鳴潮二次   作:出力用

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長離公式PVのあれで碁を打ってる今汐が可愛かったので。




向かい火

 思わず噎せ返るような匂いに、今汐は碁石を打つ手を止めた。

 喧騒から程遠い屏庭山での対局、集中力を要されているというのに、雨音以上に厄介なものがあることを失念していた。

 雲海を臨む空の上にあろうとも、雨に封じ込められた東屋は密室と変わらない。

 戯れな微風に煽られて、体温により揮発した長離の匂いが漂ってくる。

 凡夫より平熱が高い彼女のこと、当然ながら他人に生理的作用を与えるその微量な物質は多く、強い。

 一言で表すなら、色気。

 今汐はそれを真正面から浴びてしまい、困惑していた。

 対面に座していた長離はそのわずかな戸惑いすら敏感に感じ取った様子で、局面を眺める振りをしてちらりと今汐を見る。

 今汐は、表面上は普段と変わらぬ無表情で、長離と同じく十九本の線が引かれた盤面の碁石に目を向けている。

 先手は黒石の今汐、後手は白石の長離で始まったこの局は五十手を迎えようかとしていた。

 白黒合わせて三百六十一個ある碁石が半分も打たれていないのは、今汐と長離が無為に時間を使っていないことを表している。

 先手が今汐なのも、単純に長離の方が棋力が高いからである。

 とはいえ、先を譲られたからといっても今汐に余裕が生まれていたわけではないらしい。

 収縮色である黒の碁石は白石より大きく作られているが、それが却って今汐の負担になったのかもしれない。

 ──もしくは……。

 微細に動く今汐の薄い色をした目を、長離はじっと見つめてみる。

 色合いや面立ちは儚さを感じさせる今汐が、実際はとてつもない芯の強さを持っていることは長離が一番よく理解していた。

 

 

「『漂泊者』」

 

 

 その短い単語を聞かされ、今汐の眉がぴくりと動く。

 顔を上げた今汐が露骨に眉をひそめて長離を見る。

 

 

「先生、対局の最中です。要らぬ雑事は慎まれますようお願いします」

「ふうん……今汐にとって漂泊者の存在は、集中を掻き乱すほどのものなんだ?」

 

 

 今汐からの返答はなかった。

 ──沈黙こそ、なによりの答え。

 しばらく前に来訪した漂泊者に今汐が特別な関心を寄せていることくらい、散華に伝えられずとも長離は察していた。

 

 

「であればなおのこと話し続けずにはいられないかな。令尹として決断を求められるときに、周囲が沈黙しているとは限らないのだから」

「……はい。肝に命じておきます」

 

 

 不服そうにしていても、そう喩えられては今汐には受け入れるほかない。

 

 

「今汐は昔から素直だね」

「先生の教えは正しいと信じていますから」

 

 

 長離は淡々とした今汐の言葉に思わず苦笑した。

 白石の一手を打ち、その後に少し考えて今汐が黒石を添えてくるのを黙って眺めてみる。

 出会った頃はまだ幼かった今汐はそれなりに成長してきたものの、まだまだ経験は足りていないようだ。

 今州の長である令尹が色恋沙汰にうつつを抜かすなど許されざる行為だが、今汐にただの少女として生きる道を勧めなかった長離としては心苦しくもなる事態ではあった。

 

 

「彼女は辺境である今州にとどまることはない、と理解した上でのこと?」

 

 

 長離の問いかけに今汐は答えなかった。

 否、答えられなかった。

 漂泊者に対して角が好意的、というかその主としているのなら、歳主の共鳴者である自分はむしろ漂泊者と結ばれた方が治世においてもなにかと有利だろう。

 しかし、先日今汐が用意した席ではあまり思わしい展開には運べなかった。

 その心に入り込む隙さえ見せない──今汐にそう思わせるほど、漂泊者は掴みどころのない言動をしていた。

 長離が一手打つと、迷いの見受けられる動作で今汐がまた一手を投じる。

 

 

「北落野原での最後の戦いの前まで、羽毛の髪を持つ踏白が漂泊者と共にあったと聞いているよ」

「はい、優秀な踏白のようです。ただ今回のことを鑑みるに、その立場で居続けるのは役不足かと」

「今回のこと、ね……」

 

 ぱちん、と碁石を打つ音が東屋に響く。

 それが果たしてどちらのものだったのか、知ることができたのは平静を保っている長離だけだった。

 雨は霧雨に変わり、周囲はとても静かになる。

 

 

「先生、言いたいことがあるのでしたらはっきりと言葉にされてはどうですか?」

「さて、どうだろう? それを見抜くのもまた、妾から与えられた課題かもしれないよ?」

 

 

 無邪気に微笑む長離にそう言われ、今汐は肩に込めていた余計な力を抜いた。

 

 

「……邪推されるほど、余と彼女の間に交流は存在しません」

「なにをいまさら。乗霄山の頂まで連れ添うほど絆は深いだろうに。それにこの前だって点心を振る舞ったと聞いているよ」

「あれは……」

 

 

 今汐が漂泊者のために作った小龍包はその場では手をつけられず、その踏白や巡尉、ひいては研究員への土産として持ち帰られた。

 漂泊者が今州へ来て初めて出会った三人なので思い入れがあるのだろう、というのが今汐の考えだった。

 もちろんそれは今汐の主観的な意見なので、実際のところはわからない。

 ただ、件の踏白と漂泊者が特に距離が近いというのは今汐どころか長離も感じていたところだった。

 だから今汐の想いを引き出すために長離も敢えて話題にしてみたのだが、やはり今汐は表情も口調も淡々としたまま頑なに変えようとしない。

 尤もそれは、漂泊者に対する気持ちを確かめられている居心地の悪さからではなく、長離が無自覚に漂わせている匂いに起因するのだが、長離はそんなことには少しも気づいていないようだ。

 

 

「その話は忘れてください」

「なぜ?」

 

 

 ぱちん、と一つ音が鳴る。

 今汐は碁笥から碁石を取り出そうとしたが、結局その手を引っ込めて膝の上に落とした。

 同じように、視線も落ちる。

 

 

「あれは政治的な意味合いもない、極めて個人的な誘いでした。どう転ぼうともなんの問題もない……いわば、先生には無関係のことですから」

 

 

 ──妾とは無関係、か。

 今令尹の参事以前に今汐の教育者として決して無関係ではないのだが、幼かった今汐が急に大きくなり、繋いでいた手を離していった気がして、長離はなにやら物寂しい気分に陥った。

 それに棋譜の一件で、長離も漂泊者についての認識を改めざるを得なくなっていた。

 今汐が角から漂泊者と出会うことを予言されていたように、長離もまた師匠である玄渺真人から『客人』を導く願いを託されていた。

 幼い自分の手を引きぬくもりを与えてくれたことを、忘れはしない、命が燃え尽きるその日まで。

 

 

「そう。それならさっきから冷静さを欠いているのはなぜなのか、聞かせて?」

 

 

 今汐は昔から大人びた子どもで、不服や不満を顔に出すことが少なかった。

 だから長離の方が彼女を深く理解する必要があり、それで自ずと今汐のことに敏感になったのだった。

 だというのに、今彼女がなにに惑わされているのかわからない。

 てっきり漂泊者関係かと思っていろいろと聞き出そうとしてみたものの、結果はご覧の有り様である。

 

 

「雨が」

「雨?」

 

 

 確かに東屋の周辺では雨が降っているが、しばらく前から霧雨に変わり、ほとんど無音に近かった。

 外の景色から視線を戻した長離は、今汐が気まずそうに他所を向いていたので首を傾げた。

 

 

「雨が降っていると、体温は下がりそうなものですが……」

「…………ああ、そっか」

 

 

 今汐のその短い言葉と当惑した表情を見せられて、さすがに長離もすべてを察した。

 自分で自分の匂いに当てられることなどないから、今の今まで気づけないでいた。

 幼い頃から知っている間柄だ、困惑するのも仕方ない。

 長離は珍しくばつが悪そうに微笑み、頬杖を突いて目の前の若い令尹を見つめた。

 

 

「そんな調子では想い人の一人も射止められないよ、『汐』」

「……からかうのも大概にしてください」

 

 

 氷のように冷ややかな眼差しが飛んできて、長離は大袈裟に肩を竦めた。

 漂泊者を知ってからというもの、今汐が徐々に感情を見せるようになって長離としては喜ばしい限りだった。

 ──見守るだけでいいから。

 大それたことも、あのソノラで作られた幻の続きも求めない。

 この少女が進む道を見届けたい。

 それだけが長離の願いだった。

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