恐怖狩人 ~クトゥルフ神話ガチ勢が恐怖小説を書いてみた~ 作:セラニアン
『The Extra Case of Charles Dexter Ward』
序章Ⅰ
獣の本質たる塩を抽出し、これを保存する場合、才知ある者であれば、その神殿内に善良夫ノアの方舟を置き、好むがまま、死灰より元の形を復元することが可能である。同様に魔導に長けた賢人ならば、人間の本質たる塩と遺骸よりもたらされし死灰を用い、死者の生前の姿を、俗世で行われる降霊術などに頼ることなく、呼び出すことが可能である。
――『イスラムの
~ 序章Ⅰ ~
緋瑞織斗(ひみずおりと)にとって、悪夢とは純然たる過去の呼び名だった。
悪夢はいつも、自宅の廊下から始まる。足下に沈殿する闇。混濁した意識。火葬場の煙突から出たような紫煙と臭気が、大気と思考を同時に犯している。吐き気がする。
こみ上げる酸味を押さえつけ、織斗は歩を進める。頭痛が酷い。頭をハンマーで思い切り殴られたような、鈍い鈍痛。その影響か、視界が歪む。空間そのものが捻れ、無限に引き延ばされてゆくように。
(いや、違う……これは俺の願望だ……)
空間の歪みは、織斗自身の防衛本能がみせた幻覚だった。廊下をこれ以上進みたくないという、脆弱な願望。
しかしこの悪夢は、純然たる過去にすぎない。変えることの出来ない、過ぎ去った現実。
まもなく廊下が終わる。織斗の自宅は古い洋館だ。とはいえ、所詮はただの一軒家にすぎない。廊下など、実質五メートルもない。
左に曲がり、階段を登る。ギシリ、ギシリ。音を立てるな、と理性が懇願する。しかし疲労した身体は、理性の懇願を一蹴した。手すりを強引に手繰りながら、一歩一歩、上へと登ってゆく。吐き気が強くなる。
(絞首台に登る気分だな……)
今の織斗ならば、地獄が上にあると言われても納得しただろう。天国と地獄は、実は上下あべこべなのだ、と。そう言う意味では、絞首台とは言い得て妙だと、織斗は思った。囚人は地獄に向かって階段を上り、首に縄を掛けられる。そして足下の扉が開き、天国へと落とされる。死という救いがある天国へと。
しかし階段を上った織斗に待っていたのは、救いとはかけ離れたものだった。
両親の寝室から漏れる、青白い明かり。なぜか織斗には、その明かりが真っ赤に染まっているように見えた。強烈な頭痛と吐き気。本能の叫び。止めろ、そのドアを開けるな!
しかし、過去は変えられない。
きしみを上げ、ドアが開かれる。横隔膜が痙攣する。織斗の口から、しゃっくりのような音が漏れた。
(父さん……母さん……)
果たしてそこにあったのは、二つの肉塊だった。
肉塊には目があり、鼻があった。見慣れた顔があり、かつて自分を抱きしめたであろう腕がある。
しかしそれは、やはり肉塊だった。
重なり合うように倒れた織斗の両親は、血溜まりに浸かっていた。真っ赤に染まった頭部は、激しく陥没している。何度も殴打されたのだろう。母親に至っては、耳の穴から白いゲル状のものが流れている。断末魔の表情は、見るに堪えない。共に目を見開き、大きく舌をつきだしている。まるで矢印のようだ。二人の舌は、そろって同じ方向を指し示している。
(
両親からのメッセージなのか。それとも兄としての直感なのか。恐怖に打ち震えながらも、織斗は即座に身を翻した。両親の寝室の隣。妹である緋瑞(ひみず)柚姫(ゆずき)の部屋が、そこにある。
(早く早く早く早く……!)
闇にせかされるように、織斗は廊下を駆ける。早くしなければという強迫観念と、どうせ間に合わないという諦念が、思考の中でせめぎ合う。もちろん正しいのは後者だ。
妹の部屋のドアは、開けっ放しになっていた。またしても、部屋から漏れる明かりは血色に見えた。
部屋をのぞき込む。絶望が、織斗の心を満たした。
(柚姫……)
妹は、生きていた。だが、それだけだ。
小柄な少女は、ベッドの上で横たわっていた。一糸まとわぬ姿で。白磁のような素肌を、おびただしい血が濡らしている。目は虚ろ。少女の下腹部には、あきらかな暴行の跡があった。少女の身に何があったのか、もはや想像するまでもない。
(あ、あ、あ、あ……)
織斗は全身を掻きむしった。妹の瞳は空虚で、もはやなにも映してはいない。濁ったガラス玉。顔は白痴の笑みに彩られ、歪んだ唇は壊れたレコードのように同じフレーズを繰り返している。お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん……。
「――――っ!」
織斗の口から漏れる、声なき慟哭。思考の一部が、冷静につぶやく。落ち着け。これは悪夢だ。夢に過ぎない、と。
しかし、織斗の心を満たす恐怖と絶望は、疑いようもない本物だった。
(なんで……柚姫がこんな……!)
心が現実を拒絶しようとする。目の前の光景が信じられない。汚らわしい欲望にさらされた最愛の妹。部屋の隅では、濃密な人影が蠢いている。
――人影?
織斗の背筋を、言いようのない悪寒が這いずり回った。ようやく織斗は気付いた。部屋の隅、窓から入る仄暗い明かりに照らされた、人影。まるで凝り固まった汚泥のようだ。だらりと垂れ下がった右手には、血濡れのハンマーが握られている。
(お前が、父さんと母さんを殺したのか……)
織斗は決して、聖人君子ではない。両親を殺し、妹を犯したであろう相手を目の当たりにして、復讐の念を抱くのは当然だ。しかしこの時、織斗の心を支配していたのは、激情ではなく恐怖だった。怖い。濃密な闇、怪異とも呼べる人型に対する、得体の知れない恐怖。身体が勝手に、後ずさりを始める。
(せめて、顔だけでも! 犯人の姿だけでも!)
夢の中の自分に向かって、織斗は叫ぶ。犯人の姿を見ろ、と。しかしいくら織斗が目をこらそうと、汚濁のような人影は、いつまでも人影のままだった。原因は分からない。ただ、どれだけ思い出そうとしても、ハンマーを握った血濡れの人影の正体は謎だった。
(くそっ……くそぉ……!)
そうこうしている間に、悪夢はクライマックスを迎える。
後ずさる織斗に向かって、人影は一歩近づいた。吐き気と頭痛が、絶え間なく襲い来る。ひたり、ひたり。一歩ずつ近づいてくる汚濁の影。右手に握ったハンマーを、高々と振り上げる。まさしく、死神の鎌のように。
そして次の瞬間―――
…………―――
「おにい……ちゃん……」
「っ!」
文字通り、織斗は跳ね起きた。呼吸が荒い。横隔膜と心臓が、同じ早さで拍子を奏でている。冷や汗によって、パジャマ代わりのトレーナーはビショビショになっていた。
「また……」呼吸を整えながら、「この夢なのか……」
大きく息を吐く。その時、織斗は目の前に人影が佇んでいることに気付いた。
「お兄ちゃん?」
「っ! ……あぁ、柚姫か……」
止まりそうになった心臓を、織斗はむりやり再起動させた。
そこに佇んでいたのは、小柄な少女だった。肩口で切りそろえた黒髪。同じ色の瞳。華奢な身体をYシャツに包み、慎ましげな胸の前で、愛用の枕を抱きしめている。幼さの残る顔には、不安の色が色濃く出ている。よく見れば、その肩は小さく震えていた。
「まだ、一人は無理か?」
「……」
こくん、と頷く。
「そうか……少し、待っててくれ……」
汗に濡れたトレーナーを脱ぐ。ぐっしょりと汗を吸い取ったソレを見て、少女は不安げにつぶやいた。
「だいじょうぶ……?」
「ああ」そこで言葉を切ると、「……いや、違うな。大丈夫じゃない。俺は、夜が怖い」
「おにい、ちゃん……」
少女は織斗に近寄ると、枕をおろした。恥じらいもなく、汗に濡れた織斗の胸板に抱きつく。
「……柚姫も、怖い。でもお兄ちゃんがいれば……ちょっとだけ頑張れる」
「そうか……心配させて、すまん」
「……いい」
胸板に、キュッと抱きつく。織斗は躊躇いがちに、少女の背中に手を回した。Yシャツ越しに感じられる鼓動。ぬくもり。柔らかな少女を抱きしめているということに、劣情を感じない訳ではない。しかしそれを上回る安堵感が、織斗の心を静めていた。
「おにいちゃん……」少女は上目遣いで、「今日は、このままで寝てもいい……?」
「……ああ」
「……ありがとう」
少女の顔から、わずかだが不安の色が消える。
少女の肩が震えているのを感じ、織斗は布団をたぐり寄せた。少女を胸に乗せたまま横になり、その上から布団を被る。寒さに耐えるためには、身を寄せ合うしかない。
「柚姫……」
いったいこの小さな身体に、どれほどの悲しみを背負っているのか。それを思い、織斗は鬱々とした気分になった。あの惨劇の夜以降、少女が一人で眠ったことはない。人肌を求め、織斗の元へやって来る。もちろん、織斗もそれを拒んだことはない。なによりも、少女のぬくもりに癒されているのは、織斗自身なのだ。
まもなく少女の吐息が、寝息へと変わる。閉じられた瞳から、一筋の涙がこぼれる。
少女は、うわごとのようにつぶやいた。
「おにい、ちゃん……」
「っ!」
ズキリ。鈍い鈍痛が、織斗に襲いかかった。古傷が痛む。額から左目に駆けて、ハンマーで抉った様な傷がある。左目は、未だに視力が戻っていない。かすんだままだ。一応完治したはずの傷は、しかし幻痛と共に、織斗にこう訴えていた。――復讐だ! 犯人を見つけろ! お前の両親を殺し、妹に乱暴した犯人を探しだし、八つ裂きにしろ!
「わかっ、てる……!」
痛みに耐えながら、織斗は妹の肢体を抱きしめた。肉付きの薄い、しかし少女特有の柔らかな感触。少しでも力を入れたら、壊れてしまいそうだ。それ故に、織斗は絶対に許せなかった。こんなか弱い少女を、最愛を注いできた妹、柚姫を汚した犯人を。
「いったい……お前は……お前は……」
少女の甘い香りに誘われるように、睡魔が襲ってくる。おそらく眠りに堕ちれば、またあの悪夢が待っている。廊下から始まり、汚物のような人影で終わる、最低の悪夢が。
額の傷をなで、織斗は霞んだ左目を手の平で覆った。
幻痛は訴える。思い出せ。お前は見ているはずだ。犯人の姿を。思い出せ、織斗。思い出せ――
「お前は、誰なんだ……?」