恐怖狩人 ~クトゥルフ神話ガチ勢が恐怖小説を書いてみた~   作:セラニアン

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第3章 裁きあうものども ~ Familiar’s family~

 

 

 

 

     Ⅰ

 

 

 

 

 

 稲峰市の南端、まるで町を見下ろすような形でそびえているその山を八面山といった。標高は四八〇メートルと低く、軽いハイキングにはもってこいの山だ。事実、稲峰市内の小学校では、毎年この山を遠足の目的地にしている。頂上付近には海の見える展望台と公園、さらに浄山寺というお寺があった。

 

 午前十一時三十分。頂上にある公園の駐車場に軽の四駆自動車が停車する。ももこ所有の赤いパジェロ・ミニだった。ドアが開き、数人の男女が降り立つ。

 

「ここが、神木真璃亞が病院から見てたっていう山か……」

 

車から降りた織斗は、公園とつながっている展望台まで歩いてゆくと、そこから稲峰市を一望した。

 

「景色は悪くないけど」思わず顔をしかめる。「完全に陰気が溜まってるな」

 

 展望台から望んだ町は、どこか霞んでいるように見えた。生温かく陰鬱とした空気が町の中に留まり、町全体を蝕もうとしている。食虫植物の内部をのぞき込んだらこんな感じだろうか、などと織斗は思う。

 

 展望台から離れ、一旦車へと戻る。ボンネットの上に座り込んだ白猫が、ももこに広げさせた町の地図を食い入るように眺めていた。

 

「どうだ、イース?」

「うむ、どうやらこの山は陰窟の基点になっているようじゃな」

 

 イースは前足で八面山から海岸までを一直線になぞった。その直線上に、稲峰市の中心部が存在している。

 

「この山と海との間が、もっとも深い陰窟となっておるようじゃ」そこでイースはわずかに小首をかしげ、「しかし不可思議なのは、この山自体には陰気が溜まっておらぬことじゃな」

「向こうにお寺があるからじゃないか?」

 

 織斗は公園の一角を指し示す。そこには石段があり、その向こうにこぢんまりとしたお寺があった。石段脇の石柱には『浄山寺』と名前が彫り込まれている。

 

「いや、違うな」とイース。「この感じは神殿によって浄化されたというよりも、結界のようなものではじかれたといった感じじゃ。川かなにかが自然結界となっているかとも思ったのじゃが、そういうわけでもないようじゃし……」

 

「貯水施設があるからじゃないのかい?」

 

 ももこが公園脇の建物――まるで公衆トイレのような建物だった――を指し示す。

 

「この公園の下は、実は上水道の貯水施設になっていてねえ」

 

 ももこの説明によれば、稲峰市はわずかに標高が高く、また浄水場から距離があるため、どうしても上水道の水圧が弱くなってしまうらしい。それを解消するために作られたのがここにある貯水施設で、一旦この山の貯水槽に水をため、落差を利用して流すことで十分な水圧を確保しているとのことだった。

 

「なるほど、流水か」イースは合点がいった様子で、「おそらくその水が結界となって陰気を防いでいるのじゃろうな」

「この町で唯一、清浄な場所ってことか」と織斗。「逆に言なら、この山に神木真璃亞の思念体がいるということはなさそうだな」

 

 もしこの山に神木真璃亞の死体もしくは関係物があり、そこに宿った残留思念体から思念波が出されているとしたら、まっさきに汚染されるのはこの山になるはずだ。

 

 しかし実際はそうはなってはいない。つまりこの山に神木真璃亞の幽体は存在しないということだろう。

 

「しかしそうなると、どうして神木真璃亞はこの山を見ていたんだろうな……」

 

 市民病院の窓から神木真璃亞が見ていたのは、この山で間違いないはずだった。しかし状況から察するに、この山に死体があるわけではない。

 

 いったいなぜ、神木真璃亞はこの山を見つめていたのか?

 

「そういえば……」

 

 ぽつりと鞠亜が言葉を紡ぐ。

 

「昔だけど、ここで遊んだことがあるわ」

「神木真璃亞と?」

「ええ」鞠亜はうなずく。「小さい頃のことよ。まだ姉さんが神木の小父さんたちの家に貰われてきて間もない頃、よくここで遊んだの。といっても、私が一人で遊び回っていただけで、姉さんはそれを見ているだけだったけれど」

 

「思い出の場所ってことか。それなら眺めていたのも……」

 

 

 分かる気がする。そう言おうとして、ふと織斗は押し黙った。

 

 

 脳裏で自動的に鞠亜が今言った言葉がリピートされる。その中に聞き捨てならない言葉が含まれていた。

 

 

「……ちょっと待てくれ、鞠亜」厳しい表情で、「神木真璃亞が貰われてきた? 神木真璃亞は養子なのか?」

「え、ええ。そうよ」

 

 鞠亜は突然の織斗の質問に戸惑いながら、

 

「神木の小父さんと小母さんの間には子供が出来なくて、真璃亞姉さんは十二歳の時に小父さんたちに養子として引き取られたの。それまではどこかの孤児院にいたらしいわ」

「じゃあ、神木真璃亞とお前との間に血縁はないってことか?」

「ええ。ないわ」

 

 当然でしょ、と鞠亜は首を縦に振る。

 

 織斗は思わず思考の海に身を沈めた。

 

 

(血縁がないのに、こんな狭い範囲で能力者が二人も自然発生するなんてことがあるか?)

 

 

 一般的に超能力者や異能力者と呼ばれる特殊な能力を保持した人間は、数十万人に一人現れるかどうかだった。事前に調べた稲峰市の人口は約四万人。確率的に考えれば、こんな小さな町に二人も超能力者がいるなど考えにくい。

 

 もちろん神木真璃亞が能力者ではないという可能性もあるのだが――

 

「……イース」

「それは考えにくいの」

 

 織斗の表情から言いたいことを察したのか、イースはあらかじめ釘を刺した。鞠亜に悟られぬように言葉を選びながら、

 

「昨日も言ったが、いくら陰気の後押しがあったとはいえ、非能力者では町一つを汚染するほどの思念波は出せまい。出力的に無理じゃ」

 

 そこで一旦イースは言葉を切る。口元にわずかな笑みをたたえ、

 

「じゃが、手がないわけではない。出力が足りぬのであれば、増幅してやればよいだけのことじゃからな」

「……人為的にってことか?」

「そうじゃ。何者かが呪術や魔道の類を使って神木真璃亞の思念を増幅・発信しているとすれば、ありえぬ話ではないじゃろうな」

「マジか……それが本当だとしたら……」

「単純な怨念の仕業、というわけではなくなりそうじゃな」

 

「どういうことなの?」

 

 鞠亜の問いに、織斗は内容をかみ砕いて――もっとも鞠亜の持つ目が『妖精の眼』の出来損ないだという事実はふせて――説明した。

 

「つまり……」ももこは眉をひそめながら、「この事件が、何者かによって引き起こされた人災だってことかい?」

「可能性の話だけどな」

 

 とはいいつつ、織斗には自分の推測がある程度の当を得ている自信があった。

 

 そもそも死してなお怨霊としてこの世に残るには、相当な精神的エネルギーを使用する。早い話、尋常ではない恨みや怒りがなければ不可能なのだ。強い思いがなければ思念体として死体に残ったり、別の物質に転移したりはしない。

 

 しかし鞠亜やももこの話から察するに、神木真璃亞という少女はそう言った強烈な負の感情とは無縁の性格だったらしい。もちろん鞠亜たちの話が全てだとは思わないが、それでも町全体を汚染するだけの負の思念を神木真璃亞が持っていたとは考えにくい。

 

 そう考えると、神木真璃亞の思念波を増幅した者がいるとした方が自然だった。魔道的、呪術的な手法をもってこの事件を引き起こした人間がいることになる。

 

 いや、ただの魔道や呪術の類であれば、まだマシだろう。織斗は思った。自分は知っている。ヒトの生み出した魔道や呪術とは比べ物にならない『おぞましい外法』がこの宇宙に存在することを。そして、それがもたらす圧倒的な狂気と恐怖を。

 

 

「……これは、冗談なしに一筋縄じゃ行かなくなってきたかもしれないな」

 

 

 織斗は無意識のうちにこめかみの痣をなでながら、再び考えをまとめるべく展望台の方に向かった。見るともなしに町を見下ろす。

 

 そこで織斗は、展望台に先客がいるのに気付く。白髪交じりの髪を刈り込んだ五十歳台の男性だった。黒い法衣を纏い、黄金色の袈裟をかけている。

 

(ここの住職か……?)

 

「こんにちは」

 

 織斗の視線に気付いたのか、男性が柔和な笑みと共に声をかけてきた。

 

「観光ですかな?」

「……まあ、そんなところです」

「そうですか。よろしければそこにある浄山寺もご見学下さい。本堂は新しいものですが、三重の仏舎利は江戸時代末期に作られた年代物でして、当時の建築様式をよく表したものです」

 

 そこで男性は思い出したように、

 

「ああ、ちなみに仏舎利というのは……」

「お釈迦様……ゴーダマ・シッダールダの遺骨や遺骸を納めるための塔ですね?」

 

 織斗は思い出すように、

 

「俗にいう五重塔とか三重塔の正式な名前ですね」

「これは博識ですな。あなたのおっしゃるとおり…………」

 

 そこで男性の言葉が唐突にとぎれた。その目がわずかに見開かれる。

 

 織斗の顔をしげしげと見つめた後、彼はぽつりとこうつぶやいた。

 

 

「……緋瑞教授?」

「ッ!」

 

 

 織斗の変化は劇的だった。息をのんだかと思った次の瞬間には、腰をわずかに落とし、男性を睨み付ける。

 

「……父を、知っているんですか?」

 

 緋瑞教授。それは織斗にとって特別な意味をもつ名だった。

 

 緋瑞織斗が尊敬する人物にして、数多くの『崇拝者』を葬ってきた抵抗者。あらゆる怪奇事件を解決してきた日本最高のホラーハンターにして、とある事件で命を落とした織斗の父親。

 

 そんな緋瑞教授の名を知っていると言うことは、ただ者ではないと言うことだ。場合によっては緋瑞教授を恨んでいるカルト系新興宗教の人間という可能性もある。

 

「お、お待ち下さい。私は怪しい者ではありません」

 

 男性は慌てて手を振ると、

 

「私の名は扇田要介。以前、とある事件で貴方のお父様に協力した者です」

「……は? 父さんの協力者?」

 

 数秒後、異変を察したらしき鞠亜達が駆け寄ってきた。

 

 

 

 

 

 

     Ⅱ

 

 

 

 

 

 

「改めまして。この浄山寺の住職兼、県立稲峰高校の校長職しております、扇田要介と申します」

 

 織斗たちが案内されたのは、浄山寺の本堂の中にある和室だった。わびさびのことなどよく分からない織斗だが、それでも落ち着きのある和室であることは分かる。床の間には日本刀と山水画が飾られ、部屋にさりげないアクセントを加えていた。

 

 上座に織斗を座らせた扇田和尚は、手ずから入れた煎茶を全員に振る舞った後、静かに下座に腰を下ろした。織斗から聞かされた訃報に肩を落とす。

 

「そうですか……まさか緋瑞教授がお亡くなりになっていたとは……」

「父の協力者だったそうですが」織斗は言葉を選びつつ「失礼ながら、父とはどのような関係で?」

「十二年ほど前のことです。とある離島で起きた事件に巻き込まれた折に、少しだけですが情報提供をさせていただいたのです。それ以来、お会いしたことはありませんでしたが……」

「……」

 

 そこで織斗はわずかに黙考すると、

 

「もしかして、扇田さんがこの雑誌に記事を投稿したんですか?」

 

 織斗はポーチの中から小さく折りたたんだ雑誌の切り抜きを取り出した。織斗とイースがこの町に来る切っ掛けとなった、あのオカルト雑誌の記事だ。

 

「はい、そうです」扇田和尚は頷くと、「その手の雑誌に投稿すれば、必ず緋瑞教授の目にとまると思いまして」

「ふむ、そのとおりじゃな」とイース。「先代は常日頃からこういった雑誌の記事から怪奇事件の兆候を探っておったからの」

「失礼ですが貴方は?」

 

 扇田和尚はしゃべる白猫をまじまじと見つめながら、

 

「緋瑞教授の式神か何かですかな?」

「まあ、そのようなものじゃよ。今は二代目であるこやつの面倒を見ておる」

「……だれが面倒見ているって?」

「まだまだ半人前での」

 

 織斗のぼやきをイースはスルー。

 

「なるほど、以前はお見かけしませんでしたので」

 

 要介は合点がいったとばかりに頷くと、次いで織斗に向き直った。

 

「しかし織斗君と言いましたか? その若さで緋瑞教授の跡を継がれるとは、お父上もさぞや草葉の陰から喜ばれていることでしょうな」

「……だといいのですが」

 

 織斗は居心地が悪そうに身体を揺する。

 

「それで、扇田さん。あのような記事を投稿されたということは、この町で起こっている事件が、超常現象に属する怪奇事件だと知っているお言うことですよね?」

「それは……」

 

 要介はちらりと横に視線を向けた。校長の前という事もあってか、瀬阿鞠亜と八城ももこは座布団の上で静かに正座している。

 

「話してもかまわぬよ」

 

 要介の視線の意味を察し、イースは言った。

 

「一応、今回の事件の協力者じゃからのう」

 

「なるほど……」要介は鞠亜たちの方に顔を向けると、「瀬阿さん、八城先生、あなた達がどういう経緯で織斗君に協力するようになったのか、私は聞きません。ですが今から聞くことは、絶対に他言しないように願います。良いですね?」

 

 ももこと鞠亜は頷いた。

 

「よろしいでしょう」要介は再び織斗に視線を戻すと、「これは、私が独自に調べたことなのですが……」

 

 扇田和尚が語ったのは、さらに事件の混迷度を深くするものだった。

 

 

 

 

 

 

     Ⅲ

 

 

 

 

 

 

「神木真璃亞は失踪したのではなく誘拐された、ですか?」

「可能性がある、というだけですが」

 

 扇田和尚によれば、神木真璃亞が失踪する前後、病院の周囲で不審な人物か目撃されていたらしい。

 

「厳密に言うならば、失踪の手助けをした者がいるようなのです。不審者が目撃されたのは病院の外です。病院の中では不審な人物は目撃されていません。お見舞いに来た人物を除けば、ですが」

「確かに、特におかしなところはなかったって、病院の婦長が言ってたな」

 

 織斗は記憶を紐解きながら、

 

「すくなくとも病院を抜け出したのは、神木真璃亞自身の意志によるものってことか」

「問題は病院から出た後ですな」と要介。「神木さんの失踪について、織斗君はどこか不審なものを感じはしませんでしたか?」

「突然隻眼になった人が、いきなり一人で遠出が出来るか、ということですね?」

 

 人間は二つの目を使って対象との距離を測っている。これが一つに減れば、当然距離感がつかめなくなる。慣れるまでは相応の時間と訓練が必要になるはずだ。

 

 しかし神木真璃亞は、右目を失明した直後に失踪している。片目の視力を失った者が、以前のように動けるようになるまで、ある程度の時間が必要になることを、織斗は身をもって知っていた。

 

「やってやれない事はないでしょうが、普通だったら相当難しいはずです。それに隻眼ということは、見た目的にも相当目立つはずです。なのに、警察の資料によれば、病院から居なくなった後の足取りが全然つかめていません。昼間なのに、目撃者がゼロというのが、まず怪しいです。誰かが車に乗せたと考えた方がまだ矛盾がないです」

「私もそう思いまして調べたのです。そうしたら……」

「不審者がいたと?」

「はい。残念ながら六年も前の事なので顔や容姿までは分かりませんでしたが、どうも若い男だったらしいですな」

「若い男の不審者か……」

 

 織斗は手帳を取り出すと、そこに要介が言った内容をメモする。

 

「他になにかありますか?」

「あとは神木さん自身のことなのですが、彼女はずいぶん前から何かにおびえていたようでした」

「怯えていた?」

「はい。実はその事で彼女から相談を受けたことがあるのです」

 

 扇田和尚によれば、彼は当時、稲峰高校で副校長をしており、寺の住職と言うことと相まって生徒達のカウンセリングのようなことをしていたらしい。その時に、神木真璃亞から相談を受けたという。

 

「どうやらストーカーか何かだったようですが……」

「ストーカーか……」

 

 織斗はそのことも手帳に書き加えると、手帳の紙面をじっと見つめた。様々な情報が好き勝手に踊っている。

 

(ダメだ……全然つながらない……)

 

 少なくとも事の発端が六年前にあることは間違いない。神木真璃亞の周囲に鍵があることも間違いなかろう。

 

 しかし逆に言えば、分かっているのはそれだけだった。

 

「これは、思念体探しよりも六年前のことを調べるほうが先みたいだな……」

 

 どちらにせよ、この八面山に思念体がないと分かった以上、すべては振り出しに戻ってしまったのだ。ならばどこに宿っているか分からない残留思念体を探すよりも、事件の発端を探った方がよほど有益だろう。もしかしたら思念体の場所に関する手がかりが見つかる可能性もある。

 

「私が調べたのはこの程度ですな。たいした事は得られず申し訳ありません」

「いえ、十分です」

 

 織斗は首を横に振る。

 

「後はこちらで調査を続けます」

 

 勢いよく立ち上がる。調べなければいけないことが増えた以上、一分たりとも時間は無駄に出来ない。その場を後にしようとする。

 そこでふと扇田和尚が声をかけた。相手は織斗ではなく鞠亜だった。

 

「そうだ、瀬阿さん」教育者の顔で告げる。「今日は大目に見ますが、明日からはちゃんと学校に来るように」

「校長先生……」

 

 出先を挫かれる形となり、鞠亜はわずかに顔を曇らせる。

しかし要介は淡々と、

 

「本音を言えば、貴方にはこの件に関わって欲しくはありませんな。八城先生はともかく、瀬阿さんはまだ学生で子供です。恐怖と陰気に満ちた世界など知らないほうが良いのです」

 

「……それに関しては、俺も同意見だ」

 

 織斗は改めて今の状況が異常であると感じていた。

 

 基本的に織斗は、情報提供者は作っても協力者は作らない。他者に協力は求めず、ほとんど自分とイースだけで事を行う。

 

 なのに、今回は鞠亜達がいる。

 

 そのことが織斗には妙に居心地が悪く、そして辛かった。

 

 

「あとは、俺とイースだけで十分だ。いままで助かったよ。もうこれ以上は関わらないほうがいい」

「ちょ、ちょっと待って!」

 

 突然の織斗の言葉に、鞠亜は思わず声を荒げた。

 

「ど、どうしていきなりそんなことを言うの?」

「いきなりというわけじゃないんだ」織斗はわざときつい口調で、「そもそも、こんな超常現象になんて、一生関わらないほうがいいんだ」

「わ、私はただ……真璃亞姉さんことが気になったから……」

「死んだ人間のことは、早く忘れたほうがいい」

 

 織斗は固い声で言った。

 

「いつまでも死んだ人間のことを覚えていても仕方がないんだ。生者は生者、死者は死者。それぞれの世界がある。こんなことは辞めて、早く忘れたほうがいい」

「…………」

 

 少女の肩が震える。残された左目には涙が浮かんでいた。

 

「……それでも私は、姉さんのことを忘れたくない」

 

 鞠亜はサッと踵を返すと、逃げるように走り去った。

 

「ちょ、鞠亜!」

 

 慌ててももこがその後を追う。

 扇田和尚は織斗を見つめ、

 

「……よろしかったのですか、織斗君?」

「……何がですか?」

「いえ、それは……」扇田和尚は目を伏せた。「……何でもありません」

 

 和室に沈黙が流れる。

 織斗は静寂を振り払うように、

 

「……少し、お願いしてもいいですか?」

「私に出来ることでしたら」

「神木真璃亞が昔いたという、孤児院のことが知りたいんです」

 

 事情を説明する。

 

「孤児院ですか……」要介は思案顔になり、「神木さんが孤児だったことは知っていますが、さすがに孤児院の名前や場所までは……」

「情報はありませんか?」

「はい。ですが、学校に行けばなにがしかの資料があるかもしれません。よろしければ、神木さんの過去を含め、私が調査しておきますが?」

「お願いしても良いですか?」

「承りました。それと……」

 

和尚は大きな茶封筒を差し出した。

 

「これは私が集めた資料です。どうかお役立て下さい」

「使わせてもらいます」

「どうかこの町の事をよろしくお願いいたします」

 

 深々と頭を下げる要介和尚に対し、織斗は無言で頷いた。

 

 

 

 

 

 

     Ⅳ

 

 

 

 

 

 浄山寺を飛び出した鞠亜は、そのままの足で展望台までやって来た。転落防止用の手すりにつかまると、そのまま手すりをきつく握りしめる。空は今にも泣き出しそうなくらい曇っており、それが余計に鞠亜の心を締め付けた。

 

(それでも、私は姉さんのことを忘れたくないのよ……)

 

 鞠亜の心を染めていたのは、どこか裏切られたような感情だった。昨日の夜や今日の調査の中で、鞠亜は織斗のことを見直していた。調査に対する真摯な様子や、真剣に物事を考える姿から、鞠亜は織斗のことを理性と誠実さに溢れた青年だと思っていた。大学教授や名探偵を思わせる思慮深い横顔に見惚れたのは、一度や二度ではない。

 

 だからこそ、鞠亜は先ほどの織斗の言葉に失望していた。

 

 

 ――死んだ人間のことは、早く忘れたほうがいい。

 

 

 忘れるなど出来るはずがない、と鞠亜は思った。

 

そもそも死者を偲ぶことは、人間の持つ優しい感情の一つのはずだ。確かに縋りすぎるのはよくないだろう。しかしだからといって、死者を忘れてよい道理はない。

 

 手すりを握りしめ、鞠亜は下唇をかみしめる。

 

 その時、ふと彼女の耳に芝生を踏みつけるサク、サクという音が聞こえてきた。

 

おそらくももこ先生だろう、と鞠亜は判断する。飛び出した自分を心配して追いかけてきたに違いない。その証拠ではないが、自分の足下に見える人影には長い髪のシルエットが――

 

 

 長い髪?

 

 

「え……?」

 

 鞠亜ははたと思い出した。ももこはショートヘアだ。長い髪(ヽヽヽ)のシルエットなど持ちうるはずがない。

 

 

 じゃあこの人影は、いったい、誰?

 

 

「…………」

 

 金縛りのように強ばる身体を叱咤し、鞠亜は首を動かした。肩越しに振り返る。

 

 鞠亜の目が驚愕に見開かれた。

 

 

「―――」

 

 

 一瞬後には、鞠亜の意識は闇にのまれていた。

 

 

 

 

 

 

     Ⅴ

 

 

 

 

 

 

 扇田和尚のもとを辞した織斗は、駐車場の方には戻らず、浄山寺と公園とを結ぶ石段に腰を下ろし、資料を眺めていた。膝の上には白猫が居座り、同じく資料を見つめている。

 

「死んだ人間のことは、早く忘れたほうがいい、か……」

 

 当時の新聞の切り抜き集を見終わったところで、織斗はぽつりとそうつぶやいた。

 イースは首を回すと、織斗を見上げる。

 

「なんじゃ、小娘に言ったことを気にしておるのか?」

「そういうわけじゃないけどさ……」織斗は目を伏せる。「……どの口が言ってるんだろうなと思ってさ」

「まあ、そうじゃな」

 

イースは珍しく困ったように苦笑した。

 

「出来損ないとはいえ、あの小娘は『妖精の眼』の持ち主じゃからな。この世の外側を垣間見てしまうからこそ、無意識のうちにお主の『本質』に親近感のようなものを感じていたのやもしれん」

「俺の本質、か……」

 

 織斗は手のひらでこめかみを撫でた。

 

「かつてを見るでない」

 

 ふいに織斗の膝の上にあったぬくもりが背中へと移り変わった。ほっそりとしたチョコレート色の腕が織斗の首にからみつく。忽然と現れた異国人の少女が、織斗を背中から抱きしめていた。

 

「分かっておろう、織斗」

 

イースは愛をささやくように、

 

「もはやお主は人ではない。人でないものに『かつて』は無い。『ゆくすえ』も無い。ただ許されているのは『いま』を見ることだけじゃ。わらわと同じくな」

「…………」

「迷うでない、我が盟友にして伴侶、緋瑞織斗。お主はもはや人ではない。崇拝者殺し、ホラーハンター、抵抗者じゃ。――わらわとの契約、忘れたわけではあるまい?」

「忘れてないさ」

 

 グッと拳を握りしめ、奥歯をかみしめる。

 

 その姿がイースには酷く危うく、そして愛しいものに見えた。

 

 

(愛しいぞ、織斗。人でないことを自覚しながらも、しかしそれでも心のどこかで人間にすがりつこうとしているお主の姿が、わらわは堪らなく愛しいのじゃ)

 

 心の底からイースは織斗を愛していた。血に濡れた己を悔恨する姿も、焼け跡で一人涙を堪える姿も、おぞましい恐怖に怯え震える姿も――それら全てを含めて、イースは織斗を愛していた。

 

 織斗の髪をいとおしげに撫でながら、イースは色気の籠もった吐息を吐く。

 

 ふとそこで、イースの並はずれた知覚がこちらに近寄ってくる気配を感知した。

 

 

「無粋じゃな」

 

 

 一瞬後には、イースの姿は再び猫のものになっていた。不機嫌そうに公園の方を睨み付ける。

 

 数秒後、織斗の方に駆け寄ってきたのはショートヘアに眼鏡をかけた女医だった。手に黒い布きれをつかんでいる。

 

 

「た、大変!」ももこは肩で息をしながら、「鞠亜がどこにも居ないんだよ!」

 

 

 イースは目を細め、小さく「うなぁ」と鳴いた。

 

 

 

 

 

 

     Ⅵ

 

 

 

 

 

 

「公園をぐるりと探したんだけどどこにもいなくてさ。そしたらここに、鞠亜の眼帯が落ちていて……」

 

 まくし立てるももこを尻目に、織斗は眼帯が落ちていたという展望台の一角を念入りに調べていた。わずかだが足跡が残っている。ポーチからメジャーを取り出して足跡の大きさを測ると、二七センチほどだった。

 

「男……それも結構な長身だな……」

 

 足のサイズはおおむね身長に比例することが知られている。仮に鞠亜が攫われたのだとしたら、その犯人は170センチから180センチまでの男――それも『生きている人間』の男ということになる。

 

「これが超常現象じゃなくて生きてる人間の仕業なら、まだわかりやすいな……」

 

 人一人を目立たないように運ぶのは困難だ。車を使ったに違いない、と織斗は考える。この八面山の頂上までの道は一本道で、車線も一つだけの狭いものだ。側道や車を隠せる場所もない。走り去る不審な車を目撃した人間がいるはずだ。

 

 目撃者を捜すべく、織斗は踵を返す。

 

 

 そこでふいにイースが鋭い声を放った。

 

 

 

「織斗、待て。これを見るのじゃ」

 

 

 

 芝生に顔を近づけ、白猫はあるものをジッと見つめていた。黒い糸のようなものだ。

 

「髪の毛か……?」

 

 織斗はそれをつまみ上げると、まじまじと見た。始めは黒色をしていると思ったが、よく見るとわずかに赤みがかっている。長さは三〇センチほどで、緩くウェーブがかかっていた。

 

「犯人の髪か? いや、でもこの長さだと女の人の髪か?」

 

 犯人は男女の二人組だというのか?

 

「お主の言うとおり、それは女子の髪じゃ」イースは神妙な声で、「ただしただの髪ではない」

「ただの髪じゃない?」

 

「髪から生気が全く感じられぬ。おそらくそれは死髪じゃ」

 

 

 抜け落ちたり切り落としたりした髪には、生気が宿ると言われている。その生気は、長いものでは数年近く残り続けるという。死者の髪が勝手に伸びたり、人の髪を使った人形の髪が伸びたりするという怪奇現象は、多くが髪に宿った生気が原因なのだ。

 

 逆に言えば、髪から生気が全く感じられないと言うことは、切り落とされてからずいぶんと時間の経過した髪――すなわち死んだ髪、死髪ということになる。

 

「ちょっと待ってくれないかい……」ふとももこが声を上げる。「その紅茶色の髪は、まさか……」

「見覚えがあるんですか?」

「あ、ああ。実は神木真璃亞くんの髪にそっくりなんだよ」

「うわ、まじか……」

 

 織斗は頭をかきむしると、

 

「じゃあ、やっぱり誰かが神木真璃亞の髪を病院から持ち去っていたってことか……?」

 

 しかし婦長や扇田和尚の話を信じるなら、病院内では特に不審な人物は目撃されていないらしい。髪を切ったのが神木真璃亞本人だとするなら、その髪が捨てられたのは病室にあったゴミ箱だろう。誰にも悟られずに病室のゴミ箱から髪の毛を回収するなど――

 

「いや、待てよ……」

 

 ふと織斗の脳裏に、先ほど扇田和尚が言った言葉が蘇る。

 

 

『病院の中では特に不審な人物は目撃されていません。お見舞いに来た人物を除けば、ですが』

 

 

(見舞に来た者なら、神木真璃亞の目を盗んで、こっそりと髪の毛を回収することが出来たんじゃないか?)

 

 

 織斗はハッと顔を上げた。先ほど要介から預かった茶封筒の中身を芝生の上にぶちまけると、その中から数枚のレポート用紙をつかみ取る。

 

「あった、こいつだ!」

 

 三十五人分の名前と住所の書かれたそれは、神木真璃亞が所属していた稲峰高校三年A組のクラス名簿だった。所々に要介のものと思しき書き込みがあり、赤く丸が打たれている名があった。神木真璃亞の見舞いに来たと思われる生徒だ。

 

 その数、四名。うち男はというと――

 

 

「久々津真彦……男はこいつだけか……」

「ちょ、ちょっと待ってくれないかい!」

 

 ももこは驚いたように、

 

「久々津真彦っていったら、今、稲峰高校に教育実習に来ている人じゃないか!」

「ほんとですか?」

「あ、ああ。ちょうど二週間くらい前からね」

 

 そこでももこはハッとなる。

 

「そういえば、二週間前っていったら、この怪事件が起こり始めたくらいだねえ……」

「その久々津って人、どこにいるかわかりますか?」

「この時間なら学校のはずだけど……」

 

 ももこは携帯電話を取り出すと、稲峰高校に電話をかけた。応対に出た校務の教師に久々津真彦実習生がどこにいるか尋ねる。

 

 返ってきたのは、昨日右目を自傷した木多翔子教諭のお見舞いの為に、朝から稲峰市立病院に行っているというものだった。

 

「病院に行っているはずだってさ。木多翔子っていう先生のお見舞いのために」

 

ももこは携帯電話の通話ボタンを切りながら、

 

「なんでも高校の時の同級生らしくて……」

「同級生?」

 

 織斗は再び名簿を見た。神木真璃亞のすぐ真下に木多翔子という名が記されている。名前の欄には小さく『神木真璃亞を虐めていたと思われる生徒の一人』と綴られていた。

 

 彼女に聞けば何か分かるかもしれない。

 

 

「病院に戻ろう」

 

 

 散らばった資料をかき集めるなり、織斗は駐車場に向かって走り出した。すぐ後をももこと白猫が追う。

 

 行く末を暗示するように、空がぽつぽつと泣き始めていた。

 

 

 

 

 

 

     Ⅶ

 

 

 

 

 

 瀬阿鞠亜は、自分が夢を見ていると断じた。

 

 夢の中では、鞠亜は幼い少女になっていた。姉の腰にすがりつき、遊んで欲しいとせがんでいる。

 

 しかし姉は寂しげな微笑を浮かべ、首を横に振るだけだった。

 

 

『私はね、誰とも遊べないのよ』

 

 

 なぜ姉がそんな事を言うのか、幼い頃の鞠亜はおろか、今の鞠亜にも分からなかった。年を経て分かるようになったことといえば、姉の顔を彩っていた感情が恐怖と達観だったということくらいだろうか。

 

 

(姉さんは、いったい何に怯えていたの?)

 

 

 ふいに場面が切り替わる。

 

 鞠亜の目の前には、一人の少女が立ちすくんでいた。どこか見覚えのある少女だ。艶のある黒髪を背中まで伸ばし、涼やかなサマーワンピースを纏っている。

 

(これは……私?)

 

 鞠亜の目の前にいる少女は、恐怖に顔を歪ませていた。後ずさろうとしたが、それより早く伸ばされた腕が少女の襟首をつかんだ。ベッドの上に引きずり上げられる。

 

 悲鳴を上げようとする少女の口を手のひらで押さえた鞠亜は、テレビの脇に置いてあったボールペンをつかみ取った。

 

 

 ボールペン?

 

 

(まさかこれ……真璃亞姉さんの視点……)

 

 

 場面は続く。ボールペンを握りしめた鞠亜は、その切っ先を少女の右目に向けた。つぶらな眼球めがけ、ゆっくりと下ろしてゆく。

 

(駄目ぇ!)

 

 鞠亜は必死に右手を止めようとした。しかし自分であって自分ではない身体は言うことを聞いてくれない。

 

 つぷり、という水風船を押し破るような感触。少女の絶叫が病室に響き渡った。

 

 

(私は……こうやって目を潰された……)

 

 

 のたうち回るかつての自分を見下ろす。痛ましいはずの光景なのに、なぜか鞠亜の心を支配していたのは喜びと期待感だった。

 

 

「待たせてしまってごめんなさいね、鞠亜」

 

 

 紅茶色の髪をばっさりと切り落とした少女は、クスクスと笑う。

 

「でももうすぐよ。もうすぐ、みんな一緒に、すばらしい存在になることができるわ。これはね、遊びなの。『めさしあそび』っていう。でもね、それだけじゃないの。これは儀式でもあるの。みんなで一緒に『琉璃江(るりえ)の島』に行くための」

 

 痛みに震える少女の頭をサッと撫でると、真璃亞はベッドから降り立った。病室を抜け出すと、人目を避けながら廊下を進み、病院の外へと出る。

 

 

 病院の裏門を抜けたところで、真璃亞の前に人影が躍り出た。

 

 

(誰? 誰なの?)

 

 

 鞠亜は必死に目を凝らし、その人影が誰なのか見極めようとした。しかしいくら目を凝らしても、人影を知覚することが出来ない。確かに見えているはずなのだが、脳がそれを情報として認識できないのだ。

 

(駄目、姉さん! その人について行っちゃ駄目!)

 

 またしても視点が切り替わる。暗い闇の中へと消えてゆく姉の背中に向かって、鞠亜はあらん限りの声を張り上げていた。しかし姉は気付かない。その姿が徐々に闇色の液体の中に沈んでゆく。

 

 その姿が完全に闇の中に消えたところで、姉の傍らにいた人影がゆっくりと振り返った。ニィ、と笑みを浮かべる。仮面を思わせるアルカイックな笑みだった。

 

 

(あなたは……)

 

 

 鞠亜の夢はそこで途切れた。

 

 

 

 

 

「――ッ!」

 

 声にならない悲鳴を上げながら、鞠亜は目を覚ました。心臓が早鐘を打ち、肺が酸素をむさぼっている。夢の中で見た笑みが瞼の裏から離れない。

 

 悪夢を振り払うように鞠亜は頭を振ると、ゆっくりと深呼吸した。

 

 しばらくして落ち着きを取り戻した鞠亜は、ようやく自分が豪奢な天蓋付きのベッドの上にいることに気付いた。

 

「ここは……」

 

 ゆっくりと周囲を見渡す。そこは十畳ほどの洋室だった。ヨーロッパ貴族の寝室を模したのか、調度品が統一されている。落ち着きのある装飾の施された木製のベッド。壁にはタペストリーが掛かっている。窓はなかった。

 

 

「お目覚めですか、かりそめのマリア?」

 

 

 ふいに木製の扉が開き、一人の男性が姿を現した。ぴしりとしたスーツに身を包んだ久々津真彦教育実習生だ。なぜかその腕には、紅茶色の髪のビスクドールが抱かれていた。

 

「久々津先生……」

 

 鞠亜は思い出す。展望台にいた自分に対し、この実習生の教師が何をしたのかを。

 

「……先生が私を誘拐したのね」

「誘拐とは人聞きが悪いですね」

 

真彦はビスクドールの髪を撫でながら、

 

「僕は招待しただけですよ、かりそめのマリアである貴方をね」

「かりそめのマリア?」

「貴方は選ばれたのですよ。栄えあるマリアの依り代として」

 

 真彦はそこで目を細める。

 

「それにしても良くお似合いですよ」

「え? ……なっ!」

 

 真彦の視線を追った鞠亜は、思わず驚愕の声を放った。いつの間にか自分の服装が黒いゴシックドレスに変わっていたからだ。右目を覆う眼帯まで、上品な刺繍の施された黒革のものになっている。

 

 やましいことはしていませんのでご安心を、と慇懃に頭を垂れる真彦を、鞠亜はキッと睨み付けた。

 

「私をこんなところまで連れてきてどうするつもりなの!」

「先ほども言いましたが、貴方は選ばれたのですよ。貴方はマリアとなるのです」

「意味が分からないわ! 何を言っているの!」

「おや? 本当に自覚はないのですか?」

 

 真彦は笑みを深くする。三日月形に歪んだ口は、まるで地獄まで続くクレバスのようだった。

 

「瀬阿さん、貴方には自覚があるはずですよ。自分が徐々にマリアに……神木真璃亞に変質していることの自覚が」

「私が……姉さんに……?」

 

 ふと鞠亜の脳裏に、先ほどの夢の内容が思い浮かぶ。

 

 夢の中、自分はどうなっていた?

 

 

(……そういえばどうして私は、私が知らないはずの姉さんの行動をトレース出来たの?)

 

 

 少女の目にボールペンを突き刺すまでは、鞠亜も知っている。しかしその後、姉がどういう行動をしたのか、自分は知らないはずなのだ。想像という可能性もあるが、それにしてはあまりにリアルだった。

 

「どうやら自覚がおありのようですね」

 

 真彦はクツクツと笑った。その顔は恍惚に歪んでいる。まるで念願の玩具が手に入った子供のような、そんな雰囲気だった。

 

「貴方は真璃亞となるのですよ。僕の真璃亞へとね」

 

 ビスクドールの髪を愛おしげに撫でる。

 

 しばし呆然としていた鞠亜だったが、ふと真彦の抱くビスクドールの髪が見覚えのある紅茶色をしているのに気付いた。

 

「……それは、真璃亞姉さんの髪?」

「察しの通りです」

 

真彦は人形を掲げると、

 

「どうです、美しいでしょう? 特注で造ったのですよ」

「…………」

 

 鞠亜の右目がうずく。一切の光を映さないはずの目に異様な光景が映し出された。

 

 ビスクドールの髪が、風もないのにぞわぞわと蠢いている。まるで軟体生物の触手のように。その内の何本かが真彦の身体へと巻き付いたかと思うと、そのまま真彦の身体の中に潜り込む。肉をかき分けながら進んだ髪の毛は、最終的に真彦の脊髄や脳髄にからみついた。

 

 

 これはいったい何なの?

 

 

「約束の時はもうすぐです」

 

 真彦の声が鞠亜を現世へと呼び戻す。

 

「どうぞ、それまでゆっくりとお休みください」

「待ちなさ……」

 

 パタリ、とドアが閉じられる。次いで鍵のかけられる音。

 

 

 閉じこめられた不安よりも、あの人形から離れられた安心の方が大きかった。

 

 

 

 

 

 

     Ⅷ

 

 

 

 

 

 

 午前の職務を終わらせた小林幸代看護師長は、昼食をとるべくナースステーションを出ようとした。

 

 しかしその矢先、電話のコール音が鳴り響く。消防救急センターからのホットラインだ。

 

 

「お昼は後回しかしらね」

 

 

 やれやれと頭を振りながら、幸代は受話器に手を伸ばす。

 

 ふと幸代の脳裏に、ここ二週間あまりの間に運び込まれた数人の自傷患者のことがよぎった。自らの右目を潰すという異常行動をした患者たちだ。精神疾患の疑いがあるため、看護師たちが交代で監視している。おかげで人手不足だ。

 

 どうか普通の急患でありますように、という祈りを込めながら幸代は受話器を取る。

 

 

「はい、こちら稲峰市立病院です」

 

『――――』

 

 

「…………え?」

 

 

 幸代は耳を疑う。祈りは届かなかった。

 

 

「……一家族五人が……右目を潰しあった?」

 

 

 ベテラン看護師長の背筋を怖気が走った。

 

「あ、は、はい。分かりました。すぐに受け入れ態勢を整えますわ。到着予定は……はい、十分後で。分かりました」

 

 受話器を置くなり、幸代は戸惑いながらも行動を始めようとした。眼科と麻酔科の医師に連絡すべく、内線電話の受話器に手を伸ばす。

 

 しかしその手が受話器に触れることはなかった。

 

 

 再び鳴り響く救急用電話。

 

 

「…………」

 

 

 電話をとりたくない。

 

 看護師長は生まれて初めて職務放棄したくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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