恐怖狩人 ~クトゥルフ神話ガチ勢が恐怖小説を書いてみた~ 作:セラニアン
二月十四日未明、紀伊縞(きいじま)市立博物館から、一体のミイラが盗難されるという事件が起こった。このミイラは、同博物館が昨年末から開催していた『メソポタミア秘宝展 ~ティグリス、ユーフラテスの交差する地~』にて展示されていた子供のミイラで、出自不明のものらしい。第一発見者の警備員(61歳)によれば、他の宝石、金細工等には、いっさい手は付けられないていなかったという。これらのことから、警察は歴史上の遺物に興味を持つ、熱心な考古物収集家の犯行と見て捜査を続けている。
――『紀伊縞地方新聞』20XX年2月15日の記事より
Ⅰ
日常とは連鎖だ。急激な変化はその鎖に亀裂を生じさせ、緩やかな変化は鎖の中に取り込まれる。
そのことを、緋瑞織斗は身にしみて感じていた。
昼休み。織斗の姿は、学生食堂の片隅にあった。彼の通う私立紀伊縞(きいじま)高校の学生食堂は広く、大きい。それでも、一千人を超える在校生の胃袋を同時に満たすのには、少々手狭だ。食堂内は飢えた高校生に溢れ、喧噪と歓談の声に満ちている。
しかし織斗の周囲だけは違っていた。まるでエアポケットのごとく。他のテーブルは人がひしめき合っているというのに、織斗のいるテーブルには彼しかいない。物理的にも、精神的にも、そこは空白地帯になっていた。
織斗は一人黙し、静かに虚空を睨み付けていた。左目の視力は、ほとんど無い。額から左目にかけて、抉れたような傷跡がある。ただでさえ近寄りがたい織斗の姿を、よりいっそう強くしている。
テーブルには、二人分の日替わり定食。それが誰の分なのか、誰もが知っていた。
「……おにい、ちゃん」
今にも消えそうな声に、織斗の雰囲気から険がとれた。優しげな表情になる。
果たしてそこに立っていたのは、制服姿の小柄な少女だった。肩口で切りそろえた黒髪。幼い顔立ち。サイズが合わないのか、手の平の半分が、袖の中に隠れている。愛らしいというより、可憐。可憐というより、儚い――そんな少女だ。
紀伊縞高校の一年生にして、織斗の実妹、緋瑞柚姫(ゆずき)は、不安げな表情でつぶやいた。
「待った……?」
「いや、ちょうどいいぐらいだ」
努めて穏やかに言い放ち、隣の席へと促す。柚姫は織斗の左側の椅子にちょこんと腰をおろすと、兄の手を握りしめた。
「……寂しかった」
うつむいたまま、織斗の手をつなぐ。まるで、それしか縋るものが無いかのように。
「……」
額の傷跡が、ズキリと疼く。
二ヶ月前、あの惨劇の夜以降、柚姫は一時も織斗から離れようとしなかった。それこそ、離れるのはトイレか入浴の時くらいだ。織斗が退院した最初の一週間に至っては、お風呂すら一緒に入っていた。
そんな彼女にしてみれば、学校など苦痛以外のなにものでもないだろう。学年が違う以上、大半の時間を別々で過ごさなくてはならない。
しかしそれでも、少女は耐えていた。
「……柚姫」
妹は強い、と織斗は思った。両親を殺され、それどころか乙女にとって最大の苦痛を味わった少女、柚姫。しかし心と体に思い傷を負っていながら、しっかりと地に足をつけている。
それにひきかえ、と織斗は自嘲する。妹に比べて、自分のなんと弱いことか。犯人を目撃しているはずなのに、心は思い出すのを拒んでいる。悪夢に怯え、幻痛に怯え、妹がいなければ眠ることすらままならない。
はぁ、と溜息を一つ。内心を悟らぬように、織斗は穏やかに言い放った。
「食べるか?」
「……うん」
躊躇いがちに、少女は兄の手を離した。手を合わせ、いただきます。白いご飯を口に運ぶ。兄と妹。たった二人だけの食卓を妨げる生徒はいない。
緋瑞兄妹に襲いかかった悲劇は、全校生徒の知るところだった。新聞の一面をにぎわせたのだ。当然だろう。そしてそれ故に、生徒たちは皆、織斗たちを腫れ物のように扱うしかなかった。両親を殺された兄妹。妹に至っては、性的暴行すら受けているというのだ。皆が皆、織斗と柚姫への対応にあぐねている。
エアポケットの周囲から注がれる視線。困惑、同情、憐憫。
しかし織斗には、それらに構う余裕はない。
――妹を守れ。犯人に復讐しろ。
その二つだけが、心を塗りつぶす。残された右目に、剣呑な色が浮かび上がる。
しかしそれも、次の瞬間までだった。
いつの間にか、小さな手が織斗の左手を包んでいた。箸をへし折らんばかりに力がこもった手を、柚姫の手がそっと撫でる。
「……大丈夫」少女は囁くように、「……私は、大丈夫だから」
「柚姫……」
思わず溢れそうになった嗚咽を、織斗は必死で飲み込んだ。古傷の疼きが、スッと消えてゆく。自分が恥ずかしい。やはり俺は、駄目な兄貴だな……。
握りしめていた箸を苦労して離し、織斗は手の平を返した。兄の左手と、妹の右手。指と指をからめ、二度と離れないとばかりに握りしめる。
織斗はつぶやいた。
「俺は、ずっとお前の側にいるからな……」
「……うん」
小さく顔をほころばせ、少女は兄の肩に顔を埋めた。周囲の目など気にすることはない。大きく息を吸い込み、兄の匂いを身体に染み込ませる。まるで自分の中にある汚れを、兄の匂いに塗り替えようとするかのように。
悲劇の兄妹。緋瑞織斗、柚姫。
惨劇から一ヶ月。これが、二人の日常だった。
Ⅱ
ランプの明かりによって、石壁に影が映し出された。人の形をした影だ。
人影は、厳かに詩を詠い始める。
――ヤ、アイ……ング、ンガー……
ひどく耳障りな、陰気な詩。まさしく神への罵詈雑言、あるいは、宇宙にはびこる邪悪な神々に捧げられる賛歌だ。全ての命を呪い、無知無能を称えている。
――ヨグ・ソト……ゲブ……
もしこの時、この詩を聞く者があったら、その者は自分の耳を引きちぎっていただろう。あるいは耳を塞ぎ、自分の殻に閉じこもったかもしれない。
それほどまでに、その詩は邪悪に満ちていた。
しかし人影は、楽しげに詠う。邪悪なるかな、邪悪なるかな、邪悪なるかな――
影は、邪悪を讃えていた。
Ⅲ
妹が貧血で倒れた。
織斗がその知らせを受け取ったのは、五時限目が終わる十分前のことだった。
「だ、大丈夫か、柚姫!」
「しー、ダメですよ、織斗先輩」
保健室に飛び込んだ織斗を待っていたのは、見知った後輩の少女の、責めるような視線だった。
「静かにしてください」口の前で人差し指をたてる。「柚姫、眠ってるんですから」
「あ、ああ……すまん、梢ちゃん……」
「分かればよろしいです」
腰に手をあて、後輩の少女はウンウンと頷く。
柚姫のクラスメイトである少女、結城梢は、いわゆる勝ち気な少女だった。猫を思わせるつり目がちな瞳。赤みがかった髪を両サイドで結い上げている。活発な印象だ。
エネルギー溢れる後輩の少女に、織斗はやや圧倒されながら、
「そ、それで柚姫は?」
「いつもの貧血ですよ。今はよく寝てます」
梢に促され、織斗はカーテンに覆われたベッドをのぞき込んだ。
ブラウス姿で、柚姫は小さな寝息を立てていた。お世辞にも血色が良いとは言えない。しかしあどけない寝顔は、幾分か安らいでいるように見えた。
「先生は?」と織斗。
「保健の先生なら、少し用事があるとかで出かけました。すぐに戻るからって。なんか、新しい先生みたいですよ」
「そっか。悪いね、梢ちゃん。いつも柚姫の面倒みてもらっちゃって」
「い、いいんですよ。好きでやってるんですから。――それに、その……柚姫は大切な友達なんですから」
「……ありがとう」
万感の思いで、織斗は梢を見つめた。
皆が腫れ物のように扱う中、梢は数少ない、以前の同じように接してくれる存在だった。彼女がいるだけで、柚姫がどれほど救われているか。それを思うと、織斗は梢に頭が上がらなくなる。
「そ、それよりもですね!」
自分でも恥ずかしいことを言っているという自覚があるのだろう。梢はそっぽを向きながら、
「柚姫、最近どうなんですか? ちゃんとご飯食べてますか?」
「前に比べたら、ね。食欲は戻ってきてると思う」
「そうですか」梢は、まるで子供に言い聞かせるように、「とにかく織斗先輩、柚姫にはもっとちゃんと食べさせなきゃダメですよ。ただでさえ、この子、小食なんですから」
「肝に銘じておく」
苦笑を一つ。久しぶりの笑みだ。
織斗は上半身をかがめると、妹の前髪をそっと払った。さらり。癖のない柚姫の髪は、極上の絹糸のようだ。自然と、織斗の表情が穏やかになる。――よかったな、柚姫。心配してくれる友達が、ちゃんといるぞ。
慈しみに溢れた兄の姿に、梢は小さく肩を落とした。ぽつりと一言。
「……柚姫ばっかり、ずるい」
「? 何か言った、梢ちゃん?」
「ひゃ、え、あ、なんでもないです!」
わたわたと手を振る。
「そ、それじゃあ私、次の授業がありますから!」
「え? あ、ちょ……」
「そのうち遊びに行くって、柚姫にいっといてください!」
弾かれたようにきびすを返す梢。そのまま退室。
「? なんなんだ?」
ツインテールが消えていったドアを見つめ、織斗は首をかしげた。もっとも、鈍感と定評のある織斗が考えたところで、乙女の機微が分かるはずもない。
そういう年頃なんだと、適当に自己完結。それよりも、目先の問題は妹だ。
早退させるべきかどうか、織斗は考えた。もともと貧血持ちの柚姫だが、とにかく貧血で倒れたと言うことは、疲れがたまっているということだろう。彼女にとって、学校が居心地の良い場所ではないのは明白だ。織斗から離れるということが、柚姫に多大なストレスを与えている。
「今日はもう、これ以上離れるべきじゃないか……」
思考は数秒。織斗の脳は、満場一致で早退という決定をはじき出した。タクシーでも拾って帰ればいい。皮肉にも、遺産と両親の生命保険で、金は余るほどある。
そうと決まれば、織斗のすべきことは簡単だった。保険医の先生を捕まえて、早退の旨を伝えるのみ。保健室にいないということは、職員室だろうか。とにかく養護教諭を捜すため、織斗は保健室を出ようとし――
しかしそこで、織斗は奇妙なものを見つけた。
「え……?」
ズキリ、と左目の傷が痛んだ。言いようのない不快感が、身体を駆け回る。まるで、数百匹の蛆虫が、一斉に内臓の中で蠢いたような、そんな感覚。
「……」
誘蛾灯に誘われるように、織斗は窓際の机に歩み寄った。
安っぽいアルミ製のデスクの上。一冊の本が、開いたまま伏せられていた。辞書のように分厚く、美麗な装飾がなされている。紙もただの植物紙ではない。羊皮紙だろうか。明らかに年代を感じさせる。革製の表紙には、不可思議な書体で題名が刻まれていた。少なくとも、欧米圏の文字ではない。
織斗は誘われるまま、装飾本を手に取った。開いていたページをのぞき込むと、ミミズがのたくったような、不可思議な文字が連ねられている。一部分に、薄くアンダーラインが引かれている。そのラインの下には、訳文と思しき日本語が書き付けられていた。
獣の本質たる塩を抽出し、これを保存する場合、才知ある者であれば、その神殿内に善良夫ノアの方舟を置き、好むがまま、死灰より元の形を復元することが可能である。同様に魔道に長けた賢人ならば、人間の本質たる塩と遺骸よりもたらされし死灰を用い、死者の生前の姿を、俗世で行われる降霊術などに頼ることなく、呼び出すことが可能である。
「――イスラムの
「っ!」
突如響いた声に、織斗は弾かれたように振り返った。
はたしてそこにいたのは、一目で異国出身と分かる少女だった。チョコレート色の肌に、腰まで届く純白の髪。ラピスラズリのような蒼碧色の瞳には、不思議な深みがある。紀伊縞高校指定のブレザーを纏っているが、見た目は随分と幼い。柚姫も童顔だが、この異国の少女に至っては、小学生でも通用しそうだった。
少女は年不相応な妖艶な笑みを浮かべ、織斗の手元を指さした。
「その書はな」酷く時代ががった口調で、「イスラムの琴というのじゃ」
「イスラムの、琴……?」
本の名を口にして、織斗は後悔した。イスラムの琴。なんでもないはずのその名は、しかし不吉な響きを持って、織斗の脳内に焼き付いた。
「安心するが良い」少女は、さも愉快気に口元をゆがめると、「かの禁書の別題を称しておるが、実際は意訳に意訳を重ねた劣化版にすぎぬ。内包された神秘も、現世を浸食する狂気も、大したものではない。よくてラテン語版……下手をすれば、英訳版と変わらぬ程度の三流書じゃ」
「? 英語版? ラテン語版?」
「……お主、もしや知らぬのか?」
少女は眉をひそめる。
「東洋の民は勤勉博学と聞いていたが、随分と堕ちたものじゃの」嘆息を一つ。「――まあ、よい。教えてやる。イスラムの琴とは、かの憎き抵抗者、狂人、アブドゥル・アルハザードが著した禁書、魔蟲の咆哮と詠われし魔道書『アル・アジフ』の別題じゃ」
「アル・アジフ?」
「お主ら東洋の民には、『死霊秘法(ネクロノミコン)』と言った方がよいかの?」
「な……」
今度こそ、織斗は戦慄した。
考古学の教授であった父親から、以前、聞かされたことがある。禁断の魔道書。あまねく死と霊に関する秘術を連ねた外道の書。ネクロノミコン。そのページに書かれた恐怖と狂気の知識は、全ての命の価値を、等しく灰燼に化すという。――それが、この本?
「っ!」
怖気混じりの鳥肌が、一瞬にして両腕を覆った。投げ捨てるように、本を机に戻す。
「ほう。どうやら知識はないが、知覚はするどいようじゃな」
いつの間にか、少女は織斗の目の前に移動していた。高級チョコレートの様な腕を伸ばし、荒い息をつく織斗の頬を撫でる。
「よいぞ、その顔」まるで飼い犬を愛でるかのように、「恐怖がにじみ、現世を浸食しようとしておる。実によい」
「き、君はいったい……」
「君などと、他人行儀なことを申すな。妾の名はイースじゃ」
「……イース?」
「そうじゃ。特別にお主には、名で呼ぶことを許そう」
不敵に、妖艶に、幼い少女は嗤う。
「しかしお主は、何とも不思議な匂いを発しておるな。妾には分かる。お主の身体に染みついた、暗く、死灰にまみれた臭気が。――お主、名は?」
正面から見つめられ、織斗の心臓が跳ね上がった。美しい瞳。深淵で光るラピスラズリ。魅了されたかのごとく、織斗の思考に霞がかかった。自然と口が動く。
「ひ、緋瑞、織斗……」
「なるほど、ヒミズ・オリトか。――ふふ、お主の真名、しかと覚えたぞ。もはやお主の霊魂は、その一片に至るまで妾のものじゃ。その脳髄に宿るものも、妾の支配下に置いてやろう」
その後起こった出来事は、まさに一瞬だった。
織斗のネクタイを強引に引くと、少女はそのまま織斗の唇を奪った。深淵で光るラピスラズリに、織斗の顔が映る。思考が停止する。それと同時に、強烈な甘美が織斗の心を犯してゆく。従え。服従しろ。お主は妾のものだ。意識が遠のく。
しかし次の瞬間、織斗の意識は強引に引き戻された。
ズキリ。額の傷が、強烈な痛みを織斗にもたらした。頭が痛い。吐き気がする。甘美をもたらすはずの少女の唾液を、しかし織斗の肉体は、はっきりと拒絶していた。
「ほう!」
少女は織斗から顔を離し、感嘆の吐息を吐いた。唇をペロリとなめる。幼い容姿とは裏腹に、その仕草はまさに淫魔だ。
しかし織斗に、そんなことを気にする余裕はない。
「く、あ……」
酷い吐き気と頭痛に、織斗は蹌踉めいた。意識が混濁する。唇にのこされた少女の体液と、織斗の中にある何かが、拒絶反応を起こしている。
酩酊する青年の耳元で、鈴が転がったような声が響いた。
「妾の寵愛を拒むとは、なんとも無礼な奴じゃ」心底愉快気に、「しかし、それがまた良い。くせになりそうじゃ。オリトよ、覚悟することじゃな。お主の飼い主が誰かは知らぬが、お主という存在を、必ず読みとってくれようぞ」
陰鬱な詩が、織斗の耳朶を打つ。気持ちが悪い。自分の身体なのに、制御が出来ない。邪悪な気が、口内で暴れ狂う。詩は続く。邪悪なるかな、邪悪なるかな、邪悪なるかな――
――…………
「あらあら、どうしたんですか?」
「っ!」
肩をつかまれ、織斗は飛び上がった。振り返る。栗色の髪。ほんわかとした笑み。メリハリのある身体。そして白衣。
――白衣?
「大丈夫ですか?」白衣の女性は、茶目っ気のある笑みを浮かべながら、「そんなところでぼーっとしてたら、塩の柱になっちゃいますよ。それとも調子でも悪いんですか?」
「え、いや、その……」
呆然と、織斗は周囲を見渡した。清潔な保健室。異国の少女の姿など、どこにもない。
白昼夢だったのか、と一瞬思う。しかし織斗は、すぐさまその考えを否定した。目の前にある、美麗な装飾本。日の光を浴びながらも、その本の周囲は、なぜか澱んでいるように見えた。織斗が投げ捨てた状態のまま、例の訳文がのったページが開かれている。
「あら? もしかして、その本が気にいりました?」
白衣の女性は、ひょいと豪華本を手に取った。あまりに自然だったため、織斗は何も出来なかった。
「素敵だと思いません、これ」本を掲げる。「前に住んでた町にあった古書店で見つけたんですよ。まるで魔法の本みたいですよね。魔法少女にへんしーん、みたいな感じで」
本を抱え、女性はポーズを取る。見ようによっては微笑ましい。
しかし織斗には、笑みを浮かべる余裕などなかった。口の中が甘ったるく、気持ちが悪い。いや、それよりも問題は本だ。この女性は知っているのだろうか。いま抱えている書が、禁断の外道書であることに。知らないのであれば、教えなければいけない。
だが、と織斗は即座に思いとどまった。知らないならば、知らないままのほうが良いのではないか。そう結論を出す。
それになによりも、もうこれ以上、この本の近くにいたくなかった。
「えと、保険の先生ですよね?」と、織斗。
「はい、そうですよ。今週から、この学校で非常勤養護教諭として働くことになりました、シオン・ウィレット・佐木川(さきがわ)って言います。実はこう見えても、アメリカ人とのハーフさんなんですよ」
すごいでしょ、と女性は胸をはる。そのボリュームは、確かにアメリア産だ。織斗の目の前で、二つの巨大なメロンがぷるるんと揺れている。
「……」
早退はもう少し後でも良いかな、と織斗は思った。
Ⅳ
校門から出て行くタクシーを見つめ、少女は妖艶に嗤った。唇に残った感触。舌をしびれさせる味わい。――なるほど、間違いはなさそうだ。
「……どうでしたか、味見のほうは?」
「足りぬ」
背後からかけられた声に、少女は端的に答えた。
「あの程度の味見では、さすがに無理じゃ」
「それは困りましたね」少々固い声で、「けれど、まだ動いてはいけませんよ」
「分かっておる。星が正しい位置についておらぬ以上、手出しはせぬ。妾を誰だと思っておるのじゃ。シリウスの民にして星々と交わるための張り型、
「イースではないんですか?」
「それもまた妾じゃ。高貴なる種族は、名を多数もつ。お主らのような単なる人の子らと一緒にするでない」
不敵に笑う。その瞳に輝くラピスラズリは、しかし今や、汚泥のように淀んでいた。
「それにしても、お主も奇特な奴じゃな」
少女は視線を前に向けたまま、
「抵抗者の血族でありながら、妾を呼び出すとはな。お主らにとっては、蘇生は御法度じゃろう?」
「ええ、そうです。ですが、かまいません。私は抵抗者である以上に、一人の人間です」
「ふむ、まったくもって『W(ダブル)の後継』とは思えぬ言葉よな」
意味深な目で、少女は傍らを見る。
しかし女性は、動じた様子もなく、
「私は、人間で、女で、そして神殺しの血族ですから」
その答えを聞き、少女はたまらず高笑した。
「よい、実によい。なんとも愉快じゃ。おい、お主。どうしてくれるのじゃ。笑いすぎたせいで、餓えが酷くなってしまったではないか。どう責任を取るつもりじゃ」
「……それは、私のせいなのですか?」
「当然じゃ」
大仰に頷く。
「さて、どうやって餓えを満たしたものか」
「……ダメですよ。まだ」
「分かっておる。ここは人間の餌で我慢してやる。たしかスシと言ったか? あれはなかなか美味じゃった。スシを食わせろ」
その言葉に、始めて女性の顔が強ばる。
「ま、またですか。だって、一昨日も……」
「時間の経過など、妾の種族には関係ない。それに東洋では、祝い事にスシを食らうと聞いた。なれば前祝いに、スシを食わねばなるまい。――よいな?」
不敵な笑み。その笑みに逆らえる者はいない。
「私のお給料が……」
白衣の女性は、がっくりと肩を落とした。
Ⅴ
霊の種類に、自縛霊というものがある。これは一般的に、土地もしくは建物に憑く霊を指す。文字通り、縛り付けられた霊だ。
もちろん、霊魂が存在するか否かについては、議論の余地があるだろう。ただ少なくとも、土地や建物には、超常的な『何か』を引き寄せる力がある。それが殺人事件のあった場所ならばなおさらだ。霊魂うんぬんはさておき、そんな場所に住みたいと思う人間はいない。
それは、緋瑞織斗にも言えることだった。
学校まで徒歩二十分。最寄りの駅まで徒歩七分。プロヴィデンス・ハイアットと銘のうたれたマンションの四〇八号室で、兄妹は寄り添うように生活していた。
典型的な2DK。玄関から一直線に続く廊下の両側に、個室とバス・トイレ。突き当たりにダイニングとキッチン。広くもなく、狭くもない。もし恋人同士が同棲するのであれば、甘く楽しい生活が出来そうな部屋だ。
しかしそんな部屋に満ちているのは、甘さなど微塵もない静寂だった。
「おやすみ、柚姫……」
柚姫をベッドに寝かしつけ、織斗は静かに妹の部屋を後にした。
結局あの後、柚姫が目を覚ましたのはタクシーに乗り降りする時と、夕食を食べる時の二回だけだった。それ以外は、ずっと眠っている。夕食後に至っては、そのままソファで眠っていたほどだ。よほど疲れが溜まっていたのだろう。
妹をソファから部屋に運び、織斗はようやく人心地ついた。先ほどまで妹が横になっていたソファに腰を下ろす。静かだ。
あの事件の後すぐ、織斗と柚姫はこのマンションに引っ越した。惨劇のあった家で平然と生活することなど、出来ようはずもない。もちろん長年住み慣れた家を離れることに、抵抗が無かったわけではない。しかし柚姫の心情を考え、すぐにも引っ越した方がいいと判断。父親の知り合いを通してマンションを借り上げた。
それから一ヶ月。ずいぶんと住み慣れた、とは思う。真新しいマンションの部屋は清潔で、機能的だ。シャワーのお湯の出も、前の家とは比べものにならないほど良い。
しかしここを我が家と思えるかと問われれば、織斗は首を横に振らざるを得なかった。生まれ育った洋館とは、雰囲気が全く違うということもある。しかし何よりも、ここは静かすぎた。自分と妹が住んでいるというのに、どこか空白がある。だれも住んでいないような気配。もちろんその感覚が、どこから来ているのかは明白だ。
「要するに、俺は不安なんだな……」
口に出して再確認する。両親のいない不安。先行きへの不安。妹のことについての不安。復讐が完遂するかどうかの不安。――不安だらけだ。
ソファの背もたれ越しに、織斗は廊下の方へ顔を向けた。廊下の暗闇のおくに、妹の部屋のドアが見える。とはいえ、常に織斗にくっついている柚姫は、ほとんど自室を使っていない。寝るときも、織斗のベッドに潜り込むのが常だ。
そういえば、と織斗。いったい独り寝をしたのは、いつ以来だろうかと考える。事件後、一週間ほど入院していた時でさえ、織斗の傍らには少女の姿があった。その後すぐにこのマンションに転居。とどのつまり、事件後、独り寝をしたことは一度もない。
「寒いな……」
精神的な寒気を感じ、織斗は身を竦めた。人肌が恋しい。まるで親から引き離された幼子の気分だ。無意識の内に、妹のぬくもりを探している。
(なんて女々しい……)
意識して、織斗は妹の部屋のドアから視線を戻した。テレビを付ける。バラエティーを見る気分ではない。音楽番組か、ニュースがいい。しかしどの局も、織斗の要求に応えてはくれなかった。
テレビを消し、虚空を仰ぎ見た。小さな壁掛け時計が、一定のリズムで時を刻んでいる。テレビの脇には、大きなクマのぬいぐるみが鎮座している。一ヶ月ほど前、柚姫の誕生日に父親が送ったものだ。――あの惨劇が起こる、わずか数時間前に。
惨劇が起こった一月十七日は、柚姫の十六才の誕生日だった。なんて皮肉だろうか、と織斗は考えずにはいられない。十六才。結婚出来る年齢に達したその日に、少女は純潔を奪われたのだ。見知らぬ殺人鬼によって。
いや、違うな、と織斗は訂正する。見知らぬといったが、それは適当な言葉ではない。
織斗の両親を殺し、柚姫の純潔を奪った犯罪者は、しかし家の中を一切荒らしていなかった。特に盗まれたものはない。場当たり的な強盗犯とも考えられるが、それにしては両親に対する暴行が度を超している。司法解剖によれば、織斗の両親は頭部を十回以上殴打されていた。執念すら感じられる。
おそらく怨恨によるものだろう、と織斗の事情聴取をした刑事は言った。両親に恨みを持つ何者かが、憎悪に任せて父と母を殺し、それに飽きたらず娘を辱めたのだろう、と。もっとも、それだけでは説明できないこともある。織斗についてだ。滅多打ちにあった両親とは違い、織斗が犯人に食らったのは一発だけだ。確かに傷跡は酷いし、左目は失明寸前であるが、しかし命に別状のあるものではない。
――どうして犯人は、自分を殺さなかったのか?
これに関して、警察はひとつの推論を出していた。そしてその推論が、織斗の精神を酷くかき乱していた。
織斗を前に、刑事はこう述べた。
『この事件は、顔見知りの犯行とみて間違いないだろうな。織斗つったか? おそらくお前さんのオヤジさんか、お袋さんか、もしくは両方に恨みをもつ者が、この事件を起こしたんだろう。嬢ちゃんは、その巻き添えを食った。
お前さんだけが殺されなかったことについて、俺たち警察はこう考えている。顔見知りの犯行といったが、それはお前さんにとっても顔見知りなんだ。そしてその犯人は、お前さんの両親には殺意を抱いていたが、織斗、お前さん自身には好意を持っていたんだろう。だから、お前さんは殺されなかった。
お前さんにしてみりゃ、つらい事を言っていると思うぜ。けれど織斗、それを承知で言う。思い出してくれ。お前さんは犯人を見ているはずなんだ。そしてその犯人は、お前さんの見知った人物である可能性が高い。頼む、織斗。お前さんだって、両親と妹の敵をとりてえだろう。どうにか、犯人を思い出してくれ』
刑事の言った言葉は、織斗に強烈な疑心暗鬼と自己嫌悪を引き起こした。
前者については当然だろう。両親を殺し、誕生日のその日に妹を犯した悪鬼が知り合いだと言われたのだ。近所の人も、仲の良かったクラスメイトも、全てが犯人に思えてきてしまう。織斗が学校でぎらついた目をしているのも、そう言う理由からだ。
そして後者については、もはや言うまでもない。犯人を見ているはずなのに、思い出せない自分。そのことについて、医者は記憶障害だろうと診断した。頭部に強い衝撃を受けたことで、一種の記憶喪失になったのだろう、と。しかし例えそうだとしても、織斗は自分が許せなかった。
「……くそっ」
いらだたしげに吐き捨てる。ふと、クマのぬいぐるみと目が合う。父親が娘におくったぬいぐるみは、静かに織斗を見つめていた。脇目もふらず、無機質に。その視線が、織斗を容赦なく責める。どうしてお前は、ボクのご主人さまを守れなかったんだ!
たまらず、織斗は目をそらした。消えたテレビが目に入る。ディスプレイに、うなだれた自分の姿が映る。その背後では、小さな白い影が揺らめいていた。――なに?
ガチャン!
「……っ!」
突如響いた物音に、織斗は過敏に反応した。不安感がふくれあがり、精神を浸食する。急に一人ぼっちになってしまったかのような感覚。――いや、そんなはずはない。きっと柚姫が目を覚ましたんだ。
「柚姫、も、もう身体は大丈夫な……」
むりやり明るくした声は、しかし尻つぼみになって消えていった。
時間をかけて振り返った先。ダイニングから玄関まで一直線に続く廊下は、まったくの無人だった。柚姫の部屋のドアも、閉められたまま。
「……」
ゴクリと、織斗は喉を鳴らした。静まりかえった室内。物音を立てる人物など、誰一人としていない。カチカチと、秒針が時を刻む。一分、二分。静寂が続く。
きっかり三分後、織斗は大きく息を吐き出した。気のせいだと、自分に言い聞かせる。きっと空耳だったのだと――
ドンドン! ドンドン!
「っ!」
文字通り、織斗の心臓が跳ね上がった。あまりの不意打ちに、息がつまりそうになる。
しかしそんな織斗に関係なく、ノック音は続く。ドンドン! ドンドン! 間違いない、誰かが玄関のドアを叩いている。時間は九時過ぎ。こんな夜分に、どんな訪問者が?
織斗は息を殺し、ソファから立ち上がった。廊下を進み、玄関へ。鍵はかかっているが、チェーンロックはしていない。ちゃんと閉めたはずだが、しかし改めて思い出すと自信がない。
いや、それよりも問題は訪問者だ。早鐘を打つ心臓を押さえつけ、魚眼レンズをのぞき込む。しかし死角にいるのか、訪問者の姿は見えない。見えるのは、ドアを叩く腕のみ。ドンドン! 幸いにも、その手にハンマーは握られていない。
織斗はチェーンロックをはめると、ドアの鍵をはずした。ガチャン! 予想以上に大きな音が鳴り、織斗の肩が跳ね上がる。ノブを回し、そっとドアを開け――
「ど、どちら様で…………っ!」
息をのむ。まさに一瞬だった。
織斗がドアを開けた瞬間、その隙間に、細い腕が強引に突っ込まれた。真っ白い、女の手だ。たおやかなその手には、よれよれの一〇〇ドル札が握られている。――ドル札?
「あ、あのぉ、すいません……これを日本円に換金して貰えないでしょうか……?」
「……は?」
ドアの向こうで、シオン・ウィレット・佐木川保険医が、半べそをかいていた。
Ⅵ
結城梢は、決して夜遊びをするような少女ではない。しかし今、彼女は夜の町をひた歩いていた。
「ふふ……」
梢の顔は、僅かな不安と、それを塗りつぶす大きな期待に溢れていた。トレードマークのツインテールはいつも通りだが、服装は随分と気合いが入っている。チェックのフレアスカート、黒のニーソックス、クリーム色のダッフルコート。間違っても、コンビニにアイスを買いに行く服装ではない。どちらかといえば勝負服だ。
彼女の手には、愛用の折り畳み式携帯電話が握られていた。自然と早足になるのを抑えながら、梢はディスプレイを開いた。そこには、何度も読み返したメール文がある。
『大事な話がある。今すぐ、二人きりで逢いたい』
送り主の気質をよく表した、実直で、少し堅苦しい文面。おもわず顔がにやけるのを、梢は抑えられなかった。しかし、それもしかたがないだろう。片思いをしていた相手からの、突然の呼び出しなのだ。期待するなという方が無理だ。
「いったい先輩、何の用だろ」
梢の脳裏に、イメージ映像が浮かび上がる。二月も押し迫った、冬の夜。公園の街灯の下で、梢は思い人に抱きしめられていた。白い息を吐きながら、青年はつぶやく。好きだ。彼らしい、飾りのない、けれどまっすぐな告白――
「ってなに妄想してんのよ、アタシは!」
真っ赤になりながら、梢は自分自身に突っ込んだ。まさか自分に、こんな乙女チックな願望があっただなんて。恥ずかしさのあまり、小走りになる。
梢が片思いを抱き始めたのは、去年の夏のこと。貧血で倒れたクラスメイトを、保健室に連れて行った時のことだった。
『君が、妹の面倒を見てくれたのか。悪いね、ありがとう』
ほとんど一目惚れと言っていい。クラスメイトの兄と名乗った、少し近寄りがたく、大人っぽい雰囲気の先輩。しかし妹に対して見せた優しげな表情は、いまも梢の脳裏に焼き付いている。
お兄ちゃんか、と梢は口の中でつぶやいた。もしかしたら自分は、兄という存在に憧れているのかも知れないと思った。梢は一人っ子だ。年上の兄姉が欲しいと思ったことは、一度や二度ではない。そんな時に現れた、年上の先輩。もしかしたら自分は、まだ見ぬ兄の姿を、その先輩に重ねているのかも知れない。お兄ちゃん……
「お兄ちゃん、大好き……って、落ち着きなさい、アタシ! 何口走ってるのよ!」
思考がヤバイ方向に突っ走っている。暴走状態だ。メール一つでうかれるんじゃないわよ、と自分に自重を促す。深呼吸。しばらく吸って吐いてを繰り返す内に、頭が冷える。ちなみに頭と言えば、親友の柚姫は、よくあの人に頭を撫でてもらっている。正直ずるいと思う。自分にも少しくらい分けてくれても――
「ダメだ! 全然冷えてない!」
頭を掻きむしる。ショート寸前だ。
「ああもう、こうなったらヤケよ!」思い切り叫ぶ。「私は先輩が好き! OK、確認完了!」
なるようになれ、と梢。少なくとも、自分の先輩に対する想いは本物だ。疑いようもない。ならば後は、ひたすら押しの一手だ。先輩が告白してくれるのであれば、それでよし。もし違うのであれば、最悪押し倒してしまうことも視野に入れる。夜の公園。初体験の場所としては少々アレだが、贅沢は言っていられない。その辺は若さでカバーだ。
恋する乙女は走る。携帯を握りしめ、夜の闇をかき分けて。
「待っててくださいね、先輩!」
メールの送り主の部分には、こう記されていた。
【緋瑞 織斗】
Ⅶ
「ありがとうございます、ほんとぉにありがとうございます! 財布の中にはUSダラーしかないし、銀行もしまっちゃってて、もう、どうしようかと思ってたんですよ。これでやっと家に帰れます」
一万円札を掲げ、シオン・W・佐木川保険医はひたすらペコペコと頭を下げていた。そのたびに二つのメロンが揺れる。正直目のやり場に困る。
「い、いえ、困った時はお互い様と言いますし……」織斗は、顔を赤くしながら、「……そ、それより、どうして日本円を持って無かったんですか?」
「う!」
シオン女史の顔が引きつった。
「そ、それはですね、なんと言いますか、その、回転寿司が……回転して、お寿司が……お寿司がどんどん回ってて……うぅ……」
何か悲しいことでも思い出したのだろうか。突然、ベソをかき始める。
織斗はあわてふためきながら、
「そ、その、元気を出してください、先生。お金はまた、ある時に返してくれればいいですから」
「うぅ、ありがとうございます」シオンは感極まったように織斗の手を取ると、「織斗君は、本当に優しいですね。そういうところは、緋瑞教授にそっくりです」
「……え?」
織斗の思考が、一瞬止まる。いまこの先生は、なんと言った? 緋瑞教授? それはつまり、父さんのことか?
「……先生は」恐る恐る尋ねる。「父さんの事を知ってるんですか?」
「はい……実は私、昔一年ほど、緋瑞教授の教え子だった事があるんです……」
目を伏せ、シオンは深々と頭を下げた。
「……この度は、本当にご愁傷様です」
「……どうも」
会釈で返す。この一ヶ月で何度もしたやりとりだが、慣れることはない。
「緋瑞教授には、本当によくしてもらいました……」シオンは俯いたまま、「私の家、実は家庭環境が複雑で、それでよく教授に相談に乗ってもらっていたんです。いろいろあって考古学から医学に転向して、アメリカの実家に帰ったんですけど、その間もメールとか色々やりとりしてたんです。そうしたら、突然メールが来なくなって、教授が殺されたって……」
ぽろぽろと、シオンの目から涙がこぼれる。先ほどのベソをかいていたときとは違う、本当に悲しい表情だ。
声を詰まらせ、嗚咽をもらす女性の姿に、織斗はいたたまれない気持ちになった。同時に、犯人への怒りが湧き上がる。お前は、どれだけの人間を苦しめれば気が済むんだ!
口を一文字に閉じ、怒りに震える。そんな織斗の様子を見て、シオン保険医は俯いていた顔を上げた。力なく肩を落とす。
「ごめんなさい……」くらい表情で、「私なんかより、織斗君や柚姫ちゃんのほうが辛いですよね……なのに勝手に泣いちゃって……」
「……いえ」
犯人への怒りを、どうにか押し込めながら、
「悪いのは、全て犯人ですから」
「……早く、捕まると良いですね」
「……はい」
自分が捕まえてやる、と公言することは出来ない。
玄関に満ちる、痛いほどの沈黙。先に耐えられなくなったのは、シオンの方だった。
「あの、そういえば、柚姫ちゃんは?」
「……もう寝てます」織斗は、妹の部屋のドアを一別し、「疲れが溜まっていたみたいで」
「そうですか……」シオンは、織斗の手をそっと握りしめると、「織斗君も辛いと思いますけど、柚姫ちゃんのこと、ちゃんと見ててあげてくださいね。私で出来ることだったら協力しますから」
「……ありがとうございます」
ありがたく、その申し出を受けることにした。
「それじゃあ、私、帰りますから。お金、本当にありがとうございますね」
ペコリと一礼。保険医は、静かにドアを閉めた。
「ふぅ……」
溜息を一つ。よろよろと廊下を進み、織斗はソファに倒れ込んだ。疲れた。肉体的ではなく、精神的に。女性の涙を見ることが、これほど精神的苦痛を強いるとは、まったく思いもしなかった。
「シオン先生、か……」
織斗は今一度、父親の元教え子と名乗った保険医を思い起こした。栗色の髪に、メリハリのある肉体。見た目は大人びているのに、しかし一旦口を開くと、子供っぽい印象を受ける。なかなかどうして、魅力的な女性だ。
しかし織斗の思考の冷静な部分は、その魅力的な女性を、冷淡に分析していた。分析項目はたったの二つ。犯人であるか、否か。
織斗の顔見知りという観点から言えば、シオン保険医は容疑者候補からはずれるだろう。彼女と自分は、間違いなく今日が初対面であった。第一、彼女は女だ。女では、どうあがいても柚姫を強姦することは出来ない。
だが、と織斗は考え直す。直接的な犯人ではなくても、間接的な犯人と言うことは考えられる。そもそも、単独犯と決まったわけではない。複数犯ということも、十分に考えられるのだ。
「どちらにせよ、情報不足か……」
情報が足りない、と織斗は切に思った。復讐を遂げたいという願望はあっても、それを達成するだけの情報がない。父親のことについてもそうだ。シオン・W・佐木川という教え子がいたことも知らなければ、詳しい人間関係もしらない。そもそも考古学の教授をしているという事以外、ほとんど何も知らない。何の研究していたかについても不明だ。まずはそこから調べねばならないだろう。
「明日……とにかく一度、シオン先生から父さんの話を聞いてみるか……」
場合によっては、一度、前の家に戻らなくてはいけない、と織斗は考える。正直気が乗らないが、仕方がない。前の家の書庫や書斎には、父親の行っていた研究についての資料等が在るはずだ。今のマンションには、そういったものが一つもない。着の身着のまま移り住んだのだ。そういえば、あまりに急な引っ越しだったため、必要な届け出もまったくしていない。学校への転居届すら提出して――
「……ちょっとまて、それならどうして、シオン先生はこの家を知ってたんだ?」
はたと気付く。どうして、そのことに最初に気付かなかったのだろうか。シオン保険医が、自分たちの部屋を知っていたことに。
繰り返すが、織斗たちが引っ越したことを知っているのは、ごく少数だ。部屋を手配してもらった父の友人、不動産屋、事情を知っている刑事、お見舞いに来てくれた結城梢。その程度しかいない。
――いったい彼女は、どこでこの部屋の住所を……?
ずきり、と左目の傷跡が痛んだ。考えても分からない事ばかりだ。保健室で出会った異国の少女。不吉な気配を帯びた魔道書。教え子と名乗る訪問者。どれもこれもがバラバラのようで、しかし一本の鎖の上に並べられているようにも思える。超常の力を持った、何者かの手によって。
「何かが……始まろうとしてるのか……?」
それは、ほとんど直感と言っていい。しかし織斗は、その直感に間違いがないことを確信していた。幻痛は、織斗に訴えかける。これから、お前の日常は変わる。しかしその変化は、とても微々たるものだ。いずれ連鎖の中に取り込まれ、日常になる。緋瑞織斗よ、見落とすな。日常とは連鎖だ。しかしその連鎖を断ち切らぬ限り、本当の日常は得られぬのだ!
「分かってる……」
織斗はソファに身を投げ出したまま、傷跡を撫でる。
クマのぬいぐるみは、それを無機質に見つめていた。