恐怖狩人 ~クトゥルフ神話ガチ勢が恐怖小説を書いてみた~ 作:セラニアン
二月二十日未明、紀伊縞市中心部の公園で、若い女性の他殺死体が発見された。被害者は頭部を複数回殴打されており、死因は脳挫傷と思われる。所持品から、被害者は市内の私立高校に通う結城梢さん(十六)と見られており、警察は確認を急いでいる。犯行の手口から、警察は先月十九日に市内で発生した一家撲殺傷害事件との関連性も視野に入れ、捜査を続ける方針だ。
――『紀伊縞地方新聞』二月二十一日付の記事より。
Ⅰ
息苦しさを感じ、織斗は目を覚ました。身体が動かない。
(もしかして、これが金縛りというやつか……?)
それにしては妙だ、と織斗は思った。金縛りといえば、ホラーの定番だ。身体が動かないというだけで、人間の精神は簡単に恐怖に染まる。
しかし金縛りにあいながら、織斗は全くといっていいほど恐怖を感じていなかった。確かに息苦しい。しかし妙な安心感が、織斗を包んでいる。どこか覚えのある安心感が。
(ふむ……)
織斗は試しに、利き手を動かしてみた。すこし痺れているが、まったく動かないわけではない。何度か動かす。手の平に感じるのは、やわらかく、しっとりとした感触。ふに、ふに。安心感が心を満たしてゆく。
「んっ…………」
その時、押し殺したような声が、織斗の耳朶を打った。聞き覚えのある声だ。そういえば、この感触も覚えがある。柔らかく、手の平にすっぽりと収まるサイズ。これはまさしく――
(柚姫のおっぱ……ってなんだとっ!)
恐る恐る目を開く。そこにあったのは、頬を朱く染めた妹の顔だった。切なげな表情で、織斗を見つめている。視線を下に移せば、柚姫の身体に押しつぶされた左手がある。ちょうどその真上には、妹の慎ましげな双丘。薄手のパジャマにつつまれたそれは、織斗の左手が動く度に、申し訳程度に形を変えていた。ふに、ふに、と。
「あっ……っ……」
(まさか俺は……ずっと柚姫の胸を……?)
サーッと青くなる。
対して柚姫は、瞳を潤ませながら、ぽつりとつぶやいた。
「お兄ちゃんだったら……私……いいよ……」
「ぐっ!」
何か色々な衝撃を受け、織斗はソファの上でのけぞった。どうやら昨日、そのままソファで寝てしまったらしい。柚姫がいると言うことは、夜中に潜り込んできたのだろうか。毛布と共に、少女の身体が織斗を覆っている。肉布団状態だ。
(まずい……何かが決定的にまずい……)
織斗の背中を、冷や汗が流れてゆく。切なげに、織斗を見下ろす柚姫。ちなみに織斗の左手は、未だに実妹の胸を揉みしだいている。柔らかい。
緋瑞織斗。十七才。どうやら、独り寝には縁遠いらしい。
ダイニング周辺をごそごそと動き回る兄の姿に、少女はきょとんと目を瞬かせた。
「……?」
おみそ汁をかき混ぜながら、柚姫は小さく首をかしげる。
基本的に、現在の緋瑞家の家事は、柚姫が一手に請け負っている。なにかしていた方が、余計なことを考えないですむと、織斗をむりやり納得させた結果だ。よほどのことがない限り、兄をキッチンに立たせたりはしない。
おみそ汁の味見をする。おいしい。火を止め、制服の上に纏っていたエプロンを脱ぐ。
ダイニングでは、未だに織斗がソファの脇やらテレビの裏やらを、ごそごそと嗅ぎ回っていた。どうやら何かを探しているようだ。
「……どうしたの、お兄ちゃん?」
「あ、ああ……」先ほどの事を引きずっているのか、織斗は少しどもりながら、「実は、携帯がみつからなくてな」
「携帯電話?」
「ああ。二、三日前に充電して、そのままほったらかしにしといたはずなんだが……」
「……鳴らしてみる?」
制服のポケットから、自分の携帯電話を出す。無骨なそれは、織斗と色違いで買った、おそろいの携帯電話だった。
「頼む」
「……わかった」
一番始めに登録してある、兄の電話番号にコールする。
『おかけになった電話は、現在電波の届かないところにあるか、電源が……』
「……だって」
「みたいだな」首をひねりながら、「しかし、どこに行ったんだか……」
「充電したの?」
「ああ、二、三日前にな。だが、その後どうしたかが記憶にない。学校に持って行ってはないはずなんだが……」
「……私も探そうか?」
「いや、まあいい。盗まれたわけじゃないんだ。そのうち出てくるだろう。それより早く朝飯にしよう。――手伝いは?」
「……大丈夫」
そう言って、兄を先にテーブルに着かせる。
兄の世話が出来るというのは、ある意味、柚姫にとって至福だった。キッチンへ戻り、おみそ汁を温め直す。白いご飯、油揚げのおみそ汁、卵焼き、ほうれん草のおひたし、お漬け物。織斗の嗜好に合わせ、和風だ。
ダイニングでは、手持ちぶさたになった織斗が、なんの気なしにテレビのスイッチを入れていた。女性キャスターが、地方ニュースを伝えている。
ふふ、と柚姫は小さく笑みを浮かべた。どこにでもあるような、穏やかな朝の風景。こんな朝がいつまでも続けば良いと、少女は切に願う。
しかし邪悪な神々が、そんな願いを聞き入れるはずがなかった。
『――さて、次のニュースです。今朝未明、紀伊縞市中心部の市民公園で、若い女性の他殺死体が発見されました。所持品から、被害者は市内の私立高校に通う結城梢さん、十六才とみられており……』
少女の手から、お椀が滑り落ちた。
Ⅱ
「くそったれが……」
紀伊縞警察、捜査一係の刑事、
紀伊縞警察署の地下にある死体安置所の一角。貴島刑事の目の前には、遺体袋に包まれた少女の死体があった。今朝、市内の公園で見つかった女子高生の遺体だ。頭部、特に顔面を滅多打ちにされており、もはや誰だか分からないほどだ。
「ひでえことしやがるぜ……くそっ……」
元来正義感が強かった大悟は、望んで刑事になった。刑事になれば、力のない市民を守れるのではないか、と。
しかし現実は、全く持って理不尽だった。
次から次へと起こる凶悪犯罪。常に後手に回るしかない捜査。こんなことならば、刑事など辞めて、防犯ボランティアに参加した方がマシではないか。事実、そう思う。
しかし遺族の悲しみを知る大悟は、刑事を辞めることは出来なかった。刑事には向かないほど、彼は優しい人間だった。
「女の子の顔を、こんな風にしやがって……」
撲殺された少女の死体。めった打ちにされたその遺体を見て、貴島巡査長がまず思い浮かべたのは、先月起こった一家撲殺傷害事件だった。
両親が殺され、息子が顔面を殴打され、娘が暴行された事件。その事件と、今回の女子高生撲殺事件には、何らかのつながりがあるように思える。手口が撲殺ということだけではない。大悟自身うまく説明できない。しかし、事件の背後にある陰謀めいた『何か』が、共通しているように感じられるのだ。
「まあ、どっちにしろ……」公権力の無力を嘆きながら、「俺たち警察に出来るのは、犯人を追いかけることだけか……」
溜息を一つ。とにかく昼過ぎになったら、遺体を司法解剖が行われる研究所に届けなくてはならない。それが終わり次第、捜査本部の設置。やることは山積みだ。
「……じきに親御さんのもとに帰してやるからな。それまで辛抱してくれ」
遺体に手を合わせ、黙祷。死者を手厚く扱うのは、人間として最低限の礼儀だ。
もっとも、正常な思考を持つものであればの話だが。
今一度手を合わせ、貴島刑事は死体安置所を後にする。かすかな囁き声を、背中に聞きながら。
――永久に横たわっていたとしても、それは死者ではないのじゃよ……
「っ! 誰だ!」
振り返った先には、死体しかなかった。
Ⅲ
織斗と柚姫が紀伊縞警察署に到着したのは、昼前のことだった。学校には、柚姫の調子が悪いという理由で、休む旨を伝えてある。事実、ニュースを見て以来、柚姫は具合が悪そうだ。
受付で事情を説明し、二人は捜査一係に向かう。何度も通った薄暗い階段。酷く肌寒い。省エネ対策のため、暖房の設定温度を低くしてあるのだろうか。
階段を昇り、突き当たりを右へ。明かりの絞られた廊下を進む。見慣れた景色。
しかし見慣れた光景の中に、たった一つ、違和があった。
「……シオン先生?」
「……織斗君?」
廊下の長いすで所在なげに佇んでいたのは、昨日織斗がお金を貸した保険医だった。
「どうして、シオン先生が……?」
首をかしげる。保険医と警察。どう考えても、関連性がない。
そんな織斗の疑問に、シオン保険医は青い顔をしながら、
「えと、それは……」
「――彼女が、ガイシャの第一発見者なんだ」
シオンの言葉を遮り、野太い声が響く。
いつの間にか廊下には、硬い表情をした貴島大悟刑事が、火のついていない煙草を咥えながら立っていた。
休憩所に移動した大悟巡査長だったが、煙草に火を付けることはしなかった。目の前に二人も女性がいるのだ。無骨な見た目とは裏腹に、彼は紳士的な愛煙家だった。
「……そうか」大悟刑事は力なくつぶやいた。「被害者の女の子は、嬢ちゃんの友達だったのか」
その言葉に、柚姫は小さく頷いた。顔面は蒼白で、小刻みに身体を震わせている。友人の突然の死を聞かされたのだ。無理もない。
妹の肩を、織斗は優しく抱き寄せると、
「彼女は、柚姫の親友でした……」歯を食いしばりながら、「貧血で倒れた柚姫の面倒を見てもらったことも、何度も在りました。それがまさか、こんな……」
織斗は声を詰まらせた。悲しみと怒りが、脳内でぐちゃぐちゃに混ざり合っている。感情が追いつかない。理不尽に対するやり場のない怒りが、ところかまわず暴れ回っている。くそっ! どうして梢ちゃんが! あんな優しい女の子が、撲殺されなければ――
「っ!」そこで、織斗は息をのんだ。「撲殺ってまさか……」
織斗の脳内が、一瞬で凍り付いた。まるで頭蓋骨の中に、直接液体窒素を流し込まれたかのようだ。脳髄の震えが、全身に広がってゆく。
撲殺。それは、織斗にとって大きな意味を持つものだった。
大悟刑事が否定してくれるのを祈りつつ、織斗は恐る恐る尋ねた。
「父さんたちを殺したヤツが、梢ちゃんを殺したんですか……?」
「……まだ、何ともいえねえ」大悟は一呼吸置くと、「だが俺は、同じ人間の犯行だと思ってる」
やっぱり、という思いが、織斗の中で吹き荒れた。
「……詳しく教えてもらっても、いいですか?」
織斗の申し出に、大悟は苦い溜息を吐くことで応じた。火のついていない煙草を、もどかしげに咥えながら、
「被害者が発見されたのは、今日の早朝だ。第一発見者は、通勤途中の若い女性――」織斗の隣に座る女性を見る。「彼女だ」
大悟の言葉に、シオン保険医は小さく頷いた。
「……七時過ぎくらいでしょうか。今日は早番で、はやく学校にいかなくちゃいけなかったんです。いつも通り、近道の為に公園を通ってたら、茂みの中で女の子が倒れてたんです。頭が血だらけで、顔がグチャグチャになってて……」口元に手を当てる。「酷かったです……」
「まだ詳しいことはわかんねえが」と、大悟刑事。「死因はおそらく、頭部を鈍器で殴打されたことによる脳挫傷だろう。鑑識の話じゃ、相当めった打ちにされたみてえだ」
「……凶器は分かってるんですか?」と織斗。
「ああ、ハンマーだ。死体の側に、凶器と思しきハンマーが落ちていた。――こいつだ」
大悟は、懐から一枚の写真を取り出した。
そこに映っていたのは、血に濡れた金属製のハンマーだった。片側が角形、片側がヘラのように薄くなっている。横から見ると、取っ手のついた楔に見える。珍しい形だ。
しかし織斗は、それを珍しいとは思わなかった。
「ぐっ……!」
突如、ズキリと左目の傷が疼いた。強烈な頭痛が襲い来る。痛い。頭が割れそうだ。
突然頭を抱え、うずくまった織斗に、柚姫とシオンはあわてふためいた。
「おにいちゃん!」
「どうしたんですか、織斗君!」
織斗に縋り付く。
しかし彼自身に、答える余裕はなかった。
(くっ……これは……)
脳内に、いくつもの映像がスライドショーのように映し出される。薄暗い廊下。光を失った妹の瞳。加虐に満ちた口元。裸体。血濡れのハンマー。楔形。
「……同じ、だ」痛みを堪え、織斗はつぶやいた。「父さんたちを殺したのと、同じハンマーだ……」
「っ!」大悟は思わず立ち上がる。「お前さん、思い出したのか!」
「全部じゃないです……」織斗は、弱々しく首を横に振りながら、「ただ、人影が……犯人が持ってたハンマーは……それと同じものでした……」
「お兄ちゃん……無理しないで……」
荒々しく息を吐く織斗の背中を、柚姫はそっと撫でた。目尻には、涙が浮かんでいる。
休憩室を包む沈黙。
それを破ったのは、意外にもシオン保険医だった。
「……思い出しました」ぽつりとつぶやく。「……それ、発掘用のハンマーです」
「先生さんは、これが何だか知ってんのか?」と大悟。
「確信は無いんですけど……」シオンは、言葉を選びながら、「たぶん、化石や遺跡を発掘するのに使うハンマーだと思います。以前、緋瑞教授――織斗君のお父さんの研究室で見たことがあるんです。ヘラみたいになった部分がありますよね。そこを岩の隙間に打ち込んだりして、発掘するらしいです」
「なるほど、特殊なハンマー……しかも考古学関係者が使うようなやつってわけか。こいつは、ますます同一犯の可能性が高くなってきやがったな」
大悟は、織斗の方に視線を移した。
「なあ、他に何か思い出せねえのか?」
「……いいえ」頭を抱えながら、織斗は小さく首を横に振った。「すみません」
「いや、かまわねえさ」
そうは言いながら、大悟刑事は溜息を押さえられなかった。
落胆混じりの溜息が、鋭利なナイフとなって織斗の心に突き刺さった。頭痛とは別の痛みが、脳髄を駆け抜ける。
(どうして俺は、何も思い出せないんだ!)
織斗の自分に対する感情は、もはや自己嫌悪を通り越していた。自己憎悪といっても過言ではない。
しかしいくら自分を呪ったところで、記憶が戻るわけではない。
(いや、だけど……)
そこでふと、織斗は思い直した。何も思い出せないといったが、本当にそうなのか、と。さっき自分は、確かにあの夜を思い出していた。断片的で、重要な部分は闇に覆われていたが、しかし思い出せたのは確かだ。
そしてそのきっかけを作ったのは、凶器の写真。
(つまり、事件に関連するようなショックがあれば、思い出せるかもしれない……?)
その思いつきは、まさしく天啓だった。
織斗は考える。そうだ、ショックだ。強いショックが在れば、思い出せるかも知れない。
だが、と同時に思う。果たして、そう都合良くショッキングなものがあるだろうか?
「っ! 梢ちゃんの死体がある……」
それは、まさに悪魔の囁きだった。
撲殺された両親。撲殺された後輩の少女。凶器は同じ。
これほど関連性があって、なおかつショッキングなものはどこにもない。
――梢ちゃんの死体を見れば、なにか思い出すかも知れない!
その思いは、強迫観念のごとく織斗の精神を蝕んだ。
もちろん、死者を利用するのは心苦しい。それが、妹の友達ともなればなおさらだ。
しかし、それによって、犯人が捕まるのならば。それは両親にとっても結城梢にとっても、供養になるのではないか……
織斗はそう考えた。
「……刑事さん」織斗は俯いたまま、「梢ちゃんに、会わせて貰えませんか?」
『っ!』
その言葉に、三人はギョッと目を剥いた。
しかし、織斗は構わず、
「梢ちゃんを見れば、犯人のこと、なにか思い出せるかも知れません」
「……本気か?」と大悟。「正直、直視出来るもんじゃねえぜ?」
「そ、そうですよ、織斗君!」シオン保険医もとまどいながら、「そんな無理してまで、思い出そうとしなくても!」
「止めて……お兄ちゃん……」
柚姫も止めるよう促す。
しかし織斗は、しっかりと首を横に振ると、
「俺の頭の中には、犯人の姿が残ってるはずなんです」額から左目にかけて走る傷跡を、手の平で押さえる。「でも俺は、それを思い出せないでいる。これじゃあ、父さんも、母さんも、梢ちゃんも浮かばれない。俺は、自分が許せない」
顔をグッと上げ、真っ正面にいる大悟を見つめた。
「……おねがいします」
「……しばらく、肉が食えなくなるぞ?」
「……全て、覚悟の上です」
織斗はまっすぐに刑事を見つめる。交差する視線。沈黙する時間。
数秒後、刑事は煙草を箱に戻した。
「……待っててくれ。上着をとってくる」
死体安置所は、寒い。
Ⅳ
死体安置所の扉を開けたとたん、甘ったるい臭いが織斗の鼻腔をくすぐった。
まるで部屋中に香水をぶちまけたみたいだ、と織斗は思った。臭いを誤魔化すために蒔かれた芳香剤。もちろん誤魔化す臭いは死臭だ。死の臭いが、こんなに甘いはずはない。
ドアの隙間から、死体安置所の中をのぞき込む。白いタイル張りの部屋。大きさは高校の教室ほどだろうか。
正面の壁には、いくつもの小さな扉が並んでいる。コインロッカーのようだ。もちろん、中に入っているのは死体だろう。これほど扉を開けたくないと思うロッカーは他にない。
部屋の中央には、ストレッチャーがあった。その上には、濃い緑色のビニール袋が置かれている。大きさも、形も、まるで寝袋のようだ。二度と目覚めぬ人が入る、寝袋。そのチャックは固く閉じられている。
「……覚悟は良いな?」
「……はい」
大悟刑事に問いに、織斗はしっかりと頷くことで答えた。
柚姫とシオンを廊下に残し、織斗は死体安置所のドアをくぐった。寒く、甘ったるい。
死体袋にゆっくりと近づく。どこからともなく、人の視線を感じる。壁に並ぶコインロッカー。中に入っているのは、死体のはずだ。死んだ人間。
織斗はふと、幻想に駆られる。
音もなく、死体ロッカーの扉が開く。スライドして出てきたのは、緑色の死体袋だ。
死体袋は突如動きだし、チャックを開けようともがく。手足を突っ張り、背をのけぞらせ、自分は死んでいないと叫ぶ。
しかし、死者を食らうロッカーは無情だ。
見えざる力が、死体袋を押さえつける。もがき苦しむ死体袋を、ロッカーはゆっくりと飲み込んで行く。ゴクリ、ゴクリ。死体袋は最後の力を振り絞り、チャックを引き下げる。こぼれ落ちる白い髪。隙間からのぞく、蠱惑的な蒼緑の瞳。そしてロッカーの扉が閉まる直前、小さな唇が言葉を紡ぐ。
――狂った永劫の元では、死すら無に還るのじゃよ……
「おいっ! アブねえぞ!」
「……え?」
泡を食ったような声に、織斗は正気に返った。
いつの間にか、織斗は部屋の中央に歩み寄っていた。すぐ目の前には、死体袋の乗ったストレッチャーがある。
「あ……」
気付いたときには、すでに手遅れだった。
ストレッチャーの足に蹴躓き、織斗はバランスを崩した。とっさに手をつこうとして、戦慄する。自分が倒れかかろうとしている、寝袋。その中にいるであろう、少女の撲殺死体。そこにむかって、織斗は今まさに倒れようとしている。
「っ!」
全てがスローモーションになる中、織斗は必死で身をよじった。死体に向かって倒れるという恐怖が、背筋を駆けめぐる。しかし間に合わない。迫り来る死体袋。反射的に手が伸びる。
そして次の瞬間――
パスッ!
「……え?」
「……なに?」
織斗と大悟は、そろって目を見開いた。
織斗の手の下で、死体袋は真っ平らにつぶれていた。堅いストレッチャーの感触が、手の平にダイレクトに伝わってくる。
――死体が、ない……?
「っ! どういう事だ!」
貴島大悟巡査長は、慌てて死体袋に駆け寄った。織斗を押しのけ、強引にチャックを開ける。
隙間からのぞく、乾いた血の痕。しかしそれだけ。見事に中は空っぽだった。
『…………』
言いようのない怖気が、織斗と大悟に襲いかかる。死体は動かない。世界の理とも言える大前提が、崩壊しようとしている。
さらに崩壊を助長させる声が、二人の耳朶を打った。
『――――っ!』
声にならない女性の悲鳴。織斗の意識が正気に返る。間違いない! 今のは柚姫とシオン先生の声だ!
弾かれるように踵をかえし、死体安置所を飛び出す。
廊下では、顔を真っ青にした妹と保険医が、恐怖に顔を凍り付かせていた。瞳は大きく見開かれ、廊下のずっと奥を見つめている。
つられるように、織斗も同じ方向へ視線を向ける。
次の瞬間、織斗の全身が凍り付いた。
まさに一瞬だった。廊下の角を曲がろうとする、少女の後ろ姿。薄暗い廊下のせいで、その姿は判然としない。しかしそれでも、虚空に揺れる栗色のツインテールだけは、はっきりと目に映った。
「梢……ちゃん……?」
織斗は呆然とつぶやいた。あり得るはずのない後ろ姿。恐怖に染まりかけた思考が、常識的な解答をはじき出す。すなわちあれは幻影か、さもなくばよく似た人物なのだ、と。
しかし思考の冷静な部分は、あれが結城梢と同等の存在だと告げていた。
そして同時に、織斗に向かってこう囁く。
(追いかけろ、織斗。彼女が動く死体だろうが、化け物だろうが、そんなものは関係ない。彼女に聞けば、彼女を殺した犯人が分かるかも知れない。そしてその犯人は、お前の両親を殺し、妹を犯した殺人鬼と同一人物かもしれないのだ。早く彼女を追いかけろ、織斗。はやくしろ!)
「くっ!」
思考は一瞬。次の瞬間、織斗の足は勝手に走り出していた。
「先生! 柚姫の事、お願いします!」
「お兄ちゃん! 待って!」
妹の声を振り払う。織斗は、死者を追った。
Ⅴ
少女の後ろ髪を追って、織斗は警察署を飛び出した。
どんよりと曇った冬空。雲は厚く、陽光を遮っている。しめった空気。今日は、雪でも降るのだろうか。
「はぁ……はぁ……どっちだ……?」
息を荒げながら、織斗は周囲を見やった。細い十字路。陰鬱な空と同じ色のコンクリート塀が、四方に伸びている。栗色のツインテールは、毛先すら見えない。
「見失ったのか……くそっ……!」
早く選択をしなくてはいけない。自分が来た道を除いて、三者択一。分の悪い賭ではないが、しかし間違うことは絶対に避けたい。確実にいかねば。
(はは……どの口が確実なんていうのだろうな……)
織斗は心の中で自嘲した。
織斗自身、確実性などどこにもないことを理解していた。
そもそも今の状況自体が異常なのだ。織斗の常識では、死とは絶対であった。なにをしても、覆せない現象。死者が蘇るなど、この世界においてあってはならないことだ。
――ではなぜ、自分はあり得るはずのない死者を追っているのか?
その疑問に対する答えは、意外な場所から発せられた。
「――簡単じゃよ。妾たちの住む世界は、歪み、狂っておる。所詮宇宙など、白痴の夢にすぎぬ。死者が蘇ったところで、なんの不思議もないのじゃよ」
「なっ!」
突然横合いから響いた声に、織斗は絶句した。
チョコレート色の肌、純白の髪、ラピスラズリの瞳――織斗の傍らに忽然と姿を現していたのは、昨日出会った異国の少女、イースだった。
「尋ね人か、オリト?」
「イース……?」
「ほう、よく覚えておったの」
ニィ、と少女は口元を弛ませる。心底、愉快気な表情だ。
呆然とする織斗を尻目に、少女は織斗に近づくと、
「それでどうしたのじゃ、オリト? まるで、死者にでも出会ったような表情じゃな?」
「ど、どうしてそれを……」
「ふふ、簡単な事じゃ。先ほども言ったであろう。死者が穏やかに死に続けられるほど、この世界は優しくも、正しくもない。だからじゃよ」
異国の少女は、その場でくるりと回った。舞い上がる純白の髪にあわせ、詠う。
それはこの宇宙において、数少ない真理を詠った二重連句だった。
――永久に横たわりし者、死者と呼ぶにあたわず
――狂いし永劫の果てには、死すら無に還さん
「さて」イースはピタリと止まると、織斗を見上げた。「オリトよ、尋ね人はよいのか?」
「っ! そうだ!」
慌てて走り出そうとする。しかしどの方向に行ったのか、見当も付かない。
「ふふ、そう急くな」イースは淫靡に笑いながら、「お主に、良いものをやろう」
右手を掲げる。その手の平に乗っている『モノ』を見て、織斗は半歩後ずさった。
それは、手の平大の甲蟲だった。瑠璃色の外骨格。異様に長い六本の脚。頭と思しき部分まで、つるりとした外殻に覆われている。巨大なテントウムシのようだ。長い脚を折りたたみ、行儀良く蹲っている。
少女はその蟲を、屍食蟲スカニバルと呼んだ。
「古来より、禁断の砂漠ロバ・エル・ハリイェーに挑む賢者たちは、必ずこの魔蟲スカニバルを携えていた。――なぜだか分かるか?」
「……」織斗は首を横に振る。
「簡単な事じゃよ」イースは屍食蟲の背を撫でると、「このスカニバルは、その名の通り屍肉を好んで食らう。この蟲には、複眼も触覚もない。だがしかし、屍肉の香りを辿る嗅覚だけはずば抜けておる。故に魔道を極めようとする賢者たちは、このスカニバルを使役し、ロバ・エル・ハリイェーにて死者を探したのじゃ」
「な、なんで死者を探したんだ……?」
「そんなことは決まっておろう。死者を蘇らせるためじゃよ」
イースはくつくつと、心底楽しそうに笑う。
しかし織斗の顔は、完全に強ばっていた。あまりにタイムリーな少女の言葉が、重みを持って胸に落ちてゆく。
「死んだ人間は……」織斗は声を詰まらせながら、「……蘇ったりしない」
「本当にそう思っておるのか、オリト?」
「……」
「ふふ、心にも無いことを言うでない。絞り尽くすぞ」
妖艶に、淫靡に、異国の少女は嗤う。
「話を戻すぞ。――ロバ・エル・ハリイェーの砂漠では、死体とはミイラのことを指す。フォマルハウトほどではないとて、かの炎邪の砂漠においては、死者など直ぐにミイラと化すからの。魔道の賢者たちは、そんなミイラを探し出し、死者蘇生を行ったのじゃ」
「死者、蘇生……」
「太古のミイラは、知識の宝庫じゃ。賢者、すなわち魔道士たちは、より深く、より谷底に近い場所にあるミイラを探した。奴隷のミイラなどに用はないからの。彼らが求めたのは、故国の神官や王族、そして古の魔道士のミイラじゃ。賢者たちはミイラを持ち帰り、己の力の及ぶ神殿の中で死者蘇生を行った」
「……古代の知識を得るために、か?」
「そのとおりじゃ。蘇った死者は、生前と同じ姿形をしておる。故に、口を割らせることなど糸も容易い。卓越した拷問の技を持ってすれば、どのような強固な精神の持ち主でも、いつかは口を割るものじゃ。死者ゆえに、死によって楽になることはできないからのう」
そこまで言って、イースはスッと目を細めた。
「――もっとも、妾ほどの魔道士となれば、そのような無粋な手段はとらぬがな」
「え……?」
ズキリと、額の傷跡が痛んだ。織斗は、もう半歩後ずさる。
「妾ほどの魔道士になれば……」イースの瞳が、不気味に煌めく。「拷問や性戯など、片手間ごとに過ぎん。そもそも必要ないのじゃ。妾の力量を持ってすれば、死者蘇生の最中に相手の精神を改変し、己に従属させるなど容易いことじゃからな。それどころか、肉体の欠損を補い、病を取り除き、果ては異形のものと化すことすら出来るのじゃ」
口元を邪悪にゆがめ、少女は言い放った。
「――お主とは違うのじゃよ、オリト」
「な、にを……」
喉の乾きを覚え、織斗は唾を飲み込んだ。舌が口蓋に張り付く。
ここにきて、ようやく織斗は気付いた。イースの瞳が、全く笑っていないことに。深淵を讃える蒼緑の泉、ラピスラズリの奥底には、敵意とも愛憎ともとれる色が宿っている。深く、強く。
「さて」イースは、口元だけの笑みを浮かべと、「そろそろ頃合いじゃ。妾は手出しはせぬ。オリトよ、お主の手腕、見せてもらおう」
そう言って、少女はきびすを返す。去り際に、魔蟲に向かってこう囁きながら。
――疾く往け、我が前より……
ブゥンッと背羽を振るわせ、屍食蟲が飛び立つ。織斗の目の前で静止。嗅覚をとぎすませ、獲物を探す。
その異様な姿に、織斗は恐怖を隠しきれなかった。目も触角もない、つるりとした瑠璃色の頭部。しかし織斗には、その視線なき視線が、自分を射抜いているように感じられた。
織斗の右目と、魔蟲の視線が交差する。屍肉を探し求めるはずの蟲は、しかし動かず、織斗をじっと見つめていた。スカルベルは狙っているのかもしれない、と織斗は思う。自分の右目にかぶりつき、脳髄を啜る瞬間を。
だが、と思い直す。イースの言葉を信じるなら、スカルベルは屍肉を好むはず。ならばなぜ、自分のほうを見つめて――
――携帯が、無いんです……
「っ!」
織斗の全身が、凍り付いた。
聞き覚えのある声。織斗の身体から広がった冷気によって、世界が音を立てて凍り付いてゆく。背後には、確かな人の気配。冷たい、生者とは思えない気配がある。
――携帯が……無いんです……
「……」
振り向くな、と理性が叫ぶ。しかしそれでも、織斗はゆっくりと振り返る。
(ナンダ……コノブッタイハ……)
悲鳴を上げることすら出来ない。想像を絶する恐怖が、身体を支配する。
世界に満ちる狂気を、織斗は肌で実感した。
Ⅵ
泣きそうな声で、少女はつぶやいた。
「携帯が……無いんです……」
少女にとって、携帯電話は何よりも大切なものだった。片思いの先輩からもらった、呼び出しのメール。それが無ければ、自分は織斗先輩に会いに行くことが出来ない。抱きしめられることも、恋人になることも。
彼女の記憶によれば、公園に到着した時点では、確かに携帯を握りしめていた。街灯の下で、何度も何度も読み返していたのだ。間違いない。
しかしその後の記憶が思い出せない。頭に何か強い衝撃を受け、そして――
(ううん、そんなことどうでもいい。早く携帯を見つけなきゃ……早く……早く……)
少女は焦る。早くしなければ、織斗先輩が自分に愛想を尽かせてしまうかも知れない。そんなのはイヤだ。早く見つけなきゃ。――でもどうやって?
(そうだ……織斗先輩に聞こう……!)
なんて名案だろう、と少女は思った。メールをくれた先輩なら、きっと携帯がどこにあるか知っているに違いない。そうだ、そうに決まってる。だって私は先輩が好きで、先輩も、私を好きに決まっているのだから。好きな人の事なら、全部知っていて当然だ――
(先輩に聞こう! 先輩に聞いて、携帯を見つけて、そして先輩に会いにゆけばいいんだ!)
そうと決まれば、梢の行動は早かった。都合の良いことに、目の前には織斗がいる。後は、ただ聞けばいい。
「ねぇ……先輩……私の携帯がないんです」目の前にいる織斗を見つめる。「どこにいったか……知ってますよね?」
もちろん知ってるよ――そう答えてくれるのを、梢は待った。それ以外の答えなんて、来るはずがない。
「ねぇ、先輩……早く教えてください……」
心がざわつく。早く、と心の中で叫ぶ。早く携帯を見つけなければ、先輩に嫌われてしまう。そんなのは耐えられない。焦燥が、脳髄をチリチリと灼く。早くしなくちゃ……早く……早く……。
そして数秒後、片思いの相手から帰ってきたのは――無言の否定だった。
「なんですかっ!」
「ひっ!」
顔を上げた瞬間、先輩の口から悲鳴が上がる。
しかしそんなものは、少女には関係ない。
「なんで、なんで知らないんですか! こんなに好きなのに、何で、何でぇぇっ!」
ヒステリックな叫び声。恐怖に後ずさる先輩を、凄まじい形相で睨み付ける。
裏切られた、と少女は思った。こんなに好きなのに、先輩は自分の携帯がどこにあるか知らなかったのだ。怒りと悲しみが混ざり合う。自然に涙がこぼれ、とっさに顔を両手で覆う。
グシャリ。
(あ、れ……?)
そこで梢は、奇妙な違和感を感じ取った。手の平に感じる、潰れた肉の感触。グジュリ、グジュリ。水をすった挽肉みたいだ。不思議なことに、目や鼻の部分まで同じ感触がする。潰れた肉の感触が。
(なに、これ……)
「…―ガ……――ッ……」
少女は呆然とつぶやく。いや、つぶやこうとした。
しかし潰れた肉では、口の代わりを務めることは出来ない。酷く耳障りなうめき声が漏れるだけ。まるで怪物の声だ。
(なに、これ……)
「……――ゥガ……ギギ―……」
潰れた眼球を前に向ける。そこには、恐怖に歪んだ先輩の顔がある。怯えた視線が向かうのは、自分の顔だ。潰れた肉で覆われた、少女の顔面。
梢は恐怖する。自分の顔が、織斗にどう映っているのか。いや、見ないで! 腕を振り回し、いやいやと首を振る。お願い、織斗先輩。お願いです、見ないで、私を見ないで!
(いや……いやぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!)
「ギッ……ギイィィァァァァァゥゥゥゥゥッッ!」
化け物の咆哮が、響き渡った。
嘔吐しなかったのは僥倖だ、と織斗は思った。
――異次元の怪物。
目の前にいる物体は、そう形容するしかないものだった。
醜悪な肉人形。大きさは二メートルほど。腕が異様に長く、地面に着きそうだ。頭部はない。首の根本に申し訳程度に肉瘤がある。表面は腐汁によって、テラテラと光っている。醜悪の一言だ。
「ギッ……ギイィィァァァァァゥゥゥゥゥッッ!」
化け物が咆哮する。この星のものとは思えない、耳障りな絶叫。
それが合図となった。
「ガァィァゥッ!」
「……くっ!」
めちゃくちゃに振り回される醜悪な腕。ほとんど尻餅をつくような形で、織斗はそれを避けた。
けたたましい音と共に、ブロック塀が破壊される。腕の一部が、塀にぶつかったのだ。
もちろん化け物とはいえ、コンクリートブロックを殴ってはただではすまない。腕の一部がひしゃげ、腐汁がまき散らされる。吐き気を及ぼす臭気。そして絶叫。
「ギィャアァァァィィィィゥゥィィッッ!」
(痛がってる……のか?)
麻痺した思考の一部が、そんなことを思う。この化け物に、人並みの痛覚が在るのかは分からない。しかし腕を振り回し絶叫する様は、痛みに震えているようにも見える。
不意に、ズキリと左目が痛む。ほとんど見えないはずの眼球は、しかし織斗に、一つの幻像を見せつけた
それは、見知った後輩の少女だった。
少女は一人慟哭する。痛い、助けて! 醜悪な肉人形の中で、少女は叫ぶ。ツインテールを振り乱し、血の涙を流し。――織斗先輩! 織斗先輩! 織斗先輩!
「まさか……梢ちゃん……なのか……?」
「ギィャアァァァィィィィゥゥィィッッ!」
化け物は答えない。肉瘤の中央にある亀裂を振るわせ、叫ぶだけ。
めちゃくちゃに振り回される腕が、織斗の鼻先をかすめる。飛び散る腐汁。強ばった少女の悲鳴が耳朶を打つ。――悲鳴?
「お兄ちゃんっ!」
「っ! 柚姫!」
肉人形の股ごしに、向こう側を見やる。目を見開き、恐怖に顔をゆがめる妹がいた。
「ひっ!」
「……ギィ」
柚姫の口から、引きつった声が漏れる。恐怖に身を強ばらせる少女の方へ、肉人形はゆっくりと振り返った。醜悪な亀裂が震える。――アンタが……アンタがいるから、織斗先輩は私に振り返ってくれないのよっ!
「ギヤァァゥゥゥゥッッ!」
「い、いやぁぁっ!」
柚姫の悲鳴。化け物の狙いが、明らかに一つに定まる。まさに、嫉妬に狂った肉乙女。触手のような腕を振り回し、少女に襲いかかる。
恐怖に染まっていた織斗の心が、別の色に塗り変わった。
「やめろっ!」
これ以上、妹は傷つけさせない! その思いが、織斗の身体を突き動かす。見れば化け物の腕が、高々と振り上げられていた。織斗は走る。化け物の脇を抜け、柚姫の身体を抱きしめる。
次の瞬間、強烈な衝撃が織斗の背中を走り抜けた。
グジュゥッ!
「か、は……!」
五メートルほど吹き飛ばされ、織斗はアスファルトにたたき付けられた。肺から空気が押し出される。呼吸がままならない。背骨がきしみを上げている。めまいと吐き気。――いや、それより柚姫は!
「ゆず、き……」
朦朧とする意識の中、織斗は妹の名を呼ぶ。しかし返答はない。織斗の腕の中で、少女はぐったりとしていた。頭を打ったのかも知れないが、確認する術はない。織斗自身、これ以上意識が保てない。
「く、そ……」
最後の力を振り絞り、織斗は肩越しに振り返った。倒れた自分と妹を見下ろす肉人形。嫉妬と憎悪のこもった右腕を、高々と振り上げている。なんて皮肉だろうか、と思わずにはいられない。腕を振り上げた肉人形。ハンマーは持っていないが、奇しくもそれは、織斗の顔を抉った犯人と同じ格好で――
「そこから離れろ、化け物!」
刹那、銃声が響く。きっかり五発。そして断末魔。
「――――ッ!」
耳を覆いたくなるような絶叫。その叫び声に隠れるように、奇怪な旋律が流れる。
――ンガァー……ア、イ……ズゥロォォー……
薄れゆく意識の中、織斗は見た。指先から崩れ、紫煙色の灰になってゆく肉人形。陰鬱な臭気を纏った風が吹き、化け物を構成していた《死灰》を巻き上げてゆく。灰色の冬空へと。
その奇怪な光景を見ながら、織斗はなぜか、昨日見た一文を思い出した。
『――獣の本質たる塩を抽出し、これを保存する場合……』
数秒後、織斗の意識は闇に飲まれた。
Ⅶ
倒れ伏す兄妹と、拳銃を構えたまま呆然と立ちつくす刑事。
それらを遠目に見ながら、シオン・ウィレット・佐木川女医は小声でつぶやいた。
「……どうです?」
「さて、な」
シオンの傍らには、いつの間にか異国の少女が佇んでいた。右手にレキトスと呼ばれる小さなギリシャ壷を抱え、左肩に魔蟲スカニバルを従えている。
「力を隠しているのかと思ったが、そう言うわけではないようじゃな……」そこで言葉を止め、ニィと嗤う。「……じゃが、身体に染みついた仄暗い香りは本物じゃ。スカルベルも、同じ事を感じておる」
イースの肩に止まった魔蟲が、同意するように身体を揺する。
「……要するに」とシオン。「やはり彼が?」
「多重人格か、あるいは脳髄に何者かが寄生しているか……傀儡人形というわけではないようじゃな。精神を弄られているような印象はうけぬ。あるいは……」
「狂気を隠している……」
「可能性は低いがな。しかし、考えられぬ事ではない」
「……そうですか」
スッと目を細める。
シオンの手には、一台の携帯電話が握られていた。今朝、死体の側で拾ったモノだ。表面に、赤黒い汚れがこびりついている。
血のりで汚れたそれを、シオンは構わず開いた。幸いにも壊れてはいない。ボタンを操作し、メールボックスを開く。受信ソックスの一番上にあるメールを見た。
『送信者: 緋瑞織斗。――大事な話がある。今すぐ、二人きりで逢いたい』
それを見て、携帯を握るシオンの手に力がこもる。
「ふふ、それにしても……」シオンを見上げ、イースはさも楽しげに笑う。「お主も残酷じゃな。死者を辱めるだけでは飽きたらず、想い人を手にかけさせようというのじゃからの。たしかコズエといったか。あの者もたいそう不憫よな」
「それは誤解ですよ」シオンは淡々と、「私はむしろ、彼女の為を思ってやったんです。片思いの相手に裏切られた少女に、復讐の機会を与えた……」
「お主と同じように、か?」
「……なにが言いたいんですか?」
「いやなに」くつくつと笑う。「いつの時代も、愛憎に狂った女子ほど恐ろしいものはない。そう思っただけじゃよ」
手に持ったレキトス壷を撫でる。まるで幼子をあやすように。イースの手が動く度に、蓋の隙間から紫煙色の粉塵が漏れ出る。
シオンはそれを横目で見ながら、
「……そんなにその子が気に入りましたか?」
「ああ、気に入ったぞ。なにせ、妾と同じ存在じゃからな。いずれ時間をかけて、守護兵としての肉体を創らねばな」
「好きにしてください。私との契約をまもってさえくれれば……」
「分かっておる。蘇生させた見返りとして、お主に力を貸す。シリウスの血脈にかけて、契約は履行する。――これでよかろう?」
「……十分です」
シオンは頷き、携帯をハンドバックにしまった。クルリときびすを返し、つぶやく。
「教授……貴方の敵は、必ず……」
愛憎にまみれた女の背中。それを一別し、異国の少女は心底愉快気に嗤った。
「――女子とは、ほんとうに怖いものよ」
それもまた、数少ないこの世の真理だった。