恐怖狩人 ~クトゥルフ神話ガチ勢が恐怖小説を書いてみた~   作:セラニアン

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第4章 這い寄るもの ~A Mutation and a Madness~

 

 

 木乃伊(ミイラ)を霊薬にて溶かし、一晩煮詰めよ。然るべき後、鍋底に残りし死灰を残らず集めよ。死灰とは、すなわち生命の本質たる《塩》である。この《塩》を鉛の器に盛り、左手に暗殺剣を持ち、右手で剣印を組め。頭の句を一度唱え、剣印を突きつけよ。蘇生は創造にあらず。しかしながら卓越した魔道士であれば、あるいは蘇りし死者の脳髄に暗殺剣をつきたて、死者を人形の如くせん。

 

 ――ジョン・ディー博士訳『英語版ネクロノミコン』第七巻より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   Ⅰ

 

 

 

 

 

 

 これは単なる夢だと、織斗は自分に言い聞かせた。

 

 吐き気を及ぼす幻。ベッドの上で、初老の男性が裸の少女を組み敷いていた。秘所から滴る鮮血。虚ろな表情。少女はつぶやく。お兄ちゃん……。

 

 

『―――っ!』

 

 

 思考が一瞬で沸騰する。全身の血が、煮えたぎるマグマに変わったかのようだ。ドロドロとした衝動に請われるまま、ハンマーを握りしめる。獣の如き咆哮を放ち、男性に襲い掛かる。

 

『アァァァッ!』

 

(違う……これは違う……)

 

 

 織斗は必死で否定する。しかし狂夢は、織斗の精神を容赦なく蝕む。

 

 逃げまどう男性を追って、両親の寝室へ。殺人鬼は躊躇無く左手を振り下ろした。ゴッ、という鈍い音。飛び散る鮮血。寝ていた母が飛び起きる。――織斗、止めて!

 

(止めろ! 止めてくれ!)

 

 必死の懇願を、人影は一蹴した。

 

 うるさい、邪魔をするな! ハンマーを横凪に振り抜く。砕ける頭蓋。吹き出す脳漿。血の衝動に従い、殺人鬼はハンマーを振り下ろす。

僅か数分で、二人の人間が二つの肉塊へと変貌する。

 

 

『はぁ……はぁ……』

 

 

 荒い呼吸。ようやくそこで、人影は正気に返った。

 

 

『お、俺は……』

 

 

 恐れおののき、ハンマーを投げ捨てる。俺は……なんてことを……。

 

 

『うあぁぁぁっ!』

 

 絶叫。両親の部屋を飛び出す。救いを求めるように、妹の部屋へ。

 

 しかしそこで待つのは絶望のみ。そして絶望は、容易く狂気へと変貌する。

 

 絶え間ない吐き気と頭痛。狂気が精神を食い破る。顔が歪んでゆく。ゆっくりと、笑みの形に。――ああ、なんてことだ! 俺は今笑っている!

 

 

(お前は、誰だ!)

 

 

 

『お前は俺だ……緋瑞織斗』

 

 

 

 

 

 

 声なき絶叫と共に、織斗は目を覚ました。

 

「なんで……こんな……」

 

 ベッドの中から天井を見上げ、織斗は無音の慟哭を上げた。漏れそうになる嗚咽を、歯を食いしばって耐える。――ダメだ、泣くな。柚姫を守らなければいけない俺が、泣いてどうする!

 

 嗚咽を必死に飲み下し、織斗は目線を横に動かした。自分の左腕を抱き枕に、小柄な少女がすぅすぅと寝息を立てていた。あどけない寝顔。口元には小さな笑みが浮かんでいる。

 

 しかしその笑みが幸福から来るものでないことを、織斗は知っていた。

 

「柚姫……」

 

 不甲斐ない兄を責めるように、古傷が痛む。もはや慣れ親しんだ幻痛。

 

 しかし織斗は、その痛みに心底安堵を感じていた。

 

(この痛みだけが、俺の精神を正気につなぎ止めている……)

 

 柚姫の妊娠。父親の研究。警告のメール。蘇る死者。禁断の魔道書。過去に起きた怪事件。狂った夢――

 

 もはや正しい現実すら分からない現状。そんな中で唯一、左目の傷跡と幻痛だけが、狂気に陥りかける織斗の精神をつなぎ止めていた。

 

 もっとも、それもいつまで持つか分からない。

 

 

「……今日はもう眠れない、か」

 

 

 慢性的な寝不足。恐怖は、確実に織斗の精神を蝕んでいた。

 

 

 

 

 

 

   Ⅱ

 

 

 

 

 

 

 緋瑞家の食卓に変化が訪れたのは、柚姫が検査入院を終えて直ぐのことだった。

 

 物の減ったダイニング。若干傷のあるテーブルの上に並べられた朝食を見つめ、織斗はぽつりとつぶやいた。

 

「……なぁ、柚姫」言葉を濁しながら、「その、ずいぶんと豪華だな?」

「栄養、つけなきゃ……」

 

 キッチンで汁物を温めながら、少女は当然のように言い放つ。

 

 テーブルの上に並ぶメニューは、朝食とは思えないくらい充実していた。豚汁にほうれん草のごま和え、ひじきの煮物、たこの酢の物、ニラレバ。鉄分やタンパク質を含む料理が増えている。織斗の対面には、きなこの入ったヨーグルト。料理人の意図がよく分かるメニューだ。

 

「……なぁ、柚姫」

 

「? なに?」

 

 鍋をかき回す少女の背中に、織斗は問う。

 

「ホントに、産むつもりなのか?」

「…………」

 

 少女の動きが、ピタリと止まった。

 

 エプロンを纏った背中が、かすかに震える。くすくす、くすくす。聞く者を震え上がらせるような、陰鬱な笑い声。

 

 

「私……」どこか虚ろな声で、少女は言い放った。「……私、お母さんになるの」

 

 

 肩越しに振り返る。少女の瞳を目にし、織斗は絶句した。精神を病んだ者特有の、光のない瞳。淀んだ底なし沼のようだ。

 

 織斗は思わず叫ぶ。

 

「正気か、柚姫!」テーブルに手をたたき付ける。「そいつは父さんたちを殺した……殺した……」

 

 

 

 ――殺人鬼の子供なんだぞ! 

 

 

 

 そう言おうとして、しかし織斗は言葉を詰まらせた。

 

 織斗の脳裏に、今朝の悪夢がダイジェストに映し出される。父親の盗撮。犯される柚姫。激しい殺戮衝動。逃げまどう父。ハンマー。吹き出す脳漿。左目の傷跡。

 

 ズキリと、左目が痛む。リアリティのない、けれどただの夢とは断言できない悪夢。どこか納得出来てしまう仮想現実。

 

 心で否定しながら、しかし織斗は思う。柚姫のお腹にある命。それは殺人鬼の子供ではない。彼女を犯したのは、実父である緋瑞影人なのだと――

 

 正しいことなど、何一つ分からない。

 

「……くっ」

 

 声を詰まらせながら、織斗は思う。もしあの悪夢が真実ならば、殺人鬼の正体もまた明らかになる。血みどろのハンマーを握りしめる人影。左目の傷跡。狂気に満ちた笑み。

 

 

(俺が……父さんたちを殺したのか……?)

 

 

 そんなはずはない、と織斗は必死に否定した。

 

 悪夢には、一つつじつまの合わない部分がある。織斗の傷だ。もし殺人鬼と織斗が同一人物だとしたら、織斗の傷は自分自身で付けたことになる。不可能ではないが、少々ナンセンスだ。

 

 それに凶器の事がある。もし織斗は犯人なら、凶器であるハンマーは殺人現場に落ちていないといけない。しかし凶器が発見されたのは、撲殺された少女・結城梢の死体の側だ。明らかにつじつまが合わない。

 

 もちろん神懸かり的な何かの力があれば、すべては泡沫となるが――

 

「どうしたの、お兄ちゃん?」ぼうっと立ちつくす兄に向かって、柚姫は声をかける。「どうしたの?」

 

「いや……なんでも……」そこで織斗は言葉を切る。「……なぁ、柚姫」

 

 

 織斗は、改めて妹の姿を見つめた。小柄な少女。大切な実妹。緋瑞柚姫。今にも消えそうな儚い少女の姿に、織斗は再確認する。自分は、柚姫の兄だ。例え彼女が精神を病もうと、父親の子供を身ごもっていようと、それは変わらない。柚姫を守ってやれるのは、今や自分しかいないのだ。

 

「柚姫……」虚ろな少女の瞳を見つめ、織斗は言い放つ。「何があっても、お前はずっと俺の大切な妹だからな」

 

「お兄ちゃん……」

 

 

 柚姫の瞳に、僅かではあるが理性の光が灯る。月光にも似た、かすかな光。織斗は万感の思いを込め、その光を見守った。

 

 

「俺は、ずっとお前の兄だからな」

 

 

 しかしその誓いは、数日の内に破られることになる。

 

 

 

 

 

 

   Ⅲ

 

 

 

 

 

 

 たかが紙切れ一枚。

 

 しかしそこに書かれた内容は、貴島大悟刑事の恐怖を煽るのに十分だった。

 

「……どういうこった、こいつは?」

「どうもなにも、見たままです」

 

 小綺麗な診察室で、小太りの医師は身体を縮めていた。背中が小さい。顔を俯かせ、震える声でつぶやく。

 

「僕は今日ほど、医学の進歩を恨んだ日はないです」

「…………」

 

 大悟は無言で、医師から受け取った診断書を見つめた。恐怖とも怒りともつかない感覚。まるで万匹の蟲が、背中を這いずり回っているかのようだ。煙草が欲しい、と大悟は切に思う。大脳が、ニコチンという麻薬成分を欲している。

 

 大悟巡査長は、心底忌々しげに、

 

「こいつに間違いはないんだな?」

「……大学病院でも二回検査してもらいました」医師は、苦いものをはき出すようにつぶやく。「残念ながら、間違いはありません」

「近親相姦、か……」

 

 それは、ある意味最悪の結果だった。

 

 いままで信じてきた何かが崩れる音を、大悟は確かに聞いた。警察官になって十二年。これほどまでに信じられない結果になった事件は、いまだかつてない。

 

 だが、と大悟は思い返す。確かに結果は信じがたいが、つじつまが合うのも事実だ。暴行を受けた少女。殺された両親。そして怪我を負いながらも、生き残った息子。――一応ではあるが、筋は通る。

 

「くそっ……!」

 

 大悟は忌々しげに吐き捨てる。刑事の勘など必要ない。実に簡単な推理だ。そして導き出される犯人はたった一人――

 

 大悟は診断書を握りしめ、立ち上がった。

 

 

「捜査協力、感謝する」

「……はい」

 

 

 俯く医師を残し、大悟は診察室を辞した。足早に喫煙ルームに向かう。早く煙草が吸いたい、と大脳が訴えている。禁煙をしていたが、もうそんなことはどうだっていい。紫煙さえ見なければいいのだ。ニコチンに罪はない。

 

「……全部、嘘だったってのか」

 

 診断書をクシャクシャに丸め、待合室にあったくずかごに投げ込む。逃げ場を求めるように、心優しい刑事は紫煙の立ちこめる小部屋に飛び込んだ。

 

 

 

 

 

「…………」

 

 何気ない動作で、人影はくずかごに腕を伸ばした。クシャクシャになった紙を取り出すと、すばやくハンドバックにしまい込む。そのまま病院の外へ。

 

 人気のない駐車場まで移動。人影は紙を取り出すと、しずかに広げ見た。

 

「ふふ、どうだったのじゃ?」

「……あなたも相当、人の背後が好きですね」

 

 背後からかけられた声に、人影――シオン女医は皮肉で還した。

 

「なに、年を取ると人を驚かせるくらいしか楽しみがないのじゃよ」異国の少女は、心底愉快気に笑うと、「それで、どうなのじゃ?」

「……黒です」

 

 シオンはスッと目を細める。皺だらけの紙に書かれた内容は、彼女の推理を裏付けるのに十分なものだった。

 

「ほう」イースも同様に目を細める。「やはりあの男は、魔道の徒だったのじゃな。おそらくは、己で記憶を封じたか……しかしながら、染みついた仄暗い臭いは隠せなかったようじゃな」

「穢らわしい臭いです」とシオン。「教授の息子とは、到底思えません。その血を後世に残すなんて、もってのほか……」

「本人はおろか、母子共々殺すつもりか?」

 

「子供はともかく、母親を殺すつもりはありません」そこで一旦言葉を切ると、「……ですが胎児を引きずり出したショックで、死んでしまうかも知れませんね」

 

 気分が高揚するのを、シオンは堪えきれなかった。

 

 シオンの脳裏に、近い未来で起こるであろう光景が浮かび上がる。子宮を切り裂かれ、絶叫する少女。苦悶と呪詛の声を発しながら死んでゆく妹を見て、兄は絶望するに違いない。身体を掻きむしり、血の涙を流すだろう。そしてそんな兄を、自分はハンマーで殴り殺すのだ。絶望の中での死。それをして、始めて自分の復讐は完遂する!

 

「これ以上、期を待つ必要はありません」シオンは恍惚とした様子で言い放つ。「ゆきましょう」

「星辰は満ちておらぬが、まあ、よかろう」

 

 イースは優雅に右手を持ち上げた。どこからともなく、小さなギリシャ壷が現れる。左肩には、魔蟲スカニバル。まさしく護衛兵のごとく、主を守っている。

 

 イースは人差し指と中指を伸ばし、剣印を結ぶと、虚空をなぞった。

 

 

「ヤ、アイ……ング、ンガァー……」

 

 

 少女を中心に、魔的な風が吹き荒れる。空を覆う雪雲が厚さを増し、陽光を完全に覆い尽くす。まさに超常。狂気じみた力が、ギリシャ壷の蓋を弾き飛ばす。

 

 

「ヨグ・ソトース……ヘ、エエ……ル、ゲブ……」

 

 

 詠唱は続く。邪悪を讃え、運命を讃え、一を讃え、全を讃える。あらゆる法則をねじ曲げ、あらゆる理不尽を讃え詠う。

 

 その詩に乗り、ギリシャ壷から紫煙が吹き出す。まるで墓穴から這い出る死人形のごとく。最低の刺激臭が、辺り一面に立ちこめる。

 

 しかし異国の魔道士は、構わず邪悪な詩を詠い続ける。邪悪なるかな、邪悪なるかな、邪悪なるかな――

 

 

「フ、アイ……スロオドオグ…………ウァアァー!」

 

 

 虚空に剣印を突きつける。顕現する狂気。それを見て、シオン女医は笑った。異国の少女、悠久の時を経て蘇った魔道士によって調整されたそれは、然るべき働きをするだろう。卑劣なる殺人鬼を、絶望させるために!

 

「楽しみですね……」

 

 シオンは薄く笑い、今一度手の中にある紙を見つめた。たかが紙切れ一枚。しかしそれの、なんと頼もしいことか。断罪の手助けをするのに、十分きわまりない。

 

 皺だらけの診断書には、几帳面な字でこう書かれていた。

 

 

 

 

『――以上の結果より、患者・緋瑞柚姫の身ごもっている胎児の父親は、89%以上の確率で患者の実兄である【緋瑞織斗】と考えられる』

 

 

 

 

 

 

 

 

   Ⅳ

 

 

 

 

 

 

 

 冬の黄昏時は、どこか陰鬱だった。

 

 学校帰り。寒さに身を縮め、織斗と柚姫は寄り添って歩いていた。影が長い。アスファルトは赤く染まり、のっぺりとした人影だけが黒く蠢いている。歩調に合わせ、ゆらり、ゆらり、と。まるで別個の生き物のようだ。

 

 本当に別の生き物かもな、と織斗は取り留めなく思う。人の足下に現れる、影。光の下でしか生きられない闇の生命体。

 

 しかし、と同時に織斗思う。光がなければ影は生まれないと言うが、それは本当なのだろうか。闇の中に影が潜んでいないと、誰が証明したというのか。夜であろうと、闇の中であろうと、影は人の足下にいるかもしれない。まさしく這い寄るもの。そして影は、虎視眈々とたくらんでいるのだ。人の精神に進入し、狂わせる時を――

 

(……くだらない、な)

 

 そう思いながらも、織斗はアスファルトから視線をそらした。しかし長い影法師は、どこまでも織斗の視界に入り込んでくる。忌々しい。

 

 そんな兄の微妙な変化を感じ取ったのか、織斗の半歩後ろを歩いていた少女は、ぽつりとつぶやいた。

 

「……お兄ちゃん、どうしたの?」

「いや……」織斗は小さく首を振る。「夕焼けがすごいって思ってな」

「? 夕焼け?」

「ああ。あんまりにも赤くてな……」

 

 影を見たくないという一心で、織斗は空を仰いだ。しかしそこで後悔する。鮮血のような赤。まるで地球が、内蔵をぶちまけたかのようだ。赤黒く染まった雲は、さしずめ飛び散った肉片だろうか。最低な想像だ。気分が悪くなる。

 

「……寒くなってきた……早く帰ろう」

「……うん」

 

 こくりと頷く柚姫をつれ、織斗は家路を急ぐ。なるべく、正面を見るようにしながら。

 

 

 故に織斗は気づけなかった。影法師が、いつしか二つから三つに増えていたことに。そしてその影の頭部に、揺らめく二本の触手のようなものが着いていたことに。

 

 

 

 

 

 夕食前のひととき。織斗は自室で思案に耽っていた。基本的に、キッチンは柚姫の独壇場だ。いくら織斗が手伝うと言っても、彼女は兄が台所に立つのをよしとしない。故に食事の前は、いつも手持ちぶさたになる。

 

 しかしこの時ばかりは、織斗は一人の時間を歓迎していた。

 

 リュックサックを開け、小冊子を取り出す。マリナス・ビクネル・ウィレット著、緋瑞影人訳、チャールズ・デクスター・ウォードの事件。それが現状にて唯一、父親の研究の手がかりとなる書物だった。

 

織斗は喉をゴクリと鳴らし、質素な表紙をめくった。著者からの警告文。死者は蘇る。だが、それを許してはならん。そう書かれた序文を読み飛ばし、支離滅裂な中身を紐解いてゆく。

 

 

結果は――やはり意味不明。

 

 

「……ダメか」

 

 もちろん、全く内容が分からないわけではない。チャールズ・ウォードという青年が遭遇した事件の内容はなんとなく理解できるし、事件の背後に邪悪な存在が蠢いていることは、はっきり感じ取れる。例の二つの呪文は、ただの文字であるのに、どこか鼻につく刺激臭を放っている。傷跡が疼くほどに。

 

 しかし、父・緋瑞影人教授の研究内容が伺えるかというと、答えは否だった。

 

「やっぱり、シオン先生に聞くしかないのか……」

 

 あの時保健室から逃げ出してしまったことを、織斗は今更ながら悔いた。シオン女史ならば、影人の研究のことを知っているに違いない。最近までメールのやりとりをしていたのだ。それこそ事件に関係あることを知っている可能性だってある。それを聞き出す機会を逃したのは、痛いとしか言いようがない。

 

 しかし、と織斗は思い直す。シオン女医に聞いたところで、果たして本当に教えてくれるのだろうか、と。

 

 あの日盗み見たシオンのメールの内容を、織斗ははっきりと覚えている。極めて事務的な文体で、影人は言っていた。自分の息子に注意しろと。

 

 なぜ父がそんなメールを送ったのか、織斗には想像も付かない。あるいは息子に近づくことで、教え子が事件に巻き込まれることを心配したのかも知れない。君子危うきに近寄らず。防犯の基本は、危険を未然に察知することにある。――未然?

 

 織斗は、唐突に思い至った。

 

 

「……父さんは前から、自分や俺や柚姫に、何らかの危険が及ぶことを知っていたのか?」

 

 

 そもそも考えれば分かることだ。危険を知っていなければ、当然警告を発することなど出来ない。つまり影人は、自分が殺されることを事前に察知していたということになる。

 

 織斗の背中を、薄ら寒い空気が吹き抜けてゆく。肌が泡立つ。背筋を振るわせながら、織斗は惨劇の起こった日のことを、順序立てて思い出しはじめた。

 

 一月十七日。柚姫の十六歳の誕生日だったその日、織斗は柚姫と共に朝から出かけていた。織斗からのプレゼント代わりに、近場の水族館に遊びに行ったのだ。そこで半日近く時間を潰し、ウィンドウショッピングをしながら帰宅。御馳走を作る母をみんなで手伝い、パーティーが始める。十六本のロウソクを吹き消し、乾杯。はにかむ柚姫に、父親がクマのぬいぐるみを送る。

 

『珍しいな、父さんが本以外のものを用意するなんて』と織斗。

『まあ、たまにはいいだろう?』と影人。『気に入ってもらえるといいんだが……』

 

 どこか心配そうな父に向かって、柚姫は言い放つ。――ありがとう。

 

 その後は、なんの変哲もないパーティーだった。父と母はワインを開け、織斗と柚姫はぶどうジュースを傾ける。和やかな雰囲気。ケーキを平らげ、そろそろお開きにしようと立ち上がり――

 

 

「あ、れ……?」

 

 

 そこまで思いだし、織斗の身体が強ばった。

 

「パーティーが終わって……終わって……その後どうなったんだ?」

 

 織斗は愕然とした。記憶が、ない。脱落している。そうだ、今までなぜ気付かなかったのだろうか。パーティーが終わったのが夜八時過ぎ。惨劇の起こったのが深夜と仮定すると、数時間分の記憶がすっぽり抜け落ちている。

 

 言いようもない恐怖感。抜け落ちた数時間の間、自分が何をやっていたのか全く思い出せない。まるで自分以外の何者かが、勝手に織斗の身体を乗っ取っていたかのよう。

 

「……」

 

 自分自身の存在感が、急激に薄れてゆくのを織斗は感じた。そもそも自己を確立させているのは、経験や記憶といった情報体だ。思い出といってもいい。目に見えない情報が蓄積されて、始めて確固たる人格が形成される。

 

 では、その情報が途中で途切れていたら? それを考え、織斗は恐怖した。人間の脳髄は、言わば連続情報回路だ。その流れが一瞬でも停止したら、その人間の人格は終了する。

 

 もちろん次に起動したときには、同じ記憶を持った人間ができあがるだろう。しかしそれが本当に同じ人間だとは、誰も証明できないに違いない。

 

 例えば夜寝るとき、こう考えてみるといい。自分という人格は、寝るごとに更新されてゆくのだと。目覚めとは、即ち生まれ変わった瞬間だ。昨日の人格が死に絶え、新たな人格が産声を上げる。あたかもクローンのごとく。

 

 もちろん普通は、朝目覚めたときに自分の事を疑う事はない。それは自己が自己であると、無意識に思いこんでいるからだ。

 

 しかし今の織斗は、そうではない。自分を信用できない現状において、確固たる自己を認識することは不可能だった。記憶が抜け落ちていると知れば、なおさらだ。

 

 織斗の手が、無意識の内に額に伸びる。額から左目にかけて走る傷跡を、強く押さえた。

 

 

「これだけが……俺の証明か……」

 

 

 ことあるごとに幻痛を訴える傷跡。それだけが、織斗が織斗たる証明だった。恐怖を打ち消す、唯一の確証。自己を自己たらしめるものが犯人に付けられた傷とは、なんとも皮肉だ。

 

 恐怖に身を震わせながら、織斗は身体を縮める。――その時だった。

 

 

 ピンポーン!

 

 

 気の抜けるチャイム音。次いで、妹の呼び声がドアの向こうから響く。

 

「……お兄ちゃん、お願い」

 

 決して大きくない声を、しかし織斗はしっかりと聞き取った。おそらく料理で手が離せないのだろう。身震いを一つ。リュックサックに小冊子をしまうと、自室を出る。

 

 少女がキッチンから顔を覗かせる。

 

「お兄ちゃん……」

「……そのまま続けててくれ。俺が出るから」

 

 柚姫を制し、玄関に向かう。魚眼レンズを通し、相手を確認。

 

 若干怪訝そうにしながらも、織斗は躊躇いなく玄関のドアを開けた。

 

 

「どうしたんですか、刑事さん? こんな時間に……」

 

 

 織斗の言葉を遮り、貴島巡査長は屹然と言い放った。

 

 

 

 

「緋瑞織斗……婦女暴行の容疑で逮捕する」

 

 

 

 

 

 

 

   Ⅴ

 

 

 

 

 

 

 これまで何度も繰り返した行為を、貴島大悟は極めて機械的に遂行した。

 

「緋瑞織斗……婦女暴行の容疑で逮捕する」

 

 逮捕状を提示。警察手帳を提示。腰のベルトに付けた手錠ケースから、金属製の環を取り出す。腕時計で時間を確認。十七時四六分。

 

(逢魔が時じゃねえだけ、マシってとこか……)

 

 意味もなく、大悟は思う。冬の夕暮れは早い。既に空は黒紫色に染まっている。月は見えない。雲が厚いせいだ。寒い。

 

 温かな内気と凍える外気がせめぎ合う場所で、大悟は醒めた目を向けた。ドアを開けた体勢のまま、一人の青年が固まっている。困惑気味の顔。その瞳が、青年の心境を雄弁に語っている。――何言っているんだ、この刑事は?

 

(ふん、演技派だな……)

 

 忌々しげに舌打ち。この青年の演技力に、今更ながら感嘆と憤怒の念を覚える。ついでに、その嘘に気付かなかった自分への苛立ちも。

 

(役者にでもなってたら、もしかしたら大成したかもな……)

 

 くだらない仮定だ、と大悟は自嘲した。さあ、機械的に進めよう。

 

「署まで来てもらおうか、緋瑞織斗」

「? なにを言ってるんですか?」困惑気味に織斗は問う。「俺を逮捕って、いったいどうして……」

「ふん、決まってるだろう。婦女暴行だ」

「? そんなこと俺は……」

「してねえなんて言わせねえぜ。嬢ちゃんの身ごもってる子供からDNAを採取した。種付けしたのがテメエだってことは、もう証明されてるんだよ」

 

「っ!」

 

 青年の身体が強ばった。

 

 

「そ、んな……俺が柚姫の子供の父親……?」

 

 

 愕然とする青年。証拠を突きつけてなお演技を続ける胆力に、大悟は感心する。

 

 しかし科学的に裏付けられた証拠からは逃げられない。刑事は青年の腕をとると、手錠を押し当てた。

 

(まさか、こんなことをする羽目になるなんてな……)

 

 そうぼやき、しかし大悟はすぐさま思い直した。あり得ない結末では、決してない。むしろ想定内のエンディングだ。

 

 そもそも緋瑞家一家僕殺傷事件の捜査において、息子犯人説は当初から考慮されていたことだ。暴行された妹。撲殺された両親。そして傷を負いながら生き残った息子――

 

 おそらく、と大悟は推理する。目の前の青年は、妹を女として愛してしまったのだろう。彼の妹への執着と過保護ぶりは、とても演技とは思えない。緋瑞柚姫という少女は、儚いという言葉がぴったり来る美少女だ。男であれば、思わず守らずにはいられない。おそらく青年も始めはそうだったのだろう。守らなければならない、か弱い存在。妹。しかしその思いは、いつしか男女の愛へと変貌した。か弱い美少女は、同時に汚したくなるような生乙女だ。そして兄は、ついに劣情に屈した。

 

(おおかた、むりやり襲ったのを両親に見られたってとこか……)

 

 大悟は想像する。妹を組み敷き、その肢体の隅々まで汚す兄。ショックのあまり放心する妹。物音を聞きつけた両親が、少女の部屋に踏み込む。

 

 

『何をやってる、織斗!』と父。

 

 

 逆上した青年は、一旦物置に向かう。父親のハンマーを持ち出し、両親の部屋へ。撲殺。しばらくして正気に戻った青年は、自分のやった事の重大さに気付き、自分の頭部に向かってハンマーを――

 

(もしくは……)

 

 大悟は別の推理をする。両親の死体の前で、放心する青年。いつの間にかその隣には、シーツを巻き付けた裸の少女が立っていた。

 

『柚姫……』

『お兄ちゃんだったら……私、いいから……』妹は、そっと兄を抱きしめる。『隠そう……お父さんもお母さんも、知らない人に殺されたの……』

 

 あるいは少女も、兄を慕っていたのかもしれない。兄妹は共謀して、一つのストーリーを作り上げる。

 

 

 

 ――見知らぬ殺人鬼が両親を殺し、少女を犯した。

 

 

 

 しかしそうすると、息子だけが無傷であることが目立ってしまう。当然、容疑者として疑われるだろう。それを回避するために、兄は妹にハンマーを渡したに違いない。

 

『……頼む、柚姫』兄はその場で座り込み、歯を食いしばった。『そのハンマーで、俺を殴ってくれ』

『…………』

 

 少女は泣きながらハンマーを振りおろす。額から左目にかけて、肉が抉れる。そして気絶した兄を介抱し、ハンマーを隠した後で少女は警察に――

 

 

 切断。所詮はイメージにすぎない。

 

 

(……まあいい。こんなとこで考えてもしょうがねえ。時間はある。ゆっくり取り調べすりゃあいいさ)

 

 現状で逮捕状が取れたのは婦女暴行だけだが、取り調べをすれば事実が明らかになるだろう。両親の殺害については、後で逮捕状請求をすればいい。もちろん妹にも同行を願わなければいけない。犯行に関与している可能性があるのだ。それに青年の方が、殴られた衝撃で記憶喪失になっている可能性もある。彼女の証言も聞かなければいけない。大丈夫だ。その為に、わざわざ女性制服警官を呼んである。

 

 大悟は背後を振り返り、女性警官に目配せした。顔見知りの婦警が頷くのを確認し、今一度、腕時計を見る。もうすぐ夜だ。

 

 

「十七時四九分。――逮捕する」

 

 

 機械的に、刑事は青年の腕に手錠をかけた。

 

 

 

 

 

 

 

「……な、んで」

 

 冷たく、重い金属の感触。左右の手を繋ぐ手錠を見下ろし、織斗は放心していた。思考が回らない。婦女暴行。だれが、だれを?

 

(俺が……柚姫を……?)

 

 そんな馬鹿な、と織斗は思う。柚姫を犯したのは、父親のはずだ。しかし刑事は、柚姫の子供から織斗のDNAが検出されたといった。それが本当なら、まさに動かぬ証拠だ。

 

「俺が……柚姫を汚した犯人……?」

「みてえだな」大悟刑事は淡々と答える。「わりいが、証拠はあがってる。はっきり言う。お前さんが、嬢ちゃんを犯したんだ」

「……」

 

 手錠がずしりと重くなるのを、織斗は感じた。いよいよ、自分のことが信じられなくなる。ゾワリと、何かが這い寄る気配。足下では、影が揺らめいている。織斗をあざ笑うかのように、身体をゆらしながら。ぬるり、ぬるり。二つの触手のようなものが、奇怪に動いている。――触手?

 

 

 ズキリ、と左目が疼く。それは予感だった。狂気じみた何かが、現実に這い寄ってくる兆候。

 

 

 しかしそれが分かるのは、織斗のみ。

 

 

 大悟刑事は、背後に控える女性制服警官に向かって、言い放った。

 

 

「嬢ちゃんのほうにも、同行願う。任意だ。丁重に頼むぜ」

「わかりました」

 

 織斗の脇を抜け、婦人警官が部屋に入ってゆく。思わずそれを押しとどめようとして、しかし織斗ははたと気付いた。室内。そこには、大切な妹が取り残されている。

 

「ゆず……」

 

 その声が、最後まで発せられることはなかった。

 

 

 

 ガシャン!

 

 

 

「キャァァッ!」

 

 悲鳴と共に、冷ややかな空気が押し寄せた。慌てて振り返った織斗の視界が、次の瞬間、真っ赤に染まる。

 

 それが血だと判別する余裕は、織斗にはなかった。

 

 呆然とする織斗めがけ、一抱えもある肉塊が飛んできた。原料は、おそらく女性一人分。血塗れた警察バッチが、やけにはっきりと見えた。そしてそのむこうで揺らめく、栗毛のツインテールも。

 

「……ぐ!」

 

 刹那、肉塊が織斗の胸に衝突する。後ろにいた大悟を巻き込み、織斗は思い切り吹き飛ばされた。

 

「が……げほっ……」

 

 横隔膜が痙攣し、咳き込む。織斗にとって幸いだったのは、背後に大悟刑事がいたことだった。筋肉質な成人男性は、それなりのクッションになった。

 

「くぅ……」

 

 痛む胸を押さえ、織斗は身体を起こす。刹那、織斗の口から引きつった悲鳴が漏れた。腹部にのしかかる、肉塊。身体の至る所が陥没した女性の死体が、織斗にしなだれかかっていた。太股に巻き付いた髪が、なまめかしい。吐き気を及ぼすほどに。

 

「う、うわぁぁぁっ!」

 

 思わず払いのけようとして、織斗は手首に痛みを覚えた。ガチャリ。手錠が、左右の手をつなぎ止めている。それでも構わず、織斗は肉塊を払い落とした。恐怖に満ちた思考を、強引に一束にまとめ上げる。――柚姫はどうなったんだ!

 

 手錠をならしながら、室内に飛び込む。しかしその意志も、次の瞬間ほどけさった。

 

 

 

「……久しぶりです、織斗先輩」

 

 

 

 恐怖は、織斗を一瞬で魅了した。

 

 果たしてそこに、死者がいた。血塗れたクリーム色のダッフルコートに、チェックのミニスカート。割れたガラス窓から吹き込む夜風が、トレードマークのツインテールを揺らしている。ゆらり、ゆらり。夜空を背景にゆれるそれは、まさに闇で蠢く異形の触手だった。気絶した一人の少女を横抱きに抱えている。

 

 黒髪の、儚げな少女を。

 

「柚姫っ!」

「……うるさい」

「っ!」

 

 たった一言。それだけで、織斗の足は前に進むのを止めた。ノイズがかった、陰鬱な少女の声。しかしそれは、紛れもなく聞き覚えのある声だった。

 

「……梢ちゃん……なのか?」

 

 馬鹿な、と思う反面、織斗は妙に納得していた。小冊子の一文を思い出す。

 

 

 ――死者は蘇る。

 

 

 なるほどそのとおりだと、織斗は思考の片隅で思った。死が絶対だと、誰が決めたというのか。世界は、こんなにも狂っているというのに。

 

「織斗先輩」

「……」

 

 蘇った後輩の言葉に、織斗は我に返った。ゆらゆらと揺らめくツインテール。ガラス玉のような瞳で、結城梢は織斗を見つめていた。無機質に、無感動に。その視線に見据えたれ、織斗は恐怖が身体に満ちるのを感じた。怖い。

 

 対して恐怖の籠もった織斗の視線に晒されながら、梢は一切動じていなかった。そもそも彼女に、動じるような心はない。織斗に対して抱いていた狂おしいほどの感情も、今は完全に冷め切っている。

 

 故に梢は、機械的に任務を遂行した。

 

 

 

「……柚姫を取り戻したければ、墓荒らしの羅針盤を追ってください」

 

 

 

 少女を抱きかかえたまま、身を翻す。破壊したガラス窓をくぐり、ベランダへ。

 

 紫煙を纏いながら、死者は闇夜へと身を投げた。

 

 

 

 

 

 

 

   Ⅵ

 

 

 

 

 

 

 気絶した大悟が目を覚ましたのは、十分ほど後だった。

 

「く、そ……なにがどうなってやがんだ……」

 

 ズキズキと痛む後頭部を押さえ、立ち上がる。鼻を突く鉄錆の臭い。それが血臭であることに、大悟はすぐさま気付いた。

 

 血塗れた玄関に転がる、婦警の死体。肉片の一部が、太股から膝にかけて付着している。新鮮な血が、酷く生温かい。

 

常人であれば、失神するような感触。しかしそれを感じ、大悟が感情を動かすことはなかった。思考が飽和している。怒りも、悲しみも、恐怖も、何も感じない。胸にあった何かが、すっぽりと抜け落ちているかのようだ。

 

「……」

 

 大悟は幽鬼のような足取りで、室内に入った。どうしてこんな不法侵入をしているのか、大悟自身にも分からない。無意識の行動だ。廊下を進む。

 

 その時、ふと左手のドアが気にかかった。

 

 刑事としての勘が告げている。ドアを開け、部屋の中へ。ずいぶんと殺風景な部屋だ、と大悟はぼんやりと考える。あまり使われた形跡のないベッドに、衣装ケース。きっちりとアイロンのかけられたブレザーが、壁に垂れ下がっている。勉強机の上には、教科書の詰まった本棚。片隅に、小さな液晶テレビが置いてある。

 

 大悟の視線が、そこで止まった。飽和した思考の欠片が、必死に違和感を伝えている。ハンディタイプの液晶テレビ。暗く淀んだモニターの中で、赤い何かが蠢いている。

 

 

 それが血塗れた人の足であることに気付き、大悟は悲鳴を上げそうになった。

 

 

「……」

 

 身体を強ばらせ、モニターを見つめる。何かのホラー映画かとも思ったが、そう言うわけではなさそうだ。血塗れた足は、いっこうに動こうとしない。大悟は戦々恐々とした思いで液晶テレビをつかみ上げると、モニターをじっと見据えた。

 

(どこかの個室、みてえだな……)

 

 モニターの中に映る、暗い室内。血塗れた足の向こう側に、ベッドが見える。隣に衣装ケース。画面の端に、布らしきものが見え隠れしている。服のようだ。制服だろうか。どこか見覚えのあるブレザー。

 

 

 ――ブレザーだって!

 

 

 

「―――っ!」

 

 今度こそ、大悟は声にならない悲鳴を上げた。恐怖に染まった思考が、大悟に訴える。――間違いない! このモニターに映っているのは、この部屋だ!

 

 身動きすることすらままならず、大悟は硬直していた。ズルリ、ズルリ。何かがずり落ちるような、もしくは肉の塊がはい回るような音が聞こえる。モニターの中で、赤いナニカがゆっくりと動いている。

 

「……」

 

 大悟は首だけで、ゆっくりと背後を振り返った。自分以外、なにもいない。影も、形も、気配すらない。しかし確かに、モニターの中のナニカは動いている。

 

 

(目には見えない、ってのか……?)

 

 

 それは、最悪の結論だった。目に見えない相手への対処法など、警察学校で教えてもらっていない。当然だ。大悟たち警官が相手にするのは、いつも人間だった。目に見える、人。しかし今、大悟が直面している敵は、不可視の存在だ。

 

 液晶テレビを机の上に戻し、大悟はじりりと後ずさった。恐怖を押し込める。

 

 

(落ち着け、大悟。お前は一度、意味不明な肉塊とやり合ってる。今回も、それの焼きました。目には見えないが、きっと銃は効く。倒せない相手じゃない!)

 

 

「そう、だな……」

 

 呼吸を押し殺し、大悟は懐に手を伸ばした。日本の警察官は、むやみやたらに発砲することは出来ない。しかし今回は別だ。威嚇射撃で逃げる相手じゃ――

 

「……な、に」

 

 次の瞬間、大悟は愕然とした。顔が真っ青になる。

 

 

(銃が……ない……?)

 

 

 文字通り、胸にあった何かが、すっぽりと抜け落ちていた。空のホルスター。大悟は戦慄する。拳銃がなくなっている!

 

「……」

 

 愕然とする大悟。そんな刑事に構わず、ズルズルという肉音は静かに続いていた。容赦なく、遠慮無く。それこそが自然法則とでも言うように。

 

 

 

 そしてついに――その時が来た。

 

 

 

 ボトリッ!

 

「うあ、あぁぁぁああっ!」

 

 

 絶叫。足首に感じた生暖かさに、大悟は震え上がった。足首を押さえつける、肉の触感。大悟は戦慄する。――なにかが、自分を捉えようとしている!

 

 思わず逃げようとして、バランスを崩す。その場でしりもちをつき、そして大悟は見た。

 

 机の下から注ぐ、無機質な視線。闇の中から、自分を見据えている。脇目もふらず、ジッと。

 

 

 

「――――!」

 

 

 

 生まれて初めて、大悟は恐怖で失神した。

 

 

 

 

 

 

 

 

   Ⅶ

 

 

 

 

 

 

 

 まさに生け贄だと、シオン・ウィレット・佐木川女史は思った。

 

 暗い石壁の部屋。祭壇に捧げられた乙女の姿を見て、シオンは興奮を隠しきれなかった。

 

 松明と灯油ランプによって照らされたそこは、まさに神殿と呼ぶに相応しい。もちろん崇拝するのは、神々しく光る存在だ。その光の前では、あらゆる生物が《塩》の柱になるだろう。唯一《塩》にならないのは、生け贄に捧げられた少女のみ。邪悪なる神に捧げられる少女は、当然非処女だ。

 

「ふふ……」

 

 舌なめずりを一つ。シオンは加虐に満ちた目で、生け贄の非乙女を見た。

 

 肩で切りそろえられた黒髪に、華奢な手足。まだ幼さの残る肢体を、惜しげもなく石のベッドに投げ出している。目蓋は固く閉ざされ、身動き一つしない。イースに力によって、完全に眠らされている。儚げな印象だ。

 

 

(教授の娘……)

 

 

 ギリリ、とシオンの奥歯がきしんだ。少女の顔に見て取れる、恩師の面影。恩師と少女の間にある血縁を突きつけられ、シオンは憎悪の念を覚えた。

 

(こんな穢らわしい命を宿した女にも、教授の血が流れている……)

 

 なんて忌々しい、とシオンは思った。自分は師弟という絆しか得られなかったというのに、このあばずれは教授に心血を注がれている!

 

 

 

 シオンにとって、恩師である緋瑞影人教授は、命の恩人といっても過言でない人だった。

 

 

 シオンの一族は、特殊な一族だった。曰く、W(ウィレット)の末裔。マリナス・ビクネル・ウィレットという医師を端に発する彼女の一族は、代々『悪魔祓い』を受け継ぐ家系だった。

 

 もっとも悪魔祓いといっても、キリスト教会とは何の関係もない。エクソシストともまったく違う。ウィレットの末裔とは、人間社会に害をもたらす悪魔崇拝者や邪神崇拝者の駆逐を使命とする一族だった。

 

 そんな一族に生まれ育ったシオンは、幼少の頃から様々な重圧を受けてきた。日本人であった父親が早くに死んだこと、そして彼女の知能が人並みはずれて高かったことが、それを助長した。

 

 幼いシオンに向かって、祖父や母親は何度も言った。

 

 

『いいか、シオン。ウィレットの末裔よ。誇れ。お前の血は、毒だ。この宇宙にはびこる邪悪なる神々に対する、猛毒なのだ。故にシオンよ、学び、苦行に耐えよ。血を誇れ。我らが血脈こそ、正しき抵抗者なのだ』

 

 

 血を誇れ。そう言われるたび、シオンは自分の手首を切り落としたい衝動に駆られた。毎日のように詰め込まれる膨大な知識。言語学、暗号解読学、考古学、神秘学、宗教神話学、邪神崇拝学――古今東西、あらゆる知識を詰め込まれた。

 

さらに肉体的、精神的苦痛を与えられることもあった。暗闇の中に長時間に放置される。鞭で打たれる。第三の視界を手に入れるためといわれ、おぞましい蟲をむりやり食べさせられたこともある。まさに拷問だ。

 

 

 そんなシオンに転機が訪れたのは、十八歳の時の事だった。

 

 

 すでに飛び級で医師免許まで取得していた彼女は、ある時、祖父に命じられ日本に行くことになった。とある本を、日本にいる学者に届けるために。その本は、ウィレット一族にとって聖書とも呼ぶべきもので、いくら複製とはいえ、気軽に郵送できるものではない。

 

 そして数時間のフライトの後、彼女はその男性と出会う。

 

 

『お待ちしていました。鵬青大学で考古学を教えている、緋瑞影人と言います』

 

 

 ひ弱そうだ、とシオンは醒めた思考で思った。祖父から聞いていた話では、緋瑞影人教授といえば、対邪神崇拝の一人者で、歴戦の悪魔祓い師(ホラーハンター)という話だった。しかし見た目は、ひょろりとした中年男性に過ぎない。元来他人に興味を示さないシオンから見たら、そのへんの有象無象と変わらなく見えた。

 

 しかしその見方は、すぐに変わることになる。

 

 大学へと向かう道すがら、シオンはふと、こう言い放った。悪意を込めて。

 

『貴方のようなひ弱そうな人が、抵抗者たるとはとうてい思いません』

 

 緋瑞影人から帰ってきたのは、予想だにしなかった言葉だった。

 

『確かに僕はもやしっ子だ。けれど、日本人だからね。恐怖狩人(ホラーハンター)たるには、まあ、それなりだと思う』

『日本人?』シオンは首をひねる。『国籍など、悪魔祓いには無関係です』

 

『いや、それは違うと僕は思う』影人教授は諭すように、『そもそも日本という国は、八百万の神々が根付く国だ。もちろんその神様の中には、邪悪な神もいる。日本人は、そんな神をどうしてきたと思う?』

 

『……どうしてきたのですか?』

 

『殺してきたんだ』

 

 僅かに目を見開くシオンに、影人は苦笑で答えた。

 

『日本人は古来から、自分たちの役に立ちそうな神様を無節操に取り込み、同時に、都合の悪い神様を葬り去ってきた。アイヌ民族には、邪魔な神をあの世に送る儀式が存在する。日本では、それがごく当たり前だった。神とは、超常の存在であるとともに、自分たちの手で殺すことの出来る存在だった。――日本人には、太古の昔から《神殺し》の血が受け継がれてきたんだ』

 

 もちろんその血は、君にも流れているよ。優しい声でそう言われ、次の瞬間、シオンは幼子のように泣いた。神殺しの血脈。それは己の血を嫌悪してきたシオンにとって、思いもよらない救いの言葉だった。

 

 それ以降、シオンは影人を師と仰いだ。見方を変えれば、影人はとても魅力的な男性だった。深い知識。恐怖に負けない精神力。温かな包容力。紳士的で、けれどユーモアに富んだ人柄。早くに父親を亡くしたシオンにとって、影人は理想的な父親役だった。

 

 同時に、初恋の男性でもある。

 

 もちろん彼女が、秘めた思いを語ることは無かった。二十歳以上の年齢差が在ったことあったし、そもそも影人は妻子持ちだ。他人の家庭の幸せを壊すつもりはない。片思いでいられるだけで満足だった。――あのメールが来るまでは。

 

「くっ……」

 

 そのことを思い出し、シオンは憎悪に顔を歪めた。

 

 忘れもしない『一月十八日』の昼。アメリカがロードアイランド州の自宅で、シオンはいくつかの電子メールを受け取った。メールの中、影人はひどく焦ったような文体で、こう書きつづっていた。

 

 

 

 

『非常事態だ。僕にはもう、時間がない。イスラムの琴を送る。繰り返す、非常事態だ。以前、僕が発掘したシュメールの女児神官のミイラが、僕の住んでいる紀伊縞市の博物館で展示されている。彼女を現世へと呼び覚まし、助力を請え。彼女は卓越した魔道士で、そして人類最古の抵抗者であるシリウスの血脈、つまりマギ族に連なる者だ。精神操作を始めとする、古代の秘呪を携えている可能性が高い。彼女に助力を請い、僕の元に来て欲しい』

 

 

 

 

 そしてまた別のメールには、こんな一文が書かれていた。

 

 

 

  『息子、緋瑞織斗に注意しろ。彼は……』

 

 

 

 メールは、そこでプツリと切れていた。まるで力尽きるように。

 

 もしかしたら、このメールを打っているときに襲われたのかも知れない、とシオンは考えていた。シオンがメールを受信したのが、一月十八日の昼。アメリカと日本の時差を考えると、影人がメールを送ったのは、一月十八日から十九日にかけての深夜ということになる。新聞によれば、その時間帯こそまさに殺人が行われた時間だ。

 

 

「教授……」

 

 

 殺された恩師を思い、シオンは心を痛めた。反比例するように、犯人への憎悪が膨らむ。

 

 そしてその憎悪は、犯人の子を宿した少女にも向けられていた。

 

 

「穢らわしい血は、絶たなければなりません」

 

 

 かつて祖父から言われたことを思い出す。――死者を屠れ。邪悪を屠れ。悪しき血を、この世から根絶やしにせよ!

 

 その通りだ、とシオンは再確認する。教授を殺した犯人、殺人鬼の血を、この世に残すわけにはいかない。教授は教えてくれた。自分の中には、神殺しの血が流れていると。ならば躊躇うことはない。血の衝動に従うのみだ。

 

「……死者を屠れ。邪悪を屠れ。悪しき血を、根絶やしにせよ」

 

 シオンは、脇に置いてあった金属のトレーを引き寄せた。手術用メスが数本、それと捻れた刃を持つ短剣が入っている。しばし黙考し、彼女は短剣を手に取った。

 

(自分が行うのは手術ではない……断罪です)

 

 捻れた刃を見つめる。波打つ両刃のそれは、暗殺剣(アサシンダガー)と呼ばれるものだった。

 

「悪しき血は、根絶やしに」

 

 再度呟き、シオンは少女の下腹部を右手で撫でた。子宮の位置を探り、短剣を振りかざす。殺人鬼の子供。教授と別の女との間に出来た娘。その中に流れるのは、共に悪しき血だ!

 

 

(じわじわと、ねぶるように殺してあげます。貴方のお兄さんに、絶望を与えるために。そして死体は、酸で溶かし、どぶ川に流してあげましょう)

 

 

 シオンは唱える。彼女たちの一族にとっての聖書、その冒頭に書かれた文句を。

 

 

「……死者は蘇る。だが、それを許してはならない」

 

 

 

 女は、刃をゆっくりと振り下ろす。

 

 その様子を、異国の少女は愉快気に眺めていた。

 

 

 

 

 

 

   Ⅷ

 

 

 

 

 

 

 夜の街を、織斗は駆けていた。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 手首を繋ぐ鎖が、やかましい音を立てる。気絶した刑事の身体をまさぐったが、鍵は見つからなかった。かわりに見つけた黒鉄の塊は、ズボンのポケットにねじ込んである。窃盗に銃刀法違反。立派な犯罪だ。

 

 しかし今の織斗に、そんなことを気にしている余裕はない。

 

 

(柚姫、柚姫、柚姫、柚姫!)

 

 

 大切な妹が、さらわれた。その事実は、織斗を打ちのめすのに十分なものだった。何があっても守ると誓った柚姫が、織斗の目の前でさらわれたのだ。しかも織斗は、それを止められる場所にいた。なのに恐怖で足が動かず、みすみす逃してしまったのだ。激しい自己憎悪が、脳裏を埋め尽くす。

 

(俺は……最低な奴だ……)

 

 こめかみを撃ち抜きたくなる衝動を、織斗は必死で耐えた。自殺したところで、柚姫が帰ってくるわけではない。とにかく行動しかない。助けを求めようにも、自分はなぜか犯罪者扱いを受けている。警察に行ったら、そく御用だ。余計なことに手間取っている時間はない。

 

(柚姫を助けられるのは……俺しかいない!)

 

 縺れそうになる足を叱咤し、織斗は視線を前方に向けた。後ろへと流れてゆく、夜の景色。紫黒と灰色に彩られた中に、たった一点、瑠璃色が混ざっていた。

 

 見覚えのある、瑠璃色の外骨格。それは、屍を好んで食すとされる魔蟲、スカニバルであった。

 

「屍を喰うもの……墓荒らしの羅針盤……」

 

 酸素が欠乏気味な思考を、織斗は必死に回す。死者、結城梢は言った。墓荒らしの羅針盤を追え、と。イースの言葉を信じるなら、スカニバルはミイラを探すために用いられていた蟲だ。まさに、墓荒らしを導く羅針盤。

 

(魔蟲の行き着く先に、柚姫がいる!)

 

 もちろんこれは罠だろう。だれが手ぐすねを引いているのか分からないが、織斗と柚姫をはめるためのものに違いない。もしかしたら先に待つのは、苦痛と絶望だけかもしれない。

 

 しかしそれでも、織斗には罠に飛び込むという選択肢しかない。そこに、柚姫がいる。それは、絶望に飛び込むに足る理由だった。

 

 それにもう一つ、理由がある。

 

 

 ――ズキリッ!

 

 

「くっ……」

 

 走りながら、織斗は両手で顔の傷跡を押さえた。傷が疼く。

 

 幻痛が、織斗にこう訴えていた。

 

 

(この先に、真実が待っている!)

 

 

 それは予感だった。この先に、真実がある。柚姫を犯し、両親を殺した犯人。自分に傷を付けた犯人。結城梢を殺し、蘇らせた犯人。そして柚姫をさらった犯人――

 

 それらが、ようやく浮き上がる。そんな確信にも似た予感が、織斗にはあった。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 住宅街を抜け、公園脇を通り過ぎ、織斗は駆ける。すでに肺は引きつり、足の筋肉はいつ痙攣を起こすか分からない。しかし墓荒らしの羅針盤が行く以上、自分は追いかけなければならない。大通りを渡り、高級住宅街へ。

 

 そしてようやく魔蟲の動きが止まり――織斗は愕然となった。

 

 

「ここ、なのか……?」

 

 

 なぜという疑問と、やっぱりという確信が、思考の中で渦巻く。めまいを感じ、織斗は蹌踉めいた。見慣れた洋館。煉瓦造りの壁が、闇夜にぼうっと浮かび上がる。庭の片隅には、場違いなプレハブの物置。開け放たれた物置の中へと、魔蟲スカニバルの姿が消えてゆく。――なに?

 

「扉が……開いてるだって……?」

 

 植民地時代風の家に似つかわしくないそのプレハブの物置は、織斗の父、影人が建てたものだった。元々は何かの石碑が建っていたらしいが、詳しいことは知らない。今は非常用の食料や水、毛布などを納める倉庫になっている。滅多なことでは開かれない。織斗の知る限り、最近に物置の扉が開かれたのは、二年前のはずだ。

 

 しかし今宵、物置はその口を大きく開け、織斗を歓迎していた。

 

「……」

 

 恐怖を押さえつけながら、織斗は物置へと歩み寄った。物置の口腔では、濃厚な闇が蠢いている。まるでその奥にある邪悪な影を、覆い隠すように。傷跡が疼く。ズキリ、ズキリ。織斗は意を決し、物置の中をのぞき込んだ。

 

 

「……な、に?」

 

 

 織斗は思わず蹌踉めいた。鼻をつく刺激臭。ホコリとカビ臭さと共に、言いようもない不快臭が、織斗の心身を犯してくる。――いや、それよりも……

 

 

「……これは」

 

 

 それは、全く予想だにしなかったものだった。

 

 物置の床にぽっかりとあいた、穴。目をこらすと、奥に階段が続いているのが分かる。中で蠢くのは、質量と意志を伴った闇だ。闇色の瞳孔のごとく、織斗を見返している。

 

 

 

 闇は、織斗を歓迎していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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