北宇治高校吹奏楽部〜ポニテのあの子との恋愛事情〜 作:あきと。
パートごとに分かれた教室でのパート練習が始まった。
「はい。始めてください」
手始めに行われたのは、肺活量と腹式呼吸を同時に鍛えるような練習だ。滝先生曰く、初歩的な物なのだそう。
「よし、やるか」
滝先生の掛け声と同時に、トランペットパートの全員が宙に向かって投げたティッシュに向けて空気を吹きかける。
おそらくこれは吹き出す空気が乱れないように一直線に空気を送る練習なのだろう。それにしても……。
「十分間一度も落とさなかったら楽器持っていいですよ」
数分間ならともかく、十分もの間息継ぎをしているとはいえ空気を吹き続けるのは楽ではない。
ふー。ふー。
「綾瀬くん……でしたね。なかなか良い調子ですよ」
いやいやいや、疲れるし首は痛いし。素直に喜べない。
おかげで集中力が欠けてティッシュが右往左往してしまい、足元がおぼつかない。すぐに修正しなくては。
「あっ、何でそっちにいくのよー!」
「えっ……。あだっ!」
近くで聞こえた声、視線が上を向いていたせいで反応が遅れ、背中に衝撃が走る。どうやら誰かにぶつかってしまったらしい。
「いったーい!」
「あ、吉川さん」
すぐそばでへたり込むのは、でかいリボンが特徴の吉川さん。後頭部を押さえながら、キッと鋭い視線を向けてくる。
「あ、じゃないわよ。痛いじゃない!」
「ご、ごめん。立てる?」
そう言って手を伸ばす。
「……別に平気よ」
しかし、手を掴まれることはなく優子は自分の足で立ち上がった。
「あんたねぇ、なんでぶつかってくるのよ。よそ見してたら危ないじゃない」
「よそ見っていうか、普通に指示された事をやってただけで……。それに、どちらかといえば吉川さんの方からぶつかって来たというか」
「何? 私がなんですって」
「いえ、なんでもないです! ごめんなさい」
「ふん! 分かれば良いのよ。夏紀みたいなのとつるんでるからこんな事になるのよ。わかった?」
何やら、ぷんすかと怒りの言葉を口にしているが完全に夏紀の事はとばっちりだと思う。今頃、くしゃみとかしてなければいいんだけど。
「吉川のやつ。先生がいるからか機嫌悪いな」
「滝野くん」
近くで様子を見ていたであろう滝野くんが、そっと耳打ちをして来た。
「あ、滝野くんもミスしたんだね」
ティッシュを手にしている彼を見て、その状況を把握する。周囲を見れば加部さんも、一年生の吉沢さんも失敗していた。
残っているのは、中世古先輩に笠野先輩……。
あっ、笠野先輩もちょうど失敗したな。ていう事は、あとは高坂さんか。
「にしても、何だよこの練習。ためになってるのかも分からんし」
「まぁまぁ、もう少し頑張ろうよ」
「ほらそこ。何を喋っているんですか?」
「「す、すみません」」
無駄口を叩くなと遠回しに言われ、その後すぐに再開。
一番に課題を終えたのは高坂さん。ほぼ一歩も動かずに、ティッシュを宙に浮かし続けていて普段からやっているのかと思うほどに上手だった。
二番手は中世古先輩でその次が俺だったんだけど、吉川さんにぶつかられなければたぶん中世古先輩と同じくらいで…。
キッ!
「!?」
自然と視線を向けてしまっていたのか。強い眼差しと目が合って晴人は考えるのをやめた。
うん、あれは周りを気にしてなかった俺も悪いしな。
晴人もあの後からはミスがなく、他の部員も含め30分が経過してようやく楽器に触る事を許してもらえた。
「では、どうぞ」
次の練習はメトロノームを使い、音の高さを合わせる練習だ。
順番に一拍づつの感覚を開けて吹いていくから、一人が外れればすぐに分かってしまう。
「ちょっと高いです。よく聴いてください」
さっそく、2年生の中でも経験の浅い二人が止められる。
「はい……。すみません」
最初に止められたのは、晴人と同じ学年の加部友恵。
黄色いハート型のヘアクリップがトレードマークで、気さくで明るい性格の持ち主だが、今日はずっと曇った表情を浮かべていた。
「はい、もう一度」
何度も止められる彼女は、ようやく音を合わせられた後で肩を落として落ち込んでいたところを吉川さんや中世古先輩に励まされていた。
「香織先輩、すみません…」
「大丈夫だよ。少しずつ頑張っていこう」
「そうよ友恵。香織先輩の言う通りよ」
「…うん」
この練習にも意味がある。
肺活量の特訓も大事だし、合奏においてのこの音域の合わせ方も重要だ。
問題なのは、一年生よりも上の立場である上級生たちが「自分たちは出来ている。基礎的な練習なんていらない」。そう思い込んでいた事。だからこそ、最初の頃は不安の声も多かった。
けれど、問題はそれだけじゃない。
「滝野くんも、音が少し低いです。もっと高く」
「はい!」
もう一人の2年生。滝野純一も友恵同様に止められることが多かった。
「返事はいいですが、これくらいの事はすぐにできるようになってください」
「……はい」
滝野くんの元気のない返事。それに、加部さんも俯いたまま。
確かに経験もあって、指導者としての力量は豊富なのかもしれないけど言い方にも限度がある。
噂で、フルートの三年生の先輩が滝先生から厳しい言葉をかけられて泣いてしまったと聞いた。
トランペットパートでの指導は、主に滝野くんと加部さんの二人が集中砲火を受けている。あまりの重圧に潰れてしまわないかと心配になる程に。
指導をされるのは仕方のない事だけど、どうしてあそこまで厳しい言葉を投げるのだろう。
「二人とも、しっかり練習をしているのですか?」
している。正直言って、今までに比べればちゃんとしてきたと思う。しかしそれでも、先生の理想には届かない。練習が足りないのだろう。
「練習をしていてこれでは、時間がもったいないですよ」
隣に立つ吉川さんの肩が揺れる。怒りが込み上げるのを我慢しているかのようだ。これはまずい。
「……先生」
「た、滝先生。ちょっと待ってください」
晴人は手を挙げて、優子が言葉にするよりも先に先生の言葉を止める。
「綾瀬……」
そう呟く優子よりも一歩前に出る晴人。
「あの、一つ良いですか?」
「どうかしましたか。綾瀬くん」
「滝先生からしてみれば、二人の練習量は足りないのかもしれません」
「ええ、そうですね」
「でも、一生懸命に二人も頑張ってますよ。それはここに居る同じパートの俺たちが知ってます」
それを見た香織も「うん」と同調するように小さく頷く。
「先生は知らないかもしれませんが、今までよりもしっかり練習をしているのは確かです」
「そうですか。それなら練習自体はしているのでしょうね。他のみなさんも綾瀬くんと同じ意見ですか?」
晴人のみでなく、他のメンバーにも問いかけられる。
「いいえ」
そこで一人、異を唱えたものがいた。
「練習量で言えば、中学の時の半分くらいです」
一年生の高坂麗奈。今年の一年のトランペットパートで唯一の経験者がそう主張する。
考えるのは、個人の自由だ。それでもこの状況で、空気を悪くするような事を言葉にするのは……。
「なるほど」
「滝先生! でも滝野くんと加部さんの二人は……!」
高坂さんが今までどんな練習をしてきたかなんて関係ない。今は二人の練習量が今までよりも確実に増えていることを主張すべきだ。
「ですが」
その一言で、ピシャリと晴人の言葉を遮る。
「言いましたよね。次の合奏までにまともなレベルになってもらわなくてはいけないと」
「それは……」
「分かっていますか? 期限までは、もう一週間も無いのですよ」
「…まだ、数日ありますよ」
「わかりました。そこまでいうのであれば、とりあえず今は続けましょう。時間がありませんので」
納得…はしていないだろうが、少しくらいは俺の言葉も届いたのか滝先生は、二人に対してこれ以上は何も言わず引き続き練習を見てくれるのであった。