恐怖狩人 ~クトゥルフ神話ガチ勢が恐怖小説を書いてみた~ 作:セラニアン
「おにい、ちゃん……」
「っ!」
文字通り、織斗は跳ね起きた。呼吸が荒い。横隔膜と心臓が、同じ早さで拍子を奏でている。裸のままの上半身を、じっとりとした汗が濡らしていた。
「ひさしぶりに……この夢をみたな……」
上体を起こし、大きく息を吐く。おおよそ一ヶ月ぶりに見た悪夢は、なかなかに衝撃的だった。血溜まりに浸かる両親と、強姦のショックで放心する柚姫。嫌な光景だ。
「ここのところは、随分と平気になったと思ったんだがな……」
今一度、大きく息を吐く。
そんな織斗に向かって、儚げな少女の声がかけられた。
「お兄ちゃん?」
「……ああ、悪い。起こしちゃったか?」
気遣わしげに、織斗は傍らを見やる。華奢な黒髪の少女が、寄り添うようにいた。
柚姫はそっと起きあがると、心配げに織斗を見上げた。
「……大丈夫?」
「ああ」織斗は、口元に小さく笑みを浮かべると、「夢見が悪かっただけだ。心配させて、すまん」
「……いい」
少女は、安心したように表情を和らげた。恥じらいもなく、兄の胸に身体を寄せる。触れあう体温。少女のぬくもり。躊躇なく柚姫の背中に腕を回しながら、しかし織斗は、ふと首をかしげる。
(あれ? どうして俺は、兄妹なのに柚姫を抱いて……)
警告。思考、切断。
ズキリ、と幻痛が疼く。
(――ああ、そうか。俺たちは、恋人になったんだったな……)
織斗と柚姫がそういう関係になったのは、つい二ヶ月ほど前のことだ。汚されたと悲しむ柚姫を慰めている内に、兄と妹は男と女になった。もちろん世間体からすれば、後ろ指を指されかねない事だろう。しかし織斗に後悔はない。
――柚姫のことだけ、考えていればいい。
それが事件の後、織斗が辿り着いた行動原理だった。
「さあ、もう一眠りするか」
「……うん。寝不足は、だめ」
「ああ、そうだな」
妹の肩を抱きながら、織斗は片方の手で布団をたぐり寄せた。少女を胸に乗せたまま横になり、その上から布団を被る。狂気から逃れる為には、身を寄せ合っては『いけない』。
(……? 狂気?)
警告。思考、切断。
幻痛が疼く。ズキリ、ズキリ。
「? どうしたの、お兄ちゃん?」
「え? ああ、いや。なんでもない。――それより柚姫、寒くないか?」
兄の問いに、少女は小さく頭を振った。
「……大丈夫。お兄ちゃんがいれば、平気」
「ならいいが……とにかく寒かったら言えよ。お前だけの身体じゃないんだからな」
織斗は腕を伸ばし、柚姫の下腹部をそっとさすった。
「んっ……!」と声を上げ、柚姫はくすぐったそうに身をよじる。
柚姫が妊娠している。そのことを知った時、織斗は酷く狼狽えた。なんせ始めは、父である影人の子だと思ったからだ。もちろんそれは勘違いで、すぐに織斗の子供だと判明したわけだ…………ん?
(あ、れ……どうして、俺は……父さんが柚姫を犯したなんて……?)
警告。思考、切断。
幻痛が疼く。ズキリ、ズキリ、ズキリ。
(――まあ、いいか。この子は、柚姫と俺の子だ)
どうも疲れてるな、と織斗は苦笑する。しかしそれも仕方がない。ここ三ヶ月は、本当にいろんな事があった。両親の死。後輩の死体消失。柚姫の妊娠発覚。学校の保険医だった女性の惨殺死体発見。刑事と女性警官の謎の失踪。そしてなにより、自分と柚姫との関係の変化――
(まさか俺が、柚姫とこんなふうになるなんてな……)
いったい誰が予想しただろうか、と織斗は内心で考える。妹と兄から、女と男、そして母と父――まったくもって、変化とは恐ろしい。とはいえ、その変化もすぐに日常という鎖に取り込まれてしまうのだろうが。
(――まあ、どちらにせよ、俺のやることが変わる訳じゃないか……)
結局、織斗がすべきなのはただ一つ。柚姫を護る。それだけだ。
織斗は首だけを起こし、胸元を見やった。まもなく少女の吐息が、寝息へと変わる。閉じられた口元が、柔らかく歪む。
少女は、うわごとのようにつぶやいた。
「おにい、ちゃん……」
「……」
ズキリ、と幻痛が疼く。織斗はそっと、柚姫の黒髪を撫でた。少女の顔を彩るのは、小さな微笑だ。まるで月の女神を彷彿とさせるような、儚げな笑み。
(俺が……柚姫を護らなくっちゃな……)
幻痛が疼く。ズキリ、ズキリ、ズキリ。
その痛みに答えるように、織斗は再確認した。自分は、この微笑によって救われた。だから今度は、俺が柚姫を守る番だ。
もちろん織斗としても、先行きの不安が全くない訳ではない。世間体からすれば、兄妹で関係を持つというのは御法度だ。今のところはバレていないが、じきに柚姫のお腹も目立ってくる。人の口に戸は立てられない。折を見て、遠くに引っ越す必要があるだろう。当然、学校も止めなければならないし、そもそもまだ幼い柚姫が、無事に出産できるのか不明な部分もある。
しかし、それらをはね除ける心強い味方が、織斗にはあった。柚姫の笑みと、織斗を織斗たらしめる幻痛。それさえあれば、自分は進み続けられる。
「そう、だな……」
右手で妹を撫でながら、織斗は左手で己の額を撫でた。右手で微笑を、左手で幻痛を、同時に愛でる。ズキリ、ズキリ。慣れしんだ痛み。額から左目にかけて、抉れたような傷跡が――
(あ、れ……?)
刹那、織斗は愕然となった。左手で、額から左目にかけての部分を、何度もまさぐる。少しざらついた、しかし正常な皮膚の感触。抉れたような傷跡など、どこにも、ない。
(傷が……消え、てる……?)
寒気混じりの困惑が、織斗を包む。忽然と消えた、傷跡。一瞬、織斗は始めからそんな傷は無かったのではと考える。
しかしすぐさま、織斗はその考えを否定した。なぜなら証拠がある。ズキリ、ズキリ。絶え間なく疼き続ける、幻痛。その幻痛は、確かに織斗の左目あたりから響いている。
(じゃあどうして、傷跡が無くなってるんだ……)
困惑が、いよいよ戦慄へと変化してゆく。
当然だが、傷跡が突然消えるなどありえない。人間の治癒力が、時に信じられない効果をもたらすのは周知の事実だが、それとこれとは別問題だ。傷が消えるのならともかく、傷跡が消えるとは考えにくい。――少なくとも、正常に生きている人間では。
(じゃあ、生きている人間じゃなかったら……?)
「俺、は……いったい……」
幻痛が、今までにないほど強く疼く。しかしもはやその痛みは、織斗の正気を保たせてはくれない。
むしろ逆だ。
ズキリ、ズキリ、ズキリ、ズキリ。幻痛が疼く度に、織斗の精神が蝕まれてゆく。悪夢のような現実。現実のような狂夢。
そんな夢とも現実ともつかない中、たった一つ感じられるものがある。月の女神が浮かべる、妖艶な微笑のみが――
「俺、は……」
ズキリ、ズキリ、ズキリ。幻痛は語る。
さあ、オリトよ。知るのじゃ。世界は、狂気に満ちておる。日常など、泡沫の夢に過ぎぬ。変化は、すべからく人の日常を、狂夢へと変貌させるのじゃ。凡人どもは、それには気付かぬ。
しかし、お主は違う。お主は、狂夢を知る者じゃ。確かに、今は忘れておるのかも知れぬ。じゃがお主には、証がある。傷のない幻痛。それこそが、お主が生者ではない証じゃ!
「いったい……俺は……俺は……」
額を撫で、織斗は傷一つない左目を手の平で覆った。幻痛は訴える。気づくのじゃ、オリト。お主は気づかねばならぬ。狂夢を終わらせる死者。邪悪を封ずる死人。抵抗者よ。気付け、オリトよ。気付け――
「俺は、何なんだ……?」