首輪が外れるその時に   作:dekunobou

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不敬かな? それって不敬だね

「そ、それでは、ひとまず執務室へ戻りましょうか。そろそろ、ヘイグの仕事も終わっているでしょうし」

 

 咳払いをして無理やり意識を切り替えたハミルトンさん、少しお疲れの様子だった。耳の先っちょに、さっきまでの騒動を引きずった赤みが残っている。あれをなかったことにしたいのは、正直おれも同じ。

 おれはその言葉に頷くと、再び彼の案内に従うことにした。彼の後ろについて、さっきスタンリーさんが嵐みたいに去っていった階段を降りる。

 

 うわぁ、階段まで厚手の絨毯が敷いてあるぜ。毛足の長いやつ。それを踏みしめると、足音が石の奥に吸い込まれていく感じがする。

 

 低めとはいえヒール付きの靴で降りるの怖いなあ、とか。足首のところで微妙にバランス感覚が狂うんだよな、とか。そんなことを考えていたせいか、もう少しで踊り場というタイミングで。

 

「おっ」

 

 あっやべ。ドレスの裾、爪先に引っかかった。

 

「わっわっわっ」

 

 傾ぐ視界。ふわりと浮くような感覚。

 階段の下から上がってくる冷たい空気。タペストリーがかかった石造りの壁。ゆっくり振り返ろうとするハミルトンさんの緑の瞳。

 思考だけが加速して、身体がついてこない。

 

「おっおっおわっであぁあ!!」 

 

「ん?」

 

 くお〜! ぶつかる〜! インド人を右に————

 

 踊り場の壁が目前に迫る。

 おれは反射的に両腕を突き出した。壁にぶち当たる直前で、手のひらに荒い石の感触。肩の辺りがギシッと鳴った。

 

 ……な! なんとか耐えた! コケるのだけは回避した!

 

 最悪のケース、ハミルトンさん巻き込んで階段落ちブチかますところだったぜ、あっぶね〜! 何本か骨をやる未来が見えたもんな〜。

 

「……」

 

「……」

 

 石造だからか、廊下に比べると音がよく響く踊り場に、少し荒い呼吸がふたつ。

 

 さて、と。

 

 問題があるとすればだね。

 

 おれは今、両腕を前に突き出した姿勢をしている。最後の段でドレスの裾を踏んづけてコケそうになったから、なんとか踊り場の壁に腕を突いて堪えたってところ。

 

 それまではいいね?

 足は挫いてないし、案外手も肩も嫌な痛み方はしていない。実に結構。

 

 それで、ここからが最もクリティカルに大問題なんですがね。

 

 ……両腕の間にハミルトンさん納まってんだよね。

 

 おれの両腕と壁の間、ちょうど人ひとり分のスペースに、すっぽりと収まっている。

 少しくすんだ、まだ柔らかそうな金髪の頭がすぐ目の前にある。ほのかにインクと紙の匂い、そこへ微かに混ざる、洗いたてのリネンの匂い。

 

 ハミルトンさん、おれより背が低いから、ほんとにちょうど良い感じにすっぽり入ってんだよね。

 

 つまりなんだ。壁ドンってやつだな。

 

「ッスゥー……。大変失礼いたしました。いま、解除しますから」

 

 おれは焦らず騒がず、ゆっくりと半歩下がりながら腕を下ろした。内心キョドりまくり冷や汗かきまくりで、背中の毛が総立ちだけど。耳の中で自分の鼓動が騒がしい。

 

 大体解除ってなんだ。がっつりテンパってお口が愉快なことになってますわね。

 

「危ないところでしたね。お怪我などございませんか?」

 

 ハミルトンさんは、目を瞬かせたあと、やわらかい笑みを浮かべてそう言った。

 さっきまでおれを囲う形になっていた両腕を、少し照れくさそうに胸の前で組み直す。

 

「あ、はい。多分……大丈夫です。ピンピンしてます、おかげさまで」

 

 こんな状況なのに爽やかスマイルで相手を気遣うこの余裕。

 

 はい。これがおれとハミルトンさんとの差ですよ。

 一般家庭産限界社畜のすり減った人間性では到底敵わない。恥ずかしすぎて内臓ひっくり返りそう。ウゴゴ、消え去りたい……。

 

「あいにく段差の多い家ですので。お気をつけください」

「善処します……」

 

 ほんと善処しますんで。嘘じゃないの。ほんとだよ……。

 

 + + + +

 

「では、使い魔さまも疑問に思われていることからご説明差し上げましょう」

「よ、よろしくお願いします」

 

 おれ達は最初の部屋に戻って、異常に座り心地の良いソファで向かい合っている。

 執務室兼図書室のこの部屋は、薄暗くてごちゃごちゃしているけど雰囲気がいい。壁一面の本棚には、革装の分厚い本や、紙の黄ばんだ帳簿がずらり。スペースが圧倒的に足りていないのか、メインの机の上にも山積みだ。その山の隙間からはインク瓶や、よくわからない真鍮製の器具が顔を覗かせている。

 床には廊下と同じく厚手の絨毯。もちろんこの部屋のものの方が立派な模様のやつ。窓辺には分厚いカーテン。その向こうで、傾き始めた秋の日差しがぼんやりと滲んでいる。おれは姿勢を正すと、尻尾を膝の上へ回した。

 

「……」

 

 なんとはなしに視線を上げると、わずかに片眉をあげたハミルトンさんと目が合った。彼はおれの視線に気がつくと、すぐに元の柔和な表情に戻る。

 あ、尻尾こうするのあんまりよくない感じ? イザベラさん何もリアクションなかったから特に考えずにやっちゃったけど……。ただ、いまいち尻尾ってどう扱っていいかわからないし、こうすると妙に落ち着くっていうのはおれ的発見なんだよな。実際に、さっきの階段事件を引きずっていたのか嫌なリズムを刻んでいた心臓が落ち着きを取り戻している。

 

「ではまず、使い魔さまにとっての新世界の全貌、それがこちらです」

 

 彼は一呼吸おくと、ローテーブルへ大判の紙を広げ、短い金髪を少しだけ得意げに掻き上げた。

 端にペーパーウェイトが乗せられた紙を覗き込んだ瞬間、乾いた空気の中に、古い紙の匂いがふわりと立ちのぼる。

 

 それは世界地図だった。想像以上に精緻な印刷で描かれている。墨の線は細かく、海のあたりには波の模様まで入っていて、地図というよりは版画の美術品のようだ。日本でよく使ってた、実用性百パーセントのグーグルマップとは全く違う趣がある。

 

「私共の国、バレントリア王国はここ、旧大陸の端」

 

 少し埃っぽい紙の匂いを感じながら地図を眺めていると、彼の白っぽい指がある一点を指し示した。見慣れない形の大陸の端、そこからわずかに離れた先に浮かぶ、大きな島を指している。

 

「なるほど、島国なんですね」

 

 日本人代表として勝手に親近感を覚える。海に囲まれているってだけで烏滸がましいかもしれないが、少なくともおれはそう思った。実に小市民的な感想。我ながら想像力の欠如に悲しくなってくる。

 

「バレントリアの起こりは、千余年前にまで遡ります。当時、国土は東西南北の四勢が相争うばかりでございましたが、魔女さま方の御仲裁を賜り、ついに連盟を結び、一つの王冠を戴いたのが始まりでございます」

 

 ハミルトンさんの滔々とした語りと共に、彼の指先が島の形をなぞっていく。北の高地、西のなだらかな丘、南の平野、東の海岸線。

 それぞれの領地を区切る細い線が、蜘蛛の巣のように地図の上を走っている。

 

「はぁ、なるほどぉ」

 

 イザベラさん、もしかして当時のこと知ってたり。超絶年齢不詳だもんな。まあ、あえて言葉にはしないけど、なんか怖いし。

 

「そのため、我が国は魔女と人間の間に生まれた国家とよばれることも」

 

 ハミルトンさんは「建国の折より、われらは魔女さまを敬い、魔女さまも国難のたびに、その御力をお示しくださいました」と続ける。わずかに細められた目と、柔らかく持ち上がった唇の先へ、この国への敬意と誇りのようなものが感じられた。

 

「おぉ」

 

 というか、いきなりの高濃度ファンタジー。さっきまで嫌にリアルなお貴族さまの暮らしを覗き見してたから温度差が激しいぜ。やっぱこういうの素敵だよな。王道って感じだ。

 薄暗い部屋で、紙に印刷された黒い線を追いかけていると、どこか世界の秘密を一つ一つ解き明かしているような気分になる。子供じみていているが、それでも高揚を抑えられない妄想。

 

「そのような経緯から、魔女さまは今でも広く敬われており、たとえ王であっても魔女さまを蔑ろにすることはできないのです」

 

 ハミルトンさんの頬が、わずかに朱に染まる。まるで背景からファンファーレが鳴っているかのよう。いやあ、君魔女のこと大好きじゃん。でもさ。

 

「……その割には、結構フランクにご応接されてましたよね?」

 

 おれはこの部屋にダイレクトアタックした時の様子を思い浮かべる。イザベラさん入室。その後ノータイムで軽口の応酬。

 あの感じ、どう考えても「国家成立の証人」に向ける態度じゃなかったよな。親戚の、ちょっと面倒な伯母さんくらいの距離感だったぞ。

 

「はは。碧炎の魔女さまは少々特殊というか、当家と縁深いお方ですので。多少のご無礼は多めに見てくださっております」

 

 あーなる、なるほどなあ。イザベラさん、そういうの全然気にしなさそうだもんな。自分から敬えとか絶対言わなさそう。もし必要以上に堅苦しくしても「そういうのやめてくれないかしら」とか言いそう。

 

 思い返せば短く濃密な時間を噛み締めていると、心中察するといった笑顔を浮かべているハミルトンさんが話を戻した。

 

「そして現在、政府から認められている魔女さまは、碧炎の魔女さまを含めて五名いらっしゃいます」

 

 ハミルトンさんは、形のいい指を一本ずつ立てて通称を読み上げる。

 

 碧炎の魔女。

 赤銅の魔女。

 琥珀の魔女。

 銀砂の魔女。

 藍墨の魔女(現在行方不明。生死不明らしい)。

 

「へえ、皆様カッコいいお名前ですね……」

 

 思わず感想が漏れる。なんだよ藍墨って、初めて聞いたわ。絶対頭脳タイプだね。おれは詳しいんだ。ハミルトンさんは落ち着いた笑い声を、ごくごく短く零した。

 

「彼女たちは、滅多に人々の前へ姿を現しません。自由気ままで傍若無人。神より身近で、運が良ければ生涯に一度目の当たりにできる神秘、といったところでしょうか」

 

 たしかにイザベラさん、謎空間に住んでるっぽいもんね。一面真っ白に染まった窓ガラスを思い浮かべる。

 そしてそこから推察すると、使い魔はそんな出不精な魔女サマの代わりに、人間社会と折衝したりなんだりする役割なんだろうな。文字通りお使いだなあ、と考えつつ、ふとさっき見た自分の姿を思い出す。

 

 クラシカルな装飾の手鏡に映った、黒豹の顔。

 チート能力もない、魔法も使えない、つぎはぎの使い魔。

 

「ですので、普段表舞台へお見えにならない魔女さまの御遣いであるイトカワ様を、当家でおもてなしできることは望外の名誉なのです」

「いやあ……そのぉ……理解はできるんですがあまりにも恐れ多いというか身に余りまくるというか…………」

 

 おれはもぞ、とソファの上で姿勢を変えた。

 ソファの分厚い座面が、体重の移動に合わせて形を変える。

 

「さらに、イトカワさまは迷い人でもいらっしゃいますからね。幸いこの屋敷は、部屋だけは余っております。お時間は気にせず、少しずつお慣れになるのがよろしいかと」

「はい……」

 

 そんで異世界人ということでさらに持ち上げられてるってわけ。

 やめてくれよ〜おれはただの社畜のおじさんだよ〜。なんの取り柄もない、ちょっと毛の模様が愉快な一般ピーポーなんだからさぁ。

 絶妙な居た堪れなさで身悶えするおれを、ハミルトンさんは「お話を続けますね?」と現実に呼び戻す。

 

「そして、バレントリア北方半域の広きを預かりながら、最も人影まばらなる地を治めるのが、我が家門でございます」

 

 自嘲気味に、しかしどこか誇りを滲ませて言う。

 彼の指が地図の北側、湖と山と森に覆われた部分を軽く叩いた。

 首輪の効果なのか、不思議と、文字を読むことができた。

 

「へえ、()()()()()……。バレントリア北方半域を治めてる、ハミルトンさん。へぇ〜」

「若輩者ではありますが、その家督をお預かりしております」

「いえいえ、十分ご立派に努めていらっしゃるかと」

 

 つい条件反射で社交辞令が出てしまう、悲しき社畜メンタル。

 

 でも、なんとなくだが、あながち間違いでもないのかもしれない。

 北のこの土地は、地図で見ても寒々しさを覚える。道を表す線もまばらで、ちいさな町の印が点々とあるだけ。

 南の平野部はぎっしり記号や文字で埋まっているのに、一方こちらは余白が目立つ。

 つまり、人が少ない。人が少ないってことは、税収その他も少ないってことで。その割に国防やらなんやらの義務だけは、昔からずっと変わらず背負わされ続けているんだろう。

 思わず地図から視線を上げた先、おれと向かい合ったハミルトンさんは、照れくさそうに微笑んだ。

 

「東西南北、それぞれを治める王家は、形の上では対等です。ですが、南は軍事と農業、西と東は商業と交易……と、どこもそれなりに恵まれておりますので」

「なるほど……では、こちらには?」

「ピートと羊と、少々の蒸留酒に、誇り高い民です」

 

 彼はそこで、少しだけ肩をすくめた。

 

「それから、あまり売り物にはならない風景の数々」

 

「そんな、(わたくし)が言うのもなんですが、素敵な場所だと思います」

 

 今この時、おれの言葉に嘘偽りはない。この土地について、ほとんど何も知らないが、少なくとも目の前に広がるウィシュケ湖が美しいってことはわかる。おれ水辺大好きだから。それだけで百億万点。

 

「お気持ちはありがたく。ただ、四王家の一翼を担う身として、景色ばかりを誉めていただくのも、少々心苦しいところです」

 

 そっかあ。まだ観光とか発展してなさそうだし、それだけあってもって感じなんだろうなあ……。

 ……うん? それより今四王家の一翼って言った? ハミルトン家もそのうちの一家? 王家でオーケー?

 つまりなんだ、ローテーブルを挟んで向かい合っているこの青年も、実は王様候補?

 

「はあ。つまり、世が世なら、ハミルトンさんがこの国の王様になる可能性もあるということでしょうか」

 

「ええ、まあ、可能性だけでいえば。王はそれぞれの家の当主から選ばれる慣わしなので……」

 

 なるほど。世が世なら、ハミルトンさんがこの国の王様になる可能性もあるということなんだな。当主から選ばれるってことは、十分にその条件を満たしているってことですし。

 地図の上で、北の領地は思った以上に広い。空白の目立つその面積を見ていると、さっきまで「若い領主さんだなぁ」くらいに思っていた感覚が、急に別の意味を帯びてきた。

 

 この国の王様かあ。

 王位継承権ってやつ? どれくらい高いんだろ。漠然としたイメージしかなくてよくわからんけど。

 

 そんな、ちょっと想像を超えてやんごとないお方に、おれは何をやらかしたっけ?

 

 そういえば、壁ドンしたね、ついさっき。

 馨ちゃん心の俳句。

 

「お、おぁああ……数々のご無礼、たいへん失礼いたしました……」

 

 おれは土下座した。

 

 考えるより先に体が動いていた。

 膝からスッと力が抜けて、半ば自動的に土下座の姿勢になった。ふかふかの絨毯がなければ、膝からいい音がしたと思う。

 頭を下げた瞬間、鼻先に古い繊維と埃の匂いがまとわりついた。

 

「な、なにとぞ……っ、なにとぞ浅学非才の……いやほんとあの……身のほど知らずが……っ、も、申し訳ござ……あっ、いや、幸甚とかじゃなくて……ええっと……」

 

 おっやっべ。自分でも何言ってるかマジで訳わかんね、やっべ。こんな時どんなこと言ったらいいかわからないの。

 敬語フォルダが同時多発的に爆発した結果、口から出たのがこれ。言語中枢がバグってしまったようだ。

 

 おれの四肢は振動バイブレーション、頭冷え冷え、お腹キリキリ。あー終わった、おれ終わった。これって不敬かな。これって不敬だね。

 レッツゴー断頭台。いや、絞首台かな? 電気椅子かな? ——いやこの世界に電気椅子あるのかどうか知らんけど。

 

「おっお顔を、お顔をあげてください! お召し物が汚れてしまいます!」

 

 慌てた声が頭上から降ってくる。

 そんな、おれにそんな資格はない……レッツゴーあの世。短い人生だったぜ。

 

「い、いえその……っ、危うくお命頂戴するところでいやそんな頂戴とか」

 

「お命頂戴!? いや、あれはただの事故でしょう——」

 

 しばしの間、腰が抜けたおれとハミルトンさんとの押し問答が続いた。

 この家、誠に寛大なことに、そこまで厳格じゃないらしい。「それはそれ、これはこれです」とか執務室で言う王家いる? いるんだなぁ目の前に。

 

 ただ、()()()()()()()()()()()()()()()()()という但し書き付きで。

 それでもほんと助かった。おしっこ漏らすかと思った。

 

 なんとかソファへ座り直した時には、心身ともにぐったりだった。肩から尻尾の根本にかけて、どっと疲労感が押し寄せてくる。

 ハミルトンさんも、こめかみを軽く押さえながら深呼吸している。たぶん精神的疲労の理由はお互い様だ。

 

「そ、そういえば、ハミルトンさんが現在のご当主なんですよね」

 

 空気を変えたくて、口が勝手に別の話題を拾い上げた。

 なんとか話を元の説明タイム路線に戻したい。ついでに土下座の記憶は忘却の彼方へ追いやりたい。忘れ去りたい記憶が多すぎる。おねがいメン・イン・ブラック、その光るやつを貸して頂戴。

 

「ええ」

「以前よりお話に上がっていたお父様は、すでにご隠居なされているということでしょうか?」

 

 普通に、疑問に思ったのでそう尋ねただけだった。

 これまでの会話にたびたび登場していた割に存在感がないし、この家になにか、気配がしないというか。

 気が動転していたというのもあるが、もう少しだけおれの察しが良ければ、こんな地雷を踏み抜くこともなかったのだろうか。

 

 おれの言葉の後、彼は緑の瞳を静かに伏せた。

 薄い唇の端に、不明瞭な笑みが浮かんだ。笑っているようにも、ただ表情筋を動かしただけにも見える、ひどく曖昧なもの。

 

「いいえ……父は、五年前に亡くなりました。いま、私の他には、母が一人だけ」

 

 彼の言葉が染み込んだ部屋に、暖炉の火が、パチリと小さな音を立てた。

 先ほどまで紙の上で鮮やかに広がっていた世界が、急にこの一室へ、きゅっと縮んで押し込められたような気がした。

 

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