恐怖狩人 ~クトゥルフ神話ガチ勢が恐怖小説を書いてみた~   作:セラニアン

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第7章 祭司たちの黄昏 ~The priests sing~

 

 

 

 

 Ⅰ

 

 

 

 

 展望台から町を一望し、扇田要介は感慨深げに吐息を吐いた。

 

 今や、稲峰市全域が腐った魚のような臭気に犯されていた。常人であれば、吐き気を及ぼさずにはいられないほどだ。

 しかし、その血に大いなる眷属の系譜を持つ要介にとっては、どこか懐かしく、心地よい香りですらあった。

 

 日没が迫る中、眼下の街では、忌まわしい狂気に取りつかれた『幸運な者ども』が、すすり泣くように、あるいは仄暗く笑うように、ある凄句を唱え始めていた。

 

 

 

 ――ふんぐるい・むぐるうなふぅ・くとぅるふ・るるいえ・うが=なぐる・ふたぐん。

 

 

 

 一人、また一人と狂気に呑まれる人々。その右目に映るのは、三次元空間かどうかすらわからない、おびただしいほどの邪悪な彫刻のほどこされた死の都の姿だ。大祭司クトゥルフが横たわりし、背徳と冒涜の都。

 

 悍ましい光景。しかし、狂気に呑まれた者にとっては、もはや狂うことこそが唯一の救いだった。精神波に乗って、大祭司を讃える凄句が脳裏に響き渡る。

 

 

 

『ルルイエの館にて死せるクトゥルフ、夢いるままに待ちいたり』

 

 

 

 ああ、なんという恐ろしい言葉か! 邪悪なるかな、邪悪なるかな、邪悪なるかな! 邪悪を讃え、悪徳を讃え、そして大祭司クトゥルフを讃えている!

 

 

 

 ――ふんぐるい・むぐるうなふぅ・くとぅるふ・るるいえ・うが=なぐる・ふたぐん。

 

 

 

 一人、また一人と唱和する者が増えてゆく。今や、稲峰市民四万人のうち、おそらく四分の一にあたる一万人ほどが声をそろえ、恐ろしき旧支配者を讃える句を唱え始めていた。日没を迎えれば、市民四万人が一斉に目をむき、血反吐を吐きながら謡うことだろう。

 

 

 

 ――ふんぐるい・むぐるうなふぅ・くとぅるふ・るるいえ・うが=なぐる・ふたぐん。

 

 

 

「いよいよですな」

 

 

 要介もまた、町を見下ろしながら同じ句を唱えた。

 

 

「フングルイ・ムグルウナフー・クトゥルフ・ルルイエ・ウガ=ナグル・フタグン」

 

 

 要介は思う。後数時間で日が落ちる。そうすれば全てが終わり、始まるのだ。この世界は隣り合ったもう一つの世界にある死の都ルルイエが、この街に顕現する。深きものども(ディープ・ワンズ)の巫女の血肉を受けし、四万人もの『眷属』が願い奉るのだ。その精神波は、必ずや主たるクトゥルフに届き、その身を深き眠りから覚まさせることだろう。そうすれば、ようやくこの星を本来の主人の手に譲り渡すことができるのだ。

 

 

(今度こそ、今度こそ成功させるのだ……!)

 

 

 その手を握りしめる。

 

 以前は失敗してしまった。それもこれも、すべて緋瑞影人という邪魔者のせいだった。奴のせいで、せっかく用意した生贄の子どもたちも稀代の巫女たる妻も殺され、儀式を台無しにされたのだ。

 

 それから十数余年。膨大な時間と労力をかけた大規模儀式が、もうすぐ完成する。

 

 

 ――ふんぐるい・むぐるうなふぅ・くとぅるふ・るるいえ・うが=なぐる・ふたぐん。

 

 

「フングルイ・ムグルウナフー・クトゥルフ・ルルイエ・ウガ=ナグル・フタグン」

 

 

 喉の奥で笑いながら、要介はクトゥルフを讃え、詠う。

 

 ふいに要介の目が一台の自動車をとらえた。ボロボロのランドクルーザーだった。ふらふらとしながらも、山道を登っている。

 要介は首をかしげた。

 

 

(……なぜ車が?)

 

 

 町の住民は、ほぼ全て恐怖のせいでその場から動けなくなっているはずだ。なのにどうして……

 

 

「……いえ、そう言えば一人だけいましたな」

 

 

 要介の脳裏に一人の青年の姿が浮かび上がる。この町の住人ではない青年。忌々しい緋瑞影人の血をひく縁者にして、抵抗者を名乗る小賢しい小僧。

 

「ここに向かっているということは、どうやら思った以上に優秀なようですな……」

 

 

 ギリリと奥歯をかみしめる。

 

 自分が首謀者であることがばれたか、それとも儀式のカラクリが気付かれたか。

 

 前者はともかく、後者だと不味いことになる。

 

 

「……やむを得ませんな」

 

 

 要介は袂から二つの鍵を取り出した。一つは合法的に手に入れた猟銃がしまってある隠し金庫の鍵。もう一つは非合法的に手に入れた『ある場所』の鍵だった。

 

 

「出迎えと参りましょうか」

 

 

 最後の邂逅に向け、要介はその場を後にした。

 

 

 

 

 

 Ⅱ

 

 

 

 

 

 オンボロのランドクルーザーが山道を駆け上ってゆく。カーブにさしかかる度に、後部座席に積まれたガスボンベが互いにぶつかり合い、ガンガンと鈍い金属音を響かせていた。。

 

「窃盗に無免許運転に道路交通法違反に……あげたらきりがないわね」

 

 鞠亜は顔を引きつらせながら、ステアリングを操作する。

 

 こともあろうにランドクルーザーを運転しているのは鞠亜だった。当然無免許、当然初運転だ。幸いにもオートマチックなので複雑な操作は必要ないが、それでもボンネットの一部がへこみ、フロントバンパーが半ばとれかかっているなど、戦績のほどが伺える。道路に動いている車がいなかったからこそこの程度ですんでいたが、下手したら大事故を起こしていたと思うと冷や汗が出る。

 

 もっとも助手席でなにやら図面と格闘している青年は、申し訳なさそうにしているものの、さほど気にした様子はなかった。

 

「織斗さん……これ……」

「ごめん、こっちは手が離せないんだ」織斗は顔を上げずに、「安全運転で頼む」

「……分かったわよ」

 

 山道に四苦八苦しながら、鞠亜はランドクルーザーを運転する。

 

 対応策を決めた後の織斗の行動力は、色んな意味で凄まじかった。まず市の水道局に不正アクセスして、貯水施設の図面をダウンロード。次いで商店街にあったガス屋からガスボンベをかき集めてきた。この間、わずかに一時間。惚れ惚れするような手並みだった。

 

 もっとも、惚れてはいけないような技術が多々あったが。

 

「ねえ、織斗さん」

 

 鞠亜は慎重にステアリングを切りながら、

 

「それで、ガスボンベなんて何に使うの?」

「貯水槽を爆破するんだよ」

「ば、爆破!」

 

 手元が狂い、ランドクルーザーが蛇行する。

 

「きゃ、ちょ!」

 

 慌てて修正。

 

「爆破って……」

「たぶん、これが一番手っ取り早いんだ」

 

 織斗は早口で、

 

「貯水槽の中に、神木真璃亞の遺体があるのは間違いない。おそらく、貯水槽というか、中にたまっている『水』そのものが儀式の基点であり、祭壇になっているはずなんだ。それなら、貯水槽の壁を爆破して、中の水を全部流してしまえばいい」

「ふむ、それだけでよいのか?」

 

 ダッシュボードの上から白猫が問う。

 

「もちろん、それだけじゃダメだ」

 

 織斗は図面の一部を指し示しながら、

 

「爆破する前に、貯水槽に水を送ってる送水ポンプを止める必要がある。そうしないと、いつまでも水が供給されることになる。だけど、こっちは電源設備を壊すだけだから簡単だ。とにかくメインは貯水槽の爆破だ」

「でも……」と鞠亜。「ガスボンベで爆破することなんて出来るの?」

「その辺は大丈夫。少量だけど、ドアなんかを吹き飛ばす時に使うプラスチック爆薬がある。ボンベを組み合わせれば、威力は十分なはずだ」

「プラスチック爆薬って……」

 

 鞠亜の声は、もはや呆れ口調だった。

 

「なんていうか、完全に力押しなのね。もっとオカルトっぽくやるのかと思っていたわ」

「実際はこんなもんなんだよ。確かにオカルト的な手法を使うこともある。でも大抵は物理的な対処のほうが多いんだ。原因となった物を破壊したり、汚染された土地を焼き払ったり、後は……」

 

 

 後は、怪事件の首謀者を殺したり。

 

 

(もし扇田要介がいたら、そのときは……)

 

 織斗は懐に隠したナイフに意識を向けた。父から受け継ぎ、すでに幾人もの崇拝者の血を吸った業物だ。鞄には折り畳み式のボウガンも入っている。

 

 抵抗者を自称する者は、多かれ少なかれ血を浴びるのが普通だった。元凶を取り除くために、首謀者を殺さねばならないことが多々あるからだ。別称として崇拝者殺しが使われるのはその為だった。どういう形であれ、織斗も自身が人殺しであることを自認している。

 

「どうしたの、織斗さん?」

「……いや、なんでもない」織斗は頭を振る。「それより見えてきた」

 

 八面山の頂上部。人っ子一人いない市民公園が視界に飛び込んでくる。

 

 公園内に乗り入れろという織斗の指示に従い、鞠亜はほとんどやけくそでアクセルを踏んだ。車止めを乗り越え、公園内に侵入する。芝生広場を横切り、最終的にランドクルーザーが止まったのは公衆トイレのような建物の前だった。

 

「ここが貯水施設への入り口だな」

 

 織斗の言うとおり、コンクリート造りの壁には『稲峰市水道局』という文字が書かれていた。建物の正面には両開きの扉がついている。なかなか頑丈そうな作りだ。

 

 車から降りたところで、イースが織斗に向かってこう言った。

 

「では織斗よ、わらわは予定通り山全体に『破邪の印』を施してくるからの」

 

 事前の打ち合わせで、織斗とイースは別行動を決めていた。織斗と鞠亜が貯水施設を破壊するのと平行して、イースが八面山全体に陰破邪の印を敷くというものだ。

 

 破邪の印とは、邪悪なるものどもを退けるためのしるしであり、少しであるが狂気の進行をおさえる働きがあった。

 

「ああ、わかった」織斗は腕時計を一瞥し、「八十分後にここで合流だ」

「八十分で山一つか。人使いの荒いやつじゃのう」

 

 一瞬後、やれやれと頭を振っていた白猫の姿がその場からかき消える。

 

 それを見届ける間もなく、織斗は後部座席から巨大なバールを取り出した。金物屋から持ち出した代物だ。少々骨だが、これで扉をこじ開けなければいけない。プラスチック爆弾はなるべく節約しなければいけないからだ。

 

「さて、さっさと……」

「織斗さん!」

 

 ふいに鞠亜が声をあげた。いつのまにか扉の前に立ち、右手でノブを握りしめている。

 

 

「これ……」

 

 

 ノブを捻る。ガチャリという重たい音と共に、扉はあっけなく開いた。

 

 

 

「開いてる、だって……?」

 

 

 

 当たり前だが、水道局の施設に鍵がかかっていないなど有り得ない。ライフラインに直結する上水道の施設ならばなおさらだ。

 

 

 

 では、なぜ?

 

 

 

「…………」

 

 織斗は押し黙る。まるで黄泉路にでも誘い込むかのように扉は口を開け、侵入者を歓迎していた。

 

 

 

 

 

 

 Ⅲ

 

 

 

 

 

 

 予想に反して、貯水施設の中は無人だった。

 

 稲峰市水道局の管理する貯水施設は、二つのブロックからなる。一つは送水ポンプや変電機器などが存在する機械室、もう一つは貯水槽と送水管のある貯水室だ。もちろん貯水室の方が機械室よりも何十倍も大きい。機械室は施設のもっとも奥まった場所にある。

 

 地上施設から地下に降りた織斗たちは、まず最初に貯水槽爆破の準備を始めた。先に電源設備を破壊してしまうと、施設内の電灯まで消えてしまう可能性があるからだ。

 

「はぁ、はぁ……これで最後ね……」

 

 織斗と共に最後のガスボンベを積み上げ、鞠亜は大きく息を吐き出した。普段からもっと運動しておけば良かったと思う。

 

 施設の内部は、ホラー映画でよくあるボイラー室のようだった。打ちっ放しのコンクリートの壁が冷ややかだ。ごく希にしか使われていないせいか、蛍光灯の半分が切れており、残りの半分もチカチカと点滅している。

 

 さらに施設の中は、常にゴウンゴウンという重低音が木霊していた。送水ポンプの駆動音だ。この音を聞いていると、まるで自分が巨大な生物のお腹の中にいるような気になってくる。

 

 

(……気のせいね)

 

 

 鞠亜は嫌な想像から目を背けるべく、織斗の方に視線を向けた。

 

 直径一メートルはあろうかという送水管の脇で、織斗は粘土のようなものをガスボンベに貼り付けていた。粘土遊びをしているように見えるが、扱っているのは危険きわまりない高性能爆薬らしい。

 

 

「よし、これでいい」

 

 

 織斗はガスボンベの胴体を軽く叩くと、次いで貯水槽の壁をペシペシと叩いた。

 

「これだけのボンベがあれば、外と内側の両方の壁を同時に破壊できるはずだ。この壁の向こうは山の斜面になってる。流れ出た水は、全部山肌に流れるっていう寸法だ。若干土砂崩れが心配だけど、その辺は考えないようにするしかないな」

「ちなみにどうやって爆発させるの?」

「これを使う」

 

 織斗は手のひら大の機械を二つ取り出した。片方はボタンが一つ付いただけの簡素な箱形で、もう一つは電極のようなものが飛び出したものだった。無線式の起爆装置らしい。

 

「こいつを使って遠隔……そうだな、地上施設のとこで点火する。ここでやったら、流れ出た水の圧力で俺たちもバラバラだ」

 

 そう言いながら、受信側の機械に付属している電極を粘土に差し込む。

 

「よし、いいな」

 

 通電することを確かめた織斗は、もう片方の機械――起爆スイッチを鞠亜に預けた。

 

 

「これをもって地上部まで行っててくれるか?」

 

 わずかに残したプラスチック爆弾を手にしながら、

 

「俺はポンプの電源を壊してくる。くれぐれも俺が戻るまでスイッチは押さないでくれよ?」

「それはわかったけど……」

 

 鞠亜はわずかに不安そうにしながら、

 

「本当に大丈夫?」

 

 鞠亜の脳裏に、鍵の開いていた扉のことが思い浮かぶ。自分たちの他に誰かがいるのではないか、そう思えてならない。

 しかし織斗はわずかに黙考した後、

 

「……気にしてもしかたがない。俺たちのやることは変わらないんだ」

「それは、そうかもしれないけど……」

「どのみち時間がない。――それじゃ、行ってくる」

 

 踵を返し、織斗は施設の奧へと駆けてゆく。

 

 

 薄暗がりの中に消えてゆくその背中が、鞠亜には織斗の行く末を暗示しているように思えて仕方がなかった。

 

 

 

 

 

 

 Ⅴ

 

 

 

 

 

 

 送水管脇の通路を進んだ織斗は、すぐに平たいコンクリートの床が続く部屋に出た。

 

 もっとも部屋といっても、その床面積は体育館並だった。天井が低いために開放感は全くないが、それでも相当に広い。床の所々には金網で蓋のされたマンホール台の穴があり、そこから水面をうかがうことが出来た。貯水槽の真上であることが分かる。

 

 

「この水の中のどこかに、神木真璃亞の遺体があるってわけか……」

 

 

 ならこの水は神木真璃亞のダシ水というわけか、などと織斗は思考の片隅で思った。六年も経っているのだから、遺体は白骨化しているに違いない。思わず織斗は、白骨スープを生活用水に使っていた稲峰市民に同情してしまった。

 

 

「運が悪かったとしか言いようがないな……」

 

 

 そう言いつつ、織斗は何度か周囲を見回していた。自分の足の下に死体があると思うと、さしもの織斗も背筋が震えてくる。ゴウンゴウンというポンプの駆動音と、大量の水が揺れ動く波音が、織斗の聴覚を敏感に刺激した。

 

 貯水室を抜けると、次に待っていたのは機械室と書かれたドアだった。中に入ると、ポンプの駆動音がひときわ大きくなる。狭い通路を抜け、最奧部へ。

 

「これがポンプだな」

 

 

 そこに在ったのは、円筒形状の二機の巨大ポンプだった。うるさいほどの駆動音を放っている。ポンプのすぐ脇には箱形の電源設備があり、高圧電流注意というプレートがかかっていた。電源設備の奧では、冷却用の巨大なファンが回転している。

 

 織斗はすぐさまプラスチック爆弾の残りを、野太い電線に貼り付け始めた。電源設備へと繋がっている電線で、おそらくメインの送電線だろう。粘土を貼り付けたところで電極を差し込み、起爆装置につなげる。先ほど使った無線式のものではなく、五メートルほどのコードがついた有線式の起爆装置だった。

 

「よし、通電するな」絡まないようにコードを伸ばす。「あとは……」

 

「あとは、どうするのですかな?」

 

 

 不意に響く声。

 

 

 一瞬後、織斗がとった行動は振り返るのではなく、横っ飛びに飛ぶことだった。ほぼ同時に、織斗が今まで立っていた空間を散弾が通り過ぎる。手からこぼれ落ちた起爆スイッチが床にぶつかってカシャンと甲高い音を立てた。

 

 転がりながら電源装置の後ろに滑り込んだ織斗は、盛大に顔をしかめた。

 

 

「ただじゃ終わらないか……」

 

 

 電源装置から顔を覗かせる。

 

 果たしてそこにいたのは、法衣に身を包み、猟銃を携えた扇田要介だった。

 

 

 

 

 

 

 織斗にとって二つ痛手があるとすれば、一つは飛び道具を持ち合わせていないこと、もう一つは起爆スイッチを落としてしまったことだった。

 

「遅かったな?」

 

 わざと軽い口調でそう言いながら、織斗は起爆スイッチを探した。わずか数秒で発見する。電源装置から五十センチほど離れた床の上に転がっていた。

 

「よくも俺たちを騙してくれたな、扇田校長?」

 

 そろそろと手を伸ばす。

 

「おやおや」

 

 扇田要介は柔和な笑みを浮かべながら、

 

「往生際の悪さは別として、緋瑞教授から目上の者に対する言葉遣いは習わなかったのですかな?」

「悪いけれど、これから処理しないといけない相手に敬意を払う趣味はないんだ」

 

 懐のナイフを抜きはらう。スイッチまでもう少し。

 

「その威勢の良さはお父様譲りですな」

 

 要介は油断なく猟銃を構える。

 

(さすがに分が悪いな……)

 

 たった一つの条件を除けば、織斗の有利に傾く要素は皆無だった。向こうが飛び道具なのに対し、こちらはナイフが一本のみ。体格からして、力も向こうの方が上だろう。

 

「それにしても、まさかここまでたどり着かれるとは思いませんでしたな」要介は感心した様子で、「どうやら、貴方はなかなかに優秀なようですな。惜しい限りです、貴方のような優秀な崇拝者殺しを失わねばならないとは」

 

「崇拝者殺しじゃない」スイッチまであと数センチ。「抵抗者だ」

「それは失礼を」

 

 織斗の指先が起爆スイッチにたどり着こうとした瞬間、要介は引き金を引き絞った。鋭い発砲音と共に、数十もの散弾が飛び散る。その中のいくつかが、織斗の二の腕に食い込んだ。

 

「ッ!」

 

 堪らず織斗は腕を引っ込める。

 

 その隙を逃さず、要介は回り込むように電源装置へ向かって走った。濁った瞳が織斗の姿をとらえる。

 

 銃口が火を噴く直前、織斗は思ってもみなかった行動に出た。唯一の武器であるナイフを要介めがけ投げ放ったのだ。要介がナイフに気を取られている隙に起爆スイッチを拾い上げると、躊躇うことなくボタンを――

 

 

「させるかぁ!」

 

 

 銃声が轟く。

 

 一瞬、織斗は要介が狙いをはずしたのだと思った。織斗の指が、未だにスイッチの上にあったからだ。しかしすぐに異変に気付く。どれほどボタンを押すよう筋肉に指令を飛ばしても指が動かない。

 

 そこでふと織斗は気付く。なぜ自分の腕が床に落ちているのか、と。

 

 

「……」

 

 

 自分の右腕を見下ろす。肘から先の部分が吹き飛んでいた。

 

 

「―――ッ!」

 

 

 遅れてやって来た激痛に、織斗はその場で蹲った。傷口を手のひらで押さえる。

 

 

「どうやらこれまでのようですな、織斗君」

「く、そ……」

 

 

 よろよろと立ち上がりながら、要介を睨み付ける。

 

「こんなことして、無事に済むと思ってないだろうな……」

「それは人類の都合で、深きもの(われわれ)には関係のないものです」

 

 要介は銃口を織斗の胸に向ける。そしてそのまま、一切のためらいなく引き金を引き絞った。

 

 銃声。数十もの散弾を胸に受け、織斗は吹き飛んだ。そのまま仰向けに倒れる。

 

 死体となった青年を、要介は汚物でも見るかのように一瞥した。

 

 

「……向こうで緋瑞教授によろしくお伝え下さい」

 

 

 

 死体は答えなかった。

 

 

 

 

 

 

 Ⅴ

 

 

 

 

 

 

 地上に戻った鞠亜は、ランドクルーザーの側で立ちつくしていた。無線式の起爆スイッチを握りしめる。

 

(まだなの……)

 

 遅すぎる、と鞠亜は思う。織斗と別れてすでに二十分が過ぎた。電源装置を破壊するだけなら十分もかからないはずだ。しかし織斗は未だに戻ってこない。

 

「何かあったんじゃ……」

 

 不安が心を埋め尽くす。不安はマイナスの妄想を呼び起こし、それがさらに不安をかき立てる。悪循環だ。

 

 そういった負の妄想の一つだろうか。先ほどから鞠亜は、自分が誰かに見られているような気がしてならなかった。ふとした瞬間、周囲を取り囲む木々の合間を誰かが通り過ぎているように感じられる。しかし気配を感じて振り返っても、そこには誰もいない。前方に見える展望台にも人影は一つも無かった。

 

(気のせいね……)

 

 その時、鞠亜の耳にカンカンという金属音が届いた。金属製の階段を上る足音だ。地上施設から地下に降りる階段は鉄製で、こういう音がするのを鞠亜は身をもって知っていた。

 

「織斗さん!」

 

 鞠亜は開け放たれたままの扉に駆け寄る。

 

 しかしその足は、扉の手前三メートルのところで停止した。ヌッと現れた黒光りする筒が、鞠亜の鼻先に突きつけられる。

 

 

「この件には関わって欲しくはないと、そう言ったのを忘れましたか、瀬阿さん?」

「校長……先生……?」

 

 鞠亜の左目が大きく見開かれる。扉の向こうから現れたのは、法衣を纏った扇田要介校長だった。

 

「そんな……」

 

 猟銃に押され、鞠亜は後ずさる。最悪の妄想が脳裏をよぎった。

 

「まさか……織斗さんは……」

「安心しなさい」

 

 引き金に指をかける。

 

「すぐに会えますよ」

 

 決定的だった。

 鞠亜はおもわずへたり込みそうになった。右目がうずき、夢とも現実とも付かない光景が映し出される。銃弾を受け、床で事切れている織斗の姿だ。見たくないと思っても、右目はそれを映し出すのを止めようとしない。左目までもがよろめく織斗の姿を映し出す。

 

 え? 左目?

 

 

 

「受け取れ」

 

 

 

 次の瞬間、扉の中から何かが飛んできた。肌色の塊で、一部が赤黒く染まっている。

 

 それが人間の腕だと鞠亜が気付くのと、飛んできた腕が要介の肩にぶつかり、銃弾が在らぬ方向に飛んでいったのは同時だった。

 

 

「織斗さ……キャァ!」

 

 鞠亜は織斗の姿を見て悲鳴を上げた。

 

 織斗の姿は壮絶の一言だった。右腕は肘から先がなく、心臓の辺りにはえぐれたような穴が開いている。まるで爆弾テロにでも巻き込まれたかのような姿だ。

 

「織斗さん!」

 

 慌てて鞠亜は駆け寄ろうとする。しかしその矢先、彼女はあることに気付いた。

 

 傷だらけの織斗の身体。そこからは、なぜか一切の血が流れていなかった。ちぎれた右腕の傷口からも、ポタポタと赤黒い液体が零れているだけだ。

 

 

 今度こそ、鞠亜は幽霊をみるように織斗を見た。

 

 

「織斗さん……それ……」

「……説明は後回しだ」

 

 

 荒い息を吐きながら、織斗は鞠亜と要介の間に割って入った。

 要介も化け物を見るかのような視線を織斗に向けていた。

 

「そんな……確かに心臓を打ち抜いたはず……」

「このジャケットは特別製なんだよ」

 

 残された左手でナイフを構える。壮絶な姿と相まって、まるで死してなお戦場に残ろうとする戦鬼のようだ。

 織斗の発する凄まじい鬼気に当てられ、要介は半歩後ずさった。

 

「ば、化け物め……」

 

 再び銃口を織斗に向ける。いったいどういうカラクリで織斗が生を繋いでいるかは分からないが、もう数発打ち込めばケリが付くはずだ。付くと思いたい。

 

(何度でも殺してやる!)

 

 銃口を織斗の額にポイントする。脳を破壊するのが一番確実だ。織斗が脳を持たない原始生物でも無い限り、脳髄を打ち抜けば必ず死ぬ。

 

 要介のその読みが当たったのだろうか。銃口を額に向けたとたん、織斗の顔色が劇的に変わった。傍らの鞠亜も目を見開き、自分の方を見つめている。

 

 しかしよく見ると、二人の瞳は要介を見ていなかった。あくまで要介に視線を向けているだけ。その注目は要介の背後に向かっている。

 

 

 

(後ろ、だと?)

 

 

 

 要介は背後を振り返ろうとして、しかし出来なかった。突如、ズシャリという嫌な音と共に、自分の胸部から銀色の刃が飛び出す。美しい刃紋のそれは、寺の一室に飾ってあった日本刀だった。

 

 

「…………」

 

 

 灼熱を伴った激痛。要介は口から血を吐きながら、ゆっくりと肩越しに振り返った。

 

 鬼のような形相をした教育実習生が、そこにいた。

 

 

 

 

 

 Ⅵ

 

 

 

 

 

「お前は……真璃亞の敵だ……」

 

 

 要介の背中に日本刀を突き刺した久々津真彦を、織斗と鞠亜は呆然と見つめていた。

 

 まさに唐突だった。突然林の中から飛び出してきたかと思ったら、そのまま日本刀を要介に突き立てたのだ。あまりのことに、織斗も一切反応することが出来なかった。

 

「真璃亞の敵は……許さない……」

「……か、は」

 

 日本刀を根本まで押し込み、次いで真彦は刀身を一気に引き抜いた。

 

 扇田要介の身体が血しぶきを上げながら前のめりに倒れる。わずかに痙攣した後、怪事件の首謀者はあっけなく事切れた。

 

 

「やったよ、真璃亞……次は……」

 

 

 真彦はアルカイックな笑みを浮かべると、織斗たちの方に向き直った。マリオネットのようないびつな動きで歩き出す。血濡れた日本刀を握りしめたままで。

 

「やる気か!」

 

 織斗は鞠亜を背中に庇うと、左腕でナイフを構えた。確実に不利なのは分かっているが、それでも退くわけにはいかない。

 しかし織斗の予想に反して、真彦は織斗たちの真横を通り過ぎると、そのまま貯水施設の中へと入っていった。

 

「ま、待て!」

 

 下手なことをされては堪らないと、織斗は慌てて後を追おうとした。しかしその足が地面を蹴り飛ばすより速く、鞠亜の腕がその行く手を遮る。

 

「織斗さん……」

 

 鞠亜は震える指で扉の奧を指さした。

 

「……あれ」

 

 暗がりの中にノイズのかかった何かが浮かび上がる。

 

 腰まで届く紅茶色の髪に、白いワンピース。青白い頬を血混じりの液体が伝っている。

 それはまさしく神木真璃亞だった。

 

 

 

「……真璃亞……姉さん?」

『……』

 

 

 

 鞠亜の言葉には反応せず、幽体の少女は両腕を大きく左右に広げた。まるで行く手を遮るかのように。

 

 

『行かないで』

 

 

 耳元で囁くような声。

 

 

『お願い』

 

 

 少女はゆっくりと顔を上げた。思わず織斗と鞠亜は息をのむ。

 

 少女の潰れた右目からは、ドロリとした液体が途絶えることなく流れ出していた。青白い肌と相まって見る者の恐怖をかき立てる。

 

 しかし二人はすぐにあることに気付く。唯一残された左目。焦げ茶色の瞳には、確かな理性の光があった。

 

 

 

「なるほど……そういうことか……」

 

 

 ようやく納得がいったふうに織斗は頷いた。

 

「時々事件に介入して、俺たちの手助けをしていたのはあなたですね?」

「……どういうことなの?」

「鞠亜、不思議に思わなかったか? 昨日の夜、学校に逃げ込んだ君を、どうして俺が見つけられたのか」

「そういえば……」

 

 あの時、自分は何も考えずに学校に逃げこんだ。それも校舎の中に。普通であったら、外から自分を見つけることなど出来ようはずが無い。

 

 

 

「どうして私の居場所がわかったの?」

「彼女が教えてくれたんだ」

 

 

 織斗は視線で少女を示した。

 

「校庭に現れた彼女が、校舎の中を指さしていたんだ」

「じゃあまさか……」

 

 鞠亜はハッと顔を上げる。

 

「久々津先生に監禁されていたとき、部屋の鍵が勝手に開いたのも……」

 

 

『私よ、鞠亜ちゃん』

 

 

 少女は慈愛と悲哀が入り交じった声で言った。

 

『私がやったの』

「あなたは、神木真璃亞さんの残留思念体……それも死ぬ前にオリジナルから分離して、髪の中に宿っていた思念体ですね?」

 

 少女の霊はうなずく。

 

「死ぬ前に分離?」鞠亜はわずかに眉をひそめ、「それってどういうことなの?」

「いわゆる生霊のことだ。生きている人間の思考の一部が別の物体に移行し、ゴーストみたいになったものを指すんだ」

 

 そして目の前にいる神木真璃亞の幽体は、そんな生霊なのだと織斗は言った。

 

「そもそも校庭で見たときからおかしいと思ってたんだ」

「おかしいって、なにを?」

「髪だ」

 

 織斗は、腰まである神木真璃亞の紅茶色の髪をジッと見つめ、

 

「神木真璃亞さんは、失踪直前に髪を切ったはずだ。普通、死後に発生した幽霊は死ぬ直前の姿を保つものなんだ。なのに、彼女の髪は長いだろ?」

「あるほど……あれ、でも……」

 

 

 鞠亜はふとあることを思い出す。彼女がこれまで見てきた姉の幻影の事だ。しっかりと覚えているわけではないが、鞠亜が何度か目にした姉の幻影には、髪が短いものもあったような気が――

 

 

「もし死んだ後に発生した思念体なら、髪は短くなってるはずだ」

 

 

 鞠亜の思考を遮り、織斗は続けた。

 

「なのにそうじゃない。ということは、彼女は神木真璃亞さんが死ぬ前に発生した生霊ってことになる」

『ええ、そう。貴方の言う通りよ』

 

 少女は頷いた。

 

『私は、私の本体が狂いきってしまう前にぬけだし、髪の中に宿った思念の一部なの』

「髪を切ったのもあなたですね?」

『そうよ。鞠亜ちゃんに酷いことをしてしまった時、もう私の本体は正気ではなかったわ。私の中に流れる『深きものども』血が、私を狂わせようとしていた。お父さんに言われるがまま病院を抜け出して、そしてそのまま……』

「この貯水槽に身を投げたってことか」

『髪に宿った私は、ずっと眠ったような状態だったわ。そしてある時、私が目を覚ますと、そこは久々津君の家だったの』

 

 どうやら要介は、始めから久々津真彦をスケープゴートにするつもりだったらしい。真彦を教育実習生として呼び寄せたのも、鞠亜を攫うように指示したのも、そもそも神木真璃亞の髪の毛を送りつけたのも全て要介だった。

 

「なるほど。久々津はまさしく操り人形だったってわけか」

 

 織斗はそこで少女に鋭い視線を向けた。

 

 

「それで、今度はあなたが操り人形を操ろうってわけですか?」

『……』

 

 

 織斗の問いに、少女は手をさしのべることで答えた。その手は鞠亜に向けられている。

 

 

 

『最後は、自分の手で終わりにしたいの』

 

 

 少女は儚げに笑った。

 

 

『もう誰も傷つかなくていいように。だから……』

 

 

 

 彼女の意図が分からぬほど、織斗も鞠亜も鈍感ではなかった。

 

 鞠亜はいくばくか躊躇した後、おずおずと右手を伸ばした。起爆スイッチを渡す。

 

 なぜだか分からないが、鞠亜の両目から涙が溢れた。

 

 

 

「お姉ちゃん……」

『まだ私をお姉ちゃんと呼んでくれるのね?』

「だってお姉ちゃんは……私の大好きなお姉ちゃんだから……」

『ありがとう、鞠亜ちゃん』

 

 少女は起爆スイッチを胸に抱きながら、ふんわりと笑った。儚げではない、心からの笑みだった。

 

「久々津はどうするつもりだ?」

 

 織斗は分かっていながらも聞いた。

 

『あの人は連れて行くわ』

 

 少女は苦笑する。

 

『きっと、人の世では生きにくい人だから』

「ずいぶんとストーカーの肩を持つんですね?」

『どういう形であれ、あの人は私を愛してくれたから。だから連れて行くわ』

「それが人殺しだって知ってても、ですか?」

 

 織斗は厳しい声で問う。

 

「どういう理由があろうと、あなたのしていることは生きてる人間を殺すということです」

『知ってるわ。それでも私はあの人を連れて行く。貴方が一番良く知っているでしょう? 一人は、やっぱり寂しいってことを』

「……」

 

 織斗は目をそらす。もう何も言えなかった。

 

 

『じゃあね、鞠亜ちゃん。もう行くわ』

 

 

 未だ泣き続ける鞠亜の頭を、少女は一度だけ優しく撫でた。

 

「お姉ちゃん!」

 

 鞠亜は手を伸ばしたが、その手が姉をとらえることはなかった。神木真璃亞の姿が虚空へ滲むように消えてゆく。

 

 消える寸前の彼女の顔は、ふんわりとした笑みに彩られていた。

 

 

 

「結局……彼女の一人勝ちってわけか……」

 

 

 

 織斗は小さくつぶやく。

 

 そして――

 

 

 

 

 

「真璃亞……待ってくれ、真璃亞……」

 

 

 久々津真彦は、貯水槽の真上を歩いていた。手首に巻いた神木真璃亞の髪を時折撫でながら、請われるままに一つの穴に向かう。

 

 

「ここなんだね、真璃亞?」

 

 

 とある穴にたどり着く。穴を塞いでいた鉄格子をはずすと、すぐそこに揺れ動く水面が見えた。さらによく見ると、水の底に白骨死体が横たわっているのが分かる。

 

 しかし真彦の目に映ったのは、白骨死体ではなく、自分に向かって優しく手をさしのべる少女の姿だった。

 

 

「今行くよ」

 

 

 真彦は満面の笑みをたたえ、水の中に飛び込んだ。白骨死体を抱きしめる。

 

 

(ようやく会えたんだね、真璃亞)

 

「ええ、そうね……」

 

 

 真彦が飛び込んだ穴の側で、真璃亞の思念体は慈母のように微笑んでいた。

 

 

「ずっと一緒よ」

 

 

 その手が起爆ボタンを押す。

 

 ピー、という電子音が響いたと思った次の瞬間、強烈な衝撃が水中を駆け抜けた。地鳴りのような轟音と共に、貯水槽内の水が瞬く間に減ってゆく。

 

 水流になぶられ、白骨死体も久々津真彦の身体もバラバラになる。

 

 

 しかし真彦の腕に結ばれた髪の毛だけは、いつまでもそこにあった。

 

 

 

 

 

 Ⅶ

 

 

 

 

 

 稲峰市立病院の中庭で、木多翔子教諭は声をかすれさせながら叫んでいた。太陽が西に傾き始め、空が陰鬱な夕焼けに染まろうとしている。

 

 

 

「ふんぐるい・むぐるうなふぅ・くとぅるふ・るるいえ・うが=なぐる・ふたぐん!」

 

 

 

 病院の中庭は、翔子と同じような人間であふれかえっていた。右目を押さえ、ときに喉から血を吐いている者もいた。皆が皆、同じ凄句を唱える。邪悪なるかな、邪悪なるかな、邪悪なるかな……

 

 

「ふんぐるい・むぐるうなふぅ・くとぅるふ・るるいえ・うが=なぐる・ふたぐん!」

 

 

 翔子のつぶれた右目には、この世ならざる光景が映し出されていた。ねじ曲がった柱に囲まれ、神々しい彫刻に彩られた古の都。巨大な岩の祭壇の前には、紅茶色の髪を肩口で切りそろえた少女が悠然とたたずんでいた。翔子に血肉を与え、生まれ変わらせてくれた聖母マリアだ。

 

 聖母は詠う。邪悪なるかな、邪悪なるかな、邪悪なるかな。その詩に続けて、翔子もまた叫ぶ。

 

 

「ふんぐるい・むぐるうなふぅ・くとぅるふ・るるいえ・うが=なぐる・ふたぐん!」

 

 

 なんと素敵な光景だろうか。翔子は狂った頭の中で、陶然と思った。すべての人間が、今や聖母の『子ども』となった。我々は一つだ。もはや苦しみも悲しみもない。あとは主を迎えるのみ。

 

 

 

「ふんぐるい・むぐるうなふぅ・くとぅるふ・るるいえ・うが=なぐる・ふたぐん!」

 

 

 

 人々は詠う。願い奉る。クトゥルフよ目覚めよ、ルルイエよ来たれ! ルルイエ・フタグン! ルルイエ・フタグン!

 

 

 

 

 だが、しかし――

 

 

 

 天国への道は、いともあっけなく失われてしまう。突如として響く爆発音。その衝撃波が体の中を通り抜けたかと思うと、今まで右目に映っていた聖母の姿が、吹き消される蝋燭の火のように消えてゆく。

 

 それと同時に、翔子の身体を忘れていた恐怖が襲い掛かる。

 

 

 今まで、自分はなにをしていた? 何を唱えていた? いったい、何に願い奉っていた?

 

 

「あ、あ、あ、あ…………」

 

 

 翔子はその場でうずくまり、嗚咽を漏らした。怖い。怖い。怖い。

 

 そのときだった。

 

「……へりこぷたぁ?」

 

 上空から、突如として何機ものヘリコプターが舞い降りてきた。モスグリーンの軍用ヘリだ。ツインターボエンジンの轟音と物凄い風を伴いながら、病院の中庭にあったヘリポートに着陸する。

 

 数秒後、ヘリコプターの中から降りてきたのは、ガスマスクと防護服で全身を固めた十人あまりの自衛隊員だった。

 

 

『皆さん、大丈夫ですか!』

 

 

 自衛隊員は拡声器を通して声を張り上げた。

 

 

『現在この町は、テロリストのまき散らした毒ガスに汚染されています! 神経性のガスで幻覚症状等を引き起こすものですが、命には別状はありません!』

 

 毒ガス。その言葉に住民たちはざわめく。

 

 翔子も思わずハッとした。幻覚症状といえば、まさに今まで自分の身に起こっていたものではないか。

 

 

(じゃあ……私が今まで見たものは……)

 

 毒ガスによる幻覚。

 

 そう思った瞬間、翔子の身体から何かが抜けていった。まるで悪夢から覚めるかのように。重たかった頭が、ほんの少しだが軽くなる。

 

 隊員はなおも叫んでいた。

 

 

『落ち着いてください! 命に影響のあるガスではありません! 繰り返します! 生命を脅かすようなものではありません! 間もなく我々自衛隊の医療部隊が到着いたします! それまでその場を動かないようにしてください!』

 

 

 言われなくても誰が動くか、と翔子は思った。喉が痛い。全身が鉛のように重かった。

 

 

『どうか皆さん、安全が確認されるまでくれぐれも町に戻らないようにしてください!』

 

 

 

 

 上空を旋回していた爆撃機が白い尾を引いて飛び去っていったが、誰も気付かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はい、そうです……なんとか食い止めました……」

 

 織斗はとびそうになる意識を必死でつなぎ止めながら、携帯で東条宮四郎に状況説明を行っていた。

 

「宮四郎さんが派遣してくださった人たちのおかげで、意識レベルが一気に回復しているようです。これなら、ルルイエが顕現することはないでしょう。すみませんが、あとはお願いします」

『承りました。実は私もあと十分ほどでそちらに到着します。後はこちらが陣頭指揮を執りますので』

「……ずいぶん用意が良いですね」

『織斗先生ならば、必ずどうにかしていただけると確信していましたので』

「買い被りすぎです。あと先生は止めてください」

『はっはっは、では後ほど』

「あ、ちょっと」

 

 

 織斗は切れた携帯電話を耳から離した。そこで「グッ!」と苦痛に呻く。手から携帯電話がこぼれ落ちる。

 

 

「さすがに……きつい……」

 

 

 織斗の身体は、動いているのが不思議なほどの状態だった。未だ右腕は肘から先が無く、心臓のあたりは肋骨が見えるくらいにえぐれている。

 

 織斗は闇に染まりそうになる意識を必死でかき集めながら、携帯電話を拾い上げようと手を伸ばす。

 

 しかしわずかに手を伸ばしたところで、織斗の手はぴたりと動きを止めた。まるで幻をつかむかのように虚空を握りしめる。

 

 

 

「……結局、彼女は何がしたかったんだ?」

 

 

 

 今は亡き神木真璃亞に向かって問いかける。

 

 たった一人だけ、織斗には真意を察することが出来ない相手がいた。生霊の方ではない、鞠亜の目を潰し、その身を貯水槽へと投じたオリジナルの神木真璃亞だ。扇田要介、久々津真彦、生霊の真璃亞。これら三人については、行動と発言から、事件を起こした動機をそれなりに察することが出来る。

 

 しかしオリジナルの神木真璃亞だけは別だった。扇田要介に操られていたかといえば、そう言うわけではない。少なくとも病院を抜け出したのは彼女自身の意志によるものだろう。それに神木真璃亞は、失踪直前に瀬阿鞠亜の眼球を潰すという凶行に出ている。これは確実にオリジナルの意志によるものだ。

 

 なぜ、神木真璃亞は瀬阿鞠亜の目を潰したのか?

 

 

(深きものどもの血に操られていたっていうのなら、わからないでもないけど……)

 

 

 しかし織斗は同時にこうも思う。果たして本当に操られていたとしたら、これほどあっさりと病院を抜け出すことができるだろうか。それも人目につかないようにこっそりと。

 

 

(もし、神木真璃亞が本当は狂ってなかったとしたら……扇田要介についていったのも、貯水槽に身を投げたのも、鞠亜の目を潰したのも、すべて神木真璃亞の意志だったとしたら……)

 

 

 事件の本当の首謀者が、神木真璃亞だとしたら?

 

 

「彼女は、何をしようとしてたんだ……?」

 

 

 虚空に向かって今一度問いかける。誰も答えない。

 

「くそ……」

 

 織斗は舌打ちすると、のろのろとした動きで携帯を拾い上げた。次いで側に転がっていた自分の右腕も拾う。意識を保つのがやっとの状態だ。

 

 ふと視線を感じて傍らを見ると、顔を真っ青にした鞠亜が不審と不安の籠もった目でこちらを見つめていた。

 

 

「織斗さん……貴方、いったい……」

「……ジャケットが特別製だって言っても、納得しないよな」

「当たり前よ!」

 

 鞠亜は声を荒げる。

 

「傷口から血が出てないし、心臓を刺されても身体に穴が開いても平然としてるし!」

「……いや、痛いものは痛いんだが」

「そういう問題じゃないわ! どうして織斗さんは……」

 

 鞠亜は感情に乗せて、ついにその言葉を発した。

 

 

 

「どうして死んでいないの!」

 

 

 

 別に鞠亜は、織斗に死んで欲しくてそんな事を言ったわけではない。むしろ織斗には絶対に死んで欲しくないと思っている。

 

 しかしそれとこれとは別だった。鞠亜の生物としての部分が、織斗を異常だと判断していた。死は生物を生物たらしめる最小にして最大の要素だ。死なないものを生き物とは――人間とは言わない。

 

(おかしいじゃない! だってこれじゃあ、まるで……)

 

 

 

 化け物。

 

 

 

 その単語が浮かんだ瞬間、鞠亜の身体を怖気が奔った。思わず後ずさりそうになる。

 

 しかし彼女はその衝動に耐えた。

 

 

「……教えて、織斗さん」まっすぐ織斗を見つめる。「どうして貴方は死なないの?」

「…………」

「織斗さん!」

 

 

 口をつぐむ織斗に、鞠亜は思わず詰め寄った。

 

 そこで彼女は、織斗の目の焦点がどこにもあっていない事に気付く。

 

 数秒後、まるで積み木が崩れるように織斗はその場に崩れ落ちた。

 

 

「織斗さん!」

「わめくでない、小娘」

 

 

 織斗に駆け寄ろうとした瞬間、鞠亜の眼前に一人の少女が忽然と姿を現した。ラピスラズリのような瞳が鞠亜を見つめている。その少女を、鞠亜は一度だけ幻影として目にしたことがあった。

 

「イース……さん……?」

「ほう、一目でわらわが猫と同じ存在であると見抜くか」

 

 イースは楽しげに目を細める。

 

「確か、お主にこちらの姿を見せるのは初めてじゃな?」

「……やっぱりイースさんなのね」

「うむ、こちらの方が本来の姿じゃ」

 

 もっとも本来の姿などあってないようなものじゃが、と呟きながら、イースは崩れ落ちた織斗に歩み寄った。織斗の身体をひょいと横抱きに抱き上げる。少女の細腕とは思えないほどの怪力だった。

 

「ふむ、限界をこえる痛みのせいで精神が一時的に停滞状態に入ったか。むしろよくここまで持ったものじゃな」

「あの、イースさん……?」

「来い、小娘。ここでは落ち着いて話も出来ぬ」

 

 イースは踵を返す。

 

「織斗の秘密、知りたいのじゃろう?」

 

 イースは肩越しに振り返ると、蠱惑的な笑みを浮かべる。鞠亜にはそれが、人を堕落の道へと誘う淫魔の笑みに見えた。思わず躊躇う。

 イースはその動揺を楽しむかのように、

 

「そうそう、先に一つだけ訂正しておこうかの」

「訂正?」

「そうじゃ。織斗は死なないのではない。むしろその真逆じゃ」

 

 イースは爆弾を投下した。

 

 

「こやつはすでに死んでおるのじゃよ。三年も前にの」

 

 

 

 

 

 

 

 Ⅷ

 

 

 

 

 

 

 ももこの診療所へと舞い戻った鞠亜は、そこでイースから驚愕の真実を知らされていた。

 

「織斗さんが…………死人?」

「うむ、そうじゃ」

 

 イースは鷹揚に頷き、

 

「動く死体、生ける屍、リビングデッド、あるいはゾンビ――どのような呼び方でも構わぬが、間違いなく織斗は死んでおるのじゃ」

「……」

 

 鞠亜は呆然と、長いすに寝かされた織斗を見つめた。確かにピクリとも動かない今の姿をみれば、織斗が死体だと言われても納得できる。血色の悪い肌や開ききった瞳孔は、まさに死人のそれだ。

 

「緋瑞織斗という人間はな、すでに何年も前に死んでおるのじゃよ」

 

 イースはとつとつと語り出した。

 

「数年前、織斗は家族でとある怪事件に巻き込まれたのじゃ。その事件の最中、こやつは殺された。しかも実の妹の手によっての」

「妹って……」

 

 鞠亜は口を押さえる。

 

「詳しくはわらわの口からは言えぬな。とにかくこやつは殺され、死んだ。じゃが幸か不幸か、織斗は蘇った」

「蘇った?」

「詳しくは省くが、こやつは蘇った死人なのじゃよ」

 

 もっとも死人と言っても、新陳代謝がほとんど無いだけで見た目や機能は人間と変わりがない。見かけ上だが、呼吸もするし心臓も動いている。痛みも感じれば眠ることも出来る。

 

 しかしそれでも織斗は、概念的には死んでいるのだとイースは言った。

 

 

「織斗の奴はな、ずっと自分を責めておるのじゃよ」

 

 イースはわずかに声のトーンを落とす。

 

「こやつは、幼少の頃から父の背中を見て育ったそうじゃ。常世の平穏を守り、時に殺人鬼と罵られながらも超常現象を狩り続けた、最高のホラーハンターと呼ばれた父をな。じゃからこそ織斗は、己を厭うておるのじゃ。リビングデッドという化け物になってまで、現世に留まり続ける己をの」

 

 さりとて織斗は、死という平穏を望むことも出来ない。彼は知ってしまった。この宇宙には、語ることすら憚られる恐怖があることを。そして織斗は契約した。六千年の時を生きるシュメールの女神官にして、最古の抵抗者たるシリウスの民の最後の一人、イースと。

 

 もはや、織斗は永遠に現世に留まり続ける運命なのだった。狂うことも朽ちることも許されず、ただひたすらこの世の邪悪を狩り続ける。己がもっとも忌み嫌う化け物の身体のままで。

 

 

「こやつはもう人ではない。織斗自身、己が化け物であることを自覚しておる。まあ、もっとも……」

 

 イースはフッと優しげに笑った。徐々に色素が抜けつつある髪をそっと撫でる。

 

「それでもこやつは、人にすがりついていたいようじゃがな」

「織斗さん……」

 

 鞠亜の中を、愛おしさと罪悪感が駆け抜けていった。

 

「私はずっと……貴方を傷つけていたのね……」

 

 思わず涙が零れる。

 ふと鞠亜の脳裏に、かつて織斗が言った言葉が蘇った。

 

『死んだ人のことなんて、さっさと忘れたほうがいい』

 

 おそらく『死んだ人』には、織斗自身のことも含まれていたに違いない。鞠亜はそう思う。織斗はずっと、自分を忘れて貰いたがっていたのだ。自分は人を捨てた化け物。人の記憶に残ってはいけないと。そう思っているに違いない。

 

 しかし織斗は分かっているのだろうか。そう言った人間らしい感情こそが、人を人たらしめるものであることを。

 

「ねえ、織斗さん。貴方言ったわよね……」

 

 織斗の冷たい頬を撫でながら、

 

「人を食べるというのは、神聖で崇高な行為だって。それってつまり、死者を想うことは人間らしい優しい気持ちの表れってことでしょう?」

 

 人間は、唯一死を悲しむ動物だ。地球上にいる生命体の中で、ヒトという種族だけが死者を偲ぶという考え方を持っている。

 

 だからこそ鞠亜は思う。織斗は、決して化け物などではないと。

 

 その時、ふとイースがつぶやいた。

 

「人というのは、二つの幻想を抱いて生きておる」

 

 まるで子供に言い聞かせるような声を鞠亜に向ける。

 

「一つは自分が人であるということ。もう一つは相手が同じ人であると言うことじゃ」

 

 不敵な笑みを浮かべ、鞠亜に問いかけた。

 

「織斗は、化け物と化した今でも己を『人』じゃと思っておる。――お主はどうじゃ?」

「私は……」

 

 自分の胸に問いかけ、鞠亜はすぐにそれが無意味なものだと悟った。

 

 人の想いは変化する。今自分の胸に宿っている想いが、時間によって変質しない保証はどこにもない。

 

 しかしそれでも、今この胸にある愛しさを否定する気はない。

 

 自分はもう決めた。ならば迷う必要はどこにもなかった。

 

「私は、織斗さんを人だと思うわ」はっきりと言った。「誰よりも人らしい人だと」

「良い答えじゃ」

 

 イースは右手を差し出した。芝居がかった口調で言い放つ。

 

「ようこそ、死人を恋慕してしまった憐れなる娘よ。その心が織斗から離れる限り、わらわはお主を同胞として歓迎し続けようぞ」

「よろしく、イースさん」

 

 鞠亜はチョコレート色の手を握りしめる。力強い笑みと共に。

 そこでふとイースは思い出したかのように、

 

「おお、そうじゃ。言い忘れておったが……」

 

 次の瞬間、鞠亜の手からイースの手の感触が消え失せた。

 

「え?」

 

 鞠亜はおもわず目を見開く。イースの手は、いつの間にか半透明となっていた。

 

「織斗が死人ならば、わらわは死霊じゃ」

「はい? 死霊?」

「うむ。しかも織斗に寄生しておるの」

 

 悪戯が成功した子供のように笑い、イースは言った。

 

 

「わらわと織斗はまさに一心同体。つまり織斗の正妻の座はわらわのものじゃ。奪いたくば心するのじゃぞ、マリア?」

 

「……望むところよ」

 

 

 

 

 

 隻眼の少女は不敵に笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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