「報酬の話に移ろう。私から出せるのは、この程度だ」
トゥジクスから提示されたのは、平均的な帝国市民が稼ぐ月収の倍近い金額ではあるが、命をかける代償としてはあまりにも少ないものだった。組合への納入金を引けば、実際の実入りは目減りするだろう。ラ・シエラ領から帝都までは、馬車を用いたとしても一月はかかる。無論これは何事もなく進行できた場合の話で、実際はそれ以上かかるだろうし、帰りの旅費も必要だ。もっと割りの良い仕事はいくらでもあった。
「満足な額を用意できず忍びない。本来ならこの三倍は用意して然るべきなのだが……これでも依頼を受けてくれるのかね?」
セスは少しだけ考えるふりをする。報酬がいくらであろうと決して心変わりはありえなかったが、下手に出すぎるのもいらぬ誤解を招く可能性があった。
「旅の経費を負担して頂けるのであれば、それ以上は望みません」
トゥジクスはセスの目をじっと見つめると、しばらく口を開かなかった。皴に囲まれた瞳は、シルキィと同じ鳶色である。心を見透かされそうな彼の目に、セスは真正面から応えた。セスには一片の負い目も後ろめたさもなかった。
それが伝わったのだろうか。トゥジクスはひときわ大きく頷いた。
「そうか、ありがたいことだ。旅費はティアに持たせる。必要ならば申しつけてくれ」
部屋の隅に控えるティアと目が合うと、彼女は軽く会釈する。
トゥジクスはティーカップを端に寄せると、テーブルの上に地図を開いた。セスも対面からそれを覗きこむ。カップが空になれば、ティアがその都度紅茶を注いでくれた。
「目下、懸念すべきは治安の悪化だ」
髭を弄って言い淀んだトゥジクスの後を、セスが続けた。
「近頃は敗残兵による市街への襲撃が激しいと聞きます」
トゥジクスは首肯し、紅茶を口にする。
「旧国境沿いにはここ数年で帝国に併合されたいくつかの領地が隣接している。情勢は一見落ち着いているが、地域によっては戦時と変わらぬ脅威に晒されているとも聞く。特に旧エーランド王国残党の抵抗は非常に激しく、人攫いが頻発しているとか。犠牲者には有力貴族も含まれているという話だが、国は手をこまねいているのが現状だ。それに伴って賊も増え、街道の治安も悪化している。危険な旅になるのは間違いない」
セスは口を噤んだ。予定する経路は、まさにその旧国境沿いである。
シルキィの身を案ずるなら、やはり無理にでも休学させた方がいいのではないか。そんな考えが脳裏をよぎったが、貴族が決めたことを変える権利などない。
「ご安心ください。必ずや無事に、お嬢様を帝都までお送り致します」
ゆえに自分にできることは、力の限りを尽くしてシルキィを守ることだけだ。
「しっかり頼むぞ。これは領主としてではなく、一人の父親としての切なる頼みだ」
「お任せを」
一通りの打ち合わせを済ませると、二人は世間話に花を咲かせた。話題は専らセスがここに来るまでに立ち寄ったラ・シエラの主都サンルーシャについてであった。
「サンルーシャは素晴らしい街ですね。道は整然とし、清潔を保ち、自然の趣もある」
街並みを思い出して、決してお世辞を交えることなく、率直な感想を口にしていた。
「なにより人々の顔が明るい。皆が暮らしを楽しんでいるようでした。あんなに生き生きとした街は、帝国広しと言えど滅多にありません」
飾り気のない称賛の言葉に、トゥジクスは顔を綻ばせる。
「街に活気があるのはよいことだ。民の生活に希望が生まれる」
「愚かな指導者であればまず財政の立て直しを図る状況で、トゥジクス様は領民の生活を重んじられた。心より感服いたします」
セスが言い終わるや否や、トゥジクスは愉快な笑い声をあげた。
「愚かな指導者か。実に、的を射ておる」
彼は紅茶を一口含むと、ゆっくりと味わってから飲み込む。
セスはトゥジクスの笑い声の意味を把握しかねていた。
「私は、その財政の立て直しをしようとしていてな」
「それは――」
「まぁ待ちなさい」
謝罪しようとしたセスを遮って、トゥジクスは続ける。深い皴の刻まれた笑みは嬉しそうであり、どこか自嘲的でもあった。
「わたしは戦後の執政を、前例に基づいて行うつもりであった。税を増やし、財力と戦力を整え、それを背景に他領との外交を円滑にする。先帝からこの地を賜った我が父も、きっとそうしただろう。概算では十年余りで、戦前の状態に戻せる見込みであった」
可もなく不可もない保守的かつ効果的な政策だ。政府の財政は税によって支えられている。つまり、領民への皺寄せによって財政を回復させるということだ。
「その話を聞きつけたあるお方が、猛烈な反発をなさった。民の暮らしを犠牲にするとは何事だ。貴族とは民の生活を守るための存在だ。などと主張されてな」
その通りだと、セスは思った。民は統治者の奴隷ではない。むしろ、政治を行う者こそ民の僕であるべきだ。真の指導者とは、民の栄光の為に自らを犠牲にする者に相違ない。
「その、あるお方というのは……一体どなたなのです?」
ラ・シエラ辺境伯に物申せるとなると、相当な地位の人間だろう。少なくとも侯爵以上。まさか、皇室に連なるやんごとなきお方だろうか。
「シルキィだ」
セスは一瞬、呆気にとられた。あの高飛車を絵に描いたような彼女の口から、そんな高潔な言葉が出てくるとはにわかに信じられなかった。年頃の少女である。贅沢もしたいだろう。彼女の振る舞いからして清貧とは無縁に思えた。
トゥジクスはイタズラが成功した少年じみた笑みを浮かべ、すぐに咳払いをして厳格な表情に戻す。
「驚くのも無理はない。私もそうだった。だがその後に続く言葉を聞けばどうだろう?」
セスは傍らのティアを一瞥した。彼女は眉一つ動かさない。
トゥジクスはテーブルを軽く叩き、語気を強めた。
「そんなことをすれば、ラ・シエラが野蛮人で溢れてしまう!」
カップとソーサーが揺れ、高い音を立てる。部屋にはひとときの静寂が訪れた。
どちらからともなく、セスとトゥジクスは笑い出す。
ああ、なるほど。確かに彼女なら言いそうだ。
税が上がれば消費が滞る。需要は減り、供給は不必要とされ、多くの人々が職を失うだろう。その結果、アルゴノートにならざるを得ない者が続出する。それはシルキィにとって、耐えがたい事態に違いない。
「どこまで本心か分からないがね」
トゥジクスはソファに座り直して腕を組みながら、天井を仰ぎ見た。
「結果的に、街の整備や領民への生活支援を優先させたおかげで求心力は強まった。民衆の支持という得がたい財産を手に入れたわけだ」
セスのティーカップは空になっていた。ティアが淹れたての紅茶を注ぐ。
「お嬢様の民を想うお気持ちに偽りはございません」
いつもの平坦な声色は、ほんのわずか強まっていた。
「であることを祈るばかりだ」
トゥジクスの呟きに、セスも首肯した。
もしティアの言う通りであるならば、その優しさと思いやりを少しでもアルゴノートに向けてくれないものだろうか。
そう願わずにはいられなかった。