首輪が外れるその時に 作:dekunobou
最終電車、異世界行き
瞬きの後、昼間の眩しさとともに五感へ飛び込んできたのは見知らぬ街の雑踏だった。
「あぁ?」
石やレンガで建てられた建物に石畳の道。目の前をガラガラパッカパッカと音を立てて行き交う馬車に、まるで聞き覚えのないことばを話す人々。誰も彼も古めかしいドレスやスーツ(それにしてはやたら丈が長い)を着ている。そして鼻をつくのはなんとも言えない嫌なにおい、いや、どストレートにいうと
だってほら、足元を見てごらん。履きジワがしっかりついた革靴ギリギリに素敵な落とし物。そりゃそうか、馬車を曳くお馬さんは垂れ流しだもんなぁ。毎日の終電帰りが続いてメンタルが死に絶えてる今、もし踏んでたら一筋の涙が頬を伝うことになってたぜ。フゥー危ねえ危ねえ。
さてと、だ。
おれはどうしてこんなところにいるんだろう?
ここはどこ? わたしはだれ? おれは
さっきまで帰りの電車に乗っていて、最寄駅についたから電車を降りて……。だめだ、おれの頭はもうおしまいみたいだ。連日の残業に次ぐ残業、ついでの休日出勤でとうとう壊れてしまったらしい。電車を降りたら、そこは不思議の国でしたってか。ほら見ろよあのお馬さん、イッカクみたいなツノ生えてんじゃん。ファンタジーじゃん? バカがよ。
「——! ——!!」
そんなふうにとりとめのないことを考えていたせいか、往来の邪魔をしていたようだ。真後ろからドスの効いた怒鳴り声が降りかかってきたので、すかさず道を開けた。
「あ、すんませんすんません……わぁ」
いつもの習性でへこへこアタマを下げつつ、おれは怒鳴り声の主を見上げた。……ぶったまげた。今度は豚さんの顔をしたおじさんだもん。オークっていうんだっけ、分厚いコートに恰幅のいい体を押し込んだ豚面のおじさんが、デカくて黒光する馬車の御者台にデーンと座っている。繋がれたお馬さんたちの体格も大層立派で、ツヤッツヤの鬣の間から覗くのはヤギみたいにねじくれたツノ。無駄にバリエーション豊かかよ。
「——ッ!」
「あっすんません気をつけます」
何を言っているかわからないが、通り過ぎざまにもう一言、割とガチな剣幕で怒鳴られた。たぶん、『危ねえだろ轢き殺すぞ!』くらい言われたんじゃないだろうか。この歳になってマジトーンで叱られるのってめっちゃ堪える。割と最近そういう仕事が多いけど、慣れるわけない。嫌な汗出てきた。
しかも、心なしか周囲からの視線が冷たい……。なんかとても突き刺さるような視線を向けられている気がする……。おれは意識しなくても浮かんでくる曖昧な笑みを顔面に貼り付けて、周囲を伺った。
街を行き交う人々は足を止めない。しかし、忙しなく過ぎ去っていく誰も彼もが、おれに冷たい視線を投げかけていた。マンガやアニメ、ゲームで親しんできたようなファンタジーの住人が、おれのことを白い目で一瞥して去っていく。一瞬で嫌な汗が吹き出して、こめかみに強烈な圧迫感。喉の奥がひきつる。
おれ何かやっちゃいました? いやまあ往来を妨げはしたんだけど。
そのほかの心当たりは全くない。当たり前だろ、こちとら何もしてねえのに不思議の国に放り出されたんだ。着ている服も、仕事帰りだったからスーツだ。確かに二着で3万円の安物だけども? そう周囲と大差ないだろう。わけわからねえ言葉を喚きながら、よくわからねえガキが往来を駆けていく。……ガキのわりには嗄れ声だったけど子供だよな? ダメだ何もわかんねえ……。
おれは軽い頭痛を覚えながら、ヨタヨタと建物の側へと身を寄せた。このまま壁に染み込んでしまいたい。そんでこの訳わからない状況も終わりにして欲しい。たぶんこれは働きすぎてぶっ壊れた脳みそが見せた夢なんだ。きっと目が覚めたら、家のベッドかデスクの下の寝袋、もしくはデスクに座ったままか。へへ、笑えてきたぜ。人心地ついたからか、少し季節外れの寒さすら覚えた。髭の先っちょが顔を出し始めた頬がひんやりする。
おれは体重を壁に預けたままうんこ座りの体勢をとると、肩掛けのビジネスバッグからタバコを取り出した。満員電車に揉まれて、少しくたびれた様相のハイライト。パッケージのケツをデコピンすると、くしゃくしゃの銀紙の間からちょうど良い感じに一本飛び出してくる。おれはそのフィルターを唇で引っ掛け咥えると、百円ライターで火をつけた。
「んにしても変な夢だぜ」
たっぷりとした煙と共に、思わずこぼれてしまう独り言。五感を通して伝わる細かいディティールが無駄にリアルなくせに、まったくもって荒唐無稽、意味不明の夢だ。きっと、レム睡眠で脳みそがフル回転してるんだろう。こりゃ目が覚めても全然疲れが取れねえやつだ。最悪〜。
おれは眉間をぐりぐりと揉みながら、ぼんやりとタバコを吸い進める。ハイライトは比較的
おれは三度ほど煙を吐き出すと、携帯灰皿へ余分な灰を落とした。夢の中でも律儀なもんだぜ。路上喫煙は多めにみてくんなまし。周りもパイプとかプカプカやってるんだから、さ。
いやあしかし、本当に壮観だ。クラシカルでヨーロピアンな街並みに、ファンタジー作品からまんま飛び出してきたような人々。
ひょろっとして耳が長い人、背が低くて髭もじゃな人。
ハスキー犬みたいな顔をした人に、毛皮のコートを纏った爬虫類っぽい人。
要素マシマシごちゃまぜ全部乗せって感じだな。
もちろん普通の人もいる。ただそのほとんどがコーカソイドって感じで、おれみたいな平たい顔は全然いない。なるほどですね〜。そんな感じだからか、遠慮のない視線が刺さる刺さる。
んだよテメー! 見せもんじゃねえぞ!
とでも叫び出したい気分だが、そんな元気ありません。こちとら終電帰りの限界くたびれ社畜おじさんだからね。もう一本くらいタバコ吸ったら目、覚めねえかな。あしたも仕事なんすけど。
「——、——」
そんなことを考えている時だった。通りの奥から、ガヤガヤざわざわと騒ぎ声が近づいてきているのに気がついた。最近仕事終わりにはカスッカスでしょぼしょぼする目をそちらに向けると、確かにちょっとした人だかりがこちらへ向かってきている。
ああん、なんだぁ? なんか集団の先頭、何人かおれの方指さしてない?
おれは吸い刺しのタバコを携帯灰皿に捩じ込み、どっこらしょと立ち上がる。すると、例の集団の少し奥にいる、お揃いの背の高い帽子を被った連中が目に入った。いや、帽子だけじゃない。連中は紺色の布地に金色のボタンのコートをビシッとキメている。多分、制服だろう。
問、なんの制服?
答、たぶん警察的な権力側のサムシング。
いやだってなんか人波を押し分けてきてるし。なんか皆さん威厳のあるお髭を蓄えてるし、腰のベルトに棒とか拳銃のホルスターみたいなの括りつけてるし。
何、何、何事なの一体?
せっかくチルしてたところなのに。なんかもうあからさまにおれが目的じゃない? おれ何かしちゃいましたか? 逃げていい? 逃げるね?
俄かに騒ぎ出した脳内を無視して、おれの足は連中と反対方向へ歩みを進め始めていた。あたまのどこか隅の方で(こういう時逃げるとかえって良くねえんだろうなあ)とか思い浮かべながら、次第に歩調が早くなっていく。しょうがねえじゃんよ、君たち何喋ってるかマジわからないんだから。何聞かれても答えらんねえよおれ。
「——!!」
彼らがおれを目標としていること、確定。背後からぶつけられた怒声を合図に、おれは堪らず駆け出した。どこへ逃げればいいかはわからないが、これだけ往来の多い道だ、ある程度走れば撒けないだろうか。そんな希望的観測を抱きながら、1ブロック分通りを駆け抜ける。おれはすかさずその角を曲がる。
悔しいことに、この街はしっかりと区画整理が行き届いているらしい。さっきまでいたのと良く似たつくりの道が続いていた。
内勤マンだから、安物でもそれっぽいのがいいと思って買った革靴。そのクッション性が全くないソールからダイレクトに石畳の硬さを感じる。それとすぐに切れる息。運動不足と不摂生を実感する弛み始めた脇腹がガンガンと痛む。それでも、走るのを止めるなんて選択肢はなかった。だって怖えもん! でももう限界かも……怒鳴り声がどんどん近づいてくる……。
おれはとにかく、藁にもすがる思いで目についた細い路地へ飛び込んだ。全くもって見知らぬ街。この先が袋小路でない保証はないが、どうせ大通りのままじゃ絶対捕まるし! アクション映画とかでも路地裏を走るの、定番でしょ! わかんないけど!
果たして、飛び込んだ先は薄暗くて湿っぽい道が続いていた。賭けに勝ったぜ! おれはガッツポーズを決めながら背後を伺う——。
瞬間、乾いた破裂音が響いた。地元でよく聞いた、獣避けの爆竹のような音だ。
そのすぐ後、脇腹に熱。殴られたような衝撃にたたらを踏む。
「ぐっあっ
熱はすぐさま強烈な痛みに変わる。反射的に抑えた左の脇腹、ジャケットの下のワイシャツがどす黒く染まっているのが見えた。
(なんだこれ、あの音、撃たれた? 銃で?)
頭を埋め尽くす疑問符。全身に吹き出す脂汗。慣性のまま足を進めるたびに走る激痛。後ろを見やると、手に拳銃を持った若い奴が、上司っぽいやつにぶん殴られてた。へっ、ざまあみやがれ。
「ぐあっ」
その脇見がいけなかった。おれは足を絡れさせると、右肩から受け身の一つも取れずにぶっ倒れた。そのまま、うっすら汚泥の積もった石畳に頬擦りする。
(あぁクソ、クソ痛え、マジでなんなんだよこれマジでクソがよ)
おれは語彙の乏しい罵倒を胸中で喚き散らし、指先で地面を掻く。しかし、身体が言うことを聞かない。今まで体験したことのない痛みのせいで腹筋が痙攣して、四肢が縮こまろうとする。まるで、いたずらに甚振られ、死に損ねた虫のようだ。
ぜえぜえと、肺とかにも穴が空いてるんじゃないかってくらい荒い呼吸が止まらない。無様にも地面と熱い抱擁を交わしたおれは、這いずりながらなんとか壁に背を預け身を起こすことに成功した。そして、自由になった両手を、じっくりと眺める。
ぬらぬらと、重たい赤だ。
重たい赤がべったりとてのひらを塗りつぶしている。
ぬめり気のある赤が、おれの脇腹からとめどなく滲み出ている。
「へっへっへ」
乾いた笑いが、無意識に溢れる。
クソが、笑うしかないでしょう、こんなの。まさか、日本生まれ日本育ちのおれが銃で撃たれるなんてさ、考えたこともねえよ。いや、学校にテロリスト的な妄想はしたことあるよ。でも妄想の中じゃ、テロリストの弾は当たらねえって相場が決まってんだろ。ちくしょう。おれ、いい歳こいて海外すら行ったことないんだぜ? こうなるならどっか行っときゃよかったな。南アフリカでも体験できねえぜ、こんな状況。
あれだけの激痛も熱も、驚くくらいのスピードで過ぎ去っていく。そして入れ替わるように虚脱感と寒気が顔を出す。あいかわらず、ぜえぜえと息をする。
「——!」
そうして、警官たちががやがやと俺を取り囲む。彼らの手には、なかなか威圧感たっぷりの警棒とお揃いの拳銃。一発撃っちまえば全員で持ってもおんなじってか。おれの脇腹に穴を開けやがったあんちくしょうも、鼻血まみれのまま真面目腐った顔してら。目の周りを青くしてまでご立派なことで。
一体俺がどんな悪事を働いたって言うんだ。免許だってピカピカ金色ゴールド免許だわ。こんないい子なおれを囲むくらいなら、労働基準法をガン無視してる弊社をめちゃくちゃにしてくれよ……。あ、名ばかりとはいえ管理職だからおれも片棒担いでんのか? もしかしてお縄についた方がいい?
そんな脈略のないことを考えている間に、次第に重くなっていく思考と身体。
ああ、なんか、背中と壁の境界が曖昧になってきた。ゆっくり、落ちていくような。警官のがなり声すら心地よく感じてきたぜ……。
鉛みたいに重くなった瞼によって閉ざされていく視界の端、南国の海のような碧い炎が躍ったような気がして――。
「おっ」
ドゥルン! という壁と地面が消失するような感覚とともに、おれは確かに浮遊感を覚えた。
やっぱ夢やんけこれ!
+ + + +
なぁんだ、もう死にかけじゃない。面白そうなにおいがすると思って駆けつけたのだけど、無駄足だったかしら。
あら、急にどうしたの、あなたたち。
なに? どうなってもいいからやってみよう?
……大丈夫なの? まだ生きてるっぽいんだから、壊したりしないでよね?