを考えていると。すぐにどうにかしてあげたいと思った。だが同時に、…心に靄のようなものがあってな。それが何なのかわからないが、深雪がこうして笑ってくれたことでその靄が消え失せたんだ。だから――。どうした?」
先ほどまで隠す様に背を向けていたのに、真っ赤な顔はそのままに、ただでさえ大きな目をさらに見開いてこちらを凝視していた。
零れ落ちんばかりの瞳がキラキラと輝いて見えるのは水気を帯びているからだけではない。彼女の感情が映し出されているから。
どういうわけか、喜んでいる。それも、俺の発言で、らしいのだが。一体何を喜ぶことがあるだろうか。そんなに面白い話をしたつもりはない。むしろ、情けないことを吐露して、深雪に助けられた話をしたつもりだったんだが。
俺は深雪に何もしてあげられないのに、深雪はこうして俺を助けてくれると話しただけで何をそんなに喜ぶというのか。
名前を呼ぶ。だがその声は情けないことに不安の滲んだ声だった。
しかし深雪はぎゅっと目を瞑ったかと思うと、今日一番の笑みを浮かべた。
「失礼いたしました。ですが、あまりにも嬉しくなったのです。お兄様がつらい思いをされたのに喜ぶなど、ひどい妹ですが、それでも言わせてください。私は、お兄様の心の成長を、嬉しく思います」
(こころの、せいちょう…?)
深雪を見つめ返すと、彼女は俺の手を取ってぎゅっと胸の前で握りしめる。
「その靄の正体は、『寂しい』。お兄様はいつもと違う私の対応に戸惑われ、物足りなさを覚えられたのではないでしょうか」
…そうだ。と、言葉にしなくとも伝わったのか、握る手に力が籠められた。強く、存在を強調するように。
(俺は寂しかったのか…。言われてみれば、そのような記憶があるような気がする。いや、確かにあった)
それは6歳の手術を受ける前。まだ物事を理解できていない頃、そんな思いを抱いたことがあった。
寂しい、悲しい、辛い――、そんな人として当たり前の感情を、俺は遠い昔経験をした。
「そう、だったな。これは、『寂しい』だ」
不満や不安の中の、寂しいという感情、――心。
「お兄様。その靄を見つけましたら、必ずお声をかけて下さいませ。必ず私はお兄様の下へ駆けつけます。もし、傍に居られなくても、想いだけでも必ず傍におります。私の心は必ず、お兄様のお傍に。そして必ず私の下へお戻りください。僭越ながら抱きしめさせていただきます」
「大げさだな。…でも、そうか。抱きしめてくれるか」
「はい。お兄様の寂しさが無くなるまで」
「それはとても贅沢だね」
「贅沢ではありません。お兄様の当然の権利ですとも」
深雪は権利を主張してくれるけれど、そんなもの、俺にはなかった。
遠くから、眺めるだけ。それが俺に許されていた距離だった。
それを許してくれた、受け入れてくれたのは深雪だ。
「これからは、もっとたくさんのモノをお兄様は望まれていいのです」
「これ以上のモノを…?そんなもの、あるのか?」
もちろんです、と言い切る妹に、そうか、とそっと目を伏せた。
口元に自然と笑みが浮かんでいたことに、深雪が顔を赤くしてさらに笑みを深くしたのをこっそりと盗み見をしたのは、黙っていよう。
――
あんまりにも美味しいコーヒーの追求がうまくいかず思い悩んでいたら、その喜ばせたい相手を寂しがらせた私は大罪を犯したと思う!!でも、同時に、お兄様が寂しがってくれたことに私は喜びを隠せなかった。
お兄様との触れ合いを徐々に増やしてきて、心も徐々に打ち解けてきたと日々実感していたのだけど、今回は大きな進歩だ。
(ふふ、寂しいだって!お兄様が!いくら妹のこととはいえ一線引いていたのに、大分心を許して下さるようになった証拠よね!)
これからはもっといろんな欲求を持ってほしい。もちろんその相手は妹だけではない。お兄様には衝動を奪われただけで感情があるのだから。もっといろんなことを思い、悩み、欲していいのだ。
今のうちにその感情を育てていけばお兄様はもっと幸せを感じられるはずだ。
その分辛くもなるかもしれないが、それが人生という物。人生楽があれば苦もある。苦しみを味わった分だけ幸せが無ければ釣り合いが取れない。
お兄様にはこれからたくさんの幸せが雪崩れ込む予定なのだから。
その一環として、お兄様の好きなコーヒーを淹れられるように、と張り切ったはいいのだけど。
コーヒー道は果てしなく先が長く、険しい。素人が簡単に突っ込んでいい道ではなかった。
やっぱり最初に葉山さんの味を知ったのは良くなかった。
何を淹れても何かが違う。
練習を積んでそれなりに形になってきて、気付いた。
お兄様は葉山さんのコーヒーを美味しいと言ったけど、好みは深雪ちゃんのコーヒーだと。
そして深雪ちゃんはお兄様の好みを研究して淹れているのだと。
…この時点で作戦は破綻していたのだ。
それで頭を抱えたら、お兄様を寂しがらせていた、と。
……もう、お兄様になんと詫びたらいいのか。
でも、まだ巻き返せるはずだ。お兄様の好みのコーヒーへの道が閉ざされたわけじゃない。
これから見つけて行けばいいのだ。
先ほどお兄様も手伝ってくださると言っていた。この際オープンにしてお兄様にも手伝っていただこうではないか。
「お兄様!」
「何だい?」
「お付き合いしてくださいませ!」
……私はこの後お兄様に言葉の足らなさを注意された。
それから、毎日コーヒーを1日5杯と決めて試飲をしてもらった。
もちろんお兄様にだけ飲ませるのではない。私も、というか私はお兄様に提供する前にも飲んでいるので計10杯は飲んでいる。量は減らしているけどね。二人で一杯分。それでもそれなりの量である。
お兄様は初め美味しいしか言ってくださらなかった。
あまりにも「深雪の淹れたコーヒーは美味しいから」、と言われすぎて、ちょっと意地悪をしてみたくなり一杯だけHARに淹れてもらったら、なんとお兄様はその一杯に眉間にしわを寄せて、
「…これは、淹れ方を変えた…のではないな。本当に深雪が淹れたのか?」
…速攻で謝ったよね。
何故ピンポイントで気付きました?もしや、こんなことで使うとは思わないし、成分で判別がつくとも思えないのだけど、お兄様エレメンタル・サイトを…?
「いや、視たわけじゃないよ。…でもそうか。どう淹れられたか工程を遡れば…いややっぱり必要ないな。深雪が淹れた物はわかる」
断言されました。視たわけでもないのに何故…?何度も私が淹れたのを飲んだことで区別がついた?
だとしたら凄すぎない?味が違うことはわかるけど、これが機械が淹れた物、なんて区別はつかない。
ちなみにHARのコーヒーは普通なのだそう。いいお豆使ったんだけどな。
でもこれで分かったのはお兄様、私が淹れた物なら何でも美味しいと思ってしまって味の区別をつけないということ。
「…困りましたね。どのようなお味が好みか知りたかったのですが」
「深雪が淹れたのが好みではいけないか?」
「そう言っていただけるのは嬉しいのですが、お兄様がどのようなお味が好きなのかが重要なのです」
「多少違うことはわかるんだが、深雪が淹れてくれたと思うとな。どうにも魔法が掛けられているように美味しく感じてしまう」
もちろん魔法なんて掛けていない。せいぜいお兄様に美味しく飲んでもらおうと祈りながら淹れているだけ。
「HARで淹れたコーヒーの違いは分かるかもしれませんね」
普通のコーヒーだというのなら、違いについても正しく判断できるかもしれない。
と、チャレンジしてみたらあっさり違いが分かるように。
「これなら区別できるみたいだ」
「そこからどのような味が飲みやすいというのはありますか?」
「…」
区別はできても好みまでは考えていなかった模様。それが一番大事なことだったのに。お兄様ったら。
「では、この中で私に淹れてもらいたい味はありましたか?」
「それなら、左から二番目の苦みの濃いのを夜にお願いしたいかな」
「!」
ようやく…!!お兄様のお好きな味が!
だけどまだHARでの調査は始めたばかり。
ということでこの晩はお兄様の好み第一号として、選ばれた苦みのあるコーヒーを愛情たっぷりこめて淹れさせていただいた。とても喜んでいただけた。
それからも酸味の中ではどれが好みで、どのようなシチュエーションで飲んでみたいか、とかをチェック。
だんだんと明らかになっていくお兄様の好みにやりがいもアップ。コーヒーの味の研究も進むようになった。
そしてある日――
「…流石にやりすぎましたでしょうか。体からコーヒーの香りが取れない気がします」
鼻がおかしくなったのか、本当に飲みすぎて体に染みついてしまったのか。
すん、と腕の香りを嗅いでみる。…香ばしい香りがするような気がする。
それを見たお兄様は、スッと近づいて少し屈むと側頭部のあたりに鼻を寄せて――って!
「お兄様!」
「確かに少し香るような気がするね」
「っ!やっぱりそうですか?!」
お兄様に嗅がれたことを注意しようと思ったらお兄様からも匂いがするとの言葉にやっぱり!?と青ざめる。
これ、魔法で何とかなる?ならない⁇
「分解や発散は外部の匂いなら何とかなるだろうが、体臭ということは外に出ていることになるのか?…やってみる価値はあるか」
…なんだろうね、体臭って言われると急に恥ずかしくなる。というかこの状況とっても恥ずかしい!
「あ、あの、お兄様、自分でできますので」
「あ、ああ。すまん」
お兄様も距離が近いことに気付いたらしい。
ハグと比べると離れているけれど、していない時にこんなに近いことは無いから。
連日のコーヒーが、お兄様の感覚を狂わせたのかもしれない。
このところちょっと目がね。コーヒーに染まったようにどよんとしていました。
流石に連日量の多いコーヒーは成長期の体に良くない影響をもたらしたようだ。
「…そろそろ研究はいいんじゃないか」
「そうですね。お兄様、お付き合いいただきありがとうございました」
私もようやくやりすぎに気付きました。
「でも、これでお兄様にいつでも喜んでいただける一杯を提供できます」
「楽しみにしているよ。だけど、しばらくコーヒーはおやすみしようか」
身体からコーヒーが抜けきる間、お兄様は紅茶党に鞍替えしていた。
…どんなことにも耐え抜いてきたお兄様も、ずっと同じものは辛かったみたい。反省。
お兄様は妹のおいしくなぁれの魔法に気付きます。だからどれを飲んでも美味しいし、妹の料理はすべて美味しい。
多分焦げてても気にもならない。
もちろんそんなもの提供しないけどね。
中学時代の徐々に生活に慣れてきた二人の関係。
お兄様は妹に対してどんな感情も感じられるけど、どれがどういう感情なのかが分からないといいな、と。
手探り状態。ひとつ見つけるごとに妹が喜んでくれるのでお兄様もハッピー。でもこれっていい感情かな?と思いつつも妹が喜んでるからいいか、と。
まだ高校のあの感じには程遠い。まだちゃんと兄妹になろうとしているところ。でも残念それは普通の兄妹じゃない。
だけどまだギリギリ兄妹判定はセーフ。恋人には見えない。近すぎると謝って離れられるくらいの初々しさがある。
お粗末様でした。