出来損ないの倅ども (旧題: 勇作は手を汚したくない)   作:だだちゃ豆

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おまたせしました。



【11】俺は陸軍をやめるぞジョジョーーッ!!

 

 

 兄様と父上を引き合わせた帰り際。私は父上にまた兄様を連れて来る旨を告げたけど、父上からの返事はなかった。ダメだと言われないってことはOKってことだよね。よーしそういうことにしよう。

 

「また一緒に父上とお話しましょうね」

 

 師団までの少し遠い道のりを、二人で歩く。

 

「あまり歓迎されてはいなかったようですが」

 

 気のせい気のせい。

 

「父上は、子供の前で感情を表に出す方ではありませんから」

 

「左様で。……勇作殿は何のつもりであんな場を設けたんですか」

 

 兄様の探るような目が私を見ている。

 

 兄様の中では、今日の席を私が設けたということは確定事項なのだろう。実際そういうことなのだが、何も私はその気のない父上を無理やりあの場に引きずり出したわけではない。

 

「父上が、ずっとあなたのことを気にされていたからですよ」

 

 私が真っ直ぐに兄様を見つめると、兄様は目を逸らした。

 

「そうでしょうか。ではなぜ、これまで父上は私に会おうとなさらなかったのか」

 

「兄様はなぜ、これまで父上に声をかけようとなさらなかったのですか??同じことですよ」

 

 ぎりぎりまで近づいて、でも踏ん切りがつかなかった。相手から声をかけて来るのを待っていた。きっとそういうことだと思うの。にこにこと笑いかけると、兄様はむっつりと黙り込んだ。その横顔は私のそれと違って、父上によく似ている。なんか無駄にお節介焼いたな。

 兄様が父上の息子であることは誰もが認めるところだし、放っといたって私がいなくなればこの人は自動的に花沢の息子になるくない?父上は将校になってくれる息子をお求めのようですしおすし。

 兄様だってはやく将校になりたいんだもんね。……あれ、そうだよね?そういえば兄様から直接そう言われたことないぞ。

 

「兄様。兄様はこの先、ずっと軍に残るおつもりですか」

 

「他にゆく宛もありませんから」

 

 意外なことに、兄様の肯定は思ったより控えめだった。親類縁者はなくとも、水戸には尾形の家や田畑があるのではないだろうか。そう尋ねると、兄様は首を横に振った。

 

「田畑は手放しました。家は今頃朽ちているでしょう」

 

「ではやはり、末は大将を目指すおつもりなのですね!」

 

 兄様が私を見た。すぐに目線をずらして、口を開く。

 

「さて、どうでしょうな。先の戦争では下士から少尉になった例もあります。とはいえ下士から将官への道が開けていたのも、今は昔の話ですから。せいぜい望めるのは尉官まででしょう。それも大きな戦争が有って、戦功を挙げる機会があって。まぁ、運次第というところです」

 

 え、なに。あんまりやる気ないの??

 

 兄様の控えめな答えに、私は思わずぽかんとした。ちょっとこれは意味がわかりませんね。あれ、兄様は死ぬほど将校になりたくて仕方ない人間なんじゃないの??確か原作で鶴見中尉がそんな分析をしてたよね……?

 

「兄様が本気で将校を目指しているのであれば、召募試験のお手伝いをと思ったのですが……。そういうことは、お考えではないのですね」

 

 確かに兄様の言う通り、下士から将校への道は年々厳しくなっている。いまや陸士や予備役を経由せずに将校になる道は皆無に等しい。特に中少尉どまりではなく、父上のような将官を目指すのであれば陸士に行く他に選択はない。

 

 ところが陸士の召募試験の内容は文科省管轄の諸学校と足並みを揃えつつあり、もはや中等教育を受けていない人間が合格するのは不可能に近い。というか、明治三十六年の条例によって中等教育の学歴のないものには原則として受験資格がなくなってしまった。兄様は中学校ではなく高等小学校に進んだそうなので、その時点で陸士に進学する道を失ったのだ。

 私立中学に金を積んで学歴を買う手もあるが、あれはかなり高くついたからな。東寮の金策王(ゲルサーク)と呼ばれた私を以てしても、あの時の借金は後々まで尾をひいた。明治の金利高すぎ問題。おっと話が逸れたな。

 

 え〜兎も角、学歴のない兄様が上級将校になるためには、学歴で足切りされない“現役下士として陸軍士官学校の召募試験を受ける”ルートを選ぶしかない。と、思ったんだけど。

 首を捻っていた私は、兄様がほんの一瞬口角を引き下げて、冷めきった瞳で私を見たことに気が付かなかった。

 

「お手伝い、ですか。ええ、それはありがたいのですが。任務に忙殺される下士官に受験勉強の時間などないと思いますよ。残念ながら勇作殿のお手を借りることはできないでしょう」

 

 原作では、尾形上等兵はどうやって将校になろうとしてたんだっけ。中央のスパイになって、その見返りに裏口入学??でもそれって空手形の口約束じゃないの?まっとうに入学試験に合格することも考えたほうがいいはずだよね?

 

「そういうものでしょうか。ですが気が変わった時のために、私の秘蔵のノートを差し上げますね。危ない近道よりも、安全な回り道のほうが時間がかからないものでしょう」

 

 いつ反故にされるかもわからない裏口入学の約束のために金塊争奪戦に首を突っ込んで、危険で孤独なスパイ活動をするなんて馬鹿げている。

 それよりも兄様は早く鶴見の麾下(きか)から抜け出すべきだ。そうすればすぐにでも下士になれるだろうし、陸士を受験することができる。というか下士になれる見込みが無くても鶴見の麾下から抜けて欲しい。お願いだからクーデターやら鶴見劇場やらに巻き込まないで。

 

(ある)いは父上に、何かお考えが浮かぶやもしれませんし」

 

 私が父上の手引きを匂わせると、兄様は怪訝そうにこちらを見た。

 

「身内贔屓はせぬ人だとおっしゃったのは勇作殿ではありませんでしたか?」

 

「そうですね。でも、父上は兄様に負い目がありますから。きっと兄様を悪いようにはしないでしょう。鶴見中尉は父上が中央に軽視されていることを嘆かわしく思っているようですが、それは一部の話です。今でも中央には父上を頼みにするところがあるのですから、多少の口利きはできるはずですよ」

 

 少なくとも、兄様にスパイ活動を指示した老獪な爺さんから報酬をもぎ取るよりも、父上の情と罪悪感を利用するほうが安全かつ確実であると思う。

 私は少しだけ腰をかがめて、兄様の顔を覗き込んだ。

 

「他の上級将校を頼るよりは、よほど現実味があるとは思いませんか」

 

 だから鶴見にも金塊争奪戦にも、これ以上は関わらないで欲しいのだ。届け、この想い。何も知らないことになっている私には、直接言葉にすることはできないけれど。

 

 兄様は足を止めて私を見上げた。

 

「花沢中将を抱き込んで、士官学校に裏口入学せよとおっしゃる?」

 

 めずらしく目があった兄様は、にやぁっとした笑みを浮かべていた。上目遣いの目は(たの)しげに見開かれている。

 初めて見る表情に、私は思わずたじろいだ。しかしすぐに動揺を収めて話しかける。

 

「そこまで上手くいくかはわかりません。やはり真っ当に召募試験に合格することが一番です。でも、父上を味方につけて悪いことはないでしょう?」

 

「ははぁ、なるほど。軍神の申し子も随分と俗なことをお考えになる」

 

 軍神はやめれ。

 

人の子(・・・)ですからね。将校とは皆そういうものです。立身出世の野望なくして士官学校の門戸を叩くのは、親の意向に流されるままに生きてきた中途半端な人間くらいなもの。そういう人間は、ぐずぐず軍籍に留まっていてはいけないのですよ」

 

 そう、私とか私とかね。おっといけない、自嘲モードになってしまった。さて、気持ちを切り替えていこう。再び歩き出した私を、兄様が追ってくる気配がない。

 

「兄様?」

 

 振り返ると、兄様は何やら考え事をしていたようだった。

 

「ああ、失礼いたしました」

 

 兄様は心此処にあらずの表情で足を進めた。自分の世界に沈んでいるようですね。しばらくはまともな会話のキャッチボールはできないかな。

 

 私は少し遅い昼食をとったあと、兄様と別れて日曜下宿へ向かった。

 

 

 

 

 局留めにしていた郵便物を懐にしまい込んで郵便局を出る。先ほど将校服から私服に着替えたせいか、肌寒い春の空気が肌で感じられた。悪い意味じゃなくて、サウナの後の水風呂のような。ん〜〜沁み渡る〜〜〜!整いました。はい、兄様とかけて高熱を出した日と解く。その心は?どちらも寝込()みたいでしょう。お粗末さまでした。

 

 取り留めもないことを考えながら下駄を鳴らしていると、道脇に薄汚れた洋風の店が横文字の暖簾を掲げていた。

 ミルクホール“バルチモア”。東京発祥のミルクホールの特徴を抑えながら、そのモデルになった本場のデイリー・ランチの安っぽさと、熟練の西洋大工によるきちんとした建築のとりあいがキッチュな軽食店である。

 戦争に行く前までは、休みの日にここで手紙や雑誌を読んで過ごすのが癒しのひとときだった。旭川に私の武勇伝が流布して以来とんと足が遠のいていたのだが、ぼうっとしてたからいつもの癖でここに来てしまったらしい。みんなもあるよね、休みの日に学校とか会社のある駅で降りちゃうやつ。え、私だけ?

 踵を返そうとしたところで、暇なカレー屋の店主のようにこちらを見てくる主人と目があった。入店せよという圧を感じる。というわけで強制入店です。まー今は私服着てるから注目されることはない。はず。はい。

 

 心の目と耳を閉ざして、お客さんのおしゃべりを強制シャットアウト。七銭のココアを頼んで、先程郵便局で受け取った国際便の封を取り出す。真っ白な上質紙の封を切ると、オー・デ・コロンの薫と共に仏蘭西の空気がふわりと広がった。

 言っておくけどこれはリアコ拗らせた勇作ファンからのラブレターではない。私の恩師からの手紙である。この時代、香水はちょっとイキった紳士の嗜みなのだ。旅行中の先生はフランスの香水を手に入れて()()ッて気分なんだろう。さて気になる内容は。

 

──君のことは良いように話してある。彼もきっと引き受けてくれると思う。とはいえ君も知ってのとおり、東京帝大は一高の卒業生以外から学生を取ることは殆どない。入試に落ちても君の能力によるものでは無いから気にしてはいけないよ。現実的には東北帝国大学を受けるのが良いと思う。学長殿は大変に開放的な人であるから、君の才能を以てすれば高等学校を卒業しておらずとも入学は可能であろう。二年ほどしたらいよいよ川内の校舎が完成して正式な開校だ。僕も仙台に家を持つから、君はうちに住むと良い──

 

 う〜ん、満点回答!!東京に住まいと働き口がみつかりそうです。よかった。実はしばらく連絡とってなかったからちょっと心配してたんだよね。ほら、戦地にいる間は人目を介す軍事郵便しか出せなくてさ、先生とは連絡を絶ってたの。

 なんてったって先生は花沢勇作家出事件に際して、父上から家出幇助罪により接近禁止命令の申し立てがされておりますからね。其の節は大変お世話になりました、今回も宜しくお願いしますテヘペロ。

 

 つらつらと返事を書き綴り、書き上げた手紙を懐にしまっていたその時、向かいの席でジャムパンを齧っていた背広の商社マンと目があった。

 

「おや、もう帰るのかね」

 

 あばばばばばばば!!鶴見じゃねぇか!なぜ私服!!

 

 びっくりして懐の中身をぜんぶひっくり返してしまった。慌てて中空に手を伸ばし、かろうじて依願免官願の封書を掴み取る。セーフセーフ、鶴見には見られてない。

 

「つ、鶴見中尉殿はいったいなぜこんなところに。将校服はどうされたのです」

 

 休日を堪能しているのだよ、と鶴見は言って私の私服に目をやった。

 

「そういう勇作君も随分ここに馴染んでいるのだね。今日は兄君とはご一緒ではないのかな」

 

 さっきまで一緒だったわ。別れたから将校特権を行使し(私服に着替え)たんじゃい。てか人のプライベートを詮索するな。貴様に渡す情報などないわ!てなわけで秘技、話逸らしを発動。

 

「ふふ、随分と兄様を気にかけてくださるのですね。鶴見殿は本当に部下想いの方です」

 

「部下への愛情に関しては、君も負けてはいないだろう?」

 

 鶴見は私が取り落とした封筒を拾い上げた。昨日官舎で受け取ったまま返事を書けずにいた代物だ。封の切られた茶封筒からは、所狭しと文字が詰め込まれた簡素な便箋が飛び出している。鶴見は便箋を封筒に仕舞いなおして私に差し出した。

 

「風の噂で下士卒の遺族を訪ね歩いていると聞いたのだが、傷病兵とも連絡をとっているんだね。ああすまない、盗み見するつもりは無かったんだ」

 

 隠していたわけでもないが、誰にも口外していないことを暴き立てられるのは不快だ。そもそも鶴見中尉は私が下士卒の遺族を訪ねていることをどこで知ったのか。手紙を一瞥しただけで、それが傷病兵からの手紙と分かったのはなぜか。私はにこりと笑みをつくった。

 

「ただ顔見知りと連絡をとっているだけです。鶴見殿がお考えのような慈愛の心なんてありませんよ」

 

「それでも彼らは嬉しかろう。軍人の誇りを持ちながら、軍人救護会にも在郷軍人団にも入れないまま、軍からも国からも見放された“廃兵”たちにとっては、()()()が心のよすがだ」

 

 鶴見の声には人を義憤に駆り立てるような、不思議な熱があった。ぞくりと背筋が寒くなり、冷汗がたれる。

 

 鶴見中尉は北海道各地に部下がいるという描写が原作にあった。私はてっきり、それらは現役の下士卒のことを指していると思ったのだがそうではなかったのだ。鶴見の手足は各地の廃兵や傷ついた復員兵。明治の世の中で忌避される身体障害者や貧者たちだ。私は彼の手足を横取りしたことになるのか。

 

 得体のしれない引力を帯びて、鶴見の瞳が私を見ている。

 

 光ある未来へ解放を謳い、社会的弱者に剣を取らせて国家の内紛を制す。アメリカにはそうやって後世に偉人として讃えられた人がいた。

 

「リンカーン」

 

 もし鶴見が北海道独立を成し得たのなら、この男もかの大統領と同じように救済者として称えられる日がくるのだろうか。

 

「ん?」

 

 私の呟きを拾った鶴見が小首を傾げる。

 

「いえ。なんでもございません」

 

 馬鹿なことを考えた。そもリンカーンは、独立した側ではなくて独立を抑えた側だし。いやそんなことはどうでもいい。とにかく一刻も早く鶴見から離れよう。

 

 私を復員兵や廃兵のよすがとして奉っておいて、外敵の仕業とみせかけて殺し、彼らの憎悪や義憤を利用して人心を掌握する。鶴見ならそれくらいのことはしてみせるだろう。

 

 部下の救済からは一旦手を引こう。ちょっとした善行のために危うく死ぬところだった。くわばらくわばら。私の命が一番大事です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 休みが明けて、週の初めの月曜日。私は聯隊長の執務室で、聯隊長殿と二人きりになっていた。左脇に軍帽を挟み、直立する私に聯隊長殿は言った。

 

「これは見なかったことにしておこう」

 

 突き返されたのは、先ほど私が差し出した依願免官届だった。

 

「どうか受け取ってはいただけませんか」

 

 聯隊長殿は頭に手をあて、勿体ぶってため息を突いた。

 

「貴様は疲れているのだ。登別にでも行って羽根を休めてこい。当面の間、身の回りのことは菊田特務曹長に頼むと良いだろう」

 

 えっ。菊田さん。

 

 でも男だらけの温泉なんて恥ずかしくて入れな、いや菊田さんの筋肉に興味がないといったら嘘だけど、他人に裸を見られるのは嫌です。というか、なんでもかんでも菊田さんで誤魔化されると思ったら大間違いですよ。

 

 私はずい、と聯隊長殿に詰め寄った。

 

「聯隊長殿。人には向き不向きがありますでしょう。人間の能力には限界があるのです」

 

 私がこの短い第二の人生で学んだことは……人間は策を弄すれば弄するほど予期せぬ事態で策がくずれさるってことだ!

 つまりこのまま軍に残って、原作知識を活用してうまく立ち回ろうとか思ってはいけないのだッ!三十六計、逃げるに如かずッ!!

 

「何を言うか、花沢中尉。どれほどの将兵が貴様の働きに勇気付けられ、その振舞いに心を寄せていたか、思い出すのだ!軍神の申し子とさえ称えられている貴様に軍人が務まらぬはずはなかろう。誰もみな初陣の後は思い悩むものだ。あのように激しい戦いであればなおさらであろう。しかし我らは国を守り抜いたのだ」

 

 聯隊長殿は、私の肩に手をおいて言った。

 

「しばし時が経つのを待て。落ち着いて顧みれば、気の迷いなど消えてなくなる。貴様は近年稀に見る優秀な将校だとも」

 

 そう言うのじゃない。全然、そうじゃないんだな。

 

「そうではないのです」

 

 私は首を振った。

 

「父上の願いであり、何より国の存亡がかかっておりましたから、私はこれまで望まれるように振る舞って参りました。しかしこれ以上、“軍神の申し子”の姿を取り繕うことはできません」

 

 聯隊長殿はどしたん、話聞こうか?って感じの心配そうな眼差しをこちらに向けた。……今の例えは失礼だったな。訂正します。聯隊長殿は声を落とし、茶屋の娘の機嫌を取る時のように低く柔らかい声で言った。

 

「どうした。何が言いたい」

 

 私は正直に自分の心を打ち明けることにした。だってもう辞めるから。後は野となれ山となれ〜〜。

 

「私は軍神の申し子ではないということです。実をいうと戦場では、どうすれば自分が生き延びるのか、どうすれば人を死なせずに済むのかばかりを考えておりました。士官学校にいた頃は退校処分を受けるためにに妻帯しようと父を欺いて見合いをしたこともありますし、幼年学校を受験した折には解答用紙を白紙で提出して父に絞られたこともございます。今でも私の心はその頃と変わりません」

 

 聯隊長殿は虚を突かれたような顔をした後、まるで宇宙人でも見るような表情になって声を荒げた。

 

「なんのことだ?なにを言っているッ!」

 

 私は構わず話を続ける。

 

「とはいえ私が急に軍を辞しては、師団の間に動揺が走るでしょう。師団の空気が危ういことは、私も理解しております。それでこうして、誰にも相談せずにこっそり参ったわけですけれども、私の言葉が聯隊長殿に届かないというのであれば仕方ありますまい」

 

 押してだめなら押しまくれ。

 

「連隊全部に届くように、私の辞意を表しましょう。もとより恥も外聞も、気にする性質ではありませんので」

 

 私は左脇に挟んだ軍帽を右手に持ち替えた。すうっと息を吸って、鍛えられた腹筋に力を込める。

 

「私はり──」

 

 血の気の引いた顔をした聯隊長殿に口元を抑えられ、掴みかかられる。私は叫ぶのをやめた。あ、軍帽落としちゃった。

 

「なにを言っているッ!花沢中尉!分かった!分かったから早まるな!!」

 

 聯隊長殿に耳元で叫ばれて、耳がキーンとする。戦場の爆音に慣れていなければ卒倒しそうなくらいの声量である。

 

 どうされましたか!と部屋の外から焦った声がかかって、扉が半開きになる。入ってくるな、と聯隊長殿は怒鳴り返した。その隙に私は聯隊長の拘束から逃れて、今度は普通の声量で話しかけた。

 

「では私の届を受け取ってくださるのですね」

 

「よかろう」

 

 聯隊長殿は頷いた。額には脂汗が光っている。

 

「だがせめて私の後任が来るまで待て。ちょうど奴が可愛がっている部下を副官にしたいと言っておったのだ。私が転属したら貴様も辞める。それで良いな?」

 

 それっていつまで待てば良いの、と聞けばあと三月(みつき)ほどという。聯隊長殿の後任に内定しているのは元第七師団参謀の淀川中佐。二十六連隊からの横滑りでこちらに来るようだ。子飼いの部下は師団本部の計官らしい。

 そこまで聞き出して、私は聯隊長殿の話を呑むことにした。

 

「良いか。異動の話も、免官の話も、他言はするなよ」

 

「はい」

 

 とりあえず後で淀川中佐と接触して、私の退役の話を伝えておこう。それから淀川中佐の部下が連隊副官に内定していることを広めて、私が免官されるための外堀を埋めるのだ。有耶無耶(うやむや)にされたら困るからね。

 

 私は部屋の出入口に立ち、右手に軍帽を持って上体を十五度傾け、聯隊長殿に敬礼を送った。

 聯隊長殿の答礼を受ける時間が、ひどく長く感じられる。退室の敬礼を終えて、ようやく部屋を出ると、とてつもない開放感が溢れてきた。

 

 

 

 

 

 

 

 私は陸軍をやめるぞ!ジョ──

 

「花沢中尉殿!!」 

 

「ジョッ!……ごほん。江川軍曹。お久しぶりですね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(第一部完ッ!)







エピローグに続きます。
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