恐怖狩人 ~クトゥルフ神話ガチ勢が恐怖小説を書いてみた~   作:セラニアン

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第3章 過去からの警告 ~A Search and an Evocation~

 

 

 この手記を手に取った者よ、心せよ。我が立ち向かい、そして駆逐した恐怖は、宇宙の邪悪なる深淵の一片にすらあらず。蘇りし悪魔の徒、ジョゼフ・カーウィンは死灰となって朽ちた。しかしいつ何時、カーウィンの跡を継ぐ邪神の崇拝者が現れるか分からぬ。この書を目にした者よ、心せよ。死者の安寧たる眠りを妨げる悪辣者を、のさばらせることなかれ。死者は蘇る。だが、それを許してはならん。願わくば汝が、正しき抵抗者たらんことを。

 

 ――緋瑞影人(かげひと)訳『チャールズ・デクスター・ウォードの事件』より

 

 

 

 

 

 

 

  Ⅰ

 

 

 

 

 

 

 市立病院の待合室。その一角に設けられた喫煙ルームで、貴島大悟は時間を潰していた。

 

「くそ……」紫煙と悪態を、同時にはき出す。「何がどうなってやがんだ、いったい」

 

 刑事である大悟は、根っからの現実主義者だ。しかしそんな大悟にしても、昨日の出来事は、思わず神仏に祈らずにはいられないものだった。

吐き気を押さえながら、大悟は昨日の事を思い出す。化け物と呼ぶしかない肉人形。妹を庇って倒れる青年。とっさに発砲してしまったが、それが正しかったのかは分からない。唯一確かなのは、怪物は消え、塵になったということだけ。今まさに、自分がはき出しているような色の――

 

「ちっ……」

 

 思わず煙草をもみ消す。一晩経った今でも、身体を震えが治まらない。これを機に禁煙するか、と大悟は皮肉気に思案する。いままで自分は、一度も禁煙を成功させたことはない。しかし今度は、間違いなく成功するだろう。なんせ、紫煙を見ただけで恐怖を思い出すのだから。くそったれ。

 

 煙草の箱を握りつぶし、禁煙ルームを出る。

 

 ちょうどそこで、一人の医師が大悟に声をかけてきた。

 

「さがしましたよ、刑事さん」小太りの医師は、ハンカチで汗を拭いながら、「例の二人の検査、終わりました。お兄さんの方が少し打ち身をしていますが、目立った外傷はありませんね。ただ妹さんが……」

「? あの嬢ちゃんになにかあったのか?」

「その、ここではちょっと……」

 

 そう言って、医師は着いてくるように促す。通院患者で溢れる待合室を抜け、入院病棟へ。プレイルームと銘うたれた部屋に入る。壁際に、申し訳程度にパソコンや家庭用ゲーム機が置かれている。医師曰く、ここは入院患者が自由に使える娯楽室とのことだ。

 

「もっとも、お年寄りの入院患者ばかりなので、使う人はほとんどいませんが」と医師は苦笑する。しかしすぐに真剣な表情になると、「刑事さん、これを見ていただけますか」

「うん?」

 

 大悟が受け取ったそれは、とある患者の検査結果だった。

 

「本来なら、部外者に見せるものではないのですが」医師は言葉を濁しながら、「さすがに内容が内容ですので……」

「……」大悟は目を見開く。「この結果に間違いはないのか?」

「間違いはありません。残念ながら」

「……ちっ、くそったれ!」

 

 医師を前に、大悟は盛大に舌打ちをする。端から見れば酷く失礼な行為だ。

 

 しかし医師は、そんな刑事をやるせなさそうに見ていた。

 

「……判断はお任せします」と医師。「例の事件の事もありますし、正直、これは医師である僕の範疇を超えています」

「……わかった。嬢ちゃんたちには、俺から話す」

 

 大悟は今一度、舌打ちをする。――くそ、この世には神も仏もいねえのか!

 

 内心で悪態を吐き、しかし大悟はすぐにその考えを否定した。そもそもこの世に、正しい神や仏がいるはずがない。いるならば、こんな残酷な結果がゆるされるはずがない。なにより、あのような肉の化け物が存在するはずがないのだ。

 

 そうだ、と大悟は思う。理不尽に泣く被害者を生み出すのも人ならば、その涙を拭うのも、また人だ。今更、分かり切っていることではないか。

 

「……ホシは、俺が上げてやる」

 

 大悟はつぶやく。覚悟と決意で、心に救う恐怖を塗りつぶすように。

 

 そんな刑事を見ながら、医師は何かを決心したような表情で、こう切り出した。

 

 

「一つ、犯人の事を知る方法があるのですが……」

 

 

 

 

 

 

 

   Ⅱ

 

 

 

 

 

 

 織斗は、夢を見ていた。

 

 規則正しく、悪夢は進んでゆく。廊下に始まり、階段。めまいと吐き気。疲労感。二階に上がり、両親の寝室へ。断末魔の表情と、耳から流れ出た脳漿。つき出た舌が、織斗を促す。妹の部屋へ向かい、絶望。忌々しいほどに規則正しい夢だ。

 

 しかしある一点だけ、いつもと違う部分があった。

 

 

(……え?)

 

 

 人影と対峙した瞬間、織斗は確かな違和を感じた。汚濁のような人影。仄暗い明かりに照らされたそれは、しかし今までより輪郭がはっきりとしていた。

 

(思い出しかけてるのか!)

 

 恐怖に震えながら、織斗は必死で目をこらした。ぼやけていた輪郭が、徐々に定まってゆく。時間との勝負だ。相手の姿がはっきりするのが先か、自分が殺されるのが先か。

 

 悪夢は進む。

 

(早く……早くしろっ!)

 

 人影が、自分に向かってハンマーを振り上げる。焦燥。形が定まってゆく相手を、織斗は睨み付ける。意外にがっしりとした体格。楔形のハンマー。白痴じみた狂笑。額から左目にかけて、抉れたような傷跡があり――

 

 

 …………――

 

 

 

 

「入るぞ」

 

 ノック音と共に響いた声が、織斗を現世へと呼び覚ました。

 

「……あ」

 

 思考を犯していた熱が、スッと冷えてゆく。脳神経の編み目から、記憶の欠片がこぼれ落ちる。今自分は、どんな夢を見ていたんだ……?

 

「すまん」

 

 ベッドの上でぼんやりとする織斗の姿に、大悟は頭を掻きながら、

 

「起こしちまったか?」

「いえ……」

 

 上体を起こす。消毒の臭いのする白い病室。昨日、検査のために押し込まれた個室だ。傍らのベッドでは、柚姫が小さな寝息を立てている。

 

 ベッドに横座りになり、備え付けの台に置かれていたお茶のペットボトルを手に取る。身体が水分を欲している。一気に三分の一を飲み干し、息をつく。どうにも頭が重い。

 

「あんまり寝れてねえみたいだな?」と大悟刑事。「まあ、無理もねえか」

「……」

 

 無言で肯定。

 

 大悟の言うとおり、昨日はほとんど眠れなかった。おそらく睡眠時間は、一時間に満たない。もっとも、それもしかたのないことだ。昨日から、織斗の身体は興奮しっぱなしだった。恐怖のせいだ、と織斗は思う。生物にとって恐怖は、生存欲求を刺激する大切な感情だ。故に今の自分は、生存本能がフル回転しているのだろう。思考は鈍っているのに、身体はやけに軽い。ドーピングでもしたかのようだ。

 

「それで……」織斗は、二度三度頭を振ると、「何かあったんですか、刑事さん?」

「……ああ」大悟は眠っている少女をちらりと見やると、「織斗、正直に答えて欲しい。嬢ちゃんに、特定の恋人がいたことはあるか? 肉体関係を持ったことのある男だ」

「な、なにをいきなり……」

「頼む。大事なことなんだ」

 

 真剣な表情。

 

「……」織斗は戸惑いながら、「ない、はずです。たぶん、いえ、間違いなく」

 

 もちろん織斗自身、柚姫の全てを知っているというわけではない。しかしこの人見知りが激しく、少し影のある少女に恋人が出来たという話は、一度も聞いたことがない。

 

「そうか……」大悟は、沈痛な表情を浮かべる。「最悪の事態ってわけか」

「……柚姫に、なにかあったんですか?」

「ああ」大悟は、一枚の紙を差し出した。「俺が言えたことじゃないが、気をしっかり持てよ」

「……?」

 

 首をかしげながら、織斗は紙に目を通す。検査結果。患者、緋瑞柚姫――

 

 

「う、そ、だろ……」

 

 

 足下が崩れる音を、織斗ははっきりと耳にした。人間驚くと頭が真っ白になると言うが、それは大きな間違いだ。真の驚愕は、全てを黒に塗りつぶす。思考も、視界も、全て。

 

 その紙には、こう書かれていた。

 

 

 

【検査結果。患者、緋瑞柚姫。妊娠判定――陽性】

 

 

 

「そ、んな……柚姫が妊娠……」

「ああ」大悟は声を潜め、「十中八九、暴行を受けた時に出来た子供だろう」

「……」

 

 声も出ないとは、まさにこのことだった。

 

 病室を犯す、痛みを伴うほどの沈黙。この沈黙を破ることなど、心ある人間には不可能だろう。静止した空気が、質量を伴って重くのしかかる。

 

 しかし次の瞬間、不可侵の沈黙を払拭する声が放たれた。織斗にとって、最悪の声が。

 

 

 

「私……妊娠したの……?」

 

 

 

『っ!』

 

 織斗と大悟は、そろって息をのんだ。織斗の隣のベッド。横たわっていた少女の目蓋が、ゆっくりと開かれた。

 

「妊娠……したの……?」

 

 感情をむりやり押し殺した、少女の声色。病室に染み渡ったその声が、固まっていた空気を溶解させる。

 

 ようやく、全てが動き出す。

 

「ゆ、柚姫……」織斗は、擦れた声で、「その、これは……」

「ねぇ、お兄ちゃん……」柚姫は、淡々と問う。「私、妊娠したの……?」

「……」

 

 

 沈黙は、何よりも雄弁だった。

 

 

「そう、なんだ……」

 

 柚姫は目を閉じ、腕で顔を覆った。うす紅色の唇が、ふるふると震える。

 全てを押し殺すように、少女はつぶやいた。

 

 

「一人に、して……」

 

 

「ゆ、柚姫……」

「お願い……っぅ……」

 

 

 小さな嗚咽が、織斗の耳朶を打つ。

 兄は、妹から逃げ出した。

 

 

 

 

 

 

「くそぉっ! くそ、なんで柚姫ばっかりっ! く、そぁぁぁっ!」

 

 感情の爆発は、直接的な暴力となった。幸いなことに、その矛先が他人に向けられることはなかった。理性はなくとも、そのくらいの分別はある。代わりに、自宅のリビングが被害を受けているが。

 

 ダイニングテーブルをなぎ倒し、壁を殴りつけ、織斗は慟哭する。

 

「何で……何で柚姫ばっかりが、こんな目に遭わなくちゃいけないんだっ! くそ、くそ、くそ、くそおおおおおぉぉぉぉっ!」

 

 兄の慟哭。知らず知らずの内に、涙がこぼれる。

 

 織斗にとって、柚姫という少女は『月』のような存在だった。人見知りが激しく、ともすれば無表情にも見られかねない、年子の妹。同じ年代の少女のような、花の咲いたような笑顔を浮かべることはまずない。

 

 しかし織斗は知っている。柚姫の浮かべる、あのひっそりとした、月のような微笑を。その笑顔に救われたことは、一度や二度ではない。両親を殺されるという悲劇にあって、織斗が狂わなかったのは、まさしくそのおかげだ。

 

 しかし、だからこそ逆に考えてしまう。自分は、妹の救いになっているのだろうか、と。

 

 答えは出ない。

 

「くそっ! くそぉぉぉおぉっ!」

 

 悲鳴を上げる身体と心。額の傷跡がズキズキと痛む。涙によって右目の視界が霞む。前が見えない。だからなんだ、と織斗は叫ぶ。両親を殺され、妹を犯されたあの日から、自分が前を見た事なんて一度もない。

 

 ソファをなぎ倒し、テレビを蹴り飛ばす。ガラスが割れるような音。関係ない。観葉植物を倒し、カーテンを引きちぎり、クマのぬいぐるみを放り投げ――

 

 しかしそこで、織斗の身体が凍り付いた。

 

 

 

 

 カシャンッ!

 

 

 

 

「……え?」

 

 そのかすかな音は、しかし必然のごとく織斗の耳に吸い込まれた。それまで身体を支配していたはずの熱気が、スッと退いて行く。

 

 織斗は呆然と、音源を見やった。フローリングで倒れ伏す、クマのぬいぐるみ。無機質な破砕音は、確かにこのぬいぐるみから聞こえた。ぬいぐるみにはあり得ない音が。

 

 恐る恐る拾い上げる。ぬいぐるみの頭部、割れた黒い瞳の奥に覗くのは、小さなレンズだった。

 

 

「……カメラ、なのか?」

 

 

 ぬいぐるみを握りしめる。綿独特の柔らかさの中に、硬い感触がある。無機質な機械の感触。それがなんなのか、織斗はすぐさま思い至った。

 

 

 

 ――盗撮器。

 

 

 

「…………」

 

 織斗は戦々恐々とした思いで、クマのぬいぐるみをみつめた。愛らしいその姿が、急に冷たい表情に見えてくる。いや、事実そうなのだろう。こいつは冷たい表情で、冷たい視線を向け続けていたのだ。自分の主人の私生活、その一片に至るまで。――しかしいったい、誰がこの盗撮器を?

 

「ま、さか……」

 

 今度こそ、織斗の身体から全ての熱が奪い去られた。

 

 思い出すのは、惨劇があった夜のこと。家族そろっての妹の誕生パーティ。豪華な食事。ロウソクを吹き消し、小さくはにかむ柚姫。そんな柚姫に向かって、父親は差し出す。リボンの巻かれたクマのぬいぐるみを――

 

 

 

「……父さんが……柚姫を盗撮しようとしていた?」

 

 

 

 古傷が疼く。何かが、正しく狂い始めていた。

 

 

 

 

 

 

   Ⅲ

 

 

 

 

 

 

 翌日の早朝、織斗の姿は一軒の洋館の前にあった。

 

 こぢんまりとした、西洋様式の家。赤煉瓦に覆われた壁には、ところどころ蔦が這っている。庭は狭い。隅に設置されたプレハブの物置が、なんともミスマッチだ。表札にかかった名は【緋瑞】。この家こそが、つい二ヶ月ほど前まで、織斗が生活していた場所だ。

 

 改めてみると不思議な家だ、と織斗は思った。冷たい北風が、家を避けて通っているように感じる。淀んだ空気。堆積した歴史と埃が、家の周辺を覆い尽くしているようだ。正直、足を踏み入れたくない。

 

 しかし、そういっていられるほど時間の余裕はない。

 

 柚姫の検査入院の連絡が入ったのは、昨日の夕方のことだった。暴行を受けての妊娠なのだ。病気や胎児の検査、また安全に堕胎が出来るかどうかなど、調べるべき事はそれなりの項目におよぶ。同様に、精神のことも。

 

 心理カウンセリングを含め、三日間。それが、織斗にとって自由に使える時間のリミットだった。

 

 

「……行くか」

 

 

 警察の施した黄色い進入禁止テープをくぐる。短い庭を経て、玄関へ。合い鍵を使い、二ヶ月ぶりの扉を開ける。

 

「ぐ……」

 

 突然のめまいと頭痛に、織斗は軽く蹌踉めいた。

 

 開け放たれた玄関ホール。そこに溜まっていた異様な臭気が、一斉に押し寄せてきた。埃にまみれた大気。紫煙が立ちこめているかのようだ。古の宝物庫に足を踏み入れたかのような感覚。気分が悪い。明かりのついていない廊下は暗く、埃と共に闇が堆積している。

 

 織斗は意を決すると、久方ぶりの実家に足を踏み入れた。

 

「よく俺は……こんなとこに住んでたな……」

 

 壁に掛かった古い静物画を横目に、織斗はつぶやいた。今更ながら、この家はどこか異常だ。もちろん、あの惨劇の記憶がフィルターになっている部分はある。しかしそれ以上に、この古い洋館には人を拒むような、あるいは人を狂わせてゆくような気配がそこかしこから漏れ出ている。

 

 そもそもこの洋館は、もとはアメリカにあったものらしい。それをバブル時代に、物好きな好事家が移築、修復。その後バブルが崩壊し、結果的に売りに出されていたものを、織斗の祖父が購入したものらしい。織斗の父親の代になって、電気や水道関係を現代のものに入れ替えたが、基本的な部分は当時のままだ。

 

 そんな洋館で、織斗と柚姫は生まれ育った。

 

(そういえば昔よく、柚姫とかんれんぼで遊んだな……)

 

 今思えば、なんて怖いもの知らずだったのだろうか。幼い自分が隠れていたであろう、ベッドの下や、タンスの裏、納戸の奥。そこには、すべからく鬱々とした闇が堆積しているというのに。

 

「まあいい。思い出なんてどうでもいい。今は父さんのことだ」

 

 あえて口に出し、織斗は確認する。そうだ、初心を忘れている場合ではない。自分は父のことを調べに来たのだ。

 

 肩にかけたリュックサックを背負い直し、織斗は廊下を進んだ。廊下の突き当たりには、濃厚な暗闇に隠れるように二階への階段がある。それを極力目に入れない様にしながら直進、次いで左へ。袋小路になった廊下の奥、右左にそれぞれ木製のドアがある。それぞれ織斗の自室と、父の書斎だ。

 

 織斗は一瞬躊躇った後、左のドア、父の書斎に足を踏み入れた。

 

「あいかわらず、だな……」

 

 現代人の織斗から見て、そこはまさに別空間だった。

 

 天井までとどく巨大な本棚。そこには、世界各国ありとあらゆる言語で書かれた古書が詰まっている。唯一ある窓には暗幕。貴重な本の劣化を防ぐため、自然光を入れないようにしている。

 

 部屋の中央にはマホガニーの書卓。その上には電気スタンドと灯油ランプ、ノートパソコン、そしてインクボトルと羽ペンが整頓されておかれている。左の壁際には、古くさい柱時計。長針と短針が微妙に歪んだその時計は、完全に働くのを止めている。

 

 まさにアメリカ植民地時代にタイムスリップしたかのような部屋。それが織斗の父、緋瑞影人(かげひと)教授の書斎だった。

 

「今更ながら、父さんって、ホントにどんな研究をしてたんだ……」

 

 織斗はほとんど本能的に、父親の仕事と緋瑞家に襲い掛かった惨劇との間に、何らかの関係があることを悟った。

 

 そもそも考えれば分かることだ。刑事の話を信じるなら、犯人は両親のどちらかに怨恨を持つ人物とのことだ。織斗の母親は専業主婦で、決して交友範囲が広い女性ではなかった。対して父親は大学教授。それこそ人と接する機会の多い職業だ。ならば必然的に、父親のほうが人から恨みを買う可能性は高い。

 

「父さん、か……」

 

 織斗にとって、父・影人とは教師のような存在だった。大学教授という職業柄だろうか。影人本人も、織斗を生徒のように扱っていた節がある。

 

 別に織斗は、それがいやだった訳ではない。それどころか、自分の知らない様々なことを知っている父を、よく尊敬したものだ。

 

(そういえば、よく昔話をねだったな……)

 

 織斗と柚姫が幼い頃、影人はよく昔話を語って聞かせた。そのどれもが、今は失われた伝承や民話だった。海の底に沈んだ都、不思議な魔法、スフィンクスの謎かけ、世界の真ん中で笛を吹き続ける神様――怖い話も多々あったが、それらの不思議な話は、子供の冒険心と想像を膨らませるものだった。

 

 おそらく父親は、そういった民話や伝承を研究していたのだろう、と織斗は考える。本棚に詰め込まれた古くさい書籍の山を見れば、あながち間違いでないことがわかる。

 

 だが逆に、と織斗は考え直す。研究内容と事件との間に関連性が在るのかと問われれば、首をかしげざるを得ない。こういってはなんだが、考古学とは金にならない学問だ。犯行の動機になるような、金や利権が絡むとは到底思えない。

 

 ではなにが原因で……?

 

 

「とにかく、父さんが具体的にどんな研究をしていたのか調べてみるか……」

 

 

 リュックサックを机の上におろし、本棚に向き直る。大学教授ならば、論文や著書があって然るべきだ。事実、本屋で父の書籍が並んでいるのを見たことがある。自宅の本棚ならば、当然そういったものがあるに違いない。

 

 ゆっくりと背表紙を眺めてゆく。随分と古いものが多い。なかには腐りかけたものもある。読めない言語で書かれたものが大半だが、中には英語のものもあった。エイボンの書(Book of Eibon)無名祭祀書(Nameless Cults)ルルイエ異本(R'lyeh Text)死霊秘法(Necronomicon)

 

 

 ――なに?

 

 

 

「……ネクロ……ノミコン?」

 

 決して英語の成績が良いわけではない織斗だが、それでもその背表紙を見間違えることはなかった。

 

 

 

 

 ――Necronomicon.

 

 

 

 

 間違いない。それはまさしく、外道の法を集めた魔道書だ。

 

「なんで……父さんの部屋にこんなものが……」

 

 思わず後ずさる。そこで織斗は、さらに精神を困惑させるものの存在に気付いた。

 いや、存在といったがそれは適切ではない。なぜならそれは、正しく『存在していない』のだから。

 

 ネクロノミコンとかかれた魔道書の隣、そこはなぜか、一冊分の空白があった。

 

 

「…………」

 

 

 ズキリと古傷が痛む。禁断の書の隣にある、ちょうど一冊分の空白。あまり埃が積もっていないところを見ると、ここ二、三ヶ月の間に抜き取られたようだ。

 

 そうなると問題は、どんな書籍が収まっていたかだ。外道の知識の集大成、禁断の魔道書と肩を並べることのできる禁書となると――

 

 

「っ!」

 

 

 息をのむ。織斗は唐突に思い至り、そして戦慄した。

 

「……イスラムの……琴」

 

 先日、異国の少女が語った内容を思い出す。イスラムの琴。原題を『魔蟲の咆哮(アル・アジフ)』。

 

 そしてまたの名を――ネクロノミコン。

 

 

 

 織斗は思わず、あのアメリカ人とのハーフと名乗った保険医を思い浮かべた。シオン・ウィレット・佐木川。そんな父の教え子という女性が持っていた、豪華な装飾がなされた本。厚みも、大きさも、ちょうどネクロノミコンの隣の空白と一致するような気がしてくる。

 

(あの本は……もともとここにあったのか……?)

 

 そうなると、問題はシオン保険医がどうやってあの本を入手したかだ。

 

 父が送ったのだろうかと考え、しかし織斗はすぐさま否定した。確かシオンは、あの本をアメリカの古書店で手に入れたと言っていた。もし影人からの借り物だったならば、息子の織斗に嘘をつく必要はない。かといって、実際に古書店で売られていたと考えるのもナンセンスだ。埃の具合から見ても、最近抜き取られたように思える。

 

 

 

 ――では彼女は、あの本をどうやって手に入れたのか?

 

 

 数十秒後、織斗はぽつりとつぶやいた。

 

「……ここから本を盗み出すために、父さんたちを殺した?」

 

 それは、最悪の想像だった。

 

 しかし織斗は、すぐさまその想像を否定した。確かに見る人が見れば、ここにある古書は宝の山に見えるのかも知れない。それこそ持ち主を殺してでも。しかし本当にシオンが古書愛好家として犯行におよんだのならば、たった一冊だけしか盗まないとは考えにくい。

 

 それに何度も言うが、シオンは女だ。もちろん女装した男という可能性もあるが、それはありえないだろう。そして女ならば、柚姫を強姦し、あまつ妊娠させることなど出来ようはずもない。

 

 もちろん、シオン保険医が犯行に関わっている可能性はあるが……

 

 

(……とにかく、今は父さんのことを調べよう)

 

 

 ぐちゃぐちゃになりかけた頭をふる。結果を急いてはいけない。とにかく今は、父親の書斎に集中すべきだ。

 

 軽いめまいと頭痛を押し込め、織斗は背表紙との格闘を再開した。自然と、神妙な面持ちになる。右目をこらし、古ぼけた背表紙を眺めてゆく。『Goetia』、『Lemegeton』、『Pnakonic Manuscript』、『Libel al vel Legis』『De Vermis Misteriis』……

 

 

 その時、織斗の目が一つの背表紙で止まった。

 

 

 

 ――『チャールズ・デクスター・ウォードの事件』

 

 

 

 その薄い小冊子の背表紙は、珍しいことに日本語で記されていた。装帳が新しい。あきらかに最近作られたものだ。古書の立ち並ぶ中にあって、場違い的な違和感を放っている。

 

 慎重な手つきで、織斗はその冊子を手に取った。題名は『チャールズ・デクスター・ウォードの事件』。英語の著名の下には、しっかりと日本語で『緋瑞影人訳』とかかれている。裏表紙に記された発行年度は去年。――間違いない、これは最近出されたものだ!

 

 織斗は興奮した面持ちで、簡素な表紙に手をかけた。もちろんこれを開いたからといって、犯人につながる手がかりが得られるとは思わない。しかしどこか昔話をねだる子供のような、影人の語る物語を待ちわびていたあの頃に似た興奮が織斗を包む。

 

 次の瞬間までは、だが。

 

 

「……」

 

 

 表紙をめくった最初のページを目にし、織斗の視線が硬直した。序文の中の一節から、目が離せない。それは、あまりにも今の状況を暗示し過ぎている。寒気がする。

 

 その一節は、こういうものだった。

 

 

 

『――この書を目にした者よ、心せよ。死者の安寧たる眠りを妨げる悪辣者を、のさばらせることなかれ。死者は蘇る。だが、それを許してはならない』

 

 

 

 

 

 

 

   Ⅳ

 

 

 

 

 

 

 革張りの書き物椅子に深く背を預け、織斗は嘆息した。机の上においた小冊子に向かって、困惑と落胆の混じった視線を送る。

 

「結局、よく分からないままか……」

 

 チャールズ・デクスター・ウォードの事件。そう銘打たれた小冊子の内容は、ひどく支離滅裂なものだった。精神に変調をきたした者が書いたに違いない、と織斗は思う。それほどまでにめちゃくちゃなのだ。

 

 その小冊子を要約すれば、実に簡潔だ。チャールズ・デクスター・ウォードという青年が奇怪な事件に巻き込まれ、それを著者が解決した。犯人は蘇ったジョゼフ・カーウィンという男だった。それだけの話だ。

 

 しかしその要約を得るまで、織斗は多大な想像力と読解力を駆使しなければならなかった。とにかく内容が支離滅裂で、なおかつ曖昧な部分が多すぎなのだ。その上、読者への警告と呼ぶべきものが、ページの随所にごまんと散らばっている。やれ死体は逞しき水(酸)で溶かせ。墓を暴くな。空の向こうを想像するな。尾の句を唱える時は剣印を組め。死灰は川か海へ流せ。沈黙こそが救いだ。などなど……正直、本文より多いのではないかと思うほどだ。

 

 それともう一つ、織斗の内容理解の妨げとなったものがある。数ページごとに必ず出てくる、二つの呪文らしき詩句だ。

 

 その詩句を始め見たとき、織斗は不覚にも胃の中のものを戻しそうになった。別段、吐き気をおよぼすようなグロテスクな内容ではない。それどころか、意味の分からない活字が並んだだけの詩句だ。しかしそれは、明らかに不吉な気配を孕んでいた。仄暗い、死灰にまみれた臭気。ただの詩句が、しかし五感の全てに向かって、言いようのない不快感を与えてくる。

 

 そんな呪文のような詩句が、ページをめくるごとに何度も出てくるのだ。読解が困難になるのも無理はない。むしろ、最後まで読めたのが不思議なくらいだ。もっともそのせいで、その不快な呪文を覚えてしまったのだが。

 

 

 頭痛と吐き気を押さえ込み、織斗はその二つの呪文を脳裏で思い浮かべた。

 

 

 

 

 Y’AI ‘NG’NGAH,

 YOG-SOTHOTH

 H’EE ― L’GEB

 F’AI THRODOG

 UAAAH!

 

 

 

 OGTHROD AI’F

 GEB’L ― EE’H

 YOG-TOTHOTH

 ‘NGAH’NG AI’Y

 ZHRO!

 

 

 

 

 

 

 奇怪な音節。自然と口にしたくなる衝動を、織斗は何度も耐えた。唱えたら最後だ、と本能が叫ぶ。自分の信じていた全てが崩れてしまうと。この呪文は、それほどまでに邪悪な『ナニカ』を讃えている。

 

「ふぅ……」

 

 摩耗した神経を癒すように、大きく深呼吸する。しかし織斗はすぐに深呼吸を止めた。ダメだ、ここの空気では癒されない。数多の背表紙に囲まれた、父親の書斎。狂気にまみれた気配が、空気分子一つ一つまでも犯している。

 

今や織斗は、本棚に押し込まれた書籍の異常さを、はっきりと認識していた。禁書目録でも作ったら、さぞや見物だろう。ほとんどの本が、その目録に名を連ねるに違いない。もちろん目録の題名はこうだ。『緋瑞影人蔵書目録』。

 

「父さん……」

 

 これほどまでに父親に対し、困惑と恐怖を感じたのは初めてだった。白髪交じりの柔和な紳士。緋瑞影人。父さん。しかし今になって、その姿が酷く奇怪なものに思えてならない。――父さんは、どうしてこんな危険な書物ばかりを集めていたんだ?

 

 それともう一つ、織斗には分からないことがある。あの盗撮カメラが仕込まれたクマのぬいぐるみだ。思えば、父親がプレゼントにぬいぐるみを選んだのはそれが初めてだった。書籍愛好家だった影人は、織斗や柚姫に渡すプレゼントとして、必ず本を選択していた。事実、今住んでいるマンションには、父親の形見とも言うべき書籍がいくつか置いてある。すべて、織斗や柚姫に送られたプレゼントだ。

 

 しかしあの惨劇の夜、妹のバースデーに父親が送ったのはぬいぐるみだった。その時は珍しいと思っただけで流してしまったが、今思えば不自然きわまりない。

 

(やっぱり、あの盗撮カメラは父さんが仕込んだものなのか……?)

 

 いったいなぜ、と織斗は死者に向かって問うた。確かに年頃の娘の私生活を監視したいと思う男親もいるだろう。しかしだからといって、盗撮はいくらなんでもおかしい。

 

 それではどうして、影人は実娘を――

 

「……くっ!」

 

 ズキリ。左目の傷跡が、突如として激しい幻痛を訴えた。背表紙から発せられる濃密な魔の気配が、織斗の精神を犯してゆく。

 

 次の瞬間、あり得るはずのない光景が、失明寸前の左目に映し出した。邪教徒の夜宴にも似た、下劣な光景を。

 

 

 皆が寝静まった深夜。白髪交じりの紳士は、小さなモニターの前で目を血走らせていた。画面の中では、小柄な少女が穏やかな寝息を立てている。あどけない寝顔。ほっそりとした肢体。紳士はモニターを切り、書斎を後にする。階段を昇り、娘の部屋へ。物音に目覚めた少女が問う。どうしたの、お父さん? しかし影人は答えない。娘の身体を、ベッドに押さえつける。荒い呼吸。恐怖に歪んだ柚姫の顔。そして父親は、娘のパジャマを強引に引きちぎり――

 

 

 

「やめろっ!」

 

 

 

 心にまとわりついた狂気を振り払うように、織斗は叫んだ。最悪の幻影だった。頭が痛い。娘を強姦する父親。近親相姦。父さんがそんなことをするはずが……するはずが……

 

「なんなんだよ、いったい……」

 

 弱々しく呟き、織斗は頭を抱えた。助けを求めるように、机の上にある小冊子を見つめる。父親が書いたであろう本。チャールズ・デクスター・ウォードの事件。著: Marinus Bicknell Willet. 訳: 緋瑞影人。

 

 

 

 ――――ん?

 

 

 

 織斗はまじまじと、父親の名の上に連ねられた著名を見つめた。

 

 

 

 

 

 ――著: Marinus Bicknell Willet.

 

 

 

 

「……マリナス・ビクネル・ウィレット?」

 

 脳裏に浮かぶ、白衣の女性。始めて出会った時、彼女は言った。今週から非常勤養護教諭として働くことになりました、シオン・ウィレット・佐木川って言います。

 

「…………」

 

 居ても立ってもいられず、織斗は立ち上がった。偶然の一致とは到底思えない。小冊子の著者。影人の教え子と名乗った女性。ともにウィレットの姓を持つ者が、この数日で織斗の近くに現れたのだ。まるで計ったかのように!

 

 小冊子をリュックサックに詰め込み、織斗は書斎を飛び出した。身体にまとわりつく狂気の分子を、力任せに振り払う。

 

 

 今日は平日。学生が学校に行くのは、至極当然だ。

 

 

 

 

 

 

 

   Ⅴ

 

 

 

 

 

 

「はっきり言って、これでは無理じゃな」

 

 白い陶器の壷をのぞき込み、少女は頭を振った。

 

「せめて、灰がすべて保存されておれば良かったのじゃが」壷の縁をこつこつと弾く。「身体を作るだけの《塩》が足りておらぬ。これでは蘇生をかけたとて、不完全な木偶人形にしかならぬな」

「そう、ですか……」

 

 女性は静かに壷を見つめていた。その表情には、落胆が色濃く出ている。

 

「よほど好いておったようじゃな」と、イース。「妻や子がおったのじゃろう?」

「好きになるだけなら、罪にはなりませんから」シオンは、むりやり平坦な声で、「はじめてだったんですよ。私のことを、本当の意味で理解してくれた人は。先祖の事を含め、教授だけが私のことを受け止めてくれたんです」

「なるほど、一角の男だったということじゃな。――もっとも、でなければ妾のことを理解することなど出来ぬか」

 

 少女はくつくつと笑う。

 

「妾に助力を請うように諭したのは、この者だったのじゃな?」

「貴方を発掘したのは、教授でしたから」そこで一旦言葉を切ると、「――始め教授からメールが来たとき、私は困惑しました。死者蘇生をもっとも忌避していたのは教授でしたから。しかし今思えば、教授はあの時にはすでに、自分の死を予見していたのでしょう。だから私に貴方のことを託した」

「復讐の為に、か?」

 

「……わかりません」シオンは力なく頭を振る。「ただ、私は教授の敵がとりたい」

 

 シオンは虚空を睨み付ける。その瞳の奥には、明らかな狂気の光があった。

 

 イースはさも愉快気に、

 

「それで、これからどうするのじゃ?」

「彼を追いつめます」シオンははっきりと言い放つ。「追いつめて、絶望と失意を与え、そして終わらせます」

「その為に、また幼気な少女を犠牲にするのかの?」

「……彼の妹に生まれたことを後悔してもらうしかありません」

「ふふ、はっきり言ったらどうじゃ?」

「……なにがですか?」

 

「懸想していた男が他の女との間に作った子など目障りだ、とな」

 

「っ!」

 

 シオンの顔に朱が指す。図星を指された事による怒り。思わず手を振り上げる。

 

 しかしその腕が振り下ろされる事はなかった。

 

 

「……イース様への……無礼は許さない」

 

 栗色のツインテールに、青白い肌。どこからともなく現れた虚ろな瞳の少女が、背後からシオンの腕をつかんでいた。

 

「くっ!」

「ふふ、どうじゃ。我が守護兵は」イースは愉快気に笑う。「もうよい、離せ」

「……かしこまりました」

 

 ツインテールの少女は、つかんでいた手を離す。

 

 シオンはやり場のない怒りを、操り人形のような少女に向けた。

 

「悪趣味ですね」

「お主よりマシじゃよ」

「……まあいいです」シオンはクルリときびすを返す。「片付けをお願いします」

「学校とやらに戻るのかの?」

 

「今日は平日ですから」

 

 

 そう言って、シオンは墓地を後にする。

 

 後に残されたのはくつくつと笑うイースと、虚ろな瞳をした少女人形だけだった。

 

 

 

 

 

 

   Ⅵ

 

 

 

 

 

 

 一旦自宅に戻って制服に着替えた織斗は、とって返したように学校へ向かった。

 

 来客用の門をくぐり、保健室へ向かう。時間から察するに、四限目の授業中だ。おかげで誰の目にも付くことがない。

 

 はやる気持ちを抑え、廊下を進む。南校舎、一階の突き当たり。紀伊縞高校の保健室は、そこにあった。

 

 

「……失礼します」

 

 

 ノックを二回。心臓が早鐘を打つのを、織斗ははっきりと自覚していた。ドアを開け、中をのぞき込む。静かな室内。シオン保険医の姿はない。

 

「ふぅ……」

 

 思わず漏れてしまった安堵の溜息。織斗は内心で自嘲した。どうやら自分は、随分と臆病らしい。シオン保険医に会いに来たのに、保健室にいないことに安堵している。

 

 女々しいな、と思いながら、織斗は保健室に足を踏み入れた。慎重な足取りで、窓際のスチールデスクに近寄る。開かれたノート。スクリーンセーバーの作動しているノートパソコン。いくつかの医学書籍。幸いなことに、織斗の精神に狂気をもたらす書物はない。

 

 しかしその代わりに、困惑を催すものがあった。

 

 

「これは……新聞の切り抜き……?」

 

 

 開かれたノートを見て、織斗は眉根を寄せた。そこにあったのは、貼り付けられた新聞の切り抜きだった。シオンが作ったものだろうか。紀伊縞地方新聞を始めとした最近のタブロイド紙の切り抜きが、整頓されて貼り付けられている。

 

 その中の一つに目を通し、織斗は後悔した。

 

 

 

 

 

 

 一月十九日早朝、紀伊縞市に住む緋瑞影人さん(五一)を含む一家四人が、殺傷害を受けているのが発見された。この事件で、鵬青大学考古学教授である緋瑞影人さん、妻である早苗さん(四七)が死亡、長男(十七)が全治二週間の大怪我、長女(十六)が暴行を受けた。警察は顔見知りの犯行と見て、捜査を開始する方針だ。

 

 

 

 

 

 

 それは、まぎれもなく織斗の一家に起こった事件の記事だった。

 

「っ!」

 

 思わず織斗は目をそらした。ズキリと古傷が疼く。脳裏をよぎる惨劇の光景。やめろ、これ以上見せるな!

 

 あの惨劇の日からしばらく、織斗は一切の情報媒体を拒絶した。新聞、ニュース、その他。それら全てに、自分の身に起こった事件が載っているのだ。好き好んで傷を抉り出そうとは思わない。ようやく最近になって、新聞やニュースを見れるようになったくらいだ。

 

(はは……酷い矛盾だな……)

 

 ズキズキと痛む左目を押さえ、織斗は強く自嘲した。犯人を思い出さなければいけないと思う一方で、事件を彷彿とさせる記事を忌避している。これを矛盾といわずして、なんと言えばいいのか。

 

 織斗は大きく息を吐き出すと、矛盾をかなぐり捨てた。覚悟を決め、新聞の切り抜きに向き直る。一月十九日未明。一家四人。紀伊縞市。鵬青大学考古学教授。全治二週間。暴行。顔見知り。

 

 

 ――ん?

 

 

「なにか今、あれ……?」

 

 

 かすかな違和感を覚え、織斗は首をかしげた。小骨が喉に刺さったかのような、痛みを伴う違和感。何かを見落としているような、そんな気がしてならない。

 

 改めて記事を読み直す。緋瑞影人。鵬青大学。考古学教授……違う、これじゃない。人見知り。一家四人。一月十九日。――十九日!

 

 

 

「な、んで……」

 

 

 

 喉から抜け落ちた小骨は、しかし腸を引き裂くナイフとなった。内臓をぐちゃぐちゃにされたかのような不快感。織斗はまじまじと記事を見つめる。

 

 事件が起こった日のことを、織斗はよく覚えている。なぜなら、その日が柚姫の誕生日だったからだ。だからこそ、織斗は記事に記された日付の異常さに気付いた。妹、緋瑞柚姫の誕生日は一月十七日。事件が起こったのが、一月十七日から十八日にかけて。そして事件が発覚したのが十九日の早朝。

 

 

 ――おかしい! 十八日から十九日の朝まで、まるまる一日分の空白がある!

 

 

「どういう、ことだ……」

 

 空白の一日。それがいったい何を意味しているか、織斗には分からない。しかしこれだけははっきりとしている。もはや正常なものなど一つもない。全てが、正しく狂っている。時間も、世界も、時空も。自分の精神が正常なのかすら分からない。確かなのは、空白の一日に何かがあった。それだけだ。

 

 疲れにも似ためまいを感じ、織斗は蹌踉めいた。とっさに机に手をつく。

 

 その時だった。

 

 

 

 ――ヴゥン……

 

 

 

 手がマウスに触れてしまったのだろう。スクリーンセーバーが終了。鈍い作動音を立て、ノートパソコンのディスプレイに明かりが灯る。白いメール確認画面。受信ボックス。いくつかのメールが並んでいる。差出人は上から順に緋瑞影人、緋瑞影人、緋瑞影人……

 

「父さんの送ったメール……」

 

 織斗が次にとった行動は、人として至極当然だった。

 

 吸い寄せられるように、織斗はマウスに手をかけた。他人のメールだが、もはやそんなことはどうでもいい。父さんのメール。死者からの手紙。抗いがたい誘惑が、織斗の良心をくびり殺す。

 

 唾を飲み込む。ゴクリ。マウスを動かし、一番上をクリック。

 

 織斗の思考が、停止した。

 

 

 

「……」

 

 

 

 ディスプレイに映るメール文。その内容が、全く持って理解できない。父が送ったであろう手紙。――なにをいってるんだ、父さん……?

 

 パソコンを通し、父はこう述べていた。

 

 

 

 

『――私の息子に注意しろ』

 

 

 

 

 

 …………――

 

 

 

 ……――

 

 

 

 

 

「……あれ、どうしたんですか、織斗君? そんなところで?」

「っ!」

 

 ショックで失神しなかったのは、まさしく不幸中の幸いだった。

 

 もっともその幸いも、不幸を帳消しにするほどではない。

 

 突如背後からかけられた声。織斗はとっさにノートパソコンのディスプレイをたたむと、ゆっくりと振り返った。心臓の音がうるさい。なるべく自然な表情を作る。

 

 

「こ、こんにちは、先せ……」

 

 

 自然な表情など、到底不可能だった。

 

 

「……なに、してたんですか?」

 

 

 保健室の扉の前で、白衣の女性は佇んでいた。ほんわかとした笑み。しかしその瞳は、一切笑っていない。得体の知れない恐怖が、織斗の背筋を駆け抜ける。

 

 

「……なに、してたんですか?」

 

 

 失神した方がマシだったと、織斗は心底思った。

 

 

 

 

 

 

 

   Ⅶ

 

 

 

 

 

 

「はい、そうです、刑事さん。結果は三日後に出ます……はい、ではその時に」

 

 受話器をおろし、小太りの医師は息をついた。

 

 彼は、現代医学の熱心な信者だった。日々進歩してゆく最新医療技術。医学に一生を賭すこと誓った彼にとって、それはまさに神に至る道だった。

 

 もちろん神への階梯には、様々な問題がちりばめられている。法律、人権、倫理。それらは決して無視できないものであり、医者として守らなければならないものでもある。

 

 しかし彼は、今回に限りそれを無視することに決めていた。

 

「先生、本当によろしいので?」

 

 事情を知っている壮年のナース長が、気遣わしげに問う。

 

「もしこのことが外部に知られたら……」

「その時は、僕が潔く責任を取りますよ」医師は苦笑と共に、「倫理うんぬん以前に、僕のやったことは犯罪ですから」

「……」ナース長は声を潜める。「出生前DNA判定、ですか」

「最新技術ですよ」

 

 出生前DNA判定。

 

 それが、医師の用いた最新医療技術だった。

 

 医師は横目で、机の上にある小ビンを見つめた。アクリル製のビンの中には、先ほど少女の体内から採集した組織片が入っている。検査と偽って採集したサンプル。まごうことなき犯罪行為だ。しかしそれでも医師は、自分の精神衛生のために、それを断行した。

 

 医師の脳裏に、一人の少女の姿が浮かび上がる。

 

 半日泣き明かした少女は、しかし午後の検査では小さな笑みを浮かべていた。始め医師は、それを気丈な振る舞いと思った。なんて強い少女なのか、と。

 

 しかしそれは大きな間違いだった。

 

 検査の合間、少女はひとりベンチに座っていた。自分のお腹をさすり、つぶやく。

 

 

 

『赤ちゃん……私の赤ちゃん……私の赤ちゃん……私の赤ちゃん……』

 

 

 

 白痴じみた、虚ろな笑み。それを見た医師は、はっきりと悟ってしまった。

 

 

 

 ――少女の精神が、病み始めている。

 

 

 

 それも当然だ、と医師は思う。見知らぬ殺人鬼に暴行を受け、あまつ妊娠までさせられたのだ。まだ幼い少女の精神がどれほどの傷を負ったのか、想像も付かない。

 

 おそらく、と医師は考える。彼女は、お腹の子供を自分の子供と思うことで、精神の均衡を保たせているのだろう。もしかしたら、暴行された記憶を塗りつぶし、愛しい人の子供と思いこんでいるのかも知れない。精神を守るための防衛本能。しかしその本能も、度を過ぎれば麻薬になる。そして麻薬が心身をボロボロにしてゆくのは、古代からよく知られていた。

 

「医学の限界、かな……」

「先生……」

「分かっているんですよ、婦長。僕の行いが、単なる自己満足に過ぎないことは」机の上の小ビンを見つめる。「それでもせめて、犯人を見つける手がかりになってくれれば。そう思わずにはいられなかった」

 

 出生前DNA判定を使えば、胎児の父親のDNAを抽出することが出来る。現代科学捜査において、DNAが有力な手がかりになるのは有名な話だ。

 

「……ですが先生」ナース長は、少し不安げに、「DNA判定が出来るほど、まだ胎児が育ってないのでは?」

 

「妊娠して二ヶ月なら、どうにかなると思いますよ」医師はつぶやく。「医学は、日進月歩で進んでいますから」

 

 

 神の領域まではまだ遠いとしても、医師は信仰を捨てようとは思わない。

 

 

 例え三日後に、恐怖と困惑をもたらす結果が出たとしても。

 

 

 

 

 

 

 

 

 薄暗い病室で、少女は凡庸と虚空を眺めていた。

 

 ふと何かに惹かれるように、自分の下腹部を見つめる。幻聴が、少女の耳朶を打った。

 

 

 

 ――お母さん!

 

 

 

「私の赤ちゃん……」

 

 月のような笑みを浮かべ、少女は下腹部をさする。命の胎動。温かみのある『ナニカ』が、少女の体内で蠢いている。母である少女は、それをはっきりと感じ取っていた。

 

「ふふ……元気……」

 

 少女の子宮を、小さな命が蹴り上げる。もちろん妊娠二ヶ月の胎児が、お腹の内側を蹴るはずはない。単なる幻。想像感覚。しかし少女に、そんなことは関係ない。

 

 妊娠。ただそれだけで、少女の精神は静かに燃え上がっていた。正気を、ゆっくりと焼き焦がしながら。

 

「赤ちゃん……私は、お母さん……」

 

 少女は想像する。お母さん。なんて甘美な響きなのだろうか。あまりの甘美さ故に、思わず腰砕けになる。子宮から迸る快楽が、脊髄を駆け抜け、脳天まで突き抜けてゆく。

 

 

「あ、はぁ……」

 

 

 熱い吐息。ベッドにくたりと横たわり、少女はお腹をなでる。私はだれ? 私はお母さん。そしてふと気付く。――なら、お父さんは?

 

「お父さん……」

 

 少女の眉が、僅かに歪む。お父さん。あんまりいい響きじゃない。身体が違和感を訴える。胃の奥がむかむかとしてくる。気分が悪い。

 

 しかし少女は、その不快感を打ち消す魔法の言葉を知っていた。

 

「お兄ちゃん……」

 瞳をトロンと潤ませ、少女は熱い吐息を吐いた。まさに魔法の呪文だ、と少女は思う。お兄ちゃん。ただそれだけの言葉が、耐えようもない甘美を与えてくる。

 

「お兄ちゃん……お兄ちゃん……お兄ちゃん……」

 

 甘美な快楽が、少女の背筋を突き抜ける。私は幸せだ、と少女は思う。身体を包む快感。魔法の呪文。胎動する命。全てがそろっている。幸せだ。今にも壊れそうなくらい、私は幸せだ!

 

 

「――――!」

 

 

 声なき声で、少女は喝采を上げる。

 

 それと同時に、少女の中にいる『ナニカ』も熱い咆哮を放った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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