首輪が外れるその時に 作:dekunobou
おれがまだ子供の頃、具体的にいうと小学3年生の頃。クラスメイトにガキ大将がいた。
男子の中で一番体格が良くてお調子者で、やんちゃが服を着て歩いているみたいなやつだった。いたずらやちょっとした喧嘩は日常茶飯事で、ベテランの先生じゃなければ手に負えないようなクソガキだ。令和最新版のキッズにゃなかなかいないタイプだろう。古き悪き時代の搾りかすみたいなやつだった。
当時のおれはそいつのことが常日頃からうっすら嫌いで、ガキ大将もその取り巻きのことも一緒くたにぼんやりと見下していた。ちなみに、いじめとか怖いので直接口にしたり刃向かったりとかはしたことがなかった。幼い頃からの安定したクソダサさ、三つ子の魂百までとはよく言ったもので。
でも、そういう連中は空気を察するのがうまかったりする。もしくは、おれのそういう思いが態度に滲み出ていたのか。ある日の下校中に、難癖つけられてそいつらに囲まれたことがあった。
その時のおれは水生昆虫にハマっていて、両親に買ってもらった図鑑と観察キットにお熱だった。生まれ育った街が、市街地と自然との距離が近い地方都市というのもあったかもしれない。おれは学校から爆速で帰ると、網と観察キットを担いで近所中の用水路や小川をザブザブやりまくっていた。
その日も例に埋もれず、近所の用水路でよろしくやっている時だった。声変わり前のキンキンした声で名前を呼ばれ水面から顔を上げると、まだランドセルを背負ったままの奴らがおれを見下ろしていた。
どういう理屈で難癖をつけられたのか、あまり詳しいことは忘れてしまっている。たしか、普段から舐めてんだろとかどうでもいいことだった。あと、水生昆虫全般キモいとか言われた覚えがある。いやめっちゃかっけえだろ、タガメとか。モビルアーマーみたいでめっちゃかっこいいだろ。
問題はその後で、愛用のタモ網や観察用の虫籠をめぐって押し合いへし合いがあった。田んぼの脇の、舗装もされていない道だったので、そうしてるうちにガキ大将とおれは足を滑らせてしまった。
そんで、もつれ合ったまま用水路にドボン。おれは水遊びのための格好をしていたが、そいつは下校中。見事にランドセルまで水没してしまったのだ。
普通にざまあみやがれって思った。
でも、ガキ大将には取り巻きがいて、要領がよかった。そしておれは、そういう機微に疎かった。人の間での立ち回りなんて考えたこともなかった。
後日、全部おれが悪いことにされて大人からバチクソに怒られた。お互いの親を学校に呼んでのデスマッチだ。なお、向こうの親は控えめに言ってモンスターペアレント味があった。この親にしてこの子ありってやつだ、割とトラウマものである。
そうしておれは学んだのだ。物事の正しさなんてものは相対的で、力のあるやつが正義なことがわりかし多々あるということ。黒を白だと言い張って、それが認められるようなやつがこの世の中には確かにいる。おれはただ一人で昆虫採集をしていただけなのに。予備動作なしで叩きつけられた理不尽に、幼い頃のおれは枕を濡らしに濡らしまくった。悔しさとか憤りとか悲しみとか、全部ごちゃごちゃになってどうしようもなかった。
今思えば、あの時覚えた感情は……。
なんていうんだっけ、アレ。
……なんとかマンってやつ。ウルトラマンじゃなくて、アレだよアレ。なんかこう、あいつ腹立つぜクソーッて気持ちを高尚に言ったやつ。ルマンド、じゃなくて……。
ルサンチマンだ!!
「うわぁ!」
起きた! おれ、生きてる!? 目が覚めたってことは死んでない? あっ見知らぬ天井(ノルマ達成)!
おれ的にはガバッと飛び起きたつもりだったのだが、全然そんなことはなく。半端じゃない体の怠さと違和感でそれどころじゃなかった。持久走を散々走らされた後に全身の骨を粉砕したような感じ。うそ、ちょっと誇張した。いやまあ、そんなことはどうでもよくて、どうしてこうなってんだっけ。
とりあえず動かせる範囲で周囲を伺うと、どうやらおれは小さな部屋に置かれたベッドで横になっているようだった。壁紙は植物をモチーフにしたパターン。家具も最小限で装飾も少ないが、ひとつひとつ重厚感があって品の良さ感じさせる。壁へかけられたランプに灯りは灯っていない。しかし窓から差し込んでいるだろう柔らかな光が、部屋の中を照らしだしていた。小さく、鳥の囀る声が聞こえる。
静かで、牧歌的な目覚めだ。まるで人里離れたコテージにいるような清々しさ。肉体的な疲労感はひどいが、精神的な疲労はなぜかスッキリしている。こんな穏やかな気分で横になるなんて、いつぶりだっけ。
ズシンとした倦怠感すら心地よく思える。弛緩。でもなんで、どうしてこうなっているんだっけか……。同じような疑問を繰り返す。
あっそうか。確かおれは拳銃で撃たれたのだ。
腹に立派な穴を開けられて、血がダラダラと出て、すこしも止められなくて——。
「って腹ァ!? はらぁ……?」
思わず左の脇腹に手を当て覗き込むと、なんか胸の辺りが盛り上がっててぜんぜん見えない。それと、手のひらに触れる脇腹の感触も変。なんかふわっとしてて、やわらかい。あと声が変! 限界社畜おじさんのくたびれボイスじゃないの!
「ええ…………」
細かい模様の入ったクロスが貼られた天井へ向かって腕を伸ばす。その腕は毛むくじゃらだった。
あーね。やっぱおれ限界だったンだわ。夢が覚めねえンだわ。
伸ばした両手をグッパーする。手首のちょっと上から指先まで真っ白な毛に覆われた手が、おれの意思通りワキワキと動いた。あ、手のひらに肉球ついてる。真っ黒でツヤツヤなやつ。片手のそれを押してみると、魅力的な弾力が。犬というより猫だな。
じゃあ、さっきから視界の下にフレームインしてるこの部分はマズルってやつか? おれは伸ばした腕を戻すと、顔の輪郭を確かめた。まず、頬に触れて感じるのはみっしりと生えた短い毛の感触。そのまま口と鼻のあたりをまさぐると、想像通り犬猫じみて突き出している。この感じやっぱ猫っぽいかなぁ。
じゃあ、もしかしてだけど、耳もここら辺にあったりして? おれはよいしょと両手を頭頂部へ当てた。
結果発表。ありました、ケモ耳。人間耳の場所はなんというかストンとしてた。
うおん。おれは猫人間になってしまったみたいだぞ。ケモナーの気はないんだけどな……。
しかしこの夢、無駄にリアルというかなんと言うか。基本荒唐無稽なのに、随所にこだわりが見える的な感じ。なんか左右の腕で模様違うし。左腕はグレーの虎模様で右腕真っ黒、いや、微妙に斑点が入ってるか。とにかく、そういうところ。
ふと視線を上げると、窓辺に白い猫が1匹佇んでいた。
へちゃむくれで、毛足の長い猫。ペルシャ猫とかこんな感じだっけ。黒い革に真鍮色のプレートが埋め込まれた、お上品な首輪がよくお似合いだ。そんな猫が窓からの逆光を背負って佇んでいる。無駄に荘厳だけどそういうの好きよ。
「あらネコチャーンン゛ッ……」
ふざけて猫撫で声で呼びかけたら、想像以上に甘ッたるい声がでた。確かに自分の喉から出た実感がある分めちゃびっくりした。こんな媚び媚びな声出るなんて思わねえじゃん、そんなつもりはなかったんです。あっでもこれASMRとかで一儲けイケんじゃね? 夢だから無理? そう……。
となると、胸元の膨らみイズおっぱいか、あれ。
いやあ、なるほどね、女になるタイプの夢ね、なるほどね。
いや、なるほどじゃ無いが。
なに巨乳になってんだよおれ。よしんばなるんだとしても毛むくじゃらとか嫌なんだけど。こりゃちゃんと調べないと気になって夜も眠れねえなこれお前よぉオイ。なんだか興奮してきたな。
やかましい脳内のまま、しっかりと首元まで掛けられていた薄い布団をめくってみた。
おぉ……でっか……。
現場からは以上です。
おれはめくりあげた布団を元に戻すと深く嘆息した。
腕とかと同じく毛むくじゃらだったけど、お腹側は若干密度が薄くて
両の手のひらを、豊かな膨らみにそっと添える。
…………やわけえ。
「はぁ〜やわけえ〜」
手持ち無沙汰なもんでとりあえず揉んでおく。いやあ、こんなご立派なの、スケベ屋さんでもご対面したことないですよ。まあおれ自身がこうなっちゃご対面もクソもないんですが。揉んでる感覚もあるし、揉まれてる感覚もある。なんかもう夢か現かわかんねえな、この状況。
とかやってたら、いつの間にか窓辺にいたネコチャンが枕元にいた。へちゃむくれなお顔の、不機嫌そうな目がおれを責め立てているような気がした。うん、なんかごめんね?
その猫はいちど「フスン」と鼻を鳴らすと、虚空に向かってナーオと鳴いた。
「——?」
その瞬間、こぢんまりとした部屋に気だるげな女の声が響き、
碧い炎は一瞬で天井を舐めるほど大きくなり、ぱっと消え去った。不思議なことに、少しの熱も感じなかった。
そして、部屋中に残り火がちらちらと舞う中、何もない空間から黒ずくめの女性が姿を現した。
——まるで魔女みたいだ。
そう、魔女。
黒衣を纏った彼女を、一眼見た瞬間。
「ああっ……!」
全身を
名も知らぬ後輩たちが心血注いで整えただろう寝具がずれ落ち、乳房が
胸元に感じる、引っ張られるような重みにすら喜びを覚えた。僅かでも貴女の姿形に近づけたという、甘い自惚れ。でも、ご主人さまはスレンダーだから、かえって丁度いいかしらね。
惜しむべきは、この躯は借り物だということ。
すぐに、返さないといけない時が来る。
……なんだか少し勿体無い気もするわ。
あぁ、それでもこの方にもう一度お会いしたかったのだ。もう一度、両の
もう一度、わたしたちの名前を呼んで、その指で優しく毛並みを梳って欲しかった。
わたし、もっとご主人さまの隣で、あなたを見上げて、共に歩みたかったのよ。もっともっと、ご主人さまの手足としてお役に立ちたかった……。
いいや、こうやってふたたび相見えることができたのだ。これ以上を望んでは後輩たちに示しがつかないだろう。
わたしたちと貴女は、いつだって繋がっていたけれど。
一度でいいから、己の喉を通して、言葉としてお伝えしたかったのです。
獣の身では、終ぞ叶うことはなかったが。
今はほら、歌だって歌えそうなんだから。
「——」
おれの口から、放たれるはずのない言葉が紡ぎ出された。
炎と共に現れた女性は、おれの言葉を聞き入れると、深い慈愛の笑みを浮かべた。彼女は音もなくベッドサイドに立つと、優しくおれの背に腕をまわす。
「——、——、——。——」
そして、耳元で、ひとつひとつ区切るように何かを囁いた。
彼女の言葉が鼓膜を震わすたびに、たちまちおれの胸中に熱い情動が生まれ、染み込んでいく。
春の日差しのように優しく暖かで、真冬の極夜のように身を裂くほど切ない。そんな気持ちが、入れ替わり立ち替わり胸に去来する。
次から次へ湧き出てくる、全くもって身に覚えのない、それでいて懐かしい柔らかな記憶、想い。そのひとつひとつが、こころのずっと奥の方を突き刺して、どこか遠いところへ昇華していく。
いつの間にか、大粒の涙が頬を濡らしていた。
おれは、溢れる嗚咽を止めることができなかった。
わたしたちの名前……。
なんとなく、今も頭のどこかに引っ掛かっている気がするのに、もう二度と思い出せないだろうという確信があった。
胸の奥、突き上げる激情が去っていった後の虚しさを確かめながら、おれはただただ啜り泣く。
涙が引くまで彼女は何も言わず、おれの髪をやさしく梳っていた。