出来損ないの倅ども (旧題: 勇作は手を汚したくない) 作:だだちゃ豆
誤字脱字報告、ここすきありがとうございます。
そして度重なる誤投稿すみませんでした。これはちゃんとした投稿です。
路行く人を押しのけ、跳ねとばし、勇作は黒い風のように走った。居間で朝餉の、その団欒のまっただ中を駈け抜け、家々の人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、津軽海峡を飛び越え、少しずつ昇ってゆく太陽の、十倍も早く(時速1万km超)走った。*1
急げ、勇作。おくれてはならぬ。愛と弟の力を、いまこそ知らせてやるがよい。
「兄様は!」
襟首を掴んで尋ねると、第七師団の衛兵はふるふると首を振った。
「今は花沢邸のほうにいらっしゃると」
無駄足!私は衛兵から手を離し、師団本部の横の通りを駆け抜けた。
「兄様!」
師団長官邸の周りにたむろする人を踏台にして塀を飛び越えると、廊下に立っていた兄様が目をまん丸にして私を見ていた。
「……参りましたね。勇作殿は葬式に呼ぶなと言われていたのですが……」
縁側から家に上がり込んだ私に肩を掴まれ、兄様はもごもごと呟いた。
「兄様。父上が亡くなったという新聞を読みましたが、事実でしょうか」
「事実ですよ。私が介錯しました」
それが何か、とでも言いたげに兄様は薄い笑みを浮かべた。
「ほんとうに?」
兄様は片足を引いて体をずらし、ほんの少し腕を広げながら、私の視線を廊下の奥に誘導した。
「ご確認なさいますか」
兄様に誘われ、私は床の間の襖を開いた。真っ白な死装束に包まれた父上は身動ぎ一つしないでそこに眠っていた。
父上と、最後に交わした言葉を覚えている。こうなることを予想しなかったわけではない。だから父上が兄様にとって必要な人になるように、兄様が父上にとって生きる理由になるように動いてきたつもりだった。
それなのに。
「どうして……」
どうして。
「なぜ、お止めしなかったのですか!!兄様ァ!!」
気づくと兄様の胸ぐらを掴んでいた。兄様はしばらくのあいだ、呆然と目を見開いていた。
「…………皆、納得しておりましたから」
やがて目を逸らして呟いた兄様の顔を、無理やり覗き込むように私は兄様の襟を引き寄せた。
「みんな?鶴見がそう言ったのですか?それとも宇佐美が何か余計なことを??」
「……」
兄様はたたらを踏んだが、それでも頑としてこちらを見ようとはせず、だんまりを決め込んだ。
「なんとか言ってください、兄様!!」
「おやめなさい!」
パン、と小気味良く襖が開かれる音がして、私は我に返った。はじめて、兄様を怒鳴りつけた。
「……母上」
振り向くと、母上がそこに立っていた。私は兄様の胸ぐらを掴んでいた手を離し、すうっと深く息を吸った。
「申し訳ございません、兄様。とんだご無礼を」
大失態だ。兄様とお話する時は、細心の注意を払って兄様を追い詰めないように気を配らないといけないのに、よもや八つ当たりをしてしまうなんて。
でも今だけは、とても兄様を思いやることが出来る気がしない。私は辛うじて平静を取り繕うと、兄様に頭を下げた。
「失礼いたしました。また後日、参ります」
帰ろうとする私を引き止めて母上は言った。
「どこへ行くの、勇作。夕方には葬列を出すのだけれど……」
そうだ。通夜こそ終わったが、まだ父上の葬儀は終わっていなかった。
「参列しろとおっしゃる?」
私が母上にこのような口のきき方をしたのは初めてだったけれど、母上は動じることなく私の目を見て言った。
「あなたが望むならそうして欲しいのよ」
「父上はなんと仰ったのですか」
底意地の悪い質問に、流石の母上も黙り込んだ。こんな分かりきった質問を投げかけた自分自身の、それでいて母上の沈黙に落胆した自分の心の、なんと苛立たしいことだろう。
じりじりと心を炙るような沈黙を、兄様の落ち着いた声が破った。
「花沢夫人、勇作殿に遺書をお見せしてはいかがですか」
母上は目を伏せて静かに首を振った。
「あれは勇作に宛てたものではないから」
淡とした母上の口調に反比例するように、兄様の口調には熱がこもった。
「ですが勇作殿のことが書いてあるのだから、勇作殿にも知る権利はあるでしょう。勇作殿だって父上が最期に何を思ったか知りたいはずだ」
「いいえ。誰が遺書を読むかを決めるのは、事の始末を任された私の役目です」
母上のはっきりとした拒絶を受けた兄様は口元に不満の色をちらつかせたが、それもほんの一瞬のことだった。恐ろしく早いポーカーフェイス。俺でなきゃ見逃しちゃうね。
「勇作殿はどうされたいのですか?」
兄様はすっかり平静を取り繕った真面目な顔でこちらを見た。一見すると何の感情もないように見える真っ黒な瞳の奥には、何か期待のような感情が揺らめいている。私はそれに促されるように、母上の静かな決意に対峙した。
「見せていただけませんか、母上」
毒を喰らわば皿までという。私は父上が、最期に何を思ったのか知るべきであると思うのだ。
しばらくの押し問答の末、私は父上の遺書を借り受けることに成功した。
◯
父上の葬式は故人の遺言に従って、比較的簡素な方法で行われていた。とはいえ父上の寝棺を囲みたがる人は多く、煌びやかな高級将校の礼服に賑々しく彩られた盛大な葬送行列が旭川の街を延々と練り歩く様は遠目にも壮観だ。
喪主は母上が務めた。母上は白い和服に白い帯を締め、真っすぐ前を向いたまま位牌を捧げ持って歩いていた。そのすぐ隣に兄様が喪章のついた軍服を着て並んでいるのを確かめて、私は覗き込んでいた双眼鏡を仕舞った。
代わりに父上の遺書を広げて木漏れ日に翳し、
私は遺書を畳んで懐にしまい込むと、背中を倒して木の幹に体重を預けた。書き付けられた文字が目に飛び込むまま、なんとはなしに遺書を読み返す。
──私の罪は軽くありません。西南戦争においては軍旗を失いました。日露戦争においては多くの子弟を死地に立たせながら、我が息子は生きて戻りました。
今日まで天皇陛下の深い御恩によって過分なるご厚遇を頂戴しましたが,ますます老い衰え,もはやご皇室のお役に立てる時も残っていない折り,ここに覚悟を定めることと致しました。
家について。
先輩諸氏及び親友の方々からも,毎度,心を砕いて諭して頂きましたが,勇作を認めることはできません。百之介については本人の望むようにすれば良いが、不名誉の父の名を継ぎたくないのであれば無理に家名を存続することもありません。
遺産のこと。
別紙のとおりです。委細はヒロに───
私は息を吐いて天を見上げた。母上がこの遺書を私に見せるのを渋った意味が良く分かった。兄様はどういうつもりでこれを私に見せたのだろう。父上を殺したのは自分ではないとでも伝えたかったのだろうか。口で言え。
「はぁ」
私はごそごそと座り直すと、もう一度遺書を眺めた。生きて帰った私に死ねと言った父上は、結局自分が死ぬことで花沢家の帳尻を合わせたらしかった。はいはい、どうせ私は生き恥さらしてますよ。別にいいもん逃げるは恥だが役に立つもん。
ところでこれって私が父上を殺したことになるんでしょうかね。なるんだろうなぁ。
「ハァ〜〜」
もうなんにも考えたくなぁ〜い。私は再び木の幹に体重を預けて天を見上げたが、目に映るものは木の葉ばかりである。
「にゃあ」
吾輩は猫になりたい。かの有名な夏目漱石の猫小説はちょうど私たちが大陸に渡るころに連載が始まった。猫はいいぞ。猫になって人間世界を
「勇作殿」
見下ろすと、キラキラとした瞳の美青年が木の上の私を見上げていた。第七師団、二十七連隊に所属する、かつての私の従卒。
「三島君。何故ここに?」
近文山は第七師団の衛戍地からさほど離れた場所ではないが、もののついでに立ち寄るような所でもない。私を探しに来たのだろうか。ここに来ることは誰にも言っていないのに。
「この度はご愁傷さまでございます。心よりお悔やみ申し上げます。永山に宿泊されていると伺っていたところ、こちらに双眼鏡の光が見えたもので」
「ご丁寧にありがとう」
三島君の礼儀正しい挨拶に私はなんとも言えない後ろめたさを感じた。ご愁傷さまは母上と兄様だけなんだよなぁ。そんなことより私の宿泊先が爆速で割れてるのはなぁぜなぁぜ?
「私の居所はそんなに噂になっているのかな」
私は地面に降り立つと、愁いを帯びた視線を三島君に投げかけた。
「いえ、永山駅の待合の主人から報せがあったのです。私があなたの従卒をしていたことを話してあったので、気を利かせてくださったのでしょう。口の堅い方ですから、周りに言いふらすようなことはないと思います」
三島君はハキハキと言った。わざわざ旭川を避けて永山に泊まったのに、結局顔バレしとるやんけ。よし、帰ろう。
「どうかな。人の口に戸は立たないと言うし、私はそろそろ東京に帰るとするよ」
「やはり尾形伍長殿にはお会いにならないのですか」
「兄様にはもうお会いしたんだ」
三島君は少しだけ目を見開いてから、口元に笑みを浮かべた。
「それは良うございました。直接お話はされたのですか」
「うん」
あんまりちゃんと会話してないけど。なんなら地雷を埋めてきただけな気がするけど。爆発する前に回収しに行かなきゃ……!
「では、今後の尾形伍長殿の近況報告はいかがいたしましょう」
「手間を取らせて申し訳ないけれど、それはまだ続けてくれると嬉しいな」
三島君は特に嫌な顔もせずに頷いた。
「承知いたしました。引き続き、尾形伍長殿には内密に、勇作殿にご報告を続けます」
ん、ちょっと待って。もう鶴見に私の居所はバレてるわけだし、父上は死んじゃったし、私と三島君が文通していることを隠す意味ってないよね。
「もし兄様に何か尋ねられたら、その時は事情を話して構わないよ。それと今後はこちらの住所に直接手紙を送ってほしい」
「よろしいのですか」
私が東京の下宿先の住所を差し出すと、三島君はここではじめて困惑の表情を浮かべた。まぁそうなるか。ついこの間まで念入りに居所を誤魔化してたからね。
「うん。住所を秘密にする必要はもうなくなったからね」
「承知いたしました」
「でも私が北海道に来ていることは他言しないでね。三島君の他に気づいている人はいるかい?」
「はい、勇作殿が師団長官邸を訪ったという噂は既に広まっておりますが、永山にいらっしゃるという話は先ほどお伝えした待合の主人からしか聞いておりません」
もう噂になってるんだ?私が旭川着いたのって今日の出来事なんだけど。ほんの数時間前のことなんだけど。明日には街中に知れ渡っていそう。
私は内心げんなりしながら三島君を師団に帰し、人力車を拾うために近文駅に向かった。乗合馬車のが安いけど、私はプライバシーを金で買うのだ。
ところが小道を抜けて通りへ出ようとしたところで、またも私を呼び止める声があった。
「勇作ニシパ!良いところに!」
若いアイヌは買ってきたばかりの清酒を手に、嬉しそうにこちらへ駆け寄ってきた。戦友の遠戚、ホタㇰパだった。
◯
「勇作ニシパにはセタシが世話になってるからな、好きなだけ飲んでいけ!」
連れてこられたコタンでは、何やら宴が開かれていた。飾りをつけた
買い足したばかりの酒を注がれて、
「これが最後なんだ。間に合ってよかった」
たしかホプニレって言ってたよな。ホプニレってなに?
「山の熊を送る儀式です。コタンの遠くで狩りをした時は、その場でホプニレします。近くで狩った時でないと、コタンではやりません。だから勇作ニシパが見るのははじめてなんですね。と言っても、最初の儀式はもう終わってしまいました。あとはみんなで楽しく過ごすだけです」
顔馴染みのルテㇽケさんはちょっと残念そうな顔をしながら広場を指し示した。まぁ儀式が見れなかったのは残念なんだけど、そんなことより聞き捨てならないのはこの辺りにヒグマが出たってことですよ。
「こんな騒がしい日に人里近くまで熊が来たんですか」
父上の葬式であんなに煩くしていたのに。熊って人を避けるんじゃなかったっけ。首を傾げていると、私をコタンに連れてきたホタㇰパがどかりと横に座りこんだ。
「この熊は去年から人間にちょっかいを出してたからな。去年は山が不作だったから、そこで人間の飯に手を出して味を占めたんだろ。こういう
ウェンカムイになると毛皮も使えないし肉も食えない。今日ホプニレできたのは良いことだ、とホタㇰパは嬉しそうに言った。
呑気に説明しているけれど、人喰い熊一歩手前だったってことですよね?何それ怖ぁい。私は毛皮になった羆の頭を思い返した。まだ幼い顔立ちに見えたのに。
「やんちゃな年頃だったのでしょうか。コタンに死人が出なくて良かった」
ルテㇽケさんは頷いた。
「若い熊は小さくて弱いですから。一番最初に食いっぱぐれて、人のいるところにやってくるのです。大きくて立派な熊は山で餌場を確保するので、人のいるところには滅多に寄り付きません。ウェンカムイは大体が位の低いカムイです。位の高いカムイはウェンカムイにならないんです」
「わぁ……世知辛いですねぇ」
強い者だけが正しく生きられる。人もカムイも一緒なんだね。
「ところで、勇作ニシパはここにいて良いのですか。父親の葬式に来たのですよね?」
「あっ、そうか。そりゃ悪かったな。もう帰るか?
ルテㇽケさんの言葉に慌てた様子のホタㇰパは、私の父が第七師団長であることをすっかり忘れていたらしい。こういうところが、私がホタㇰパの家に足繁く通った理由の一つであった。
「父の葬式に来たわけではありません。兄の様子を見に来たんです。ですが少々、言い争いをしてしまって。明日の午後にでも出直そうかと思っているところです。折角ですから今日はここでゆっくりさせていただこうと思います」
永山で好奇の目に晒されるより、ここで一泊していったほうが落ち着ける。私がそう言うと、二人は是非そうしていけと私の盃に酒を注ぎ足した。
「勇作殿、泊まっていかれるのですか?じゃあ寝る前に僕の勉強を見ていただけませんか!」
踊りの輪から抜け出して、ひょこりと会話に口を挟んできた少年こそが、私がこのコタンに通っていた最大の理由。戦友の遺児、
「何もこんな時まで勉強しなくたって」
ホタㇰパはげんなりした顔でぼやいたが、
「ふふ、私は嬉しいですよ。熱心な生徒の面倒を見るのは。その代わり、今日も瀬太司郎君の家に泊めてもらえますか」
「はい!」
「勇作ニシパには世話になりっぱなしだなぁ。毛皮だけじゃなくて、熊の胆も持ってくか??」
そんな高価なものいただけません。あと毛皮もいただけません。なんの手土産も持ってきていないのに。と断ったら、じゃあこれ、とプルプルした薄切りの何かを差し出された。
「ウレハルだ。うまいらしいぞ」
なんか白っぽい塊は脂肪かな、コラーゲンかな?黒いのは皮膚?肉球?てことは、もしやあの伝説の高級中華食材……!
「熊の手ですか!?」
口の端から零れそうになる涎を啜って、私は身を乗り出した。ルテㇽケさんがクツクツと笑う。
「足ですよ。足の裏の塩茹でです」
オッケーなるほど。だいたい同じような物ってことね。いただきまーす!!
ぷるんとしたゼラチン質の食感と熊特有の甘い脂が舌の上でとろけて口の中に旨味が広がる。ともすればもたれそうな濃厚な口溶けに、時折コリコリした肉球部分の食感が混ざってアクセントになるので飽きが来ない。シンプルな塩味が素材の味を引き立てていた。
「う〜ん、
はぁ、幸せ。
うっとりした私の表情を見て、ホタㇰパは
「これはコタンで一番尊敬される人だけが味わえる特別な食事なんです。気に入っていただけたようで良かった」
エッ。遠慮したほうが良かったかな。私は思わず食事の手を止めて二人の顔を見た。
「どんな味がした?普通の肉と何が違う?」
物欲しそうな顔のホタㇰパを前に、私はこの感動を分かち合わねばならないという義務感に駆られた。
「そうですね……」
食レポをするためにもう一切れ、熊の足を口に含む。別に私の食い意地が張っているわけではない。アイヌは言葉を重んじるので、まずは言葉で共有するのがいいだろう。美味しいものはみんなで分かち合わないとね。
私は二人に伝える言葉を考えながら、ウレハルをじっくりと味わった。で、気がついたら碗の中身は空になっていた。アレレ〜〜おかしいな〜?
前前話、読者諸兄の尾形への信頼度が低すぎて笑いました。一人くらいは尾形の無実を信じてくれるだろうと思いながら書いたのに。