雪に泳ぐ魚 (コバルトノベル長編/一次選考突破・43,000字)   作:源公子

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雪に泳ぐ魚

 もう秋。小康状態になると、なぜか兄さんは詩ではなく、絵を描き出しました。

スーラの点描画でした。モデルは私です。

 

「保坂の代わりさ。保坂は、本当は点描画でお前を描きたがってたんだ。

この絵は描くのに時間がかかる。それだけ長い間、お前をみていられるからと言っていた。永遠に見ていたいと。

 保坂は本当にお前が好きだったんだ。

 しのぶ、俺に飲ませたオブラート、あれ鯉の血だったんだろう。願掛けが効かないわけだ」

 

「ごめんなさい」

 やはり気づかれていたのです。

 

「お前……俺がどんな気持ちで、保坂をお前に譲ったとおもってるんだ」 

 

 ああやっぱり――兄さんは保坂さんを愛していたのです。

もう驚きも怒りもなく、分かっていたことを確認しただけのことでした。  

 

 兄さんは保坂さんを、保坂さんは私を、私は兄さんを、

 三人揃って、報われない片思いをしていたのです。

 

 不意に花火の音を聞いた気がしました。保坂さんの寂しげな顔。

 

 あのまっすぐで何一つ汚れていない人を、心底私を好いていてくれた人を、私は裏切ったのです。

 私は下を向いたまま、兄さんの方をみられませんでした。

 

「俺が死んだ後、俺の代わりにお前を守れるのはあいつしかいない。

 あいつさえ生きていたら、俺は何の心配もなく死ねたんだ。それを……台無しにしやがって」

 

 そう言う姿の影の薄さ、この人はもうじき行ってしまう。

 そうしたら私は一人なのです。

 

「死ぬんなら私も連れてって。

 私たち一緒に生まれてきたのよ、死ぬ時も一緒だって言ってくれたじゃない。

 お願い、俺と一緒に来いって言って」

 

 兄さんに縋ろうとする私を兄さんは払い除けました。

 

「だめだ! 神仏が許しても俺が許さん。

 後を追ってきたりしたら、現世に叩き返すぞ」

 

 はじめて見る、鬼の形相の兄でした。

 

「お前にはやらなくてはならんことがある。俺の大事な子供達を龍に育ててくれ。

 そのためにあのトランクを置いてくんだ。

 必ずだぞ、お前だから頼むんだ。分かったな」

 

「はい」

 そう答えるしかありませんでした。

 

「保坂はえらいな。俺は結局自分のことだけ。

 今度生まれて来るときは、こんなに自分のことばっかりで、苦しまないように生まれて来るよ」

 

 兄さんは自分を恥じるようにそう言ったのです。

 その後すぐ、兄さんは寝たきりとなり、結局私の絵はまた完成しませんでした。

 

 

「ダメでしょう、こんなに吐いているのですから。昨夜から眠らず血も出つづけなもんですから。

良く持った方です」

 

 何とか秋をやり過ごし、冬の初めになっていました。でも冬は越せそうもありません。 

 お医者様の言葉にいよいよなのだと、覚悟するしかありませんでした。

 

「今夜が峠です」と言い残してお医者様は帰られました。

 

「どうも間もなく死にそうだな。不思議に苦しくないのだよ。

 血と一緒に魂魄が半ば体を離れたのだろうかね」

 

 やっと咳と血が止まった兄さんは呑気な風にいいました。

 

「お医者様に、御礼を言いそびれたよ。

 こんなにいろいろ手当てもしていただいて、これで死んでも、まずは文句もない」

 

 私は兄さんから目を逸らすしかありませんでした。

 

「悲しい目をするなよ、これが俺の運命だ。

 外は雨雪《みぞれ》が降ってるね。なあ、あの潤菜模様の茶碗まだあるかな」

 

「クニが、おままごとに使ってた。まだあるはずよ」

「あの碗で雨雪をすくって、砂糖をかけて食べたいな。天然のアイスクリームだ。」

 

 私は茶碗を見つけて、急いで洗うと、庭に駆け出しました。

 庭の雪たちはどこを選ぼうにもあんまりどこも真っ白です。

 

 松の枝の降ったばかりの雪を、兄さんの最後の食べ物を、碗にすくいます。

 お正月には早いけど松の枝も一折りします。あの雷の落ちた残りの松の枝です。

 

「ああ良い、爽やかなターペンティン《松脂》のにおいだ。

 まるで林の中に来たようだよ。もう一度お前と一緒に雪を渡って行きたかったな」

 

 青い松の針に頬を埋める兄さんはもう、痛みも感じなくなっている様なのです。

 とってきた雨雪の砂糖がけを、ひとすくい、ほんのひとすくい。

 兄さんは美味しそうに喉を鳴らして食べました。

 

「茶碗のこの模様とも、もうお別れだな」

 そう言って兄さんは眠りました。

 

 穏やかな寝息でした。それを見ながら私も、うとうとと眠ってしまったのです。

 

 

 あの夢でした。日は西に沈みかかり、東に月が薄く登っていました。

 赤い夕やけの雪原にぽっかりと空いた水溜りのような池。

 その中に、あの黒い鯨がいました。

 

 それは、何という大きさでしょう。

 あまりにも大きくなり過ぎて、鰭を池の淵にかけ、頭しか出すことができず、

 穴にはまって動けなくなっていたのです。

 

 鯨は西を見ていました。

 保坂さんの死んだ大陸を……西の果てにあるという、極楽浄土を。

 

 ずぶり。

 ゆっくりと頭を傾けて、鯨は雪を割り、西へ向かって泳ぎ出します。

 

「寛治さん待って、私も連れてって――」

 

 いくら叫んでも、兄さんには届かないのです。

 堅雪を蹴り、私は鯨を追いかけ走り出しました。

 鯨は半分雪に埋もれながら、ただ進み続けます。

 

 時には沈み、時には息継ぎに潮を吹きながら。

 ただ前へ。前へ、己の運命の終点へと。

 やがて、鯨は見えなくなりました。 

 

 浮かんできません。 

 次の息継ぎはこの辺のはずと、探す私の足元の雪原に

 ぽっと、赤く丸い点が下から上がってきました。

 

 ぽ・ぽ・ぽ……。点がつながり、形になっていきます。まるでスーラの絵の様に。

 

 ぽ・ぽ・ぽ・ぽぽぽぽぽぽぽぽ・ぽ……赤い点の描くものは赤い大きな魚の姿。

 それが、己の血で描いた兄さんの最後の絵だったのです。

 

 

 

 そこで目が覚めました。兄さんは静かでした。

 もう魂は体を離れ、冷たくなっていました。

 

 届かないわたしの声と涙が、虚しく腕の中の溶けた雪に波紋を作っていました。  

 一九二二年十一月二十七日、数えで二十四才の若さでした。

 

 同じ頃、ポーランド孤児たちの最後の船が、無事に故国へ帰っていったのです。

 

 

 

 

 それからの事はよく覚えていません。

 葬儀が終わり出棺の時も、ただみんなの後をついて昨日降った雪の中を、トボトボと行くだけでした。

 

「可哀想にな」 

 私と兄さんの仲を知る、親族たちの痛ましげな眼差し。

 仲のいい従兄弟たちのかける言葉も耳に入りません。

 

 焼き場に入れられ、燃えていく兄さんの黒い煙を、父さんの隣でただぼんやりと見あげていました。

 

「今日は、火の具合が悪くて、時間がかかるかもしれません」

 焼き場の職員の謝る声が遠くでします。

 

「道理で煙が黒いのう。燃えきれんかのう。不憫な事だ」

 父が涙声で言いました。煙は黒く、どこか詰まった様に途切れ途切れでした。

 

 その時、煙突が咳をした様に、急に大きく黒い塊を吐きました。

 それは尾を引いて細くなり、もう一度小さく咳をして、また細くなりました。

 鰭と尾を持つその黒い姿はあの魚、間違いなく兄さんでした。

 

 その時白い雲が一本、すうっと塊に向かって天から降りてきました。

 それは、白い龍のように見えました。

 

 龍が鯨に巻きつくと、鯨は細く伸び、同じく龍になりました。

 白と黒と二つの龍の雲は絡まりながら天へ昇っていったのです。

 

 わたしにはわかりました。

 保坂さんが白い龍になって、兄さんを迎えにきてくれたのだと。

 

 --よかったね、寛治さん--

 

 その時、見上げる私の喉に熱くつきあがるものがありました。

 げぼっ。嫌な音を立てて私は血を吐きました。

 

「しのぶ、お前感染ったのか!」

 父さんの叫び。

 母さんと弟妹たちの悲鳴と涙。

 

 

 いいえ、まだ時間はある。私はまだ死んでいない。

 兄さんのトランク、兄さんの残した子供達。

 あれを必ず本にする。兄さんの名を世に出し、龍にして見せる。

 

「それまで時間をください、保坂さん、兄さん。

 その後で、わたしもすぐ行きますから」

 

 雪の上に散る血のしみは魚となり、

 赤く、赤く、雪の中を泳ぎ続けるのです。

 

               

 

 

 

 

 

 

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