気づけばモニターから目を離し、走っていた。
落ち着かない呼吸と脚に走る地面を踏み締めたピリピリとした感触が、いつも通りの様子でとんでもない事を言ったタキオンの映像が優しい夢ではない事を示す。
なんて楽しくない走りだ。そう思いながら道路に敷かれたウマ娘専用レーンを走って走って、授業を終わらせて今日の日はさよならしたはずの校舎に帰ってきた。
少し息を整えてから正門をくぐり、玄関で靴を履き替えて薄暗い夕焼けの廊下を歩いていれば、同じように納得のいかない様子のダンツ、カフェが息を切らして現れた。
自分以外にも信じたくないウマ娘がいる── その事実が悪魔の可能性を完全に破棄し、今置かれている状況が優しい夢でも悪夢でもない事を脳に知らしめる。
「お前らも見ただろ!?」
「うん! 皐月賞の後、タキオンちゃんは自分で歩けてた筈なのに、どうしてこんな......」
「この時間ならまだ準備室にいます。
......問い詰めても、正直に言うとは思えませんが」
「喋らねえなら力尽くでも喋らせる!」
怒り、失望、悲しみ、それらが混じり合って心がぐにゃりと捻じ曲がる感覚と足が浮くような感覚の2つに声を震わせながら、硬く握りしめた拳で木製の壁をぶっ叩けば、響き渡る鈍い音。
そう、語らせなければならない。
何がその足を止めたのかを。
「っ!」
強く日差しが差し込む理科準備室の扉を開いて部屋を見回すが、カフェのテリトリーにも、実験用具が所狭しと置かれた片付けが不十分な机にもその姿は見えない。
どこに行ったかと鼻息荒く目を動かしていれば、吊られたサンキャッチャーが光で目を照らし── 思わず閉じた目を開けば、全開になっていた窓の向こう側からひょっこりと、いつも通りに憎たらしい表情でアグネスタキオンが現れる。
窓を乗り越え、右足からふわりと着地したタキオンの左足には固定を目的とした包帯が巻かれていたものの、強い痛みではないのか気にする事なくその両足を地面に付けた。
「やあ3人とも、一体どうしたんだい?
そろそろ君たちが練習する頃と思ってそこで見ていたんだが、まさかここに来るとは。ダンツ君とジャングルポケット君はダービー、カフェは復帰に向けてするべきことがあるだろう?」
「......歩けねえ程の怪我、って訳じゃなさそうだな」
何よりも先に安堵が溢れる。
だが、すぐさま心を染めたのは困惑と怒りだ。
その程度ならばクラシックレースに出れなくとも、しっかり休めばまだ走れるはずなのに。まだまだ走れるはずなのに、何故? 何故ウマ娘である自分達の本能である走りを断ち切りながら、目の前のアイツはこちらを揶揄う余裕を持ち、いつも通りに紅茶を淹れられる?
四角い砂糖が茶色い水面に落ち、入りきらなかった物がチラリと頭だけを紅茶から覗かせた。
「その辺りはトレーナー君のマッサージに感謝だねえ。
......それはそうと、喉は乾いていないかい? ちょうどさっき完成した栄養ドリンクがあるんだ、ちょっとした副作用として覚醒力を高めてしまうんだが──」
「そんな物より! ......どうして、走るのをやめたの?」
怒りを見せることなどほとんど無かったダンツが声を荒げ、物珍しさからか驚いたからか、タキオンは試験管立てから取り出した実験結果を戻し、一度砂糖だらけの紅茶で糖分を補給する。
そして語ったのは、合理的な思考に基づく行き先の話。
「私の目指すものは可能性の追求、その先、だ。
自分自身が走って辿り着けるならば、走り続ける理由もあっただろうが...... 自分で辿り着けない以上、勝利には興味が無いのだから、これ以上走り続ける
「っ......! そんなのっ......!」
「ダンツ君の勝ちたいという気持ちはわかるとも。 ただ、私はその『勝ちたい』という気持ちが『可能性の先を見たい』であり、それを満たすのはレースでなくとも可能と言うだけさ。
満足かい?」
俺が最強を目指すように、ダンツが勝利を目指すように、タキオンにも求めるものがある。
勝つか負けるかではなく、その先にあるものを掴めるルートに舵を切った。研究という道に。
他人であれば納得も出来ただろう、それは1人1人に平等に配られた選択する権利を行使しただけなのだから。だが──
「だったら! だったら、お前は俺との勝負を受けただろうが!?
まだ決着はついてねぇのに、ダービーも、菊花賞もこれからもあるのに、逃げるっていうのかよ!!」
閉口するダンツの横を抜け、タキオンの胸ぐらを掴んで感情のままに振り回し、地面に向けて叫ぶ。
カップの中にある砂糖がひとつふたつ揺れに耐えきれず落ち、溢れた紅茶が床に落ちている研究資料の紙を茶色く染め、準備室が怒号で染まった。
そうだ、まだ終わっていない。
ケジメをつけること無く逃げるなんて許せない、絶対に許せるはずがない。だから── その口から、いつものように一言、『冗談だ』と言ってくれ。
「ならば」
ひとしきり想いを聞き届け、タキオンは小さく息を吐いてから声をこぼす。冷たく突きつけるような声。
視線を上げれば、タキオンは笑みを消して、その目でこちらを見下ろしていた。
「ならば、君は皐月賞での私の走りを見て、どう思った?」
息が詰まる、視界が歪む。
汗が吹き出して手の力が緩み、ピンと引っ張られて伸びていた制服の首元がゆったりと空間を作り出す。
皐月賞、最終直線。
どこまでもどこまでも加速していくタキオンの背中を見て追いつけないと思ってしまった瞬間、その勝負は終わっていたのだ。
怪我をした以上全盛期には戻れず、俺は2度と
その事実を理解した時にはその場から逃げ出していた。
「ポッケちゃん!
......走り続けるから! あなたが居なくなっても、私たちは!」
ダンツの追う声が聞こえる。
「......追いついてみせます。
お友達にも、アナタにも」
カフェの消える音がする。
「──それでいい......」
タキオンの声と、足から脱げた靴が落ちる音がして、道路に飛び出し専用レーンをただひたすらに、がむしゃらに踏みしめた。
どれだけ全力で踏み込んでも、走り方に工夫を入れても、それでも前に見えるアイツは消えないし、追い越すこともできずに突き放されていく。
「──くっそぉぉぉお!!!!」
どこにも届かない雄叫びが虚しく空に響き、幾つもの水滴が流れた。
どうすればいい、どうすればいい? 誰か教えてくれと願うように走り続ける。
倒したかった最強の敵はいなくなってしまって、競い合う相手が、ひとつの目標が消えて、いったいどこに向けて走ればいい?
ダンツ、カフェ、ルーシマメイの誰でもいい。ナベさんでもフジさんでも教えてくれよ。
「......クソ......」
すっかり暗くなった河川敷で糸が切れたように倒れ、激しく呼吸をしながら星空を見上げる。
今の時間が何時か見ようと思ったが、スマホを入れたカバンは学園だ。行き場を失った手を空に伸ばしてから勢いのままに芝の上へ叩きつけると、空より黒い影が頭上に現れた。
驚いて飛び起きると、影も驚いた様子でのけぞり、こちらの様子を見て持っていたお茶を差し出してくる。
「絶対安静、レース後はそうしろってタナベトレーナーに言われてるだろ? しかもこんな時間、もう門限過ぎてるよ?」
「......相棒」
使い込まれたジャージを着ているところを見るに、相棒も走っていたのだろう。
差し出されたお茶を受け取ると、続いてロックが解除されたスマホを手渡される。画面には電話帳が記されていて、1番上に寮への電話番号が光っていた。
「とりあえず連絡ね。
この時間じゃ寮長も心配してるし...... 」
「......」
「あー......バス、バスも無いな、仕方ない。
とりあえず今日はウチに泊まって行きなよ。ご飯くらいなら作ってやれるからさ」
「悪い...... ありがとな」
相棒は何も聞かなかった。
静かな夜、その優しさが傷に染みる。