恐怖狩人 ~クトゥルフ神話ガチ勢が恐怖小説を書いてみた~   作:セラニアン

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第4章 妖精の眼 ~Those eyes see darkness~

 

 

 

 Ⅰ

 

 

 

 

 

 

 規則正しいワイパーの音が、狭い軽四駆車内に木霊する。

 

 ステアリングを片手で操りながら、ももこは難しげな表情で携帯の通話ボタンを切った。

 

 

「駄目だね。仲の良い先生に頼んで調べてもらったんだけど、久々津真彦先生の住所、デタラメだったらしい」

「怪しい限りじゃな」

 

 イースはそこで、自分を抱く織斗が妙に静かなことに気付いた。

 

「どうしたのじゃ、織斗?」織斗を見上げ、「黙りを決め込みおって」

「附に落ちないんだ」

「何がじゃ?」

「鞠亜を攫った理由と、今回の怪事件が繋がらないんだ」

 

 織斗は流れてゆく町並みをジッと見据える。生温かく、どこか潮風を孕んだ雨が街を包み込んでいる。

 

「その久々津って人が、仮に神木真璃亞の思念体の宿った髪を持っていると仮定する。何らかの目的のために、町の人たちを汚染したっていうのも、この際は置いておく。でも、どうしてここにきて彼女を攫ったんだ?」

「ふむ、言われれば確かにそうじゃな」

 

「生け贄っていう線はないのかい?」とももこ。「ほら、テレビとか小説とかで良くあるじゃないか。若い処女の血を捧げることで、悪魔を復活させようとしてるとか」

 

「それだと今度は、町の人たちを汚染した理由が分からなくなるんです。生け贄に使うんなら、別に鞠亜に限る必要はないですし。子供とか、もっと攫いやすい人間でも構わないはずです」

「じゃあ媒体ってのはどうだい? 神木君の霊魂を鞠亜に取り憑かせて、神木君を復活させようとしてるとか」

 

「いや、それはないです」

 

 織斗は断言した。

 

「もし鞠亜と神木真璃亞が血縁者だったら、それもありえます。でもこの二人の間に血縁はない。血縁がないってことは、霊的なつながりもないってことです。それじゃあ、とてもじゃないですが依り代なんかにはなりません」

 

 

 ではいったい、どうして久々津真彦は鞠亜を攫ったのか?

 

 

「情報が足りない」

 

 織斗はギリリと奥歯をかみしめる。

 

「情報が……決定的な何かが欠けているんだ」

 

 しかしそれが何なのかまでは分からない。

 

(今は木多翔子って人がマシな情報を持っているのを祈るしかないのか……)

 

「落ち着くのじゃ、織斗」

 

 白猫の尻尾が、織斗の首筋を優しく撫でた。

 

「心を澄ませ。思考を冷やせ。焦りは何も生まぬぞ」

「……ああ、そうだな」

 

 

 それでも焦りを抑えることは出来ない。

 

 間もなく目の前に、灰色の建物が飛び込んできた。

 

 

 

 

 

 

 Ⅱ

 

 

 

 

 

 

 木多翔子教諭の病室は、ナースステーションに近い個人部屋だった。本来なら中程度の外科患者として大部屋に入るところだが、彼女の場合は外科患者ではなく精神病患者扱いとなっている。自分で自分の目を潰すという凶行に至ったのだ。当然だろう。

 

 妙にあわただしいナースステーションで木多教諭の病室を聞き出した織斗たちは、彼女が入院しているという区画にやって来た。面会謝絶の札がかかっていたが、そこはももこが医者であることを利用して強引に突破する。

 

 あまり患者にショックを与えるようなことは止めてください、と監視していた看護師に釘を刺された後、織斗たちは木多翔子の病室に乗り込んだ。

 

 木多翔子の病室は、他の病室にも増して殺風景だった。ベッドと小卓しかなく、テレビすらない。一つだけある窓もはめ殺しで、さらに外側には鉄格子までついていた。

 

「ほとんど監獄じゃな」

「だな」

 

 織斗は病室をぐるりと見渡すと、次いでベッドの上に目を向けた。

 

 果たしてそこにいたのは、頭まで毛布を被り、ガタガタと震える女性教師だった。病室に織斗たちが入ってきたことにも気付いていないらしい。

 

 

「大丈夫ですか?」

「ヒッ!」

 

 織斗の声に、木多翔子は引きつった悲鳴をあげた。

 

「い、いや……来ないで……」

 

 まるでお化けを恐れる幼子のように、

 

「なんで……なんでまだ来るの……お願い……もう見せないで……」

 

 ガチガチと奥歯を鳴らしながらすすり泣く。

 

 その様子を見てももこは、あちゃあ、と額に手を当てた。

 

 

「とても話が聞ける状態じゃないねえ」

 

 

 ももこの目から見て、木多翔子は完全に錯乱状態だった。意味不明なことを呟きながら震えているのだから当然だろう。

 

 しかし織斗はそうは思わなかった。厳しい表情で女性を見つめる。

 

 

(何かがおかしい……)

 

 

 言いようのない恐怖感が、織斗の身体を支配する。

 

 これまで織斗は、自分の目を突き刺すという凶行の原因を、神木真璃亞の思念波によるものだと思ってきた。ようするに神木真璃亞の怨念が他人の身体を操り、目を潰すように仕向けているのだと。

 

 しかしもしそうだとしたら、一度目を潰してしまえばそれで終わりになるはずだった。自分と同じ苦しみを与えれば、怨念も気を沈めるはずだからだ。

 

 だが目の前の木多翔子は、未だに恐怖に蝕まれているように見える。

 

 

(もしかしたら、俺はとんでもない勘違いをしてるんじゃないか?)

 

 

 

「……織斗」

 

 

 

 ふいにイースが声を上げる。今までに聞いたこともないような厳しい声だった。

 

 

「そこの女の顔をわらわに見せるのじゃ」

「何?」

「いいから早くするのじゃ!」

「……わかった」

 

 

 織斗は不審に思いながらもイースの言葉に従った。ベッドに近寄ると、力任せに毛布をはぎ取る。

 木多翔子の声が絶叫に変わった。

 

 

「い、いやあ! 来ないで、来な……」翔子の目が大きく見開かれる。「こな、ななななああああああああああアアアアアア!」

 

 どこか現実味のない、狂気じみた絶叫。

 

「くそ、まずい!」織斗は手足をつかむ。「先生、手伝ってください!」

「わ、わかったよ!」

 

 ももこと二人がかりでベッドに押さえつける。

 

 すぐさまイースはベッドに飛び乗ると、未だ叫び続ける女性の顔をのぞき込んだ。ヒクヒクとヒゲをそよがせながら、ガーゼに覆われた女性の右目を見つめる。

 

 

 数秒後、イースは衝撃のあまり数歩よろめいた。

 

 

「あ、あり得ぬ!」

 

 思わず小娘のようにうろたえる。

 

「こんなことはあり得ぬはずじゃぞ!」

「お、おい? どうしたイース?」

「どうしたもこうしたもない!」

 

 珍しく感情を露わにしてイースは叫んだ。

 

 

「この女の右目じゃが、すでに五割ほど超常化しておるのじゃ! しかもただの超常化ではない! 『妖精の眼』じゃ!」

「なっ、妖精の眼だと!」

「そうじゃ!」

 

 イースは訳が分からないとばかりに、

 

 

「妖精の眼は二百年に一人現れるかどうかという特異能力者じゃ! 間違っても大量発生するようなものではない!」

 

 

 そうこうしている間に、木多翔子の様子がさらに異常なものになってゆく。

 

 

「―――ッ!」

 

 

 もはやその口から漏れるのは人の言葉ではなかった。目玉が零れんばかりに目を見開き、引きつけを起こしたかのようにビクビクと痙攣している。

 

「イース! どうなってるんだ!」

 

「わからぬが、この世のものではない『何か』を垣間見ておるのじゃ! 妖精の眼の能力は、目を潰したからと言ってどうなるものではない! むしろ視界を奪われた分、妖精の眼の力は強くなる! このままじゃと恐怖に飲まれて発狂するぞ!」

 

「くそ、迷ってる暇はないか!」

 

 織斗の決断は早かった。素早く女性の首に腕を回すと、気管と頸動脈を強烈に締め上げる。脳に血が行かなくなった女性は、わずか十秒ほどで気絶した。

 

 ぐったりとする女性を前に、織斗は顔をしかめた。

 

 

「いったい何がどうなってるんだ?」

 

 

 全員の背筋を、薄ら寒いものが通り過ぎていった。

 

 

 

 

 

 同時刻。浄山寺本堂。

 

「いよいよ本降りになってきましたな……」

 

 本堂の軒先から空を見上げ、扇田要介和尚は小さくつぶやいた。屋根を叩く雨音が、まるで壊れたテレビの発するノイズ音のように聞こえる。

 

「緋瑞教授の息子さん、ですか……」

 

 要介の心を占めていたのは期待と不安だった。

 

 彼が織斗の父である緋瑞影人教授と出会ったのも、このような雨の降る日のことだった。要介が住職を務めていた寺に、影人教授が雨宿りにきたことがことの発端だ。

 

「これも奇妙な縁というものですかな……」

 

 要介は小さくため息を吐いた。

 

 もっともここで空を見上げていても仕方がない。他人には他人のすべきことがあり、自分には自分のすべきことがある。それだけだ。

 

「さて、私も動きますか」

 

 法衣からスーツに着替えると、要介は愛車の鍵を片手に本堂を後にした。傘を差し、公園の駐車場に停めてあるセダンタイプの高級車に乗り込む。

 

 エンジンをかけようとしたその瞬間、要介の目の前を赤茶色の何かが通り過ぎた。

 

 

「……?」

 

 

 要介は首を巡らす。展望台の方に霞がかった人影が見えた。女の子だ。腰まで届く紅茶色の『ロングヘアー』が、生き物のように蠢いている。

 

 

「……ほう?」

 

 

 要介は己の目をこする。再び目を向けたときには、少女の姿は忽然と消えていた。

 

 

 

 

 

 

 Ⅲ

 

 

 

 

 

 

 八城ももこは、自分が好奇心旺盛な性格であることを自覚している。医者でありながら大のオカルト好きで、非日常的な刺激に餓えていたのも事実だ。

 

 しかしそんなももこにしても、今の状況は勘弁願いたかった。

 

「そりゃ確かに私は医者だけどさあ。だからってあれだけ暴れまくった患者と二人っきりっていうのはさすがに酷いんじゃないかなあ……」

 

 浅い呼吸を続けている木多翔子教諭を、ももこは禁煙用パイプを咥えながらビクビクと眺めていた。ベッドの脇に丸椅子があったが、この状況でくつろごうとは思わない。

 

「それにしても『妖精の眼』かあ……」

 

 

 緊張感を紛らわせようと、ももこは先ほど織斗に説明してもらった内容を反芻した。

 

 

 

 翔子を締め落とした織斗は、説明を求める自分に向かって、言葉を濁しながらこう語った。

 

 

「妖精の眼っていうのは、この世ではないものを垣間見ることの出来る超能力者のことです」

「この世のものではないというと、幽霊とかかい?」

 

 要するに霊視能力のようなものかと聞くももこに、織斗は全く違うものであると語った。

 

「幽霊やゴーストは『この世』のものです。普通は見えないだけで、あくまでもそこに『いる』ものです。霊視能力というのは、普通の人には見えない『この世のもの』を見る力です」

「お主も医者であれば経験があろう?」とイース。「ゴーストのような存在を感じたことが」

 

 ももこは小さく頷く。イースの言葉は、まさしくももこをオカルトに走らせた原因だった。

 

 

 そもそも八城ももこがオカルトに興味を持ちはじめたのは、医学生時代だった。病院で何度か超常的な経験をしたことに端を発する。

 

 病院は超常現象の宝庫だった。空き部屋から届くナースコール。無人の廊下で響く足音。霊安室から聞こえる子供の泣き声に向かって、「もう苦しまなくていいのよ」と囁いてあげる年配の看護師たち。重病の女の子が奇跡的に回復したと思えば、その翌日に女の子の祖母が身代わりのように突然死する。

 

 そのような超常体験が、ももこを強くオカルトの世界に引き込ませた。

 

 しかし、それはあくまでも『この世』の超常現象だった。目に見えないだけで、普通に隣にある現象。

 

 だが、妖精の眼が見るのはそうではない。その目は、本当の意味での『狂った世界』を見せるのだという。

 

 

「ゴーストは確かに超常的じゃが、あくまでも見えないだけでこの世の、つまり『三次元世界』のものじゃ。しかし、この世界には『三次元世界』の外側がある。妖精の眼は、そんなこの世界の外側を垣間見ることのできる能力なのじゃ」

 

 イースは静かに語った。

 

「『外の世界』あるいは『外宇宙』とも呼ばれるそこは、わらわたちの住まう三次元世界とは法則も理もまったく異なる世界じゃ。普通であれば、そのような世界を知覚することは出来ぬ。それは人類にとって、この上ない幸福であり祝福であり救いじゃ。知ることも、感じることもないからこそ、人類は恐怖に怯えず、狂気にのまれず、生きてゆくことができる」

「……じゃあ、それをもし見てしまったら、どうなるんだい?」

 

 恐る恐る聞くももこに、織斗はきっぱりと言った。

 

 

「発狂する」

「……」

 

 ももこのつばを飲み込む音が、やけに大きく響いた。

 

「じゃ、じゃあ……翔子先生のさっきの様子も……?」

「恐怖に呑まれて、気が狂いかけたんです」と織斗。「妖精の眼の能力によってこの世界ではない『何か』を垣間見たためですね。自我崩壊していなければいいのですが」

「自我崩壊って……」

 

 淡々とそう語る織斗の姿に、ももこは薄ら寒いものを感じる。

 

 ここにきて、ようやく彼女は目の前の青年が異質な存在であることに気付いた。今まではどこか自分と同じような人種――オカルト好きなアマチュア研究者――だと思っていたのだが、そうではない。

 

「君は……」

 

 ももこは震えそうになる声を必死で抑えつつ、

 

「君たちは、いったい何者なんだい?」

「わらわたちを称す言葉は枚挙にいとまがない」

 

 白猫が答える。

 

邪教徒殺し(カルトマーダー)、魔女狩り、除霊師、悪魔祓師(エクソシスト)、異端審問官、ゴーストバスター、恐怖狩人(ホラーハンター)……」

「だけど俺たちは、自分たちのことをこう呼んでいます」

 

 こめかみに痣のある青年は、強い声で言った。

 

 

 

 ――抵抗者、と。

 

 

 

 

 

 

「抵抗者、ねぇ……」

 

 いったい『何に』抵抗しているんだろうねぇ、などとぼやいているところで、小さなうめき声が聞こえてきた。思わずももこはビクリとする。木多翔子のまつげがぴくぴくと動いていた。

 

 

(や、やば……もし起きたとたんに暴れたり……それこそ自我崩壊なんてしてたら……)

 

 

 おもわず顔を青くするももこ。ここにいない織斗たちに向かって、早く戻ってきてくれと祈る。

 

 その祈りが通じたのだろうか。数秒後、胸元にイースを隠した織斗が戻ってきた。

 その顔はいつも以上に厳しい。

 

 

「想像通りでした」織斗は頭痛をこらえるかのように、「他の入院患者も見て回りましたが、全員の右目が多かれ少なかれ超常化していました」

「しかも全て『妖精の眼』じゃ」

 

 イースの声も完全に困惑したものになっている。

 

 その時、再び翔子の口からうめき声が漏れた。全員に緊張が走る。

 

 

「織斗」

「ああ、わかってる」

 

 

 織斗はベッドの側に寄ると、いつでも締め落とせる体勢をとる。

 

 

 数秒後、木多翔子の右目がゆっくりと開かれた。

 

 

「…………むぐるぅなふ」

 

 

「なに?」

 

 思わず織斗は翔子に詰め寄った。

 

「今なんて言いました?」

「え、あ……私……」

 

 翔子はハッとすると、

 

「あの……ここは、どこですか……?」

 

 その瞳には、理性の光が蘇っていた。

 

 

 

 

 

 

 Ⅳ

 

 

 

 

 

 

「なんにも覚えていないのかい?」

「は、はい」

 

 ももこの問いに、御歳二十四歳になる英語科の新任教師、木多翔子はおどおどしながら答えた。

 

「なんにも覚えてないっていうか……その……」

 

 翔子はガーゼの上から右目を触りながら、

 

「本当に、私は自分で自分の目を潰したんですか?」

「間違いないね。何人かの生徒が目撃してたみたいだし、それに応急処置をしたのは私だからさ。翔子先生が自分でやったのは間違いないねえ」

「そう……ですか……」

 

 青い顔をしながら翔子はうつむく。当然の反応だろう。

 

 しばらく沈黙していた翔子だったが、無理矢理明るい声を出すと、

 

「あの、それで八城先生はともかく、貴方はどなたなんですか?」

 

 織斗に目を向ける。翔子でなくても、頭の上に白猫をのせた青年の存在が気になるのは普通だった。

 

「あ、ああ、彼かい?」ももこがフォローする。「なんでも聞きたい事があるらしいよ、久々津先生のことについて」

「久々津君のこと……ですか?」

 

 なぜか翔子の顔が曇る。

 

「はい、そうです」織斗はわずかに身を乗り出すと、「同級生だったですか?」

「はい。高校三年生の時に……」

「なにか含みがありそうな感じだね、翔子先生?」

 

 ももこが顔をのぞき込む。

 

「……」

 

 翔子はわずかに押し黙る。その様子に、織斗は単刀直入に、

 

「久々津さんと何かあったんですか?」

「実はその……」翔子はおずおずと、「……久々津君、ストーカーだったんです」

「ストーカー?」

「はい……」

 

 翔子の説明に寄れば、久々津真彦という青年はもともと思いこみが激しく、また執着心の強い性格だったらしい。高校在学中から何人かの女生徒につきまとい、たびたび問題になっていたようだ。

 

「私も二ヶ月くらいつきまとわれた事があるんです」

 

 翔子は肩を抱きながら、

 

「家がお金持ちだったらしくて、久々津君、私の家のすぐ側のマンションに引っ越してきたんです。そして朝とか帰りとか、必ず登下校時になるとやって来てはつきまとうんです」

「なるほどな……引っ越しか……」

 

 これは重要な手がかりだ、と織斗は思った。もし久々津真彦が前々から鞠亜を狙っていたのだとしたら、鞠亜の家の側に引っ越している可能性がある。不動産屋をあたれば比較的簡単に居場所を探ることができるだろう。

 

「ねえ、木多先生? ちなみに久々津君って、必ず引っ越してきてたのかい?」

「はい。私の時もそうでしたし……」

 

 翔子はそこで声のトーンを落とすと、

 

「……真璃亞ちゃんの時もそうでしたから」

「真璃亞?」

 

 織斗と白猫の目元がピクリと動く。

 織斗は二人のマリアを知っていた。一人は瀬阿鞠亜。そしてもう一人は――

 

「その真璃亞さんというのは、あなたたちが虐めていたという神木真璃亞さんのことですか?」

「ち、違います!」

 

 とっさに叫び、しかし翔子はすぐにハッと口を押さえた。

 

「い、いえ、その、久々津君が真璃亞ちゃんのストーカーだったっていうのは本当です。違うのは、私たちが真璃亞ちゃんを虐めてたっていうことです」

「……どういうことですか?」

 

 織斗は首を傾げた。久々津真彦が高校時代に神木真璃亞のストーカーをしていたという事実にも驚かされたが、それよりも神木真璃亞が虐められていなかったという事の方が、織斗には不思議に聞こえた。

 

「確かに、真璃亞ちゃんを良く思ってなかったクラスメイトもいました」

 

 翔子は目を伏せる。

 

「嫌がらせとか無視していた人がいたのも本当です。でも私たちは、真璃亞ちゃんに酷いこととかはしてません」

「じゃあ神木真璃亞君が目を潰されたっていう話はどうなるんだい? 木多先生たちがやったっていう噂もあるみたいだよ?」

 

「誤解です!」

 

 翔子の目が潤む。

 

「私たち、そんな酷いことはしてません!」

「じゃあ、誰が神木真璃亞君の右目を潰したんだい?」

 

「誰も……誰もやってないんです……」

 

 

 翔子はももこの方をチラリと一瞥すると、ガーゼの上から右目を押さえた。

 

 織斗たちは弾かれたように顔を上げる。

 

「まさか……」

 

 そのまさかだった。

 

「そうです……」

 

 翔子は痛ましげに言った。

 

 

「真璃亞ちゃんがやったんです。自分で」

 

 

 

 

 

 

 

「神木真璃亞ちゃんは、いつも寂しそうにクラスの様子を眺めていた子でした」

 

 翔子はぽつぽつと語り出す。

 

「お弁当もいつも一人で食べてて……私も何度か一緒に食べないかって誘ったことがあるんです。でも真璃亞ちゃんは『自分は一緒にいることが出来ない』って言って……」

「一緒にいることはできない、ですか?」織斗は眉根を寄せる。「どういうことです?」

「わかりません。でも一度こう言ったことがありました」

 

 

 ――私は、他の人たちと生きている世界が違う。

 

 

「私の友達は、それを聞いて高飛車だって怒りました。でも私はそう思いませんでした。真璃亞ちゃんの顔が本当に寂しそうだったからです」

 

 

 それ以降、翔子は時々真璃亞を誘っては昼食を食べたりしたらしい。

 

 しかし真璃亞が他人に心を開くことはなかった。

 

「あの日もそうでした。強引にお昼に誘って、おしゃべりして……そしたらいきなり真璃亞ちゃんが泣き出したんです。もう嫌だ、って」

 

 始め翔子は、自分と一緒にいることを嫌がっているのだと思った。しかしすぐにそうではないと気付く。

 

 真璃亞の嘆きは、真璃亞自身に向けられたものだった。

 

「その後はあっという間でした。こんな目なんていらない、って叫んだかと思ったら、そのまま持っていたペンで右目を……」

 

 翔子は痛ましげに目を伏せる。

 

 対して織斗は驚愕に目を見開いていた。

 

 

 

(こんな目なんていらない、だって……?)

 

 

 その言葉から察するに、神木真璃亞は自分の目を嫌悪していたと思われる。

 

 ではなぜ目を嫌悪していたのか?

 

 考えられるのは一つだった。

 

 

 

(神木真璃亞も妖精の眼を持っていたってことか?)

 

 

 あり得ない、と織斗は内心で叫んだ。繰り返しになるが、妖精の眼は非常に希少な能力だ。それこそ二百年に一人現れるかどうか。いくら偶然が時にあり得ないような奇跡を演出するからと言って、これはさすがにあり得なさすぎだろう。奇跡の大売り出しだ。

 

 しかし、真璃亞が能力者だとする推測もまた否定できなかった。すでに現状で十人近い妖精の眼の持ち主がこの町に出現している。ここで一人増えたところで今更だろう。

 

 むしろ問題にすべきは、能力者の異常発生の原因が何であるかだった。

 

 

 木多翔子、神木真璃亞、瀬阿鞠亜、そして他の妖精の眼の保有者。

 

 

 これらの人間の間に血縁はなかった。これといった共通点もない。あるとすればこの町に住んでいるということくらいだが、それが原因とはとても思えない。いくら稲峰市が陰窟だからといって、稀少能力を誘発するような土地柄ではない。

 

 また、妖精の眼という異能力は先天性の能力だった。要するに生まれながらにして持つべき能力なのだ。もちろん後々になってから覚醒するというのはあるが、能力そのものは始めから――

 

(いや、まてよ……)

 

 織斗はずいと翔子に顔を寄せると、その肩に手を置いた。

 

「……一つ教えていただいていいですか?」

「な、なんですか?」

「神木真璃亞さんは、高校に入学しやがったときから他人との関わり合いを避けるような子だったんですか?」

「は、はい。一年の時はクラスが違いましたけど、そうだったみたいです」

「……ありがとうございます」

 

 

 織斗は踵を返した。ももこを引き連れ、病室を後にする。

 

 人目に付かない階段の踊り場まできたところで、織斗は頭の上で腹ばいになっていた白猫に問うた。

 

「なあ、イース。確か『妖精の眼』は先天性のものだったよな?」

「そうじゃ。それがどうかしたのか?」

「おかしいと思わないか? 木多翔子先生の様子を見る限り、あれは能力に覚醒したというより、いきなり能力者になってしまったみたいだ」

「後天性、ということかの?」

 

 白猫はヒゲをピクリと動かす。

 

「じゃが、それはあり得ぬはずじゃぞ。視覚系の超能力は才能や体質への依存が強いことはお主も知っておろう? まして妖精の眼じゃ。後天的に獲得することなど出来ようはずがない」

「だけど、後天的に獲得したって考えた方が妥当な気がしないか? 少なくとも自然発生したって考えるよりかは不自然じゃないぞ?」

「それはそうじゃが……」

 

 イースはうにゃうにゃと考え込む。

 

「じゃが織斗よ」イースは言葉を選びながら、「後天的だとしたら、いったいどのようにして非能力者を能力者に変質させたというのじゃ? 能力者の創造が不可能にきわめて近いことはお主も知っておろう?」

 

「そうなのかい?」

 

 ももこの問いに、織斗は頷く。

 

「テレキネシスとか、後天的に獲得できる能力はあります。事故で生死をさまよった人が、霊視能力を手に入れたって事例もあります。ですが、これはあくまで偶然の産物ですし、獲得できたとしても霊視能力と言った『この世』を見る力がせいぜいです。外宇宙を視るような能力を獲得することはありません」

「これまで数々の魔道士や妖術師が外の世界と交信できる能力者の開発を目指したが……」イースは遠い目をしながら、「一人として成功した者はおらぬ。能力を後天的に、それも意図的に獲得することは不可能に限りなく近いのじゃ」

 

 故にこそ、この町に出現した『妖精の眼』保有者は異常だった。全員が後天性の能力者だとしたらなおさらだろう。

 

 しかしたった一人、神木真璃亞だけは違う可能性があった。あくまでも想像の範囲内だが、事件の発端である彼女だけは、生まれつきの能力者だったかもしれない。

 

「……先生」織斗はももこに向き直る。「神木真璃亞さんについて調べて欲しい事があるんですが」

「神木君のことって……」

 

 ももこはわずかに焦った様子で、

 

「鞠亜君のことはいいのかい?」

「そっちは俺とイースにどうにかします。それより、先生には裏付けをとって欲しいんです」

「裏付け?」

「はい」

 

 もはや扇田和尚の調査報告を待っている時間はない。知りたい事実は一つ。

 

「神木真璃亞さんが生まれつきの『妖精の眼』保有者だったかどうか、調べてほしいんです」

 

 

 事件の鍵は、きっとそこにある。

 

 

 

 

 

 

 

 Ⅴ

 

 

 

 

 

 

 いったい自分はどうなってしまうのだろうか?

 

 ベッドの上で膝を抱えながら、瀬阿鞠亜はそればかりを考えていた。

 

 照明代わりに灯されたランプの炎が、壁や床に影を作り出す。揺らめく炎によって生み出されたそれは、同じくゆらゆらと蠢いていた。まるでこちらを誘っているかのように。

 

 鞠亜は自分の肩を抱きしめる。

 

「真璃亞姉さん……」

 

 ふと鞠亜の脳裏に、かつて見た姉の姿が思いうかんだ。姉の寂しげな目が、今でも瞼の裏に焼き付いている。

 

 幼い頃の鞠亜は、常に従姉と一緒にいた。一人っ子であった自分にとって、始めて出来た姉貴分だということもある。しかし鞠亜が姉について回っていたのは、何もお姉ちゃんが欲しかったためだけではない。

 

(私は……真璃亞姉さんに笑って欲しかった……)

 

 姉の笑顔を、鞠亜はほとんど見たことがなかった。もし見れたとしても、それは疲れと諦めが同居した微笑だけだ。心から喜んでいるという笑みを見たことは一度もない。

 

 だからこそ鞠亜は姉につきまとっていた。幼心に姉を救いたいと思ったのだ。その寂しさから。

 

 しかしそれが叶うことはなく、姉は自分の前から姿を消した。忽然と。

 

 

「そして私が姉さんになる……ね……」

 

 

 鞠亜は身体を震わせる。久々津真彦の言葉が幻聴となって響いた。

 

 

 ――貴方は真璃亞となるのですよ。僕の真璃亞へとね。

 

 

 以前であれば狂人の戯言と気にもとめなかっただろう。しかし今の鞠亜はそうではなかった。

 

 その原因となったのは一人の青年だった。

 

 

「織斗さん……緋瑞織斗……」

 

 

 脳裏に浮かぶ姉の姿と青年の姿が、なぜかダブって見える。

 

 ふと鞠亜はあることに気付いた。

 

 

「織斗さんも……姉さんと同じ目をしてたわね……」

 

 

 今更ながら鞠亜はそのことに気付く。織斗の目には、姉と同じような色があった。この世界に自分の居場所などないと諦めながら、それでも縋りたいという複雑な感情の色が。

 

(全然違う二人なのに、そんなところは一緒だなんてね)

 

 鞠亜はクスリと笑った。

 

 そう言えばもう一つ、織斗と姉に共通するところがあった。他人を寄せ付けようとしないところだ。二人とも他人が自分に関わろうとするのを避けようと――

 

「……もしかして」鞠亜ははたと気付いた。「織斗さんは、私を遠ざけようとしてるのかしら?」

 

 その時、部屋にガチャリ、という作動音が木霊した。

 

 鞠亜は身をすくめる。ドアの方から聞こえたその音は、間違いなく鍵が開けられる音だったからだ。

 

 

(またあいつが……)

 

 

 全身を強ばらせながら、鞠亜はドアを穴が空くほど見つめた。しかし一分すぎても二分すぎてもドアが開く気配はない。

 

 鞠亜は音を立てないようにベッドから降りると、そろそろとドアに近づいた。ドアノブをつかむ。

 

 ゴクリ、と喉が鳴る。鞠亜は意を決するとドアノブをひねった。

 

 

「…………うそ」

 

 

 ドアはあっけなく開いた。

 

 

 

 

 

 

 同じ頃。

 

 豪奢なリビングで、久々津真彦は優雅にワインを傾けていた。前夜祭のつもりだった。真璃亞が蘇る記念すべき日の前夜なのだ。祝わずにはいられない。木製のテーブルの上には、氷の入ったワインクーラーともう一つのグラスが置かれていた。

 

「もうすぐですよ、マリア」

 

 右腕に抱いた人形の頭に口づけを落とす。

 

 すでに窓の外は暗闇に包まれ、町を陰鬱な気配が包み込んでいた。誰も彼もが息を潜め、こちらを畏怖しているかのようだ。優越感が真彦を支配する。

 

 その時、ふと真彦の視界で揺れるものがあった。窓の向こうで何かが動いたのだ。

 

 

「鳥? いや……」

 

 

 真彦は目を凝らす。すぐに彼は自分の間違いに気付いた。窓の外に何かがいるのではなく、窓に映った光景の中にある何かが動いたのだ。ちなみに窓には、リビングとリビングにつながる廊下が映っていた。廊下の途中には瀬阿鞠亜を監禁している部屋がある。

 

「もしや……」

 

 真彦は壊れたブリキ人形のように振り返る。

 

 

 瀬阿鞠亜を閉じこめていたはずの部屋のドアが、なぜが開いていた。

 

 

 

 

 

 

 Ⅶ

 

 

 

 

 

 

 日の入りを過ぎてから、雨脚は徐々に弱くなっていた。七時を回り、今は霧雨と化している。霞がかった町並みは、不鮮明な印象を織斗に与えた。湿度は相変わらず高く、潮風と相まって生臭い。

 

「ここもハズレか」

 

 高級マンションを後にするなり、織斗は苛立たしげに言った。

 

 鞠亜を探すために彼がとった行動は、不動産屋とマンションに片っ端から聞き込みをすることだった。もちろん鞠亜の家の周辺物件を中心にだ。木多翔子の証言から、相手の家が見える場所に久々津真彦が居を構えている可能性が高いことが分かっている。その事を見越した織斗は、ももこから借りた職員写真――最近とったもので久々津真彦はおろか校医であるももこまで映っていた――を片手に、聞き込みを行っていた。

 

 もっとも成果はいまいちだったが。

 

「これで鞠亜の家の周辺にあるマンションは全部ハズレか」

 

 住宅地図にバツ印を付けてゆく。

 鞠亜の家は、閑静な高級住宅街の中にある。その周辺にあるマンションとなるとたいした数ではない。だからこそ織斗はすんなりと見つかると踏んでいた。

 

 しかし予想に反して、鞠亜家の周囲にあるマンションは全てハズレだった。

 

「まさか一軒家じゃないだろうな……」

 

 もしそうだとしたら、候補場所は数百以上に膨れあがることにある。とてもではないが自分一人見付けることは出来ない。

 

「織斗よ、本当にあの小娘の家はこの周辺にあるのじゃな?」

 

 雨に濡れないように織斗の胸元に入り込んでいたイースが、首だけ出して織斗に聞いた。

 

「他にあの小娘が生活している場はないのじゃな?」

「別荘とかって意味か?」

「多くの時間を過ごす場所という意味じゃ。ストーカーという人種の心理はよく分からぬが、他者に執着する者は、その者と同じ時を過ごしたがるものじゃ。同じ空気を吸い、同じ土地にあることを好む」

「同じ時間……」

 

 織斗の中で雷光がほとばしった。なぜこんな簡単なことに気付かなかったのかと、己を罵倒する。つい数ヶ月前まで自分もそうだったではないか。家で過ごすより多くの時間をそこで過ごしていた。

 

「学校か!」

 

 織斗は住宅地図を見た。稲峰市の中心部から逸れた山側に、県立稲峰高校が建っている。

 そのすぐ脇には、最近出来たばかりという高級マンションがあった。

 

「行こう!」

 

 イースが胸元に潜り込んだのを確認し、織斗は走り出した。

 

 

 

 

 

 

 Ⅷ

 

 

 

 

 

 

 真彦の部屋から脱出することに成功した鞠亜は、すぐさま隣の部屋のドアを力の限り叩いた。助けを求めようとしたのだ。状況から考えて、自分が被害者と見なされることは間違いない。すぐに警察を呼んでくれるだろう。

 

 しかし彼女の予想とは裏腹に、隣はおろか周囲の部屋全てが空室だった。どうやら出来たばかりのマンションのため、まったく入居者がいないらしい。ドアもすべてロックされていて、隠れることの出来る場所もなかった。

 

「こうなったら、ここを出るしか……」

 

 そこで彼女の耳に、悲哀と憤怒が入り交じった気色の悪い声が届いた。

 

 

「真璃亞あぁ……僕の真璃亞ぁ!」

 

「ッ!」

 

 

 鞠亜はとっさに柱の影に身を隠した。心臓が早鐘を打つ。

 

 そっと顔を覗かせると、廊下の真ん中で仁王立ちになり、凄まじい形相で周囲を見回す久々津真彦の姿が見えた。その右手にはアイスピックのようなものが握られている。

 

 真彦はしばし周囲を見回した後、鞠亜が隠れている方とは反対の方に走っていった。どうやら向こうにエレベーターホールがあるらしい。

 

 鞠亜は大きく胸をなで下ろす。しかし安心は出来ない。

 

 幸いなことに、すぐ側に非常階段に繋がる扉があった。取っ手にあったカバーを壊して鍵を開けると、すばやくドアの隙間に身を滑り込ませる。非常灯に照らし出された階段が、どこまでも下に伸びていた。

 

 壁に書かれた番号は『25』。ここは25階のようだ。

 

(早く脱出しないと!)

 

 もし真彦が壊された非常口の鍵のカバーに気付けば、すぐに後を追ってくるだろう。時間はあまりない。

 

 まるで出来の悪いホラーゲームだと頭の片隅で思いながら、鞠亜は非常階段をひたすら下った。真彦によって着替えさせられたゴシックドレスのスカートが翻る。足下を固めるのが編み上げのハイヒールブーツであるため、とにかく走り辛い。一瞬、脱ぐべきかと考えた鞠亜だったが、しかしすぐにその考えを否定した。編み上げのロングブーツは脱ぐだけで相当な時間をロスする。

 

 残り十四階。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 顎が上がり、胸が引きつる。

 

 時々鞠亜の耳に、カツカツという足音が聞こえてくることがあった。それが自分のものなのか、追っ手のものなのか、はたまた幻聴なのか、鞠亜には分からなかった。怖くて振り返ることすら出来ない。

 

 

 残り五階。

 

 

 ようやく階段の終わりが見える。一階にたどり着いた鞠亜は、すがりつくように非常階段の扉に飛び付いた。恐怖に身を震わせながら再び鍵のカバーを壊し、ドアを開く。

 

 目の前に広がっていたのは、モダンな作りのエントランスホールだった。

 

 追っ手の姿はない。

 

 

「よかった……」

 

 崩れ落ちそうになる身体を支え、鞠亜はエントランスに歩み出た。エレベーター脇にあった緑色の公衆電話に駆け寄る。携帯電話ばかりで普段は公衆電話など使わない鞠亜だが、この時ばかりは公衆電話のありがたみをかみしめた。

 

 鞠亜は受話器を上げると、すぐさま正面にある赤いボタンを押した。次いで110をプッシュ。すぐに警察の情報センターとつながる。

 

『はい、110番です』

「あ、あの……」

 

 

 変質者に監禁されていたんです。そう言おうとして、しかし鞠亜は口をつぐんだ。

 

 エレベーターが動いていた。始め『25』と表示されていた電光板の数字が切り替わってゆく。鞠亜のいる『1』に向かって。

 

『もしもし?』オペレーターの怪訝そうな声。『もしもし? 悪戯なら……』

 

「…………」

 

 

 電話を耳に当てたまま、鞠亜は硬直する。まもなくポーンという電子音が鳴り、エレベーターが目的階に付いたことを知らせてきた。左右のドアがゆっくりと開く。

 

 

 エレベーターには、誰も乗っていなかった。

 

 

「はぁ……」

 

 鞠亜は堪えていた息をはき出した。再び電話に向き直る。

 

 その瞬間だった。

 

 

 

「真璃亞ああぁぁぁ!」

 

 

 バァン! と勢いよく非常階段の扉が開く。

 

 右手にアイスピックを握り、左腕にビスクドールを抱えた久々津真彦が、鞠亜めがけて突進してきた。

 

 

 

「ひっ!」

 

 

 受話器を放り投げ、鞠亜は身を翻す。

 

 生温かい霧雨の舞う夜闇の中へ、少女は飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

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