「──行こうぜ、タキオン!」
レース場の控え室、テーブルの上にあるパソコンだけが光る薄暗い部屋に別の光が差すと、現れたのはにこやかな笑みを浮かべたジャングルポケット。
自信満々に拳を突き出すところを見るに、彼女にとっては宣戦布告通り勝ちに来た勝負なのだろう、このレースは。
そう、彼女にとっては勝負だが、私にとっては証明の場に過ぎない。
芝2000メートル、最も得意なコース。
どこまで本気で、どこまで今の私が限界に近づけたのか、その証明。そして同時に見せつけるのだ。
──タキオンとは仮想の粒子。常に光速で動き続けるあり得ざる物質。
だからこそ。
軋む左足を地面につけ、椅子から立ち上がり控え室を出る。バ道の向こう側からは溢れんばかりの声と光が漏れていて、左手側に何本も聳える柱の向こうには、折れずに立ち向かってくる宣戦布告の主。
ああ、容赦はしないとも。だから存分に──
涼しげな春先、千葉県船橋市にある中山レース場ではそよ風が良バ場の芝を逆立て、春草の香りを鼻先へと置いていく。
自分が文学に堪能であれば一句読みたくなるような心地よい空間。しかし、今日に限っては歓声、熱気、期待と夢がこのターフに混沌を作り出し、一足も二足も速い夏のような熱さを観客席に弾けさせている。
その最前列、タナベトレーナーやフジキセキと並んでゲートインを待つ自分の隣に居たのは、どこか悔しそうな表情で芝を見つめるマンハッタンカフェだ。
その足にはグルグルと包帯が巻かれていて、この様子ではやはり皐月賞への出走券を手に入れていても、実際この場に立つのは厳しかっただろう。
「ケガは残念だけど...... 休めばまた走れるんだろう?」
「はい。
復帰は、夏の途中になってしまいますけれど」
となればダービーをスルーして、復帰は夏終盤から秋にかけて。
それまで走ることができないのが残念なのか、それともお友達に離されてしまう事が不安なのか、一瞬だけ彼女の目線が下を向く。
彼女もまたウマ娘。本能が走りたいと叫び、勝ちたいと暴れ出す生き物。出力の仕方はそれぞれとはいえ、少なからず走れない今は良い気分ではないはずだ。
そんな右頬に、先程売店で買ってきた暖かいカップをそっと触れさせる。
驚いて、でもゆっくりと振り向いた顔に向けて、小さく微笑む。
「それでも再起不能よりずっといいさ。
夏の終わり際って事は、次に目指すレースは菊花賞か。もともとカフェは長距離向きな脚だと思うし、身体が整って来ればきっと、お友達にも追いつけるよ」
「......はい」
口を付けてない紙カップを受け取ると、カフェはその中身であるコーヒーを一口、二口飲み込んで、『はあ』と頬を熱に染めながら息を吐き出した。
「思えば、致命的になる前に踏みとどまれたのは、貴方のおかげかもしれません。あなたが、速度を緩めろと言ってくれたから......
ありがとうございます、秋野トレーナー」
「なんだか恥ずかしいな。
でもまあ、覚えてくれててそれを実行したのはカフェだ。指導者なんて競技者の裏に隠れるくらいでいいから、君も俺より先に自分を褒めてあげてね」
久しぶりに誰かから名前を呼ばれたことに恥ずかしさを覚えて、前にある手すりに寄りかかる形でカフェから目を逸らした。
ほんの少しだけ、信頼してくれただろうか?
さて、そんなこんなで時間が経った頃、観客席が一斉にワッと盛り上が理を見せる。その渦中には、待ちかねていたジャングルポケットの姿がある。
「ポッケの状態、どうです?」
「うむ...... ワシもポッケもやれる事はやった、その上で最善の状態と言えるじゃろうが、それでもタキオンに勝てるかどうかは五分。
加えて──」
タナベトレーナーが見回した周りには、ジュニア期のGⅠが目ではない程の熱狂をするファン達。たった数分、されど人生で一度だけの数分を全力で走るウマ娘に魅せられたか、その声はもはや渦となり、レース場を包む。
このプレッシャー、常人ならばターフに立つ事も苦しく感じるほどだ。
「クラシックGⅠ戦線に現れるこのプレッシャー、ポッケが耐えられるかが勝負の分け目でもある」
「歓声の毛色が違いますもんね。
......優勝決定戦といい勝負かもしれないな」
まるでコースがバレーのコートに見えて息が詰まる。
ファイナルセットの流れを決めるサーブの時を思い出して背中にぞわりと虫が這った様な感覚がしたが、それを彼女たちはあの若さで味わっているのだから驚きであり、同時に尊敬する。
加えて、ゲートインしたポッケからは緊張の様子は微塵も感じ取れない。
少し遅れてだろうか、現れたのはアグネスタキオン。
彼女の背中を見ればすぐさまに走る、プレッシャーとは別ベクトルの悪寒。やはり何かを脚に抱えて走ろうとしているのか? 確証が無い以上全てが憶測にこそなるが、それでもその背中から見えるまた別の速い雰囲気、それが全てを黙らせてしまう。
観客もその背中に3冠の夢を見ずにはいられず、歓声がさらに熱をもつ。
「ポッケ......!」
フジの滲み出るような声が聞こえてゲートイン完了。今にも溢れ出そうな興奮がゲートを叩く。
「速くなければ戦えない、強くなければ超えられない、そしてこの大歓声に応えられなければ勝つ資格がない!」
実況が聞こえ、ファンファーレが鳴り響いて始まりへと秒読み。
これまた売店で買ってきた唐揚げをひとつカフェにあげて待っていると、ゲートの中から聞き覚えのある声がここまで聞こえてきた。
「──ここにいる奴ら全員ぶっちぎって、最強になるのは俺だ!!」
「ポッケぇ?!」
「力みすぎじゃ、まったく......!」
あまりに唐突にして、あまりに挑戦的な啖呵を切ったのはジャングルポケット。
ある種自分を鼓舞する行為で、まあ背水の陣と言えなくもない発言ではあるが、それにしたって挑戦的が過ぎるだろう。
タナべトレーナーは呆れているし、フジキセキだって苦笑いをしてしまっている。
......とはいえまあ、もうレースが始まるわけだ。
この言葉が調子乗りだったのかは今に観客も他のウマ娘も知ることになるだろう。
轟音と共にゲートが開き、芝を抉って蹄鉄の跡を地面に刻むと同時にレースが始まる。
「伝説の始まりを一瞬たりとも見逃すな、第61回皐月賞、ゲートが開きました── ああッと!!」
と、同時に、集団から遅れて1人最後方に残されたウマ娘が1人。
思わず『あ』と大きめの声が出てしまうその状況、当事者はジャングルポケット。バランスを崩したか、やってしまったという表情で片足を後ろに上げて、転倒一歩前でギリギリを保っている。
すぐさま体勢を立て直して先頭集団を追うが、すでにゴールへの最短距離である内側はギッチリと埋まってしまって、外側しか空いていない。
「力み過ぎたか! 2000メートルと短いレース、追いつけるかどうか......!」
「しかも大外ぶん回しかブロック覚悟の最内の2択になる、短い中で前に追いついても、最終直線でスタミナが残るかどうかわからないですよ!」
緊張や大舞台での力の入り過ぎは、起きてしまった以上仕方のないこと。しかしそれをやったのがこの中山だと言うのがまずい。
中山のコースは高低差が大きくスタミナを奪われがちな中で、そこに外側、もしくは前を塞がれる最内という距離的なハンデが組み合わされば厳しい戦いは避けられない。
いつものポッケならしないようなミス、何かそれほどまでに背負うものがこの皐月賞に、タキオンとのライバル関係以外にあるのか?
「さあ出遅れからジャングルポケット、後方につけて1コーナーを回っていきます。
前からシュアハピネス、シャワーパーティが大胆なレース展開を作っていく形」
ひとまず持ち直して後方集団につけたが、やはり内から潜り抜けていくのは難しいか。
間を縫うようにしながらバ群の中へと突っ込み、コーナーを一様に曲がっていく。
前を見ればダンツフレーム10番手、アグネスタキオンは5番手。
前2人の作るペースが早い現状、少し後ろから様子を伺う2人も早めの仕掛けをしてくる可能性が高い。対してポッケはどう攻めていくか決めあぐねている様子で、少し折り合いが付かないか。
「さあ大きな動きは少なく向こう正面の坂を下り、3コーナー侵入! ウマ娘たちがひとつの集団にまとまっていきます!」
ここに来て前のペースが落ち、下り坂を降りた頃には前後の差などほとんど無いほどにくっついた団子状態。誰が抜け出してもおかしくない状況、中山の直線は短いというが、それでもポッケにとっては光明と言っていい。
全員ぶち抜くチャンスだ。
「ここに来て射程圏内、行けるか、ポッケ!?」
タナベトレーナーの眉間にシワが寄り、組んだ腕にも力が入る。わからなくなってきた状況、誰よりも先に前へ出てきたのはやはり皆の予想を裏切らず、アグネスタキオン。
先行気味の走りが中山のコース形状に刺さったか、後ろにいるダンツフレームに余裕をつけて最終直線に入る── が、その後ろから野獣も食らいつかんとその足を渾身の力で踏み込み、蹄鉄の跡がくっきりと地面に刻み込まれる。
そう、ジャングルポケットが外から飛び出し、勝利を掴まんと必死の形相を携えて現れたのだ。
距離はほんの少しだけ。
行ける、と確信が体を走る。
「──さあ最終直線入ってジャングル、ジャングル外から来た! アグネス僅かに前、ダンツフレームも追いすがる!」
一滴、頭から頬を伝わり、顎から汗の雫が落ちた。
私の後ろにいるのはダンツ君とポッケ君だろう、予想通りでしかないが、ほんの少しだけ嬉しく感じる。
──そこにいるということは、覚悟があるということだろう?
頬が緩み、笑みが溢れ、砕けそうな足に力が入る。
トレーナー君に礼を言っておいてよかった。あのマッサージが無ければ、ここで思い切り走ることはできなかったろうから。
「さあ、見るがいい」
そして刻み込め。
消えゆく者の── 残光を!
「──アグネス先頭、アグネス先頭!
強すぎる、更に加速して後ろを突き放します!!」
アグネスの血筋は
桜花賞を勝利した母のアグネスフローラも、ダービーを勝ち取った姉のアグネスフライトも、足を痛めて消えていく。だから、私の足もそうなのだろうと考えるのは、別に不思議なことではないとも。
だからこそプランBを用意した。
今私の全てに絶望したか、それとも奮起したかはわからない後ろの2人と── 客席からこちらを恨めしく見つめるカフェ。
君たちがウマ娘の可能性を見せてくれれば、私の夢は完成する。それこそがプランB。
「ほら、追いかけてくるといい!」
私の残光は道標になるだろう。
だから、容赦はしない。
突き放してやる。
置き去りにしてやる。
「ッ...... タキオン!!!」
それで終わりか。
もっと吠えかかってこい。
意地を示して追いついてみろ。
──できないのなら下がれ。
光を超えていく私の背中を、そこで刻みつけるがいい。
「中山2000メートル、まずは道をつなぎました! アグネスタキオンまず一冠!!」
ゴール板を超えて立ち止まり、ぜえはあと息を切らしながら、少し遠くでこちらに背を向けるタキオンを見て歯を食いしばった。
負けた。
追いつけないと、思ってしまった。
「ポッケ」
「なんすか、フジさん?」
「君には...... ダービーを勝って欲しい。
ナベさんのために」
そう、約束したのに。
勝って最強になって、ダービーも勝たなければならないのに、負けた。
汗を拭い、視線を下におろす。
ただ── それでも心躍ったのは確かで。
「タキオン」
「......」
「お前は強え。
それでも
だから何度でも走りたい。
拳を突き出して吐露した思いに嘘偽りは無く、心からそう願ったのだ。最高の舞台で、最高の相手とやり合う事こそ至高だと。
しかしタキオンは答えることをせず、一瞬だけ笑みを見せて歩いて行く。
その左足は、なんだかひどく震えて見えた。
翌日。
大型モニター名前で立ち止まり、そこに映る好敵手を見る。
緊急会見という大仰な場所でもいつもの態度を崩すことなく、ソイツはこう言った。
「私アグネスタキオンは今後、レースへの出走を無期限停止とする」
誤字報告ありがとうございました