雪に泳ぐ魚 (コバルトノベル長編/一次選考突破・43,000字)   作:源公子

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祖父の死~兄、大学から帰る

 兄さんの中学の卒業が近付いていました。全科目甲の優秀な兄でした。

 

「どうか、進学させていただけまいか。あまりにも惜しい」

兄さんの担任の先生がなん度も頭を下げて頼みにきましたがお祖父さんは首を縦に振りません。

 

「商人に学問はいらん」

家長であるお祖父さんを止めてくれる人はいません。

 

私も上の学校に行きたかったのですが、女学校卒業後すぐに嫁に出すと決めてしまっています。

相手は取引先の跡取り息子。金で売られるようなものでした。

 

嫌だと言っても通るものではありません。二人とも希望のない人生に声もなく、下を向いていました。

兄さんはどんどん元気をなくしてていきました。

 

 

 

また、あの夢を見ました。満月でした。

夜の雪原にポツンと一つ空いた水溜りのような池の中に、あの黒い魚がいました。

 

頭だけを出して、月を見ていました。体は池の中で回るのさえ無理なほど大きくなっていました。まるで鯨でした。頭が沈むと尾がはみ出る、もうこの池はこの魚が生きていくには、小さすぎるのです。

 

――苦しいよう、出してよう、ここから出たいよう――

 

バシャバシャと水を跳ねながら反転する黒い魚、それは龍になれずに苦しむ、兄さんの姿でした。

 

兄さん、兄さん――

 

赤い魚は小さくて、ただ黒い魚の周りをウロウロするだけなのです。

 

 

 

「寛治は、大学にやります」

とうとう父さんがお祖父さんにそう宣言したのです。

 

 日頃おとなしい父さんの、初めてのお祖父さんへの反抗でした。

 

 怒り狂うお祖父さんに、

「俺の稼いだ金で、俺の息子を大学にやるんだ。俺は、学がなくて苦労した。あんたの稼ぎが悪いから、家が貧乏だから上の学校にいけんかったんだ」

 

お祖父さんは激怒し、父さんに殴りかかろうとして、その場に倒れました。

脳卒中でした。

 

 あの威張り散らしていた人が、右半身が不自由になり、呂律の回らぬ寝たきりとなってしまったのです。 

身内の恥を人に見せるわけにいきません。母さんは、お祖父さんに一日中つきっきりになりました。

 

今まで母さんに全てを任せて、呑気に女学生をしていた私に、急に家中の家事と責任が押し付けられたのです。

縁談は取りやめになり、その日から、学校にはいけなくなりました。

 

弟妹たちの世話もあります。病人を抱えての生活では、兄さんの大学だけで経済的に精一杯。私の学校進学は断念せざるを得ませんでした。

 

女学校の卒業式で総代を務めたのが唯一の救いだったのです。

 

 大学受験のため、東京に向かう列車に乗る兄さんは、

「しのぶ、無理に嫁になどいかんで良い。約束通り俺は結婚はせん、お前の面倒は俺が一生見るから」

 と言ってくれました。

 

 運命が別れても兄さんはやっぱり私のベターハーフでした。

 

 

 

 また夢を見ました。今度は池の中には赤い魚が、一匹だけ。

 

――出してよう、わたしも出たいよう――

 

 龍になれるのは黒い魚だけなのです。

 赤い魚は置いてきぼりにされて、一人寂しく泳いでいました。

 

「平気よ、わたしの名前はしのぶよ」

 

 わたしの落とす涙で池に立つ波紋を、横切る鯉の赤い背鰭が切っていきました。

 

 

 

 

 一年後に女学校の友人から、同窓会の誘いがありましたが断るしかありませんでした。

 

末っ子のクニを背負い紐でおぶって、おむつの洗濯をしていると、玄関で呼ぶ声がします。手の空いているものが、誰もいないらしく、仕方なく出ていくと同級生のあや子さんでした。

 

 嫌な予感がしました。彼女は金持ちの父親に甘やかされて、成績は散々なのに、いばり散らすのが大好きな嫌なタイプでした。

 

「同窓会に行かなかったの?」

「ええ、手が離せなくて」

 クニをあやしながら、そう言うしがありませんでした。

 

「妹さん? そうやってると、どこかのおかみさんみたいね、似合ってるわ」

 

 お祖父さんが倒れて私は卒業式に出席できないからと

「総代挨拶は、私が代わりにやります」と父親の金に物を言わせて、ゴリ押しをしたのです。

 

 ですがクラス全員の反対にあい、断念せざるを得なかったと聞きます。

 以来、クラスメイト達に総スカンを食らっていたので今日、同窓会に誘われなかったのです。

 

 お金持ちの親のツテで何度もお見合いをしたのですが、ことごとく断られているとも聞きました。

 

「そういうあなたは、もう誰かのおかみさんになれたのかしら? あ、まだみたいね。結婚指輪もしてないから。同窓会に行ったなんて嘘なんでしょう? あなたなんて誰も誘うはずないもの」

 

 後で聞いたら、卒業式の総代をやれなかったのがよほど悔しかったのでしょう。あや子さんは誘われてもいないのに、勝手に同窓会の会場に来て、散々私の悪口を言って回っていたそうです。

 でも、誰にも相手にされなくて、帰ったということでした。その足で私のところに来たのです。

 

 その時クニが私たちの剣幕に驚いて泣き出しました。

 

「おおよしよし、こわかったの。大丈夫よ、意地悪なおねえちゃんはもうお帰りだから。私あなたと違って忙しいの。洗濯物の途中ですので」

 

「な、何よあんただって行き遅れのくせに。可哀想だと思って寄ってやったのに。あんたはおむつ洗いがお似合いよ。フン!」

 

 捨て台詞を残して帰って行きました。

 

 

 

クニをあやしながら、廊下を渡り、井戸のそばのタライに戻ろうとしたら、上の妹のシゲが、私の部屋の鏡台を勝手に開けて、リボンや櫛を使っているのを見つけたのです。

 

「シゲ、何してるの!」

「だってお姉ちゃん、もう使ってないじゃないか」

 

逃げようとするシゲを捕まえて、何度もぶちました。シゲは火がついたように泣き出し、つられて泣き止んでいたクニまで泣き出しました。

 

「お姉ちゃん、顔怖いよう。鬼だよう」

 

 シゲの言葉にハッとして鏡に映る自分の顔に気づきました。

鬼でした、母さんを叱るお祖母さんの顔でした。

二度となるまいと思っていた、八つ当たりをする女に、また私はなっていました。

 

 ペタンと鏡の前に座ると、私は鏡も割れる勢いで、大声を上げて泣き出しました。

その様子にシゲはびっくりして泣き止みました。わけがわからず、オロオロしています。

 

「お姉ちゃん泣かんでよぉ……」

それでも私が泣き続けるので、顔をクシャクシャにして再び泣き出しました。

 

「もうしないよう。ごめんなさい、ごめんなさい」

 

 私の部屋に、三人の泣き声がいつまでも木霊したのです。

 

 

 

 

 お祖父さんは三年後に亡くなりました。

その間、兄さんはお祖父さんの手前勘当同然で、時々父さんが会いに行くだけで、一度も家に帰りませんでした。

 

 母さんがまた、店で働けるようになり、一番下の妹も、手のかからない年になり、私にもやっと自由が戻ってきました。

 

 途端に今度は、行き遅れた娘を片付けようと、お節介な親族からの沢山の縁談。

 兄さんとの約束を信じて必死に断り続けていました。

 

 

 

 

去年の十一月、レーニン率いるボリシェヴィキにより、ロシアで社会主義革命があり、ロシア帝国が崩壊。我が国の領土である満州・朝鮮半島は、直接ロシアと国境を接しています。共産主義がこれらの地域に波及することをなんとしてでも阻止する必要がありました。

 

 欧州、アメリカからの要請もあり、一九一八年八月二日。日本は、シベリア出兵を決めます。

 

 

 

 そんなおり、兄さんが三年ぶりに夏休みに帰ってくるとの連絡が来たのです。

でも、再会に心躍らせていた私の前に帰ってきた兄さんは、一人の友人を伴っていました。

 

 同じ大学の小説の同人誌に挿絵を描いているのだという、保坂という眼鏡をかけた背の高い医学生でした。

その人は、私の顔を見るとポカンと口を開けて、じーっと見つめたまま、目を逸らそうとしないのです。

 

「な、何ですか、失礼ですわ」

思わず叫んでいました。恥ずかしさで顔が赤くなりました。

 

「もうしわけありません、寛治くんとあまりにも似ていたので。本当に双子なんですね」

 

「そんなに双子が珍しいですか」

今度は怒りで顔が赤くなりました。

 

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