夢の奴隷   作:チクワ

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兄とダービー

 

 ウマ娘──

 頭頂部の耳と強靭な脚力を持ち、時に数奇で、時に輝かしい歴史を持つ別世界の魂と共に生まれ、その魂を受け継いで走る。ゴールの先に待ち受けているものが何であろうとも、その本能のままに──

 彼女達は、走るために生まれてきたのだから。

 

 では。

 では、()()()()()は何のために生まれてくるのだろう?

 

「......ずるいよ」

 

 適当に本棚から取り出した埃っぽい本を閉じて、少し天邪鬼な考えと共に言葉を吐き出す。

 どれだけヒトが頑張ってもウマ娘の身体能力に辿り着けないのは世界共通の認識で、それに関しては元々アスリートだった自分も理解している。気怠げな体をソファーに投げ出した時に視界に入る肘の傷が、その埋められない差を否応無しに分からせてくるのだから。

 

 やる事もないし眠りに入ろうかと思った時、不意に鼻を甘くていい香りがくすぐった。

 

「いいのかな? 大学を中退してプロに行った選手が、兄弟の家でぐうたらしていても」

「......いいんだよ、兄さん。怪我でさっさと引退した選手なんて、ファンも誰も見てないんだから」

「そう? 少なくとも──」

 

 香りの正体は、同居している兄、秋野 (ひろ)の持ってきたレモネード。二つ持つうちの片方からは湯気が昇っており、それをテーブルの上に置いてから、兄はこちらの足を押し除けるようにして、自分の座るスペースを奪い取った。

 寝転がったこちらを見下ろす目は優しさに溢れている。

 

「僕は、日本代表候補まで行った秋野 春樹選手にずっと期待しているけどね。」

 

 差し出されたもう片方、冷えたレモネードを受け取り、返事も返さずに口の中を潤して、テレビの方へと視線を逸らした。兄の期待が痛かったから。自分はそんなに大した人間ではないのに。

 逸らしたテレビの先では、先日行われたレースである京都記念の振り返りが行われている。細かいところは門外漢の為わからないが、1番人気のライスシャワーが6着に沈み、3番人気のワコーチカコが1着に輝くというちょっとした下剋上のカタチ。

 『あり得ることだよ』と言った兄の言葉に疑問を抱くことはない。その後に付け足した『頻繁には無いけれどね』という言葉にも。

 自分が専門としていたバレーボールにもそういうことはある。その時々の調子や噛み合い方、その他もろもろが重なり合って格上を下すのはよくある話だ。

 しかし、兄の焦点はそこには無い。

 クラシック3冠── 皐月賞、東京優駿、菊花賞の特集コーナーを食い入るように見つめるその姿に、思わずため息を吐いた。

 

「兄さんは医者で、それらに出る()の足を診てるだけでしょ? その辺の情報収集はトレーナーとかに任せるべきだと思うけど」

「はは、確かにそうかもしれないね」

 

 注目のウマ娘を手元のメモに書き込みながら、こちらの言葉を一生に付す。

 

「でも僕は彼女に── フジキセキに、一生に一度しかないクラシック三冠...... ダービーを勝って欲しいのさ。そのためなら専門外なこういう情報集めだって喜んでやるよ。夢ってそういうものだろう?」

「そういうもの、ね」

 

 ......何故か少し納得いかないのは、自分が明確な夢を持たないからだろうか。

 バレーを始めたのは成り行きで、プロになったのも半ば成り行き。兄のように高尚な思考の元で動くことは、少し苦手だ。

 そんな考えが顔に出ていただろうか、兄はメモ帳を机の上に置いて『どうしたものかな』と頭を掻くと、少し考えてから真面目な顔でこちらに対してある提案をする。

 

「そうだ、せっかくだから次のレース見に来なよ!」

 

 

 

 

「......で、なんで誘った本人がほったらかしにするんだよ」

 

 押しに押され、誘いに折られてきたのは中山競バ場。

 スポーツトレーナーの専門学校を初めて休んで来たこの場所は人でごった返しており、GIIの時点でこれなのだからさらに上のGIなんて考えたく無い。

 加えて案内役の兄とは連絡がつかないと来た。

 運良く最前列に出れたからまだ良いが、ロクにレースが見えないところに追いやられていたらキレているところだった、危ない危ない。

 

 背筋を曲げ、手すりの上に体重を掛けてターフを見る。聞けば、この弥生賞はクラシック三冠のうちの一つである皐月賞に向けての前哨戦。

 ここを制せるか否か、というのが、皐月賞で善戦できるかどうかの見極めなのだろう。

 

「なあ、お前はこのレースどう思う?」

「いやー、やっぱりフジキセキだろ! ホッカイタルソーも調子良さそうだけど、どうなるかなー?」

 

 すぐ後ろにいる青年たちの声に導かれるように、次々とゲートインしていくウマ娘の中から1番人気を見つけ出し、その歩みを瞬きせずに目を動かして追う。

 

「僕が夢を見た走り、春樹がどう思うか知りたいんだ」

 

「......どうせ」

 

 先日笑顔で言われた兄の言葉を思い出しながら、零す。どうせ、何も思わないと。

 前提として、自分はウマ娘のことが少し苦手だ。

 プロ選手を引退しようと思ったキッカケはウマ娘の選手と試合をしてボコボコにやられたからだし、そもそも走りに夢を見る、というのもよくわからないし。

 出走する全てのウマ娘がゲートインを終え、スタートを今か今かと興奮しながら待っていた観客の声が無くなり、静寂が自分の周りを包む。

 不思議と背中を走る感覚── その答えを静寂の中に探す暇も無いまま、レースの始まりを告げるウマ娘達の強烈な一歩目が耳を刺す。

 

「速っ」

 

 あまりにも当然な、口をついて出た言葉。

 しかし夕焼けに照らされている横顔を撫でる風は目の前を走り抜けた彼女らが生み出したもので、涼しさの中から確かな熱が感じ取れる。

 『誰にも1番は譲らない』『勝つのは私』そんなプライドと本能が混じり合った後ろ姿に、いつの間にか釘付けになっていた。何か、その姿に魔力めいたものを感じずにはいられない。

 

 レースは下り坂に差し掛かって向こう正面。

 フジキセキは掛かる様子も無く冷静沈着に2番手をキープし、目の前にいるウマに対してどこで仕掛けようかと様子を伺っている形。

 しかしレースは流動的なもの。呑気に機会を見ている目の上のたんこぶを後続が放っておく訳もなく、フジキセキをこのタイミングで追い落とそうと後ろの2人が恐るべき気迫と共に迫り来る。

 

「「うぉおおおおお!!!」」

 

 中山競バ場に響く観客の声の中をすり抜けて耳に届く、ここで叩き落とすという意思の乗った叫び。

 背中をビリビリとさせる感覚の答えは未だ出ないまま、のこり600メートルの看板を通過し──

 

「──来る」

 

 何か確証があったわけでは無い。

 ただ、その顔に湛え(たた )た微笑みと深く沈み込むように曲げた膝、地面の抉れ。それらがアスリートである自分の本能を刺激し、告げる。

 フジキセキの全開を。

 

 「フジキセキ先頭、フジキセキ先頭!!」

 

 実況が発した興奮を隠さない声が脳を突き抜ける。

 黒い髪の中に輝く流星を揺らし、その驚異的な脚で集団から完全に抜け出した。後ろのウマ達も追い縋るが、それを容易く突き放して独走状態に入ったフジキセキを止められるものは無い。

 200、100、50── 縮まるゴールへの距離は観客のボルテージを最高潮に高め、走り抜けると同時に歓喜の声が中山に響き渡った。

 優雅なお辞儀を感謝の形としてこちらに向ける1着の彼女。一方、自分の隣にはまるで我が事の様に嬉しそうな目を向けている兄が、いつのまにか立っていた。

 

「どうだった?」

「うーん、なんて言えばいいか......」

「はは、結論はそんなに急がなくていいよ。ただ...... 良いものでしょ、夢を追ってる全力の人っていうのは。」

 

 『まあ、ね』とだけ返し、興奮冷めやらぬ観客が帰路につき始めた中山競バ場のターフを見つめる。兄は珍しく素直に認めたこちらに驚きながら、また小さく笑う。

 

「彼女はきっとダービーを勝つよ。......いや、勝たせる。それが僕とトレーナーさんの夢だから、ね」

 

 そう言った兄の目は太陽に照らされて虹色に輝く。

 やると言ったらやる人だ、きっとその夢は叶うだろう。

 2人して観客席の手すりに寄りかかっていると、後ろから兄に向けて、初老の男性から声がかかる。

 『それじゃあ、また家で』と言い残していなくなった兄の後ろ姿から視線を切り、もう一度ターフの上にフリーの視線を落とす。

 

「ずるいよ」

 

 少し前に本を見て放った言葉をもう一度口に出した。

 前と違うのは、いくらか笑みが漏れたところか。

 

「──めっちゃ面白いじゃないか」

 

 今回は、先にこんな楽しいものを知っていた兄に向けたものだから。

 

 余韻も少し抜けてきて日が落ちようとしている時間。そろそろ帰ろうかと出口に向けて歩いていると、観客席の最前列から何か、ガラスのぶつかるような音がした。

 気になって見てみれば遥か高い場所に煌めく何かが投げられていて、その下ではウマ娘がその何かを追っている。小さく沈み込んで地面を踏み切り、ある宣言と共に飛び上がった。

 

「──なってやる、()()に!!」

 

 

 

 

 弥生賞から数日。

 学校が終わると同時にスマホを握ったまま家に走り、鍵を開けると同時に玄関を力強く、乱暴に開く。靴を脱ぎ散らかして部屋の前にあるドアを開こうとドアノブに手をかけるが、かけた手が回ることは無い。

 その部屋── 兄の私室からは小さく泣く声が聞こえてきた。

 

「兄さん......」

 

 スマホの画面に映っているのは、クラシック三冠最有力候補だったフジキセキが屈腱炎を発症し、クラシック絶望という内容の記事。当然皐月賞は出られず、菊花賞も、ダービーも。

 兄にとっては夢破れただけでは無い。

 1番近くにいながらもその予兆を判断できず、結果として夢を託した相手の足が潰れてしまった── その事実が、彼をさらなる絶望に叩き落としている。

 

「ごめん、ごめん、フジ......!」

「......」

 

 左肘にある傷跡を見ながら、強く無力を噛み締める。

 肉体の強さ、心肺機能。それらは確実にヒトよりもウマ娘のほうが強いだろう。

 しかし怪我は全ての生き物に平等だ。

 どれだけ対策しても、警戒しても、完全な死角から襲いかかってきて全てを奪っていく。それは兄もわかっていて、その上で自分を責めている。

 ──ふと、自分のできる事を考えた。

 通っている学校は人間のアスリートをサポートするトレーナーだけでなく、ウマ娘のトレーナーとしての勉強もできる。自分はこの学校で学んで一年、今ならまだ、()()()()()

 そう思った時には言葉に出していた。

 

「──兄さんの夢は俺が引き継ぐ」

 

 ああ、ずっとそうだったと思い返す。

 バレーのプロになったのも母親がなれなかったから、その代役(かわり)のようなもので。

 

「俺が、トレーナーとして担当ウマ娘とダービーを獲って、夢を叶えてやる」

 

 それが凡人、普通の人な自分が生まれた意味なのだと。

 

「だから俺と担当が()()になった時は、いつものように笑って祝ってくれよ」

 

 

 

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