彼方が僅かに白みを帯びる。ちゅんちゅんと聞こえるのは小鳥の鳴く声。それは朝の到来を告げる鳥の声。まだ人もいない道路で、ただ1人息を切らしながら走るウマ娘がいた。
「はっ、はっ、はっ」
オニノミコ、その人だった。トレセンのジャージに身を包み、早朝から走っていた。それは一見、勤勉な、あるいは努力家なウマ娘の一風景に映るだろう。しかし──
「はっ、はっ、はっ」
その程度に収まらないほど、彼女の表情には鬼気迫るものがあった。まるで誰かに追われて怯えているような、そんな表情。鳥の声も、僅かに遠くから聞こえる車の排気音も。彼女には耳に入らなかった。
彼女に聞こえてくるのは、地鳴りにも似た低く響く音。何かが弾け、こちらに迫るように連続して聞こえてくる破裂音。聞こえてくるそれらから逃げるようにして走るのだ。
──置いていくのか
──助けて
そんな風に聞こえてくる声が聞こえないくらい遠くまで走って、走って、走り疲れて立ち止まって、彼女の一日は始まるのだ。
「ゴホッゴホッ……オエッ……」
その場に蹲って吐いた。だけど、元々空っぽの胃に吐ける物などなく、酸っぱい味だけが口の中に広がるだけだった。
「勝てたら、変わると思ったのに」
未だ消えない残響のような幻聴は、勝利を得て収まるどころか、悪化の一途を辿っていた。
彼女にとって、1日の始まりは決まってこうだった。眠ると聞こえてくる、酷い時は手足を掴まれる感触すら感じるそれを振り切るように毎日走る。走っている時だけは、その声も遠ざかる気がしたからだ。
──あぁ、今日も1日が始まった。
学園での日常はいたって平凡で、教室で席に座る私の耳に聞こえてくるのは楽し気に談笑する生徒たちの声だ。それは放課後どこかに行こうだとかの約束事だったり、或いは今後のレースについて熱く語っていたり、バラバラだったが共通して言えるのは。彼女たちは自身の青春を生きている、ということだ。
それに比べ私はどうだろうか。机に肘を置き頬杖をつきながら窓の外、グラウンドで走る誰ともわからないウマ娘の走る姿をぼーっと見ている。はたして今、自分の青春を生きているのだろうか。
──そんな資格なんてない癖に
勢いよく椅子から立ち上がる。ガタンと音を立てて後ろに椅子が倒れてしまうがそんなことなど耳に入らない。
「──ッ」
早く、走らなくては。焦燥の中で教室を飛び出した。今この時だけは、足の熱も感じない。背筋から這い寄る冷たさから一刻も早く逃げたかった。
「ミコちゃん……」
そんな彼女を見つめていた者がいた。ナリタトップロード、以前彼女とレースを走ったことのある彼女であった。オニノミコとはトレセン学園に入った時から顔見知りだった。最初はよく走っていた彼女を勤勉とか努力家とか周りも口にしていたがその走りこむ量をみて閉口した。努力とか、そんな言葉じゃ説明のつかない常軌を逸した行為に皆『潰れてしまう』『持たない』と止めようとしたが、彼女は止まらなかった。私もその一人だった。
ある時、私はこう尋ねた。『なんでそこまで走るのか』と。私だって走るのは好きだ。誰よりも前で走れたなら、それはなんて気持ちいいのかなんて考えてしまう。でも、なんで……今にも泣きだしてしまいそうな顔で走るの?
──なんでだろう?
その時見せた悲しそうな顔は忘れられなかった。まるで、迷子になった子供みたいで。あぁ、この人は止まらないんだなってその時直感した。きっとそれを見つけるまで親を探す迷子の幼子のように探し続けるんだ、と。
──彼女に勝って、伝えるんだ。
言葉では止められない。彼女が潰れる前に、勝って一度足を止めようって言うんだ。そして一緒に彼女の探すものを見つけようって。
……負けちゃったんだけどね。トレーナーさんに無理言って一緒のレースに出してもらったのに。だけどまだ諦めない。私にはわかる。根拠はないけど、彼女は必ず上に行く、いけるウマ娘だと。こんな所で潰れていい人じゃない。
「──すまない、少しいいだろうか」
思案に耽る所ところを掛かる声で私は現実に引き戻された。背後からの声に振り返ってみれば、そこにいたのは生徒会長のシンボリルドルフその人だった。無敗三冠を成し遂げた生きる伝説。まさかそんな人が私に声をかけてくるなんて思わなかった私は慌てて
「ひゃい!?」
返事を返そうとして変な声が出てしまった。うぅ……恥ずかしい。穴があったら入りたい……。そんな私をルドルフさんは笑って流してくれたのが救いだ。
「君に聞きたいことがあってね……大丈夫かな?」
私に?心当たりがない私はとりあえず頷いた。
「大丈夫ですよ!でも、聞きたい事って……?」
「ああ、大したことではないんだ。君はこの前、彼女とレースをしただろう?その時のことを聞きたいんだ」
『彼女』が誰を指しているのか、言われなくてもすぐに分かった。ミコちゃんの事だ。
「あの時の事ですか?いいですけど……」
話すことは問題ないが、その意図が掴めない。何か問題があったのだろうか。そんな疑問が顔に出ていたのだろう、ルドルフさんは答えてくれた。
「難しいことではないんだ。きみがあの時走って感じたことを知りたい。彼女に何を感じたか」
何を感じたか……走っていて気持ち悪さを感じたかも。レース全体をコントロールされているみたいな居心地の悪さ。最後なんて後ろからの圧力には焦ったし負けたときは悔しかった。でも……
「不思議と、怖くはなかったです」
「やはり君もそう言うか」
それを聞いたルドルフさんは納得したように頷き考え込む姿勢になった。これが何の答えになるのか私には見当がつかなかった。
「やはり彼女を取り巻くものは根深いようだ」
ミコちゃんについて、ルドルフさんは私の知らない何かを知っている……?私は思い切って聞いてみることにした。
「あの……ミコちゃんについて何か知ってるんですか?だったらお願いです。私にも教えてください!」
「すまない、個人にかかわることだからな、私の口から話すことは──」
「私はミコちゃんを助けたいんです!ウマ娘が、あんな表情で走っていいはずがないんです!」
ルドルフさんの言葉を遮る形で勢いよく頭を下げる。私の大声に教室にいた周りの子たちが何事かと目を向ける。流石に周囲の目に焦ったのか、或いは根負けしてくれたのか。溜息を吐き、表情を変えた。
「場所を変えようか、ここでは話せない」
そう言われてついていった先は生徒会室。中には誰もいなかった。
「さて、なんと言えばいいか……かなり重い話になる。覚悟はいいかな?」
「はい!」
私は何を言われても動揺しないよう覚悟を決めた、決めたつもりだった。しかし次に放たれた言葉を前に、私はあっけにとられ呆けた声を漏らしてしまった。
「──彼女は紛争地帯で生まれ育ったウマ娘なんだ」