綺麗な月だった。
今夜の月は随分と大きい。それこそ、手を伸ばせば届くような錯覚さえ起こすほどの満月。
小さな窓枠から差し込む月光の眩しさに目を細めながら、形見の剣をギュッと抱きしめた。
「…………寒い」
それは血を失い過ぎたせいか、それとも空腹のせいか。
爪を剥がされ、真っ赤に腫れた手の平にそっと息を吹きかけ、ボクは左腕の感覚のほとんどを失っていることに気が付いた。
焦げ付いた左肩を撫でても痛みに襲われることはなく、触れているのが僅かに分かる程度の感覚しか既に残っていない。
ゆっくりと、でも確実にこの身体は死へと向かっている。それは十歳にも満たないボクでさえ理解できた。
「……失敗…………しちゃった」
小さく呟き、視線を横へ移す。
目に映ったのは分厚い封書。中には、一枚一枚に文字がびっしりと敷き詰められた紙の束が入っている。
これは父さんが監禁されていたボクを逃がす時に持たせたものだ。
この封書をリベール王国へ届ければこの戦争は終わる、これは戦争を終わらせる為の鍵だと、父さんは最後にそう言っていた。
ボクは与えられた使命の大きさに酔っていたのだろう。
英雄になったつもりでいたのかもしれない。
満身創痍の子供に国境を越える力などあるはずがないのに、街を、街道を、走って走って走って走って。執拗に追いかけてきた兵士達を躱しながらボクは走り続け、そして湖畔に佇むこの城を見つけた。
ここなら兵士達も追ってはこないだろう。そんな子供じみた発想でボートを一心に漕ぎ進め、廃墟と化したこの城に逃げ込んだ。
少し休んで、また走るつもりだった。
けど、ボクの体は予想以上にボロボロで時間が経つにつれて徐々に衰弱していくのがわかった。
もう自力で立つことさえ難しく、ここから出る力も残ってはいない。
ボクはもっと他人を頼るべきだった。
誰かを信じ、誰かを頼ること。これもまた強さの在り方だと父さんも言っていたのに。余計な意地を張ってボクは…………。
「………………ごめんなさい」
怖い。
このまま死ぬのが怖い。
父さんの最後の望みすら叶えることができないまま無様に死ぬのが、怖くてたまらない。
だから、最後にこれを。この封書を。父さんの願いを。
誰かに託すまで、死ねない。
死ぬわけにはいかない。
「誰か、助けて」
細く震えた声。
ダメだ。
もっと大きな声を出さないと。
「誰か、誰か助けて!」
もっとだ、もっと大きな声を。
ボクは限界まで息を吸い込んで叫ぶ。
「誰か助けて!!」
けど、声は場内に虚しく木霊するだけで、返事なんて返ってきやしない。
…………わかっている。
誰も来ないなんてこと、この城を見つけた時点で気づいていた。
それでも。
「助けてよ……女神様……」
ボクは求めた。
起こるはずのない奇跡を、必死に求め続けた。
「――――仕方ありませんね」
声の主はいつの間にか目の前に立っていた。
後方に浮かぶ月と同じ黄金の髪、そして中世騎士が纏うような鋼鉄の鎧に身に包んだ女性。
その人を前にして、言葉を失った。
この世の者とは思えない程の楚々とした美しさに、ボクは見惚れてしまっていたんだと思う。
「お姉さんが
問い掛けに小さく笑い、彼女は口を開いた。
「
彼女の顔は影になっていてよく分からなかったけど、きっと照れていたんだと思う。
「ねえ、お姉さん。お姉さんにお願い事が二つあるんだ。聞いてくれないかな」
初対面の人にいきなり頼みごとをするのはどうかと思ったけど、これがたぶんラストチャンス。
ボクはこの人に賭けるしかなかった。
「聞きましょう」
「一つ目のお願い。これをリベールまで届けて欲しい」
「………………」
彼女は目を伏せ、ただ僕の言葉を聞いていた。
「二つ目はね、ボクが眠るまで話に付き合って欲しいんだ」
「……ええ、了承しました」
ゆっくりと承諾の意思を込めて、彼女は頷いた。
その答えに安堵の溜息を漏らす。
「ありがとう。それじゃあ何から話そうか…………」
それからボクは彼女にいろんなことを話した。
母さんは教会のシスターだったけど、ボクが生まれてすぐに死んでしまったこと。
父さんは帝国の諜報員で、二人で大陸中を転々としながら生活してきたこと。
ボクは遊撃士を目指して毎日欠かさず剣を振っていたこと。
大陸を転々と飛び回っていたせいで友達が猫しかいなかったこと。
嬉しかったこと、悲しかったこと、楽しかったこと、恥ずかしかったこと。ボクの七年間を包み隠さず全て話した。
そう、今日までのこと全部。
ちょうど三ヶ月くらい前、帝国の南部にある小さな村が襲撃された。
これをきっかけにエレボニア帝国とリベール王国との戦争が始まったのだ。
けどこの襲撃には何か秘密があったらしく、父さんはこれに気づいてしまったと言っていた。
この国を取るべきか、正義を取るべきか。きっと最後まで迷っていたんだと思う。
迷った末に父さんは両方を選んだ。いかにも優柔不断な父さんらしい選択だったと思う。
秘密を知った父さんは指名手配され、ボクは捕まってしまった
父さんは襲撃事件に関する全てをこの封書にぶち込んだ。
それから兵士に捕まって拷問を受けていたボクを華麗に救いだし、ボクに封書を渡すと抵抗することなく自ら投降した。
「そして、正義の名のもとに、この国は逆賊として父さんを処刑した。ボクの方は逃げ出して、今に至るわけさ」
しばしの間、沈黙が続いたが、それを破ったのは彼女だった。
「己が掲げた正義を貫くため、貴方の父は戦った。例えそれで逆賊の汚名を負わされても、彼には守らねばならないものがあったということでしょう。称賛こそすれ、彼を嘲笑する権利など誰にもありません」
そう、父さんは最後の最後まで自らの正義を貫き通した。
だというのに何故、逆賊呼ばわりされねばならないのか。
ボクには理解することができなかった。
「ねえ、お姉さん。正義に価値なんてあるのかな?」
気づけば、そんなことを口にしていた。
「…………フフ、これはまた随分と難しい質問ですね」
一瞬、困ったような顔を見せたが、またすぐに彼女は微笑んだ。
「そもそも正義というものは個々人の考え、ただの観念に過ぎません。故に“正解”などというものはなく、それぞれが異なった正義を有しています」
彼女は子供だからといって茶化したり、適当に流したり、なんてことはせず真剣に答えてくれている。
その瞳はボクを真っ直ぐボクを見つめていた。
「ですから、もし仮に私が正義の価値について説いたとしても、貴方がそれを理解できるとは到底思えません」
お姉さんが言っていることはきっと正しい。
言葉の意味が理解できても、本当の意味を理解することができなければ、それは薄っぺらい台詞となんら変わらない。
だから、ボクは聞かなくちゃいけなかった。
「それじゃあさ、理解するためにはどうしたらいいのかな?」
「そうですね…………」
彼女は少し考てから、答えた。
「まずは貴方だけの正義を探してみてはどうでしょうか」
「……いいね、そういうの。すっごく楽しそう」
ボクだけの正義。そんなものを見つけることができたのなら、どれだけ素敵なことだろう。
けど、ボクに残された時間はあともう僅かしかない。
残された時間だけで見つけるのはちょっと無理だ。
「でもさ、もう時間がないんだ」
「諦める、ということでしょうか?」
「うん。悔しいけど。でもお姉さんが来てくれたからもう大丈夫。ボクはこれを渡してゆっくり眠ることにするよ」
ボクは封書を差し出す。
これでやっと終わる。
戦争も。
僕も。
全て終わる。
ようやく眠ることができる。
「では、尚更それを受け取るわけにはいきませんね」
「…………え?」
…………。
明確な拒絶。
お姉さんの翠耀石のような瞳は封書ではなくボクを捕らえていたが、その顔は微笑んだままだ。
「そもそも、私は一つ目の願いを聞き入れた覚えなどありません」
「――――なッ!?」
頭の中が真っ白になった。
絶望がループする。
確かに、彼女が了承したのは二つ目の願いを聞いた後だったけど。
ボクは歯を食いしばり、彼女を睨んだ。
それでも彼女は優しく微笑みながらボクを見ている。
「一体どういうつもりですか!」
意味が分からないボクは、声を荒げて叫んだ。
だというのに彼女はその微笑みを崩そうとしない。
「彼は貴方を信じてそれを託した。そしてそれを受け取った以上、貴方が届けるのが筋というものでしょう?」
そう言うと彼女はボクに右の手を差し出した。
ああ、この人は、二つ目の願いまでなかったことにするつもりなのだろうか。
「案外意地悪なんだね、お姉さんって。…………そんなこと言われたらさ――――」
「――――立ち上がるしか、ないじゃないか」
ボクは必死に手を伸ばした。
激励の言葉一つで、もう動かないはずのこの手は彼女を掴む。
なんて現金な手だろうか、と、思わず失笑してしまいそうだった。
「よく頑張りましたね」
そんな言葉をかけながら、彼女はボクを引っ張り上げた。
いつの間にか月は沈み、新しい朝が始まろうとしている。、
そして、鎧越しに伝わる彼女の温もりを感じながらボクは――――。
――――――――アクア・ドレイクは再び立ち上がった。
誤字脱字があったら教えてちょ。
やべぇ、今見たら他の作品の主人公と名前かぶってることに気づいた。
…………どうしよう、コレ(泣)
ファーストネームだけ変更