恐怖狩人 ~クトゥルフ神話ガチ勢が恐怖小説を書いてみた~   作:セラニアン

11 / 17
第2章 彼方より此方より ~What those eyes reflect~

 

 

 

     Ⅰ

 

 

 

 

 見た目に反して、緋瑞織斗がもっとも得意とするのは頭脳労働――それもパソコンやインターネットを駆使した情報収集だった。その情報収集能力は、その筋のプロと張り合っても遜色がない。

 

 鞠亜に見放された後、どうにか見つけた自動車修理工場に車をレッカーしてもらった織斗は、すぐさま適当なファミリーレストランに飛び込んだ。こっそりと電源を確保すると、ノートパソコンを起動。インターネットにアクセスする。織斗のパソコンは情報収集に特化しており、違法なハッキングツールまでインストールしてあった。

 

 夕食時にしては妙にすいているレストラン内。織斗はひたすら情報収集を続ける。ちなみに織斗の膝の上では、白猫が堂々と丸くなっていた。口の周りについたデミグラスソースを舐めながら、時折片目を開けては織斗を見上げている。

 

「よくそのような不可思議なカラクリが使えるものじゃのう」

 

 誰にも聞こえないような小声で白猫がつぶやく。

 

「時代は変わったものじゃ。お主の父など、情報収集のために新聞社や図書館をはしごしたものじゃったが」

「ま、現代っ子だからな」織斗はディスプレイから目を離さず、「それに父さんは機械音痴だったから」

「わらわも得意ではないのう」

「そのへんは適材適所だな」

 

 織斗はそこでディスプレイから目を離し、白猫を見下ろした。

 

「だいたいまとまったけど、イースも見るか?」

「むろんじゃ」

 

 白猫はのそりと起きあがると、織斗の膝の上で立ち上がった。テーブルの端に前足をのせ、ディスプレイをのぞき込む。

 

「どうやら事件の発端は六年前みたいだな」織斗はいくつかの新聞記事を見せながら、「当時、県立稲峰高校の三年生だった神木真璃亞って子が失踪している。どういう状況だったかはわからないけれど、同級生と一緒にいる時に、右目を失明したらしい。虐められていたっていう証言もあるみたいだ」

「ふむ、このあたりは雑誌に載っていた情報と一致するようじゃな」

「ただ、続きがあるんだ」

 

 織斗は別のページを開く。

 

「神木真璃亞って子だけど、失踪の直前に傷害事件を起こしているんだ」

「傷害事件じゃと?」

「親戚の女の子の右目にボールペンを突き刺した、ってことらしい」

「ほう……」

 

 白猫の目がスッと細くなる。

 

「なかなかに剛毅じゃのう。精神を病んだか、恐怖に飲まれたか」

「普通じゃないっていうのは間違いない。ちなみに被害者の女の子っていうのが……」

「先ほどの小娘じゃな?」

「ああ。瀬阿鞠亜。当時十二歳。現在は十八歳、稲峰高校三年」

 

 ディスプレイにデジカメで隠し撮りした瀬阿鞠亜の写真が出る。写真の横には詳細なプロフィールと共に、いくつかの数値データが添付されてあった。

 

 それぞれ電磁波測定値、放射能指数、キルリアン反応値と記されている。

 

「ERM、ラジオサーベイ、キルリアンの数値はノーマル」と織斗。「まあ、キルリアンは陽性の手前ギリギリだけど」

「科学的手法という奴はわらわにはよくわからぬが……」

 

 白猫はうにゃうにゃと呻りながら、

 

「とりあえずあの小娘が灰色であるという部分には同意じゃ。もっとも、これを見る限り事件の直接的な関係者ではないようじゃがな。むしろ被害者といったところかのう」

「どう考えても怪しいのはこっちの神木真璃亞だ」

 

 織斗はパソコンを操作し、神木真璃亞についてまとめた資料を出した。半分以上が違法アクセスで調べたものだ。

 

「傷害事件を起こした直後に、神木真璃亞は病院から失踪したってことらしい。ここの警察署のサーバーをのぞいたら、傷害事件の犯人として顔写真つきで手配されてた。未成年ってことで非公開手配になってるけど」

「ぬるいの。十八歳ならば十分に大人じゃろうに。そもそも男は精がはき出せるようになれば、女は子供さえ孕められるようになれば成人じゃ」

「……いやまあ、否定はしないけど」

 

 織斗は何ともいえぬ表情を浮かべる。咳払いを一つ。

 

「まあ、とにかくだ」手配写真に映る少女を見つめ、「今回の怪現象の原因は、この子で間違いないと思う」

 

 失踪直前の凶行から察するに、事件の原因は神木真璃亞の復讐心だろうと織斗は思った。

 

 おそらく彼女は周囲の人間に自分と同じ苦しみを与えようとしているのだろう。虐めた同級生だけでなく無差別にというのがやや腑に落ちないが、一応、説明できないこともない。

 

「おそらくじゃが……」

 

 イースは前足でモニタ内の少女を指し示しながら、

 

「この娘の残留思念が、この町にわだかまる陰気によって増幅され、町の人間を汚染したのじゃな」

「常日頃からこんな『澱み』で生活していれば、精神が病みやすくなるのも当然か」

「じゃな。それにこの神木真璃亞という小娘は、ある種の能力者かもしれん。確か、瀬阿鞠亜と神木真璃亞の間には血縁があるのじゃろう?」

「親戚みたいだ」

「瀬阿鞠亜が出来損ないとはいえ『妖精の眼』の持ち主なのじゃ。血縁のある神木真璃亞が能力者であってもおかしくはなかろう。陰気の後押しがあったとはいえ、これだけの町の住民を精神汚染することできたのじゃからな。よほど強い思念波の持ち主だったのじゃろう」

「テレパシストか」

 

 織斗は頭をかきむしりながら、

 

「確かテレパスは精神系に属する能力って話だよな?」

「ああ。アストラルサイドのスキルじゃ。肉体とは何の関係もない。故に肉体が滅びたとしても、その能力はそのまま維持されるはずじゃ。いわゆるゴーストとなった状態でものう」

 

「……なあ、イース」織斗は白猫を見下ろし、「神木真璃亞って子、生きていると思うか?」

 

「死んでおるよ。間違いなくな」

 

 イースはきっぱりと言い切った。

 

「これだけ影響力のある精神汚染じゃ。生きている者では己の肉体が一種の枷になって発信できまい。ゴーストだから出来うるシロモノじゃよ」

 

 人間の体構成物質は二種類に分けることが出来る。霊的感応質と非霊的感応質だ。前者に属するのが脳髄と神経、後者に属するのが筋肉や骨格となっている。ちなみに血液は半霊的感応質であり、状況に応じて両方の性質をおびる。

 

「まず俺たちがすべきなのは、神木真璃亞の思念体探しってことか」

 

 残留思念は何かに宿る。それを浄化するか消滅するかさえしてしまえば、この事件は無事収束するだろう。織斗はそう判断する。

 

 問題は、思念がどこに宿っているかだ。神木真璃亞は六年前から行方不明になっている。たとえ思念体が死体に宿っていたとしても、その死体を見つけだすだけでも一苦労だろう。

 

 しかも状況から考えると、思念体が肉体に残っている可能性は低い。そうなると他に考えられるのは、特定の土地か縁のある品か他人の肉体か……どれにしても一筋縄で見つかりそうもない。

 

 まったく面倒な。

 

 織斗はバリバリと頭をかきむしると、疲れた吐息を吐き出した。

 

「とにかくまずは死体探しからか……なんかあてはあるか、イース?」

「……」

「おい、どうしたんだよ、イース?」

 

「にゃ」

 

 なぜか猫の鳴き真似。織斗は眉をひそめる。

 

「なんで猫の鳴き真似なんか……」

「にゃにゃ!」

 

 珍しく焦った様子で、白猫が前足で織斗の胸元を叩いた。次いで背後を指し示す。

 

「うしろ?」

 

 織斗はいぶかしげに振り返る。

 

 まず目に入ったのは、思った以上に豊かなバスト。そのまま上に視線をずらすと、ピコピコと揺れる禁煙用パイプと大きな黒縁眼鏡が目に飛び込んでくる。ちなみに眼鏡の奥の瞳は、どうしようもないほどの好奇心によってキラキラと輝いていた。

 

「やあやあ、青年。なかなか面白いこと調べてるじゃないか。ちょーとお姉さんも混ぜてくれないかい?」

「…………」

 

 

 結果だけ言う。逃げ切れなかった。

 

 

 

 

 

  Ⅱ

 

 

 

 

 

 

 瀬阿鞠亜は必死に走っていた。頭上はすでに深い紫色に染まり、西の空にわずかな黄昏を残すのみとなっている。目に映る町並みは黒と灰色のコントラストと化し、まるで出来の悪いクレイアートのようだ。いまにもグニャリと潰れ、混沌の塊に戻りそうだった。

 

 そんな中、鞠亜は走る。

 

 鞠亜が受けた電話の相手は、いつもお世話になっている人物だった。その人物曰く、緊急事態が起ったのですぐに来て欲しい、とのこと。やけにせっぱ詰まった声が、その人の焦りを如実に示していた。

 

 くすんだ町並みを駆け抜け、商店街にたどり着く。事件の影響か、出歩く人はほとんどいない。いたとしても会社帰りのサラリーマンくらいで、その人たちも鬱々とした表情で家路を急いでいる。

 

 自動車修理工場の前を通り過ぎ、商店街の一番端までやってくる。そこにあったのは年期の入った木造の一軒家だった。くすんだ看板。『八城診療院』と書かれている。

 

 

「ももこ先生!」

 

 

 チャイムもそこそこに鞠亜は診療所内に飛び込んだ。耳を澄ますと、待合室からドタドタという物音が聞こえてくる。まるで誰かが争っているかのようだ。

 

 廊下を曲がり、待合室へ。

 

 そこで鞠亜が目にしたのは、とうてい信じられぬものだった。

 

 

「ももこ……先生……?」

 

 

 唖然とする。果たしてそこにいたのは、横たわった青年の腹部にまたがり、服を乱れさせた八城ももこ女医だった。

 

「……先生、なにをしてるんですか?」

「あ、鞠亜!」ももこは満面の笑みで、「いやあ、聞いてくれないかい! ついに本物のゴーストバスターを捕まえてさあ!」

「……はあ?」

 

 鞠亜が素っ頓狂な声をあげるのと、側にいた白猫が呆れたように「うにゃあ」と鳴いたのはほとんど同時だった。

 

 

 

 

「いやいや、すまないねえ。つい興奮しちゃって。だってゴーストバスターと言えば、ツチノコ並に珍しいもんだからさ」

「……俺は珍獣か」

 

 あっはっは、と笑う八城ももこ女医を前に、織斗はげんなりした様子で言った。なんせファミレスから強引にこの診療所まで連れてこられたかと思ったら、マシンガンのように質問を浴びせられたのだ。しかもこっそり逃げだそうとすれば、さっきのように力ずくで止められる始末。どうしろというのだ。

 

(やっかいな事になったな……)

 

 場所を待合室から居間――畳敷きの渋い居間だった――に移した織斗は、ちゃぶ台を挟んでももこと鞠亜に相対していた。目の前には鞠亜が用意した冷たい麦茶が置かれている。わずかに零れた跡があるのは、鞠亜が手荒に置いた為だ。ちなみに白猫はというと、深皿に注がれたミルクを前に、何ともいえない表情を浮かべていた。

 

「いやいや、それにしても興味深いねえ」

 

 ももこは禁煙用のパイプを織斗に突きつけながら、

 

「やっぱりあれかい? この町に来たのは、怪事件を解決するためなんだろう、ゴーストバスター君?」

「……誰がゴーストバスターだ、誰が」

「君に決まってるじゃないか、青年」

 

 ももこはにんまりと笑みを浮かべる。

 

「実はさっき、ちょっとだけ君の荷物を覗かせて貰ったんだけどねえ」

 

 織斗の脇に置かれた大きなボストンバックを指さす。

 織斗は半眼でももこを睨むと、

 

「……ちょっとマナー違反じゃないですか?」

「それを言ったら君もじゃないかい?」ももこはチラリと鞠亜を一瞥し、「さっきパソコンに映ってたの、隠し撮りの写真じゃないのかい?」

「ぐ……そ、それは……」

 

 痛いところをつかれた、と織斗は思った。織斗のパソコンにあるデータは、半分くらいが違法に集めたものだった。瀬阿鞠亜のプロフィールにしても、稲峰高校に不正アクセスして調べたものだった。

 

「公にされるとまずいんじゃないのかい?」

「あの、ももこ先生?」鞠亜はいぶかしげな表情で、「いったい何の話をしているんですか?」

「彼が本物のゴーストバスター君って事だよ」

「ゴーストバスターってそんな……」

 

 鞠亜は心底うろん気な視線を織斗に向けた。極寒の視線がその心境を物語っている。

 

 うさんくさい。

 

「彼はただのオカルトマニア。死んだ人のことを引っかき回すだけの最低な人です」

「いやいや、彼は本物だよ。その証拠ってわけじゃないけど、彼の鞄の中にERMが入っていてさ」

「ERM?」

 

 鞠亜は首をかしげる。

 

「ゴーストバスター君、ちょっと実物見せてくれないかい?」

「……」

 

 織斗はあきらめた様子で鞄を開けると、中からトランシーバーのような機械を取り出した。正面に小さな液晶モニタが付いており、さらに本体脇には赤いダイオードが無数に並んでいる。

 

「エレクトロマグネッティク=ウェーブ・リーディング・メージャー」とももこ。「略してERM。電磁波測定器ってやつさ」

「なにに使うものなんですか?」

「幽霊を検出するのさ」

 

 ももこが嬉々として話し始める。

 

「鞠亜、キミは幽霊が特徴的な電磁波を発生させているっていう説を知ってるかい?」

 

 鞠亜は首を横に振る。ももこは、じゃあ説明しよう、と前置きすると、

 

「いいかい? まず幽霊が存在すると仮定するよ。一般的に霊能力者っていう人は、幽霊が見えるって言うだろ? もしそれが幻覚でないとしたら、霊能力者の人は何を感じ取っているんだろうか?」

「それが電磁波、ってことですか?」

「そうそう。幽霊を構成する何かっていうのは、電気的エネルギーを帯びてるって言われてるんだ。荷電イオンが幽霊の構成物って説もあるしねえ。ま、つまり目に見えない幽霊も、このERMを使えば観測できるってわけ。他にも放射能エネルギーを調べたり、温度変化を観測して幽霊を見付けるっていう手法もあるみたいだねえ。――だろう、ゴーストバスター君?」

 

「……えらく詳しいな、おい」

 

 織斗は思わず唖然とした。ある意味専門家である織斗からしても、ももこの話した内容は非常にマニアックなものだったからだ。いくつかつっこみどころはあるものの、まるでオカルト研究者の講義を聞いている気分になった。

 

「何者ですか?」

「八城ももこ。オカルトと禁煙用パイプが好きな二八歳独身の女医さ。ちなみにパイプ咥てるけど、べつに禁煙してるわけでも喫煙者でもないから」

「……じゃあなんで咥えてるんですか?」

「もちろん好きだからさ。匂いと味が」

 

 ももこはにんまりと笑う。

 

「それで、キミは?」

「……緋瑞織斗です」不機嫌そうに、「言っておきますが、ゴーストバスターじゃないですから」

「でも事件のことを調べに来たのは事実じゃないのかい? それも好奇心だけで来たってわけなじゃいだろ?」

 

「……そうなの?」

 

 ももこの好奇心に満ちた瞳と、鞠亜の複雑そうな瞳が織斗を射抜く。

 

 一分か、五分か。

 

 居心地の悪い沈黙を破ったのは、三人以外の声だった。

 

 

 

「話してやるがよい、織斗」

 

 

 突然の声に、鞠亜とももこは目を見開いた。

 ちゃぶ台の上に飛び乗った白猫が、愉快気に顔をゆがませていた。

 

 

「うそ……」

「猫が……しゃべった……のかい……?」

 

 驚きに声を失う二人。

 織斗は慌てて、

 

「お、おい! イース!」

「騒々しい声を出すでない、たわけ者」白猫は呆れたように、「元はといえば、お主の注意力が足らぬせいでこうなったのじゃぞ。それに現地協力者はいくらいても困ることはなかろう。そこの女の知識もそこそこのようじゃしな」

「……わかったよ」

 

 織斗はバリバリと髪をかきむしると、未だ呆然とする二人に向かって、真剣な声で説明を始めた。

 

 

「信じるか信じないかは勝手に判断してください」

 

 

 

 

 

  Ⅲ

 

 

 

 

 

 

 織斗の語った内容は、鞠亜にとってとうてい信じることのできないものだった。

 

(真璃亞姉さんの怨念が、本当にこの怪事件を起こしてるだなんて……)

 

 信じられない、と鞠亜は内心で叫ぶ。

 

 思い出の中の従姉は、常に優しげで儚げな笑みを浮かべている少女だった。誰かと一緒にいてもどこか居心地が悪そうで、まるでこの世に自分の居場所なんてないといった様子だったのを良く覚えている。だからといって捻くれているというわけではなく、むしろ誰よりも優しく、そして誰よりも慈愛を持った少女だった。

 

 そんな姉さんが復讐しようとしているだなんて……。

 

 否定したい。デタラメなど言うなとこの青年を罵倒し、従姉の名誉を守りたい。

 

 しかしそれは出来なかった。しゃべる猫という本物の超常現象を突きつけられたということもあるが、何より真剣な織斗の目が、これが真実であることを物語っていたからだ。

 

「俺たちの目的は、神木真璃亞の残留思念体が宿っている『何か』を見つけ出し、浄化することなんだ」

 

「その残留思念体ってのはなんなんだい?」

 

 いち早くショックから立ち直ったももこが問う。ちなみによく見ると、ももこの手にはいつの間にかメスが握られていた。しゃべる白猫を前に鼻息を荒くしている。

 

「いわゆるゴーストの事じゃ」

 

 イースは今にも解剖してきそうなももこからそそくさと離れると、そのまま織斗の肩に飛び乗った。

 

「厳密に言うならば、肉体を離れた幽霊のことじゃな」

「肉体を離れた?」ももこは首をかしげる。「幽霊っていうのは、そもそも肉体を持たないもんじゃないのかい?」

「俺たちはそう言う区別はしていないんです」

「ももこと言ったか?」

 

 イースは試すような口調で、

 

「お主は意識や思考といったものの本質はなんじゃと思う?」

「そりゃあ、脳髄を媒介した情報の流れじゃないのかい?」

 

「電気信号ということですか?」と鞠亜。

 

「いや、それはちがうね」

 

 ももこは禁煙用パイプをチッ、チッ、と振る。

 

「よくマンガなんかで意識は電気信号の集合体とか言うけどさ、それは大きな間違い。確かに脳神経の中における情報伝達は電気信号だけど、神経をつないでいるシナプス部分の情報伝達は化学物質で行われているのさ。考えるって行為で重要なのは神経同士のつながりだから、むしろ意識は化学物質の集合体っていうほうが適切だね」

「俺たちはその情報の流れのことを『思念』って呼んでいます。精神ともいえます。そして、その思念が集合して一定の独立性を持ったものが『思念体』です。ここで重要なのは、独立した意識を持っているものはすべて思念体になるってことです。人間だって思念体ってことになる。脳みそを回路としているね」

「逆にいうならば、ゴーストとは脳髄を回路としない思念体のことじゃ」

 

 イースが説明を引き継ぐ。

 

「本来ならば思念体は脳髄に宿っておるものじゃ。それが何らかの作用によって脳髄から別の『ナニカ』へ移行、もしくは転移したものがゴーストや幽霊、死霊と呼ばれるものになる。東洋の民にとっては、『取り憑く、憑依する』といったほうがわかりやすいかもしれんな」

「それはまあ、理解できるんだけどさあ」

 

 ももこは首をひねる。

 

「なんじゃ、察しがわるいのう」白猫はクツクツと笑いながら、「思念体は脳髄回路に宿ってこそ本来の意識を保っていられるのじゃ。そういうふうに『ヒト』は進化したのじゃからな。ではそんな思念体が、脳髄以外のものに宿ったならばどうなると思う?」

「……」

 

 ももこはわずかに黙考し、

 

「……変質するってことかい?」

「そのとおりじゃ」

 

 白猫は鷹揚に頷く。

 

「考えれば分かることじゃろう? 思念体が別の回路に移行するというのは、いわば人間の脳を虫けらに移植するようなものなのじゃ。不適合反応を起こすのは自明の理じゃな。そして不適合反応を起こした思念体は、だいたいの場合、負の方向へと変質を始める」

「俗に言う怨霊とか悪霊というのは、思念体が不適合反応を起こした結果だと解釈しています」と織斗。「おそらくは今回の事件が無差別なのもそれが原因だと」

 

 その織斗の言葉に、鞠亜ははじかれたように顔を上げた。思わず織斗に詰め寄る。

 

「じゃ、じゃあ! この怪事件は真璃亞姉さんの意志じゃないってことなのね!」

「かもしれないってだけどな。可能性は高いと思う」

「……よかった」

 

 鞠亜はほうと吐息を吐き出した。

 その様子に織斗は目を細める。

 

「よっぽどそのお姉さんのことが好きなんだな」

「……ええ」

 

 鞠亜は右目にそっと手を当てた。

 

「この目を潰されたときはものすごく恨んだけど、でもやっぱり真璃亞姉さんは私にとって姉さんだったの」

「……わかるよ、その気持ちは、すごく」

 

 織斗はわずかに目を伏せる。その顔を彩るのは、悔恨と哀愁と情愛が入り交じった複雑な表情だった。

 

「恨みたくても恨めない……そういう気持ちが……」

「織斗さん……」

 

 思いの他するりと青年の名を呼べたことに、鞠亜は自分でも驚いていた。

 同時に当然だとも思う。

 

 緋瑞織斗と名乗った青年は、どこか自分の従姉に似ていた。

 

 

「それで織斗君たちはどうするんだい?」

 

 しんみりとした空気を振り払うようにももこが問うた。

 織斗はすぐさま顔を引き締めると、

 

「神木真璃亞の残留思念体が宿った『ナニカ』を見つけ出して、浄化する。そうしないと、この事件はいつまでたっても終わらないはずです」

 

 ちなみに浄化方法は至って簡単だ。思念体が宿ったものを供養し、その後、燃やせばいい。特に供養の方法は決まっていなく、強いて言うならばその土地に根ざした宗教を使うのがもっとも効果的だった。

 

「ふーん……」ももこはパイプを口にくわえ、「ちなみにあてはあるのかい?」

「……」

 

 織斗は目をそらす。

 

「推定じゃが、この町を中心に半径十キロ圏内じゃろうな」

 

 白猫も疲れたように吐息を漏らしながら、

 

「思念波というのは、物理的な距離によって減衰するからの。町の規模から考えても、この町のどこかにあることは間違いないじゃろう。後は地道に探すしかなかろうな」

「さしあたっては、死体探しからか」

 

 またスタンドバイミーか、と織斗はがっくりと肩を落とした。

 

「しかたあるまい。幸いにも人手は増えたのじゃ。まだマシじゃろうて」

 

 白猫は意味深な視線を鞠亜とももこに向けた。ラピスラズリのような瞳がこう物語っている。

 

 

 ここまで聞いた以上、わらわたちを手伝って貰うぞ?

 

 

「そうこなくっちゃねえ!」

 

 ももこは嬉々として立ち上がった。どうやら彼女は首を突っ込む気満々のようだ。鞠亜は鞠亜でそれなりのやる気を見せている。慕っていた姉のことなのだからそれも当然だろう。

 

「即席ゴーストバスターズ結成か……」

「頼もしい限りじゃな。のう、織斗?」

「……ほんとだよ」

 

 織斗はやれれと頭を振ると、ぬるくなった麦茶を一息に煽る。

 

 どこか不安になる味だった。

 

 

 

 

 

  Ⅳ

 

 

 

 

 

 

 いつ見ても彼女は美しい。

 

 

 時代錯誤なランプ照明の下で、県立稲峰高校に教育実習にきている久々津真彦は薄く笑った。

 

 ゆらゆらと揺らめく炎が、古いアンティークによって彩られた洋間を照らし出す。

 

 

 洋間の中央にあるベッドの上には、一体のアンティークドールが鎮座していた。まるでこの部屋の主のようだ。青い瞳の西洋ドールだったが、緩いウェーブのかかった髪は金髪ではなく、なぜか紅茶色だった。

 

 さらりと流れる髪を、真彦はそっと撫でる。

 

「もうすぐだよ、マリア……もうすぐ君を生き返らせてあげられるからね……」

 

 恍惚とした表情。今すぐにでもその人形に抱きつきそうな様子だ。

 しかし真彦はぐっと耐える。もうすぐ六年越しの願いが成就するのだ。それまで我慢しておいた方が喜びもひとしおになるだろう。

 

 

「ほら、君が教えてくれた依り代候補の子だよ」

 

 

 真彦は一枚の写真を掲げる。

 そこに映っていたのは、右目に黒布を巻いた一人の少女だった。

 

「君の言うとおりにしよう。大丈夫、すべてはうまくいくからね」

 

 真彦は人形の髪を一房すくうと、そっと口づけした。次いで人形の傍らに積まれていた薄バラ色の便せんの一つにも口づけする。

 

「楽しみにしているんだよ、僕のマリア」

 

 一瞬、紅茶色の髪が蠢いて見えたが、それに気付いた者は誰もいなかった。

 

 

 

 

 

  Ⅴ

 

 

 

 

 

 

 翌日。

 

 診療所の待合室のソファで一夜を明かした織斗は、朝からさっそく死体探しの準備を始めていた。

 織斗と同じく診療所に泊まった鞠亜は、その様子を興味深げに見つめていた。

 

「何を準備してるの、織斗さん?」

「名刺と腕章」

 

 織斗はそれらを鞠亜に手渡した。名刺と腕章には、『霞邦(シホウ)大学環境学部研究室』と書かれていた。

 

 鞠亜は目を丸くしながら、

 

「どうするの、こんなの?」

「死体探しに使うんだ。死体を探すとなると、下手したら山の中とか他人の敷地とかに入らなきゃいけない時がある。もし誰かに見つかっても上手く言い訳できるように、あらかじめ名刺や腕章を用意してあるんだ」

「それ、大丈夫なの?」

「いちおう、霞邦大学にちゃんと籍はある。学部は全然違うけど、嘘は言ってないさ」

「でもそんな……」

 

 そこでももこが居間にやってくる。意気揚々とした口調で、

 

「やあやあ、鞠亜。とりあえず学校には病欠ってことで連絡し解いたから」

「…………おい」

「…………嘘は言ってないわ」

 

 鞠亜はこほんと咳払い。

 

「それで、今日はどうするの?」

「失踪の足取りを追ってみるしかないな」織斗は数枚の書類を掲げ、「一応、警察署のサーバーから当時の資料を出してみた。これを使って神木真璃亞の足取りを追ってみよう。といっても、病院を出た後のことはさっぱりだけど」

「でもさ」とももこ。「警察でも見付けられなかった死体を、私たちが見付けられるとは到底思えないんだけどねえ」

「死体はの」

 

 ミルクを舐めながら白猫。

 

「じゃが、もしかしたら神木真璃亞の残留思念体が宿った物品の手がかりが見つかるかもしれぬ。そちらのほうは警察の捜査も及んではおらぬじゃろうからな」

「まあ、当然だろうなあ」

 

 名刺を確認しおえた織斗は、ポーチに名刺入れと腕章をねじ込んだ。勢いよく立ち上がると、ロングTシャツの上からジャケットを羽織る。すぐさま白猫イースが織斗の身体を駆け上り、頭の上に居座った。

 

「それとだけど、調査にいく前に一つだけ言っておく」

 

 織斗の目が強い光をおびる。

 

 

「自分を強くもっていてほしい」

 

 

 一切の遊びを許さない表情で織斗は二人を睨み付ける。

 まるで冷酷な狩人のような瞳に、鞠亜とももこは思わずゴクリと喉を鳴らした。

 

「場合によっては、今から体験するのは人生観が変わってしまうような恐怖体験かもしれない。だから自分を強くもっていてほしい。でないと、この世界を犯す『本当の恐怖』に飲まれて、二度と日常に戻れなくなる」

 

 

 俺たちみたいに、ね。

 

 

 最後にそう言い含め、織斗は踵を返す。

 

 鞠亜とももこはどちらからともなく顔を見合わせると、織斗の背中を追った。

 

 

 

 

 

 

 

     Ⅵ

 

 

 

 

 

 

 稲峰市立病院に勤務して三十年になるベテラン看護師長、小林幸代(さちよ)(五十二歳)がその怪しげな一団を見付けたのは、朝の回診が終わった頃だった。

 

 まったくもって統一性のない集団だった。サマーセーターにチノパンを履いた眼鏡の女性に、黒いワンピースを着た黒髪の少女、そして暑苦しいジャケットを着て肩に白猫を乗せた青年。まったく関係性の読めない三人が、木陰で怪しげな密談をかわしている。気になるのは当然だった。

 

(なにをしているのかしら……?)

 

 幸代は怪訝そうに眉をひそめる。確かに市民病院の庭は市民の憩いの場であるが、とはいえ得体の知れない輩がたむろしていていいわけではない。最近はおかしな事件も多発しているのだ。不審者はお帰り願わねば。

 

 看護師長らしい使命感に駆られ、幸代は声をかけるべく近寄ってゆく。

 しかし実際に彼女が駆けた声は、注意ではなく親しげなものだった。

 

「あら、もしかして八城先生に……鞠亜ちゃん?」

『小林婦長!』

 

 三人のうち二人は、懐かしい人物だった。

 

 

 

 

 

「どなただ?」

 

 こちらに歩み寄ってくる壮年の女性を一瞥した織斗は、傍らにいる鞠亜に向かって小声で尋ねた。

 

「小林婦長っていって、私が入院中にお世話になった人なの。三十年近くこの市民病院で働いている看護師よ。ももこ先生も医学生時代にお世話になったことがあるらしいわ」

「なるほど、大ベテランだな」

 

 そうこうしている間に近寄ってきた小林看護師は、にこやかな笑みを浮かべながらももこに向かって会釈した。

 

「お久しぶりですわね、八城先生」

「いやいや、こちらこそ」

 

 ももこが深々と頭を下げる。どうやら傍若無人の気があるももこも、この婦長には敵わないらしい。まるで借りてきた猫のようだった。

 

「お元気そうでなにより、小林婦長」

「今は看護師長ですわ」と幸代。「それにしても本当に久しぶりですわね、八城先生。今日はどうしてここに? もしかして市民病院に戻っていただけるのかしら?」

 

 期待に目を輝かせる幸代。稲峰市民病院も医師不足に頭を悩ませているらしい。

 

「い、いや、ちょっと今日は付き添いで」

 

 そう言うと、ももこは生け贄のごとく鞠亜をズイと前に押し出した。

 鞠亜は居心地が悪そうにしながら、

 

「お、お久しぶりです、小林婦長」

「ええ、久しぶりですわね」幸代は目を細めながら、「大きくなりましたわね、鞠亜ちゃん」

「六年も経ちましたから」

「そう、もうそんなに……」

 

 幸代はわずかに目を伏せる。しかしすぐに顔を上げると、

 

「それで、今日はどうしたのかしら? もしかして木多翔子さんのお見舞い?」

「え、あ、はい、そうです」

 

 鞠亜はとっさに頷く。

 

「実は、木多先生は私の担任で」

「あら、そうなの。でも、せっかく来て貰って悪いのだけれど、今はまだ面会謝絶なの。どうもまだ錯乱しているみたいで……」

 

 そこで幸代は重たげなため息を吐いた。

 

「……いったい、この町はどうしたのかしらね。確かにもともと鬱病になる人は多かったけれど、自分で自分の目を潰すだなんていくら何でも異常すぎますわ」

 

「あの、ちょっとよろしいですか?」

 

 織斗が声を上げる。

 明らかに初対面である織斗を見て、幸代はわずかに眉をひそめた。

 

「ええと、どちら様ですか?」

「彼女の友人です」

 

 鞠亜を示しつつそう言う。嘘にためらいがなかった。

 

「いきなりで申し訳ないんですが、神木真璃亞さんのこと知っていらっしゃいますか?」

「……ええ、まあ」

 

 藪から棒な話題に、幸代はやや気分を害しながら、

 

「訳ありということで、私が担当していましたから」

「失踪した日も、ですか?」

「ええ」

 

 頷く幸代を見て、織斗の視線がスッと細くなる。

 

「失踪した日、神木真璃亞さんがどんな様子だったか覚えていらっしゃいますか?」

「どんな様子といわれても……」幸代は六年前の記憶をあさると、「少なくとも、朝の回診の時までは普通でしたわ」

「普通、か……」

 

 織斗は眉をひそめる。

 人間は視覚に大きく頼っている動物だ。たとえ片目であろうと、光を失うことは相当なストレスになるはずだ。取り乱したり錯乱したりするのが通常の行動だろう。

 

 しかし神木真璃亞は普通だったという。なにかがおかしい。

 

「入院中の神木真璃亞さんに、何かおかしなところはありませんでしたか? 様子が変だったとか、幻覚を見ていたみたいだとか、なにか独り言を言っていたとか……」

「特にはなかったですわ。あえて言うなら、一日中窓の外を眺めていたのと、髪の毛を切ってしまったくらいかしら」

 

「あ……」

 

 婦長の言葉に反応したのは鞠亜だった。

 脳裏に当時の光景が蘇る。ベッドの上に座り、窓の外を見る従姉。その紅茶色の髪が、なぜか肩口でばっさりと切られていたのを鞠亜は良く覚えていた。

 

「姉さんが、自分で髪を?」

「ええ、本人がそう言っていましたから」と幸代。「そのくらいかしら、おかしいと思ったのは」

 

「ちなみにですが、失踪した神木真璃亞さんがどこに行方をくらましたか、心当たりなんてありませんよね?」

「……あったら警察に言っていますわ」

 

 やや憮然とした声で幸代は答える。

 

 そこで病院の前庭に放送の声が響き渡る。その内容は小林看護師長宛に電話がかかっているというものだった。

 

 

「行かなくちゃ」幸代は踵を返すと、「それじゃあまた」

 

 足早に病院内に戻ってゆく。

 その後ろ姿が完全に見えなくなったところで、織斗は「髪の毛か……」とつぶやいた。

 

「怪しいといえば怪しいな……」

「その髪の毛に思念体が宿ってるってことかい?」

「……いや、やっぱ可能性は低いだろうな」

 

 もしその髪の毛が残っているとしたら有力な候補となるだろう。しかし自分で切ったのならば、切った髪は当然ゴミ箱行きになったはずだ。基本的に炎で浄化されたものに思念体は宿ることが出来ない。

 

 もっとも、誰かが捨てられた髪の毛を持ち去っていたとしたら話は別だが。

 

「それよりむしろ気になったのは窓のくだりかな」

『窓?』

 

 鞠亜とももこの声がユニゾンする。

 

「ああ、あの師長さんの話だと、神木真璃亞はずっと窓の外を見ていたって話だろ?」

「ええ、そうね」と鞠亜。「私が見た姉さんも、ずっと窓の外を見てたわ」

「どこを見てたか分かるか?」

「さすがにそこまでは……」

 

「なんなら病室まで行ってみるかい?」ももこが病院の建物を指し示す。「実際に見た方がはやいと思うけど?」

「病室がわかるんですか?」

「これでも記憶力には自信があるのさ」

 

 ももこは得意げに言った。

 

「三〇五号室。神木君が入院してたのはそこで間違いないね」

 

 

 

 

 

  Ⅶ

 

 

 

 

 

 

 こそこそと病院内に入り込んだ織斗たちは、のっぺりとした廊下を抜け、三階の角部屋までやってきた。

 

 三〇五号室。かつて神木真璃亞が入院していた病室。

 

 幸いにもネームプレートは白紙になっていた。入院患者はいないらしい。

 

 

「ここだね」

 

 閉め切られていた白い扉を、ももこが勢いよく開いた。とたんにほこりっぽい大気が廊下に吹き付けてくる。まるで長い間放置されていた開かずの部屋のようだ。わずかだが部屋の中が薄暗く見える。

 

(いいえ、違うわ……これは私自身の気分の問題よ……)

 

 鞠亜は知らず知らずのうちに右目を押さえる。

 

 この病室は、鞠亜にとっていくつかの重要な意味を持つ部屋であった。従姉が失踪直前まで生活していた部屋にして、自分が右目を失明した現場。嫌な思い出のつまった空間。

 

 鞠亜の足が棒のように強ばった。右目がうずき、鈍い痛みを発している。

 それに気付いたももこが気遣わしげな声を上げる。

 

「大丈夫かい、鞠亜?」

「……大丈夫です」

 

 どうみても大丈夫な様子ではなかった。

 

「そこで待っておれ、小娘」織斗の胸元からイースが顔を覗かせながら、「恐怖を感ずるのはよいことじゃ。恐怖とは人が生き残るために必要な本能なのじゃからな」

「顔でも洗ってきたほうがいいんじゃないかい?」

「……そうします」

 

 とぼとぼとした足取りで元来た道を戻ってゆく。

 それを見送ると、織斗たちは病室に足を踏み入れた。

 

「どうだ、イース? 部屋に違和感はあるか?」

「そうじゃな」

 

 隠れていた織斗の胸元から身を乗り出すと、イースはひくひくとヒゲをそよがせた。

 

 なんの変哲もない個人病室。大きさは八畳ほど。パイプベッドとテレビ、丸椅子が忘れ去られたように置いてあった。

 

「特に異質な気配はないようじゃな。もっとも六年も前の事じゃ。霧散した可能性もあるがの」

「仕方がないか。――それで神木真璃亞が見ていた窓は?」

「こっちのやつだね」

 

 病室に二つある窓のうち、ももこが指し示したのは南東向きの窓だった。一般的なアルミサッシの窓で、今は鍵がかけられている。

 

「さて、いったい何を見ていたのか……」

 

 織斗はすたすたと歩み寄ると、窓を大きく開けはなった。身を乗り出す。

 

 窓から見えるのは一つしかなかった。

 

 

 

「……わかりやすいのう」

「……まったくだな」

 

 窓の正面には、あるものがそびえていた。

 

 

 

 病院のトイレで顔を洗った鞠亜は、そのまま廊下で所在なげに立ちつくしていた。織斗たちに合流したいと思う反面、あの病室に近づきたくないとも思う。

 

 ふと鞠亜の脳裏に、かつて従姉に言われた言葉が蘇る。

 

 

 ――恐怖はね、よい感情なのよ。

 

 

(どうして真璃亞姉さんはそんなことを……)

 

 今思えば、あの時の従姉はおかしいの一言だった。妙に無垢で楽しそうだったからだ。

 

 鞠亜の知る神木真璃亞といえば、どこか暗さを背負った少女だった。しかしあの時の姉はというと、まるで離ればなれになっていた友達にようやく出会えたような、そんな喜びに満ちあふれていた。

 

 もっとも、その喜びもどこか異質で不気味なものだったが。

 

「戻ろう……」

 

 鞠亜は身体を預けていた廊下の壁から背を離すと、病室に戻るべく歩を進めようとした。しかし数メートルも行かないうちに再び歩みが止まる。

 

 鞠亜の視界に、思いも寄らない人物が飛び込んできた。

 

「久々津……先生……?」

「おや、瀬阿さん?」

 

 薄暗い廊下に、アルカイックな笑みがボウッと浮かび上がる。

 ぴしりとしたスーツで身を固めた久々津真彦実習生が、そこに佇んでいた。

 

「どうしたのですか、このような場所に? 今は授業中のはずですが?」

「いえ、その……」

 

 鞠亜は慌てて言い訳を探した。すぐに、先ほど小林看護師長が言った言葉を思い出す。

 

「き、木多先生のことが気になったので……」

「なるほど、瀬阿さんも僕と同じようにお見舞いに来て徒労を踏んだ口ですか」

 

 真彦はフルーツの入ったバスケットを掲げる。

 

「久々津先生もお見舞いに?」

「はい。実は木多先生とは高校の時の同級生でもありまして」

 

 もっとも彼女の方が先に教師になってしまいましたが、と真彦は苦笑混じりにぼやく。

 その笑みが仮面のようで、鞠亜は思わず半歩後ずさった。

 

「僕はこれから学校に戻りますが……」真彦の笑みが深くなる。「……よろしければ車でおくりましょうか?」

「い、いえ、大丈夫です!」

 

「……そうですか。ではまた学校で」

 

 真彦はアルカイックな笑みを浮かべたまま、その場を後にする。

 

 その姿が完全に見えなくなった瞬間、堪えていた吐息が鞠亜の口から一気に漏れだした。

 

「はぁ……」

 

 大きく息を吐き、廊下の壁に寄りかかる。右目が先ほどからズキズキと痛みを訴えていた。その痛みにのって、幻覚とも白昼夢ともつかない光景が脳裏に浮かび上がる。

 久々津真彦の背後で蠢いていた紅茶色の髪。あれはもしかしたら――

 

 

「ここにいたのかい、鞠亜!」

 

 

 鞠亜の思考を遮り、ももこが姿を現す。

 

「ももこ先生……?」

「さあ、行くよ!」鞠亜の手を引く。「早く!」

「どこに行くんですか?」

 

「八面山さ」

 

 

 数分後、病院の駐車場からミニの四駆車が走り去る。

 

 それを病院の屋上から見ていた人影があったが、鞠亜たちが気付くはずもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。