レースの興奮が抜けない次の日、反省会としてトレーナーの部屋で向かい合って話す2人の顔は、勝った者とは思えない真剣なものだった。
「反省会なんだけど……言わなくても、わかるよね?」
「……後半で見せたアレのこと?」
思い返すのは、加速を得るために咄嗟の閃きでやったアレの事。後先なんて一切考えない加速は、平均的な脚の自分にはあり得ないほどの伸びがあった。
「あれはもう使っちゃダメ、理由は言わなくてもわかるよね」
レースの後、喜びも束の間に即座に病院に直行する羽目になった。見た目も派手で印象的だろうが、その実、脚にかかる負担は想像を絶するものだ。あの時はアドレナリンが出ていたのだろう、後から足が酷く痛みを発した。
炎症を起こしているだけだったから、休めば治る程度で済んだが、今後も使えばもっと酷くなると医者に告げられたのだ。でも。
「私はやる」
耳がギュッと絞られる。握られた拳の硬さは意思の硬さそのものだった。
「だけどそれで走れなくなったら──!」
「それでも!私にとって勝利はそれより重いんだ!」
声を荒げてトレーナーの言葉を遮る。
私は弱い。この学園に来て、自分が下から何番目かをハッキリと分からされた。それでも諦めきれずに走り続けてきた。そうしてようやく一勝……一勝だよ?
私は他人よりもっとやらなきゃ勝負の土俵に立つことすらできない。私の脚で遥か高みにいるウマ娘達と戦えるなら、私はやる。一つでも多く勝つんだ。
「それで本当にいいの?」
オニノミコの言葉には、勝利への渇望しかない。本当にそれでいいのか?ウマ娘の走る理由は様々だ。自由であったり、誰かのためであったり、それこそオニノミコのように勝利の為であったり。しかし、そこには大前提がある。
ウマ娘は皆、レースを、走る事を楽しんでいる。楽しいから走るのだ。オニノミコにそれが感じられなかったのだ。辛い顔で走るレースなんて──
「私にはそれしかない」
そう言って彼女は走って出ていってしまった。それを追いかける事もできず、制止しよつとした手だけがだらりと垂れた。
「はぁ……」
浮いた腰を再びどかりと椅子に落として天井を仰ぐ。トレーナーとして、彼女の望みは叶えてあげたい。でも、それ以上に彼女には楽しんで欲しい。レースを、走りを。苦しみながら走るレースなんて息苦しいだけだ。少なくとも、自分が見てきたウマ娘のレースは、そういうものだ。エゴかもしれない。押し付けかもしれない。……だけど、こればっかりは時間が解決するしかないのだろうか。これからも走り続けるなら、きっと彼女も分かる日が来るはずだ。
レースとは決して苦しい場所ではない。
──コンコン
そんな葛藤と戦うトレーナーの部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「──失礼する」
入ってきたのは1人のウマ娘。威風堂々、『絶対』の皇帝。シルボリルドルフその人だった。
「すまない、話がきこえてしまってな」
そう申し訳なさそうにするルドルフだった。
居心地の悪さからか、少し申し訳なさそうなルドルフは、腕を組んだまま手持ち無沙汰に尻尾を揺らす。
「あの……」
「君には感謝している」
「え?」
突然そう言われてトレーナーは、疑問の声を返すことしかできない。まだ自分は何もできていない。だというのに何を感謝されるのだろう?
「彼女は止まらなかったからな」
そんな僕の疑問が顔に出ていたのか、ルドルフはぽつぽつと話し始めた。
「幾度となく止めた。私もエアグルーヴも、理事長も一度止めたことがあった。あのままやっていたら潰れてしまうとね」
新人の自分が知らなかった話だ。本人もずっと走っていたと言っていたがそれはあくまで比喩の類だと思っていた。
「練習漬けになる子は決して居ないわけではなかったが……彼女のそれは少し異常だった。理由は、私の口から言うのは彼女への不義理というものだろう、本人から聞いて欲しい」
「だが、今彼女には亀裂がある。トレーナー、君のおかげでね」
走るだけが全てだと考える彼女は、勝利を知った。敗北だけを知るのと、勝利も知るのは大きな隔たりがある。それは新たな成長となるか、或いは……
「だから、彼女を変えてやってくれ。トレーナー。貴方にしかできない」
そう言って一度お辞儀すると、ルドルフは出ていった。
彼女を、変える。できるだろうか。
トレーナーの部屋を出て、脇目も振らずに走っていた。気がついたら私が居たのは練習場だった。既に他のウマ娘の姿はなく、日が落ち始めている練習場に伸びる影は、何処となく恐怖を演出しているかのような雰囲気を作っていた。
「私には……これしかないんだ」
言い聞かせるように、胸に手を当て呟く。そうだ。弱い私には、これしかない。ならばそれが破滅に向かうものだとしても躊躇しない。
胸の奥で疼く何かを見ないフリして、私はいつものように走り出す。そう、こうして走る道こそ私の道。向かい風を突っ切って走るこれが──
その時、私の背中に悪寒が走った。なに、これ?怯え、恐怖?いや、これはそんなものじゃない。
「ッ!?」
後ろに誰かいる!とんでもない存在感を放つ人!足音が聞こえる、もう近い。2バ身、いやもう1バ身もない!
必死に追い抜かれないよう走っても、そんな苦労など知らないとばかりにアッサリ横を抜けられた。追い抜いたその背中はとても楽しそうに見える。だけど。
「まだ──ッ!」
ゴールはまだ先!追い抜く!まだコーナーは二つ!ここから追い抜き返す……!
だけど、その人の速さは私よりも遥か上をいくものだった。抜かされたと思ったら、すぐに距離を離された。
「ぐっ……!」
速い……!未勝利戦でのナリタトップロードより2倍、いや三倍以上は違うぞ!?どうする?このままじゃ追いつけない!だったら……!
コーナーで外ラチ目掛けて走り、身体を擦り付けるように走り加速していく。
──ビキッ
鈍い痛みが足首に走る。努めて無視する。さっきより多少差は縮まったけど、これでもまだ足りない!勝てない、勝てないのか。負けるのは──嫌だ!
「ふっ……!」
息を吐き出し、姿勢を変える。よく見ろ相手の姿勢を。走り方を。今の私で無理なら──次の私で挑め!
ジリジリと距離を詰める。一バ身縮める事のなんと遠いことか。たったそれだけの距離を詰めるだけなのに。こうも遠い。
──へぇ?
前から、そんな呟きを耳が拾った。次の瞬間、前を往くウマ娘の走りが変わった。いや、技術的なものではない。もっと根本な、本質が。
その時、私の視界に飛び込んできたのは、草原だった。果てしない草原と、地平線まで広がる青い空。その中でたった1人、我儘に、誰よりも自由に走るウマ娘の姿を幻視したのだ。
「あ……」
無意識に、呆気に取られた声が漏れ出た。それを最後に、再び距離を離され、圧倒されて私は敗北した。
ゴールに遅れて到着した私は、倒れ込むようにしてターフへ五体投地した。レース以上に体力を使った気がする。
酸欠で視界が霞む。そんな私に誰かが側にまで来る気配がある。
「良い走りだったけど……なんか、怖くないんだよね」
その言葉を残して、その誰かは居なくなった。
──怖くないんだよね
その言葉だけが、私の中でぐるぐると巡っていた。
喧嘩別れのようなやり取りをした次の日。次のレースに向けた話し合いが行われる。
まだ気まずさを感じていたが、いざレースについての話し合いとなればその空気は霧散する。今後を左右する真剣なものだからだろうか。それとも切り替えが上手いのか。
「未勝利戦で勝利した事で君は遂に正式に上のランク……クラシックに出場する事になる。そこで聞かせて欲しい。君の目的、目指す称号はある?」
その言葉で、オニノミコは考える。目の前の勝利をひたすら追い続けてきた彼女に、大層な目的、目標など考えたことのないものだった。しかし、こうして目の前に道があるなら、その中から選ぶものは当然大きいものがいい。そこに誰かに誇れる動機などないが、『他人が凄いことだと言っていたから』私も挑戦してみよう、くらいの感覚でこう言い放った。
「三冠、私はクラシック三冠を取りたい」
クラシック三冠。それは未だ数えるほどしか達成できなかった偉業。シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフ。そしてディープインパクト。錚々たるメンバーの1人に名を刻む。そう言ったのだ。
「……本気?」
その問いに、逡巡し、言葉を返す。何故だか、即答できなかったんだ。
「……本気だよ。走るからには行けるとこまで」
この足で何処までやれるのか。それは分からない。でも、やる。
トレーナーは、目の前のウマ娘の目を見る。何処か揺れている目は、まだ自分を掴みかねているように感じた。息を吐き、覚悟を決める。
そうだ。新人がなんだ。担当がそう望むならば例え何処だろうと連れていくのが自分の役目だ。
──君が、変えてやってくれ。
昨日のルドルフの言葉が過ぎる。やってやるとも。それが自分のやる事。
「なら、直近の目標は皐月賞だね。それに合わせてトレーニングを考えるよ。今日は……そうだね、足の事もある。基本的なトレーニングをしよう。少しでも不調だと思ったら止めるから、流し気味でお願い」
「……わかった」
そうして、今日から新たな戦いが始まった。勝てば生き残り、負ければ冷たくなるだけ。いつもと変わらない。
「それで?どうだったんだい?」
ここは生徒会室。他の者は出払っており、そこに居たのは生徒会の主人、『皇帝』ルドルフ。そして来客用のソファに身を沈め手遊びしながら横になっているのは、『ターフの演出家』ミスターシービー。
「んー?」
ハキハキとしたルドルフとは対照的な、呑気と言って良い間延びした声が返される。しかしルドルフの顔は変わらない。長い付き合いだ、この程度で憤ってはシービーと付き合うのは不可能だろう。
「聞いたぞ、例のウマ娘と走ったのだろう。君から何か感じた事はないのか?」
のんびりした、自由人のシービーだが、天性の勘から来るものにはルドルフも一目置いている。そんなシービーの口から聞きたかったのだ。
「あー、うん。走ったよ。でも拍子抜けっていうか」
「うん?」
随分と曖昧というか。シービーもその正体を掴みかねているようだが、頭の中で感じたことを噛み砕いているのだろうか。しばしの間、んー、と唸り声が響いた。
「なんていうか、怖くないんだよね。ルドルフならわかるでしょ?アタシもルドルフも、お互い走ってると、実力じゃなくて、怖くなる事」
「怖くなる……」
確かに言わんとしている事は理解できる。例え実力が離れていても走っていて、背筋を冷たくする感覚。それは走る者が持つ勝利への執念であったり、何がなんでも追い抜くという覚悟か。それらが持つ気迫は、私たちでさえ一定の恐怖を抱く事はあるのだ。それを真正面から迎え撃ってこその私たちではあるが。
「だから途中までは面白かったのに、拍子抜けしちゃったんだよねー」
「そうか……」
しかし、彼女にその圧力を感じない。というのは少しおかしな話だ。私が知る限り、彼女ほど勝利を渇望するウマ娘は多くない。そんな彼女に怖さを感じないというのは、何故なのか。
「──まさか」
……そもそもの前提条件から、私は読み違えているのではないか。根拠はない。しかし考えてみてストンと納得できるものがあった。
彼女は、勝利を望んでいるのではない。敗北を恐れているのではないか──?