恐怖狩人 ~クトゥルフ神話ガチ勢が恐怖小説を書いてみた~   作:セラニアン

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第5章 狂夢の果てに ~A Nightmare and a Cataclysm~

 

 

 

 おそらく僕は、もうじき死ぬだろう。それは当然の報いだ。僕は、とんでもないものを呼び覚ましてしまった。予見出来たはずなのに、それを許してしまった。後悔せずにはいられない。こうなる前に、早く手を打つべきだった。しかし、もう遅い。邪魔者は殺される。すまない、と謝ることも出来ない。それでも僕は懺悔する。すまない、織斗。お前に襲い掛かる絶望と苦悩は、はかり知れざるものになるだろう。それでも僕は懺悔し、託すしかない。織斗、僕の息子よ。頼む。彼女の救いになってくれ。

 

 

 ――緋瑞影人の日記、20XX年1月某日より

 

 

 

 

 

 

   Ⅰ

 

 

 

 

 

 バァンッという轟音と、フラッシュの如き閃光が、石壁の通路に反射した。

 

「痛ぅ……」

 

 痺れた左手で、右手首を押さえる。無理な体勢で扱った銃は、しかし予想以上の威力を発揮した。手錠の鎖は、右側の付け根で撃ち抜かれている。鎖を壊したおかげで、両手が随分と自由になる。両手に残る金属のリングも、一昔前のブレスレットと思えば問題ない。

 

 僅かに熱を帯びた拳銃を利き手で握りしめ、織斗は懐中電灯を拾い上げた。非常用品として、倉庫に置いてあったものだ。弱々しい光が、陰鬱な石壁を照らし出す。

 

「うちの地下に、こんな地下通路があっただなんて……」

 

 鉱物採掘坑を思わせる、狭い通路。石を積んだだけの壁は湿り気を帯び、所々コケがはびこっている。背後を振り返れば、物置から続く階段が。先には、半ば朽ち果てた木製のドアがある。不気味だ。

 

 こんな地下通路が自分の家にあったことを、織斗は全く知らなかった。とはいえ、冷静に考えれば、確かにあの庭においてプレハブの物置は酷く不釣り合いだ。大学教授であった織斗の父は、歴史を愛する人物だった。自宅の補修をする際も、出来るだけ当時の材料を使うようにしていたほど。そんな父が、自宅の景観を崩すようなプレハブ物置を、果たして設置するだろうか?

 

(つまり父さんは、この通路を知っていて、そしてそれを隠すために、物置を据えたってことか……)

 

 もはや織斗にとって、父・緋瑞影人は、謎に包まれた怪人物と成り果てていた。書斎に集められた魔道書。奇怪な事件を扱った小冊子。教え子に当てたメール――

 

(たぶん父さんは、邪神や悪魔崇拝や魔道書――そういったオカルト関係の研究していたんだ……)

 

 それは、行き着くべき想像だった。

 

 そういえば、と織斗は思い出す。昔、柚姫とかくれんぼをして遊んでいたとき、酷く影人に怒られたことがあった。織斗が、書斎の机の下で隠れていた時のことだ。

 

 

『早く出るんだ、織斗!』父は言い放つ。『ここは覚悟のない者が入って良い場所じゃない!』

 

 

 そして影人は、織斗を部屋の外へ引きずり出した。その時の影人の激昂ぶりは、どこかせっぱ詰まったものがあったのを覚えている。

 

「やっぱり父さんは、自分の研究を隠そうとしていた……」

 

 この地下通路も、そんな父の隠し事の一つだったに違いない。そしてこの先に、父の隠していた真実の一端が在るのだろう。――大切な妹と共に。

 

「……覚悟、か」

 

 恐怖が、織斗に囁く。ここから去れ。引き返し、全てを忘れろ。

 

 しかし織斗は、その誘惑を振り払った。

 

 確かに、この先に待つのは絶望かも知れない。救いのない、最低の結末かも知れない。しかしそれでも、この先には自分を待つものがいる。柚姫と真実が。

 

 

(ああ、そういえばそうだったな……)

 

 

 ようやく織斗は思い出した。なぜ、忘れていたのだろう? あの惨劇の後、震える妹の前で誓ったではないか。真実を見つけることと、柚姫を護ること。その二つを。それこそが、今の織斗を形作った行動原理ではなかったか!

 

 不思議な力が身体にみなぎるのを、織斗ははっきりと感じた。地下に満ちる臭気は未だ衰えず、絶え間なく織斗を犯そうとしている。恐怖はすでに精神に根付き、今や感情の大半を占めようとしている。

 

 しかしそれでも、織斗は進む。闇を切り裂く光と、邪悪な怪物を屠る弾丸と、自我を護る幻痛の鎧を携えて。猶予は、もうない。

 

 

「待ってろ、柚姫」

 

 

 朽ち果てたドアを開く。織斗は、闇と向かい合った。

 

 

 

 

 

 

 

   Ⅱ

 

 

 

 

 

 

「そ、んな……私を騙したんですか……教授……?」

 

 女は、愕然とつぶやいた。

 

 腹部に感じる灼熱。ねじ曲がった刃を持つ暗殺剣が、根本まで突き刺さっていた。溢れる血は、どす黒い朱色。シオンの中の、医師としての部分が冷静に分析する。血の色と量から察するに、肝臓を刺された。致死的(クリティカル)だ。出血多量でショック死するまで、あと十分そこそこだろうか。

 

「く、うぅ……」

 

 膝を突き、シオンは正面を見やった。祭壇を背に佇む、人影。加虐に満ちた笑みを浮かべ、死に逝く女を見下している。

 

「全て……貴方、の策略だったん、ですか……?」

「……」

「答え、てください、教授……」

 

 嘘だと言って欲しい。そう、シオンは願った。彼女にとって、緋瑞影人は人生全てと言って良い男性だった。狂った一族に生まれた自分に、光を与えてくれた人。愛を知らなかった自分に、隣人愛と、父性愛と、男女愛を教えてくれた異性。緋瑞影人が同じ星にいるだけで、シオンは自分の人生を肯定できた。

 

 そんな男性に、裏切られた。もはやシオンを包むのは、ひたすらの絶望しかなかった。

 

「きょう、じゅ……」

 

 涙を流し、崩れ落ちる。そんな悲しい女性の側で、人影はそっと膝を突いた。洗礼を与える聖人のように、もしくは許しを与える法王のように、シオンに囁く。

 

「――――」

 

 次の瞬間、シオンの顔が驚愕に歪んだ。

 

「そ、れじゃあ……」

 

 戦慄。文字通り血の気が引いてゆく感覚と、言いようのない恐怖によって、身体が震える。唯一の救いは、心に落ちたひと雫の安堵だろうか。もっとも、それもすぐに消えてしまう。

 

ようやくシオンは、全てを悟った。この事件の真相も。自分の犯してしまった過ちも。そして既に何もかもが手遅れだと言うことも。――全て。

 

「にげ、て……はや、く……」

 

 せめてもの贖罪とばかりに、シオンは声を絞り出す。石の台座の上で眠る、小柄な少女。意識はない。シオンがどれほど声を振り絞っても、目を覚ますことはないだろう。

 

「は、やく……にげ………………あぁ、があぁぁ!」

 

 苦悶の声が響き渡る。腹部から突き出ていた剣の柄を、人影が握りしめていた。

 

「……」

「あ、ぁぁあひぃぃ!」

 

 短剣が、ひと思いに引き抜かれる。吹き出る血。どす黒い、汚れた色だ。

 

 それを見て、シオンは涙を流した。

 

 

「い、いやぁ……ちがう……こんな、の……私の血じゃない……こんな、汚いのは、私の血、じゃない……いやぁ……」

 

 

 床に染み渡る、穢れ血。子供のように、シオンはいやいやと首を振る。違う、こんなの私の血じゃない。私は日本人だ。教授が教えてくれた、神殺しの血脈のはず。おねがいです、教授。影人さん。言ってください。私に流れる血は、日本人の血だって。そう言ってください! 教授! 教授!

 

「きょう、じゅ……おとう、さん……」

 

 

 ウィレットの末裔が、ここに、滅びた。

 

 

 

 

 

 

 女の首から、力が抜け落ちる。それを見届け、人影はゆらりと立ち上がった。

 

 血塗れた暗殺剣を片手に、祭壇に歩み寄る。そこで横たわるのは、小柄な少女だ。いつの間にか、目を覚ましている。恐怖と困惑に染まった瞳。声は出ない。

 

 まさに生け贄だ、と人影は思う。大切な少女。自分の目的を達成するために必要不可欠な、大事な姫巫女。

 

 

「…………」

 

 

 歪んだ笑み。手にした短剣を、乙女の柔肌に押しつける。にじみ出る鮮血。なるべく、苦痛を与えるように、ゆっくりと切り裂いてゆく。

 

 

「――ッッ!」

 

 

 むごたらしい拷問が、幕を開けた。

 

 

 

 

 

 

   Ⅲ

 

 

 

 

 

 

 まるで監獄だと、織斗は思った。

 

 朽ちかけたドアの向こうは、予想以上に広い空間だった。正面に伸びる石畳の通路。長さは十五メートルほどだろうか。車二台が、十分通ることが出来る幅がある。所々の壁につり下げられているのは、おそらく石油ランプだ。

 

 通路の両側には、金属製のドアがいくつも並んでいた。赤錆の臭いが鼻を突く。まるで、腐った血を床一面にぶちまけたかのような臭いだ。地下に籠もった刺激臭と相まって、ひどく不快な空気を生み出している。

 

「……」

 

 左腕で鼻を覆いながら、織斗はゆっくりと歩を進めた。等間隔で並ぶ、金属扉。その中でナニカが蠢いているのを、織斗ははっきりと感じた。ここはまさに監獄だ。

 

 

 織斗の左目が、狂夢を顕現させる。

 

 

 鉄扉の奥から響く物音。粘着質のものがこすり合うような、あるいはゾロリと生えそろった牙を打ち鳴らすような、奇怪な音が響く。かすかに響くのは、産声にも似た鳴き声だ。

 

 

 ――飢えている……

 

 

 それは、飢餓に喘ぐ悲鳴だった。蠢くものどもが、どれほどの長きにわたって幽閉されているのか、それは分からない。もしかしたら、永劫の時かもしれない。その間、彼らは一欠片の肉も、一滴の血も口にしていないのだ。

 

 絶え間のない飢え。死すら無に帰す彼らにとって、飢餓は最たる苦痛なのだろう。夜中、彼らは泣きわめく。鉄扉を掻きむしり、あるいはドンドンと叩き、外に出ようと喘ぐ。

 

 今もそうだ。彼らは自由を求めている。鉄扉は既に錆び付き、じきに朽ちるだろう。それは、今この瞬間かもしれない。血臭をまき散らし、鍵が壊される。ついに開く鉄扉。飢えたものどもが、じわじわと這い出てくる。自由を得た彼らは、飢えを満たすために織斗を――

 

 

 

 …………――

 

 

 

 ――ギィ!

 

 

 

「っ!」

 

 物音のした方に向けて、織斗は懐中電灯をつきだした。斜め左前の扉が、半開きになっている。

 

「……」

 

 懐中電灯と拳銃を構え、ドアの前に立つ。覚悟を決め、織斗はドアを蹴った。鈍い音。頼りないライトの明かりが、闇を切り裂く。

 

 

 誰も、何も、いなかった。

 

 

「気のせい、か……」

 

 早鐘を打つ心臓をそのままに、織斗は中を見やった。六畳ほどの、小さな小部屋だ。石壁に囲まれた中央に、同じく石造りの台座が据えられている。その上に、鈍く輝くお椀の様なものが置いてあった。

 

「これは……ボウル……?」

 

 台座の前まで歩み寄り、織斗は困惑気な表情を浮かべた。鈍く光る、金属製のお椀。拳銃を一旦ポケットにねじ込み、片手で持ち上げてみる。随分と重い。まるで鉛で出来ているかのようだ。

 

内側には、紫がかった粉がこびりついていた。指で弄ぶ。さらさらとした触感。鼻に近づけて、織斗は顔をしかめた。不快な刺激臭。あまりの臭気に、めまいを覚えるほどだ。

 

 

(いったいこれは……?)

 

 

 ズキリと、傷跡が疼く。幻痛が、記憶の扉を叩いた。禁書の一節が、流れるように脳裏に映し出される。

 

 

 

 

 ――獣の本質たる《塩》を抽出し……

 

 ――魔道に長けた賢人ならば……

 

 ――死者の生前の姿を、呼び出すことが……

 

 

 

 

「ま、さか……これが《塩》か……?」

 

 織斗は戦慄した。

 

 生命の本質たる《塩》。いったい如何なる方法でこれが作られたのか、それは分からない。しかしただ一つ、はっきりしている事がある。原材料だ。《塩》の原料、それは人間の死体に他ならない。

 

 

(俺は……俺は、人間の死体で出来た《塩》を、指で弄んでいたっていうのかっ!)

 

 

 悲鳴を上げ、織斗は小部屋を飛び出した。指先に着いた《塩》を、必死で払い落とす。

 

 暗闇に舞い踊る、紫煙色の粉。死灰。払い落とされたそれらは、床に落ちることなく、虚空で停滞していた。まるで合図を待つように。

 そして数秒後、ついぞ、その合図が響き渡った。

 

 

 

「――待ちかねたぞ、ヒミズオリトよ」

 

 

「っ!」

 

 織斗は息をのむ。変化は、劇的だった。

 

 どこからともなく巻き起こった魔的な風が、地下に溜まっていた湿気を一気に吹き飛ばした。壁に掛かっていたランプに、一斉に火が灯る。すこし黒みがかった、赤色。まるで鬼火だ。石畳の通路を、血色に染め上げている。

 

 そんな中で、悠然と佇む人影。

 

「……イース」

「ふふ、そうじゃよ」

 

 織斗の目が、はっきりと捉えた。血色に染まった通路の最奥で佇む、異国の少女。なまめかしいチョコレート色の肌に、純白の髪。身体をすっぽりと覆う、ローブのような服を着ている。色は分からない。赤い光のせいで、すべて血色に見えてしまう。

 

 ただ一つ、ラピスラズリのような瞳を覗いて。

 

「ようこそ、賢者の洞穴へ」

「くっ!」

 

 クイック・ドローのごとく、織斗は拳銃をポケットから抜き取った。引き金に指をかけ、銃口を正面に向ける。

 

 血色の光に照らされながら、イースは口元を歪めた。

 

「おやおや、オリトよ。お主は、妾のようなか弱い女子に剣を向けるのか? このような無防備な妾に?」

「…………」

「ふふ、だんまりか?」くつくつと、イースは笑う。「じゃが、それでよいじゃ、オリト。それでよい。無防備に見えた時こそ、注意せよ。それが魔道士と相対したときの鉄則じゃ。よくおぼえておくじゃよ」

 

 織斗は鋭い視線を正面に向けたまま、ガチリとハンマーを起こした。

 

「……柚姫はどこだ?」

「まあ、そう急くな。せっかくじゃ、少し昔話でも……」

「答えろっ!」

 

 銃声。イースの足下の石畳が、僅かに削れる。

 

「まったく、せっかちな殿方は女子に好かれぬぞ」イースはやれやれと肩をすくめると、「この先じゃ」

 

 自分の背後を指さす。そこには、ちょうど人一人が通れそうな、小さな扉があった。

 

「お主の求めているものは、この先にある」そこで一旦言葉を切る。「――もっとも、もはや手遅れかもしれんがな」

「っ! 柚姫に何をした!」

「妾は何もしておらぬよ。――妾は、な」

「くっ!」

 

 銃口をイースにポイントしたまま、織斗はすり足で扉に近づいた。早くしなければという強迫観念と、どうせ間に合わないという諦念が、心を支配している。あの惨劇の夜と同じ思考だ。ただ一つ違うのは、正解が分からないことだけ。

 

「どけ、イース!」

 

織斗は恫喝する。少女との距離は、すでに五メートルまで縮まっている。銃の素人である織斗でも、この距離ならはずさないだろう。

 

「もう一度言う、どけ、イース! どかないと……」

 

 しかしその言葉は、最後まで続かなかった。

 

 

 

「――どうするっていうんですか、織斗先輩」

 

 

 

「っ!」

 

 突如真横から響く声。とっさに銃口を横に動かそうとして、戦慄する。織斗の手首を捉える、華奢な腕。いつのまにか織斗の手は、ツインテールの少女によって固定されていた。万力のような力で押さえ込まれる。

 

「妾の忠告、もう忘れたのか?」梢の手から逃れようともがく青年を、イースはやれやれと眺めた。「無防備に見えた時こそ、注意せよ――こんななりじゃが、妾は魔道士じゃぞ? 忘れておったのか? もし忘れておったというのなら、見た目に騙されるなという忠告もしておくとしよう」

 

 イースは苦笑を一つ。パチリと指を鳴らした。

 

「さて、そろそろ妾は妾の役目を果たすとしようか。――やれ、コズエ」

 

「……はい」

 

 主人の意に、死人形の少女は従順に従った。細い腕を、無造作に振り抜く。

 

 織斗の身体が、宙を舞った。

 

 

「ぐ、くぅ……!」

 

 

 放物線を描いた織斗は、そのまま床で背中を強かに打ち付けた。少女の力とは思えない剛腕。落下の拍子に、拳銃が手から離れてしまった。唯一の武器を失った事になる。

 

 苦痛に呻く織斗を見下ろし、イースはなぜか自虐的に言い放った。

 

「……やれやれ、すまぬな、オリト。妾も、本当はこのようなことはしたくないのじゃがな。しかし、シオンとの約定を反故にすることは出来ぬ。シリウスの名に誓った以上、契約は絶対じゃ。呪に縛られた我が身の、なんとも不自由な事よ」

 

 イースは苦笑し、そして高らかに宣言した。

 

「まあ、よい。最後の戯れじゃ、ヒミズオリト。お主の剣は、もはやない。知識のみを頼りに、我が守護兵(クストデス)を打ち倒して見せよ。さすれば、自ずと道が開けようぞ!」

 

 イースの声に触発されるように、梢の身体が紫煙に包まれる。

 

 次の瞬間、肉人形が顕現した。

 

 

 

 

 

 

   Ⅳ

 

 

 

 

 

 

 無造作に振り下ろされた剛腕を、織斗は転がるように避けた。

 

「くっ、痛ぅ……!」

 

 砕かれ、飛び散った床の破片が織斗の身体に傷を付ける。未だに痛む背中を庇いながら、織斗は肉人形となった少女を見やった。

 

 肉人形といったが、それは適切な表現ではないだろう。

 

 腐汁の滴っていた肉塊は、いまや屈強な肉体へと変貌していた。極太のワイヤーを束ねたような筋繊維が、赤黒い肌の下でのたくっている。くびれた腰はなめらかで、肉塊が『彼女』であったことを彷彿とさせる。異様に長い両腕を覆うのは、甲殻類のような外殻だ。五指の先には、鋭い爪までついている。

 

 唯一変わっていないのは、頭部。申し訳程度についた肉瘤が、織斗を睥睨していた。

 

『ギ、イギィイィアァアァ!』

 

 

「ふふ、どうした、ヒミズオリト! 逃げてばかりでは、道は開けぬぞ!」

 

 

(くっ、好き勝手いうな!)

 

 

 横に転がった勢いで立ち上がり、織斗は周囲に視線を走らせた。――拳銃はどこだ!

 

「何をさがしておる、オリト! お主の剣は、もはやないと知るがよい!」

「な! く!」

 

 横凪の一撃。倒れるようにそれを避け、織斗は毒づいた。

 

「くそっ、こんなところで時間を無駄にしてる場合じゃないっていうのに!」

 

 イースが遊んでいるのは、もはや誰の目にも明らかだった。彼女の目的は時間稼ぎかも知れない、と織斗は考える。柚姫に危害を加えるための時間を紡ぎ出すために。

 

(柚姫っ!)

 

 とっさに壁際に走り寄ると、織斗は石油ランプをつかみ取った。熱をもったガラスシェードが、容赦なく織斗の手の平を焼く。それに構わずランプを握りしめると、織斗はそれを肉人形に向かって投げつけた。

 

『グ、ギィヤャアァァ!』

 

 溢れた油に火が回り、肉人形の身体を焼く。死者といえども、苦痛はそのままらしい。身をよじり、長い腕で身体をはたいている。

 

 とっさに機転を利かせた織斗を見て、イースはくつくつと笑った。

 

「ふふ、随分と姑息な知恵は回るようじゃな。じゃがオリトよ、知恵では我が守護兵を倒すことは叶わぬぞ」

 

(じゃあ、どうしろって言うんだ!)

 

 内心で織斗は叫んだ。銃はおろか、棍棒一つすらない今の状況。逃げ場のないこんな通路では、どうあがいたところで、いずれ捕まってしまう。使えるのは、自分の頭のみ。知恵を振り絞らずに、何を振り絞れと――

 

 

(ん、知恵?)

 

 

 そこで織斗は、ふと思い出す。つい数分前に、イースはこう宣言した。――お主の剣は、もはやない。知識(ヽヽ)のみを頼りに、我が守護兵(クストデス)を打ち倒して見せよ!

 

 知識と知恵。似通った言葉のそれは、しかし根本的に違うものだ。知恵とは、あくまでも応用してこそ力を発揮する。力と併用してこそ価値があるのが、知恵なのだ。

 

 しかし知識は違う。知っていることが力となる。それが知識だ。そしてイースの言葉から察するに、自分にはその知識が備わっているはずだ。

 

 

(なんだ、どうやって倒せばいい! 考えろ! 思い出せ!)

 

 

 全てのエネルギーを大脳にまわし、織斗は思考した。死者を倒す方法。蘇る者。結城梢。生命の本質。《塩》。迫る腕。――腕?

 

「惚けている暇があるのか、オリトよ?」

「……あ」

 

 気付いたときには、手遅れだった。

 

 剛腕に弾き飛ばされ、織斗は再度宙を舞った。全身の骨がきしみ、痛覚が悲鳴を上げる。

 

 通路に対して直角に吹き飛んだ織斗は、そのまま扉の開いていた小部屋に突っ込んだ。石の台座に身体を打ち付け、呻く。

 

 

「っ! かはっ!」

 

 血反吐をはき出す。どこか内臓を傷つけたらしい。痛みは既に麻痺し、五感すら曖昧だ。

 

(どうして俺は……こんな……)

 

 朦朧とする意識の中、織斗はふと何かに気付く。足下に転がる、鈍色のお椀。中にこびりついていた紫煙色の粉が、妙に美しい。それも当然だ、と織斗は思う。生命の本質たる塩。死灰。そこに内包されているのは、人間という生命の全てなのだ。その《塩》さえあれば、人間は蘇ることが出来る。蘇ることが――

 

(よみ、がえる……かえる……もどる……)

 

 

「――もうお終いか?」

 

 ヌッと突き込まれる異形の腕。胸ぐらをつかまれ、織斗は通路へと引きずり出された。すごい力で、身体が宙に固定される。つま先と床との間は、一メートル近く離れている。

 

「やれやれ、思いの外に不甲斐ないの、ヒミズオリト」異形の傍らに立ち、イースは僅かに肩をすくめた。「父の名が泣くぞ」

「…………」

「……もはや答える気力もない、か。まあ、よい。父のことが知りたければ、黄泉の国(アオルノス)で本人に聞くがよい」

 

 イースは目線で、護衛兵に合図した。異形の腕が、天高く織斗を持ち上げる。もう片方の腕は、弓を引くように後ろへ。鋭い爪が、織斗の心臓を狙っている。

 

(本当に、残念じゃな……)

 

 どこか哀れむように、異国の少女は青年を見た。

 

 既に青年の身体からは、あらゆる力が抜け落ちていた。抵抗する気力もないのだろう。無理もない、とイースは思う。むしろ闇を知らぬ一般人の身で、よくぞここまでと褒めたいくらいだ。

 

「お主ならば、よき抵抗者となったかも知れぬな……」

 

 宇宙にはびこる邪悪な神々や、その眷属、もしくはそれらを崇める邪神崇拝者たちを退ける賢者。恐怖狩人(ホラーハンター)。抵抗者。彼らに求められるのは、腕力でも魔道の術でもない。恐怖に負けぬ意志と、強固な理性、それこそが必要なのだ。そして太古の抵抗者(シリウス)の一族であったイースから見て、織斗はその素質を十分に備えていた。

 

「……とはいえ、それもここまでか」

 

 心底憐憫を込め、イースは青年を見つめた。青年は、すでに意志をなくしているように見えた。手足はだらりと垂れ下がり、首もがくりとうなだれている。口からは、もはや苦悶のうめきすら出ない。漏れるのは、ぶつぶつという呟きのみだ。

 

(ん? つぶやき?)

 

 そこでイースは気付いた。青年が、何かをつぶやいていることに。

 

「……は……える。だが……れを許し……ん。……者は蘇……それを許して……ない」

 

「っ! これは!」

 

 耳を澄まし、イースは目を見張った。知らず知らずのうちに、顔に笑みが浮かぶ。

 

 ようやく少女は気付いた。前髪に隠れた、青年の瞳。そこに宿る、苛烈な理性の光に。

 

「ふ、ふふ……さすがじゃ……さすがじゃ、ヒミズオリトよ!」

 

 そうこうしているうちに、織斗のつぶやきは、はっきりとした声となる。

 

 

「死者は蘇る……だが、それを許してはならない……」

 

(そういう、ことかよ……!)

 

 

 織斗の脳神経が、熱く迸る。あらゆる知識が、関連性を持って結びつく。それらの情報の流れは、大きな激流となって、ついに織斗に一つの答えを示した。

 

 

 

 ――死者は蘇る。だが、それを許してはならない。

 

 

 過去からの警告を、織斗はようやく正しく理解した。生命の本質たる《塩》。それを材料に、死者は現世に蘇る。それは、決して許されることではない悪業だ。生の冒涜。死が在るからこそ、人は人たり得るのだ。

 

 ならば、蘇った死者をどうすればいいのか?

 

 その解決法となる魔法の呪文は、織斗の脳裏にはっきりと焼き付いていた。

 

 

 

「死者は蘇る……だが、それを許してはならない……」

 

 

 きしむ身体にむち打ち、織斗は左手を動かした。人差し指と中指をまっすぐ伸ばし、残りの指を握り込む。剣印。古来において断罪の象徴であったそれを、容赦なく死者に突きつける。結城梢であった、異形に。

 

 

(ごめん……梢ちゃん……)

 

 

 内心で一度だけ謝る。彼女に罪はない。しかし梢は、蘇ってしまった。死者でありながら、肉体を持ち、現世を浸食してしまった。

 

 傲慢といわれようが、織斗はそれを断罪する。

 

 

「死者は蘇る! だが、それを許してはならない!」

 

 

 苛烈な覇気を込め、叫ぶ。脳裏に納められた小冊子、そのページがひとりでに捲り上げられ、邪悪な気配を持つ詩句が浮かび上がる。邪悪なるかな、邪悪なるかな、邪悪なるかな。それはまさに、邪悪を詠った賛美歌だ。

 

 しかし毒をもってしか制せない毒があるように、邪悪でしか倒せぬ邪悪も存在する。ならば後は、唱える者の心根一つ。願わくば汝が、正しき抵抗者たらんことを!

 

 

 そして未熟なる抵抗者は、剣印を突きつけ、尾の句を詠った。

 

 

 

 

「オグスロオド! アイ、フ! 

 ゲブ、ル! エエ、ヘ!

 ヨグ・ソトース!

 ンガー、ング! アイ、ヤー!

 ズゥロオォー!」

 

 

 

 

 

 響き渡る邪悪な呪文。それがもたらした効果は、まさにてきめんだった。

 

 突如消え失せる拘束。どさりと尻餅を着いた織斗の上に、然るべきものが降り注ぐ。淡い紫煙色。鼻につく不快臭。顔を上げ、織斗は見た。

 

『――――ッ!』

 

 声なき慟哭を上げる、異形。その形が、末端部からゆっくりと崩れてゆく。床に降り積もる紫煙色の粉。死者の灰。塩。さらさらと音を立て、降り積もってゆく。

 

 その音の中に、織斗は確かに声を聞いた。

 

 

『――ありがとうございます。それとずっと好きでした、織斗先輩』

 

 

 幻が、笑う。数十秒後、蘇った少女の身体は、全て死灰となった。

 

 

 

 

 扉の向こうに消えた青年の後ろ姿を見送り、古の女児神官はホゥと息を吐いた。

 

「ふふ、ようやく行ったか……」

 

 張りつめていた何かがプツリと切れる。イースはその場で、ズルズルと崩れ落ちた。

 

 よく見れば、彼女の額には脂汗が滲んでいた。わかりにくいが、顔色も相当悪い。先ほどまで織斗に見せていた余裕の表情とは打って変わり、少女の顔には苦悶の色があった。

 

「どうにか保った、か……」

 

 イースは静かに、自分の腹部を見た。ローブに浮かび上がる、染み。ランプの明かりによって誤魔化されているが、それは紛れもない血だった。よく見れば、彼女の足下にも血溜まりがある。

 

 

「拷問による苦痛が、これほどじゃったとは……年は取りたくないものじゃな……」

 

 

 自嘲気味に笑いながら、イースはつい一刻前の事を思い起こした。台座に拘束される自分。その傍らでは、事切れた白衣の女性が横たわっている。

 

 そんな中、短剣を握りしめる人影。容赦なく、切っ先をイースの腹に押し当てる。はらわたを切り裂きながら、人影はイースに対する拷問を――

 

 

「無防備に見えた時こそ、注意せよ……か。まったく、ジッグラトの神官長すら任されたことのある妾が、そんな簡単なことを忘れていたとはな。情けない事よ……」

 

 

 しかし何より情けないのは、拷問に耐えきれなかったことだ。口を割ったわけではないが、精神防壁をほころばせてしまった。そうなれば、後は相手の思うがままだ。なにぶん相手は魔道士だ。支配した者の脳髄から情報を引き出すなど、わけはない。

 

(結局全ては、あの者の手の平の上だったというわけじゃな……)

 

 すまぬ、オリト。イースは心の中で詫びた。シリウスの血脈につながる自分が、結果的に悪事の片棒を担ぐ羽目になったのだ。どれほど悔やんでも悔やみきれない。

 

 

「せめて最後だけは、己自信でケリをつけねばな……」

 

 

 ゆっくりと目を閉じ、イースは剣印を結んだ。断罪を示す切っ先を、己に向ける。死の間際に思い出されるのは、一人の青年の姿だった。もうすぐ絶望するであろう、未熟な抵抗者の姿。

 

 

 

「――願わくば汝が、正しき抵抗者たらんことを」

 

 

 

(さらばじゃ、オリト……)

 

 少女の口が、呪文を紡ぐ。床に降り積もった死灰の山が、二つになった。

 

 

 

 

 

 

   Ⅴ

 

 

 

 

 

 

 勢い勇んで飛び込んだ部屋に、しかし妹の姿はなかった。かわりにあったのは、おびただしい数の本や遺物だ。

 

「ここは……?」

 

 先ほどまでの石壁の通路とは打って変わり、その部屋はきちんと整備されていた。天井につるされた白熱ランプ。壁には木板が打ち付けられ、麗美なタペストリーが掛かっている。向かって右側の壁には巨大な本棚が、もう一方の壁には、科学実験器具を納めたガラス戸棚がある。そして部屋の中央には、黒檀の書き物机。

 

 それらの雰囲気から、織斗はここが影人の秘密の書斎であったことを悟った。

 

「父さんの……秘密の書斎……」

 

 思わず高まる好奇心を、織斗は必死に押さえつけた。今はそんな事をしている場合ではない。柚姫の身の安全の方が先決だ。

 

 秘密の書斎には、扉が二つあった。一つは織斗が入ってきた扉、もう一つは、さらに奥へと続く扉だ。イースの言葉を信じるなら、この先に柚姫がいるはず。

 

「まってろ、柚姫」

 

 織斗はいよいよ覚悟を決めた。打ち身だらけの身体は熱を持ち、もしかしたら内蔵は重大なダメージを受けているかも知れない。今や幻痛は鋭いナイフとなって、痛覚を抉り続けている。しかしそれでも、織斗に残されているのは、進むという選択肢のみしかない。

 

次の瞬間までは、だが。

 

 

「……ん?」

 

 

 秘密の書斎を横切ろうとして、しかし織斗はふと気付いた。部屋の中央にある机、その上に一冊の本が、これ見よがしに置いてある。

 

 その表紙に書かれた文字を見た瞬間、織斗の足は動くのを止めた。

 

 

 

 ――『DAIRLY』

 

 

 

「……」

 

 吸い寄せられるように、織斗はその日記帳を手に取った。表紙を捲り、愕然となる。

 

 

 

 

 

 

 おそらく僕は、もうじき死ぬだろう。それは当然の報いだ。僕は、とんでもないものを呼び覚ましてしまった。予見出来たはずなのに、それを許してしまった。後悔せずにはいられない。こうなる前に、早く手を打つべきだった。しかし、もう遅い。邪魔者は殺される。すまない、と謝ることも出来ない。それでも僕は懺悔する。すまない、織斗。お前に襲い掛かる絶望と苦悩は、はかり知れざるものになるだろう。それでも僕は懺悔し、託すしかない。織斗、僕の息子よ。頼む。彼女の救いになってくれ。

 

 

 

 

 

 見覚えのある書体。父の日記。

 織斗は夢中になって、ページを捲った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数分後、織斗は秘密の書斎を飛び出していた。

 

 石づくりの通路を駆け抜ける。壁には、等間隔に火の灯ったランプがかかっていた。淡い光が、織斗の行く手を明るく照らし出している。

 

 しかし織斗の心は、いまや完全な闇に覆われようとしていた。

 

 

(そんな……そんなことが……!)

 

 

 日記に書かれた内容を思い出し、織斗は呻いた。ズキリと、幻痛が囁く。――分かったであろう、オリト。あそこに書いてあったのは、紛れもない真実じゃ。さあ、喜ぶがよい。お前は、ついに真実に辿り着いたのじゃ!

 

(うるさい! だまれ!)

 

 理性の声を押しのける。心に残った一条の光。それのみを拠り所に、織斗は最悪の想像を振り払う。

 

 しかし織斗の理性は、どこまでも冷徹だった。

 

 

 ――いよいよ、その時じゃよ、オリト。

 

(うるさい……)

 

 

 ――理性の声に耳を傾けるのじゃ。お主の心根は、すでに父親の日記を肯定しておろう?

 

(うるさい……うるさい……)

 

 

 ――後はただ一つじゃ。思い出せ、オリト。あの夜を思い出すのじゃ!

 

「うるさい、だまれぇっ!」

 

 

 苛立ちをぶつけるように、目の前にある鉄扉を開け放つ。その奥に広がっていたのは、異教徒の神殿を思い起こさせる広い空間だった。煌々と燃える血色の炎に照らされ、正面の祭壇がぼうっと浮かび上がる。

 

 その光景は、織斗の心を黒く塗りつぶすのに十分なものだった。

 

 

「そ、んな……嘘だろ……」

 

 

 驚愕に目を見開く。祭壇の正面で佇む、人影。ボロボロの服の上からシーツを巻き付けた姿で、織斗に背を向けている。右手には血塗れた暗殺剣。

 

「お前が……父さんや母さんを殺したのか……?」

 

「……」

 

 

 

 人影が振り返る。なまめかしく宙を舞う、黒髪。白痴じみた笑み。

 

 狂夢が、ついに飽和した。

 

 

 

 

 

 

 

   Ⅵ

 

 

 

 

 

 

「こいつは……」

 

 失神から目を覚ました貴島大悟刑事は、困惑を隠しきれなかった。

 

 大悟の足首にこびりついていたのは、同僚の肉片だった。誰かに捕まれたと思ったが、なんということはない。大悟の膝に張り付いていた肉片がずり落ち、足首に張り付いただけだったのだ。それをあれほど恐怖したとは、何とも情けない。

 

(いや、そんなことよりこいつは……)

 

 机の下に手を伸ばす。困惑の原因であるソレを、大悟は抱き上げた。目の部分が壊れた、クマのぬいぐるみ。その壊れた瞳の奥で、小さなレンズが輝いている。

 

 大悟はおもむろに立ち上がると、机の上に置いておいたハンディ液晶テレビを見た。

 

 

「遠隔式の……盗撮カメラ……」

 

 

 液晶テレビに映る、自分の顔。それは紛れもなく、クマのぬいぐるみが見ているのと同じ光景だった。

 

「なんで、こんなもんがここに……?」

 

 その時、バサバサバサという落下音が大悟の足下から響いてきた。机の下をのぞき込むと、数冊の分厚い本が散乱している。おそらく、このぬいぐるみで押さえていたものだろう。大悟は何気ない手つきで、それらを内の一冊を開いた。

 

 そこにあったのは、丁寧にバインドされた大量の写真だった。写真の中で、二人の子供が寄り添っている。黒髪の女の子と、同じく黒髪の少年。それらが誰なのか、大悟はすぐに理解した。

 

「アルバム、か……」

 

 どこかやるせなさそうに、大悟はつぶやいた。切り取った過去を綴る、本。アルバム。映っている写真から察するに、これを編んだのは妹の方だろう。切り取られた過去の中で、兄妹は仲むつまじく寄り添っている。

 

 大悟は思わず、これを編んだ少女のことを思い浮かべた。実の兄に犯された妹。彼女はどんな気持ちで、このアルバムを見ていたのだろうか?

 

「ままならねえもんだな……」

 

 顔を歪め、ページを捲る。だんだんと大きくなってゆく兄妹。小学校、卒業、入学、中学校――

 

 

「ん?」

 

 

 そこで大悟は、奇妙な変化に気付いた。写真の内容だ。二人一緒に映っている写真が、徐々に減ってゆく。代わりに増えてきたのは、兄だけが映った写真だ。中学生中盤にさしかかった頃には、ほとんどが織斗のスナップ写真になっている。

 

「こいつは……いったい……」

 

 大悟は困惑しながら、別のアルバムを手に取った。装帳から見るに、ここ一年以内に編まれたものらしい。表紙を開き、いよいよ大悟は戦慄した。

 

 アルバムに収められた、おびただしい数の写真。映っているのは、一人の青年だ。そのほとんどが、私生活を撮したものになっている。テレビを見る兄。ベッドで眠る兄。着替えをする兄。入浴する兄。兄、兄、兄、兄――

 

 

「まさか……そういうことなのか……?」

 

 

 アルバムに染みついた収集者の狂愛が、大悟の背筋を凍り付かせる。

 

 ようやく大悟は、自分が酷い思い違いをしていたことに気付いた。胎児から抽出された、兄のDNA。てっきり大悟は、兄が妹を強姦したものだと思いこんでいた。

 

 しかし状況を考えれば、もう一つ可能性がある。先入観によって、大悟はそれを端から除外していた。しかしアルバムに染みついた狂愛を見て、ようやく思い至る。

 

 

 

 ――兄が妹を強姦したのではない。妹が、兄を強姦したのだ!

 

 

 

「……」

 

 錆び付いた首を動かし、大悟は机の上を見た。盗撮カメラの仕込まれた、クマのぬいぐるみ。その無機質な瞳を通し、妹は兄を監視していたに違いない。脇目もふらず、ジッと。これさえあれば、兄の行動は筒抜けだ。やろうと思えば、兄に気付かれないようにこっそりと部屋を抜け出すことも可能だろう。

 

「まさか、全て手の平の上ってわけか……?」

 

 アルバムやぬいぐるみに染みついた、少女の執念。その狂気にあてられ、大悟はグラリと蹌踉めいた。恐怖とめまいが、五感を狂わせる。不快な刺激臭。自分の足首の辺りからは、ギヂギヂという怪音が響いている。――怪音?

 

 

「っ! な!」

 

 

 ゆっくりと視線を下に移し、大悟は息をのんだ。自分の足首についた肉片に群がる、瑠璃色のナニカ。数は三匹。つるりとした外殻に覆われた頭を、一心不乱に肉片に押しつけている。何をしているのか、一目瞭然だった。

 

(屍肉を……喰ってる!)

 

「ひ、ひぃ!」

 

 

 大悟は必死に足を振り、肉片ごと瑠璃色の蟲を振り払った。バランスを崩し、後ろにひっくり返る。

 

 そこで大悟は、見た。部屋中の壁が、いつの間にか瑠璃色の揺らめいている!

 

「う、うわぁぁぁ!」

 

 あまりにおぞましい光景に、大悟は悲鳴を上げる。

 

 四方の壁を覆い尽くす瑠璃色。魔蟲。つるりとした外骨格を揺らし、咬合器官である大あごをかみ合わせている。嫌らしい怪音。まるで獲物を前に興奮する捕食者だ。

 

 

「あ、あ、あ、あ……」

 

 

 ギヂギヂ、ギヂギヂ。蟲たちは大あごを鳴らす。彼ら彼女らは、屍喰いだ。屍肉を好んで食す。しかしだからといって、生き肉が食べられないというわけではない。彼らは知っているのだ。生き肉も、食べている途中で屍肉に変わることを。

 

「――――っ!」

 

 

 数秒後、恐怖に満ちた悲鳴が、部屋に響き渡る。

 

 それも直ぐに、断末魔へと変わった。

 

 

 

 

 

 

 

   Ⅶ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1月11日 曇り

 あの子の瞳が、いよいよ熱を帯び始めた。もう手遅れだ。彼女は直に、想いを果たすべく行動に移る。その時、僕や妻がどうなるのか。見当も付かない。

 

 

1月13日 雪のち晴れ

 クマのぬいぐるみを買った。思えば、僕はあの子に本ばかりを与えてきた。魔道書や禁書を含め、彼女を闇に触れさせすぎてしまった。今更後悔しても、遅いのかも知れない。しかしせめてもの償いとして、今年はぬいぐるみを送ろうと思う。

 

 

1月15日 晴れ

 全ては、僕の過ちだった。確かに彼女は、卓越した魔道の才を持っている。だから僕は、期待をしすぎていた。彼女の魔道と、織斗の知力。二人ならば、最高のホラーハンターになってくれるだろうと思いこんでいた。しかしそれは、大きな間違いだった。例え霊的能力が高かろうと、彼女は少女なのに……。

 

 

1月17日 曇りのち晴れ

 これが最後の日記になるだろう。ついに断罪の時だ。あの子に、柚姫に罪はない。全ては魔の者に触れさせすぎてしまった自分の責任だ。ただ、あの子は幸せを求めているだけだ。その幸せに、僕らは不要だろう。生活出来るように、多額の生命保険をかけておいた。僕も妻も、死ぬ。それは、あの子の精神の変質を防げなかった僕らに対する罰だ。唯一気がかりなのは、織斗の事だ。しかし僕には、どうすることも出来ない。最も苦痛を味わうのが、我が息子だとしても――

 

 耳を澄ますと、階段を昇る足音が聞こえる。もうすぐだ。もうすぐ全てが終わり、全てが始まる。願わくば我が子たちに、さ……

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ん?」

 

 自室のベッドで目を覚ました織斗は、思い切り首をかしげた。

 

「どうして俺は、裸で寝てるんだ?」

 

 だるい身体を起こし、つぶやく。

 

 妹の誕生パーティの直ぐ後、異様な眠気を感じ、織斗は自室のベッドに倒れ込んだ。確かその時は、服を着ていたはずだ。しかし今は、なぜか生まれたままの姿になっている。

 

「夢遊病の気は、なかったはずなんだが……」

 

 首をかしげながらベッドから立ち上がると、床に脱ぎ捨てられた洋服を身に纏ってゆく。妙に頭が重い。寝汗でもかいたのか、体中がべとべとする。気持ちが悪い。部屋に漂うのは、異様な臭気だ。ほんの僅かだが、血臭も混じっている。――血の香り?

 

「? ……なっ!」

 

 ベッドの方を振り返り、織斗は目を見開いた。シーツを汚す、僅かな血の跡。ベッドの下の方についている。まるで初体験の後のよう――

 

 

 瞬転。思考にノイズがかかる。

 

 

 

 記憶がフラッシュバックする。横たわる織斗に跨り、腰を動かす少女。跳ねる肢体。まだ幼い秘所からは血が滴っている。しかし少女は構わず腰を振る。恍惚とした表情。妹は喘ぐ。お兄ちゃん! お兄ちゃん! お兄ちゃん! 数十秒後、織斗は耐えきれず、妹の中に欲望をはき出し――

 

 

 

「なんだ……これ……」

 

 蹌踉めきながら、織斗は愕然とつぶやいた。脳裏に浮かぶ、背徳的な光景。感触の一つ一つが、あまりにもリアルだ。本能的に、織斗はこれが現実であると悟る。

 

「……俺が……柚姫を、抱いた?」

 

 その時、階上から騒々しい音が響いてきた。何かを言い合う声。ついで悲鳴。重たいものが倒れる鈍音を最後に、静寂が訪れる。

 

「……」

 

 織斗は呆然としたまま、自室を出た。薄暗い廊下。薬でも盛られたのか、意識が混濁する。頭痛と吐き気。それらを押さえつけ、織斗は進む。階段を昇り、両親の寝室へ。

 

 そこで織斗は、信じられないものを見た。

 

 

 血溜まりに浸かる、肉塊。頭部を陥没させた両親が、重なり合うように倒れていた。共に突き出された舌が、ある一方を指している。まるでダイイングメッセージだ。もしかしたら両親は、伝えようとしているのかもしれない。その舌が指し示す先に、自分たちを殺した犯人がいることを。

 

 メッセージに促されるまま、織斗は身を翻した。廊下に点々残る血痕を追う。妹の部屋へ。開け放たれたドアをのぞき込み、織斗は愕然となった。

 

 シーツを巻き付けただけの少女。返り血で濡れた身体をそのままに、少女はうっとりとこちらを見つめていた。

 

 

「ゆず、き……?」

「……ふふ」

 

 

 兄の声に、少女は敏感に反応した。陶酔した表情のまま、くすりと笑う。潤んだ瞳に宿る、狂気。少女はベッド脇に置いてあったハンマーを握った。

 

 

「お兄ちゃんに……見られ、ちゃった……」

 

 

 少女は立ち上がると、白痴じみた笑みを浮かべた。窓から差し込む仄暗い明かりが、少女の影を際だたせる。凝り固まった汚泥。人影。

 

 織斗は呆然としたまま、少女に問うた。

 

 

 

 

 

「お前が……父さんと母さんを殺したのか……?」

 

「……」こくり。

 

 

 血塗れた暗殺剣を持った少女、緋瑞柚姫は首を縦に振った。

 

 

 顔を彩る、白痴じみた笑み。両手は血に濡れ、体に巻き付けたシーツにも、赤黒い返り血が着いている。少し離れた場所に横たわっているのは、白衣の女性だ。顔に悲哀を焼き付けたまま、事切れている。

 

 

 呆然とする兄に向かって、少女はくすりと笑った。

 

 

「お兄ちゃんに……見られ、ちゃった……」

 

 

 血塗れた指先を舐める。なまめかしく動く舌。うっとりと頬を染める。

 

 潤んだ瞳で、柚姫は兄を見つめた。

 

 

「……もう、わかった?」

 

「どう、して……どうして、なんだ、柚姫! どうして、父さんと母さんを殺したんだ!」

 

 信じられない思いで、織斗は叫ぶ。

 

 しかし柚姫から帰ってきた解答は、あまりにも端的だった。

 

 

「邪魔者、だったから」

「……な!」

 

 絶句する兄に、柚姫は笑いかける。

 

 

「ずっと決めてた。十六歳になったら、お兄ちゃんと結婚するって。お兄ちゃんの全部を、私が貰うって。そう決めてた。だけど……」柚姫の口元が、ニィと歪む。「……その為には、あいつらが邪魔だった。私とお兄ちゃんの幸せに、あの二人はいらない」

 

 柚姫は思い起こす。

 

 あの日は、全てが思い通りに動いていた。朝からは、兄とのデート。家に帰ってからは、兄の為に食事を作った。目障りな肉塊が二つあったが、それも計画のために目をつぶる。薬を混ぜた食事を兄が平らげたのを見届け、入浴。身体を念入りに磨き、兄の部屋へ。薬で朦朧とする兄に覆い被さり、そのまま純潔を捧げる。絶頂。余韻を楽しんだあと、邪魔者の元へ向かう。

 

 そして昂揚する心をそのままに、用意しておいたハンマーで両親を――

 

 

「全ては、私とお兄ちゃん、二人だけの世界を作るため……」

「どう、いう……ことだ……?」

 

「私とお兄ちゃんの世界に、邪魔者はいらない」くすりと笑う。「――簡単だった。両親を殺され、性的暴行を加えられた私。そしてお兄ちゃん。私の思ったとおり、みんな私たちから離れていった。私とお兄ちゃんだけの世界を、進んで作ってくれた……」

 

 

 そこで一度言葉を切る。一瞬だが、柚姫の顔が醜悪に歪んだ。

 

 

「……あの雌猫を除いて」

「っ!」織斗は身体を震わせる。「梢ちゃんも、お前がやったのか!」

「……」こくりと首を縦に振る。

 

「なんでだ、柚姫!」思わず柚姫に詰め寄る。「あの子は、梢ちゃんは、ずっとお前を心配してくれてたんだぞ! あの子だけは、変わらずに接してくれてたんだぞ! それなのになんで……」

 

「それが邪魔、だった」

「っ!」

 

「学校は退屈だけど、いいところだった。だれも、私とお兄ちゃんを邪魔しない。だけど、あの雌猫だけは邪魔してきた。学校だけじゃない。家にも来ようとした。私とお兄ちゃんの世界を、汚そうとした」

 

 それは、決して許せぬ行為。故に柚姫は、手を下した。兄の携帯を使って公園に呼び出し、雌猫を退治した。

 

「全部、私とお兄ちゃんの、幸せのため……」

 

 

 お兄ちゃん。それは少女にとって、世界の呼び名だった。

 

 柚姫には、生来、『第三の視界』と呼ばれる霊的感知能力が備わっていた。おそらく、ホラーハンターであった父、影人の血を色濃く受け継いだのだろう。超常的なものを感知することに長けていた。

 

 

 故に、彼女は知ってしまった。

 

 

 

 ――この宇宙は、邪悪に満ちている……

 

 

 

 その真理は、幼い少女の精神を歪めるのに十分なものだった。

 

 闇に怯え、影に怯え、星空に怯える日々。そんな彼女が縋り付いたのは、もっとも身近にいた実兄・織斗だった。もともと人見知りが激しく、織斗の後ろばかりついてまわっていた少女は、兄を通してでしか世界が見られないようになった。

 

 邪悪に満ちた世界。けれどお兄ちゃんといる時だけ、世界が優しく見える。優しい世界は、お兄ちゃんの形をしている。お兄ちゃんがいれば、私は幸せでいられる。

 

 

(お兄ちゃんが、欲しい……)

 

 

 幼い渇望。幸せが欲しいと願う、ごくごく当たり前の精神活動。しかし星空の向こうにある『邪悪』に触れてしまった少女の精神は、たやすく歪曲する。

 

 兄妹愛が歪み、男女愛が歪み、依存愛が歪み――歪み着いた先は『狂愛』だった。

 

 

 

「……お兄ちゃんが、欲しいの」

 

 

 切なげに瞳を潤ませ、兄に歩み寄る。しかし彼女が進んだ分だけ、兄は後ろに下がった。

 

 

「お兄ちゃん……」

 

 

 悲しげに眉を寄せながら、しかし柚姫は冷静に思考した。いくら柚姫でも、無条件に兄が手に入るとは思っていない。確かに純潔は兄に捧げられ、幸運にも子宝にまで恵まれた。これが普通の男女間だったら『責任を取って!』と言って詰め寄ることも出来よう。

 

 しかし、そもそもが無理やりことにおよんで出来た子供だ。それに彼女の兄は、生真面目のきらいがある。倫理に縛られ、柚姫を女として扱うことなど出来ないだろう。

 

 しかしそれを覆す手段を、柚姫は既に入手していた。

 

 

「……ごめんね、お兄ちゃん」

 

 

 

 

 

 

   Ⅷ

 

 

 

 

 

 

 突然の謝罪の言葉と共に、少女は兄の胸に抱きついた。

 

「ゆず、き……?」

 

 困惑気に、織斗は自分の胸元を見下ろした。さらりと流れる黒髪。白いうなじ。兄の胸に顔を押しつけ、少女は肩を振るわせる。

 

 それを見て、織斗は心を痛めた。

 

 

(どうして俺は……柚姫がここまで追いつめられている事に気付かなかったんだ)

 

 

 先ほど柚姫は言った。兄が欲しい、と。つまるところ織斗を思う一念が、彼女を凶行に走らせたのだ。それ故に、織斗は後悔せずにはいられなかった。

 

 

 

 ――もっと早く、自分が妹の想いに気付いていれば!

 

 

 

「すまん……柚姫……」

 

 しばし躊躇した後、織斗は少女をそっと抱きしめた。正直に言って、今自分がどうするべきか、織斗には分からなかった。妹を責めるべきなのか、慰めるべきなのか。警察に自首させるべきなのか、逃亡すべきなのか。なに一つとして、答えは見いだせない。

 

 しかし一つだけ、はっきりしていることがある。大切な妹が、自分の胸の中で震えている。少なくともそれは、織斗の心を動かすのに十分な理由だった。

 

 

「……すまん」

「……」

 

 

 織斗の言葉に、柚姫は静かに首を振ることで応えた。肩は小刻みに震え、織斗の胸元からは、くぐもった声が聞こえる。クスクス、クスクス。くぐもった笑い声――

 

 

「ごめんね、お兄ちゃん」

「え……?」

 

 

 それは、ある意味予想通りの展開だった。

 

 ズッ! 突如、織斗の腹部から嫌らしい音が響く。ついで灼熱。織斗はとっさに少女を振り払うと、自分の腹部を見下ろした。根本まで深々と突き刺さった、短剣。

 

 

(ゆずきに……やられた……?)

 

 

 妹に刺された。その事実にショックを受ける間もなく、激痛に織斗は膝を突いた。

 

「ゆず、き……おまえ……」

「ふふ、ごめんね」

 

 織斗を見下し、妖艶に笑う人影。織斗の脳裏を、既視感が駆け回る。見覚えのあるアングル。血に濡れた人影。細かい部分は異なるものの、その構図は、まさしくあの夜の再演だった。

 

 

(そう、だった……そもそもあの夜、俺は柚姫に傷つけられたんだ……)

 

 

 腹部とは別の激痛に、織斗は呻く。額から左目にかけて走る傷が、激しい幻痛を与えてくる。

 

 ようやく織斗は気付く。柚姫は、俺を傷つけることを躊躇っていない!

 

 

「俺を、殺すのか……?」

「? なに言ってるの?」

「とぼ、けるな……」

 

 

 荒い息をつきながら、織斗は少女を睨み付けた。呼吸をする度に、深々と突き刺さった刃が臓腑を抉る。明らかな致命傷。暗殺剣に込められた感情は、殺意以外ありえないように感じられる。

 

「父さんや、母さんや、梢ちゃんみたいに……俺まで殺すのか……?」

「?」

「こた、えろ……柚姫……!」

 

 

 激痛に呻きながら、強烈な覇気を殺人鬼にたたき付ける。

 

 数秒後、柚姫から帰ってきたのは、何かに気付いたような「あ……」という小さな声だった。

 

 

「……」柚姫はくすりと笑う。「なんだ、お兄ちゃん……まだ気づかない?」

「な、に……?」

「違うよ。殺すとか、そんなのじゃない。お兄ちゃんは、死なない」

 

 

 艶やかな、しかし狂気を含んだ壮絶な笑み。知らず知らずのうちに、織斗の身体が震え出す。疼く傷跡。額から響く激しい幻痛が、あらん力を振り絞り、織斗に向かって喚き叫ぶ。

 

 

 ――そうだ、オリト! 理性の声に耳を傾けろ! 己に対する幻想を打ち砕け! お前は気づかねばならない!

 

 

「お兄ちゃんは、死なない。だって……」

 

 

 ――そうだ。自分を見よ。

 

 

「お兄ちゃんは、もう……」

 

 

 ――お前は既に……

 

 

 ――既に………

 

 

 

 

 

 

 

「あの日の夜、たった一つ誤算があったの」柚姫は、くすりと笑みを湛えた。「私の姿を、お兄ちゃんに見られちゃったこと」

「……」

 

 朦朧とする意識の中で、織斗は妹の告白を聞く。

 

「本当は、お兄ちゃんが眠ってる間に、全部終わらせるつもりだった。その為に、お兄ちゃんに霊薬まで飲ませた。だけど、お兄ちゃんは起きた。たぶん、私が思ってたよりずっと、お兄ちゃんの霊的解毒能力が高かったの」

 

 さすがお兄ちゃん、と柚姫はつぶやく。

 

「お兄ちゃんに見られて、考えた。本当は、全部終わった後にお兄ちゃんを起こして、慰めて貰うつもりだった。絶望するふりをすれば、絶対にお兄ちゃんは私の事だけ考えるようになるって、確信してた。――でも、それが出来なくなった」

 

 そこで少女は考えた。いかにして、兄の記憶を消し去るか。

 

 その答えは、ハンマーを振り下ろすことで得られた。

 

「私ね、ずっと前から、お父さんがどんな研究をしているのか、知ってた。魔道書や禁書を読んだこともあった。だからその本の中の一つ、『イスラムの琴』っていう本に、蘇らせた死者の精神を操作して、意のままに操る方法があることも知ってた」

 

そこで柚姫は、声のトーンを落とす。「だけど、その本は不完全だった。本当なら、私の事だけを考えるお兄ちゃんになるはずだった。けれど儀式は失敗。記憶は一応封じた。だけど、それ以外が不完全。直せるはずの傷すら、そのまま残った」

 

「……これ、か」激痛を押し込め、織斗は額を撫でた。

 

 

 ごめんね、と柚姫は悪びれもせず言い放つ。

 

 

「私は、困った。お兄ちゃんの記憶は、中途半端に残った。そのせいで、お兄ちゃんは犯人に対する恨みを持った。私にだけ向けなきゃダメな想いを、別のところに向けた」そこで言葉を切り、ニィと笑う。「――だから私は、ちゃんとした死者蘇生と精神操作の秘術を知っている者を、蘇らせることにしたの」

 

「……」

 

 

 織斗の脳裏に、白髪の少女の姿が思い浮かぶ。

 

 

「……イースの、事か」

 

「名前なんて知らないけど、たぶん、そう。――お父さんの日記から、秘術を知っているだろう魔道士のミイラが、ちょうどこの街にあることを知った。だけど私の力じゃあ、博物館からミイラを盗み出すことは、ちょっと無理」

 

 二人は、少し離れたところで横たわる、白衣の女性を一瞥する。

 

「……だから」と織斗。「……お前は、シオン先生を、利用、することにした」

 

 柚姫は頷く。

 

「日記に何度も出てきた名前だったから、すぐに分かった。そいつがホラーハンターの一族で、しかもお父さんのことが好きってことに。私は『イスラムの琴』を送り、お父さんのパソコンからメールを送った。私から目を逸らさせ、お兄ちゃんに注意が行くように偽装して。簡単に騙されてくれたよ」

 

「……全ては、お前の手の平の上って、ことか……柚姫」

 

「そう、つまりはそういうこと。全部、私の思い通り」

 

 

 クスクス、と少女は笑う。月のような微笑。ぼんやりとした意識の中で、織斗はふと、昔父親に聞いた話を思い出す。――いいかい、織斗。月は古来より西洋において、魔性の象徴とされていた。『狂気』の事を、英語では『Lunacy』という。『ルナ』とは、まさしく『月の女神』のことだ。月のもつ魔力が、人を狂気に陥らせると、人々は考えていたんだ。

 

 

(月の……女神……か……)

 

 

 すでに痛覚すら曖昧になりつつある中、織斗は妹の姿を見上げた。儚げな微笑。月のような少女。狂気の女神。緋瑞柚姫。その華奢な身に宿る壮絶な狂気は、いまや外界をも浸食しようとしている。

 

「狂って……るな……」

 

 

 その呟きに、柚姫は躊躇いなく首を縦に振った。

 

 

「そう、私は、狂ってる」そこで頭を振る。「――ううん、違う。狂わずには、いられなかった」

 

 淀んだ瞳に一瞬ではあるが、理性の光が宿る。柚姫は声を荒げ、感情を爆発させた。

 

「星空の向こうに、燃える三つの目が見えるの! ずっと、私を見て、そして言うの! すべてをお前のものにしろ、って! でも、私が欲しいのはお兄ちゃんだけだった! お兄ちゃんがいれば、それだけで良かった! お兄ちゃんが私の事だけ考えていてくれたら、それで幸せだった! だけどお兄ちゃんは、私だけを愛してくれなかった!」

 

 目尻から涙がこぼれる。

 

「――妹としては、愛してくれた。だけどそれは、妹としてだけ。それだけじゃ、嫌。妹としてだけじゃなく、女としても、愛して欲しかった。私だけを、想って欲しかった!」

 

 そこで息をつき、涙を拭う。数十秒後、落ち着きを取り戻した少女の顔には、再びあの笑みが浮かんでいた。

 

「だけど、それももう終わり」

 

 少女の脳裏には、すでに必要な知識が備わっていた。古の女児神官から吸い上げた、外道の秘術の数々。それらは、柚姫の欲望をかなえるのに、十分以上の働きをするだろう。

 

「ふふ……」

 

 堪えきれぬように笑みを浮かべ、少女は織斗の額をそっと撫でた。

 

「幸せに、なろう。大丈夫。次に蘇った時には、お兄ちゃんは本当のお兄ちゃんになる。私のことを愛し、私の身体を抱き、私だけを想う……」

「ゆず、き……」

 

「お兄ちゃんは、ついに私のものになるの!」

 

 

 柚姫の右腕が、優雅に舞い上がる。人差し指と中指を伸ばし、剣印を組む。その切っ先が突きつけられるのは――死人の額。

 

 

 少女は声高々に、還魂の呪文を詠った。

 

 

「――オグスロオド! アイ、フ!」

 

 

(ああ、これが俺の本当の姿なのか……)

 

 

 呪文が始まるのと同時に、織斗の身体から紫煙がにじみである。痛みはない。ただ空虚な違和感が、全身を包んでいる。

 

 

「――ゲブ、ル! エエ、ヘ!」

 

(結局、俺は……なにもかもを間違えてたんだな……)

 

 

 指先から、ボロボロと崩れてゆく自分の腕。

 

 絶望と諦念とが支配する中、ようやく織斗は全てを悟った。消えた木乃伊。緋瑞家に起こった悲劇。空白の一日。結城梢の死と再生。過去からの警告。父親の日記。狂気に支配された柚姫の想い。そして自分が何者なのか――

 

 

 

 

(俺はもう……とっくの前に死んでたのか……)

 

 

 

「――ヨグ・ソトース!」

 

 

 

 見るもの全てを狂わせるような微笑を浮かべ、月の女神は詠う。

 

 織斗はふと、父の語った月の女神に関する神話を思い出す。月の女神ルナは、ある時、エンデュミオンという一人の青年に恋をする。しかし青年は人間。女神であるルナとは、住む世界も寿命も違う。そこでルナは青年に永遠の命と永遠の眠りを贈り、そして眠る青年に寄り添い続けたという。

 

 これだけ聞けば、ただの美談だ。しかし織斗は、こう考えずにはいられなかった。永遠の命と、永遠の眠り。それによってもたらされるであろう、永劫の夢。その夢がもし、悪夢だったら……

 

 

(最悪、だな……)

 

 

 醒めない夢。永劫に続く悪夢。もちろん月の女神は、あくまでよかれと思ってやったのだろう。エンデュミオンと共に在りたいというルナの想いが、青年を醒めない夢の世界へと導いた。

 

 しかし彼女は、果たして分かっているのだろうか? 夢とは、刹那的だからこそ夢たり得るのだ。永劫に続く夢は、容易く悪夢へと変貌する。そして醒めない悪夢は、いずれ破滅をもたらす狂夢となるしかないのだ!

 

 

「ンガー、ング! アイ、ヤー! ズウゥロォー!」

 

 

(これが、罰か……)

 

 

 

 崩れ、紫煙色の《塩》になってゆく身体。織斗の思考が、黒く塗りつぶされてゆく。復活が約束された死。生の冒涜。しかしか弱い青年に、女神に抗う術はない。狂夢の果てまつものが、絶望だと分かり切っていたとしても。

 

 

 

 そして数秒後、柚姫は悠然と――残酷な言葉を放った。

 

 

 

「じゃあね、お兄ちゃん。……またね」

 

 

(ああ……また――)

 

 

 

 …………――

 

 

 

 ……――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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