恐怖狩人 ~クトゥルフ神話ガチ勢が恐怖小説を書いてみた~ 作:セラニアン
Ⅰ
N県立稲峰高校は、稲峰市の中心部から南に三キロほどずれた場所にある。駅から遠いために電車通学には向いていなく、他市からやってくる生徒は少ない。生徒の八割が地元生だ。学校の南には八面山がそびえ、山と学校の間は住宅街となっている。
稲峰オリエント・マンションは、その住宅街の一角、学校と目と鼻の先にあった。
「この人で間違いないんですね!」
学校のそばにある不動産屋の店舗内から、織斗の声が響く。
気弱そうな男性――この不動産屋の店主らしい――は、織斗の勢いに完全に押されていた。
「は、はい」織斗の掲げる集合写真の隅を指さすと、「たしかにこの方が入居なさっております」
店主が指さしたのは、アルカイックな笑みを浮かべる男性だった。
「実はこのマンションの入居開始は来月からだったのですが、この方がどうしてもとおっしゃりましたので……」
「早く入居したと?」
「はい。本来ならば受け付けないところなのですが、口添えもありましたし、稲峰高校の関係者ということでしたので例外的に。なので今は、入居されているのはこの方だけになります」
「マジか……」
織斗は額を押さえる。最悪だった。
「あの、この方がどうか…………ちょ! あの!」
店主の問いには答えず、織斗は集合写真を懐にしまうなり身を翻した。
「……間に合えよ」
織斗の鞠亜捜索が大詰めを迎えているその頃、別件調査を命じられたももこは稲峰市に隣接する隣の市に来ていた。神木真璃亞の中学生の時の担任が、ここに住んでいると聞いたからだ。
首尾良くその元担任教師と会うことの出来たももこは、いくつかの証言を得ることに成功した。
「夜分遅くにお手数をかけました」
郊外にある一軒家を辞したももこは、路地に停めておいたパジェロミニに乗り込んだ。
ルームライトを付け、今し方聞いた内容をメモ帳に記す。
「やっぱ神木君は、中学生の時から不思議少女だったみたいだねえ……」
元担任の話に寄れば、神木真璃亞はクラスでも相当浮いた存在だったらしい。人付き合いが下手というわけではなく、自ら人を遠ざけようとしていたとのことだ。また虚空や物陰に目を向けては、恐怖に身を震わせていたこともあるらしい。
「これで中学校の時までは溯れたわけだけど……」
問題はその先だった。神木真璃亞が神木家の養子になったのは十二歳の時。中学と高校は稲峰市内だったので問題なく調べられたが、十二歳以前となるとなかなかに難しい。神木真璃亞の養父母――つまり鞠亜の叔父叔母――に話が聞ければ良かったのだが、二人とも五年前に海外に引っ越し、連絡ができない状況らしい。どうやら義娘の失踪がよほど堪えたようだ。残念ながら当てには出来ない。
そうなると頼れるのは一つ。神木真璃亞が十二歳までいたという孤児院のみ。
「こうなったら、とことんやるっきゃないか」
ももこは手帳の隅に書かれた『国ノ森養護院』という名前を見つめた。幸いなことに、元担任の教師が孤児院の名を覚えていたのだ。詳細な住所までは分からないが、何県の何市にあるかまでは分かっている。
「今から出発すれば、明日の朝には着けるかな?」
眠気が心配だが、どうにかなるだろう。三時間ほど仮眠したとしても、朝の七時には到着できる計算だ。
「さて、行きますか!」
威勢良くキーを回す。眠気覚ましの為に買ったハッカ味の禁煙用パイプを咥えると、ももこはアクセルを踏み込んだ。
Ⅱ
人間を始めとした動物は、パニック状態になると不可解な行動をとることがある。例えば危険が目の前に迫っているのに毛繕いをしたりと、いつも通りの行動をとったりする。それは得てしてパニック状態からの回復を目的に行われる本能的な行動なのだが、場合によってはそれがクリティカルなミスに繋がることがある。
瀬阿鞠亜のとった行動も、場合によっては致命的と断じられるものだった。
マンションから飛び出した鞠亜は、とにかく追っ手から逃げることを第一とした。力のない牝鹿が狩人から逃げおおせるためには、障害物が多く、身を隠すことの出来る場所に逃げ込むしかない。それが自分の見知ったテリトリーであればなおさらだ。その方が生存の確率は大幅にアップするに違いない。
そう判断した鞠亜が逃げ込んだのは、マンションのすぐ目の前にあった稲峰高校だった。
生徒だけが知っている秘密の抜け穴――単にフェンスに開いた大穴だが――をくぐり抜け、鞠亜は学校の敷地内に入り込んだ。
振り返ると、フェンスをよじ登ろうとする久々津真彦の姿が見える。
「どうして逃げるんだ!」真彦は叫ぶ。「真璃亞ぁ!」
狂気じみた怒声に、鞠亜はビクリと肩をふるわせた。脱兎のごとく逃げる。
運動場を横切り、正面玄関へ。
玄関の鍵は、当然ながらしっかりとかけられていた。
「どうしたら……」
鞠亜は隠れる場所を探し、周囲を見渡した。玄関前には模擬店の屋台を造るためのダンボールや木材が散らばっていたが、身を隠せそうな場所はない。
(こうなったら!)
迫り来る驚異を感じ取り、鞠亜は覚悟を決めた。手頃な木材を握りしめると、玄関のガラス扉に向かって思い切り叩き付ける。飛び散った破片が手足をわずかに傷つけるが、そんなことを気にしている場合ではない。
割れたガラスの間から手を差し込み、鍵を開ける。鞠亜が校舎内に転がり込んだのと、追いすがって真彦がアイスピックを振り抜いたのは同時だった。
「真璃亞あぁ! 僕の真璃亞あぁぁ!」
「ッ!」
ほとんど這うようにして凶刃を避ける。
真彦の凶刃から運良く逃れることに成功した鞠亜だったが、しかし彼女の強運もそこまでだった。
下駄箱が並ぶ昇降口を通り抜け、階段を駆け上がろうとしたところで、ついに真彦の腕が鞠亜の後ろ髪をとらえた。
「捕まえたよ、真璃亞ぁ!」
「きゃあ!」
髪の毛を強引に引かれ、鞠亜はそのまま後ろ向きに倒れた。背中を廊下に打ち付ける。衝撃に息をすることも出来ず、意識が朦朧とする。
数秒後、意識を取り戻した鞠亜が目にしたのは、自分の上にのし掛かる狂人の姿だった。窓から差し込む月光に照らされた横顔は、醜悪な化け物のようだ。
「ひっ!」
「くく、いけない子だね、真璃亞」
アイスピックを右手に握り、ビスクドールを左腕に抱えた真彦は、じいっと鞠亜を見下ろしていた。その表情には愉悦と憤怒の両方の感情がある。
「お仕置きが必要だね」
アイスピックの先端で鞠亜のうなじを撫でる。
「本当は君を傷つけたくはないんだよ、真璃亞。でも君が悪いんだ。僕から逃げようとするなんて。だからお仕置きしよう。大丈夫、傷なんてすぐに直せるんだろう? そう言ったのは真璃亞、君だからね。僕は君を信じるよ」
アイスピックがゆっくりと振り上げられる。その切っ先を、鞠亜は現実感のないものとして見つめていた。
ふと鞠亜の脳裏に、かつての光景が蘇る。
真彦の姿に別の人間の姿が被さった。姉の姿だ。
右目がズキリとうずいたかと思うと、鞠亜の視界に不可思議なものが飛び込んできた。蠢く紅茶色の糸のようなものだ。その糸を辿ってゆくと、真彦が抱えるビスクドールの髪の毛に行き着く。
鞠亜にはなぜか、そのビスクドールが自分を見つめているように感じられた。
「真璃亞姉さん……」
ゆっくりと振り下ろされるアイスピックを、鞠亜はジッと見つめていた。全てがスローモーションとなる中、ふいに鞠亜の耳朶を、にゃあ、という愛らしい猫の鳴き声が叩いた。
猫の鳴き声?
「ふむ、織斗にも押し倒すくらいの強引さが欲しいものじゃな」
突如、すぐ側からやれやれとした声が響いた。
「わらわはいつでも歓迎じゃというに」
「……ッ!」
真彦は弾かれたように真横を向き、そして唖然とした。
「猫?」
真彦は一瞬、我を忘れた。忽然と姿を現した白猫が、呆れたようにこちらを眺めていたのだから当然だろう。
そしてその一瞬が勝敗を分けることになる。
次の瞬間、全速力で駆け寄ってきた織斗が、その手に持った角材を大きく振りかぶった。
「この、変態がっ!」
角材に横っ面を思い切り殴られ、狂人の身体が宙を舞った。
時をわずかにさかのぼる。
学校のフェンスを横目に、織斗は件のマンションを目指して走っていた。焦燥が思考を焦がし、握りしめたこぶしに力がこもる。
織斗は心の底から後悔していた。鞠亜から目を離したことを。もし鞠亜のそばに自分がいれば、こんなことにはならなかったはずなのに。
(俺はいつもそうだ!)
大切な妹の時もそうだった。梢ちゃんの時もそうだ。自分の大切な人が傷つき、そしていなくなってゆく。
(くそ……)
耳元を、生臭い風のうねりが通り過ぎてゆく。高層マンションが目に入る。
そこでふいに、織斗のこめかみの傷跡に違和感が走った。ごくごくわずかな、普通であれば気にもとめないような小さな幻痛。
しかし織斗は、その違和感がとても大切なものに思えた。
刹那、織斗の視界の端に『あるもの』が映り込む。
「あれは……?」
次の瞬間には、織斗は進路を急転換させていた。イースが驚愕の声を発するが完全に無視する。
織斗の向かった先は、稲峰高校の裏門だった。幅二メートルほどの狭い通用門は、頼りない鉄柵によって閉ざされている。
「乗り越えるぞ、イース!」
勢いに任せ、鉄柵をよじ登る。
乗り越える瞬間、織斗はわずかに肩越しに振り返ると、
「……どういうことだ?」
そして時は邂逅へと進む。
Ⅲ
「大丈夫か!」
角材を放り出しながら駆け寄ってくる織斗を見た瞬間、鞠亜の中で張りつめていた緊張の糸がぷっつりを切れた。身を起こすなり織斗の胸元に抱きつく。
雨に打たれたせいだろうか。妙に冷たい織斗の身体が、鞠亜には堪らなく頼もしく思えた。
「……怖かった」
「お、おい!」
織斗はわずかに慌てたが、鞠亜の身体が震えていることに気付くと、
「……まったく」頭をかきむしり、「よくがんばったな」
鞠亜の背中をポンポンと優しく叩く。
「睦事はその辺にせんか」
しばらくした後、白猫が口を開いた。わずかに不機嫌そうに、
「織斗よ、これを見るのじゃ」
白猫が指し示したのは、廊下に転がったビスクドールだった。
名残惜しそうな鞠亜から身を離すと、織斗は人形に歩み寄った。緩いウェーブのかかった紅茶色の髪を見つめる。
「この髪は……」
「間違いなく死髪じゃな」イースはヒゲをそよがせる。「しかも、わずかじゃが霊気を放っておる」
織斗はポーチから小型の電磁波測定器を取り出すと、人形の髪に向けた。反応値が陽性を示している。
「鞠亜、この髪は神木真璃亞さんのものだと思うか?」
「……ええ、たぶん」
鞠亜は小さくうなずくと、
「久々津先生もそう言っていたし、姉さんの髪で間違いないと思うわ」
「当たりってわけか」
神木真璃亞の残留思念体が宿っているのは、この髪で間違いない。
そう判断を下した織斗は、即座に行動を起こした。腰のポーチからA4サイズほどの布を取り出すと、人形の側に広げる。布の表面には、大きな三角形とミミズがのたくったような文字が描かれていた。
「織斗さん、それは?」
「高野山の僧侶に頼んで描いて貰った簡易の調伏壇……浄化用儀式陣だね。布には硫黄と赤リンがたっぷり塗り込んであるから、良く燃えるんだ」
「ただ燃やすだけじゃダメなの?」
「この国ではダメじゃな」
イースによれば、もし日本が完全な仏教信仰地であればそれでもよかったらしい。仏教において、炎は破邪覆滅の象徴である不動明王の化身とされているからだ。燃やすだけで自動的に浄化作用が働く。
しかし日本には仏教と同時に神道が深く根付いている。確かに神道においても炎は退魔の意味を持つが、それと同時にあやかしを生み出し、引き寄せるという象徴性も兼ね備えている。故に燃やすだけでは不十分らしい。
「本当ならば、この国の寺院か神社で炊き上げて貰った方が効果的なんじゃがな」とイース。「とはいえ今回は手間も時間も惜しいからの。簡易的な浄化法じゃが、思念体を滅するだけならばこれで十分じゃろう」
人形を布で来るんだ織斗は、危険物を扱うように持ち上げた。
「これでいいかな。後は校庭かどこかで燃やせば……」
その時、再び織斗のこめかみに違和感が走った。
鞠亜の背後に人影が見える。額から血を流し、アイスピックを振り上げた人影が。
「真璃亞ぁ!」鋭利な棘が鞠亜に迫る。「真璃亞は、僕の真璃亞なんだぁ!」
「くそっ!」
織斗は人形を投げ捨てると、力の限り床を蹴り飛ばした。集中力によって知覚が限界まで引き延ばされ、すべてがスローモーションになる。
(間に合え!)
必死に腕を伸ばす。鞠亜とアイスピックとの間はわずかに数十センチ。
間に合うか、否か。
アイスピックが鞠亜を傷つけようとする寸前に、織斗の腕が鞠亜にたどり着いた。そのままの勢いで斜め横に突き飛ばす。
入れ替わるように前に出た織斗の左胸を、アイスピックが深々と穿った。
「織斗さん!」
仰向けに倒れた青年を見て、鞠亜が悲鳴を上げる。
対して久々津真彦はというと、アイスピックを握りしめたまま歪んだ笑みを浮かべていた。
(はは……や、やった……)
真彦の心に何とも言えない達成感が広がってゆく。予定とは少し違うが、自分から真璃亞を奪おうとした悪漢に天罰を下すことが出来たのだ。アイスピックが穿ったのは間違なく左胸。悪漢の運命は死に固定された。まさに天罰だ。
後は真璃亞となる少女に仕置きを加えるだけだった。心苦しいがやらねばならない。大丈夫。例えどれだけ傷を負ったとしても、真璃亞が復活すればすぐに元通りになる。真璃亞本人がそう教えてくれたのだから間違いない。
(わ、悪い子には……お仕置きを……)
ニタァとした笑みを浮かべ、真彦は獲物を捕らえるべく歩を進める。
しかしその矢先、真彦は奇妙な事に気付いた。
自分の手に握られたアイスピックに、全くと言っていいほど血が付いていなかった。
「一つ言っておこうかの」
ふいに響く少女の声。そこには隠しきれない愉悦があった。
「たかだか心の臓を貫いた程度では、織斗を止めることは出来ぬぞ」
「……そういうことだな」
真横から心底不機嫌そうな声が響く。
果たしてそこに佇んでいたのは、倒れていたはずの青年だった。その手には今一度、角材が握りしめられていた。
「今度は手加減はなしだからな」
後頭部を思い切り角材で殴られ、今度こそ真彦は崩れ落ちる。
意識が途切れる寸前に彼が見たのは、布の隙間からこちらを見つめるビスクドールの瞳だった。
Ⅳ
「戯け者め。弛んでおるぞ」
「反省してるよ……」
久々津真彦を近くに転がっていた丈夫なクラフトテープで縛りながら、織斗は不機嫌そうにそう返した。両手両足を拘束した真彦を適当に転がすと、白猫を半眼で睨み付ける。
「……でも、イース。お前、こいつが起きてるのを知ってて黙ってただろ?」
「気付かぬお主が悪い」
「まあ、そうだけどさ……」
織斗は穴の開いたジャケットを見下ろし、
「……さすがに結構きたよ」
痛みに耐えるように顔をしかめながら、人形の入った布包みを拾い上げる。
そこで織斗は、廊下にぺたりと座り込んだ鞠亜が、まるで幽霊でも見るかのように自分のほうを見つめていることに気付いた。
「お、織斗さん……」鞠亜は声を震わせながら、「大丈夫なの……?」
「……まあな」
「だってそんな……胸を刺されたはずなのに……」
「……」
織斗は歯切れが悪そうに、
「……ちょっとした裏技があってな」
鞠亜に手を貸し、立ち上がらせる。ぐったりとした真彦を一瞥すると、次いで手元にある布包みを見下ろした。
「さっさと処理したほうがいいだろうな」
「じゃな」とイース。「仕方があるまい。この男はわらわが見ておる。織斗よ、お主はその人形を焼いてくるのじゃ」
「ああ」
「わ、私も行くわ!」
鞠亜を引き連れ、織斗は元来た道を戻った。散乱したガラス片を踏み越え、校舎の外へ出る。
いつの間にか、降りしきっていた霧雨があがっていた。
「おあつらえむきだな」
玄関前のコンクリートに人形を置くと、織斗はポケットからオイルライターを取り出した。火打ち金を擦ろうとしたところで、ふいに左腕に温かなぬくもりを感じる。
「ねえ、織斗さん……」鞠亜は目を伏せながら、「この人形の髪に、真璃亞姉さんの思念が宿ってるのね?」
「……ああ、たぶんな」
「これでもう、この事件は終わるの?」
「……と思う」
「そう……」
鞠亜は沈黙する。しばしの後、彼女は意を決したように顔を上げた。
「……私にやらせて」
何をやるのか、分からない織斗ではなかった。
「いいのか?」
織斗はわずかに驚いたように鞠亜を見る。
彼女は小さく頷き、
「けじめみたいなものだから……」
「そうか……」
それ以上は何も言わず、オイルライターを鞠亜に手渡す。
鞠亜はライターの蓋を開けると、迷いを振り払うかのように勢いよく火打ち金を擦った。オレンジ色の炎が点る。その炎は、どこか温かだった。
「…………」
聖火を灯す巫女のように、鞠亜はそっと緑色の布に炎を移した。数秒足らずで布全体に燃え広がった炎は、紅茶色の髪を灰へと変えてゆく。容赦が無く、慈悲深い。それが炎だった。
「さようなら……真璃亞姉さん……」
立ち上った白い煙が、雲間の切れ目へと吸い込まれてゆく。
一筋の涙を零しながら、少女はその煙をいつまでも見つめていた。
Ⅴ
人が殺人を犯したとき、もっとも困るのは死体の処理であるという。肉屋で六〇キログラムの骨付き肉を買ったと思えばわかりやすい。通常のパック入りステーキ肉が一枚一五〇グラム程度なので、六〇キロの肉がいかに膨大か分かるだろう。冷蔵庫には入りきらず、さりとて食べきれる量でもない。捨てようにもかさばってしかたがない。途方に暮れ、警察に自首する犯人の気持ちも分からなくはないだろう。
そんな犯人と同様、久々津真彦の扱いに困った織斗たちが最終的に頼ったのは警察だった。もちろん器物破損を含めた全ての罪を真彦に着せて。自分たちは善良な一般人であり、哀れな被害者であることをしっかりとアピールしておいた。
「でも織斗さん……」
鞠亜は、パトカーで溢れた校庭を微妙な表情で眺めながら、
「本当に警察で大丈夫なの?」
当然だが、警察にオカルトうんぬんの話をしても聞いてもらえるとは思えない。
しかし織斗は特に気にした様子もなく、
「その辺は大丈夫だ。死んだ父さんの知り合いに、公安にも顔が利くお偉いさんがいてね。あんまり借りは作りたくないんだけど、その人にお願いしておいたんだ。二度と刑務所から出てこれないようにしてくれるはずだよ」
そうこうしている間に気絶した真彦が運び出され、簡単な事情聴取が終わる。疲れていた鞠亜と織斗は後日警察署に出頭することを約束し、その場を後にした。
ももこから適当に使っていいと言われている診療所に戻るなり、織斗は待合室のソファにどっかりと座り込んだ。右隣に白猫が、左隣に鞠亜が腰を下ろす。
「織斗さん……」
鞠亜はわずかに織斗に身を寄せながら、
「その……助けてくれてありがとう。もし織斗さんが来てくれなかったら、私……」
最悪の想像が脳裏をよぎり、鞠亜は身を震わせる。
そこでふと、鞠亜の肩に重みが加わった。左腕を伸ばした織斗が、無言のまま鞠亜の肩を抱いていた。
「忘れたほうがいい」
織斗は言葉を選ぶように、
「質の悪い夢だったんだ」
「そうね……」
鞠亜は苦笑する。半日前には分からなかった織斗の気遣いが、今ははっきりと理解することが出来た。
「ありがとう……」
織斗の方にそっと体重をかける。
そこで片方しかない鞠亜の瞳が、穴の開いたジャケットをとらえた。
「そういえば胸、本当に大丈夫なの?」
「ん? ああ、これか……」
織斗は自分の胸元を見下ろしながら、
「このジャケットは特注でね」
その言葉で鞠亜はようやく合点がいった。おそらく織斗の着ているジャケットは防刃素材か何かで出来ているに違いない。それならアイスピックで刺されても――
(あれ? でも、それならなんでジャケットに穴が?)
「それより」織斗の声が鞠亜の思考を遮る。「そっちは怪我はないのか?」
「ええ、少し足が痛いくらいだから」
編み上げのブーツはすでに脱いだ。もっともゴシックドレスはそのままだったが。
「なら良いけど……」織斗はわずかに目をそらし、「……無理はよくないぞ」
「こっちの台詞よ」
そこで鞠亜の身を睡魔が襲ってきた。織斗に寄りかかりながら、
「ねえ、織斗さん……」
鞠亜自身も信じられないくらい甘い声だった。
「事件が解決したなら、帰ってしまうの?」
「……ああ」
「いつ?」
「すぐにでも」
織斗は淡々と、
「事件が終わったんなら、ここに留まる理由はないから」
「……私が、もう少しここにいて欲しいって言っても?」
鞠亜は自分が無茶なことを言っていると分かっていた。
織斗はあくまでも異邦人だ。怪奇事件が起こったからこそ稲峰市にやって来たわけで、その事件が終われば去る。それが自然な流れだ。
しかし鞠亜は、織斗から離れたくないと思っていた。織斗に対し、特別な感情を抱き始めているということもある。だが、鞠亜が織斗から離れたくないと思う理由はそれだけではなかった。心配なのだ。このような怪事件を追う織斗のことが。
(貴方は、どうしてこんなことをしているの?)
鞠亜はそう問いかけようとし、しかし口を開くことはなかった。これを聞けば、織斗は今すぐにでも自分の前からいなくなってしまう。理由はないがそう思った。
故に鞠亜は別の言葉を紡いだ。
「……実は……今度の土曜日に学校祭があるの」
「…………」
「こんな事件の後だから、本当に出来るかは分からないのだけど……」
徐々に瞼が下がってゆく。もっと織斗の横顔を見ていたいと思ったが、身体は忌々しいほどに正直だった。
「もし出来たなら……私と一緒に……」
鞠亜の意識は、そこでぷっつりと途切れた。
「いじましい女心じゃのう」
面白半分、皮肉半分でそう曰うイースに、織斗は憮然とした声で返した。
「……吊り橋効果だよ」
「やれやれ、気の迷いと断じるか。さすがにこの小娘が憐れに思えてくるのう」
お主はもう少し女心というものを学ぶべきじゃな、とイースはぼやく。
「それはそうと、心臓を貫かれた感想はどうじゃ?」
「……前にショットガンで撃たれたときに比べればマシだよ」
織斗は左胸を押さえた。痛みを堪えるように顔をしかめる。
「まだ何か刺さってるみたいだ。痛いというより響く」
「やむを得まい。まだ修復中なのじゃからな。三日ほどは我慢するしかあるまい。なんなら痛覚遮断をしてやるぞ?」
「……やめとくよ」
「ふふ、強情なやつじゃな」イースは笑みを浮かべる。「まあ、お主の気もわからんではないがな。痛みを感じなくなったら、それこそ本当の化け物じゃ。いくらお主とて、さすがにその域には達したくあるまい?」
「……」
織斗はそっぽを向く。
しばしクスクスと笑った後、イースはソファから降り立った。診察室へと繋がるドアに向かう。
「どこ行くんだよ、イース?」
「隣じゃよ」
白猫の姿に一瞬ノイズがかかったかと思うと、次の瞬間にはイースは少女の姿に戻っていた。
「わらわも女子じゃからな。さすがに懸想する男が他の女子と睦み合っているのを目にするのは心が痛むのじゃ」
「……思ってもないことを」
「酷いのう。本音じゃというのに」
その割にイースの目は笑っていた。
「ではな、織斗。あまり激しくするでないぞ」
「さっさと寝るよ。明日は朝一でここを出る」織斗は鞠亜を一瞥する。「彼女が起きないうちにね」
「やれやれ、別れの挨拶もなしか。小娘がかわいそうじゃのう」
クスクスと笑いながら、イースは待合室を後にする。
沈黙が流れる。
鞠亜の穏やかな寝息を聞きながら、織斗はひっそりとつぶやいた。
「……俺みたいなのとは、関わらないほうがいいんだ」
たった一度だけ鞠亜の髪を撫でると、織斗も目を閉じる。
夜が穏やかに更けていった。
Ⅵ
翌朝。鞠亜はジリリリリという古めかしい電話のベルの音で目を覚ました。窓から差し込む陽光が暖かい。ソファで横たわる鞠亜の身体には、毛布がかぶせられていた。
「ここは……」
鞠亜は周囲を見渡した。すぐにももこの診療所の待合室であることに気付く。壁に掛かった時計は、すでに午前十時を示していた。自分の他に人の気配はない。
(あれ……私はどうして……)
数十秒後、鞠亜はようやく昨夜の出来事を思い出した。同時に自分の隣にいたはずの織斗がいないことにも気付く。
「っ! 織斗さん!」
鞠亜は飛び起きると、すぐさま診療所内を駆け回った。医務室、台所、庭、ももこの私室――どこにも織斗の姿はない。
「もしかして、もう……」
悲しみと同時に、ふつふつと怒りがわき上がる。なんて男だろうか。別れの挨拶もなしに出て行くなんて。
「覚えてなさい……!」
鞠亜は肩を怒らせながら、鳴りっぱなしになっている電話機に歩み寄った。
同時刻。H県某所。
高速道路のサービスエリアで一夜を明かしたももこは、予定よりも二時間ほど遅れて目的の町に到着した。十分ほどの聞き込みと電話帳検索によって件の孤児院の住所を突き止めると、すぐさま現地に向かう。のどかな田園風景を横目に二十分ほど車を走らせたところで、問題の養護施設を発見した。
(ここが国ノ森養護院か……)
保育園のような外観の施設を眺めていたももこだったが、ふと思い出したように携帯電話をとりだした。現状報告をすべく織斗に電話をかけるが、話し中らしく繋がらない。ダメ元で診療所に電話してみると、なんと相手が出る。
驚いたことに電話に出たのは、誘拐されたはずの鞠亜だった。
「あ、鞠亜! 助かったのかい!」
『ええ、まあ』
その声はひどく不機嫌そうだった。
「ど、どしたんだい?」ももこは小首をかしげながら、「そんな怒った声で?」
『どうもこうも……』
織斗に対する辛辣な言葉を並べ立てながら、鞠亜は昨夜の出来事を説明した。
「へ? 事件解決?」
ももこは素っ頓狂な声を上げた。調査の為にこんな遠くまで来たのに、自分が知らない間に事件が解決していたのだから当然だろう。
「じゃ、じゃあ私の苦労は無駄ってことかい?」
『その辺の苦情はあの人に言ってください』
鞠亜の言葉は、織斗に対する怒りに充ち満ちていた。
すぐにでも帰ろうと思ったももこは、しばらくほとぼりを冷ました方がいいかと思いなおす。
「ま、まあ、あれだね」
ももこは顔を引きつらせながら、
「せっかくここまで来たんだから、神木真璃亞君のいたっていう孤児院を訪ねてみようかなぁ」
『わかりました。ではまた連絡します』
電話が切れる。
「うわ……こりゃ鞠亜、本気でキレてるねえ……」
恋する乙女は恐ろしいねえ、と呟きながら携帯をハンドバッグにしまい込む。
ももこは門の横にあったインターフォンに手を伸ばすと、訪問の旨を伝えた。
ほとんど叩き付けるようにして、鞠亜は受話器を下ろした。思考を占めるのは織斗に対する怒りのみだ。
「このままさよならなんて、絶対に認めないわよ」
横っ面を張り飛ばし、文句の一つでも言ってやらねば気が済まない。
問題はいかにして織斗の居場所を探るかだった。織斗の携帯電話番号が記録してあった自分の携帯電話は、監禁されたとき久々津真彦に取られている。ももこの携帯電話にも織斗の番号はメモリされているはずだが、あの男のことだ、電話が自分からのものだと分かれば出ない可能性がある。
(逃げ場がないくらいに追いつめるしかないわね)
織斗の家まで押しかけるしかない、と鞠亜は判断する。本名と年齢、そして携帯電話番号は分かっているのだ。調査のプロ――探偵か興信所の人間――に依頼すれば、必ず織斗の住んでいる場所を見付けてくれるだろう。幸いにも自分はお嬢様だ。お金はある。
「待ってなさい……!」
行動すべく、鞠亜は踵を返す。しかし彼女の足が前に進むことはなかった。
「……え?」
一瞬、鞠亜はそれが何なのか理解できなかった。
自分の右目に映る少女。紅茶色の前髪によって目元を隠しており、その表情を伺うことは出来ない。分かるのはその髪が肩口でばっさりと切り落とされていること。そして右頬に血の混じったドロリとした液体が伝っていることだけだった。
「…………」
塩の柱になったかのように鞠亜は硬直する。心臓が跳ね上がり、動機が激しくなる。
鞠亜の目に映っていたのは、神木真璃亞その人だった。
『ふふ、ついにはじまるわ……』
まるで耳元で囁いているかのような声。
『ぎしきが……めさしあそびのぎしきはじまる……』
刹那、神木真璃亞の姿にノイズがかかる。
その姿がかき消えるのと、耐え難いほどの右目の痛みに鞠亜がうずくまるのは、ほとんど同時だった。
「あ……あぁ……」
右目を押さえ、鞠亜は苦痛に喘ぐ。
数秒後、稲峰市を包み込む空気が異質なものに変化した。
Ⅶ
稲峰市と隣の市との境界付近にあるコンビニの駐車場で、織斗は缶コーヒーを傾けながら電話をしていた。
「ええ、そうです。久々津真彦って男ですが、何らかの魔道に手を染めていた可能性が高いです。危険度の高いカルティストかもしれません」
『―――』
「はい、お願いします」
『――』
「だから先生はやめてください、宮四郎さん。はい、それでは」
電話を切る。
「あの人は……」
織斗は困った様子で携帯をポケットにねじ込みながら、
「どうしても『先生』って呼ぶんだからなあ」
「まあ、そう言うでない」
修理の終わったランドクルーザーの助手席に腰を下ろし、幸せそうに甘酒を啜っていた白髪の少女が言った。
「あやつにしてみれば、お主は恩師の息子にして後継者じゃからな。それに先生と呼ばれるのも満更ではあるまい?」
「そんな柄じゃないんだけどな」
コーヒーを啜る。その視線は稲峰市の方を向いていた。
「なんじゃ、織斗」イースはニヤニヤしながら、「やはりあの小娘に未練があったのではないか?」
「……そんなんじゃないよ」
「照れるでない。そんなに気になるならば、また会いに行けばよいではないか。学校祭とかいうカーニバルに呼ばれておるのじゃろう? いや、秋じゃからこの場合はフェスティバルか?」
「収穫祭も何も関係ないさ」
織斗は努めて平静な声で、
「俺が気になってるのは、『妖精の眼』の保有者の大量発生の謎が解決していないことだよ」
「ふむ、そのことか」
この話題に関しては、イースも顔を引き締めた。
「情けない話じゃが、わらわもさっぱり見当が付かん」
「あの久々津って男が、なんらかの妖術か魔道を使って能力者を作り出したって可能性は?」
「何度も言うが、それは考えにくいの。能力者を意図的に生産することは不可能に限りなく近いのじゃ。古今東西、成功したという話は一遍たりとも聞いたことはない。もちろん、あの久々津という小僧が稀代の大魔道師であれば話は別じゃがな」
「どっちにしろ、宮四郎さんからの連絡待ちか……」
そう言いながらも、しかし織斗の胸には気持ちの悪いほどのしこりがわだかまっていた。うなじのあたりがちりちりと総毛立っている。
実は織斗には、二つ腑に落ちないことがあった。一つは今言った能力者の大量発生の事。そしてもう一つは、昨夜鞠亜を助ける直前に見た―――
「ッッ!」
その時ふいに、織斗の背中を最大級の悪寒が走った。頭蓋骨に開けられた穴から、脳みその中に直接液体窒素を流し込まれたかのような感覚。
「これは!」
織斗は弾かれたように稲峰市の方に目を向け、そして絶句した。
昼間だというのに、稲峰市全体が薄闇に包まれていた。まるでそこだけ太陽の祝福を拒んでいるかのように。生臭い、まるで腐った魚の腸のような臭いが漂っている。
「な、なんじゃ、これは……?」
愕然とイースがつぶやく。
その時、突如として耳障りな絶叫が響き渡った。コンビニの中からだ。
慌てて店内に飛び込んだ織斗とイースが目にしたのは、その場でうずくまり、あるいは恐怖に顔を歪ませながら必死に逃げまどっている人々の姿だった。
「な、なんだこれ……うあああああああ!」
「う、うわぁ……見せるなぁ! 見せるなっ」
「いやいやいやいやいやいやぁぁぁぁぁ!」
店員も客も、男も女も関係なく絶叫する。共通するのはたった一つ。
全員が右目を押さえている、それだけだった。
「な、んだ……これ……」
あまりに異常な光景に、織斗は戦慄を隠せない。
数秒後、さらに織斗を戦慄させる事実がイースから告げられた。
「妖精の眼じゃ……」
イースの声も震えていた。
「全ての者の右目が、妖精の眼と化しておる」
「まさか……」
織斗はコンビニを飛び出すと、周囲に視線を走らせた。町のそこかしこでコンビニの店内と同じような光景が繰り広げられている。蛇行してきた自動車が電柱に衝突し、そのまま炎上を始める。同様の事故がそこかしこで起こっていた。
「学校祭とかいうレベルじゃないぞ……」
恐怖と異常に満ちたお祭り騒ぎが、町中で始まっていた。